炎天下国鉄電機撮影

 酷暑が続き、65歳以上の高齢者は水と塩分の充分な補給をするように連日報道されている。最近は日射病と言う言葉はあまり使われなくなったが、寝ていても彼の世行きの可能性があるという。小生も紛れもなく高齢者となったが、青い空に白い雲がわいてくると猛暑でも鉄分補給に出かけたくなる。最近、常磐線に行ってきたばかりの1900生さんにわざわざED75の運行ダイヤをつくってもらい、また、見事なデジ青巻頭写真でお馴染みの893-2さんにEF64の撮影場所を教えてもらい、それらを参考にして消えそうな国鉄電機を撮影してきたので披露したい。

①常磐線ED75 

8月25日常磐線の木戸駅で下車、竜田方向に歩き、夕方やってくるED75を待つ。最近の天気予報では山沿いは午後雷雨の可能性があるとよく言われているが、海沿い(福島県では浜どおりと言う)のこのあたりも夕方曇ってきて今一の天気であった。こういう時は一発流し撮りで勝負に出てみた。しかし、ゴルフのバンカーショットと同じで一発でうまくはいかない。結局、ご覧のとおりの乱写状態。撮影後、近くのラーメン店で味噌ラーメンにニンニクたっぷり入れたがこれは最高。お目当てはラーメン店の氷水を何杯も飲んで生き返る。ここは再挑戦の予定。

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②中央西線EF64重連他

 翌26日は坂下駅下車。落合川方向に2~3Km歩く。ここは有名撮影地なのであろう、平日にもかかわらず、お目当ての重連の来る時間には3人同業者が現れる。893-2さんご愛用の公会堂無料(?)駐車場には京都ナンバー、群馬ナンバーが並ぶ。この日は昨日の福島と逆に夕方よく晴れてきた。スイスかオーストリアの風景にも似た感じがしないでもない。ローカル313系の写真がそれである。坂下の次から木曽路に入るが、これがまた、スイスの氷河急行路線のブリーク~ツェルマットに似ているようにも思われる。そういえば、車内には馬籠宿に行くスイスの学生が居た。

+EF6434[愛]”]

2010.08.26 JR中央西線坂下~落合川 313系 1859M

                                       

厳冬決死の蒸機撮影

 猛暑お見舞い申し上げます。梅雨明け後の連続酷暑で、日頃お元気な皆様もバテ気味のことと思います。こういう時は極寒の写真でもご覧下さい。1996年暮れ、某私鉄系大手旅行会社主催で中国東北部(旧満州)の蒸気機関車撮影の団体旅行に参加した時のことである。この旅行では2回えらい目に遭った。1回目は北京到着後ホテルで両替中に若い女性の窃盗グループに買ったばかりのペンタックス67とTCトラベラーズチェックを盗まれたこと。ホテル側に盗難証明を書かせ、TCは盗難対策用の金券であり、保険にも入っていたので被害は少なかったが、最初はショックであった。このため、撮影機材は補助として持参したキャノンEOS55である。2回目は掲載写真の撮影当日がこの地区でも20数年ぶりの大雪で氷点下20度を下回り、チャーターバスの異常低温による運行不能で遭難しかかったことである。この日は元日で、非常に寒い日であった。撮影の合間には凍傷にやられないように線路に近い民家に入れてもらったくらいである。貧しい家であったが、元日(1997年1月1日)と言うことか餃子をつくってくれた。線路際でずっと撮影した若い仲間には凍傷にやられた者も出た。そして夕刻牡丹江のホテルに向かうバスが発車して30分もしないうちに故障。外は真っ暗で車内は後で聞いたら、氷点下10度であったとのこと。やばい、本当にここで満州の露と消えるかと思った。生き証人の一人に鉄道ピクトリアルに時々顔を出す山陽電鉄乗務員のY氏も居る。さて、厳冬極寒の写真は牡丹江の東約50kmくらいの所にある大観嶺(正式な地名は定かでない)と言う勾配区間での撮影である。

蜜山7:57発98車次ハルビン東行き22:00到着前進型重連

この列車は時刻表でみると98車次特快で、勾配の複線区間ではあるが、昔のニセコのC62重連を思い出す。但し、C62重連は全長42mに対して前進型は58mある。

猛吹雪で視界悪い中を登ってくる前進型重連の貨物

貨物の前補機や旅客列車の一部には東風4型ディーゼル機が入っていたが、やはり、形は不細工でも大型蒸機はいい。

 この旅行は死が予想される異常低温と猛吹雪で冷え切ったバスの中でこれは本当に死ぬかと思った。たまらず1時間に数台しか通らない車のヒッチハイクを考える。中国人ガイドは「中国の車は停まってくれない」と言ったが、そんなことを言っておれず、人民解放軍のジープを停める。運転台に運転手を入れて5人乗り込み夜中の2時頃にホテルに着く。救援バスも30分遅れて到着。翌日はナロー蒸機は諦める。最終日の北京空港も雪で中国国際機は9時出発が18時まで待たされた。この旅行では旅行会社が一人2万円の見舞金を出した。ハルビンの勝利橋で滑って骨折した北九州の友人はそのまま成田の病院へ入院した。

電車は1両もええ 続編

 今回は国鉄・JR編である。本来ならこのあたりは小生の出る幕ではないが、長谷寺撮影でふともらされた電車少年さんの言葉から続編までに至った。学生時代は京都~西明石間各停やゲテモノの宝庫阪和線、片町線など旧型国電には恵まれた環境にあった。ところが、DRFC名物阪急・京阪戦に巻き込まれて私鉄に手を出し、その頃蒸機も無くなりつつあったので、結局、国電は殆んど撮っておらず、ましてや単行はない。

 旧型国電単行で最も有名であった宇部線の支線で活躍したクモハ42は遠すぎて行かず、鶴見線支線大川線のクモハ12はいつでも行けると思って撮影をのがす始末。どなたか、補足してもらいたいが、例によって拙写をのっける。

 

 唯一撮った旧型国電単行クモハ40071

 これは、当時の国鉄中央線支線で国分寺から北府中を通り、東京競馬場との間を往復していたクモハ40001。

1973.03.17 北府中~東京競馬場前 競馬場行きクモハ40071西ムコ

 

 JR四国7000

 学生当時、四国はディーゼル王国で私鉄を除いて電車など走るとは夢にも思わなかった。しかし、本線を単行が走ると何となく寂しい。

1998.05.03 予讃本線川之江~箕浦 伊予西条発観音寺行き1124M

 

 JR東海飯田線と身延線

 線名を聞くとかつての旧型国電の活躍舞台であり、各自思い出多き路線であるが、時代が変わって豊川~豊橋の区間電車は味気ない単行電車になっていた。身延線西富士宮~富士間の区間用は引退して今は見られない。

2005.04.09 下地~小酒井 クモハ119-5104 海カキ 438M

2007.02.25 入山瀬~竪堀 クモハ123ー602 静シス 西富士宮発富士行き

 

 JR東日本クモハ123-1

 中央線の塩尻~辰野間で今尚活躍する荷電改造車。1枚は有名撮影地で、かつてのD51の活躍舞台。言い訳になるが、夕方の塩尻発で写りが悪いので駅で撮影をもう1枚。

2007.09.16 塩尻~小野 165M 辰野行き クモハ123-1 長モト

2009.03.15 辰野 156M折り返し159M 雲は123-1 クモニ143を改造

 

 ビックリする様な意外性のある写真は皆無であるが、まだ、JRには単行電車があるはずである。どなたか発表して下され。尚、慣れない作業で飯田線の「小坂井」が「小酒井」に、最後の辰野駅の電車の「クモハ」が「雲は」と間違っており、訂正の仕方がわからずお許し願いたい。

電車は1両もええ

 片側支持の木の電柱、細いレール、木製枕木に多少の雑草、そこへ現れるは木造、少なくとも半鋼の吊り掛け車。車内照明は白熱灯。この様な風景も最近はとんと見られなくなってしまった。

 以前、デジタル青信号[6696]で「電車は4両がええ」と拙文をのせた時、ローカルムードには1両(単行)が似合う様なことを書いた。

 今回は路面電車と構内運転車や荷電を除く民鉄単行電車を並べてみた。特に単行を狙って撮影に行ったことはなく、たまたま単行が停まって居た、走って居たものにカメラを向けたのが実情である。

  最初に撮影した走行写真は多分、能勢電軌あたりである。鼓滝の急カーブ付近の猪名川橋梁や山間風景など大阪の近くにこのような場所が昭和40年代に入っても尚残っており、元新京阪10形や阪急木造車の再製車がポールをふりかざして走る地は今思えば手軽な撮影天国であった。

1965.10.29能勢電軌多田付近を行く51 木柱と薄っぺらい道床の田舎電車であった

 

 大手私鉄にも支線を中心に結構単行電車があったものと思われる。東西の単行電車で阪神は有名な喫茶店電車。昭和11年製のこの電車も8ヶ月後に廃車となっている。京王1715は井の頭線からの転属車で昭和21年汽車製。

1965.03.29 阪神電鉄武庫川線武庫川852 上を走る本線も最後の旧型車が見られた

1972.06.01京王帝都電鉄競馬場線東府中を出発する元井の頭線の1715 昭和21年汽車製

 

 地方へ行けば多くの単行電車が見られた。

1974.01.20京福電鉄東古市 豪雪の中を行く三国芦原16 日車製北陸タイプ 

1972.08.24 一畑電鉄出雲大社前 縁結びの神様の後は定番撮影地 デハニ50

 

廃止寸前のローカル私鉄

新潟県で最後まで残った蒲原鉄道、新潟交通の単行電車

1999.03.21 蒲原鉄道71 元西武の車両

1999.03.21 雨の新潟交通月潟付近を行く11 改造名義の車両で月潟に保存

 

前後して庄内、上田、日立、銚子等でも撮影したが、岳南、上毛を選んでみた。

1997.03.30岳南鉄道神谷~須津を行く7001 元京王中間車デハ3102の両運化

2009.10.18上毛電鉄デハ101 デジ青巻頭写真でお馴染みの893-2氏と撮影

 

米手作市様ご推奨の単行電車

これですね。「京阪1000や満鉄ジテ、はたまたEF55のような格好で元東急の電車を両運にした気色悪いの居ったな」と言われた電車。

2007.10.28 北熊本5102A 元東急デハ5000を両運化 上熊本線で運行中

 単行電車は今でも未だ見られる。近江鉄道は東海道本線や新幹線の車窓から単行電車がちらっと見られた。皆様方で叡電と嵐電を除き、ここに行けば見られると言う会社や路線を紹介していただければ幸いである。

撮り鉄雑感

先日、東西の老友と撮影に出かけた。k氏とは湖西線志賀へ、Y氏、T氏とは高尾へ出かけた。大変楽しかったが、それぞれ、①好天に恵まれ、②同業者に会わず、③何より気心の知れた老友が同行したことで健康的なカメラハイキングができた。下のは「人がいないとやっぱしええわ」と思った写真。撮影の名所志賀~蓬莱間を行く117系で我々二人以外誰もおらず、のんびりと撮影ができた。

2010.4.24 JR湖西線志賀~蓬莱 2842M京都発近江舞子行き117系6連

最近、撮り鉄のマナーがマスコミに取り上げられ、撮影に行くと何となく肩身の狭い気がしてうっとうしい。特にJRの有名列車の廃止、車両の廃止による最終運行、イベント列車の運行等で混乱が予想されるものについては極力行かないようにしている。鉄道写真は楽しくないといけないので罵声が飛ぶようなところは、それだけで気分が悪くなる。しかし、どうしても記録したい場合も出てくるので、その場合は、東京や上野のようなパニックステーションをやめて、他の駅のホームの中間で撮るなどやや盲点的な場所を探す。ホームの端や列車を前がちに撮ろうとすると写角が限定され、どうしても定員がオーバーするので問題が起き易い。老若男女、カメラの良し悪しなど全く関係なく、先に来ている人が優先なのは最低限のマナー。前で撮る時は先に来ている後の人に邪魔にならないか必ず訊く様にしている。しかし、どうしてもいい場所は限定されるので大型脚立を駆使して高い所から狙ったり、人と人との間から撮ったり、はたまた、股の下から覗き込んだり大変である。実際、後に人が居ると落ち着かないものである。そんなことまでする必要があるのかと思う。しかし、適当な数の同業者なら情報をもらったり、共通の話題で盛り上がったりすることもあり悪いことではない。声をかけると嫌がる人もいるし、こちらも声をかけられたくない時もあるので、このあたりはタイミングとか読みと言おうかなにがしの判断が必要である。話が合ったり、仲が良くなり易いのは「共通」と言うことがキーワードのような気がする。すなわち、時代が同じ、地域が同じ、学校が同じと言うことは話が纏まり易い様である。線路際でEF64全機撮った人に、その昔のEF13の話をしても興味がないし、嫌がられる。小生は古い人間なので昭和30年前後が好きであるが、さらに古い明治や大正の鉄道にはもう一つ興味がない。海外の鉄道など行かない人にはなかなか興味がわかないはずだ。関東人と関西人が合わないのもよくわかる。自慢話ばかりでは嫌われるし、人の話に耳を傾けることも必要である。脱線したが、なくなりそうな車両は早い目に撮っておくと言おうか普段から撮っておけば大慌てしなくてもよい。その意味では平日動けるのは有難い。前述のパニックステーションやホームの端はやめて、横一列の撮影は比較的無難であるし、隣の人とも声をかけ易い。そんな例が次の写真。

2009.12.12 IR東海道新幹線三島~新富士の超定番スポット

プロを目差すならいざ知らず、鉄道写真は楽しく行きたい。撮影条件が日々悪くなっており、それだけに無理せずに自分なりに好きな場所をあちこちに用意しておき、なるべく普段着の鉄道を撮るようにしたいものだ。

調兵山再訪とパシナ

 4月8日から4日間、1年半振りに旧満州(中国東北部)の遼寧省瀋陽、撫順、調兵山、大連を訪問したので簡単に報告する。

 

<撫順炭鉱の電車は絶望的>

 前回訪問時は運よくジテが現れたが、今回はジテどころか2枚窓の通常見られる電車でさえ、朝出て夕方戻る1往復のみ。露天掘りの中をのぞくと運炭列車がまだ見られたが、市内電車は絶望的で、以前、ぶんしゅう氏が決死の撮影をされた留置線への立ち入りは中国人ガイドが飛び込みで交渉したが断られる。このガイド氏は中国人鉄ちゃんでノート型パソコンに収めた作品を自慢げに見せてくれる。彼が言うには運炭列車は撫順駅国鉄線に向かう列車が集約する東崗駅付近がかなりの本数を稼げる場所とのこと。実際彼の言う通り頻繁にやってきた。

2010.04.08 車庫駅に留置中の本日運行の電車

2008.04.08 車崗駅の電気機関車1522

 

<減っていた鉄媒集団の蒸機>

 調兵山は瀋陽から北へ車で約2時間の所にある。上遊型蒸機は1771のみ稼動。翌日、機務段(機関区)では1770が検査中で、午後から稼動したので2両を見たのみである。また、以前イベント等で稼動していた1943年アメリカのリマ社製KD6-487は香港の映画に出演するとかで動かすことはできないが、蒸気をあげた状態でいた。翌9日は朝から雪化粧で久し振りに蒸機牽引客車列車撮影を楽しんだ。調兵山近郊は炭鉱地帯でボタ山があり、複線もあり、線路配置が複雑であることは、かつての九州筑豊地方を思い出させてくれる。

2010.04.09 7:20 雪の複線区間三家子~調兵山を行く301列車大青行き

2010.04.09 暁南~橋南を行く203列車調兵山発暁南行き 

2010.04.09 15:15 三井~暁南 ボタ山をバックに築堤を登る105レ大明行き

2010.04.09 大青機務段 アメリカ製KD6-487 煙が上がっているが動かない

2010.04.10 調兵山 上遊型1771 10日朝快晴となり、形式写真撮影

 

<哀れなパシナを見る>

 大連では日本製の市電は健在である。低床式の欧州スタイル新型車よりずっと数多く見られた。今回はその写真は割愛する。さて、最後の11日は満鉄(南満州鉄道株式会社)大連の扇形庫に残るアジア号牽引機パシナ757を見学した。庫から顔を出した状態で、ほこりだらけで運転室はゴミだめのような感じ。2メートルの大動輪もグリスが固まってしまっており、全体撮影は到底無理。かつてアカシアの大連から奉天(瀋陽)、新京(長春)と満州の平原を表定速度82.5Km/h、最高速度130Km/hで駆け抜けた機関車にしては寂しいものを感じた。アジア号は後にハルビンまで延長された。黒龍江省出身のガイド氏によるとパシナはここの他に瀋陽と黒龍江省の黒河と言う所に残っているとのこと。瀋陽のパシナは98年に瀋陽郊外の蘇家屯の陳列館で撮影したことがあるのがそれで、屋外のため、風雨にさらされてこれも惨めな状態であったが、全体が見えるので参考にのせてみた。

2010.04.11 大連 パシナ757はこのような姿で保存されていた

1998.07.01 瀋陽郊外蘇家屯機関車陳列館 パシナ751

 <最後に>

 満鉄と言えば星名秦先生を思い出す。京都帝国大学を卒業後、満鉄の技術者となる。戦後、同志社大学工学部教授となり、学長になられた。星名先生が有名なのは京大時代から卓越したラグビーの選手であり、指導者であったことである。同志社に来られてからは同志社ラグビーを育てられ、岡仁詩元監督は教え子であった。関東の早慶明を相手に三連覇したのはもう遠い昔のことである。最近の同志社ラグビーの体たらくは岡仁詩先生とともに嘆いておられることと思う。その星名先生は小生の記憶では、同志社大学鉄道同好会の顧問か相談役になられていた。当時の青信号の会員名簿の最初にお名前を拝見したような記憶がある。このあたりの事情をDRFC生みの親(本人はそうでないと否定されるが)であり、、育ての親である元電車少年さんにご教示いただければ幸いである。

電車は4両がええ

 中国旅日記であんなことあるのかと怖くなり、また、日々デジカメとパソコンで悩んでいる超アナログ人間が今日は失礼して割り込まさせてもらいます。

 近鉄大阪線長谷寺~榛原と言えば超有名な撮影場所。もうかれこれ5年くらい前のことであるが、近鉄特急の著者、総本家青信号特派員、新京阪沿線在住の元電車少年各氏と行った時のことである。元電車がふともらした言葉。「あんなー、電車ちゅうもんやなー、4両くらいが丁度ええんや」

 この含蓄のある言葉。小生なりに4両ならMT半々が多く、パンタの位置も対称的で横から撮るにはいいのかなとか考えてみた。しかし、待てよ。ローカルムードは単行がいいし、長編成の方が堂々としてカッコいいとも思う。これは人それぞれのような気がする。

 そして、やはり、各人それぞれが通勤通学などで毎日乗ったり、眺めたり、つまり、最も接触度の高い電車が好みとなるのではないか。それが、4両の特急であったり、10両の急行であったりするのであろう。撮影地などで鉄道少年に好みを訊くと殆んどが、JRのブルートレイン、特急電車と自分の住む近くの私鉄をあげる。多分、好みの電車は地域と時代が影響するのであろうと言うのが小生なりの結論である。勿論、そうでないという人も居られることは承知している。 

 ところで、京都の趣味の世界の大御所高橋弘さんの「関西の鉄道、その懐かしき時代」と言う交友社発行の写真集がある。お持ちの方も多いと思うが、この本は昭和20年代後半から昭和30年代のまさしく4両編成全盛期と言っても過言ではない時代の作品集である。戦前の古豪と各社競って発表した初期の高性能車が競演したこの時代は趣味的にも最も面白い時代であったような気がする。元電車少年の「電車は4両くらいがええ」と言うのはこの地域のこの時代を言われており、もっと言うなら、最近の暖かみの無い人間運搬車と化したステンレス長編成電車に対してうんざりされての発言ではないかと言う気もする。断っておくが、元電車少年はベースは地元関西であると思うが、日本全国くまなく行脚され、路面電車に至ってはドイツを制覇されたことを申し上げておく。

 小生はそのような諸先輩から10年遅れて趣味の世界に入った。最初は蒸機で出発したが、DRFCの会員となった時、授業をサボって連日行われた伝統(?)の京阪・阪急論戦に巻き込まれ、次第に大手私鉄にも趣味の対象が拡がっていった。しかし、私鉄撮影を始めた頃には戦前の古豪はローカル運用中心で、初期の高性能車も阪神3011系や京阪1800系のように3ドア化されたり、ロングシート化されたりして原型を留めていなかった。それでも凡そ40年前の記録なのでフィルムに古傷の多い毎度の拙作ではあるが、数点披露したい。

①阪急900、920(1967.6.6 宝塚南口~宝塚武庫川橋梁 宝塚行き)

4両と言えば、阪急神戸線の900、920の特急を思い出す。赤い円形には白地で大きく特急、その両側に大阪、神戸と書かれていた。猛スピードで阪神間を往復していたが、気づいた時の920系は6~7連の各停運用。後年、今津線で写した4連に特急時代を重ね合わせた。

 

②阪急1000~1003(1969.3.4今津線仁川~甲東園 宝塚行き)

 阪急初の高性能車。戦前の阪急スタイル920を踏襲して製造された戦後製の710、810の直ぐ後にデビュー。そのスタイルは大きく変化して次の時代の阪急スタイルとなった。そのスムーズな加速と静かな音は小学生には驚きで、2連で今津線に入線した時はわざわざ折り返して来るのを待って乗った思い出がある。

 

③阪急107・1529・105・1525(1969.1.30西向日町~長岡天神 天神橋行き)

 関西3名車の一つP6が幌枠付きで4連で特急、急行で走る姿が最高。その姿には間に合わなかったが、それでも学生時代は各停3連と急行6連が結構見られた。撮影メモを見ると1968年頃から京都本線の各停には4連が登場していた。この独特の風貌を持つP6の最盛期は戦前の新京阪時代の2連あたりであったのかもしれないが、晩年の6~7連の線路が傷むほどの走行ぶりも魅力的であった。この電車に乗りたくて下宿を京都郊外に構えたほどである。

 

④近鉄2205・3011・2233・2304(1968.9.9赤目口 上本町行き急行)

 近鉄特急の著者から、学生時代に当時旧2200で2ドアの原型が2両残っていることを教えられ、時々、大阪線、名古屋線を覗いて見た。急行は5~6連が主体であったが、4連も見られ、2ドアの片目スタイルが先頭で来た時はやったと思った。

 

⑤近鉄908(1968.4.20東生駒 上本町行き特急)

 大型化された奈良線で無料の通勤タイプの特急が4または6連で走っていた。中には白色も残っていた。ネガを見ると800等小型高性能車も写っている。昨年、兵庫県で近鉄車両を撮ったので、今度は奈良県で阪神電車を撮りたい。

 

⑥南海2017・2818・2024・サハ4801(1969.3新今宮 難波行き特急)

 南海2000も大出力の古豪電車。客車を牽く姿であるが、新宮発の客車は和服のおばさんの影になってしまった。これも4連電車である。

 

⑦京阪1804~1805(八幡町~淀 淀屋橋行き急行)

 京阪の初期の高性能車。後に続く1810系とは車長が1メートルほど短いことは最近知った。この時期はまだ、特急色で2ドアの姿であったが、ロングシート化され、主に急行運用に入っていた。当時のネガを見ると他の急行も5~6連が多く、4連の急行はこの時期にはなかったのではないかと思われる。

⑧小田急1159~1059(2009.10.4富水 箱根湯本行き)

 最近デジカメで撮った4連のうち二つ披露する。箱根登山カラーと言おうか、スイスカラーと言おうか、新松田~湯本間に毎日見られるもの。

⑨富士急1101~1205(2009.9.13 寿~三つ峠 大月行き)

 元京王5000の2連+2連の4連。最近、富士急では客寄せでレトロカラーなどを復活させており、その都度、訪問せざるを得なくなった。

 以上4連を中心にした古いネガを出してみた。 ご笑覧下され。

C59乱写の頃

 機関車の好みは人それぞれである。小生は東海道線の蒸機時代に毎年名古屋の従兄弟を訪問していた関係からかC59が最も好みであった。特に戦後製のC59は大きな船底型テンダーと相俟って21.575mの国鉄蒸機最長のスレンダーなスタイルは当時、非常にかっこいいと思った。多分、C59を推す人が多いと思い、同好会OBで数々の名作を発表されている先輩にうかがったところ、意外にも好きなのはD52の戦時設計スタイルでその次はD50と言われた。また、内燃車両で右に出る者はいない先輩はコッペルと言われ、唖然とする。このような中で電車には目が無い先輩はC59、特に戦後製の長いのがええと言われた時は内心ほっとした。世間ではC57の貴婦人が定着しているが、経歴から言ってもC59と思う。軸重の重さ故に他線転用がきかず、早期に引退した美人薄命のC59はC57が貴婦人などと騒がれる頃にはこの世から消えていた。さて、そのC59を意識して撮った最初は電化が進んだ岡山で、1961年7月の瀬戸内海臨海学校の帰りであった。小郡行き牽引のC59164で現在も梅小路に保存されている呉線C59最後の残党3両のうちの1両である。よく趣味誌上でも見られるのでここでは割愛して、今回は、その後、必死に乱写したものを披露したい。乱写と言っても今のデジタルのようなものではなく、フィルムが勿体なく感じる時代で、それでもできるだけ多くの番号を稼ごうと機関区巡りや幹線の線路際で来る列車来る列車全部を何でも撮影したと言う意味である。

①1963年3月、始めての宿泊を伴う撮影で九州を選んだ。途中、朝の下関で降りて連続して到着する九州行きの優等列車牽引のC62、C59を撮影。元祖青信号特派員氏がデジ青に掲載された下関駅の思い出にコメントさせていただいたが、下関の午前中の優等客車列車の最後は同駅南側の架線の無い所に到着した寝台専用急行301レ「音戸」であった。

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②関門トンネルを抜けて、折尾でC59109[鳥栖]を撮影後、筑豊本線C51281[若松]牽引の列車で原田に向かう。乗り継いだキハ55の準急「くまがわ」は上熊本で特急「みずほ」8レと交換。C59唯一の門鉄デフC59124は旧型客車を従えて夕陽を背に大きな汽笛を残して東京に向かって行った。

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③翌日、熊本機関区を訪問。扇形庫も無く、狭苦しく窮屈で大型機の撮影には不向きであった。

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④1964年4月には山陰線C51、木次線C56、山口線D60を求めて機関区巡りを行う。その後、再度九州入り。鳥栖は鹿児島本線、長崎本線が分岐するのでここで両線の大型蒸機を狙う。この日、下り「みずほ」は事故でもあったのか、相当遅れてC59129がバック運転で通過。上りは夕刻C59のトップナンバーが旧型客車4両牽引して到着。目の前で停まってしまった。煙が真上にゆっくりと上がっていることで停車していることがわかる。それでもヘッドマーク付きの1番である。この機関車は後年、小倉工場で撮影したことがある。

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⑤鳥栖から夜行列車で当時の撮影名所大畠で下車。連続する九州行き優等列車を撮る。道路は舗装されておらず、左には大島が見える。列車は332レ小郡発広島行きでC59190が牽引。架線が邪魔で非常に残念に思っていた。この年の夏に己斐(現西広島)付近で撮影のため、夜を明かした時は電蒸運転が始まり、特急は一部EF60500+C62であった。80系電車も試運転していた。

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⑥東北本線でもC59は昭和30年代に福島や白河あたりにいたが、最終的には90、176の2両が仙台に残っていた。写真は塩釜の築堤を行く176号機牽引の128レ一ノ関発宇都宮行き。東北独特のシールドビームの補助灯とデフレクター下部の点検用切り取り等により原型スタイルは崩れているが、戦後製の長いテンダーや全体のスマートさは充分感じられると思う。最近このあたりを通ったが、開発されて家が立ち並びこのような風景は過去のものとなってしまった。

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⑦C59は173両製造され、ラストナンバーは196である。途中、133~155の23両は製造されず、欠番である。さて、そのラストナンバー196は下関で撮影したが、その後直ぐに糸崎に転属。これはあまりにも有名になった急行「安芸」を牽引して広島を出発する姿。

1965.4.4 山陽本線広島を出発する呉線経由東京行き寝台専用24レ急行「安芸」 C59196[糸崎]

韓国1971年その5(総括)

 韓国1971年その5は総括と言うよりはこれまでの積み残し分です。まず、コダックのネガカラーで撮った慶州の入れ替え中のディーゼル機関車とミカ3蒸機、そして客車です。保存状態が悪い上に次に続く白黒も含め、パソコンの操作技量も低く、見辛くて申し訳ありません。

1971.4.23 慶州

1971.4.23慶州

1971.4.23慶州 1971.4.23慶州

 

1971.4.26 ソウル近郊 客車

ソウル近郊で見た客車。窓の形が何となく京阪の貴賓車16に似ている。

1971.4.26旧ソウル駅舎

 ソウル駅舎と当時の市民。1925年完成で東京駅に似た赤レンガ建物は新ソウル駅完成の2003年まで使われていたとか。

1971.4.25南山

 南山に保存されたソウル市電。

1971.4.26 水原

 鉄道近代化PRボード。日本の鶴見川付近を行く20系ブルートレイン。

1971.4.24 東大邱

 1971年4月には韓国大統領選挙が行われた。画面が小さくて恐縮ですが、一番右が再選を果たした朴正熙氏。その隣りが、先日死去し、23日に国葬が行われた金大中氏。初挑戦で惜敗とのこと。その後の拉致事件、死刑判決、南北首脳会談、ノーベル平和賞受賞は最近の新聞等でご存知のとおり。当時、選挙ポスターは白黒であった。

韓国1971年その4

 ソウルの南約40km、世界遺産の町水原。今は地下鉄も開通してソウルのベッドタウンと化したが、当時でも列車に乗ると簡単に行けた。4月26日、同行の友人と別れて一人やってきた。今回、紹介するナロー762ミリゲージの存在は勿論知らなかったが、小生の1週間後の5月2日にここをグループで訪れた訪問記が鉄道ピクトリアル1971年9月号No255に掲載されているのでお持ちの方は参考にされたし。このナロー鉄道は水原を拠点に西は南仁川まで52km、東は驪州まで73.4kmあり、西側は7往復、東側は5往復の列車が運行されていた。形式はヒョーキと称しており、ハングル字のナンバープレートでも判読できるが、何故ヒョーキと称したのかご存知の方が居られたらご教示願いたい。なお、蒸気機関車のヒョーキ11形は汽車会社蒸気機関車製造史昭和47年交友社発行によると1D1形テンダ機関車を、昭和12年に7両(Nos.900~906)、昭和19年に2両(Nos.910~911)を朝鮮鉄道株式会社に製造納入したとあり、それらの一部を撮影したものと思われる。なお、本機の設計は高田隆雄氏の処女作との記述あり。他の車両も日本製が多いと思われるが、研究不足でこれまた、ご教示いただければ幸いです。

ヒョーキ11-7 番号7だけの表示である

ヒョーキ11-7牽引混合列車の出発

ヒョーキ11-8

ヒョーキ11-14 戦時設計のドームと2軸テンダ特徴

休車中のヒョーキ8-28タンクロコ

庫内のヒョーキ1

客車18016

客車内 板張りシーと裸電球 凡その大きさがわかる

韓国1971年その3

 慶州、東大邱に続き今回は水原、ソウルの鉄道風景を紹介したい。水原はナローゲージの鉄道が見られたが、これは次回としたい。数年前に水原まで乗り鉄したが、通勤電車が走っており、風景の激変に驚く。この1971年はまだ、夜12時以降は外出禁止令が出されていた。日本では東京都知事は美濃部さんの時代であり、韓国の年配の方は、それを非難し、反共色が強かった。水原駅前には韓国鉄道近代化のあるべき姿のひとつであろうか日本のブルートレインがPRボードに見られた。韓国は客車列車が多く、台湾などと同じようにアメリカGE製のディーゼル機関車がブンブンと大きな音をたてて走っていた。客車の一部には25メートルくらいある米軍が持ち込んだと言われるダブルルーフの客車も結構見られた。

1971.4.26 水原 ディーゼル機関車に牽引される客車列車

 

1971.4.26 水原出発 釜山行き観光号

1971.4.26 水原 日本のキハ20タイプの気動車

1971.4.26 水原 機関車の直ぐ後ろに見える大型ダブルルーフ客車は米軍の持込

1971.4.26 ソウル駅北側 戦前の鮮鉄特急「あかつき」は釜山~京城(ソウル)であったが、急行「ひかり」「のぞみ」はさらに満鉄方面へ、急行「大陸」、「興亜」は北京に向かっていた。

 

 

 

復活予定C6120撮影失敗記

 ロギング太郎氏からボイラーを焼いてしまったD51498と交代でC6120が復活するとの報に接し、早速、同機の保存場所である伊勢崎市華蔵寺公園を訪問した。同機現役時代の撮影失敗記録と伊勢崎で保存中の姿を報告する。C61はご存知D51のボイラーを使って新製した旅客用機関車でD52のボイラーを使って新製したC62と考え方は同じと思われる。従台車が2軸のハドソンで自動給炭装置を持っている点も共通。東海道、山陽の特急牽引で華々しい活躍のC62に対して、C61は東北が主体で一部九州での活躍は特急も牽引したとは言え、やや影が薄かったことは否めない。しかし、人によって好みは異なる。特にC61のサイドビューは限界一杯のC62に比べバランスがよくスマートに見える。C6120はD511094のボイラーで1949年三菱重工製で、丁度総本家青信号特派員氏と同世代。同機を最初にキャッチしたのは1965年9月1日、現在廃線となった浅虫海岸で一ノ関発531列車牽引の姿。所属は仙台区。編成主体で機関車が小さくて何号機かよくわからないので割愛。この日の午後青森機関区に立ち寄ると同機が休息中であったが、光線具合が悪く、影が出来て、前半分のみ。青森から夜行で花巻に出て釜石に向かい、D50を撮影。宮古でラサ工業C108に乗り撮り。盛岡宿泊後9月3日盛岡始発の臨時急行「ひめかみ」に一ノ関まで乗車。この時の牽引機がC6120。言い訳ばかりになるが、この時のフィルムは湿気等でひどいもの。しかし、古い昔なので敢えて掲載する。一ノ関で下車して機関区と峠の撮影に向かうが、この列車、7分停車なので走れば発車のシーンに間に合うと思い懸命に走る。汽笛が鳴り、適当な所で妥協せざるを得ない。お見苦しい出発シーンであるが、鉄橋の工作物で足回りが見えず、おまけに電信柱ばっちり。同機はその後、宮崎に転属した。1972年4月30日、佐土原にて再度、旅客列車牽引の姿をばっちり撮影。ところが、何と馬鹿なことをしてしまった。そのフィルムで野上の元阪神車を撮影して二重写しの大失敗。この時、同行したロギング太郎氏、千葉県在住のボイラーK氏は撮れているはず。最後に、静態保存車には興味が無かったが、そいつの現役時代と対比すると面白いなと感じるようになってきたので今後はそれをやるつもり。元大洋、巨人の屋敷要氏も保存機を撮り歩いているようだ。最後に伊勢崎市華蔵寺公園の同機はヘッドライトが不細工であるが、保存状態は良好に見えた。最近脚光を浴びているブルートレインの「北陸」「あけぼの」の撮影後に訪問したが、この公園は9時開園なので早朝到着は要注意。イベント列車は嫌いだが、この機関車のサイドビューの流し撮りはやってみたい。

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1965.9.1 青森機関区に休むC6120[仙台]

 

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2009.4.13 伊勢崎市華蔵寺公園に保存中のC6120 ライトがみっともない

2009.6.13 後方から見たC6120区名札は「宮」の表示 復活できそうな姿

韓国1971年その2

アンニョンハセヨ チョヌン準特急ラゴハムニダ

 前回、慶州の蒸機ミカサ他を発信しましてしばらく経ちました。多少痴呆が始まっており、前回は1970年4月で報告しましたが、正式には1971年4月22日から26日までの訪韓でした。謹んでお詫び申し上げます。さて、今回は4月23日慶州からバスで東大邱に出てソウルに向かった時の駅等の様子を載せました。

1971.4.23 慶州駅構内で入れ替えをするミカサ120

1971.4.23 ミカサ120 ナンバープレートはハングルでミカ3と読める

1971.4.23 大邱は韓国の大都市のひとつだが、東大邱は何も無く、駅だけが新しかった。ミカサのテンダーには石炭らしきものは見られず重油炊きなのでしょうか。

1071.4.24 東大邱駅の釜山行き特急 駅舎は新しいが賑わいが無かった

1971.4.24 同列車出発 後部客車

1970年韓国

 米手作市様昨年9月の中国韓国旅行のレポートで旧満鉄ジテなどを報告した時最終日の韓国どうなっているのかと言われ、その日は曇天でろくな写真撮れなかったですが、漢江の特急と今回1970年に行ったときの韓国の古い写真のっけます。

漢江をわたる韓国ご自慢の特急2008.9.24

慶州駅ミカサ1970.4.22

水原ナロー混合列車1970.4.24

 

最新! 中国東北部・韓国駆け足紀行

毎回、DRFC-OBの力作、歴史的遺跡調査研究、掘り出し物、最近のニュース、クイズ等々を拝見させていただいています早川昭文です。パソコン音痴で、米手作市氏、元祖青信号特派員氏並びに小西Jr氏にご教示を賜わりながら、苦手はどうしようもなく、ここに再度元祖青信号特派員氏に助けていただきました。内容は9月20~24日の中国東北部(旧満州)と韓国ソウルに駆け足撮影旅行した時の一部です。
写真1 2008.09.22 調兵山蒸機
中国特派員氏に刺激を受けて瀋陽郊外調兵山の上遊型蒸機を見に行った。ガイドしてくれたのはこの間まで立命に語学留学していた謝さんという若い女性。これは朝の風景だが久しぶりに煙のある活気に満ちた駅に懐かしさを感じた。
写真2 2008.09.22 王千蒸機
これは王千駅に停車中の上遊型蒸機1772号で、この後、2~3分運転をさせてもらった。動いていたのは3両で一部ディーゼル機関車牽引の列車もあった。
写真3 2008.09.23 ジテ
撫順炭鉱砿務局駅に到着した旧満鉄ジテ。最近は殆ど稼動していないと言う事で車庫にでも見に行こうとしていたら幸運にもやって来た。
京阪の複々線を行く流線型1000型を思い出す。この1本前に来た電車は綺麗に塗装され、車内にはテーブルが置かれ、花やご馳走が並んでいたが、大勢の幹部がこの駅で乗り込んだ。公安か職員か忘れたが撮影するなと言われた。

写真4 ハルビン路電
今回、大連では有名な日本製の路面電車を撮影。 他に長春にもあると聞くが今回は素通りして、10年前の厳冬期に訪問したハルビンの松花江を見に行った。この時ガイドにハルビンの昔の路面電車の話をしたら、路上に保存してあると言う。行ってみると結構往来の激しい路上に鎮座しており、この様な保存もあるのかと感心した。
ハルビンでは流線型の単車などが有名であったが、これは本当にハルビンを走っていたのか、何処で製造されたのか、定かではない。