どこかにマイルの旅 2023年 沖縄へ Part11 沖縄に走った鉄道 続編

Part10の投稿を終えてから沖縄には他にも路面電車、馬車鉄道、人車軌道と鉄道があったのに漏らしたことに気づきました。それぞれ記録が少ない鉄道ですが本を探したりネット記事を見たりと何とか全容が掴めましたので続編として投稿させていただきます。

【 沖縄電気軌道 】
まずは軽便鉄道よりも7ケ月も早い1914年(大正3年)5月1日に大門前から首里までの 5.7㌔を1,067㎜ゲージで開業した沖縄電気軌道です。


明治29年5月に沖縄起業(株)から那覇~首里電気鉄道敷設出願、明治30年12月に認可されましたが資金難で着工できず。代って京都の才賀電気商会が全国に電気事業を広げようとの願望から明治42年9月に沖縄電気㈱として電力供給事業申請を行い付随して那覇~首里の電気軌道敷設も出願しました。

明治43年1月に電気事業、3月に電気軌道の許可が下り、沖縄電気軌道㈱が設立されて工事は着工されました。N電を製造した梅鉢鉄工所から40人乗りの木造四輪電車の新車10両も届き、開業に向かって順調に進むかと思えましたが建設費の大半を調達していた才賀電気商会が企業拡大に伴う資金繰りがショート破綻してしまいました。工事は止まり全国にあった傘下の会社は整理となって、日本興業なる土建会社の管理下に置かれました。日本興業のバックアップで建設は再開され、1914年(大正3年)5月3日に大門前~首里 5.7㌔は、所要時間32分で開業しました。
▲ 買い物客で賑わった公設市塲、全線は単線運行ですが途中6停留所には交換設備がありました。

沖縄で初めての鉄道は約6キロを片道32分で運行しました。大いに歓迎されて開業日には40人乗り車両に100人もの乗客がぶら下がって乗り込みました。 電車に客を奪われた人力車の車夫からは以降の建設反対運動も起こったそうです。
開業後しばらくは珍しいと乗客も多かったそうですが、まだ庶民には贅沢な乗り物であったようで乗客数は1日1,000人程度と見込みの1/4程度になりました。通堂への延伸も進まず乗客誘致策も実らず開業1年後には電気代も払えず沖縄電気㈱へと身売りせざるを得なくなりました。
沖縄電気の援助は大きく中断していた「通堂」への延伸工事も進み出し、大正6年9月11日に全線 6.9㌔が開業しました。盛大な開業式が開催されてこれからという時期に新線開業で雇用した沖縄県人への給与未払い等の人権問題が発覚、開通5日後にはストが決行される事態となり多数の離職者が出ました。
その後人権問題も沈静化、乗客も増えだして大正8年には目標だった1日平均 4,000人を超え、親会社の沖縄電気も好調で有力企業へと育っていきました。

好調時には「好事魔多し」と言いますが、社員の中で芸者に入れあげて会社の金を使い込み見られた幼い姉妹を殺害する事件が発生、続いて翌年には会社乗っ取り企む使者が潜入、まんまと鹿児島県人から東京資本へと経営権を奪い取りました。

電車の方はしばらくの間は好調が続いていましたが路線に並行するようにバス路線が出来てからは珍しもの好きの島民には受けて、フットワークの良さにしだいに客を奪い取られるようになっていきました。やや古さが出てきた電車も負けずに中古でしたが電車2両を増車して運行本数を増やしてサービス向上策を打ちましたがスピードアップは図れず、逆にバスは道路の改良舗装工事が進みスピードアップ化がなっていきました。

電車の乗客減はとどまず赤字転落となり多くのローカル都市同様に撤退となり昭和8年3月から休止区間が出てきて1933年(昭和8年)8月12日には約20年間の記憶を残して静かに廃止されました。

【 沖縄馬車軌道 】
沖縄の製糖会社は自社で原料のサトウキビ農場を持たず農家に求めました。そのために農家のある部落へ集積された原料を輸送するためにトロッコ軌道を必要としました。沖縄のサトウキビは1~4月に収穫します。1907年(明治40年)11月に設立され翌年には圧搾が始まった中東部西原村の製糖工場に向かう多くの762㎜ゲージのトロッコ軌道が敷設されていきました。

ただ収穫時期以外に使われない軌道を放置しておくのはもったいないと馬牽引による馬車軌道が県営鉄道与那原線開業の1ケ月前の11月11日から始まりました。最初に開通したのは与那原~小那覇 3.1㌔で県道上に徐々に北上延伸されて1916年(大正5年)12月9日に与那原~泡瀬 17.7㌔が全通してここでも盛大な開業式が開催されています。
走行速度は馬車ですので約6km/h程度で全線では3時間程度かかったろうと思われます。1日7往復が運行されています。客車は最盛期には定員14人、12人、8人、4人の4車種が用意され12両、貨車は51両、キビを運ぶ台車は600両以上が在籍しました。

県営鉄道の与那原とは発着が連動するように運行されていました。年に5万人前後の利用客があったようで路線バスが走り出して乗客が激減する昭和4年頃過ぎまで旅客運行は続きましたがキビ等の貨物輸送は盛況で継続されていったそうです。
この鉄路も戦局が沖縄決線となった頃には馬も徴用されて運行できなくなり、再度と軌道を走ることはなくなりました。

【 糸満馬車鉄道 】▲ 沖縄にはもう1つ馬車鉄道がありました。サトウキビを運搬することを目的とした沖縄馬車軌道とは違って、往来が多かった那覇~糸満の地域間旅客輸送を目的とした馬車軌道でした。1917年(大正6年)1月に地元の資本家らが出願し、1919年(大正8年)6月に垣花 ~地覇 4.3㌔が開業、翌1920年(大正9年)5月までに全線 9.3㌔が開業しました。
定員14人の客車が10両、貨車はなく30分間隔で運行、所要時間は40~60分でした。
バスとの競争に敗れる昭和6年頃まで年間約10万人くらいの乗客があったそうですが着工前の目標は20万人、貨物300トンで採算は苦しく経営を圧迫していきました。

1923年(大正12年)7月10日に開業した県鉄糸満線の影響は開業時少し受けましたが経路が全く違っていて馬車軌道の方が有利で所要時間もほぼ同じの50分前後でしたので競合はしなかったようです。しかし昭和6年5月に運行を開始したバスとは勝負にならず乗客減が続き昭和10年9月末限りで営業を終えました。

【 八重山・大東諸島に走った鉄道 】
沖縄本島以外の離島にもサトウキビを運搬するシュガートレインは走っていました。最も有名だったのは南大東島で1902年(明治35年)には1ft6in(457㎜)の手押し軌道が敷設され、大正6年には2ft6in(762㎜)に改軌、蒸気機関車もヘンシェル製の元両備鉄道No.4、1917年(大正6年)には自社発注の大日本軌道製Cタンク12トン蒸気機関車2両を購入してシュガートレインとして走らせた。戦後も復旧して8両のディーゼル機関車を投入して輸送は続きましたが1983年の収穫を最期にトラック輸送に切り替えられ9月に廃止されました。最盛期は島内をグルリと約30㌔の軌道がありました。2014年には島おこしで観光誘致の目玉にしようとの計画が持ち上がったが採算の見込みは立たず廃案となっています。

訪問しました石垣島にもトウキビ農場はあり港からトロッコ軌道が敷設されていましたが本島ほどの規模ではなく地元の方に聞いても知っている方はいなく、少しご存じなのは観光バスのガイドさんぐらいでした。
戦前に機械式製糖工場があったのは本島の西原、高嶺、嘉手納、豊見城、宜野湾と離島では宮古、大東の計7ヵ所だけでした。石垣に出来たのは戦後ですのでそれまでは小さな精糖小屋で水牛を動力に細々と続けられてきたと思われます。
▲ 今は観光に利用されています水牛ですが以前は農耕作に頑張っていました。各離島では今のインドネシアのような、こんな光景が見られたのではと勝手に思っています。
▲ もう一度軌道の地図を入れます。この軌道だけではなく台湾のように無数のサトウキビを運搬するための軌道が敷設されていました。戦争がなく残っていたら訪問するには絶好の国内の熱帯を走る光景を見れたでしょうね。 Part12へ続く

どこかにマイルの旅 2023年 沖縄へ Part11 沖縄に走った鉄道 続編」への2件のフィードバック

  1. ぶんしゅう旅日記様 平成28年10月に県営鉄道与那原駅跡を訪ねました。沖縄本島には様々な鉄道が走っていましたが、沖縄戦ですべて壊滅したのが残念でなりません。

    • 西村様、コメントをいただきまして、ありがとうございます。
      ハイ、残っておれば観光にも大いに利用できたでしょうね。戦後、復旧しようとする動きもあったようですが車社会のアメリカ人には馴染めなかったようで話は進まずでした。

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