連接車4

今回は連接車の多い広島電鉄と筑豊電鉄を採り上げてみた。

広島電鉄には皆さんよくご存知の通り京都市の1900形をはじめ各地の路面電車を元の色のままで走らせる等興味深いものがある。最近はヨーロッパスタイルとでも言おうか長い新型連接車も見られ、私のような何でも屋にはとてもその全容を把握するのは無理である。広島県在住の方や路面電車のご専門の方々のコメントをお待ちしたい。尚、新型と表現したが、最近よく使われるLRTなのか軽快電車なのか今一よくわかっていないのであえて使わなかった。新型路面電車の中にはLRTや軽快電車でないものもあるのであろう。

1977.10.8  宮島線井口付近 2505

1961年~66年に製造され後に3100形に改造された。改造されずに廃車されたものもある。この時は荒手車庫で阪急から譲渡された今津線500形、嵐山線210形を撮影することが主目的であった。後方には併走する山陽本線が見られるが、まだEF58や80系が走っていた。

1977.10.8 荒手車庫 西鉄1203

西鉄福岡市内線から譲渡された頃の姿と思われる。後に広島電鉄3000形となった。

2008.9.8 胡町 3007

元西鉄福岡市内線1101、1201、1301形を改造、3007ACBは元西鉄1305A・1207B・1305B

2008.9.8 八丁堀~胡町 3703

 

2008.9.7 紙屋町西 3803

 

2008.9.7  宮島線阿品東 3904

暑い1日だったがこの電車の時は御日様が隠れた。

 

2008.9.7  原爆ドーム前~紙屋町西 3952

この日はセ・リーグで行ったことがなかった広島市民球場で阪神戦を見るのが目的であった。広島城を見学してぶらぶらと球場のあたりを歩いていたら「1番センター赤星」のアナウンス。この日はナイターでなくデイ・ゲームであった。ホテルに戻ってお色直しすることも出来ず、そのまま重いリュックで球場へ行く。この日も阪神は負けた。確か巨人に13ゲーム差をひっくり返された年と思う。

 

2008.9.8  銀山町 5107 

5連接車で何となくヨーロッパで見かけるスタイルである。顔は西武の30000に似ている様な気がする。

 

筑豊電鉄という名前は最近まで知らなかった。西鉄の子会社で1956年3月に開業しているので最近できた電鉄会社ではない。何しろ鉄道趣味という厄介な病にかかった頃は蒸機第一で、筑豊といえば猫もしゃくしもC55やD50を追っかけ、北九州電化にもあまり目を向けなかった。ましてや筑豊電鉄なぞ存在すら知らなかった。1964年10月の交通公社の時刻表が手元にあるが、それによると黒崎~筑豊直方70円、朝夕通勤時は2~3分毎、日中5~10分毎とある。JR直方からかなり離れた遠賀川の畔に高架の筑豊直方駅があった。大きな川に小さな電車では撮影するにも感が狂ってしまう。来る電車来る電車皆連接車でしかも吊り掛け車と聞く。スタイルはカルダン車なのだが。

2010.11.19  筑豊直方~感田 黒崎駅行き2003

西鉄軌道線1000系列を譲り受けて3両連接車に改造したもの。

 

2010.11.19  筑豊直方~感田 筑豊直方行き3005

2000形を車体更新したもの。乗客が少ないのか広電の長編成化とは反対に短編成化されている。

 

 

小田急消滅車両補正

 デジ青[17357]「小田急消滅車両」でJR東海の371系小田急乗り入れ車両も掲載したが、これは小田急の車両ではなくJR東海の車両であり3月に消滅するという情報はない。3月17日ダイヤ改正で消滅する小田急の車両は10000形、20000形、5000形で、同時にJR東海371系の小田急乗り入れがなくなるということを早とちりしてしまった。お詫びしたい。なお、JR371系はまだ使われるようで団体専用なのか他の使われ方があるのか注目される。また、小田急は気動車5000形、5100形や3000形(SE車)以来の伝統を守り、どうも御殿場までは乗り入れを継続するようだ。その車両は地下鉄乗り入れに使われている60000形との情報も流れている。お詫びの続きで有名撮影地で申し訳ないが、私自身始めて行った御殿場~足柄の371系と今後御殿場線乗り入れに使用されるとの噂のある小田急60000形を掲載する。

 

 2012.1.13 JR御殿場線御殿場~足柄 2M 特急「あさぎり2号」新宿行き

金曜日であったが、付近には車10台が並び、和歌山、滋賀の関西ナンバー、豊田、浜松の中部ナンバー、品川、所沢の関東ナンバーなどを見かけた。駅から徒歩25分。歩いて来たのは私一人。

 

2011.11.5 小田急小田原線鶴川~玉川学園前 60051 箱根湯本発特急「メトロはこね22号」北千住行き

この車両が乗り入れ予定の60000形MSE

連接車3

今回は福井鉄道である。福井鉄道は福井駅前の路面軌道しか見ておらず高速で走る姿がなく申し訳ない。

 

      1967.9.14 市役所前 急行福井行きモハ202-2+202-1

 当時は地方私鉄の雄のような存在で連接車の紹介では必ず顔を出していた。 1960年より日本車両で3編成つくられ現在も現役と聞く。後に両端台車はJR113系のものに交換されたり、冷房化により概観に変化が現れたが、この写真は新製時に近いものである。この車両に乗ったことがないので大きなことは言えないが、WN駆動、固定クロスシートの意欲的な急行用車両で綺麗な湘南スタイルの電車と私は思う。尚、この時はゼミ旅行で立山に行った帰りに福井に立ち寄ったもので、路面電車の撮影はその後も駅前で済ませて数だけ稼ぐというぐうたら撮影が多い。

 

      2011.9.6 市役所前 越前武生行き 772 

1987年に日本車両で4編成つくられ2005年まで名鉄岐阜市内線揖斐線直通に使われた車両。側窓は当初からの冷房車のため、固定式である。それにしても見事なカラーリングの車両である。ところで「大人の休日クラブ」を利用すると東京から出てきて福井で2時間ほど撮影してその日のうちに帰ることができる。それも安い料金で。時間的に大変便利で有難いがはるばる来た感じは失せる。

 

                 2011.9.6 公園口付近 越前武生行き「日通号?」 770

撮影中京浜東北色の車両が来た。同じく名鉄から譲渡されてきた770であるが、ごらんの通り、日通の広告電車。赤字経営では背に腹は替えられず広告も重要な収入源と思うが、何となくその会社の魂を売ったようで寂しい。最近は大手私鉄でもどんどん広告電車が走っており撮る方は興醒めである。

 

 

    2011.9.6 本田四ツ辻 福井駅前経由田原町行き886

 路面を歩いていて本田四ツ辻という停留所に来た。どうやらこの先が専用軌道といおうか高速鉄道線に入るようで写真はまさに今路面に入るところである。車両はこれも名鉄美濃町線で使われていたもので1980年日本車両で5編成つくられた。デジ青[17097]連接車2で紹介した名鉄時代のものと比べると福井カラーは実に爽やかである。

 この他に福井鉄道にはモハ160形という古い車両を2両組み合わせてつくった連接車が存在し、161-2が福井市下馬公園に、161-1が越前市旧南越線村岡駅跡に保存されていると聞く。現役時代を含めカメラに収められた方もおられよう。請発表。福井といえば阪急のK氏の故郷。最近、京都での懇親会で元気なお顔をデジ青で拝見させていただいたが、見てるかな。見てないやろな。

 

 

小田急消滅車両

新幹線100系、300系、日本海、十和田観光等今年の3月は消える車両、電鉄会社が多く、忙しい。1月5日付け日経新聞によると小田急電鉄でも3月17日のダイヤ改正で10000形Hiseと20000形RSEを引退させ、同時に1969年からの通常車両5000形も引退させるとのこと。JR東海の小田急乗り入れの取りやめと小田急の沼津乗り入れを御殿場まで短縮するという話は聞いていたが、小田急は今後乗り入れに何形を充当するのだろうか。デジ青巻頭写真で大活躍の893-2さんも8日兵庫県宝塚市から小田急撮影に来られたようです。私も関係写真をのっけてみました。

2011.11.6  JR御殿場線谷峨駅を通過する沼津発新宿行き「あさぎり4号」 20001

 

2011.2.10  相武台前~座間 箱根湯本行き「はこね25号」10051 ここは桜の季節は好撮影地となる。一部長野電鉄に譲渡され、撮影済みの方もおられよう。

 

2011.11.7 鶴川~玉川学園前 沼津発新宿行き「あさぎり2号」 JR東海371系

 

2010.2.20 伊勢原~鶴巻温泉 5255~8551 小田原発急行新宿行き 所謂小田急顔の最後。 昨年の東武顔8111に続きその会社を代表する顔が減っている。

連接車2

 年末の駆け込み投稿で賑わっております。大変結構なことですが、おかげで先日の連接車1もはるか彼方に追いやられてしまいました。私も駆け込みで連接車2を登場させます。前回は名古屋市電で終わりましたので今回は同じ名古屋の名鉄を採り上げました。

           1973.3.4 谷汲線更地2151+連接車401

           単車を改造して連接車にしたもの

 

          2005.3.6 美濃町線上芥見 岐阜行き880形 

          880形は美濃町線廃止後福井鉄道に譲渡 

 

          2005.3.6 美濃町線上芥見 関行き875+876 

          元札幌市A841+A842

連接車1

 米手作市様より出し惜しみすることなく発表するように言われた。西鉄と今回の名古屋市電の拙作をとりあえずのせることとする。尚、車両の解説は知識がないので割愛させていただく。

 

 1967.9.8 西鉄大牟田線銀水~東甘木 502ABC 福岡方面各駅停車

 

 1973.4.11 大牟田線宮の陣 501ABC 大牟田行き各駅停車

 

 1967.9.7 北九州線八幡駅前 3車体連接の1057ABC

 

 1967.9.7 北九州線八幡駅前 2車体連接の1037AB

 

 

 

 名古屋市電2写真は1968.11.8撮影 3006 2705 場所は高辻か沢上町

また地震体験!

 連日高尚な記事が続くデジタル元祖青信号に個人的な「すかたん旅行」を披露するのはいささか気が引けるがお許し願いたい。今年は3月11日の地震で大変な年であった。私も「地震体験」という題でデジ青に投稿した。横須賀田浦の梅林であの大地震に遭遇し、横浜まで20kmを歩いた話であったが、また、同じ様な体験をしたので馬鹿(あほ)な行動を報告する。

 朝、八王子から老春切符で塩尻経由で行くと12時48分に中津川に到着できる。今夏と同じルートで勝手を知ったコースである。今や貴重となった中央西線のEF641000重連が3本撮れる。13時13分始発の名古屋行きの快速まで広々としたホーム横の留置線の車両を撮影できるおまけつきで好都合である。その留置車両を1両、1両ゆっくりと撮影し終えてさぁー目的の列車に乗ろうとした時に何かざわざわとした音を感じた。最初は高速道路の車が隊列を組んで走行している音かなと思った。そのうちに架線がびゅんびゅんうなって一発ドカッと腹に響く様な揺れがきた。3月11日の長く続いた大揺れに比べて今回は一発だけであったがびっくりした。駅事務所に行くと倉本~釜戸間が線路点検で運休するという。点検により土砂崩れや架線切れを発見すると復旧に長時間がかかるとの説明があった。バスは1時間か2時間に1本くらい恵那まであるという。あとはタクシーであるが、貧乏旅行には使えない。今日の目的地はその釜戸で最近は名古屋近郊の手軽な撮影地としてよく紹介されている。釜戸は私の生誕地でもある。しかし、中津川~釜戸間は22.4kmある。線路に沿って歩いているうちに復旧するだろうと思い、どうせ歩くなら中仙道の宿場町見物をしようと歩き始めた。今日は豊中にホテルを予約してあるが、今日中に何とか着くだろうと心配であったが楽観的に考えた。途中バス停を見ると1時間に1本恵那まで行っていることが確認できたので美乃坂本から恵那まで360円で乗る。恵那からは瑞浪方向にバスがあることを期待したがない。恵那から武並にかけて峠があり、きつい坂を登ったのでD51時代は大変であったろうなと妙な感心をする。峠を越えたあたりで日没。釜戸手前では道を間違えて車の多い19号に出る。暗くて危ないので再び旧道に戻り、18時半頃に釜戸駅に到着。結局17.2km歩いたことになる。駅に着くや「ワイドビューしなの10号」が5時間遅れで通過。やっと復旧したのだ。そして名古屋行きは18時40分頃到着する。その後順調に走ったが最後の金山~名古屋間でまた30分かかってしまった。イライラしながら大阪には23時半に到着。23時48分発阪急宝塚行き最終急行にかろうじて間に合った。乙訓の老人様からよく「(お迎えが近いんやから)あまり無理すんなよ」といわれたことを思い出す。地震は13時1分の発生で震源地は恵那付近で震度4であったと人から聞いた。

11.12.14 中津川駅  右は乗る予定であった13時13分発快速名古屋行き2726Mクハ312ー404

 

翌日は福知山線生瀬~武田尾間6.4Kmの廃線跡探訪と草野~古市間での撮影をして京都七条の総本家さんの二人写真展をのぞいてきた。拙写併載する。

11.12.15     C54,C55,C57,C11等が走った廃線跡。懐中電灯忘れてえらい目にあう。トンネル内がカーブしており真暗闇でこわかった。右は武庫川渓谷。

11.12.15  草野~古市 2733M 丹波路快速篠山口行き223系

203系撮影奮闘記

 藤本哲男さんがデジタル元祖青信号に[14985]「カウントダウンとなった203系」9月23日を発表された。その衝撃的な題に煽られた訳ではないが、マト55(クハ203-5~クハ202-5)がお別れヘッドマーク(以下HMとする)付きで9月26日まで走るとのことでそいつをキャッチすることにした。私は203系に限らず絶滅が予想される車両は人がわんさと押しかける前に撮っておこうと日頃思っているが、お別れHMが付くとなるとそれはそれなりの記録となるので撮っておきたい気が起こり、今回も何度か挑戦することになった。今はいろいろな情報が簡単に入手できるので目的の車両が来るか来ないかはそう苦労しなくてもよいが、私は元来そういうことに無頓着でぶらっと出かけるのが常である。このため大勢撮影者が居る所に行って始めて何が来るか確認したことは何度もある。今回もまず9月17日(土)に松戸の陸橋に出かけてみた。陸橋の階段には既にそれらしき人が数人居て場所が占領された感があり、気の弱い私は橋の上から一人広角で狙う事にした。しかし、この日はHMなしのマト54の後追いで不完全燃焼に終わる。残暑厳しい日であった。次に22日(木)に再度同じ場所に行ってみた。今度は陸橋の階段から狙うため500ミリを持参した。市川から自転車で来た若者曰く「今日は203は来ませんよ!」。この言葉で悪い予感が当たる。そう言えば各駅のホームの端にはカメラ持った人が居なかった。今日は平日だから人が少ないのであろうと思っていたが、最近は平日でも居るので、それが居ないと言うことは来ないということである。折角の望遠レンズ持参なので特急列車や231系、531系、メトロ6000系等の撮影に切り替える。この日も暑さが身にしみる1日であった。その翌日23日は金曜日であるが祝日。今日は祝日なのでサービスで走るやろうと思い出発。各駅のホームの端にはそこそこ居る。金町でねばったが撮影者が徐々に減っていく。若者に今日来るのか聞いて見ても要領を得ない返事。諦めて飛鳥山の都電を撮ってとぼとぼ帰る。藤本さんはデジ青に追加の情報をコメントととして出してくれており、26日以降にも残る可能性を示唆されている。しかし、私の休みは来週は少ない。24日夜遅く「えい」とばかりに藤本さんにメールで聞いてみる。翌25日(日)は午前中は町内会の会館の清掃がある。近所付き合いは大切だが早めに切り上げて家に戻ると藤本さんから即返事の電話あり。「今日走る!」とのこと。目的のHM付きマト55の記録さえできればいいので一番近い代々木上原の到着、出発時間を聞く。常磐線が自分の庭である藤本さんは直ぐに正確な時間を教えてくれた。到着まで1時間しかないので現場に急ぐと大勢の人だかり。今日は間違いないと安心する。しかし、目的のマト55が到着する時に出発列車と重なってアウト。渋々次の入線に期待をかける。こちら側も大勢居たが罵声が飛び交う程でもなく無事に記録できた。ほっとして家路につく。藤本さんには今回大変御世話になりました。有り難うございます。今日の記録と丁度1年前に撮った203系をのっけます。

2011.9.25 代々木上原 JRクハ203-5、メトロ6011、小田急30053えのしま22号

2011.9.25 代々木上原 入線するマト55先頭クハ203-5我孫子行き

2010.9.22 北小金~南柏 マト51 我孫子行き後追いクハ202-1 

台車の話

 闘病中のTさんから懐かしく、また、楽しかったあの頃の台車の話が届きました。メールで1~2回やり取りをした後の文章です。本人ご了解のもとに原文を紹介します。

「阪急2800はミンデンドイツばかりだったので、2804ができるまでは、わざわざ1300急行のエコノミックトラックで帰宅したことがあります。京阪1900はシンドラKS70が大半ですが、アルストーム1906は最高。小田急のアルストームもよかった。名鉄も。阪急814のゲルリッツはダイナミック。阪急660のブリルは最高!そう、610は中型として、いい車両でしたね。山陽電鉄のOK型はズシンズシン。近車のシュリーレンも力作。ああ、いい時代だった。ありがとう。思い出したよ。」

 私見です。乗り心地と言う観点から見ますと台車の要素は大きいと思いますが、路盤・線路状態、電動車か付随車か、MT比率、ブレーキ方式・出力等車両性能、車両構造、乗客数、列車速度、運転の仕方等々様々な状況によっても微妙に違うのでしょうね。国鉄客車オハ61の乗り心地がいいと言う人がいますが、うなずける点もあると思います。技術的なことはよくわかりませんが、京阪の1900が京都市電と平面クロスする所でもスムーズな乗り心地を感じましたし、阪急京都線は路盤が悪く10メートルレールが存在したとも聞いておりますがスピード満点でそれが乗り心地の悪さをカバーした様な気がします。小田急は狭軌ですが、昔から路盤がよかったのか直線区間が多いのか、空気バネでない2400でも乗り心地は悪くなかったです。1960年代後半ですが、あの時代は昭和初期の吊り掛け車に混じって各社競って製作した高性能車が多く見られ、その台車にも空気バネ等試行錯誤のあとが見られ、見ていて興味をそそられました。Tさんはベッドの上で打ち込んで送信されたものと推察しますが、凄い記憶力と気力に感銘を受けました。

元京王電車2110

本日工場入りして検査終了。米手作市様より迷図作家関三平様のシリーズで京王電車2110型がとりあげられた。私が関東に住むようになった時には京王線は既に1500Vに昇圧しており、昇圧前の戦前製の車両はサハ化された車両と元2400型の221型くらいであった。今回とりあげられた2110型の特に後の「たこ坊主」と言われた戦災復旧車は庄内交通鶴岡で撮っている。雨宮製作所製京王電軌119→東急・京王デハ2119→庄内交通モハ7で、ご覧のとおりパンタを降ろした粗悪写真で恐縮であるが、どなたも写真投稿がなかったので敢えて掲載してみた。米手様ご期待の「たこ坊主」にしては平凡な復旧車に見える。京王には他にもっと凄いと言おうか屋根の深い不細工な復旧車が居た。

                 1972.03.21鶴岡 2枚とも

 

 

今年も炎天下の気まぐれ撮影

 大震災と放射線問題が続く中、今年は梅雨明けが早く、熱中症で倒れる人が昨年より多いとか。この先が思いやられます。老人が増えていることも原因があるのでしょう。私も65歳以上の高齢者でありますが家にじっとしていることができないので「さあー今年も夏が来た!」と言うことで散歩がてらどこか夏らしい風景でも撮りに行こうと考えた。「そうや写真展もあるしなー」と考えて超ローカルな小湊鉄道に出かけた。熱中症対策として水筒(今水筒と言う言葉使ってますかな?)に塩分と砂糖を用意。血圧が高めなので塩分は複雑な気持ちで持参。もう一つ注意すべきことは炎天下にあまり歩かないですむということで桜の時期に行った上総大久保駅に最初から決めておいた。この駅自身格好がいい。桜の時期は大勢の同業者さんで一杯になるが、さすがこの蒸し暑い時期は少ない。同業者さんは土曜日なのでこの先のいすみ鉄道に大糸線から来たキハ52を撮りに行っているのかもしれない。駅の先にある踏み切りの近くで休んでいると船橋から来たと言うご婦人(と言っても私より歳が上)から声をかけられた。三脚に一眼レフデジカメの本格派であるが、鉄道を撮っているのではないようだ。いろいろ最近の地震や洪水の話などをしたら、「自然がもうええ加減にせいと言っているのやないか」と言われた。同感である。

    2011.07.16 上総大久保 養老渓谷行き 206+201

 

次の養老渓谷行きで一人降りてきたが、その人の後をついていくと挨拶してくれた。言葉が関西系なので訊いてみると枚方の人で新幹線で今着いたということであった。立命館のOBであり同じ京都の学校ということで親近感を感じたが年代差が大きそうなのでそれ以上は会話を進めなかった。

    2011.07.16 上総大久保~月崎 五井行き201+206

 

 小湊鉄道は車両がキハ20タイプに統一されて面白みに欠けるが沿線風景は抜群である。この先紅葉の頃や冬枯れの頃にも行ってみたい所である。車内には沿線を走る列車写真が多数展示されており、小湊鉄道会社も作品を募集しているようである。中には非常に参考になる作品も多く見られ刺激を受けた。なお、上総大久保駅にはジュース等飲み物の自販機は一切なく、踏切から下って養老川の橋の手前にあるよろずやに行かないとない。

参考に今年の桜の時期に行った時に撮影したものも加えた。

      2011.04.10 上総大久保 養老渓谷行き210

 

     2011.4.10 上総大久保 上総中野行き203

年金たいくつ男の戯言

 今回の総会は雨にも負けず大盛況であった。新会長からは「学生時代の友人で今でも付き合いのあるのは1~2名だが、同好会のOBは別で、このような気の置けない仲間との交流は今後も続けていきたい」と、この様な趣旨のご挨拶があった。全く同感である。鉄道趣味は一人でもやっていけるし、また、そのようにやっている人も沢山おられると思うが、DRFC-OB会クローバー会に入って活動する方がより楽しいし、老後の人生に大変有意義であると感じているのは私だけではないと思う。今回は神奈川、千葉、静岡、愛知、富山、広島と遠方各地からも大勢参加され親しく歓談させていただいた。改めて当会の層の厚さを感じた次第である。東京から京都での会合は新幹線利用の日帰りで十分可能であるが、いつも日帰りでは勿体無く感じ、今回もその前後は好きな撮り鉄を楽しんだので報告させていただく。

2011.4.22 千代川~八木 5006M「きのさき6号」183-701と231M221系

 

総会前日は乙訓一派のK、F両氏と紀勢線からやってきた振り子電車の姿を求めて山陰線、福知山線を訪問した。昭和47年に廃線となった篠山線の線路跡を探しながら、篠山口到着の頃には豪雨となってしまった。幸いなことにK氏が車から撮影できるように気をつかってくれぐうたら撮影ができた。しかし、一向に雨の止む気配がないのでお孫さんの相手で多忙な乙訓の老人様をお呼びして中国料理による情報交換会を行った。私も当時の乙訓郡神足に凡そ2年住んでいたので準一派として参加させてもらった。

 

2011.4.23 梅小路蒸気機関車館のC612

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  総会当日は役員さんの粋なはからいで阪急6300系の「京とれいん」に乗車。嵯峨野のジオラマ見学(一部はトロッコ列車乗車)、梅小路蒸気機関車館見学を行った。梅小路は卒業以来始めての訪問である。当日の運転はハンサムボーイのC612で45年前の見にくい写真であるが併せてのせたみた。この日も終日雨で特に嵐山の渡月橋、丹波口駅→蒸気機関車館→京都タワーはまるで雨中の行軍であった。

2011.4.24 三田~道場 3006M 「こうのとり6号」183-705

 

総会終了時に若くて活動的なN・Nコンビから「明日中山寺7時に来いへんか」と声がかかる。えらい早い時間に何すんのやと躊躇したが、呼ばれるうちが華やなと思い行くことにした。目的はどうやら振り子電車の記録のようだ。総会翌日は雨こそ止んだが曇天で時折太陽が顔を出す程度。太陽がのぞいた時の183系を披露する。いずれにしても天気は今一であったが、楽しい総会および撮り鉄であった。皆さん御世話になり有り難うございました。報告が遅くなりお詫び申し上げます。

追伸:またも振り子電車と1965.9.3撮影の一ノ関~有壁のC612の144レの説明のところがうまくいかず見苦しくてこれまたお詫び致します。

併走、競走、激走!

 東京では7日に大きな余震があったが、昨日、今日とまた余震が頻発しており、落ち着かない日が続いている。加えて福島原発の見通しが立たず、最悪の状態である。放射能の影響度がよくわからず、何を食ったり飲んだりしたらいいのか、夏場の電力不足は大丈夫なのか、毎日心配の連続である。こんな時はパーと表題のような内容を報告してみたい。

①京王、小田急の永山から新宿寄りに二つのトンネルがある。その二つのトンネルの間が京王、小田急両社の電車が併走してくるのを俯瞰撮影できる場所で、その名も「電車見橋」と言う。散歩がてらに時々行ってみるが、なかなか難しい。トンネルから両車が並んでくれば「よっしゃー」で、気合が入るが、先頭車の顔に架線柱が邪魔しないようにするのが大変で、結局、デジカメを乱写して運に任せるしかない。

09.12.10 永山~若葉台・はるひ野 小田急1000新百合ヶ丘行き、京王8000若葉台行き

②有名撮影地浜名湖鉄橋で117系を撮影中、突然、新幹線が並んだ。これも「よっしゃー」の気合。「併走」ではあるが、「競走」にならず、「激走」とでもしたい。残暑厳しく熱中症に注意した。

10.9.1新居町~弁天島 300系「ひかり513号」新大阪行き、945M豊橋行き116-26

③列車本数が多い所では併走をキャッチするのはそれ程難しくはない。この写真は後追いのため、もう一つ面白くない。JR西の東海道、近鉄、京阪、東武、小田急等同一方向に2列車がピタリと並んでくるのは面白い。どなたか発表願いたい。

10.5.25 東神奈川~横浜 東京行きE231系、快速八王子行き205系

 ④併走の極め付け阪急十三。私鉄王国の一端をうかがわせるシーンで、他国人はこれを見てうなる。ここも毎回同時刻に梅田を出発するので1時間も居れば、一つくらいはましなのが撮れる。

10.8.14 京都行き特急9401、宝塚行き急行5145、新開地行き特急8103

 ⑤看板特急の併走を狙った。平日なので難波10時発を狙うしかない。ところが、この日は「こうや3号」はもたついて出遅れる。「ラピート29号」鉄仮面が新今宮に到着する頃、「こうや3号」は未だ隣の今宮戎を通過中。このホームは非常に狭くて危険で撮り難く、その上、105ミリレンズでは苦しくて手前の電線をカットできなかった失敗作。

10.10.1 新今宮 「ラピート」50706、「新こうや」30004

 ⑥王子駅近接の高層ビル北トピアからの撮影でここも鉄道を見る名所となっている。新幹線と在来線が並んで走るので飽きないが、ここも特に新幹線の顔に架線柱がかからないようにしたい。「併走」と言うよりも「乱走」である。

10.9.11 「Maxやまびこ116号」+「つばさ116号」、「とき331号」

 ⑦この撮影の2日後に乙訓の老人、逗子の旦那とこの蒲田駅を1往復半する。何でも目的は以前撮り損なった7000系を捕獲するとのことであった。蒲田駅を池上線と多摩川線が毎回同時に出発するので、成功確率は高い。しかし、阪急十三の様な充実感はない。

11.4.6 蒲田 池上線1023、多摩川線7910

地震体験

 地元京都を始め関西在住のDRFC-OB先輩の皆様から早速地震に関するお見舞いの言葉を頂戴しております。有り難うございます。関東在住者は今の所、皆さん無事のようですが、この先しばらくは不便な生活を強いられることと思います。

 さて、地震のあった11日は朝から好天に恵まれたので、逗子のTさんの案内で横須賀市田浦の梅林を見に出かけた。ここは下を京浜急行が走っており、それを俯瞰撮影できる場所である。メモを見ると縦位置の写真はその場を去る前の14時32分に撮影したもの。京急の誇る2扉クロスシートの快速特急である。この撮影の後、JR田浦駅に向ってしばらく歩いている時に、Tさんが「あー地震や!揺れている!揺れている!」の声に始めて地震の発生に気づいた。この時は長いこと続くことと揺れがおさまらないので、もっと大きくなると危ないと恐怖感を感じた。電柱が倒れたり、民家の屋根瓦等が落ちてきたらこれを避けないといけない。年配の女性はしゃがみこんでいる。道路横の駐車場の車も揺れている。随分長い時間揺れを感じたが、ようやくおさまってきたころ、自宅の近い、それでも後で聞いたら6kmもあるTさんと別れた。この先はどうなっているかわからないが、横浜まで歩こうと考えた。昨年5月に小田原~三島の東海道旧道箱根八里を歩いたことがあるからその2/3くらいなら何とかなると思い、歩き続けた。横浜を選んだのは夜に動き出した時に相鉄、東急、京急、JRの選択肢が増えるからである。また、明日は勤務があるから早く帰りたいと言う気持ちがそうさせたのかもしれない。国道16号線は車が大渋滞で歩いた方が早いくらいである。金沢八景手前では横位置の写真のブルーの606-1の試運転車が金沢文庫から折り返して来たのか地震で停車中で技術員が乗っているのが見える。金沢八景付近は停電で年配の駅員さんは津波の心配があるので横浜市大へ避難の誘導をすると言うが、一向に誘導しないので食料品確保に商店街に向かう。1軒営業していた弁当屋は私の前で商品は終わり。仕方なくほかの店で100円ケーキ4個買う。携帯電話は通じないが、公衆電話はかかる。家では「ホテルに泊まって来い」と言う。徐々に暗くなってきて、一時雪が舞ってきた。横浜市営地下鉄の吉野町駅に寄って見るが、鉄道は全部アウトとのこと。しかし、22時頃には京王線は走ったようであるが、ここは神奈川県の情報。関内で夜明かしするレストランを探す。「ガスト」は15人待ちで営業は2時までなので24H営業の「わたみん家」で朝までねばることにする。大きな余震が続くのが気味が悪い。4時過ぎに店内に居た若者の情報で相鉄、小田急、京王が走り始めたということがわかり、これなら何とかなる目処はついたので、4時半に店を出た。横浜まで再び歩く。横浜ではJRは動いていないが、東横線と京急が動いたことがわかり、インストラクターにはとりあえず京急で川崎に向うように勧めて別れる。横浜5時半の東横線各停で渋谷に出て、井の頭、京王で家に戻る。シャワーを浴びてお色直しして出勤。

2011.03.11 京急田浦~安針塚 2117ほか快速特急三崎口行き

2011.03.11京急田浦~安針塚606-1を後部とする上り試運転電車

 さて、連日凄い惨事がテレビ放映されているが、特に津波の恐ろしさは想像を絶する。それに、福島の原発事故。こんなにもろいものなのか、どうすることも出来ないのか。これは予想もしない出来事で大迷惑。

 私事で恐縮であるが、震災を受けた東北の人から見れば小さいことであるが、不便なことと心配ごとは

①計画停電の影響で鉄道の運行が不安定なため、早めに起きて出勤せざるを得ない。入場規制も経験した。

②ガソリンが底をついてきたが、営業中のスタンドは長蛇の列。

③米、カップ麺、餅類等を中心に食料品不足。

④乾電池や湯たんぽなどがない。

⑤経験したことがない余震が今日も続いている。もうあれ以上のものは絶対来ないか。

⑥原発は30km外は本当に大丈夫か、風向き等によって影響は無いのか。

いろいろ心配してもしようがないが、店舗の営業時間も不安定で、店内照明は間引きて暗い。しかし、節電行為は致し方ないし、協力せざるを得ない。今日は南大沢の駅前で助け合い義援金に少しであるが協力。そんなことしか出来ない。アメリカは日本のこの様な非常時に略奪が無いことに驚いて感心しているが、この日本の秩序はいい伝統としていきたい。

山陽電鉄道路併用軌道追加

 豚か猪かそういう類の動物はおだてられると木に登ると聞いたことがありますが、TSURUKAME先輩からお前の撮ったのも投稿せいと言われ、恥ずかしながらコメントで書いた住友生命をバックにした、人がうろついている古い写真を掲載します。何れも1966年7月27日の撮影で電鉄兵庫駅付近と思われます。

1966.07.27 822急行

 3両目は更新車、所謂偽新車と思われますが、よくわかりません。

 

1966.07.27 後270の各駅停車

画面が見づらくて恐縮です。右に女子高生、左に神戸のお兄さんと買い物のおばあさんが写っています。路面電車の風景ですね。

 

1966.07.27 3002急行

右の建物が住友生命。因みに今でも保険は住友生命に入っております。この頃、山陽の3000系は南海の6001系、7001系と同じようなシールドビーム2個のライトでそれが離れている豚鼻。関係者や好きな人が居たら申し訳ありませんが、好きになれませんでした。しかし、アルミ合金の電車は数少なく、高級な車両に見えました。

毎度の弁解になりますが、フィルム保存が悪く、スキャン等の技術力が無いので恥ずかしい写真で、申し訳ありません。米手作市さんがおっしゃられるようにこの時は全くのついでの写真で、感激はありませんでしたが、後にその車両や風景がえらい貴重になることもあるようです。国鉄で言えば103、113系、キハ58系等は撮る対象ではなく、単なる移動車両でした。それが、なくなる頃になると新製時からの度重なる改造等で変化に富み、昔の旧型国電を追っかける気分になっていることに気づきます。さらに今、反省していることは車両以外に駅舎や人物や車等ももっと入れておけばよかったと言うことです。デジカメ時代なのでコンデジを含めて乱写しておくのも後々撮っといてよかったと言うことになると思います。失礼しました。

厳寒の中国蒸機撮影速報

 最近、海外の蒸機ファンに脚光を浴びている新彊ウイグル自治区三道嶺の運炭鉄道を訪問したので報告する。今回は中国通第一人者のぶんしゅう旅日記さんに引っ張られる形で現地入りした。途中から小生の友人2名も加わり、賑やかで楽しい撮影となった。ここは撫順と同様に露天掘りがあり、そのスケールの大きい眺めは誠に素晴らしく、さらに遠くには天山山脈も横たわり、久々に爽快な撮影ができた。その一部を紹介するが、詳細は2月28日朝、氷点下17度のウルムチのホテルで別れ、49時間の連続夜行(但し日本の一等寝台に当たる軟臥車)で成都へ向ったぶんしゅう旅日記さんにお願いする。

2011.02.25 久し振りに見た晴天快走の蒸機走行風景 83682011.02.25 天山山脈をバックに8314

2011.02.26 露天掘りを登る姿 ここでもバックに薄っすらと天山山脈が見える

2011.02.26 建設型8314のサイドビュー

 

                       2011.02.26 夕陽の築堤を行く

 

半世紀前の淡路交通(4)

1965年4月28日~29日にDRFC恒例の新入会員歓迎旅行が四国・淡路方面で開催された。入会して始めての行事参加であり、緊張しながら京都21時35分発645レ宇野行き夜行に乗った。当時は国鉄大型蒸機に夢中になっており、何でC58と気動車王国の四国や田舎電車の淡路に行くのか多少不満であった。しかし、今になってみるとよくここを選んでくれたと感謝したい。前回の淡路交通(3)でカラー写真を掲載されている大阪通信員さんと同じ写真があるので、おそらく通信員さんが選び、新入会員を引っ張っていってくれたものと思う。宇野から宇高連絡船で高松に渡り、高松5時25分発125レで阿波池田に向った。DRFCは日頃から行いのいい人ばかりで終日雨。池田の駅前大衆食堂で朝食後、8時47分発324レで徳島に向う。徳島で8620を撮ったりしているが、それから先は鳴門に出て船で福良に着いたはずだが、記憶が無い。淡路交通ではFさんが列車交換する毎に対向する車両を撮っていたが、雨の中を周囲を気にせず「窓を開けてくれ」と言うのを軽蔑の眼差しで見ていたことを覚えている。宇山車庫では数枚撮影したのみであるが、一部掲載させていただく。宇山の後も21時頃に神戸に着いたがその間全く記憶にない。その後、島の電車は再訪してでも記録しておけばと悔やんでいるが、あれもこれもできないのでせめて見た、撮ったでもいいとしよう。

1965.4.29 宇山 台車に群がるDRFC参加メンバー

今は第一線から引退されている方もおられるが、今尚毎回飲み会に顔を出される方も見える。

 

1965.4.29 宇山 2007

ご説明によるとキハニ6→モハニ2007(1948.9)ということですか。台車が電車タイプではないので元キハニは何となくわかりますが。

 

1965.4.29 宇山 元阪神609+610

乙訓の老人さんが2度撮られた阪神電車。同じ車両を譲渡先等他の場所で再び撮るのは感激ものですね。ところでこの車両が阪神で活躍していた頃のダイナマイト打線は別当、藤村、土井垣で真っ黒なユニホームを着た時代もあったと思います。古い話で恐縮です。

ちょっと気になっていた電車

 能勢電に「日生エクスプレス」と言う阪急梅田直通の特急がある。趣味誌の阪急特集では必ずその姿が紹介され、一度は記録したいと思いながら今日に至っていた。今回、小学校の同窓会参加を理由にその撮影機会ができたので、古い写真と併せて報告する。

 能勢電は妙見山参詣を目的に設立され、先ごろ100周年を迎えた変貌著しい鉄道である。北摂を走る参宮電車(参宮は特に伊勢参りに使われる言葉であるが)のような存在で、始発駅川西能勢口を出た所と鶯の森~鼓ケ滝の猪名川橋梁には京阪電車顔負けの大カーブが存在した。 また、1960年代後半には多田グリーンハイツの開発に進出した西武グループの株買占めがあり、阪急が防衛したとの話も聞く。

2010.9.30 平野~一の鳥居 特急「日生エクスプレス」梅田行き8106

生憎の雨であった。十三のホテルを出てとりあえず山下まで行ってみる。通勤客が傘をさして並んでいる所に割り込んで撮るのも気が引けるので平野に戻り、一の鳥居寄りの山間ムードの残る踏み切りで撮影。それにしても昔の田舎電車風景は完全に消え失せていた。日本の鉄道で最も激変したのがこの能勢電であると思う。

 

2010.10.1 豊中 梅田行き特急「日生エクスプレス」 8041

 翌日は阪急宝塚線豊中駅で撮影。人間永いことやっていると雨の日も晴れの日も交替と言おうか平等にやってくる。雨でもくさらないこと。雨上がりの好天に恵まれ、連続してやってくる阪急ご自慢の電車の中で赤いマークの特急「日生エクスプレス」は一際際立って見えた。尚、余談であるが、以前阪急宝塚線には特急が走っていた。今は、急行が宝塚側終点部分が各駅停車となる以前の運行形態であり、、スピード制限が多いことも相俟って関東の相模鉄道に似た感じがしないでもない。

 

1965.10.29 平野 29

 新京阪P-4、P-5がポールを振りかざして走行し、鋼体化された単行の車両も居た頃で、妙見山を始め沿線の行楽地も賑わったであろう時代である。小生も小学校時代にこの電車に乗り、猪名川渓谷一庫(ひとくら)温泉でキャンプをしたり、秋の遠足で多田神社に行ったことがる。端正なスタイルの木造車であったP-4、P-5一族も翌年訪問した時はパンタ化されていたが、その後、阪急の小型車投入により間もなく消滅していった。なお、当時のメモに詳細な記録がなく、フィルムネガの前後から撮影した場所は平野駅と推察した。因みにこの頃の交換駅は絹延橋(車庫があった)、鶯の森、多田、畦野、山下で他に平野~一の鳥居に塩川信号所、笹部~妙見に隊道東口信号所があった。平野は妙見に向かって右側にホームがある行き違い不能の駅で写真からそう推察した。

 

1983.11 山下 日生線323+320

 320型は阪急小型車のうち最後まで原型に近い姿を保っていた。日生線と言うニュータウン開発に伴ってできた新線内専用に活躍する320型最後の頃の姿である。よく見ると後の320のパンタグラフは撤去されている。能勢電入線当初は500型と同じくステップをはずしていたが、阪急2100系改め能勢1500系入線とともに再びステップをつけたものと思われる。宝塚線急行の先頭に立っていた頃がこの電車の絶頂期である。

 

1983.11 笹部~光風台 妙見口行き610

 500型のモーター、台車等を利用して車体新製した車両で小型車ながら整ったスタイルで人気が高かった。最初の車両は800型と同じ様に非貫通スタイルでこれは人により好き嫌いがあった。

 

1983.11 笹部~光風台 川西能勢口行き1501

 元阪急2100系。能勢電の昇圧は1995年3月であり、この時期はまだ600Vで、この車両は600V車両として新製後昇圧→降圧→昇圧を経験して今日に至っている。この頃の能勢電はまだ単線ではあるが大型車両が入り始め、田舎電車から準大手並みに脱皮する過度期にあった。写真ではわかり難いが、山の上には戸建て住宅が見える。

 激変した能勢電車であるが、まだまだ探せば自然をバックに撮れるかもしれないと淡い期待を持ちつつ又、来年の紅葉の頃に再訪したいと考えている。

教えて下さい!

 ネコ・パブリッシング発行の雑誌「国鉄時代23」-2010年11月号108頁、久保敏さんの常磐線1957~1960年準急「ときわ」・C62「はつかり」の時代で次のような写真説明があります。

 「水戸駅で給水するC6220。当時の拠点駅の典型的な情景で給水塔、荷物運搬用のテルハ、貨物ホームが見える。1959.9.22(原文のまま)」

 この荷物運搬用のテルハとはどういうものなのか、知っている方がおられましたら、教えて下さい。写真を見てもよくわかりません。なお、この雑誌は大きな書店では今月20日頃までは店頭にあります。宜しくお願いします。

1966年房総夏

 「房総1周は始めてで、今日は乗り鉄に徹しますわ」。9月3日、内房線の車内での総本家元祖青信号特派員さんの言葉。撮り鉄の総本家さんは学生時代全国機関区巡りを行い、201番まであるC57を番号別に6割以上押さえたが、千葉方面が漏れたとのこと。一部に廃車も出ていた時期であるが、6割とは見事なもの。 話が進み、「あの頃は特に四国と千葉の人気が無かったのはディーゼル王国であり、蒸機好きには敬遠されたのではないか」と言うのが二人の結論であった。

 1966年7月24日、人気の無かった千葉が賑わっていた。関東の海水浴は小田急の江ノ島、京浜急行の三浦海岸が有名であるが、国鉄の房総西線(現内房線)も全国各地から応援の車両を増結した臨時列車で賑わっており、史上最低と言われたキハ17系の急行やC57、C58が長編成の客車「かもめ」号を牽引し、そこそこ面白い時間過ごすことができる時期があった。電化して72系などが進出する前のことである。

1966.07.24 房総西線竹岡 143レ C5777[新小岩]

143レは千葉発安房鴨川行き143Dを輸送力の大きい客車に列車に置き換えたものと思われる。1両目の客車は3軸のマユニ7827とメモにある。

 

1966.07.24  房総西線竹岡~浜金谷 9133レ 「かもめ」2号千葉発館山行き C578[新小岩]

C578は九州から転属したカマ。

「かもめ」2号の後部客車テイルマーク。 山陽特急の「かもめ」に少し似ている。

1966.07.24 房総西線竹岡~浜金谷 9119D両国発急行「汐風」5号千倉行き

オールキハ17系7連は最低ではあるが、編成美はお見事と言いたい。

 賑わいの一端を紹介したが、メモを見ると144Dの先頭水タイとか118D「内房」4号に四カマ、117D「内房」4号に長ナノあり等の記録があり、じっくり編成を調べればさぞ面白かったことであろうと思う。車社会がこれからと言う時期で千葉鉄道管理局も各地から応援車をかき集めてしのいだことと思われる。

2010.09.03久留里線東清川 926D キハ30100

 さて、ディーゼル王国であった千葉管内の現在は第3セクター化された旧木原線(現いすみ鉄道)を除きJR未電化は久留里線のみになってしまった。久留里線には未だキハ30が残っている。撮影はお早い目に。