なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈2〉

北海道の路面電車

“なりゆきまかせ”、まずは前シリーズ「北海道の蒸機」に関連して、北海道の私鉄、路面電車、蒸機などを順に載せていきます。まず路面電車ですが、縮小されたとは言え、現在でも函館、札幌で元気な姿が見られるのは嬉しい限りです。人口が増加して循環線を延長した札幌は別として、人口が減少して路面電車の経営基盤を揺るがす函館が頑張っているのには拍手を送りたくなります。以下の写真を撮ったのは、昭和43年9月の初渡道のときで、五稜郭機関区で写したあと、五稜郭駅前に停車している函館市電600形を写したもの。函館には、いくつかの枝線が出ていて、本線の一部を成す路線が国鉄五稜郭駅前まで伸びていました。昭和53年1月に廃止されています。

函館市電600形、昭和29年製で601~605がいた。前面が変則二枚窓、前中後の三枚扉と、独特の番号書体と、ユニークなスタイルをしていた。扉は多客時を考慮したようだが、実際は中央扉は閉め切り扱いだった。昭和44年からワンマン化改造が始まったので、ツーマン時代の最後の撮影、しかし長持ちはせず、昭和48年には廃車されている。

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青春18きっぷの旅 2021年新涼 Part4 長門本山へ行く

第3日目 9月6日 前編

① 厚狭 6:33⇒6:38 小野田5:40 ホテルの部屋の窓から見た厚狭駅。徒歩1分との案内通り駅前すぐです。
今日は小野田線の本山支線の終起点の長門本山駅に初めて参ります。電車は往復3本しか運行していません。朝に2本がありますのでこれは乗ってみなければと頑張って早朝に起きました。
このホテルは朝食付きですが提供されるのは6時半過ぎからです。但し、出来上がっているものは食べられるということで1階食堂に降りてみますとカレーライスが食せました。2口ほど食べて後はコーヒーを紙コップに入れて出発しました。老人には十二分の朝食です。
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青春18きっぷの旅 2021年新涼 Part3 チョンボ連発

第2日目 9月5日

① 大阪南港 19:50(名門大洋フェリー)⇒8:30 新門司港
② 新門司港ターミナル 8:45(無料シャトルバス)⇒9:05 JR門司駅

▲ 6:34 朝を迎えました。起床後すぐに外部デッキに出ました。外気温は24度、船は徳山の沖付近を航行中です。5:49頃に日の出がありましたが雲間から日差しが出るには30分強かかりました。
しばらく洋上を見てから朝食を食べにレストランへと参りました。
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青春18きっぷの旅 2021年新涼 Part2 旅立ち 

第1日目 9月4日

① 長岡京 16:34(快速)⇒17:05 大阪 17:10(関空快速)⇒17:17弁天町
② 弁天町 17:27(OsakaMetro)⇒17:29 コスモスクエア 17:33⇒17:43 フェリーターミナル
▲ いつもと違って夜便ですのでゆったりと地元の長岡京駅を出発しました。 続きを読む

青春18きっぷの旅 2021年新涼 Part1 旅立ち前の準備

コロナ騒動の中。鉄道での旅は昨年12月以降自粛してまいりましたが、2回目のワクチン接種も終わり抗体もできたようなのでボチボチ出かけてみようかなとの気持ちになってきました。

ただ今年の夏は雨の日続きで、青春18きっぷを買おうとするにも中々5回分の日程が組めません。5回は消化できないのでバラを探していますと、8月下旬になった25日に長岡京駅前のチケットショップで2回分バラ(4,800円)が見つかりました。即決で購入です。

【 難航した行程日程選考 】

帰宅後、コロナ感染者数の少ない鳥取、島根、山口県を目的地に選びWeb時刻表から行程を組んでいきますが、ここで初めて中国・山陰地区では大雨被害による運休区間が多発しているのが分かりました。主要幹線の呉線(糸崎〜竹原)や山陽本線(厚東〜厚狭)でも運休区間があり、山間部の支線はもっとひどくズタズタ状態です。特急等の優等列車は殆どが運転取り止めとなっています。徐行運転による遅延も各線区で発生しています。これらは関西のTVや新聞では報道されていなく、詳しい運行状況はJR西日本のホームページやネット記事で確認するしかありませんでした。復旧運転再開日が不明な区間が多くこれでは確実な行程が組めなくなりました。
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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 (28)

旭川区 C55  ③  さよなら北海道の蒸機

しばらく続けていました区名板ごとに見る北海道の蒸機、少し積み残しもありますが、今回で最終としました。旭川区のC55、番号ごとに残ったC55を見ていきます。

初めて渡った北海道で最初に撮ったC55、夜行急行「利尻2号」に鉄鈍爺さんと一緒に乗って、6時41分に稚内に着いた。さすがに最北の駅は寒いぐらい。例によって線路に下りて見るとC55 50〔旭〕の牽引だった。初めての稚内は、予想よりウンと小さな駅で、島ホーム一本に側線が数本あるだけ、ごく平凡な駅だった。ただ、この日は稚内駅にとって特別な日で、開道百周年記念式に臨席の天皇・皇后が、この日の午後に初めて稚内駅まで来る歴史的な日だった。駅前はチリひとつなく、キレイに掃き清められていた。かつては、連絡船の発着場まで線路が伸びていたが、いまはあっけないほど線路がポツンと途絶えていた。(昭和43年9月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 (27)

旭川区C55 ②   C55 47  322レの旅

前回に、宗谷本線のC55の華の運用は夜行急行「利尻」と書きましたが、もう一往復、昼間に全線を通して走る普通列車321レ、322レの牽引もありました。明るい時間帯ですから、車窓から見る最北の鉄路の絶景は欲しいまま、車内はガラガラ、交換のため途中駅の停車時間も長く、C55の撮影もゆっくりできる、まさに“乗ってよし、撮ってよし”の列車でした。この列車に乗車・撮影すると、なぜか同区のC55 47の遭遇率が高く、それだけ好調なカマだったのか、昭和48年の宗谷本線の完全DL化まで働いていました。

宗谷本線と言っても稚内~旭川は約250kmもあり、ほぼ南北に走っているので、気温や積雪量は各所で差があるが、3月ともになれば、南のほうへ行くほど、路盤の雪も消えて、すっかり春の装い。稚内発小樽行き322レを牽くC55 47〔旭〕+客車4両 音威子府~筬島 (昭和47年3月、以下同じ)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉖

旭川区 C55  ①

やっと最終テーマの旭川区のC55に着きました。わらくろ屋さんから、“ぜひやってくれ”とリクエストがあってから数ヵ月が経ちました。やはり、C55そのものの魅力、走っている宗谷本線の魅力も加わって、私も渡道のたびに行きました。なかでも、“抜海現地闘争”と称して、DRFCメンバー約10人で南稚内~抜海の中間地点まで行き、「利尻富士」の標柱の立つ海沿いの絶景地でバンザイ三唱したのは、DRFC時代の最大の思い出となりました。計4回の渡道で旭川区C55を撮っていますのでソコソコの点数があり、機号別に紹介します。

宗谷本線のC55と言えば、真っ先に浮かぶのが夜行急行「利尻」の牽引だ。下り稚内行きで迎える朝の車窓も格別だが、上り札幌行きが漆黒の宗谷本線を走り続けるのも、蒸機の良さをしみじみ感じさせてくれる。停車駅では、ほとんど列車交換があるため、たっぷり停車時間があって、夜間撮影にぴったりだ。眠い眼をこすりながら、三脚を抱えて夜のホームを右往左往したものだ。幌延 C55 43(昭和44年9月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉕

C58④ まとめ

今まで紹介できなかったC58をランダムに紹介していきます。準特急さんが記しておられるように、C57なら番号ごとのスタイルが気になるのに、C58に至っては、十把一絡げで、番号を意識することはありませんでした。北海道のC58をまとめていても、たしかに一両ずつの個体差を意識することは少ないものの、それだけ、中庸で、穏やかで、いかにも日本の風土に溶け込んだ蒸機だと改めて感じました。温暖で純日本的な風景の方が似合うかも知れませんが、北海道の厳しい自然のなかで、逞しく生き抜いたC58に、また新たな魅力を感じたものです。

昭和44年8月、青函連絡船で早朝の函館に着いて、カーブしたホームで最初に写したのが、函館発上磯行き751レを牽くC58 213〔五〕だった。上磯まではわずか27分で、わざわざ客車列車を仕立てるのは、折返しの函館行きが通勤時間帯に当たるため。江差・松前線の旅客はほぼDC化されていて、C58が牽く客車列車は2往復のみで、貨物も牽いていた。五稜郭区には、8両のC58が配置されていた(昭和44年8月)。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉔

C58③ 最果ての根室本線を行く

釧路区C58のもうひとつの舞台が、根室本線釧路~根室の客貨列車の牽引でした。釧網本線の車窓と似た風景ですが、海岸線を走る区間があるのが特徴です。人口はさらに希薄で、駅周辺だけにわずかな生活があって、ほかは全くの原野・湿原が広がり、さらに最果て感が増してきます。さらに、釧路~根室には、通しの普通列車6本のうち1本だけがC58の牽く客貨混合列車で、あとはDC列車でした。貨物列車も走っているとは言え、駅間距離は10キロ前後のところが多く、釧網本線に比べると、アプローチの難度は高いと言えるでしょう。

太平洋に切り立った海岸段丘のうえを行く釧路発根室行き447レ、釧路~根室で唯一の客貨列車だった。吹き下ろす風が強く、黒煙が編成を隠してしまった。いまや水平線まで望めるとして著名な撮影地となったが、懇切丁寧なガイドもない時代、車窓からの印象だけ頼りに、駅を降りて闇雲に雪原を歩いて到着した。別当賀~落石 (昭和47年3月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉓

C58② 原生花園の夏と冬

釧網本線へは、昭和43年に訪れてから、その後も何回か訪れて走行中を撮影しています。釧網本線の撮影地と言えば、やはり原生花園の付近でしょう。夏は花、冬は流氷がアクセントになります。今でこそ原生花園の駅がありますが、当時は乗降場扱いで、ごく短期間の停車でした。そのため北浜、または浜小清水から歩くことになりますが、その釧網本線で客貨を牽いていたのが、北見区とともに、釧路区のC58でした。前記のとおり、釧路にC58は28両もいて、日本一のC58配置区で、釧網本線。根室本線で客貨混合列車を牽いて、活躍していました。

夏の原生花園、と言っても、訪れたのが8月の終わりから9月上旬で、花の季節は過ぎていて、ほぼ草原が広がるだけだった。北浜、浜小清水からいずれも歩いて行けるが、とにかく、どこまで行っても同じ風景が続いているだけで、いくら本数が多くても、ワンパターンの写真で終わってしまう。貨物692レを牽くC58 408〔釧〕 客車(混合)列車だけでなく、このように純粋の貨物列車も少数ながら走っていた。北浜~浜小清水(昭和43年9月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉒

C58① 釧網本線の旅

また北海道に戻って、《区名板》を続けます。C58は、D51、9600と並んで北海道には多くいた蒸機で、昭和40年代前半には、五稜郭、苗穂、鷲別、北見、釧路区に配置されていました。その本場は道東地方で、石北本線、釧網本線、根室本線では多くの客貨を牽いていました。石北本線・釧網本線の北見~網走~釧路は、両端にある釧路、北見区のC58が一体で運用されていて、釧路区は28両配置で、日本一のC58配置区であり、北見区も10両配置でした。まずは、石北本線、釧網本線のC58の活躍を見ていただきます。

初めて北海道を訪れた昭和43年、釧網本線のC58の牽く混合列車に乗って、ゆっくり車窓の旅を楽しんだ。当時は、列車本数も多く、ほとんどの駅では、列車交換があって、例によって“窓から写した”だけの撮影を続け、初秋の一日、たっぷり北海道の良さを感じたものだ。釧路原野のなかにある細岡で交換する、C58 127〔釧〕の牽く混合628レ (昭和43年9月、以下同じ) 続きを読む

山形交通廃線跡を訪ねる(高畠線)

三山線を訪れた後は米沢で泊まり、翌朝早く、米坂線今泉から山形鉄道フラワー長井線(旧長井線)を完乗し、赤湯経由で高畠に行きました。高畠は山形新幹線の「つばさ」も停まる駅で、この日は閉館でしたが、駅には温泉が併設されています。近くにはワイナリーもあり、観光客も多く見かけます。山形新幹線が開通する以前は糠ノ目と呼ばれており、駅の周辺は人家も少なく、高畠の中心と結ぶために1922年高畠鉄道が開業しました。その後1924年に二井宿まで延長されましたが、1965年ころになると輸送実績が減少し、1966年の水害で高畠-二井宿がバス代行輸送になって、そのまま1968年にこの区間が廃止、1974年に残りの糠ノ目-高畠間も廃止となりました。
↑ 1974年8月山形交通糠ノ目駅、1面のホームに3線、左側に奥羽本線糠ノ目駅がありました。

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山形交通廃線跡を訪ねる(三山線)

先日、青森、秋田、山形を訪れました。遠出するのは昨年の2月以来1年半ぶりです。JALでたまっていたマイルが7月~10月にかけて、10000マイルあまり期限が来てしまうのでこれを使って出かけることにしました。津軽線、五能線の訪問に加え旧山形交通廃線跡がどうなったのか見るのも目的の一つです。昨年4月のデジ青でも紹介させていただきましたが、旧山形交通の三山線、高畠線には1974年8月、廃線の3か月前に訪れました。DRFC夏の五能線合宿に行く途中に寄ったもので、その時は左沢に泊り、まず三山線を訪れ、続いて高畠線、合わせて半日あまりの訪問でした。
↑ 以前投稿したのと同じ写真ですが1974年8月の羽前高松駅です。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉑

ちょっと変わったD51

北海道で229両(昭和44年)が配置されていたD51ですが、“ナメクジ”のように製造当初からの変形機以外にも、北海道ならではの改造を受けた独自のスタイルや、個体差のあるD51がいました。いままで紹介した、“ナメクジ”なのに標準型になった54号機や、デフの端部が全くRのない、突き刺さりそうな942号機なども紹介しました。それ以外にも北海道ならではの改造を施した機です。

北海道と東北の一部に見られた長円形の煙突を持ったD51、「ギースル・エジェクタ」と呼ばれる煙突で、横から見ると逆台形に見える。単機で1200トンの石炭列車を牽く追分区に21両が配置され、旭川、岩見沢にもいて、北海道には最盛期27両が配置されていた。D51 167〔旭〕 旭川 (昭和43年9月)

 

 

 

 

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ⑳

雪の常紋を行くD51

常紋には雪のあった季節に、一度だけ行っています。昭和47年3月のことで、もうヤマ線のC62はなく、常紋は北海道を代表する撮影地となって、撮影者も多く見られるようになります。蒸機は、北見区D51、遠軽区9600が健在で、客貨の本務、補機を務めていましたが、旭川区にはDD51が配属されて、一部の客貨を牽き始めていました。今までの常紋は、DRFCメンバーとの撮影でしたが、今回は、自分一人の気ままな撮影でした。

この撮影で試みたことがある。この少し前の国鉄主催の鉄道写真コンクールで、大賞になったのが、降雪のなかの蒸機のタブレット交換だった。“これしかない”と、常紋では歩くこともせずに、もっぱら信号場でスナップ撮影を試みた。ホームのないところでの交換になので、助役が背伸びをして、タブレットを交換する瞬間だけに狙いを定めた。(以下、昭和47年3月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ⑲

常紋に挑むD51

前回の本稿では“ナメクジ”のD51を石北本線の常紋信号場付近でよく写したと書きましたが、そうは言うものの、圧倒的に多かったのは、標準型のD51でした。常紋は北海道では代表的な撮影地で、私も9月に二度、3月に一度行っています。9月は、いずれもC62重連の撮影のあとに行っていて、正直、D51を見ても感動はイマイチでしたが、C62が消えたあとの3月の時になると、DD51も入線し、トラ模様の9600も増殖していて、逆にマトモなD51も貴重になっていました。

常紋へ行く時は、夜行入りが必須で、食糧が手に入らないのは分かっていても、ほとんど食事なしの撮影で、睡眠不足、空腹という、撮影気力を低下させる二大要素を抱えたままの常紋行きで、結局、大した写真は残せずに終わりました。それだけに、今となっては、当たり前のD51も愛おしく思えて来るのです。急行「石北」に乗って遠軽で下車し、始発の523レに乗り換えて6時45分ごろ常紋(信)に着くと、まもなく上って来るのが590レだった。木造の小さなホームから見ると、Sカーブ上を、D51 157〔北〕が牽き、後補機9600を従えて、逆光線上にシルエットとなって迫って来た。このあと、信号場に挨拶に訪れて、リュックを置かせてもらい、トンネル内の電灯を点けてもらって、生田原側にある噂の常紋トンネルを抜けて行くのが、私の時代の常紋撮影の仕儀だった。D51 157は昭和48年に廃車されたあと、上川町で保存展示されていたが、のちに解体された。(昭和44年9月) 続きを読む

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ⑱

北の“ナメクジ”③ 一桁番号の“ナメクジ”

1115両製造されたD51のなかで、製造番号一桁の機は1~9の9両しかありません。“ナメクジ”だけでも少数ですが、一桁となるとさらに貴重です。北海道には、そのうち4、6、7がいました。なかでも6、7は北見区にあって、石北本線の客貨を牽いていました。ただ、6は昭和44年、7は昭和46年に廃車されていて、蒸機最末期の人気撮影地となった常紋ではもう見ることができず、一桁番号の写真はあまり見たことがありません。今回は一桁番号の“ナメクジ”を見て行きます。

常紋(信)~金華 73レを牽くD51 6〔北〕、後部に9600の後補機を付けている。(昭和43年9月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ⑰

北の“ナメクジ”②

D51のなかで初期に製造された95両の“ナメクジ”は、その構造ゆえ集煙装置が取り付けられないため、配置が限定されていました。たとえば、集煙装置が必須の大畑越えの人吉区や、旧北陸本線の敦賀区などには“ナメクジ”はゼロでした。いっぽう北海道には集煙装置を付けた蒸機は皆無のため、“ナメクジ”の割合が多くなったのかもしれません。ひとつのエピソードとして、山口線で蒸機復活が決まったとき、D51 1も候補に挙がったそうですが、集煙装置の取付けができないため、除外された経緯があります。今回は北海道にいた“ナメクジ”34両の中から、特徴のある機も集めてみました。

長野工場製の切取りデフを装備したD51 95〔滝〕 松本、長野区時代が長く、その時にデフが換装された。重油併燃装置も付けたまま、北海道へ転属した。旭川(昭和43年9月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ⑯

北の“ナメクジ”① 岩見沢区

こちらも連載が開きましたが、北海道の蒸機めぐり、再開します。前回では、いちばん数の多かったD51のなかで、倶知安、長万部のD51を紹介しました。渡道して感じたことのひとつは、D51のなかで、“ナメクジ”の遭遇率が高いように思えたことでした。D51は1115両が製造された製造両数がいちばん多い蒸機ですが、大きく分けて3種類に分別され、一次形の1~85、91~100の95両は、煙突、給水加熱器、砂箱、蒸気ダメをカバーで収めた独特の形で、“ナメクジ”と通称されています。1115両のうち、“ナメクジ”は95両なので、その割合は約9%になります。ためしに昭和44年の車両配置表で調べると、当時の北海道のD51在籍229両のうち、“ナメクジ”は34両あって、その割合は約15%になり、たしかに北海道に“ナメクジが多かったことが分かりました。なかでも岩見沢区(のち岩見沢第一区)には、D51の34両のうち12両と、“ナメクジ”率が飛び抜けて高い区でした。

室蘭本線で長大なセキ編成を単機で牽く“ナメクジ”、このカーブを終えると、あとは延々と日本一の直線区間が続くことになる。D51 11 白老~社台(昭和43年9月)

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