台湾一周駆け足旅行(3)

<3月22日>高雄⇒太麻里⇒台東⇒鹿野⇒關山⇒玉里⇒花蓮

三田会のお三方は早朝の列車で海を入れた撮影のため枋山に、続いてSさん、Tさんは遅れてどこか途中下車で撮影のため出発。私は高雄駅の新旧対比で駅周辺を撮影することにした。高雄駅は地下化工事でこれまた激変しており、撮影は厳しい。旧駅舎は現在の駅舎に向かって右側、高架橋を越えた場所に移築されていた。年配者や警察で旧駅舎にあった位置を確認したが、どうも現在の駅舎は旧駅舎よりもやや左側に建てられたようである。

1968.3.20 小さくて見難いが人力車やボンネットバスらしきものが見られる↓s-63.3.20高雄駅舎

2013.3.22 現在の高雄駅 旧駅舎は右手高架橋のあたりにあったとのこと↓

s-13.3.22高雄駅舎

2013.3.22 移築保存されている1940年建造の旧駅舎↓

s-13.3.22旧高雄駅舎

駅周辺の撮影後9時25分発莒光751次で太麻里に向かう。途中で撮影を終えたSさん、Tさんと予定通り車内で落ち合う。Sさんは母君がこの近くの屏東で育ったとのことで、先年家族旅行をされているほか台湾には何度も足を運んだとのことで詳しい。因みに私の母は4年前に亡くなったが、これから行く花蓮の生まれである。さて、太麻里には定刻12時2分に到着したが、台鉄も事故でもない限り定刻を守っており、東南アジアのどこかの国のようなことはないので有難い。太麻里もSさんの案内で10分ほどで有名撮影地に着く。先日このあたりがテレビ放映されたが、山に上がれば上るほど海が入るので次回のチャレンジコースにしたい。

太麻里~知本 自強231次 新左営発樹林行き 12両もつながり慌てる↓

s-13.3.22太麻里231次 続きを読む

E233川越線試運転

午後から悪天候が予想された26日、205系を撮影に指扇~南古谷に行ったら、10人くらいの先客。何でも新車試運転とのこと。そう言えば、大宮や川越車両センターでも見かけたのでいよいよ205系を追い出すことになるのか。番号は7001であった。INUBUSEさんから埼京線と横浜線が近々E233に置き換わるとの報告があったのでとこのことだと思った。

s-13.4.26指扇E233

台湾一周駆け足旅行(2)

<3月21日> 台中⇒二水⇒車埕⇒集集⇒二水⇒嘉義⇒北門⇒タクシー⇒嘉義⇒高雄⇒MRT西子湾⇒高雄

虎尾サトウキビに代わり集集線乗車、嘉義で阿里山鉄道北門まで乗車、自強号で高雄に向かい、時間があれば高雄港の鉄道故事館に行くという乗り鉄に変更。

集集線乗車というよりも始めての台鉄支線乗車経験である。二水からは日本車両製DR1019に乗車。室内灯にはカバーがつき運転室横まで座席スペースがあり、そこは特等席。今にも雨が降り出しそうな天気の中、2705車次は8時3分定刻に二水を発車。8時50分に車埕に着く。折り返し9時00分までの10分間で駅舎やディーゼルロコを撮る。後でわかったことであるがここは以前ゼミ旅行の時宿泊した景勝の地日月潭の入り口である。

集集線車埕駅9時00分発車直前の2706車次台中行きDR1006↓

s-13.3.21車埕1006

 

車埕から二つバックし集集駅で本日唯一の走行写真を撮る。走行写真と言ってもどなたか以前ここへ来られた方の情報で駅からものの5~6分も歩けば南国ムードの景色が撮れる。集集駅は日本のローカル駅そのもので、付近にハイキングコースでもあるのかお土産屋があり観光地のムード。駅前には阿里山シェイ22号が屋根付きで綺麗に保存され、若者ハイカーが盛んにシャッターを切っていた。

集集駅舎 日本のどこにでも見られた懐かしい駅舎↓

s-13.3.21集集駅

集集駅前保存の阿里山森林鉄道22号シェイ↓

s-13.3.21集集22

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台湾一周駆け足旅行(1)

昨年4月に続き趣味仲間Sさんのリーダーシップのもとで台湾鉄路をまわってきたので報告する。今回は、鉄研三田会の3名の方を含め、合計6名で途中適当に離散集合を繰り返しながら、撮り鉄、乗り鉄、飲み鉄を楽しんできた。個人的には1968年(昭和43年・中華民国57年)3月にゼミ旅行で訪台した時に別行動で撮影した場所への再訪が目的の一つであった。45年前の拙文は当時の青信号に掲載されているので今でもお持ちの方は参照されたし。

<3月20日> 羽田⇒台北松山⇒MRT⇒高鉄台北⇒高鉄台中(台鉄新烏日)⇒台鉄台中    ※ 高鉄は高速鉄道で台湾の新幹線、台鉄は台湾鉄道で在来線、MRTは地下鉄

旅の初日は台中である。当初虎尾のサトウキビ列車の予定であったが直前に運行終了の情報が入り、やむ無くホテルはそのまま台中とし、翌日以降の計画は練り直しとなった。高鉄の台中は台鉄の新烏日で、台中までは区間車で10分程度であった。早速、昔撮影した台中から烏日までを車窓から注意していたが、道路ができ、建物がびっしり建っており写欲を失う。古いセピア色の写真を持参してきたので失礼ながら台中の駅長室に飛び込み少しでも昔の撮影場所の雰囲気が残っていないか質問してみた。何せ45年まえのことで誰もよくわからず、逆に訪問を歓迎されてしまった。李駅長の話によると1917年にできた駅舎と駅ホームなどはそのままであるとのことでこのあとしばらく駅での撮影を行った。この日は虎尾の最後の撮影に間に合った大津の86さんが帰国前日であるにもかかわらず私達が投宿するホテルまで来てくれた。大津86の名前の由来、台中は出張等で度々来られたこと、海外のこと、DRFCのこと等を歓談したがあっという間に時間が過ぎてしまった。

 

上:台中駅到着のDR2700系 2001車次光華号台北発高雄行き 1968.3.23 9:26↓

下:ほぼ同じ場所での127車次自強号E1031基隆発高雄行き。 ホームは嵩上げされている。2013.3.20 16:14↓

s-68.3.23台中光華号

s-13.3.20E1031自強127次

 

上:台中駅南下ホームより台北方向を臨む。CT165(8620)と弁当売りのおばさん。1968.3.20 9:20↓

下:ほぼ同じ位置であるがCT165の位置に機関車現れず。左の区間車は韓国大宇製500系電車嘉義発后里行き。右の側線は高架化工事なのか無くなっていた。後方の車庫も無くなっていた。ホーム上屋の柱は昔のまま。2013.3.20 16:20↓

s-68.3.23台中CT165

s-13.3.20台中

 

歴史記念物の1917年製の台中駅。45年前も基本的に同じ姿であった。↓

s-13.3.20台中駅舎

東急渋谷の記録今昔

昨今の鉄道写真はイベント列車ややらせの写真が多く、うんざりする。その点、天野克正さんの作品は日常の普段着の世界。予め計算されていたのか難しい逆光線をうまく使っておられ、蒸機ならではの味わいがある。天野さんの作品は当時のDRFC明徳館地下1階写真展では傑出していた。心からご冥福をお祈り申し上げます。デジ青ではどですかでんさんが蒲原電車の同種と思われる他社車両について研究し、助言を求められている。もとより私の如き単なる撮り鉄にはわからない話であるが、それでも大変興味深いものがある。さらなる研究発表を期待したい。

さて、本題であるが、先日、電車少年こと乙訓の老人さんが武州詣でに来られ、@ロギング太郎さん、藤本哲男さんと同行した。池袋より東上線急行に乗車し、越生の梅林も見ず、八高線、西武新交通システム経由で駆け足旅行を終え、渋谷道玄坂近くの高級中国料理店で宴を催した。宴に先立ち、老人さんより「この辺に玉電の渋谷駅あったな、確か谷底のような駅や」と言われ、東急、京王、営団(現メトロ)が共同開発した渋谷マークシティの道玄坂口をご案内した。玉電は1969年5月10日に渋谷~二子玉川と砧線を廃止、残存しているのは三軒茶屋~下高井戸の現在の東急世田谷線であるのは皆様ご存じのとおりである。因みにゲージは京王線と同じ1372ミリである。廃止日である1969年5月10日に撮った装飾電車デハ65の写真がある。左に井の頭線3000系が見えるが今はこのような野ざらしのホームではない。当時は4両編成で急行がない時代である。右に僅かに見えるのは営団(帝都高速度交通営団、現東京メトロ)銀座線の折り返し用引き込み線。↓s-1969.玉電渋谷花電車

これが谷底の駅玉電渋谷で停車中の電車は200形204は中間1軸の連接車。右には営団銀座線の車両が見える。多分2000形と思うが定かではない。廃線後はバスが利用し、奥にはターンテーブルがあった。↓

s-1969.玉電渋谷200

東急渋谷駅と言えば3月16日に東急東横線が東京メトロ副都心線と相互乗り入れを行うのに伴い廃止される。このため、私もその一人であるが、連日カメラを構える人で賑わっている。  ターミナル駅全体を撮り、思い出とするのが一般的であるが、マニアは現在習熟を兼ねて営業運転に入っているメトロの車両を今後見られなくなる渋谷~代官山間で記録することに主眼を置く。走らない日もあるので注意が必要である。写真は本日3月1日渋谷駅1番線に到着したメトロ7029の東横特急の到着シーンである。↓

s-13.3.1渋谷メトロ7029

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台湾DR2700型

ブギウギさんの「2012年の暮れ台湾へ(上)」[28374]に登場したDR2700型気動車の光華号時代の姿。撮影したのは中華民国57年(1968年)で蒋介石、毛沢東が存命の時代であり、日台間に国交があった時代である。

台湾の看板列車は客車の観光号と気動車の光華号で、ヘッドマークは前者は台湾が、後者は中国大陸が描かれていた。

DR2700型は1966年に登場。東急車両製ステンレスカーで椅子は台湾製、機関はアメリカカミンズ製(世界の鉄道68朝日新聞社)。

s-68.3.23台中光華号_edited-1

↑1968.5.1 台中駅 台北発2001車次高雄行き 途中の停車駅台中、台南

s-台湾時刻表

↑ 当時の台湾の時刻表表紙に出ている看板列車光華号

↓ 44年ぶり撮影DR2700 海端付近を行く4682車次玉里発台東行き 2012.5.1

s-台湾DR2725

 

 

 

 

 

近鉄の柿ほか

神戸電鉄の柿、JR西の柿が出たので、次は近鉄の柿ほかを出す。ほかというのはその時撮ったおまけの写真である。ホームカミングデイ(2012年11月11日)は生憎の雨模様であったが、翌日は昼前から晴れて撮影日和となった。場所は最近デジ青にもよく登場する近鉄南大阪線の二上神社口付近である。二上山を入れて撮りたいところであるが、逆光になるため敢えて名山を避けて平凡な順光写真を選んだ。

↑ 12時4分通過の吉野行き特急16000系2連。

1本の柿の木があったのでそれを入れた唯一線路から離れた写真である。初期車は大井川に譲渡されたとあって近鉄の中でも古参の特急である。

 

↑ 古市~橿原神宮前間の区間電車6427+6527

 

       ↑ 13時4分通過吉野行き特急16111+16011

正面が30000系や12410系に似た顔の狭軌用特急車で1編成しかない。

 

錦秋箱根版

総本家さんの錦秋の叡電たより-1-[26504]を拝見。チャレンジ精神旺盛な夜間撮影にはとても及ばないが、私も毎年紅葉の時期には箱根登山電車の大平台付近を徘徊しているので、11月21日に撮影したものを載せてみる。

↑ 宮ノ下を下り上大平台信号所に向かう箱根湯本行き108

 

    ↑ スイッチバックの上大平台信号所を出て大平台に向かう箱根湯本行き 2005

青森余話

「クローバー会写真展in青森」も無事終了した。この写真展で嫌な顔一つせずに頑張った総本家青信号特派員さんはその後「ダイレクトに行って帰っただけでは鉄道ファンの名が廃る」と「東日本被災地の鉄道は今」を発表されている。私も写真展の前後に少しばかり撮影してきたので発表したい。

かつて青森駅は数々の優等列車が発着し、賑わいをみせていたが、今は津軽海峡方向を除けば寂しい限りである。そのような中、昭和の面影を残す唯一の本州内定期ブルートレイン「あけぼの」の発車待ちの姿を夜間撮影した。18時22分発で写真展終了後の宴会前の丁度よい撮影時間帯でこのためわざわざ三脚を持参した。2012年10月12日2022列車EF81139[青森車両センター]↓

青森から二つ先の奥羽本線津軽新城は手頃な撮影地。と言っても30分ほど歩く。このお立ち台は2度目でみちのく一人旅 のぶんしゅう旅日記さんをご案内する。二人以上で撮影すると気が散っていい写真が撮れないことがある。この日も「あけぼの」登場前にクラブのこと、海外旅行の話、はたまた神足会の話題などを喋くりまくっているうちに列車がサーと現れる。このあたり2~4両編成が多い中で寝台特急は長編成である。急いで望遠から広角に戻すもピンボケ。地元の人に声をかけられたり、あまり喋っていると失敗が多いが、プロでもないので、私は気の置けない仲間との撮影の方が好きだ。2012年10月12日津軽新城~鶴ケ坂2021列車EF81139[青森車両センター]↓

青森から上りの「あけぼの」は上越線経由で上野着は6時58分のラッシュ前。都心に近い家の建て込んだ所を避けるには初夏の日の出の早いころ高崎近くが望ましい。私は2年前の朝3時に車を出して、これもお立ち台のオカホンこと、岡部~本庄間で撮影した。2010年7月20日AM5:35 2022列車EF641031[長岡車両センター]↓

青森駅構内では連絡船に貨車を詰め込んだり、引っ張り出したりするキューロクの姿があった。写真展開催中に元国鉄の方からT先輩の 写真を見て、「キューロクは後ろに無蓋貨車をつないでいたが、これはキューロクが誤って連絡船の中まで入って行って船が沈んでレールに段差ができて戻ってこれないと困るので緩衝役としてつないでいた」とおっしゃられた。これは何という形式の貨車であったのであろうか。宇高連絡船にも同じものがあったのであろうか。戦前の稚泊航路(稚内~樺太大泊)はどうであったか。関釜連絡船は両岸ではゲージが異なるのでなかったのではないか。台湾は遠過ぎて連絡船の制度はなかったのではないか。何れにしてもよくわからないのでどなたか教えていただきたい。私の撮影は1965年8月31日早朝の9665で後ろの貨車は緩衝役なのか普通の無蓋車なのかよくわからない。T先輩には今回の写真展PRにも使われた雪のキューロクを拝借した。↓

最後の締め括りは青森駅で撮影中の総本家青信号特派員さんの勇姿。勇姿というよりも連日の準備作業等でお疲れ気味の撮影姿かもしれない。いろいろとご苦労様でした。2012年10月12日青森駅の青い森鉄道クハ700-4↓

 

 

 

小湊・いすみ余話

このところDRFCイベントで盛り上がっている。このような時期に拙稿はどうかといささか躊躇していたが、意を決してデジタル元祖青信号[24168]ぶんしゅう旅日記さんの久留里線、いすみ・小湊鉄道撮影日記の追加を余話として報告したい。ぶんしゅうさんは中国、台湾、アフリカに続き、最近は赤道直下インドネシアの砂糖キビ輸送の蒸機を独特のカメラ・アイ、文章で発表されており、この調子で行くと日本の鉄道への興味はどんどん薄れていくのではないかと懸念していた。しかし、9月30日の房総3非電化鉄道撮影ではそのような心配は全くなく、内外ともに鉄道撮影への意欲倍増中とお察しした。

この日お約束した小湊の春・夏の風景やいすみの国鉄木原線時代を発表させていただく。

世の中便利になり過ぎてその弊害も指摘される昨今である。どなたか名前を忘れたが、その方が総理大臣になられた時のキャッチフレーズが「美しい日本」であった。私は簡易トイレはあるが、自販機もない不便この上ない上総大久保駅に何か忘れかけた「美しい日本」を感じた。 美しいとは勿論「風景」だけではなく「心」のこともいっていると思うが。

2011年4月10日 小湊鉄道上総大久保駅 養老渓谷行きキハ210 ↓

昔の日本の夏は朝晩涼しく、朝顔を眺めたり、午前中に夏休みの宿題をしたり、ほたるをとってきて蚊帳の中に放したり、それなりの風情があった。今は、特に都会では終日暑苦しくインドネシアの方がずっとしのぎやすいとのこと。上総大久保駅から五井方向に5分も歩けば大カーブが見えてくるが、夏の時期ご老人の撮影は熱中症予防に水や塩の用意はお忘れなく。

2011年7月16日 上総大久保~月崎 上総中野行きキハ211 ↓

小湊からいすみへの乗換駅上総中野。読者諸兄にもお馴染みのポイントであろう。

2012年9月30日 上総中野駅 左いすみキハ202、右小湊キハ204 ↓

1982年晩秋の同じ風景。大原からのキハ3557から小湊キハ212への乗り換えが終わった頃。左側の大きな木は少し育った感じだが小湊のキハはあまり変化はない。

1982年11月28日 上総中野駅 ↓

いすみの新車キハ300形クロスシート車。来年にはキハ350形ロングシート車が登場するという。

2012年8月19日 国吉~上総中川 大原行きキハ301+キハ302 ↓

新車より興味を引くのは、同社がキハ52125に続いてJR西日本よりキハ282346を導入し、10月21日には大多喜駅でボンネットバスとともに顔見世興行が行われることである。キハ52+キハ28はもう一つどうかなと思うが、またまた行かなくてはならない。続いて国鉄木原線時代の国吉駅でのキハ351、確かこのトップナンバーは総本家さんがどこかに発表されたと思うが、同社ではキハ30の導入の噂もありどうせならゆかりの車両を再現してもらいたい。

1982年11月28日 国吉駅 大原行きキハ351 ↓

最後に9月30日、国吉~上総中川間で大原行きキハ52125を迎撃するぶんしゅう旅日記さんの激写スタイルで締めくくりとさせていただく。↓

伊予鉄での出会い

 いささか古い話で恐縮であるが、昨年末、趣味仲間と車で一畑、伊予鉄、琴電等を訪問したのでその中で伊予鉄との出会いについて報告したい。その時の最大の目的は一つには1963年、1964年にローレル賞を連続受賞した井の頭線3000系、京王線5000系の生き残りを並べて撮ること、もう一つは京都市電であった2000形を撮ることであった。

 2011年12月3日伯備線、4日一畑、琴電を撮影後、松山市内勝山町のホテルに投宿。道後温泉も行かずにホテル前で三脚を立てて市内線電車の夜間撮影を試みたが、結局元京都市電は現れなかった。翌日も早朝からねばってみたが、ラッシュアワーに重なったのか2003、2005、2006に出会うことができた。正面の前照灯が2灯から1灯となり、多少面構えが変わっていたが、全体の面影は残っており懐かしい感じがした。JTBキャンブックス「京都市電が走った街今昔」(沖中忠順著、福田静二編)によると京都市電2000形は1964、65年に6両が登場し、1両は保存、5両は伊予鉄市内線で旧番号のまま冷房化の上、活躍中とある。2003、2005、2006の京都時代の同番号の2000形はないものかとネガを探してみたが残念ながら全くなく、唯一、卒業前の1969年2月の雪の降る日に京都駅近くで後姿を撮った2002があったので掲載する。  

        2012.12.5 勝山町 2003↑

 

        2012.12.5 大手町2006↑

 

 1969.2.28 京都駅近くの烏丸通と思われるあたり2002↑

 

 元京王3000系、5000系の出会いであるが、当日の運行状況から大手町駅で離合することがわかったので光線状態を考えて同駅の松山市駅側に陣取る。時間になりやって来たのは横河原行きクハ3506(元井の頭線クハ3775)で高浜行き後部のクハ765(元京王線クハ5777⇒クハ5857)と並んだところをキャッチ。朝陽に輝く出会いはよかったが、朝の斜め光線は架線や電柱の影の処理が難しい。それに元京王5000系自身いつまで残るのか予断を許さない時期に入ってきたように思う。古い写真は1968年5月27日聖蹟桜ヶ丘を出て多摩川橋梁に向かう京王八王子~調布間の各駅停車デハ5107+クハ5857吊りかけ車で松の木の影になっている後ろの車両が伊予鉄クハ765になるクハ5857である。新しい写真は2008年11月16日井の頭公園駅に進入する急行運用に入ったクハ3775で現在の伊予鉄クハ3506である。伊予鉄の3000系は譲渡に際し、VVVF化されて井の頭線時代よりも性能のグレードアップ化がなされている。京王線と井の頭線は明大前駅で上下交差しているが、路線の生い立ちやゲージの違いによりお互いが同じ会社の車両でありながら顔を会わせることはない。もっとも井の頭線の1800、1700、1710、1400、1200等は改軌して京王線に転属していった時代がある。その一部も伊予鉄に譲渡されており、京王と伊予鉄は縁の深い関係がある。本年5月1日に彩流社という出版社から発行された「京王線、井の頭線昭和の記録」の編著者三好好三さんは井の頭線と京王線の接点という項目の中で伊予鉄の同じ線路を走る元京王3000系、5000系のことを「本家でも実現しなかった夢の競演である」と述べられている。譲渡車両の今昔を記録してみたが、同じ車両を対比することは大変興味深いものがあり、私のような老人ファンならではの楽しみである。

 2012.12.5 大手町横河原行きクハ3506と高浜行き後部クハ765↑

  1968.5.27 聖蹟桜ヶ丘~中河原 デハ5107+クハ5857↑

 

 

   2008.11.16 井の頭公園 3775先頭急行渋谷行き↓

連接車9

今回はヨーロッパの路面タイプではない連接車とする。連接車については鉄道ピクトリアル789 2007年5月号にその特集が組まれているが、巻頭の説明では「連接車は車両同士の連結部分に台車を配置し、隣接する2つの車両を1つの台車で賄っている車両である」と書かれている。ところが、その特集記事の中で専門家は上記定義に当てはまらないものと断って最近普及しているLRVを広義の連接車として説明している。広島電鉄5000形のようなLRVはヨーロッパ各都市では以前から多く見られるが、このような5車体3台車の車両では台車のない車両は隣の車両が吊っている様である。この連接車特集号では日本のLRVの写真がどんどん紹介されているし、旧東ドイツでは2車体2台車もある。連接車の定義、範囲はよくわからなくなった。ということで連接車最終回は標準型で有名な車両を選んでみた。

最初はイタリアの元TEE「セッテベロ」ETR300で小田急NSE等に影響を与えたといわれる車両。1952年生というから恐れ入るが実に思い切ったデザインの車両である。2車体3台車の間に3車体4台車の中間車を挟む7両編成。2000年5月5日ミラノ~ボローニャ間にあるFidenzaでの撮影。

 

これも有名なフランスのTGV。8車体9台車の中間車に両端はボギー式で10両で1編成。2005年8月7日南仏Antheorの高級別荘地から撮影。パリリヨンとニース方向を結ぶ上下列車。↓        

     

 

1997年8月17日ベルギーのローゼンタール~アントワープ間のKijkuit付近で撮影のタリス。アムステルダム発ブラッセル行きで両端動力車中間8車体9台車はTGVと基本的に同じ考え。↓

          

ユーロスターも連接台車を採用しているが、動力車と客車間、編成中央の客車間は非連接で4分割可は海底トンネル内での異常時対応。1997年8月20日ベルギーのフランス国境に近いMonsで撮影したブラッセル発ロンドンウォータールー行き。↓

 

最後はスペインのタルゴ。2000年5月7日スイスチューリッヒ郊外のMurgenthal~Rothrist間を行くRE/44に牽引されるバルセロナ発チューリッヒ行きEN273列車。客車間の台車が1軸であるのが特徴で標準型の変わり種。↓

         以上で連接車9回の連載を終わる。

 

レイルNo82「武庫川をめぐる鉄道」について

兵庫ふるさと通信員さんより表題について紹介をいただきました。早速コメントを書いたのですがどういう訳か送信ができない状態なので、新たに新規投稿の形でコメントさせていただくことをお許し下さい。

 

兵庫ふるさと通信員様

お名前は始めて拝見させていただきますが、有難うございます。拙文、拙写で恐縮しております。先輩であるtsurukame様には応援出演をしていただき、内容が濃くなりました。また、893-2様には急遽現在の写真を撮るように協力依頼をしたのですが、撮影途中でお役所に多大な寄付もされたと伺い、これまた、恐縮しております。

 

乙訓の老人様

励ましの言葉かお小言かよくわからないところがありますが、いつも早いコメント有難うございます。私は本を書く知識、能力、体力、気力は全くありません。鉄ピク誌に関しては毎号次の特集のテーマが与えられますので、どうせ何時かは撮る写真と思って出かけます。編集部がどういう写真を欲しているかは一応頭に入れおきます。データ以外は専門の方が説明を入れてくれるので気楽と言えば気楽です。私の強みは関西育ちで関東在住者、歳をとっていることです。逆に専門分野がなく、お迎えが近いとも言えますが、歳をとっている分、東西の新旧写真がかなり手元にあるとも言えます。古い写真はどちらかというと掲載率が高い様ですが、、最近の写真、特にJR系は若い人の方がカメラ知識もあり、うまいので殆ど落選します。若い人と競争するのも面白いですが、全部落選するとがっかりです。古い写真、特にカラーは貴重であるとのことですが、老人様やDRFC-OBの人間国宝級の方々のような貴重なものは皆無です。しかし、最近は私自身紛れもなく老人だと思っております。現在、連接車の最終回を準備しておりますのでまた、宜しくお願い致します。

連接車8

電車少年こと乙訓の老人様から私の撮っていない車両やカラー写真を送っていただいたので今回はそれを並べてみる。

仙台市交通局ダブルルーフ木造車改造の300形連接車。これは撮っておきたかった電車。超クラッシックスタイルと改造時の台車のアンバランスが魅力。 長町駅前での走行と中間台車↓

               名古屋市交通局3003と中間台車 ↓

広島電鉄5000形グリーンムーバーとその台車。ヨーロッパスタイル5車体連接の超低床車。台車がどこにあるのかさっぱりわからないが、それを撮影されているので大変参考になる台車の写真。

 

 南国鹿児島の連接車。鹿児島市交通局700形には大阪市交通局3001形を改造したものもあるという。 ↓

             筑豊電鉄旧カラーの車両。 ↓

岡崎公園に保存中の名鉄400形とそ中間台車。谷汲線走行中の姿はは連接車2[17097]参照。 ↓

福井鉄道200形の乗車の様子と鉄道線走行の姿。 福井駅前の路面停留所から荷物を三つも抱えてどっこいしょと乗り込むご婦人。これも貴重な写真。まだ、バリアフリーなどの言葉もない時代に路面線、鉄道線の両刀使いの苦肉の策の電車。鉄道線は上鯖江~家久間で福井駅前乗車風景ともに1992年10月18日の撮影。

電車少年さん有難うございました。撮影記録やこんな話、あんな話、補足説明等お願いいたします。

今日はダイヤ改正の前日。老体に鞭打って出かけたので報告する。小田急の消滅する車両の最終日の姿を撮ろうと出発準備していたら新幹線の100系と300系がなくなることが朝のテレビで放映されていた。それなら新幹線、小田急両方撮ろうと久しぶりに車で行くことにした。伊勢原でJR東海の371を撮って平塚の東豊田というところで300系、そのあとは秦野で小田急ロマンスカーと考えて出発。ところが、厚木市内で渋滞に巻き込まれて愛甲石田の本厚木よりでないと間に合わなくなった。いい場所ではないが妥協する。それでもその場所には一人後から来た。新幹線は5~60人くらいいただろうか。夕刊を見ると東京駅は1000人以上押しかけたようだ。ここ東豊田は富士山や丹沢が見えているが全体がかすんではっきりしない。女性のご老人がデジカメの小さいので準備していたが、急に来るので間に合わない。次の小田急の秦野~東海大学前は10人くらいで人出はJR新幹線と一私鉄の差であろう。大入り満員とはならない。通勤車5063は来なかった。

  2012.3.16 愛甲石田―本厚木 沼津発新宿行き「あさぎり2号」JR東海クモハ371-1 

 2012.3.16  平塚市東豊田 東京10時47分発の「のぞみ」新大阪行き300系 

 2012.3.16 秦野―東海大学前 箱根湯本行き「はこね21号」 10011-10001   

 

 2012.3.16 秦野―東海大学前 沼津行き「あさぎり5号」20301-20001

 

連接車7

今回は比較的異色車を交えてみた。

まずは北の札幌。ここはヨーロッパスタイルの連接車や気動車が印象的であった。以前、A830形の譲渡先名鉄美濃町線の姿をお見せしたのでA810形A812・A811とする。というよりも他の連接車A800形、A820形は撮っていないというのが正直なところである。今は名前が消えてしまった銀行がバックにあるので多分駅前から大通りに向って歩きながら適当に撮ったのだろう。札幌には1年赴任したが場所は明確にはわからない。

  1969.3.18  →札幌市A812・A811

 

南海にも連接車がいた。といっても元和歌山電気軌道2000形で、1961年に南海電鉄に吸収合併され同社和歌山軌道線になって以降の姿。ウサギの耳のようなライトが特徴。この撮影の約2年後の1971年1月に軌道線は廃止された。

 1968.11.21 南海電鉄和歌山軌道線 和歌山市2003・2004

 

1969年5月10日に廃止された東急玉川線には面白いのがいた。超タマゴ型の軽量車両で1軸連接台車。使い勝手が悪かったのか玉川線廃止後は世田谷線に残ることは無かった。こういう個性的な車両は最近は見かけない。現在の世田谷線はオール300形で2車体3台車。

 1969.5.8(玉川線廃止2日前)東急玉川線上通りデハ205二子玉川園行き

 

 2012.2.5 東急世田谷線宮の坂 三軒茶屋行き307AB

 

 2012.2.29 降雪の東急世田谷線下高井戸に到着する304AB

 

元祖連接車京阪びわこ

1969.12.6 京阪電鉄浜大津駅到着61 撮影メモ紛失のため駅名は未確認。

 

762ミリゲージ唯一の連接車が三岐鉄道北勢線に存在している。同社の200形で元三重交通湯の山線4400形1959年製。湯の山線改軌後は近鉄北勢線に移ったが何回行っても休んでいたのか撮れなかった。先日の烏丸御池写真展に行く前に訪問してみたらこの日は運よく走っていた。土砂降りであったがやっと撮れたと満足して帰った。

  2012.2.14 三岐鉄道北勢線楚原~麻生田 ク202

 

長野電鉄へ譲渡された元小田急10000形。本家の10000形は3月16日で全廃されるが分家では4連ながら小田急そのままの姿でしばらく走り続ける。

2007.9.16 長野電鉄夜間瀬~信濃竹原 特急「ゆけむり」湯田中行き1001~1031

 

JRでは珍しい連接車。7両連接×2の14両編成。京葉線で土休日に走っていたが、最近は見かけない。どうなっているのだろうか。電車情報にお詳しい葛飾区や都筑区にお住まいの方、情報をお願いしたい。

2010.7.26 JR京葉線潮見 クハE331-1 海浜幕張行き

京浜急行デハ230型とトンボ電車クハ140型

米手作市様からのご指名ではないが、迷図作家さん関連の京浜急行230型の乙訓の老人様発表の続きとして失礼ながら続行させて頂く。また、同作家の昨年7月7日のトンボ電車について廃車後ではあるがその姿も発表する。とんぼ電車については京浜急行クハ140型が電動車デハ51型であった頃にポールをふりふりして軽快に駆けた姿からその様に言われたとのことで私はその記事をよく読まずお尋ねして恥をかいた次第である。

         1998.5.4 房前~塩屋 38+37

この撮影名所はその後の訪問では覆いができてしまい撮影を諦めたように思う。

 

           1998.5.4 房前~塩屋 27

京浜急行デハ230のサイドビューである。京浜急行は馬堀海岸、三浦海岸、大森海岸、津久井浜、汐入、浦賀等々海に因んだ駅名が多いがこれほど海に近づいて走行している場所はないと思う。この撮影地点の背後に琴電の旧型車が保存されている。

 

           1970.1.4 川崎大師付近 

品川からの初詣臨時急行でだるまのヘッドマーク付き。前から246・245・250・249の編成。

1965年の夏には海水浴の臨時特急が230型を含め吊り掛け車も総動員して運行されていた。アルバイトの帰りに新子安の京浜東北線のホームからその快走ぶりを見たことがある。乗ってみると窓が大きくて低く、シルにリベットがつき少しP-6を思い出したが、小錦と舞の海の重量差、軽快差を感じた。

 

        1966.11.1 久里浜工場 141

この電車がその昔ポールふりふりとんぼ電車と言われたようであるが、丁度廃車された頃に久里浜工場にいたので撮影した。デハ230と連結してクハとなったり中間に入っていたとのことであるが、現役の姿は見ていない。

 

 

連接車6

東西の私鉄特急列車にも連接車がある。何れも単に連接車というよりもその時代を代表する私鉄高性能特急車両であり、新しい試みが随所に見られる興味深い車両である。

近鉄では1958年に7連で中間に3車体4台車連接構造を持つ10000系初代ビスタカーを登場させた。このような意欲的な車両は見ていて飽きない。続いて翌1959年には改良されたビスタカー決定版10100系が3車体4台車構造でデビューした。詳しいことは当会の田淵仁さん著の「近鉄特急」JTBキャンブックスを参照していただきたい。

 

1968.11.8 伊勢中川 宇治山田行き特急後部モ10001 中間の3両が連接車

           1968.9.19  八木駅 ク10005

中間のク10005でビスタードームを持つ。  左の車両サ10004との間にシュリーレン空気バネの連接台車が見える。

 

  1968.9.19 三本松 10102+10202+10303  上本町行き特急

上本町よりが非貫通流線型で宇治山田よりが貫通形タイプ。三本松駅は今でもこの風景は変わっていない。

 

1968.11.8  伊勢中川付近 宇治山田行き特急 宇治山田よりの貫通タイプモ10100形

 

 

小田急ロマンスカーといえば展望席のある連接車のイメージが強い。しかし、10000の後に続く20000、30000、60000は連接車ではない。2004年度登場の50000は落ち込んでいる箱根への誘客のためか伝統的な展望席連接構造で真っ白で目立つ派手なイメージの車両である。

 

 1969.11.16  鶴川~多摩川学園前 下り「さがみ」 3055~3051

3000系(SE)は1957年の登場で国鉄線で高速試験運転を行った話題豊富な車両。本来は8車体の連接車であるが、そのネガが見つからない。これは「えのしま」、「あさぎり」、「さがみ」などに使われた5連の姿で迫力がなく申し訳ない。大井川鉄道に譲渡されたものもあるが短命に終わった。産業遺産として海老名で1編成保存されており、鉄道フェスタなどで見ることができる。台車はシュリーレン。

 

 

  1999.6.19 秦野~東海大学前 「さがみ62号」新宿行き 

梅雨空の中、最後の活躍をしていた3100(NSE)。 3100系(NSE)の登場は1963年で3000系同様オルゴール電車であったが騒音としての苦情が多かったのかやめてしまった。台車はミンデンドイツ。

 

 2010.12.10 鶴川~玉川学園前 「はこね15号」箱根湯本行き7801

1980年登場の7000系(LSE)は3月ダイヤ改正で残るがこの塗装は消えるとか。台車はアルストームリンク。

 

 2010.11.5 渋沢~新松田 「はこね15号」箱根湯本行き7804

 

 

  2010.12.10 鶴川~玉川学園前 「はこね25号」箱根湯本行き10011

10000系(HiSE)は1987年登場だが3月のダイヤ改正で消える。2編成が譲渡先の長野電鉄で活躍中。台車はアルストームリンク。

 

 

  2010.2.20 相武台前~座間 「はこね27号」箱根湯本行き50902

足回りにスカートをつけて点検もし難いのではないかと思うがこういう個性的な車両は面白い。

 

 012.2.8 鶴川~玉川学園前 「はこね27号」箱根湯本行き中間車50202

50000系(VSE)の台車はボルスタレス。

写真展を見て

 恒例の第3回DRFCクローバー会写真展が開催された。2日目の2月15日、わくわくする気持ちを抑えながら会場に向った。

 会長さんから現役生まで幅広い層からの参加があり、出品数も多くボリューム感があった。今回は全体に実力アップされ、素晴らしい作品が多かった様に思う。

 「鉄路輝く」の部では単なる鉄道車両風景ではなく、各自が感じたもの、感動したものを表現しようとした努力の跡が随所に見られた。 私自身、刺激を受けて「よし、今度はあのような写真に挑戦してみよう」と思う作品が何点かあったが、考えてみると超炎天下の海外での奮闘撮影、旅先でのちょっとした人との触れ合い、夕暮れや夜の撮影等々には鋭いカメラアイ、感性と体力、気力が必要である。私の年齢ならもう無理かもしれない。脱帽である。

 一方、被災地復興に関連した「東北の鉄道」の部では秀麗な磐梯山麓のD50列車や貴重な過去の記録もあり、また、少数民族と東風3型のカラー等々国宝級(?)作品が見られたのもクローバー会の特徴である。

 諸準備を担当された皆様に改めて感謝申し上げる。願わくば、これら作品をコンパクトにしたものでも結構なのでデジ青か何かに掲載してもらえないかと思った次第である。また、応募作品を審査された委員の方々の総合評価、準備等の苦労話、今後の方向性等も会期終了後にでも発表していただければ幸いである。いずれにしても遠くから来てでも充分見る価値のある写真展であった。

次回も期待したい。

2012.2.15夕刻  烏丸御池ギャラリー

連接車5

前回の広島電鉄、筑豊電鉄に続き今回も連接車天国の江ノ島電鉄を発表する。単線ながら12分おきに、それも来る電車、来る電車、形や色が違うので面白いと言えば面白いが、何となくケバケバ電車が多い様に見える。本来の江ノ電カラーの方が落ち着いていて好きだ。

2010.5.31 稲村ケ崎付近 藤沢行き305・355・501・551

現役最古参でしぶとく残っている人気者。300形は複雑な改造の過程があるがこの305は新造に近い。

 

2012.2.2 稲村ケ崎~七里ケ浜 1002・1052・10・50

1979年登場でブルーリボン賞をもらったとか。ブルーリボン賞は豪華な車両が多く、通勤車両や路面タイプはローレル賞と思い込んでいたので驚きである。

 

2012.2.2 腰越付近 鎌倉行き2002・2052連結部分

後方は義経、弁慶ゆかりの満福寺。 頼朝の拒絶により足止めをくった所。

 

 

2012.2.2 鎌倉高校前 →1552・1502・1151・1101 藤沢行き

嵐電カラーは期限延長なのか今でも見ることができる。尚、この日偶然にも横浜在住のIさんが多忙な仕事の合間をぬって全く同じ場所で黄昏のいい写真を撮られている。

 

2012.2.2 稲村ケ崎~七里ケ浜  藤沢行き2002・2052・21・61

この電車は下枠交差式パンタグラフ。 比較的落ち着いたカラーであるがコカコーラの宣伝が邪魔で残念である。

2012.2.2  峰ケ原信号所 2002・2052中間台車

 

2010.5.31  稲村ケ崎~七里ケ浜 藤沢行き10・50

1997年登場のレトロ調の電車。都電にも似たようなコンセプトの車両があった。シングルアームパンタグラフ装備。

 

2012.2.2 稲村ケ崎付近 鎌倉行き61・21・2052・2002  

江ノ電は嵐電と共同宣伝の提携をしているが、阪急とも同様の話でもあったのか。

 

2012.2.2 稲村ケ崎~七里ケ浜 鎌倉行き62・22 

61・21は2002年、62・22はその翌年登場。 このようなラッピング等宣伝がないオリジナルカラーの方が落ち着いて綺麗に感じる。歳のせいかな。また、単線ローカル電車の写真には2両編成くらいが丁度よい。

 

2012.2.2 稲村ケ崎~七里ケ浜 鎌倉行き552・502 

連接車らしい写真が撮れる場所は狭い所を走る江ノ電では少ない。やっとそれらしいのが撮れたと思ったら前パン(シングルアームパンタ)が切れてしまった失敗作。500形(2代目)はステンレス製。502Fは2008年登場で江ノ電では最も新しい。

 

1970 稲村ケ崎~七里ガ浜 鎌倉行き303

同じ300形でもこの番号あたりになるとよくわからない。江ノ電では元玉電の600形は撮影したが、元山梨交通800形は撮影できなかった。

 

1970 稲村ケ崎 藤沢行き502

1956年登場でヨーロッパスタイルといわれたが今は廃車され足回りが20形に流用された。

 

以上、江ノ電連接車を取り急ぎ発表したが、形や色が多過ぎて全部掲載するとご迷惑がかかるので特に1000系列のうち1100、1200等は色違いも含めてカットした。