保存蒸機とその現役時代(13)

保存蒸機との再会はどちらかというと入場料を払って入る博物館のような専門の展示場所よりも小学校の校庭とか、田舎の駅前とか、公園の片隅のような所の方が好きだ。こんな所に保存されていたのかとその対面の場所に一喜一憂することがある。勿論、雨ざらしやいたずらで荒廃した機関車は見るに堪えないし、鳥かごやおりに入っているのも窮屈な感じで気の毒である。さて、小樽総合博物館であるが、ここは北海道最初の鉄道発祥の地である旧手宮駅の構内を使っており、敷地が広い。北海道で活躍した車両が50両以上あり、中には鉄道遺産に登録されている貴重な車両等がある。しかし、残念なことに屋外展示の車両の多くは雨ざらし状態で塗装が剥げ、錆びが出て、ナンバーが剥ぎ取られた機関車も見受けられた。私よりも少し前に訪問された西村雅幸さんも同様のことを述べられている。小樽総合博物館は平成19年7月旧小樽交通記念館に小樽市博物館と小樽市青少年科学技術館を統合して開館したとのことであるが、鉄道発祥の地という場所柄北海道鉄道総合博物館の印象であった。訪問目的はC5550でこの機関車は1937年汽車会社製造、製番1458で当初仙台に配属され、1955年に旭川に転属後1974年廃車までずっと北海道で活躍した。この機関車は当初C5530のナンバープレートを付けて保存されていたということで若し本当であるならとんでもない話である。家の表札を取り替えたようなもので何を考えているのだと言いたい。

2013.7.4 小樽総合博物館 C5550↓

s-13.7.4手宮CC5550

1969年3月18日 函館本線深川~妹背牛間 331列車小樽発名寄行きC5550[旭川]  小樽行き322列車から撮影 C5550の現役写真はこの1枚のみ↓

s-69.3.18深川C5550

 

 

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保存蒸機とその現役時代(12)

デジ青[37564]「保存蒸機とその現役時代(5)」2013年7月20日投稿の北海道神居古潭保存の3台の蒸機のうち29638とD516は現役時代の写真なしとお断りしたが、クモハ73106東ウラさんから「持ってるでー」との連絡をいただいた。クモハ73106東ウラさんとは飯田線クモハ52、東北本線ED71の撮影以来、ヨーロッパ、台湾、中国、インドネシア、タイ等ご一緒させていただいた。以前発表した「いすみ鉄道」や最近発表の「会津鉄道八重の桜」もクモハ73106東ウラさんの車運転による撮影である。ここに改めて2台の保存機の現役時代の写真と保存機とは直接関係はないが、神居古潭の新旧写真を発表する。

2013.7.2 神居古潭 一番手前に配列されている29638↓

s-13.7.2神居古潭29638

名寄本線はこの時点で既にDC化されていたが、7月下旬から8月上旬にかけて海水浴臨時列車が運転されたことがある。その後保存機となった29638が客車列車を牽引してやってきた貴重なワンカットである。1969.7.27 上名寄 クモハ73106東ウラ氏撮影↓

s-69.7.27上名寄29638S氏

2013.7.2 神居古潭 一番奥に配列保存のD516↓

s-13.7.2神居古潭D516

 

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「八重の桜」号

NHK大河ドラマ「八重の桜」も新政府軍の猛攻撃により会津が降伏し、舞台は京都に移った。これからは同志社人としては目が離せないが、どういうストーリーになるのか楽しみでもあり、心配でもある。

ところで、昨年福島県内を車でまわった時に会津鉄道の車両を少しだけ撮ってみた。あとでその写真をよく見ると「八重の桜」のPRが車体にあった。大河ドラマで放映されるのを機会に地元に震災で減った観光客を呼び込もうとの試みである。また、東武鉄道に乗り入れの「AIZUマウントエクスプレス」の車両にも同じようなPRがあったので今夏再度撮影したものを含め「八重の桜」号を発表する。

2012.7.21 会津鉄道芦ノ牧温泉17:00 快速「AIZUマウントエクスプレス」鬼怒川温泉発会津若松行きAT601+AT651↓

s-12.7.21芦ノ牧温泉AT601+AT651

2012.7.21 17:40 会津鉄道会津長野~養鱒公園 会津田島発会津若松行きAT551+AT501↓

s-12.7.21 会津長野AT551+AT501←
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保存蒸機とその現役時代(11)

最近、何かとトラブルの多いJR北海道であるが、今回もその北海道の保存機関車とした。

まず、宗谷本線の和寒駅に近い郷土資料館恵み野ホール前に展示されているD51337。 晩年の北海道スタイルそのものである。↓

s-13.7.2和寒D51337

s-13.7.2和寒D51337説明板

この機関車は1966年9月6日稚内6時45分発324Dで旭川に向かう途中、和寒で撮影したものと思う。思うといういい加減な表現で恐縮であるが、和寒で6分停車の間に交換する321列車C5548を撮影しており、その時に側線にいたD51337[名寄]を撮影した記録メモがある。しかし、D51の写真にはターンテーブルが写っており、名寄で撮影した可能性もある。和寒にターンテーブルがあったのかどうか定かでない。現地のファンに確認を求めたが古い時代のことであり、名寄か和寒かは確認できていない。↓

s-66.9.6和寒D51337

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保存蒸機とその現役時代(10)

電車少年から最近蒸機が多いということで火つけ役の一人としてどうしようか悩んでいる。電車も面白いので機会をみて無い知識を振り絞って、また投稿させていただくとして「保存蒸機」は走り出したテーマなのでしばらくご勘弁願いたい。ところで先日広島県三原市にお住まいの西村雅幸さんから「こんなんあるでー」と保存蒸機の一覧表を頂いた。広島や四国にはそう簡単に行けそうもないので、その一部の提供をお願いした。大型機D52はしばらくお休みとして今回は愛媛県の内子駅前に保存のC12231を取り上げてみた。説明板によるとC12231は1939年9月に日本車両で製造され、1940年4月仙台局小牛田機関区、1967年6月仙台局会津若松機関区、1969年四国支社宇和島機関区転属により内子線で活躍、1970年退役とある。仙台局内の移動は省略されていると思うが、現役時代はほとんど宮城県や福島県で活躍したと思われ、晩年に宇和島に移動して一生を終えている。何となく仙台藩の伊達家が宇和島藩にも行ったのとよく似ている。

2007年10月8日内子駅前に保存のC11231  廃車後内子小学校に保存され、駅前整備とともに現在地に再保存された 下の3枚が保存機 西村雅幸撮影↓

s-07.10.8内子C12231-1西村氏s-07.10.8内子C12231-2西村氏

s-07.10.8内子C12231-3西村氏

現役時代であるが、1966年9月13日北海道からの帰りに「はくつる」を利用し仙台で下車し、急行に乗り継いでC51133が転覆した松川事件の松川で下車した。ED71、ED75の列車等を撮影後支線である川俣線に乗車した。メモには725列車10時16分発 C12231[福島]+貨車5両+スハニ642298仙フクとある。下の写真は岩代川俣駅での折り返し726列車で貨車は2両となっている。↓

s-66.9.13岩代川俣C12231

松川駅到着後の726列車 途中貨車2両を切り離したのかスハニ64だけになっている。↓

s-66.9.13松川C12231

川俣町の一部は福島第一原発事故の放射能汚染地区なっており、当時の平和な時代の写真を見ると心が痛む。なお、川俣線は1972年に廃止されている。

西村さんからは1976年8月に撮影した内子線終点時代の地上駅の写真も頂いたので併載する。写っているのはキハ52の2連と思われる。内子駅は1986年3月に予讃本線の短絡線として向井原までつながった際に高架駅になったとのことである。西村雅幸撮影↓

s-76.8内子駅キハ52

戦時スタイルのD52

私と同じ終戦時期に生まれたD52で戦時設計とか戦時スタイルとか呼ばれていた。この時期は資材がなく劣悪な環境で生まれたが、C11の角形ドーム共々昭和40年ごろまでは見られた。EF13という電気機関車も同じように戦時スタイルの凸型であったがこちらは見たことがない。いずれにしても粗悪な機関車であったと思うが、その後標準改造され幹線の大型貨物用機関車として君臨した。山科の人間国宝が最も好きな蒸気機関車として挙げられていたのがこの機関車である。先日、大宮(京都でなく埼玉の大宮)でお会いした時にデジ青を御覧になられているかを訪ねましところ「見てない」とのことでした。

1963.3.27 下関で見た上り貨物を牽引するD52460[柳井]↓

s-63.3.27下関D52460

1964.4.1 小郡区にいた給水過熱器が煙突前にないD52126[小郡]↓

s-64.4.1小郡D52126

保存蒸機とその現役時代(9)

JR横浜線淵野辺駅南口から徒歩5分くらいにある鹿沼児童交通公園にも北海道五稜郭にいたD52が保存されている。大きな公園に比較的きれいな状態でD52235が保存されているが、これが少しややここしい。D52235のナンバープレートをつけているが他機ではないかとも言われている。詳細はよくわからないが、ロッドの刻印を見る限りD52235であるという報告とキャブが標準型であること、先輪がスポーク車輪であること、ドーム前デッキの手すりがないこと、煙室扉のフックの形状等々からD52138の可能性が高いという報告が錯綜している。電車でも例えばパンタグラフ等を廃車した車両から流用する話は聞いたことがあるし、台車などもたらい回しの例はよくある。蒸気機関車は先に廃車された同型機などから部品等を流用することが多かったのでなかろうかと推察する。手元にあるイカロス出版の保存車リスト2012を見ると、大井川鉄道のC11312とC12208は部品取り用とある。蒸機が廃車されるまでいろいろな経緯があったとは思うが、保存にあたって主要な本体部分がつけていたナンバーで保存されているものと思うのでこのD52についてはよくわからない。従って今回はD52235とD52138の現役時代を併載する。235号機については今回も総本家青信号特派員さんの作品を使用させていただいのでここに御礼申し上げる。

2013.6.8 相模原市鹿沼児童交通公園に保存のD52235

s-13.6.8淵野辺52235

D52235のキャブ(機関車運転室)は標準型で密閉式ではない↓

s-13.6.8D52235キャブ

児童用の説明板であるがやや補足すると新製後新鶴見、1952.9稲沢、1953.11吹田、1956.11姫路一、1960.10五稜郭、1973.5廃車となる↓

s-13.6.8D52235説明板

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保存蒸機とその現役時代(8)

D52は広島のトップナンバー、梅小路のラストナンバー(468)を含め全部で7両保存されている。1と468以外は神奈川県に3両と静岡県に2両である。この2県に集中しているのは御殿場線で使用されたD52が関係していると思っていた。調べてみると御殿場線関係は3両で他の2両は意外で北海道から来ている。今回取り上げるのは北海道から来たD52136で保存場所は沼津駅北西10分にある高澤公園である。D52136は1944年汽車会社で製造され、稲沢区に配置。1946年から1960年までは姫路に配属、その後廃車される1973年までは五稜郭にいた。前半関西、後半北海道、保存は静岡ということになる。2013.7.28沼津市高澤公園の保存機D52136↓

s-13.7.28沼津D52136

現役時代の姿であるが、仁山越えでD51710[五稜郭]が前補機についた重連の2両目本務機がD52136[五稜郭]で136号機の写真はこれっきりである。1966年9月12日仁山~渡島大野下り貨物↓

s-66.9.12仁山D52710+D52136

まともな写真がないので、総本家青信号特派員さんに応援を求めたところ、即、快諾をいただいたので以下に発表させていただく。撮影は何れも1968年8月30日である。

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保存蒸機とその現役時代(7)

東京には現在3両のC57が保存されている。大森の入新井公園の66号機は[35453]「保存蒸機とその現役時代(3)」で、小金井公園の186号機は藤本哲男さんが[25967]「保存されているEB10」の中の周辺の保存車両で紹介されている。今回はもう1両57号機を取り上げてみた。

57号機は新製後の配置は不明であるが、戦後北海道で長く使用された。引退後はどういう縁があったのかよくわからないが東京で保存されている。保存場所の大蔵運動公園は小田急線祖師ヶ谷大蔵駅から南に徒歩15分くらいの所にある大きな公園である。57号機は雪国育ちのため、旋回窓やスノープローを装備しているが、デフの切り詰めがないので貴婦人を保っている。保存状態も良好に見えるが、前照灯とテンダーのライトには電球がなかった。また、現役時代のドームの後ろにある重油併燃装置は保存機では外されており、保存にはこれの方が望ましいと思う。

2013.5.28 世田谷区大蔵運動公園の保存機C5757↓

s-13.5.28大蔵C5757   C5757説明板↓

s-13.5.28大蔵C5757説明

1966年9月10日早朝5時33分網走からの急行「石北」518列車を岩見沢で降りる。5分停車の間に牽引機C6232を撮る。続いて5時44分に釧路からの急行「まりも」28列車が到着する。この牽引機がC5757[小樽築港]であった。雨の中での撮影で、C5757はこの時に出会ったのみでその後の再会は47年後であった。

s-66.9.10岩見沢C5757

以前、保存蒸機とその現役時代(2)で門鉄デフのD51272を取り上げたが、そのD51272が保存されている世田谷公園にはC5757の庭園列車があったので、併せて取り上げてみた。撮影は2012.11.28↓

s-12.11.28世田谷公園C5757模型

 

保存蒸機とその現役時代(6)

神居古潭に続き、同じ日に訪問した岩見沢市のみなみ公園に保存されているD51である。デフレクターを短く詰めた晩年の北海道の機関車の姿である。どうして短くしたのか理由はよくわからないが、原形を損なっており個人的には好きになれない。

岩見沢みなみ公園は駅から東側およそ15分くらいの公園で当日は私と同年齢の老人がゲートボールを楽しんでいた。保存機はなめくじドームのD5147で屋根付きのためか保存状態は比較的良好とみた。2013.7.2 岩見沢みなみ公園のD5147↓

s-13.7.2岩見沢南公園D5147

 

同機の説明板によると前配属機関区は東鉄局高崎機関区とある。↓

s-13.7.2D5147説明板

 

鷲別区に憩うD5147[岩見沢]の現役時代。煙突にクルクルパーといわれた回転式火粉止をつけているが、デフレクターも短くされる前でこの方が好みのスタイルである。↓

s-66.9.4鷲別D5147

 

 

岩見沢みなみ公園にはもう1両のC57144が保存されている。同機もデフレクターが短くなっている。この機関車は現役時代撮影していない。↓

s-13.7.2岩見沢南公園C57144

 

C57144の説明板  同機は新製後高崎、富山を経て昭和37年頃に北海道に渡り室蘭本線等で活躍した。↓

s-C57144説明

 

保存蒸機とその現役時代(5)

函館本線神居古潭駅。そのロマンチックな名前に憧れて過去2回訪問している。神居古潭駅は1969年9月30日、函館本線滝川~旭川間の複線化、電化に伴う別ルート化により廃止された。石狩川とアイヌの伝説を秘めたこの景勝の地旧神居古潭駅付近に3両の蒸機が保存されている。真ん中の横綱がラストナンバーC57201で、露払いに29638、太刀持ちにD516を従えるように展示されている。C57201は小樽築港区時代に狩勝峠でも撮影しているが今回は保存場所と同じ神居古潭駅で撮影した旭川区時代のC57201の最晩年の姿である。ラストナンバー201号機はC57の4次形で1次~3次までのC57とはスタイルが異なり、C59戦後型を小さくした感じで人気があった。しかし、そのほとんどが九州と北海道に配置され本州では見る機会が少なかった。それでも、関西地方には190号機が和歌山から梅小路に転属され、また、198号機が亀山に配属されていたので我々関西系中高年のファンには比較的近くで目にすることができた。

2013.7.2 神居古潭旧駅付近に保存のC57201 昭和22年三菱製↓

s-13.7.2神居古潭C57201

1969.3.17神居古潭駅に進入する322列車稚内発小樽行きC57201[旭川]↓

s-69.3.17神居古潭322レC57201

名寄区で廃車された29638 大正7年小倉工場製 当機の現役写真なし↓

s-13.7.2神居古潭29638

北見区で廃車されたD516 昭和11年川崎製 当機の現役写真なし↓

s-13.7.2神居古潭D516

現役時代の神居古潭駅のC57201の写っている位置はホームが左へカーブしており、現在のホームは直線相対式で残されているので当時の札幌よりのカーブしたホーム部分はカットされたものと思われる。3両の保存機を撮影したあたりがカットされたホーム先端部分と推察したが如何であろうか。↓

s-13.7.2神居古潭3両保存機

神居古潭へは旭川駅前から沿岸バス、道北バスで25分程で到着できる。バス停から石狩川にかかる吊り橋を渡ったところが現地で徒歩10分。

 

保存蒸機とその現役時代(4)

関西本線加茂駅は愛称大和路線の終点でこれから先亀山側は非電化区間でキハ120が1~2両で走るローカル線である。うっかりしていたが、ここは京都府であり、関西本線が京都府を走るイメージは頭になかった。不勉強であったと反省している。その京都府木津川市立加茂小学校にC5756が保存されていることを知り、会ってきたので報告する。場所は駅から木津、奈良方面に向かって7~8分歩いたところに屋根付きで保存されている。小学校の校庭ではなく関西本線の線路際である。しかし、学校の横であることは間違いなく、小学生の歌声が校舎のどこからか聞こえてきて随分昔の幼き頃を思い出した。たまにはこういう旅もいいものである。C5756は新製後糸崎、高崎等の配置を経て戦後は奈良を始め当時の天王寺鉄道管理局管内で活躍した。従って加茂小学校に保存されていることはこの機関車にとっても幸せなことであろう。

2013.5.9  C5756 赤ナンバーで保存状態も良好であった。煙突が本来の姿より短く感じたが、集煙装置を装備していたのかもしれない。↓

s-13.5.9加茂C5756

同機のナンバープレート 保存機では盗難予防のためか本物でないものが多く製造番号まで表示されている例は少ない。↓

s-13.5.9C5756NOプレート

小学生を意識した説明板であるが、昭和12年生まれとありプレートには昭和13年とある。交友社発行のSLNo3では昭和13年4月30日三菱製造製番1920とある。どれが正解なのかよくわからない。プレートが正解と思うが。↓

s-13.5.9C5756説明板

 

さて現役時代であるが、これは1964年8月15日和歌山方面に出かけた時に天王寺駅で撮影した203列車東京発湊町行き急行「大和」を牽引して到着した奈良区所属の同機である。加太峠の存在を知らない時代で気楽に駅撮りした記録である。真夏で暑いので窓を開けざるを得なかった時代の汽車旅であるが、煤が入ってきても最高の旅を味わえた。見えている客車はスハフ42でウイングバネのズシンズシンという重量感あふれる台車音と上下振動が心地よく、スハ43系のファンは多かった。加太会を始め急行「大和」の蒸機時代の写真をお持ちの方の発表を期待したい。私の加太走行の「大和」はDF50になってからの姿しかない。

s-64.8.15天王寺C5756大和

番号がわかるようにもう少し機関車に近づいたのがこの写真。関西地区のC57はドームの後ろに重油タンクを付けているタイプが多かったが、全体にきれいであった。↓

s-64.8.15天王寺C5756

富士山と鉄道(特別編)

「富士山と鉄道」につきましてはtsurukame様より御殿場線の蒸機機関車D52時代の写真を投稿いただきました。その後私の古くからの友人であるSさんより小海線と川越線の写真があるとの連絡がありお願いしました。Sさんはタイ、三道嶺にはぶんしゅう旅日記さんと行動を共にされ、先日は神足(長岡京)で共に飲んだとも聞いております。また、デジ青に時々コメントを投稿されている村樫四郎様からは御殿場線に加えて中央線の未電化時代の作品をいただきました。今回は特別編として両名の貴重な記録を発表させていただきます。

まず、Sさんからの小海線と富士山の写真です。私の不確かな情報を確かに証明していただきました。1972.4.1小海線甲斐小泉~甲斐大泉↓

s-PICT1087-2 昭和47年4月1日甲斐小泉~甲斐大泉

1972.9.1 小海線小淵沢~甲斐小泉 高原には早くもススキが見られる↓

s-PICT1092 昭和47年9月19日 小淵沢~甲斐小泉

1965.3.5 川越線 指扇~南古谷 珍しく雪の降った日のキューロクの旅客列車 富士山は左にあるはずですが厳しい↓

s-PICT1081 昭和44年3月5日指扇~南古谷
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富士山と鉄道(山梨他編)

静岡編に続き山梨他を紹介したい。まず、山梨県側であるが、山容が綺麗で河口湖など湖と絡めた美しい風景写真をよく見かける所である。しかし、山梨県側は全体には裏側にあたり逆光気味になるので、特に鉄道写真は少ないようで、古い写真はほとんど見かけない。最近は果敢に挑戦した作品も出てきたので私もその真似事をしてみた。順光でない場所では雪の白さなどがつぶれてしまい難しい撮影になるが、これを乗り越えると思わぬ好作品が生まれるのかもしれない。

JR中央線も新府~穴山l~日野春~長坂~小淵沢あたりも右に八ヶ岳、左に甲斐駒と抜群の風景が続く。この中で穴山~日野春には僅かであるが富士山をバックにした写真が撮れる場所がある。有名撮影地であるが、徒歩で行くと30分はかかる。時間帯にもよるがここも逆光気味である。2002.1.6穴山~日野春 437M甲府発松本行き115系↓

s-02.1.6穴山~日野春437M

この場所も有名撮影地で富士山がよく見える。列車が大カーブするのでいろいろな角度から撮影ができる。新府駅からすぐの場所。甲府盆地内でも富士山が見えるので今後さらに注意して撮影場所を探してみたい。2002.1.6 新府~穴山上り183系回送↓

s-02.1.6新府~穴山上り回送

富士山の世界遺産登録で株価急騰の富士急。JR東もシーズン土日にE257系による快速「山梨富士号」を新設するとのこと。(13.5.21日経) また、富士急社長は富士山5合目までの延伸構想を明らかにし、その中で成田空港からの直通運転も目指すとのこと。(13.6.20日経) 道路より環境問題の負荷が少ないことはいいのだが、問題は収支が合うのかということである。富士山の独立峰としての美しさを前編で述べたが、例えばスイスのユングフラウ鉄道のように連続した車窓風景の売り物が通年提供できるかどうかここが疑問である。リゾート事業は魅力的にうつる部分もあるが、雨の日、風の日、寒い日もあり、通年営業の覚悟ができるかどうかである。

富士急は富士山を入れて撮れる場所が限定されている。写真は寿~三つ峠の定番地で工場敷地に入ることにもなるのでその場合は注意が必要である。他にも工夫すれば見つけることは不可能ではないが、全体に好撮影地は少ない。むしろ付近の山などに登れば思わぬポイントが見つかるのかもしれない。2010.5.21寿~三つ峠大月行き1308+1208↓

s-10.5.21三つ峠1308+1208大月行き

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富士山と鉄道(静岡編)

6月22日富士山は世界文化遺産に登録された。諦めていた三保の松原も認められ、諸外国の登録委員に完璧に支持されたのでまずはめでたし、めでたしである。今後はその文化遺産の維持の大変さが予想されるので登録抹消にならないようにしなければならない。

私は富士山を始めて見た時のことを覚えている。修学旅行中、梅雨空であったが箱根の芦ノ湖で雪を抱いた山容が雲間に現れた時にワーと歓声があがりしばらく興奮の眼で眺めていた思い出がある。今でも新幹線の窓からその秀麗な姿を見るとお客が写真に撮ったりしているのでやはり他の山とは違った魅力があるのだと思う。世界的に見れば3776mというのはそれほど高くはないが、コニーデ式(円錐)火山であり、その堂々とした独立峰が印象的で世界的にも素晴らしい山といえる。富士山は「登る山でなく、見る山だ」という人もいる。私は1970年8月に登山をしたが、9合目を越えて御来光を仰ぐ段階で高山病にやられた。引き返す訳にはいかないので頂上まで登り噴火口だけ見てさーと降りたが、高山病というのは当然下へ降りれば降りるほど回復するものであることを実感した。冒頭に静岡側、山梨側、飛行機から見た富士山を3枚を並べてみた。

2012.3.29身延線沼久保付近の早春の富士山↓

s-12.3.29富士沼久保

2010.11.10 秋深まる頃の富士山 右に見えるのは山中湖↓

s-10 11 10富士山中湖

2007.5.28 北京行きの飛行機から見た富士山 余談であるが翌日チベットのラサに向かったがここの標高は富士山に近い3600mで多少の高山病にかかった↓

s-07.05.28

さて、本題の富士山と鉄道であるが、まず終日順光で眺められる静岡県側を紹介したい。紹介なんて偉そうなことをいっても天下の富士山なのでほとんどの場所が有名撮影地であることをお許し願いたい。例によって古い写真が登場するが、毎度の劣悪な保存状態のフィルムのため見苦しい点も併せてお許し願いたい。

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保存蒸機とその現役時代(3)

東海道本線や京浜東北の電車に乗り東京に向かう時に大森駅の少し手前進行右側にC5766が保存されているのが見える。東京には案外多くの保存蒸機があるが、電車から直接見ることができるのはここと新橋のC11292くらいではなかろうか。場所は大森駅から蒲田より徒歩7分くらいのところにある入新井西児童公園という小さな公園である。66号機は1938年川崎製で門司港、大分、宮崎等九州で活躍した機関車であり、縁のない東京に保存されているのは不思議である。スタイルは標準的で九州の機関車に多い門鉄デフ装備ではない。C5766は思い出のある機関車なので一度撮ってやろうと思いながら結局実現したのは今年(2013年)1月9日のことであった。↓

s-13.1.9入新井西児童公園C5766

その思い出というのは1972年4月末から5月初旬にかけてKAWANAKAさんのスカイラインでロギング太郎さんと3人で九州旅行をした時、最も多く撮影したのがC57であり、中でもこのC5766は接した時間が一番長い機関車であったからである。撮影したのは5月2日でまず国分付近の貨物列車を牽引する66号機を併走して8ミリで撮影した。残念ながらその後湿気でアウトになってしまった。次に霧島神宮駅に休息中の姿をコダックのネガカラーで撮影したがかろうじて色が残っていたのでそれを現役時代の姿とした。それにしても凄い色の煙である。下2枚がそれである。↓

s-72.5.2C5766

s-72.5.2C5766横

霧島越えというのがあるのかどうか知らないが、国分~霧島神宮間をあえぎながら登る上り貨物列車牽引中のC5766[宮崎]↓

s-72.5.2国分C5766

 

 

 

保存蒸機とその現役時代(2)

前回の保存蒸機とその現役時代(1)のD51重連2両目のD51201も保存対象機であった。高山から中津川に転属して中央西線で最後の活躍をした山国育ちの機関車であるが今は海辺に保存されている。場所はJR・名鉄蒲郡駅から海に向かいやや南西方向へ10分程歩いた蒲郡市博物館でオハフ332424とともに展示されている。2012.12.26↓s-12.12.26蒲郡市博物館D51201

D51は民間会社のほか国鉄工場でも228両(大宮30、浜松70、鷹取58、小倉30、長野9、土崎9、郡山10、苗穂12)製造された。D51201は鉄道省濱松工場昭和13年製造とある。↓

s-12.12.26蒲郡D51201No

前回と同じ贄川付近を単機で上るD51201[中津川]。1973.1.15↓

s-73.1.15贄川D51201

東京にも以前撮ったD51272が保存されていた。場所は東急田園都市線三軒茶屋駅と同東横線祐天寺駅の中間にある世田谷公園で徒歩30分くらいかかる。こD51272は昭和14年度川崎車両製で門鉄デフを装備しているので九州育ちである。2012.11.28↓

s-12.11.28世田谷公園D51272

1963.3.28 熊本駅および同機関区周辺で大型旅客用蒸機C59、C60、C61等を撮影中、駅の博多よりからD51の貨物列車が入ってきた。よく見ると門鉄デフで貴重品を撮れたような気がして嬉しかったことを覚えている。高校生のピンボケ写真をお許し願いたい。↓

s-63.3.28熊本D51272

 

 

保存蒸機とその現役時代(1)

2010年8月26日、残暑厳しい木曽福島でホーム横にD51775が保存されているのを見て1枚だけシャッターを切ったのがこれ。あとで調べてみると現役時代の同機を撮影していることがわかった。その後いろいろ調べてみると全国各地で結構な数の蒸気機関車が解体されずに保存されていることを知った。皆さんも旅の途中どこかの駅前、公園、学校等に保存されている姿を目にしたことが一度や二度ではないと思う。それなら全国で保存されているのを片っ端から撮ってやろうと思い、最近撮影を始めた。こういう鉄道趣味のジャンルでは元大洋、巨人で俊足好打で鳴らした屋鋪要選手が有名であるが、私の場合は特に現役時代に撮ったものと比較掲載をしてみたい。D51775号は1942年度汽車製造会社製である。

D51は大きく分けてナメクジドームの初期形、標準形、戦時形に分けられ、標準形が圧倒的に多い。この775号機も標準形であるが、煙突がやや短い。C57にも煙突の短いのを見かけたが、多分、下3枚の現役時代の写真に見られる集煙装置をつけた影響ではないかと思う。

2010.8.26 中央本線木曽福島 D51775ゆかりの地の保存である↓

s-10 08 26木曽福島D51775

 

糸魚川時代のD51775

DRFC同期生のSさん、Tさんに見送られ夜行で北陸・信州に向かった。翌朝、筒石で下車。この時の日誌には「D50、C57を期待したが、C57は1回来ただけ、D50は休車状態。殆んどがD51でうんざりした。雪も期待したが冬の日本海の冷たい風に悩まされ早々と切り上げる。」とある。1966.2.12北陸本線筒石付近 直江津8時16分発236列車米原行き20分遅れで通過。因みにこの列車の米原到着予定時刻は18時14分である。↓

s-66.2.12筒石D51775

 

中央本線(西線)重連仕業

1973.1.21中央本線贄川付近を下るD51775[木曽福島]+D51201[中津川]↓

s-73.1.21贄川D51775横_edited-1

1973.1.21 中央西線贄川付近を上る上り貨物D51775[木曽福島]+D51201[中津川]  この日は大糸線の旧型国電を撮った後現地入り。既に客車列車はDD51が牽引し、蒸機も晩年の姿であった。直ぐ上の写真と同じカマなので塩尻で折り返してきたのだろうか。冬は日が暮れるのが早く、駅に向かう途中で撮ったものと思われる。2台目の機関車は斜め光線を受けてつぶれている。↓

s-73.1.21贄川D51775斜前

 

 

台湾一周駆け足旅行(5)

3月25日 台北⇒三貂嶺⇒台北⇒MRT⇒台北松山⇒東京羽田

最終日はまず地上時代の台北中華商場付近に昔の撮影地点の痕跡を求めて歩いた。台北~萬華間の台北駅手前で現在の中華路一段のあたりに撮影した場所があったと思われる。台北駅を出た列車は直ぐに左へカーブして直線区間を萬華に向けて走行していた。特にディーゼル機関車のバリバリと大きな音をたてて走行する姿が印象的であった。ここでも付近の古老に確認をとり、間違いないと言われたあたりの新旧対比写真である。

1968.3.19 台北駅を昼頃に出発し、左カーブにさしかかる米国GM製S316牽引列車。↓

s-1968.3.19台北S316

2013.3.25 台北駅前の忠孝西路一段から左へカーブして中華路一段に入るあたり。近くには台北府城北門(承恩門)がある。右手徒歩5分に現在の台北駅がある。↓

s-13.3.25台北西カーブ

1968.3.25 当時の台北の代表的な鉄道風景である中華商場付近を行く2002車次海線経由光華号DR2700形6連。 高雄7時15分発で途中台南、彰化のみに停車して台北に12時に到着する。この日は雨であった。↓

s-1968.3.25台北中華商場光華号

2013.3.25中華商場のあったあたりで現在の中華路一段 45年前と同一日の撮影↓

s-13.3.25中華商場

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台湾一周駆け足旅行(4)

台湾今昔日記さぼっておりましたが、今回とあと1回ご辛抱下さい。

<3月24日> 台北⇒高鉄台中(新烏日)⇒台中⇒高鉄(新烏日)⇒板橋⇒山佳⇒桃園⇒台北

この日からは単独行動である。今回の旅行の初日(3月20日)は台中駅だけの撮影であったので台中駅から南下した烏日方面で昔(1968年3月)撮影した場所が気になり、再度高鉄で台中に向かった。線路に沿った大きな道路を歩き始めたが、やはり風景が激変している。雨が降ってきたこともあり、諦め気分になってきた。途中で自家用車に乗り込もうとする私の半分くらいの年齢の人に例によって古い写真を見せた。英語がよくできる人で車で2~3分走った盛土上の線路に登る小道を案内してくれた。単なる線路への小道であった。この場所で1~2枚撮るには撮ったが、私の意図した場所ではないので完全に諦めることにした。御礼を申し上げたがこの人はお医者さんであった。台中と烏日の間には大慶という駅ができており、単線が複線化され、さらに高架化工事中であるため、場所がわからなくなっていることは再三述べた。唯一カーブしている場所を電車から撮影してみた。その場所が多分当時の観光号を撮影した場所であろうとして古い写真と比べてみたが、何れにしても長い年月を経たことだけは事実である。

2013.3.24 大慶付近 南下する韓国大宇製区間電車500系の先に左カーブが見える↓

s-13.3.24大慶付近

1968.3.23 台中~烏日 米国GM製R63牽引2車次高雄発台北行き観光号 上の写真奥にあるカーブがこの場所ではないかと思われる。↓

s-68.3.23台中観光号R63

1968.3.23 台中~烏日 R12牽引77車次基隆発彰化行き 日本製で12両在籍。日本国鉄でDF91という試作車で登場。調子がよくなくローカル列車を担当していた。↓

s-68.3.23台中R12

1968.3.24台中~烏日 北上貨物牽引DT681 DT650(D51)形は37両在籍した。このDT681はテンダーが船底型で所謂戦時設計スタイルである。↓

s-68.3.23台中DT681

台中での新旧対比撮影を早々と諦め再び高鉄で台北の一つ手前の板橋に向かった。ここは台鉄、高鉄ともに地下化されており、台中以上に対比撮影が無理なことはわかっていた。何か昔の痕跡でも発見できないかと下車したが、これまた無理であった。現在の板橋駅の駅ビルと昔の板橋駅を見比べていただきたい。当時、ここで私は記念に人力車を運転する私自身と突然現れた蛇を撮影している。とても考えられない板橋付近の現在の姿である。

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