日頃デジ青や写真展等で大活躍の総本家青信号特派員さんが所用で上京された。全ての仕事を終えた後7月2日私の準ホームグラウンドである高尾-相模湖間で撮影を楽しまれた。梅雨空ではあったが鉄道生き字引の藤本哲男さん、逗子の旦那こと高田幸男さんと4人で撮影を楽しんだ時の登場車輛を紹介したい。一部撮影の失敗したものは日付を入れた既撮影のものと入れ替えた。
まずここを通過する通常の車両である。
異形式連結電車は番外編が盛り上がっているようであるが、湯口さんが説明された電蒸運転があったので見ていただく。なお、動画ではないが米手作市さんコメントのSL銀河も用意してみた。
最初はEF60509[東京]+C6240[下関]の下り特急「はやぶさ」。撮影は1964年7月24日横川-己斐間で山陽本線全線電化の前日である。もっとも電化後も電気機関車不足なのかしばらくは蒸機牽引列車が残っていたように思う。この日はC59やC62を数多く記録しようと線路端で夜を明かした翌日で睡魔と戦いながら4本の特急を待ったが、うち2本の「みずほ」、「はやぶさ」が電蒸運転でがっかりしたことを覚えている。 ▼
こちらは趣味誌等々でよく見るSL銀河でC58が気動車とどういう連携をしているのかよくわかない。やはり後ろは旧型客車でないと面白くなく、12系、14系、50系など新性能電車の様な客車はパッとしない。だから専ら蒸機の音を聴くだけが楽しみである。2015年5月3日土沢-小山田 花巻行きC58239 ▼
遅くなりました。もうお忘れになっておられることと思いますが河 昭一郎様からの宿題が終わりましたのでご報告致しまします。京都-西明石間の緩行電車は神足(現長岡京)に下宿していた頃よく利用した電車でその頃に京都駅で撮った1両毎の形式写真です。勿論形式写真と言っても西尾克三郎さんの組み立て暗箱で撮ったような本格的なものではなく、何かのついでに撮ったものです。言い訳ばかりになりますがクモハ51、クハ68、モハ70等が全くなく私の国電への興味もこんなものであったようでご勘弁願いたいと思います。
1968.5.19 クモハ54107 100番台はオリジナルではなく改造車と聞いたことがある▼
1966.11.15 クハ55112 大タツ 中間に入ったクハを撮るのはあまり感心しませんが窓配置が気になって撮ったものと思います。▼
お申し越しの車両ではありませんが、修学旅行電車を撮った時に来た急行「加賀」の車両です。
1968.5.19 サロ451-9 金サワ▼
東の京浜・東北と西の東海道・山陽緩行線は同じような位置づけで見ておりましたが、これらの撮影時期は前者は73形4扉車であるのに対し、後者は73形に混じって3扉車のくせ者(いい意味です)がいて大変楽しかった思い出があります。その割にはあまり撮っておらず河様に申し訳なく思っております。
河昭一郎様 お待たせしました。 というほどの写真ではありませんが、横須賀線70系と関西国電(京都-西明石)等拙い写真ですがどうぞご笑覧下さい。
前回のクモユニ74と同じ大船のカーブです。
1968.2.13 921S 戸塚-大船間 久里浜行きクハ76022 ▼
1968.2.13 905S 戸塚-大船間 後ろから見た70系12連横須賀行き ▼
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1968.2.13 大船-戸塚 868M沼津発東京行き153系+クモユニ74 ▼
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今回は落石事故で木次線は楽しい(?)バスツア-に変更となりましたが延命水まで飲むことができて楽しい思い出がまた一つできました。幹事の方々、ご同行の皆様には御礼申し上げます。おかげさまで三段スイッチバックを含む備後落合~木次間はまたまた未乗区間となりましたが、多分この先に乗ることはなくそのことに悔いが残りました。西村さんの余禄に次いで私も余話をご披露させていただきます。
御住職の堀江様のご説明の中にありましたC56108号の今井機関士の姿です。今井式スノープローを考案されたりして現場での指導的立場にあられた方ですが3年前にお亡くなりになられたとのことです。運転台に乗る若きの日の御姿です。 1964.3.31木次機関区 ▼
ステンレス車両同士や外観上見分けがつき難い異形式連結電車である。
2017.1.7 和泉多摩川 急行小田原行き 3465~1063 通常よく見られる小田急線のステンレス車同士の連結である。角張って人気のない3000形の後方4両はステンレスながらやや丸みを帯びた1000形である。▼
2015.10.26 南大沢-京王堀之内 準特急新宿行き7425~9756 車体横のコルゲートの有無で形式の違いがわかる ▼
2014.12.7 御影-岡本 特急梅田行き8035~7123 阪急電車は伝統のマルーンカラーで統一されているので見た目には異形式の連結は判別し難いが、編成表などを調べてみると結構ある。ラッシュ時の増結などでそのようなケースが生じるが撮影したこの編成は常時異形式連結のようである。▼
JR東E233+E231も見た目には判別し難いが写真は割愛する。
国鉄90系、後の101系以降の新性能電車は同一系列の車両で組成された長編成が基本であり、大手私鉄でも最近は8~10両(一部12両もある)の長編成が当たり前で中には中間に運転台のない固定編成も数多く見られる。ところで最近電車を撮影していると異なった形式で編成された列車を見ることがあり多少気にし始めた。特に鋼製車とステンレス車は異形式連結の典型であり編成美は崩れるがそれはそれで興味深いものがある。その一部を発表してみたい。なお、吊り掛けモーターの旧型電車の時代には元電動車を付随車化するなどして異形式を中間に挟んだり異形式電動車同士の編成も結構見られたがここでは新性能電車の異形式連結を中心にしたい。
まず、ステンレス車と鋼製車の連結である。小田急や名鉄等に数多く見られる。
2011.11.9 相模川橋梁を渡り厚木を通過する急行新宿行き5255~3559 5000形は既に消滅しており鋼製車は8000形が残っているだけである▼
さいたま市は浦和、大宮、岩槻、与野の各市が合併してできた政令指定都市であるが、保存機39685が展示されていたのはさいたま市中央区役所で、ここは元の与野市役所である。撮影は2013年4月26日である。
なお、さいたま市にはデジ青投稿や撮影旅行等でお世話になっておりますクモハ73-106東ウラさんが浦和区にお住まいです。
ところで山形地方は関西からは本当に遠くて行き難い所であったが、新幹線ができて便利になり特に東京からは日帰り圏である。このためtsurukameさんの投稿へのコメントで山形方面に出かけることが多くなったことを申し上げたがこの場を借りて山形方面での若干の拙写を見ていただこうと思う。
2016.2.2 雪の日の今泉駅 山形鉄道(元国鉄長井線)荒砥行きYR883とJR米坂線米沢行き1130Dキハ110-224 ▼
2014.6.25 初夏の今泉駅 坂町行き1129D キハ112-201+キハ111-201 左後方の山には残雪が見られる 冬場はこの駅からさらに豪雪地帯に入る勇気がない▼
2014.6.25 左沢線羽前金沢付近を行く寒河江行き1337D キハ101-5+キハ101-11 ▼
デジ青2017年1月26日[81165]東海道の電車を楽しむ-その5-を投稿された乙訓の老人さんはコメントの中で豊橋鉄道渥美線について訪問した時期が1962年と1993年で1993年の訪問時には気動車改造のトレーラーは廃車後で寂しい思いをされたとある。「待てよ!その車両撮ったことがあるかもしれない」と探し回ってみたら整理のできていないフィルム箱の中に見つけることができたので報告させていただく。ついでと言っては恐縮であるが気動車→電車、電車→気動車の改造車について私の記録したものも併せて紹介させていただく。ただ撮ったというだけで特に詳しい説明ができないのでその点はご容赦願いたい。
①気動車→電車 1978年9月16日 豊橋鉄道高師 ク2402
この車両は元は神中鉄道の発注で1938(昭和13)年に日本車両東京支店で生まれた流線形気動車キハ40形である。ここでややこしいのは神中鉄道というのは現在の相模鉄道(通称そうてつ)のことで神中鉄道と同じ1917(大正6)年創立で茅ヶ崎-橋本間を結ぶ現在のJR相模線の前身相模鉄道(旧)という会社もあった。1943(昭和18)年に神中鉄道は相模鉄道(旧)に吸収合併されたがその後直ぐの1944(昭和19)年に相模鉄道(旧)の相模線は国鉄に買収され、残った神中線部分は東急の傘下に入った。部分的に支援の電化等を経て1947年(昭和22)年に新生相模鉄道として独立し現在は大手15社の一角を担っている。1965年夏に相鉄を始めて見た時は神中鉄道時代の面影が駅舎や木造のラッチ等に残っておりローカルな感じがしたことを覚えている。この神中キハ40形はその後客車化されたり電車化(制御車)されたりした後1956年8月に相鉄から豊鉄に譲渡された。この間改番もなされてきたが最終的には1968年にク2400形のク2402となった。廃車は1982(昭和57)年である。 ▼
この時の主目的は戦前の関西国電の雄モハ52の撮影でクモハ73106東ウラさんと織田・徳川連合軍対武田軍合戦場近くの長篠で泊まりその翌日に豊鉄を訪問した。
山陽鉄道の遺構や広島地区の情報で大活躍の西村雅幸さんのお住まいの三原駅付近で撮影したものが少々ありましたので御笑覧下さい。
まず、最初は糸崎区のC59161が牽引して三原駅に進入する東京発寝台急行23列車呉線経由広島行き「安芸」。1965年4月4日の撮影。先頭は座席指定の2等でオハニ36、2両目はマロネ41、3両目の大柄な車体はオロネ10、6両目は遠くて分かり難いがマシ38と思われる。客車の大家に判定をいただきたいが要するにこういう列車が最も輝いて見えたように私には思われた。「安芸」は三原を出ると車窓左手に瀬戸内海を見て広島までの2時間近くを走る。ワイドビューとかオーシャンビューとか言われる特急列車よりも豪快な汽笛を聞きながらの蒸機急行の旅の方がずっとよかったと思うのは私だけか。なお。このC59161は広島市内に保存されている。▼
最近はどこに撮影に行ってもその場所が既にネット等で紹介されていることが多く、昔経験した発見の喜び、楽しみはほとんどなくなってしまった。そこで近頃は変化球と称して流し撮りをよくやるようになったがこれが何年やってもピタリと止まったことがない。ゴルフをやる人、あるいはやった人はよくわかると思うがグリーン周りのバンカーショットも難しい。バンカーショットと鉄道写真の流し撮りはジャンルは全く異なるがどちらも緊張感がある。バンカーは球の手前何センチだったか忘れたがそこに打ち込んで砂を薄く取ってやればうまくい行くと聴いたような気がするが結局マスターできずに終わってしまった。プロはバンカーを苦にせずピンに寄せるが、私は砂を沢山取ろうが出ればホッとしたものである。
さて表題の件であるが、昔のフィルム時代は流し撮りの成功率が低い。これは一発勝負の難しさと思うが、最近のデジカメでは連続撮影ができ、私の場合は2発目、3発目で成功率(といっても1発目よりはマシであるというだけである)が高いようである。デジカメでも列車速度に合わせて1発目を切るのは難しいということである。因みに私の基本はシャッタースピードは1/60秒、ISO100である。当然のことと思うがそれよりシャッタースピードを上げると成功率は高まるが、流し撮りの感じが弱まるし、下げるとその反対であり、私は流しでよく使われている1/60を速い列車も遅い列車も同じように使っている。馬鹿のひとつ覚えかもしれないが1/60の感触で自分なりの流し撮りをマスターしたいと考えていたからである。そうするとこれも当然であるが遅い列車の方が合わせ易く成功率は高い。それでは撮影例である。 続きを読む
今回はC56をタンク機関車にしたようなC12である。あるいはC12を簡易線向けにテンダー機関車にしたのがC56なのかもしれない。とにかく1750ミリの大動輪を持つ旅客用蒸機が好みでありC11とかC12はあまり気にする機関車ではなかった。
久留里線小櫃(おびつ)駅近くの小櫃公民館に屋根付きで保存されているC12287。
C12287 1947年9月 日本車両製 製造番号1489
製造後門鉄局、後藤寺区に所属とあるが、当初の記録に様々な説があり定かではない。1949年12月からは鹿児島区にあって入換えや指宿枕崎線に使用されており、その後1973年4月に南延岡区に転属しその1年後に廃車されているのでこの機関車は鹿児島が故郷であるといってもよい。何故千葉県君津市に来たのかよくわからない。 保存機関車のナンバープレートはそのほとんどが偽造品と思われるが大体は本物に似せてあるがこれは下手な手書きで興醒めである。2015.3.26撮影 ▼
現役時代は鹿児島区での撮影でこの時はkawanakaさん運転の車で鉄鈍爺さんと一緒であった。主目的はライトパシフィックC57でこの時もお召機C57117や梅小路にいたC57127等の撮影時にこのC12287もついでに撮ったもので印象や撮影の手ごたえはなく記憶にも残っていない。後に保存機関車名簿と照合してわかったくらいである。ただこの機関車は1947年昭和22年生まれで団塊の世代と同じである。当会でも団塊組は上記2名の他1900生、マルーン氏、藤本氏等々大物が多い。因みに私は終戦の年1945年生まれで戦時設計の代表D52の時代であるが要らん学校にも通ったため団塊の世代に巻き込まれてしまった。
72.5.1 鹿児島区 ラウンドハウス前のC12287[鹿児島] ▼
それでは皆様、よきお年をお迎え下さい。
sann