本日18日NHK大河ドラマ「真田丸」が終了した。以前、2016.9.1付けデジ青[74602]「今夏の撮影」で南海高野線2194他の「真田丸赤備え列車」を発表した。これは主人公真田信繁(幸村)と父親が蟄居させられた地が紀州九度山であったからである。今回は真田のふるさと上田の「真田丸」号を撮ってきたので同じくJR和歌山線の105系の「真田丸」号と併せて発表する。
投稿者「準特急」のアーカイブ
ホームカミングデイ前後のこと(2)
ホ-ムカミングの後は恒例の懇親会があるので会場である平安会館に向かった。懇親会では隣りにどのような方が座られるのか、話が合うのか、いつも緊張してくじを引き、指定されたテーブルに着くことになる。その時話題になったことについて参考になりそうな写真を探してみた。
同じテーブルでは鉄道ピクトリアル「京阪電鉄特集」で執筆された生まれも育ちも枚方というバリバリの京阪ファンFさんが「古い時代では1960年代後半から1970年代が興味深い」と言われた。Fさんにとって車両等を意識し始めた時期でまだ撮影などを通して記録することに至っていない幼少期にあたると思うがこれはどなたも同じではないか。前回の京津、石坂線に続きで京阪本線も含め1960年代後半の姿を少々紹介してみる。
まず前回に掲載していない60形と200形である。どちらもこの頃は区間列車に使用中の廃車前の姿である。
ホームカミングデイ前後のこと(1)
三浦海岸付近京急撮影記録
実験ホームドア見物の後はもう一つ隣りの終点三崎口に向かった。京急久里浜線は1966年(昭和41年)に三浦海岸まで開通し、その後1975年(昭和50年)に三崎口まで開通した。見る列車種別は快速特急ばかりであるが京急久里浜-三崎口間は各停として運行している。一部単線区間があるが10分間隔でやってくる。
三崎口から三浦海岸に向けて徒歩凡そ15分で京急線を跨ぐ陸橋がある。ここは単線で順光の時間が長く綺麗な編成写真が撮れる。線路際の河津桜が咲く頃は隣接の公園が賑わう。一度行って見ることをお勧めしたい定番の撮影地であり望遠レンズもいろいろと使えるがワンパターンであるのが難である。
2016.11.6 三浦海岸-三崎口 快速特急三崎口行き1065 ▼
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実験ホームドア見物
元新京阪貴賓車フキ500型の阪急1500
関三平先生の最近の貴賓車で新京阪フキ500型が登場したが、皆さん遠慮されているのか今日までコメントや関連投稿がなかった。そこで阪急となっての晩年の姿であるが、拙い写真を発表させていただく。この車両はP-6の付随車として運用されていたが、同じ様に運用されていた戦後阪急で製造した1550と異なり編成美を乱すことがなかった。
ある撮影(2)
2016年9月17日阪神大石駅で偶然に撮影した同社新型車両の5700系を紹介した(デジ青2016年10月7日付け[75892])が、京急新馬場でも同じように同社新型車両新1000形1800番台を撮影したのでこれも発表をする。京浜急行新1000形1800番台は2016年3月に営業運転を開始している。特徴は先頭車正面の貫通ドアにあり、新1000形のひとつのバージョンであろうが顔だけ見ていると別形式にしてもよさそうに感じる。阪神の各停専用の5700系と同じように4両固定であるが、快速特急などにも使うそうでマルチパーパスな車両である。見たのはこれが初めてで優等列車使用にはまだお目にかかっていない。見学会とか営業初日とかそういう時には出かけないのでいつも偶然の撮影であるから失敗も当然多い。先頭が1809であるから3番目の編成で最近出来たばかりの様に思う。車体下機器や台車まわりが汚れておらずデビューしたての感じがするが営業開始がいつか未調査で申し訳ない。阪神同様に京急も自然豊かなバックを撮るのは難しい路線で場所の選択にいつも悩む。新馬場は8両がうまく入るということでよく出かけるが今の時期は足回りと正面がすっきりする12時前後に集中して撮影する。▼
2016.10.15 新馬場 金沢文庫行き1809
保存蒸機とその現役時代(36)
数多いD51の中でもこの499号は後藤工場変形デフが特徴で一目見た時から忘れられない機関車である。撮られた諸兄も多いのではないか。
1941年(昭和16年)2月鷹取工場製造(製造番号27)で戦前、戦後は主に山陽、山陰筋で活躍し、晩年は福知山、亀山に所属して1973年(昭和48年)に廃車されている。
保存場所は近鉄・JRの津駅から徒歩で10分ほどの偕楽公園で近くには三重県庁があり、県庁横の陸橋からは近鉄名古屋線、JR関西本線を手軽に撮影することができる。
保存機は晩年の特徴である集煙装置や重油併燃装置がそのまま残っているがデフに付いていた後藤工場のマークは外されている。全体に厚化粧で現役時代の艶を感じないのは保存機の宿命であるがそれでも久しぶりに再会できたことは嬉しい。
ある撮影(1)
4月の武庫之荘での小学校同窓会に続き9月に甲子園で高校の同窓会が開催された。終了後阪神電車の大石駅で撮影をしていたら新型電車5700系が現れた。どうってことのない平凡な写真であるが始めて見る車両であり少し気分が高揚した。間もなく消える車両はよく撮るが、出来立てホヤホヤの車両を撮ることも必要であると最近思うようになった。というのも例えば高性能電車と言われた昭和30年ごろ製造の電車のデビュー当時の写真を見ると台車や車体が光って見える。営業に使われると車体等が徐々に汚れていくのは仕方がないが、それ以上にその後改造されたりして晩年になると顔やスタイルまで変わってしまうのは人間と同じであり致し方ない。生まれたては貴重であるから試運転でも回送でも営業当初でもとりあえず撮っておくことをお勧めしたい。そういう意味ではデジ青2016年10月4日投稿のDRFC現役生[75864]「イベント案内」で発表された「四季島」の試運転の写真は特徴あるスタイルや色がよくとらえられていて貴重な記録になると思う。そういう私も「四季島」の回送を2度ほど撮ってきたが現役生と比べてお見せできるようなものではないので発表を差し控えさせていただく。元に戻ってこの阪神電車は昨年8月24日に営業運転を開始しているので出来立てホヤホヤではなくえらそうなことを言ってしまったが言いたかったことはデビュー当時の記録は大切だということである。なお、この電車は普通車5001形、5131形、5331形の置き換え用として登場し、2016年度のブルーリボン賞を授与された。通勤車はローレル賞と思っていたがローレル、ブルーリボンの選考基準がよくわからなくなってきた。
2016.9.17 大石駅 普通高速神戸行き 5702・5802・5801・5701
保存蒸機とその現役時代(35)
つくばEXP終点つくば駅から徒歩でおよそ15分のさくら交通公園に保存されているD5170である。D5170は1937年(昭和12年)9月日立製作所笠戸工場で製造番号870で製造され、当初は岡山区にあって山陽筋で活躍したようである。戦後1950年(昭和25年)に渡道し岩見沢区を皮切りに道内各地で活躍し追分区を最後に1976年(昭和51年)3月に廃車された。保存機の撮影は2016年5月4日の撮影でデフレクター(除煙板)を短くした晩年の北海道スタイルであるが、補助灯というのか予備灯というのかそれがはずされているのは好ましい。▼

現役時代は1969年(昭和44年)3月14日倶知安駅を16時31分に出発する長万部発札幌行き137列車を牽引する倶知安区所属の同機である。機関車が黒くつぶれてナンバーが分かり難いがその分バックの羊蹄山(蝦夷富士)は比較的山容がわかる。この時はデフレクターの点検口が切り取られているが、デフ自体はまだ短く切り取られていない。▼
元京王貴賓車成れの果てと地方私鉄元京王5000系の追加
長ったらしい表題であるが、内容は二題あって別のものである。一つは2016.9.17付けデジ青[75248]関三平先生の貴賓車「京王電軌500号」を紹介された米手作市さんにその成れの果てらしき車両があることをコメントで申しあげたところ発表するように言われ用意した次第である。もう一つは同じく関先生のシリーズで京王帝都5000系が紹介された時、地方私鉄へ譲渡された姿を16.6.26付けデジ青[73063]および16.7.15付けデジ青[73443]で紹介したが、わたらせ渓谷鐵道のトロッコ列車に使用されている車両と今年になって活動を始めた京王→伊予鉄→銚子の遍歴を持つ銚子電鉄初の京王5000系車両を紹介できなかったので追加発表を行う。
まず、NHKブラタモリの高尾山をご覧になった米手作市さんから頂いた宿題の車両であるが、京王電軌貴賓車500号は1931年(昭和6年)雨宮製作所で半鋼製14m車両として製造され御陵線で使われる予定であった。以下は鉄道ピクトリアル2003年7月臨時増刊号NO734の合葉清治さんの「京王中形車の思い出」の中にある貴賓車に関する記述で、「御陵線開通後いくらも経たないうちに省線東浅川駅ができたので、皇族方の利用は一度もないまま1938年(昭和13年)に格下げされて一般車として使用された。この車両は1形式1車両で罹災(1945年5月の空襲)したため、原形は残っていない。日本車両東京支店で復旧して番号だけは残っていた。」とある。また、保育社カラーブックス「京王帝都」の著者合葉博治さんはその中で次のように述べておられる。「(大東急から分離独立して)京王帝都となった1年後の昭和24年5月、京王線に日車東京支店から7両の更新車が搬入。被災車の台枠を流用、14m化、京王初の全室仕切り運転台。車号も原番を踏襲、元貴賓車の2500の他、2501、2502、2205、2304、2305と両運転台車2407とされた。台車、主電動機は手入れ復旧、制御器は新製ながらHL、空制は京王初の自動ブレーキAMM、警笛はAW5型タイフォンを装備。のち全車が混成スモールT車とされ、昇圧後まで活躍した。」とある。
以上であるがもう少し付け加えると1938年に一般車への格下げ時に中間にあったトイレを撤去しそこに扉を増設して3扉ロングシート化している。1944年の大東急時代には元京王電軌の車両は2000番台となったためこの車はデハ2500となった。罹災復旧後1960年3月に東横車両で電装解除して運転台撤去、2010系の付随車サハ2503となり1963年(昭和38年)8月の昇圧後も使われたが1968年(昭和43年)12月に廃車されている。
写真は廃車が迫ったころのサハ2503である。尚、右の車両は同じような経緯を経たデハ2305を付随車化したサハ2553である。
国鉄清水港線
総本家青信号特派員さんの9月9日付[75019]「18きっぷで東海道を巡る-2-」のコメント欄で西村雅幸さんより静岡鉄道清水市内線に関連して近くの国鉄清水港線が不便さもあって乗れなかったと告白されていた。西村さん、まずはカープ優勝おめでとうございます。それに比べてタイガースという球団は最低でいつぞや10数ゲーム離していた巨人に追いつかれて優勝をのがし、今シーズンも本拠地甲子園で巨人に勝ったことがないという体たらく。
本題に移るが、何度となく乗った東海道本線であるが清水で降りて路面電車を撮影したことがない。オールラウンドプレイヤーとは言え総本家さんはよく撮ったなと脱帽である。さて、清水港線は昔C50が客車を牽いていたような記憶があり、その存在は知っていたが、結局乗ったのは廃止直前の1984年3月11日でその時の数カットである。
尚、この月は同時期に廃止された新潟県の赤谷線、魚沼線の乗り鉄を行っている。
今夏の撮影
残暑厳しいもののススキの穂や虫の声に秋を感じる今日この頃である。この夏の撮影の一部であるが、しばし御付き合い願いたい。
最初は交流電化発祥の地作並を行く仙台行きの快速電車JR東E721系。色気のない電車であるが、梅雨の晴れ間、峠を越えて飛ばしてきた。
関西駆け足撮影旅行
8月10日(水)
駆け足とは車利用と早朝からの行動の結果である。8月10日は5時起きでクモハ73106東ウラさんの車に総勢5名が乗り込み新東名経由で最初の目的地JR関西線の永和~弥富間に向かった。皆さんDD51の貨物が目的で既に同業者もチラホラ見られた。私自身は架線の下を走るディーゼル機や快速「みえ」、特急「南紀」にはあまり興味がなく一応シャッターを切るのみでむしろ頻繁に来る313系電車を何とかうまくものにしたいと考えていた。
単線で角度によっては名古屋近郊の関西線らしからぬ風景が得られるこの区間。1964年3月にはC57、D50、D51を撮ったことがあるがもう少し永和よりであった。列車はクモハ313-1314先頭の317G四日市行き。▼
地方私鉄での京王帝都5000系
京王帝都5000系の譲渡先の姿としてデジ青【73063】で一畑電鉄のそれを取りあげたが、今回は一畑以外の残りである。全部網羅といきたいところであるが個人の力では限界があるので補足写真があれば幸いである。
まず一畑と同様に車両カラーがバラエティーに富む富士急である。最初は元京王帝都5000系の富士急1000、1200のオリジナルカラーである。1000、1200は車内シートのロング、クロスの違いである。この1208の編成は既に廃車されているが、もとJR205系である6000系入線により他の元京王車にも廃車が出ている。ところで最初に説明すべきであったが京王は日本では数少ない1372ミリゲージのため他社譲渡に際しては台車を履き替えたり改造しておりここでは営団(現東京メトロ)3000系のFS510である。
京王帝都現役時代5000系
関東でも最も貧弱で軌道イメージの残っていた京王帝都を他社並みにイメージアップさせた車両として有名で井の頭線3000系に続き連続ローレル賞受賞(京王はその後ローレル賞なし)した車両である。そのスタイルと1968年製造車両からロングシート通勤タイプ車両としては始めて冷房を装備したこともあり「関東の名車」とよく言われるが特に新機軸はなく経済車である。ただ、趣味的に見ると実に多様性に富み、車体巾が2種、モーターも110KW、130KW、150KWの3種があり特に110KWは2700系のものを流用した吊り掛け式であった。台車、冷房装置も試行錯誤の時期であったのか多種多様で数えきれないほどであり編成ごとに特徴があった。ハンサムなこの車両も関三平先生が最近発表された名鉄5200系とよく似た顔でこちらの方が製造も早くその顔をどのようにもらったのかもらっていないのか真偽のほどはわからない。その関先生の描かれた京王帝都5000系にはヒゲがついている。当初ヒゲつきは1967年の撮影では見られたが翌年にはなくなっているので登場後4年間くらいついていたものと思われる。
1967.7.9 明大前 特急京王八王子行きヒゲ付きの5779~5703
5070系はその後5100系と形式が変更されたためこの5779は5859と変番され、さらに海を渡って伊予鉄766となった。明大前のこの風景は現在もあまり変化がない。▼
京王帝都5000系の一畑電鉄での姿
武庫之荘界隈と阪急ブレーブス
マルーンさんも認める阪急今津線沿線の有名校の同窓会は高齢の先生の出席し易い武庫之荘で行われた。桜の名所は4月8日では少し遅かったことは前回(2016.6.7デジ青72252「今春の撮影」)報告の通りであるが、もう一つ武庫之荘駅で今昔定点対比を考えていた。昔の撮影をした頃のプロ野球阪急ブレーブスのことと併せて報告したい。
武庫之荘駅での昔の記録は1968年10月17日で高速神戸発大阪梅田行き特急である。この日も西宮球場で行われた阪急-巨人の日本シリーズのPR、案内のため特急列車にヘッドマークが取りつけられていた。よく見ると駅のホーム柵には枕木が利用されており待合室もホームの中ほどにあるだけである。不便な感じもするが何となく昭和の時代の暖かさも感じられる。他の駅も概ねこのようんなのんびりしたものであった。電車は1034-1057の7連で今から見ると古さを感じる車両であるが半鋼製(阪急では全鋼製が多かったが)、吊り掛け車から全金製、カルダン車に発展した最初のグループで非常に近代的車両に思えた。それが、今では2代目1000系ができており時の経過の速さを感じる。ところで7両中前3両が3扉で後ろ4両が4扉であるが駅のアナウンスや乗車位置表示など混乱のないように誘導できていたのだろうか。会社によっては編成された車両のそれぞれの長さや扉の数がマチマチのところも多かったように思う。整列していたのに到着した車両の整列位置に扉がなくてお客は憤慨しながら両サイドの扉に向かって分散していったという話を聞いたことがある。
今春の撮影
早いもので今年も梅雨の時期となった。鉄道写真も季節を表した作品はその季節のうちに投稿すべきと思う。旬のものは当然時期があることはわかっているのだが、私のデジ青「今春の撮影」は見事な西日本や津軽の桜の連続発表の後で投稿を躊躇しているうちに時期を逸してしまった。興醒めでいまさらとお叱りを受けるのを覚悟で拙作を発表させていただく。
最初のJR相模線はデジ青では一度発表されたことがあるが、地味な路線で話題性に乏しい。昔はC11が貨物を牽引し、気動車も晩年は近郊型のキハ35系であったが何れも撮影したことはない。ただ、この地味なローカル線も私の家からそう遠くはなく相武台下に桜の名所もあり近年は時々出かけている。今回は桜の前に咲き誇った菜の花を題材にしてみた。
東武鉄道1700型
米手作市様の[71488]16.5.12「東武鉄道モハ1700型」の写真である。1700型は1956年製造のカルダン車で、1971年12月までにこの車両は消えてしまい後継車の1720型と同じ車体の車両となった。さらに1991年までに1720型と共に現在「りょうもう」に使用されている200型に機器が流用されて生き続けている。
写真は東武日光発浅草行き特急「さち」で撮影は1968年7月26日松原団地-草加間で列車名「さち」とは中禅寺湖の別名「幸ノ湖」にちなんだ名前である。現在このあたりは高架複々線で風景は一変しており定点対比撮影はできない。製造はナニワ、日車、汽車の3社であるが写真の先頭車両1701はナニワ工機製。関先生のお描きになった1700型の姿からヘッドマークの位置が正面に変更されたり、窓下にライトがつけられたり多少顔に変化はあるが、ハンサムボーイのイメージはそのままで、機器流用で生まれ変わった200型や快速や下今市方面で活躍中の2ドアクロス6050系と比べても断然男前である。これはこの時代、このような顔、スタイルの車両を見て育った私の印象からかもしれないが。















