国道184号線の坂道を登り切った峠の切通しに交換駅でもあった畑駅があったのですが、今は全く面影はありません。ここを過ぎると2つトンネルがあり、終点市駅に向かって下ってゆきます。このあたりの拡大地図を載せます。
「紀行文」カテゴリーアーカイブ
尾道鉄道跡をたどって(その2)
事故慰霊碑をあとに、国道184号線を北上することにします。まさに超満員の電車が逆走した勾配を登ってゆきます。
左手が国道ですが、右手の歩道トンネルがかつての尾道鉄道の2号トンネルを修復したものです。ちょうどこの撮影地点付近に、「西校上駅」がありました。ここから坂を下りてゆくと、木ノ庄西小学校があります。
尾道鉄道跡をたどって(その1)
広島県内で過去に発生した大きな人的被害のあった鉄道事故は、明治28年7月25日に糸崎・尾道間で発生した軍用列車転覆事故(死者11、負傷者97)、大正15年9月23日に安芸中野・海田市間で発生した特急列車脱線転覆事故(死者34)、昭和6年1月12日河内駅構内での急行列車脱線転覆事故(死者34)が挙げられます。軍用列車と特急列車の事故は自然災害関連でしたが、急行列車の事故は人的ミスに起因していたようです。後者2件については、2020年11月に現地レポートを掲載しました。もう一つ、忘れてはならないのが尾道鉄道の脱線転覆事故です。死者37名、負傷者56名の大事故でした。それは終戦から丁度1年を経た昭和21年8月13日に発生しました。もう75年も前のことであり、話題になることもなく忘れ去られようとしています。明治の軍用列車事故と特急列車事故については慰霊碑が建立されていますが、急行列車の事故には慰霊碑はありません。この尾道鉄道の事故はどうかというと、慰霊碑が建てられているということは書物に出ていたのですが、まだ現物を確かめていなかったので、慰霊碑探しを兼ねて久しぶりに尾道鉄道跡をたどってみました。その慰霊碑は簡単に見つかりましたが、探すのが目的で行きましたから見つかったものの、通りすがりでは何の石碑かわからない、注意を引くことのない質素なものでした。
昭和43年 平機関区のD60など
米手氏からの「元祖青信号特派員氏への業務連絡」のなかで、平機関区が登場しました。私も昭和43年3月末に一度だけ平機関区を訪ねていますので、53年も前のネガを引っ張り出してみました。高校の卒業式を済ませ、DRFCに入学するまでの宙ぶらりんの時期に友人と東北を旅し、花輪線でハチロクを堪能して京都へ戻る最後に平に立ち寄りました。雨模様のため、今一つ楽しめなかった記憶がありますが、D60をま近かに見れて満足でした。短時間でしたが、何枚かの写真を撮っていますのでご紹介します。例の給砂機はチラッとしか写っていません。
琴電旧型車最終走行
去る11月3日、高松琴平電鉄の旧型車両120型と300型の最終走行がありました。もともとは8月9日の設定でしたが、新型コロナウイルス感染拡大により各地で緊急事態宣言、まん延防止措置が発出されたため、延期になっていたものです。長尾-公文明
四国松山のディーゼルカー ~その3
下灘で2時間弱滞留した後、12時31分に出る八幡浜行きの4917Dで伊予大洲をめざします。今回の一番の狙いは、キロ47の伊予灘ものがたりです。47系での運行は令和3年末までと報じられています。後継は、四国まんなか千年ものがたり(多度津-大歩危の特急グリーン車)、志国土佐時代の夜明けのものがたり(高知ー窪川の特急グリーン車)のようにキハ185が改造種車になるようです。そうです。四国でキハ47系のジョイフルトレインに親しむのは、今しかありません。
下灘駅に入る伊予灘ものがたり
四国松山のディーゼルカー ~その2
松山周辺のディーゼルカーは、国鉄時代からのキハ54、キハ32、キハ185の3100番台、JRになってから就役した2000型。加えて2021年末での引退が報じられている、伊予灘ものがたり用のキロ47となります。キハ54は、国鉄最末期の昭和61年に登場したローカル用のステンレスカーで全車両運転台車です。他の国鉄ディーゼルカーと同じく21.3m、ロングシート、2枚折戸で250psのDMF13エンジンを2基積んでいるのでなかなか鋭い加速をします。12両全車が松山運転所に配置されています。
キハ54 0番台 松山駅
四国松山のディーゼルカー ~その1
十数年ぶりに四国松山へ行ってまいりました。四国でも高松や徳島へは年に最低1回は行ってきたのですが、松山は大阪から少し気分的にも遠かったのです。今回の狙いは、松山周辺で活躍するJR四国のディーゼルカー。新幹線+特急しおかぜでも航空機、バスでもなく、はじめて大阪南港から東予港までのオレンジフェリーを選びました。
大阪南港は22時出港ですが、20時から乗船することができます。早く入れば、ゆったりと船内のレストランと大浴場を楽しむことができ、出航後も船に乗っているのを忘れるほど揺れもなく、ホテルのように快適でした。2018年に就航したばかりの最新の船らしく、昔ながらの雑魚寝の桟敷はありません。最もリーズナブルな2等も個室で、誰に気兼ねすることなくゆったりと休むことができます。2等の片道で、乗船した日は7700円でした。2等のデラックスにすると料金は9600円になりますが、窓と洗面台が付き、部屋も広くなるので更にホテルのシングルルームと遜色ないゴージャス感が漂います。
大阪南港フェリーターミナル
北海道は遠かった、広かった(その4)
今回は初めて渡道した昭和44年3月に訪ねた名寄本線です。この時はKAWANAKA先輩と別れたあと、1900生先輩と2人連れの旅でした。札幌から「大雪6号」で早朝に遠軽に着き、名寄本線の一番列車で中湧別、紋別、興部、名寄と138Km全線を乗り通し、すぐに一ノ橋まで折り返しました。一ノ橋・上興部間は11.0Kmあり、その中間地点のサミットまで歩こうという計画です。丁度北見と天塩の境で、天北峠と言われる場所です。並走する国道239号線をひたすら歩き、腰までの深い雪をラッセルしてようやく線路まで登り、2本の貨物列車を待ちました。まずやってきたのが名寄側から登ってきた49699牽く貨物列車です。
北海道は遠かった、広かった(その3)
昭和50年2月に標津線を訪ねています。札幌発21:30の狩勝4号のハザで6:15に釧路に着き、多分駅弁でも買って、6:34発釧網線622Dで標茶に着いたのが7:36でした。標津線根室標津行き323Dの発車8:31までの小1時間をどうして過ごしたか、まったく覚えがありません。323Dで次の駅泉川で下車しています。丁度泉川で標茶行き324Dとの交換風景を撮ったのがこの写真です。それぞれキハ22の単行。民家もまばらな根釧原野の小駅にも国鉄職員が勤務されていた時代でした。
この泉川駅から次の光進乗降場へ向かって線路を歩きました。幸い好天に恵まれたのは良いのですが、サングラスなどしゃれたものは持ち合わせておらず、まぶしい雪中行軍でした。
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 (29)
もう終わったはずの“やっぱり”シリーズですが、あと一回だけ割り込みます。南稚内~抜海のカラー版を見ていただいた際に、廣瀬さん、紫の1863さんから、同区間で見られた貨物列車に対するコメントを頂戴し、貨車の形式や積載について、詳細な情報をいただきました。私も写真は撮っていたものの、あまり続けるのも、という思いでお蔵入りしていましたが、少しでも参考になればと思い、追加で載せることにしました。宗谷本線の貨物を牽いていたのは、南稚内にあった稚内機関区の9600で、“現地闘争”で行った昭和44年には12両の9600が配置されていました。また名寄機関区にも9600が15両配置され、名寄本線などと共通で運用されていました。南稚内~抜海で見られた昼間の貨物は2往復あり、11~12時に通過の396レ、391レと、13時30分ごろ通過の3371レ、15時30分ごろの1354レでした。
▲南稚内~抜海の原野を行く396レ、29607〔稚〕牽引。ランボード上に載った切り詰めデフ、2個ライトと、北海道ではスタンダードスタイルの9600、貨車のあとに続くのは、ンッ! Wルーフの客車が2両、昭和44年とは思えない光景が‥‥。
なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道” 〈8〉
広島の路面電車
一ヵ月に渡って開催の写真展「思い出の七条大橋」も本日9月30日で幕となります。来場いただいた皆さまには、改めて御礼申し上げます。京都市電関係の写真展を、飽きもせず何度も続けて来ました。初回の写真展から数えると、もう10年以上昔になるでしょうか、来場の皆さんと話をしていると、“時代も変わった”と思わせることが多々あります。市電の写真を指して説明していると、「広島へ行ったら走っとるでぇ」とか「この前、広島へ行って子供と一緒に京都市電に乗って来ましたわ」と、特段に鉄道に詳しくないオッちゃん、オバちゃんから聞くことがよくあります。よく言われるように1900(900)型は、京都で約20年、広島では43年で、すっかり広島の電車になりました。いまや、“京都を走った京都市電”ではなく、“広島を走っている京都市電”ととらえる世代が多くなったことを痛切に感じます。
▲約50年前の広島駅前、まだ旧型車両が幅を利かせていた時代、左の700形701は、戦後の車両不足を補うため、被爆した旧京王の木造車500形の下回りを流用して、車体を新調した。中央扉もある大型の3扉車で、昭和55年までに廃車されている。現在の700形は二代目に当たる。右の900形907は、大阪市電2600形で、901~914の14両がいた。まだツーマン、非冷房の時代、そのあとワンマン、冷房化されて、一時は市内線の主力となったが、急に廃車が進み、いまは1両だけが残っているとか(以下、昭和45年)。
北海道は遠かった、広かった(その2)
学生時代の最後、昭和50年2月に修了式を済ませ、3月末には京都を離れて広島県三原市に居を移すことが決まっていましたので、北海道が更に遠くなることもあって3度目の渡道をすることにしました。精力的に道内各地を回ろうというより、今にして思えば北海道に行くことが目的のような旅だったように思えます。とは言え、観光地に行くことはなく、かろうじて蒸機が活躍していた線区の落穂ひろいのような、効率の悪い旅でした。出発前の地図での調査やダイヤの調査もそこそこに、またどこをどのように回ったかのメモもほとんど残していない旅でもありました。
ではまず池北線日ノ出駅から。2月8日に京都を発ち、上野から「ゆうづる4号」の寝台、青函、「ニセコ2号」、「大雪5号」と乗り続け、10日朝5:42に北見に降り立ちました。池北線に「日ノ出」という駅があり、この駅で日の出を見ようと思ったからです。池北線の一番列車で6:08に日ノ出駅に着きました。北海道の夜明けは早く、6:08ではかなり陽はのぼっていましたが、7:28朝日に輝く北見行き一番列車541Dを撮ったのが次の写真です。
なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道” 〈7〉
“抜海現地闘争”を総括する
北海道シリーズも、西村さんから私鉄の紹介をしていただき、さらに幅の広い「昭和の北海道」となりました。また「ていね」が脱線してマシ35に突っ込んだ結果、コメントの嵐で、“デジ青”ならでのコミュニケーションとなりました。私も先を急ぎます。「区名板で見る北海道の蒸機」(26)~(28)でも述べましたが、抜海での現地闘争の様子を偲ぶカラーも出て来ました。記述や写真内容に重複する箇所もありますが、再掲載します。▲宗谷本線南稚内~抜海は、駅間距離が12キロ近くあって、ちょうど中間付近に日本海沿いを走る区間がある。もちろん歩くよりほかに手段はなく、この最北の地が“抜海現地闘争”の結集地に選ばれた(以下、昭和44年9月)。
北海道は遠かった、広かった
私は学生時代に3回、その後3回の計6回津軽海峡を渡りました。学生時代の3回はすべて春休みで、厳冬期から雪解け期でした。残りの3回は雪の季節ではなく鉄道メインでもない旅でしたが、やはり冬の北海道の印象は強烈で、もう一度流氷を見てみたいナアなどと半世紀前のことをなつかしく思い出しています。特派員殿のすばらしい連載投稿を見るにつけ、当時 ある日は仲間とともに、ある日は単独行動で思い思いに均周を手に道内を巡った中で、あまり皆さんが訪ねておられないであろう鉄道も紹介しておこうと思い立ちました。とは言え、いざネガやスライドを出してみるとカビや変色もあって見苦しい写真が多く、お恥ずかしいのですが、それは気にせず投稿させて頂くことにします。多分3回から4回の連載になるのではと予想しています。
京都から北海道へは東京まで新幹線で行くとしても、上野から随分長い時間をかけて青森へ、そして青函連絡船と1日がかりでした。それだけに乗船名簿を記入し、荒れる津軽海峡を渡ると「はるばる来たぜ函館へ」という実感がありました。連絡船の売店でも売っていたように記憶していますが、まず「道内時刻表」を買うのがお決まりでした。仮駅、乗降場も漏れなく書かれており、バス路線図やバス時刻表は大変重宝しました。3回目に渡道したときの、昭和50年2月号の道内時刻表が手元にありますので、その巻頭地図を載せておきます。
運炭を役目とする国鉄支線や私鉄の多くがすでに消滅していたとは言え、昭和50年にはまだ多くの路線が健在だったことがわかります。
青春18きっぷの旅 2021年新涼 Part5 帰路は獺祭純米大吟醸の飲み鉄旅
第3日目 9月6日 後編
申し訳ありません、大した用事もなかったのですが前編を投稿してからサボっていました。最近流行りの病、『寒暖差疲労』が影響しているのか。いつまでも置いておくわけにもいきませんので再開をさせていただきます。
小野田線の本山支線に乗車できましたので山陽本線の小野田駅に戻って、福山を目指しました、
④ 雀田 7:18⇒7:34 小野田 7:38⇒8:05 新山口 8:28⇒9:10 徳山
▲ 7:37 小野田からは待っていた山陽本線の2ドア115系4両編成(3004M)に乗車して新山口へと向かいます。平日のラッシュ時に入っていますが、着席率は50%と空いています。
なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道” 〈6〉
カラーでも撮っていたC62重連
また北海道の蒸機に戻りますが、その代表であるC62も、少しだけカラーで撮っていました。昭和43年に初渡道した時の装備は、モノクロ用にアサヒペンタックスSVに55mm、135mmレンズと、もうひとつ、カラー用として父親から借りたマミヤ光機の正体不明のEEカメラの二台態勢でした。時折、思い出したようにカラーで撮りましたが、黒い蒸機は高価なカラーで撮るだけの理由もなく、とくにC62重連は、思いのほか高速で通り過ぎることもあって、確実性を採ってモノクロの一発必中でした。しかし、条件が揃うと、ヘナヘナの三脚にカラー用のEEカメラを載せて撮ったものでした。▲お馴染みの上目名151キロポスト付近の上り「ていね」、この場所は前にも記したが、やや開けた斜面があって、珍しく熊笹の繁茂もなく、斜面を自由に上下できるのが特徴だった。C62重連の迫力を出すため、レール面より少し下で三脚付きのカラーを構え、ケーブルレリーズで接続、レール面から少し上でモノクロを構えて、高さを違えて二台態勢で撮影した。先頭C6244、真っ黒の流れた煙と、結果は最良ではなかったが、C62定番撮影地での一枚となった(昭和43年9月)。
なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道” 〈5〉
最北のお召列車
初めて北海道を訪れた昭和43年9月は、明治2年に新政府が「北海道」と名付けてからちょうど百年に当たり、札幌で天皇・皇后の臨席のもと開道百周年の記念式典が行われました。そのあと道内各地でお召列車が運転され、私もC62重連と掛け持ちで撮影に励んだものです。事前には、蒸機を期待したものの、残念ながらDLによる運転で、数年後に各地で運転された蒸機お召に比べると、目立たないお召運転でしたが、いくつかの特徴がありました。
牽引機は、DD51 548〔旭〕、DE10 501・502〔名〕でしたが、それまでお召牽引の実績があるDLはDF50だけで、両形式とも、お召は今回が初めての牽引だったのです。さすがにDLだけでは不安があるのか、予備機のDL以外にも、“予備の予備”として、ピカピカに磨かれたC57を目撃しています。そして、もう一つの特徴は、最北の宗谷本線、天北線にも、お召が入線したこと、それまでの旭川までの最北の記録を塗り替えました。
▲宗谷本線音威子府~筬島、天塩川の対岸から、上川発豊富行きお召列車を撮る。DE10 501〔名〕+DE10 502〔名〕の牽引、製造番号から見てもSGなし500番代の1・2号車の重連となった。この時は、音威子府で下車、鉄鈍爺さん、ぶんしゅうさんの三人でヒッチハイクして現地に到着した。
なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道” 〈4〉
北海道の私鉄を巡る
北海道の私鉄も、ひと通りは巡っています。昭和40年代前半、電化私鉄は先述の定山渓鉄道と、少し前に米手さんが紹介された旭川電軌ぐらいで、あとはすべて運炭を目的に敷設された非電化鉄道で、簡易軌道もまだありました。寿都、美唄、真谷地、留萌、羽幌‥‥、と鉄道名を口にするだけでも、ワクワクするような魅力的な鉄道ばかりでした。ただ私にとっては、C62重連の息抜きのような感じで、あまり熱心に撮っていなかったのが悔やまれます。記念に乗車することもありましたが、ほとんど寝ていたのか、沿線風景も全く記憶に残っていません。
▲留萠本線の恵比島から分岐していた留萠鉄道、発車を待つ恵比島10時50分発の33D、車両はキハ1001、昭和30年製、当時流行の湘南型で、窓下の大きなヘッドライトは台車の動きと連動していた。留萠鉄道には5両のDCがいて、昭和46年の廃止後はすべて茨城交通に転じて、うち2両はいまでも車籍がある。留萠鉄道の子会社が、ロータリー式除雪用DLを開発し、その技術は昭和37年に日本除雪機製作所(現、NICHIJO)に継承され、除雪機、特殊車両等のメーカと成長した。同社の年史に写真を採用していただき、記念誌とキハ1001の模型をいただいたのも思い出(以下、昭和43年9月、一部「デジ青」掲載済み)。
なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道” 〈3〉
定山渓鉄道のDC
先項では札幌駅前の様子を紹介しましたが、昭和の時代の札幌駅は、4代目となる地上駅で、ホームは10面もある大きな規模でした。改札を抜けると1番ホームで、その苗穂寄りに切り欠きホームの0番ホームがあって、千歳線のDC列車の発着に使われていました。その0番ホームに停車していたのが定山渓鉄道のDC、キハ7002で、定山渓鉄道の起点の千歳線東札幌から国鉄線に乗り入れて、単独または国鉄DC併結で、札幌まで乗り入れていました。もともと、定山渓鉄道は、国鉄千歳線東札幌~苗穂を直流電化して、苗穂まで電車が乗り入れていました。国鉄の列車が輻輳するようになると、電車の乗り入れ中止を求められ、定山渓は、札幌へ乗り入れできる専用のDCを新製、待望の札幌駅へ乗り入れを果たしたのでした。
▲札幌駅0番ホームで発車を待つ、札幌発定山渓行きの761Dキハ7002、キハ7000形は昭和32年製、7001~7003の3両がいた。札幌乗り入れ用として、電車を走らせていた定山渓鉄道が新製した。両運、湘南スタイル、駆動方式は国鉄DCに準じている。定山渓温泉が札幌の奥座敷として賑わっていた時代は行楽客で賑わったそうだが、この時代は車内にほとんど人影がなかった(昭和43年9月、写真は「デジ青」に掲載済み)。