富士山と鉄道(静岡編)

6月22日富士山は世界文化遺産に登録された。諦めていた三保の松原も認められ、諸外国の登録委員に完璧に支持されたのでまずはめでたし、めでたしである。今後はその文化遺産の維持の大変さが予想されるので登録抹消にならないようにしなければならない。

私は富士山を始めて見た時のことを覚えている。修学旅行中、梅雨空であったが箱根の芦ノ湖で雪を抱いた山容が雲間に現れた時にワーと歓声があがりしばらく興奮の眼で眺めていた思い出がある。今でも新幹線の窓からその秀麗な姿を見るとお客が写真に撮ったりしているのでやはり他の山とは違った魅力があるのだと思う。世界的に見れば3776mというのはそれほど高くはないが、コニーデ式(円錐)火山であり、その堂々とした独立峰が印象的で世界的にも素晴らしい山といえる。富士山は「登る山でなく、見る山だ」という人もいる。私は1970年8月に登山をしたが、9合目を越えて御来光を仰ぐ段階で高山病にやられた。引き返す訳にはいかないので頂上まで登り噴火口だけ見てさーと降りたが、高山病というのは当然下へ降りれば降りるほど回復するものであることを実感した。冒頭に静岡側、山梨側、飛行機から見た富士山を3枚を並べてみた。

2012.3.29身延線沼久保付近の早春の富士山↓

s-12.3.29富士沼久保

2010.11.10 秋深まる頃の富士山 右に見えるのは山中湖↓

s-10 11 10富士山中湖

2007.5.28 北京行きの飛行機から見た富士山 余談であるが翌日チベットのラサに向かったがここの標高は富士山に近い3600mで多少の高山病にかかった↓

s-07.05.28

さて、本題の富士山と鉄道であるが、まず終日順光で眺められる静岡県側を紹介したい。紹介なんて偉そうなことをいっても天下の富士山なのでほとんどの場所が有名撮影地であることをお許し願いたい。例によって古い写真が登場するが、毎度の劣悪な保存状態のフィルムのため見苦しい点も併せてお許し願いたい。

富士~吉原間は趣味の世界の大御所高松吉太郎さんの「富士とシゴイチ」や「岳麓を行く(C53の特急列車)」、戦後のつばめ・はと時代の西野保行さん、久保敏さん等の名作を生んだ場所である。今は横から撮れる場所はないのではないか。最初は湘南電車クハ86で正面の形状や窓の形から初期の車と思われる。8時30分頃の通過でありこの日は各列車遅れていたので321M名古屋行きと思われるが臨時列車かもしれない。1967.12.16吉原~富士↓

s-67.12.16吉原86

この頃の被写体は電機はEF58、EF60、EF65、EH10、電車は80系、113系(110系?)、153系で客車列車も結構あった。当時の望遠の主力135ミリで挑戦してみたが画面一杯となった。下り臨時列車牽引EF5873。この臨時列車は創価学会かどうかわからないがこの時代、創価学会の団臨は各地で見られた。この日もお膝元の身延線には80系、165系の団臨が入線していた。1967.12.16吉原~富士EF5873下り団体臨時列車↓

s-67.12.16吉原EF5873

身延線入山瀬~竪堀も当時の有名撮影地。今は高架化されたり複線化されて富士山は変わらないが撮影に工夫が必要である。1967.12.16身延線入山瀬~竪堀626M甲府発富士行き先頭クモハユニ44-800↓s-67.12.16竪堀14

昼を過ぎると富士山は霞んでくることが多い。それでも雲が出てきて顔が隠れるよりましである。竪堀駅にはED17が入線していた。英国生まれのこの機関車はこの数年前に中央線で撮影したことがある。ホームにいる高校生は今は64~5歳のお爺ちゃんになっている。私はそれよりもっとお爺ちゃんである。1967.12.16竪堀駅上り貨物ED176↓

s-67.12.16竪堀ED176

身延線は西富士宮から大きくカーブして沼久保に向かうあたりが有名撮影地である。沼久保駅もホームから富士山が綺麗に眺められる。私は沼久保駅の前後を歩き回り場所探しで苦労したのがこの写真。2012.3.29 沼久保~西富士宮3532G身延発富士行き313系

s-12.3.29沼久保3552G

御殿場線は元の東海道線線であった影響か、当時の甲線用超大型機D52が客貨に使われていた。前照灯のシールドビームが気にいらず、まともに撮影したのはこの1日くらいである。日中1往復の旅客列車を求めて足柄、御殿場で降りたが、そのどちらも下り坂の位置で絶気状態の撮影となり失敗である。おまけに雲が出てわやであった。シールドビームも大した問題ではないので富士山と蒸機はうまく撮っておきたかったがもうあとの祭りである。1966.2.28富士岡付近927列車国府津発沼津行きD52403↓

s-66.2.28富士岡927レD52403

これも御殿場線の有名撮影地で御殿場駅から30分ほど足柄よりに戻った地点。JR371系もあさぎり運用をやめ、小田急が短縮された新宿~御殿場間に60000系で細々と運行している。世界文化遺産で増発されるのであろうか。2012.1.13御殿場~足柄 沼津発4Mあさぎり4号新宿行き20001~20301↓

s-12 01 13御殿OER

定番中の定番撮影地でよく時刻表の表紙などにも使われる場所。人気者の500系が東京~博多間の「のぞみ」で最後の活躍をしていた頃の姿。この日もやや黒い雲が出てヒヤヒヤしたが、何とか格好がついた。2009.12.12新富士~三島のぞみ29号↓

s-9.12.12三島29Aのぞみ500系

東海道を歩いているがこの日は薩堙峠に挑む前に伊豆箱根鉄道の大場に寄ってみた。桜と富士山を入れたかったが桜は咲いていたが入れるのが難しかった。この日、西武カラーの電車が来た。2012.4.9 大場付近 修善寺行き元西武701系1009+1010+2005↓s-12.4.9大場

静岡側にはブルトレ撮影で有名であったJR函南~三島、沼津付近、由比~興津、富士川橋梁等々富士山をからめた場所はまだまだある。忘れてならないのは岳南鉄道であるが、藤本哲男さんがジャトコ前の富士山バックの作品([33657]2013年5月10日)を発表されているのでそちらを参照していただきたい。

 

 

富士山と鉄道(静岡編)」への4件のフィードバック

  1. 富士山を意識して見たのは1957年4月のことである。3度目にして初めてというのは1952年初めての東上は往復ともに夜行、2度目は同志社中学修学旅行で、またしても往復共に夜行のため裾野から仰ぎ見ることなし。ところが修学旅行では富士で下車、貸切バスで白糸の滝へ、この頃から曇り空となり川口湖畔で宿泊するも英姿見られず。翌日またもやバスで江の島経由鎌倉へ。雨がしとしと……。翌日またもやバスで羽田空港。晴れていたけど誰も「富士山!」と叫ぶ者なし。この夜は本郷の旅館。最終日は各自行き先を申告して自由行動。老人は河合モデル、交通博物館を一人で廻り、17時に八重洲口の集合点に向かった。快晴であったが、都内から富士山が見えるとは知らなかった。

    そして同志社大学入学式前に1週間、東京の電車見物に行った。武蔵境駅近くの遠類が宿泊先となったのだが、お世話になった先の主人(同志社・経済卒)が「忠順君、ここから富士山が見えるよ」と教えてくれた。それから都内のあちこちで意識するようになった。新宿の京王プラザホテルで泊まった時、翌朝楽しみにしていたが曇りでアウト! 池袋の60階建のホテルが出来たとき
    は家族で東京見物していたが、夕ごはんは池袋に行こうと、泊まりも食事もしない、いやゲル貧で出来ないホテルに向かい、エレベーター順番待ち30分で、展望階から夕焼けの富士山を見た。

    都内でみられることが分かってからは意識しているが、姿が美しいのは断然【裏富士】だ。旦那に連れられ小海線を知り、その仲間の一人が天野君だ。彼は富士山をどのように評価していたか、尋ねたことはない。

  2. 乙訓の老人様
    思い出話有難うございます。多分老人さんの修学旅行は客車列車の夜行であったと思います。私も「きぼう号」の155系専用電車でしたが、往復とも夜行でした。裏富士の方が山容が綺麗であるのは事実と思います。表(静岡側)は右の方に宝永年間の爆発の跡が残り山崩れは否めませんね。当会の「小海線を愛する会」とか称してC56と八ヶ岳山麓の風景にご執着であった皆様の残された記録写真には小海線から見た富士山があったように記憶しております。あれはどのあたりでしょうか。以前テレビですが、遠くは三重県と福島県からも見ることができるとの放映がありました。東京は冬場晴れた日ならいつも眺めることができます。

  3. 1952年は松本で北アルプスを見て、アプトを夜行で経験し上野着であった。大岡山の親類で2泊、富士山の事は話題にならなかった。7年前、芦ノ湖畔の元貴族・岩崎家の別荘(小田急所有)であったホテルに泊まり、目覚めたら目前に富士山の頂上部分だけ見えて、肝を冷やした事がある。やはり裾野がないと様にならない。

  4. 乙訓の老人様
    私の修学旅行は行きが朝の出発て熱海に夕刻に着き、強羅で泊まっています。昼間3人掛けの車内で撮った写真が残っています。その後箱根や江ノ島、鎌倉の大仏、羽田空港を見て本郷の旅館で泊まっています。東大の近くには旅館が多かったと聞いております。翌日は新宿御苑や勝どき橋を見て雨の中夜行の修学旅行専用電車で帰りました。従いまして往復とも夜行は間違いでした。訂正してお詫び申し上げます。最近、国会議事堂の近くの国会図書館に行くことがありますが、議事堂を見る度に修学旅行で予定されていた国会議事堂が安保闘争で見学中止になったことを思い出します。今の安部総理のお爺さんが首相で東大生の樺美智子さんが闘争で亡くなったその時期のことです。

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