毎年地球温暖化の影響なのか桜の開花は年々早くなるようで都心では4月の入学式の頃はほとんど散ってしまう状況である。さて今年も鉄道写真が大好きな皆さんも各地で満開の桜をバックにそれぞれが撮影を楽しまれたことと思う。私も日帰り圏で毎度同じような撮影であるが、拙作を報告させていただく。退屈しのぎにご覧いただければ幸いである。
最初は井の頭公園の1779である。3分咲き程度であったが早くもW大鉄研の御大にお会いした。 ▼ 18.03.23 京王井の頭線 井の頭公園~三鷹台 
1935年(昭和10年前後)の流線形ブームの頃の車両を中心に発表させていただいたがもう一つ忘れられない流線形蒸気機関車があった。そう満鉄のパシナである。満州は現在の中国東北部(遼寧省、吉林省、黒龍江省、内モンゴル自治区の一部)である。デジ青上でパシナは既に発表されている機関車であるが、ここに保存機であるがもう一度登場させていただく。併せて満鉄のジテと中国製のディーゼル機、アメリカのディーゼル機も追加させていただく。l
満鉄(南満州鉄道)のパシナは970~972の3両が満鉄沙河口工場で、973~980の8両が川崎兵庫工場で1934年(昭和9年)に、981が1936年(昭和11年)に合計12両が製造された。1934年(昭和9年)、アカシアの大連から新京(長春)までの700kmを最高速度120km/hで走破、後、哈爾濱まで延長された940kmを超特急「あじあ号」として1943年(昭和18年)まで2mの大動輪で驀進していた。欧亜連絡でロシア人のウエ-トレスも乗車し全車冷房付きの豪華列車であったという。展望車は黒河という所に保存(放置)されているが今はどうなったことであろうか。12両中現存するのは2両らしく、そのうちの1両が瀋陽郊外の蘇家屯の展示場で荒れた状態で展示されていた。この機関車はその後、瀋陽の陳列館に室内展示されたのではないか。
1998.04.11 瀋陽郊外の蘇家屯の展示場のSL751
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流線形車両-4-で総本家さんや河 昭一郎さんから車掌の案内アナウンスの甲子園、甲子園の連呼が取り上げられた。「何回言うねん、うるさいな」という毎日聞かされる御乗客の皆さんからのうんざり感もあったものと思われる。マルーンさんによると阪急電車でもある時に2回案内していたのを1回にしたと聞く。ところで、最近は落語やコントなどお笑い番組でも出演者に鉄チャンが増えたのか車掌や駅員のアナウンスの真似を得意げにする芸人が増えたような気がする。鉄ちゃんはいろいろな世界にいるようだ。
さてかく言う私も若いころによく聴いた車掌の案内放送に旅情を掻き立てられたり格好いいなと思ったことがあり今でも頭の中に残っているものがある。総本家さんには何度も伝えたことがあるが今回はその車掌アナウンスと関係のありそうな時代の車両と共にお伝えしたい。多少の言い回しは車掌にもより、また、私の記憶も間違っているものがあるかもしれないが大体こんな感じだったと思う内容である。間違いをご指摘いただければ幸いである。
まず、阪急神戸線の特急が夙川を出て西宮北口に到着する頃である。
「皆さん まもなく西宮、西宮北口でございます。宝塚、箕面、今津方面はお乗換え願います。宝塚方面は5号線、6号線、今津方面は7号線へお乗換え願います。西宮北口を出ますと十三まで停まりません。」(「大阪方面普通は3号線の電車にお乗換え願います」は案内したとは思うがあまり記憶にない。また、当時は箕面が入っていたが、今津線経由の方が十三経由よりも早く着けたのかどうか定かではない)
1968.04.04 夙川付近は桜花爛漫であるが白黒ではわかりづらい。もうかなり前であるがこの5000系も今でも通用するスタイルである。 梅田行き特急5004 ▼
戦前に流線形が流行した1936年(昭和11年)に鉄道省は3両のEF55を登場させた。EF551は日立製作所笠戸工場製で1964年(昭和39年)に引退している。その後1986年(昭和61年)に復活し、しばらくイベント等に駆り出されたが2009年(平成21年)に廃車された。写真はそのお別れ運転の日に同志社創始者新島襄の本籍と言おうか安中で撮影したEF551である。京都に眠る新島襄は江戸生まれで終焉の地は大磯である。なお、EF551は現在は大宮の鉄道博物館に保存されている。
2009.01.12 磯部-安中 EF551 ▼
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表題のような情報があちこちで流れている。米手作市さんご紹介の散歩道の国電は吊り掛け車であり確かに古く、よく言えば懐かしい電車である。私など未だに101系以降151系も153系も新型電車と思っている。しかし、あれからもう60年も経った今、国鉄時代に登場した車両はほとんど姿を消しているのが現実である。今回の189系も然りである。先月中旬のことであるがNHKテレビでJR東日本豊田電車区の189系3編成の引退が報じられた。3編成とは旧あずさ色のM50、国鉄色(151系こだまやキハ82系の色)のM51、グレードアップあずさ色M52でテレビ報道ではM50編成が解体のため長野ヘ向かうと報じられた。残った2編成も3月17日の改正以降は運用の話がなく廃車されるものと思われるが最後にお別れ列車として走るとのことである。3月17日に行われるDRFC関東遠征旅行の時には間に合わない。
それでは3編成を順にご紹介する。
今回先に廃車されたM50編成。
日光線に修学旅行で使われた姿。 2017.06.16 日光-今市 上りM50 189-14 ▼
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西村雅幸さんの2月7日[93389]「Carp油津駅新旧」に1900生さんがコメントされ、その内容に関係のありそうなC56のお召と順法闘争落書き機関車を見つけてきたので発表する。C5691、C5692は1972年(昭和47年)10月20日に運転されたが、私のは最後のお召蒸機となったC57117と同じ宮崎植樹祭の時のC11200+C5692であり、同型機ではなく異形式重連であった。撮影は1973年(昭和48年)4月10日である。
阪急200系、山陽電鉄200形を用意した。これにこのシリーズの発端となった関先生の名鉄3400系、850系を再度登場させ流線形車両の顔を中心とした比較をしていただきたい。
阪急200系は焼けた木造車25、55を1937年(昭和12年)に鋼体化した阪急唯一の流線形車両で千里山線で長く活躍していた。我々の時代は嵐山線に移っており撮られた方も多いと思う。251は新京阪時代は600形601であったが1956年(昭和31年)に251に改番された。15mの短い車両ながら車幅が広かったのが特徴である。
1968.11.20 上桂-松尾 251+201 ▼
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辞書を見ると流線形とは先端が丸く後端がとがり全体としては細長い形とある。そして流れの中に置くと後方に渦をつくらず流体から受ける抵抗が非常に小さく魚の体がその例になるとの記述もある。飛行機や新幹線が流線形の典型ではないかと思うが、ここでは関先生のシリーズで最近取り上げられた昭和10年頃から流行した戦前の流線形車両の私なりの記録である。スカートをつけた姿など颯爽と見えるが実際はあの頃の速度では効果もなく一時的な流行に終わったが個性的なスタイルは非常に記憶に残り歴史的な意義もあって保存された車両もある。
流線形電車(流電)と言えばまずこの電車。鉄道省で昭和11(1936年)~昭和12(1937年)にかけて関西の急行電車用に製造されたモハ52でその後阪和線でも使用されたが我々の時代は飯田線が活躍舞台であった。
モハ52は1次は狭窓であった。1978.09.16 (新城駅と思われるがメモ紛失なので同行していただいたクモハ73106東ウラさん確認願います) ▼
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もう正月も終わったようなもので今さらという気がするが、総本家さんの初詣客を沢山入れた阪堺詣でに対抗する訳ではないが表題を準備した。富士山と言えばJR御殿場か伊豆箱根の大場かどちらかに決めていたが昨年と同じ大場にした。ところが今年は晴天にもかかわらず終日富士山だけ雲がかかってしまった。すぐ下の写真がそれ。
2018.1.1 伊豆箱根鉄道駿豆線三島二日町-大場 2201修善寺行き▼
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2018年3月に小田急は代々木上原までの複々線を完成させダイヤの大幅改正が行われる。新型ロマンスカー70000形も発表され、1963年(昭和38年)製造の展望席付きロマンスカー3100形NSEの後継車として1980年(昭和55年)に登場した7000形LSEもそろそろ引退のうわさが出ている。関西を始め各地からこの本家本流を記録に留めたいと最近はファンも多い様だ。名鉄パノラマカーの引退の頃には特急運用から離脱して急行や各駅停車運用がほとんであったが、この7000形は特急ロマンスカーのまま最後を迎えると思われる。そこで私自身の最近の記録と撮影地として沿線の印象を述べてみたい。
新松田の西、酒匂川橋梁は小田急沿線では富士山を無難に入れることができる。10両急行編成全体が入るので以前異形式連結の時にも投稿した場所である。開成や渋沢付近でも富士山を入れて撮ることができる。
新松田-渋沢間は山間部の雄大な風景や山に登っての俯瞰撮影も可能であるが駅間距離が6.2kmもあるので徒歩では少し厳しい。小田急ではトップクラスの撮影地である。
東海大前から秦野に向かう大カーブで見上げる形になるが足回りがよく見えて流し撮りにも最適。この色は今は見られない。丹沢山系も見えていい撮影地で車でも行きやすいが俯瞰ができないのが残念である。
2011.01.22 はこね15号 7804 ▼
伊勢原の愛甲石田よりは比較的開けており丹沢山系も入れられる。ここも編成全体が見渡せるが意外と電線等が邪魔になるのでうまく処理したい。
2015.12.08 はこね15号 7804 ▼
開けた所では流し撮りも試みた。 なかなか腕が上がらない
これも以前5000系で投稿した場所で鶴巻温泉-伊勢原間の踏切で撮影。朝の早い時期に勝負すること。
桜の時期に特徴ある先頭車だけをねらってみた。有名桜名所だが年々撮り難くなっている。
2014.04.02 座間-相武台前 7003 はこね6号 ▼
時間があまりない場合編成だけを狙うならここ。 お昼に来るはこね19号は確実に撮れるが複々線のため遅れると被ることがある。
これも下手な流し撮り。和光大学のあたりは緑も多いが編成全体を入れるには工夫が必要。
2010.12.10 鶴川-玉川学園前 7801 はこね15号▼
初代展望ロマンスカー3100形の晩年の姿でこの日は雨だった
デカンショまつり号さんのお宝第1号阪急974、853についてその現役時代の姿がまだどなたからも発表されておらず私も探してみたが見つからなかった。大変申し訳ないが853(制御車)の相棒である803(制御電動車)の姿でご勘弁願いたい。何れも神戸線芦屋川-夙川間で撮影したもので各駅停車(普通)である。
1968.04.04 桜の時期であるがまだ満開ではないようだ。大阪梅田行き2両目が853である。3両目が906、4両目916、最後の2両は920形▼
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中国支局長として連日ご活躍の西村雅幸さんが昨年の4月22日付[70699]デジ青で地元JR山陽本線本郷-河内間の夕陽の沼田川沿いで撮影された東京メトロ千代田線の新造車16025編成の東上写真を発表された。以前、私の撮った糸崎、三原界隈の写真を投稿した所、即その場所の現在の写真を報告していただいた。これは何とかしないと思い時々撮影に出かけやっとのことで先日キャッチしたので報告致したい。併せて撮影に行った時の併走写真も見ていただければ幸いである。
小田急永山とはるひ野および京王永山と若葉台の間にある電車見橋と言われる橋の上からの撮影でいつも付近の保育園児が爺さんに声をかけてくれる。これは京王との併走を撮影中のワンカットで拡大すれば16025のシルバー切り抜きナンバーが確認できる。
2017.11.02 小田急永山~はるひ野 我孫子行き急行16025 ▼
11月12日ホームカミングデイの総会では関先生が新京阪、京阪の生の作品を披露され講演もしていただいた。先生の最近のデジ青発表作品は表題の愛知電鉄電7型電車2017.11.15[90436]である。紹介されている米手作市さんもいつものコメントの後「誰か知ってるの居らんのか」とお叱りをされていたように感じ探してみた。表題に「成れの果て」と書いたが「成れの果て」とはおちぶれた結果であるが関先生の説明では「愛知のデハ3080はその後制御車となり瀬戸線に移って特急のトレーラーとなりパノラマ並みの看板と警笛に使うタイフォンを装着し、あで姿を誇った」と述べられていた。正に歳をとってから花が開いたようなものである。その電車はひょっとしてこれかなと思い用意してみた。私は電車のハード面や履歴には疎いがこれが該当するのではないかと思い2枚だけ出してみる。間違っていたらごめんなさい。
愛知デハ3080→名鉄モ3200(3203)→ク2300(2301)
1972.09.11名鉄瀬戸線尾張旭-三郷ク2301+モ901 ▼
愛知デハ3080→名鉄モ3200(3222)→名鉄ク2320(2322)
1972.09.11三郷-尾張旭 ク2322+モ905 特急 ▼
マルーンさんから冬眠中たたき起こされたが目覚めが悪く時間が経ってしまった。ところで老い先が短くなると昔を懐かしく思う傾向が強くなる。紅白は見ないが懐メロは見る。鉄ちゃんもその傾向があり、国鉄時代を懐かしく想い、JR化後にはあまり興味がわかない。そういいながらJR化して何年経つのであろうか。平成も間もなく終わるそうである。私も鉄ちゃんの性格を持っているので古く懐かしい阪急京都線710形の思い出を発表してみたい。
710形は1950年から1953年にかけてナニワ工機でMc710+Tc760の7編成14両が製造された。全金製の車両で神宝線810形と共に19m、車体巾1750mmで初めての阪急標準車体で登場した車両で両者は京都線100形と神戸線800形・920形を足して2で割ったような車両であるが細部を見ると電気関係、台車、窓枠の色等に差異もある。マルーンさんによると機器の位置が両線の車両には反対の位置にあるものもあるという。技術的なことはよくわからないが、私が感じたのは同じ会社でありながら両線の番号の付け方が違うことと運行表示板の位置が急行では左右反対であったことである。このことは後で触れてみたい。710形が170KW×4の大出力であることは後年知ったことであるが、小学生時代の私は神宝線沿線に住み京都線710形との出会いはたまに大阪に連れて居ってもらった時に十三-梅田間の神戸線との併走区間で見た運行表示板を2枚付けたクロスシートの710形の特急を見た時であった。この頃は十三も停車せず京都大宮終点までノンストップで走破していた。神戸線の特急は810形の初期4編成810~813がクロスシートであったが存在感が薄く、800、900、920形の17m中型車が中心で特急表示板も1枚で十三にも停車した。当然、710形の京都線の方が格上に見えたが、神戸線の方がフリークエントで600ボルトながら100km/h以上で飛ばしていてどちらも高速運転路線であった。羨望の眼で見ていた京都線710形特急も趣味活動の出遅れにより乗車体験はあったものの撮影はしておらず1969年3月4日の大雪の時にダイヤ乱れで急遽登場した時と複電圧車の機能を発揮してシーズンの休日に宝塚行き特急「歌劇号」として運行していた記録が全盛期を彷彿させてくれる唯一の姿である。そのうちの「歌劇号」が下の写真である。
1967.5.28 長岡天神-大山崎間 今津線経由宝塚行き特急「歌劇号」 714+764
九州北部が豪雨というのに関東は晴天猛暑続き。そんな中、今日7月10日にはWAKUHIROさんが来られた。お住まいが美旗なので正式には「朋あり伊賀より来る また楽しからずや」といったところでこれにはINUBUSEさん、藤本さん、逗子の旦那こと高田さんが参加された。WAKUHIROさんはデジ青には桜や紫陽花などを入れた季節感のある作品を発表されているが今日は「海」がテーマ。京急線で海が入るところはあるようであまりなく、それより心配なのが晴天続きとは言えまだ梅雨開けしておらず空に水蒸気が多いのか真っ青にならないことである。
最初は京急の安針塚から徒歩で横須賀線を俯瞰する有名な場所で撮影。後から駆け付けたINUBUSEさんは撮影場所へはかなりお迷いになられたようで、藤本さんに至っては迷いに迷って到着が昼前になってしまう始末。
軍港をバックに津田沼発816F久里浜行き217系 ▼
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