【飲み鉄】豊橋の「おでんしゃ」で飲む。

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今年はうさぎ年なのでジャンプを・・・と年末年始の番組で盛んに使われていた言葉だ。その言葉通り、年初から忙しくなってきた。
小生は鉄道友の会にも加入しているのだが、そちらの知り合いから豊橋の「おでんしゃ」に乗らないかと誘われた。まだ乗ったことも無いし、一人で乗るのは困難なので2つ返事で参加すると答えた。
そして、その方の知人で、豊橋の市内線から歩いて3-4分の所に住む会員の方が予約を取ってくれたらしい。聞くところではなかなか予約が取れないそうで、今回は日曜日の昼便との事だが、「呑み助にとっては時間は関係ない。」と昼飲みが決定!
体調などに万を持して「いざ豊橋へ」。
豊橋駅で待ち合わせ場所に着いたら、すでに車両がやって来て待機していた。
おでんしゃの舞台、豊橋鉄道3200形。  豊橋駅前のデッキから。

さあ、ホームへ行こう。
車両が入って来た。3200形(元名鉄580形)の3203号が使用されている。
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お城と電車(14)松江城

今までお城をバックにした電車を発表してきたが、うまく城郭と電車が入る所は限られているのでこれからは城郭訪問前後に利用した電車も発表とさせていただきたい。その代わりと言っては何であるが12(今まで松山城を発表したので残り11)の現存天守のある城を当面の発表対象として続けることとする。

最初は宍道湖を眺める国宝松江城である。関ヶ原合戦西軍の毛利氏が支配していた出雲は合戦後東軍徳川方の堀尾吉晴が遠州浜松から入封し月山富田城を経由して松江に築城、城は1611(慶長16)年に完成した。別名千鳥城と呼ばれる。その言われは千鳥が羽を広げた格好に見える三角屋根を「千鳥破風」と言うなど諸説がある。従って木次線を走った快速「ちどり」は松江城のことである。佐竹保雄先輩撮影のC56のヘッドマーク付きの姿が「想い出の木次線(同志社大学鉄道同好会)」に掲載されている。

2002.8.17 松江城 ▼

武家屋敷、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)記念館などの観光をし、城見学の後は一畑電鉄松江しんじ湖温泉ターミナルをに向い、宍道湖をバックに一畑電車の撮影に向った。3扉→2扉化改造の京王の2104で担当は京王重機であるが、この頃松江の観光用バスには京王重機の子会社東京特殊車体が改造したレトロバスも走っていた。2002.8.17津ノ森-高ノ宮 2104電鉄出雲市行き▼

車輛は京王、南海の独壇場であった。上の写真の2104の京王時代の写真を探した。1970.2.27高尾山口-高尾間単線区間を行く急行新宿行き5718である。▼

 

 

マン鉄の勧め(4)マン鉄の聖地吹田市へ行こう(その3)

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吹田市のマンホールも今回で終わりになります。今回は第5弾と第6弾です。
(第5弾)
阪急千里線  千里山駅

例によって、ホームに進入した7300系(7323F)とベンチに「すいたん」です。
同じ編成の写真。京都本線の特急運用に入っていた時撮影。 2009-7-5

次は、JR京都線 岸辺駅です。
吹田貨物ターミナルの最寄り駅で、阪急正雀車庫も近いので、よく利用します。
これは207系と反対側のホームに「すいたん」がいますね。

次はJRおおさか東線 南吹田駅です。

図柄は神崎川信号所付近の鉄橋を渡る201系です。昨年10月のダイヤ改正で221系に車両が変更されましたので、この組み合わせはもう見られません。

おおさか東線を走る 201系      南吹田にて  2021-11-2

最後の第6弾は大阪モノレール 山田駅です。ここは阪急との乗り換え駅です。

走行する3000系の第1編成(3650F)。左の道路は中央部が中国自動車道、側道が中央環状線です。
3000系 3650F   万博記念公園にて   2019-12-3

この駅が最寄駅でショッピングモール(ららぽーとEXPOCITY)があり、休日には多くの人が訪れます。
(自動車が多いが、モノレール、路線バスの客もある程度います)

そして最後は 大阪モノレール 公園東口駅です。

駅の南側の歩道橋を跨ぐところ付近を走行する3000系第2編成です。
南摂津駅付近を走行する3000系 3651F      南摂津ー大日間 2022-11-8

ということで、吹田市の鉄道関連マンホールを全部ご紹介しました。
次回は関西地方の鉄道関連マンホール蓋とマンホールカードを紹介します。

ここで、マンホール蓋の写真の撮り方についてですが、小生はiPhoneを使用しているので、カメラで撮影モードを「スクエア」に設定すると、正方形の撮影範囲となり、マンホールがキレイに撮れます。普通に撮ると、大抵自分の靴までが写り込むか、横幅があまるので、ちょっとブサイクな写真になります。

そして、iPhoneでのメリットとしては写真を撮った場所の地図が見られることです。
写真を表示しておき、写真を上方向にドラッグすると、このような地図が表示されます。Google地図にデータを表示させる方法もあるようなのですが、ネットで見たところの記事では、小生は理解できませんでした・・・😢

(撮影時のちょっとしたノウハウ)
写真を撮る場合、なるべく真上から撮るようにしましょう。
ただし、日中太陽の角度によって、自分自身の影ができるので、なるべく影を避けながら、撮影します。マンホールの位置は、なるべく90°単位の角度で撮影しておくと、
あとで画像を回転させて正面から見た図柄になるようにできます。
また、雨の日には影がマンホールの表面にできて写真が黒くなりやすいので、なるべく腕を伸ばして撮影すした方がいいでしょう。
あとは撮影時に、歩道にある場合、歩行者が来ないタイミングまで待って撮影しましょう。通行する人から見ると変人とおもわれそうですが、変人ですよね!
また、道路の真ん中にあるような場合、相当気をつけないと、事故になりますので、あまり夢中にならず、周囲を確認してから車が来ないタイミングをじっくり待って撮影しましょう。

ではまた次回をお楽しみに。

マン鉄の勧め(3)マン鉄の聖地吹田市へ行こう(その2)

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前回に続いて、吹田市の鉄道関連マンホールその(2)です。
今回は第2弾から第4弾までに設置されたマンホール蓋をお届けします。
マンホールの蓋だけでは単調で飽きてくるので、関連の写真も併せて添付します。

JR京都線 吹田駅

第2弾では初めてJRの駅が登場しました。市の中心駅の吹田駅です。
駅前広場に設置されました。
図柄はJR207系車両と、例によって反対側のホームには「すいたん」がいます。
JR西日本 207系 S38編成         東淀川駅   2021-4-23

207系は京阪神だけで運用されている車両で、主にJR京都線・JR神戸線とJR学研都市線・JR宝塚線が活躍の場です。

第2弾はこの1枚だけだったのですが、第3弾ではいよいよ阪急バージョンが登場。
2022年が阪急千里線が開通50周年になったということで、市内にある阪急駅全駅に設置されました。うち、第3弾では、 吹田駅、山田駅、北千里の3駅に設置されました。
図柄は、吹田駅の北千里行ホームに入った5300系です。珍しく「すいたん」は写り込んでいません。なお、千里線で、淡路駅、下新庄駅は大阪市なので対象外です。
マンホールは写真に写っている駅舎の裏手に設置されました。
吹田ー下新庄間を走るマンホール図柄と同じ編成(梅田方)  2020-11-17

このあたりのカーブはかなりきついのと、背の高いフェンスに阻まれて、最後部まできれいに入る場所を探すのは至難の業です。

次は山田駅です。
こちらは7300系が北千里行のホームに入っていて、横に「すいたんが」大きなトランクを持ってしっかり登場。この駅は大阪モノレールとの乗り変え駅なので、そういうことも考えると、「すいたん」は伊丹空港へ行くのかな?でもこんな格好でヒコーキに乗せてくれるのでしょうか?(そう言えば被り物をしたまま搭乗した乗客というのは、まだ見たことも聞いたことも無いが・・・保安検査では覆面レスラーも素顔なんでしょうね(^^;)と妄想は尽きない小生(-_-;)


この駅のマンホール蓋は・・・淡路方面行の改札を出て下を向いて歩くと数歩ですぐ分かります。
この編成の梅田方の写真。この日は直前まで特急の代走で走っていて、河原町で車両を交換したあと正雀へ戻る運用に入っていたようです。
上牧ー高槻市間にて  2022-10-20

残る第3弾は北千里駅。
ここは、日本で初めて自動改札を導入したということで記録されている駅。
大阪で万博が開かれた1970年の3年も前に開業した初の自動改札を図柄にしています。
当初はキップを取り忘れるトラブルや、キップ詰まりなどトラブルが絶えなかったそうですが、50年経った今、都市部ではすでにキップもかなり減って来てICカードが主流という時代に・・・文明の進化というのはすごいですね。さらに50年後は多分ICチップが体に埋め込まれ、何も持たずに通過するだけで認識されるんでしょう。

「すいたん」はまだ生まれていなかったでしょうから、さすがに登場しませんね。

次に第4弾では初めてJR貨物の駅が登場します。
我々が利用することはできない駅ですが、岸辺ー吹田間の操車場の中に見える建物には「吹田貨物ターミナル駅」と書かれていますね。
こちらの図柄はJR貨物の主力機種、EF210形(愛称:桃太郎)です。
すでに130両以上の量産機となりました。この写真は現在では珍しくなってしまったJRFのロゴが入ったものですね。

図柄で登場しているのと同じ EF210-140号機です。 吹田―東淀川間  2009-3-18
余談ですが、この駅(?)の近くには吹田市の図書館があり、入口部の半地下の所には0系新幹線が展示保存されていますので、お近くまで行かれた方はそちらもぜひご覧ください。(車両番号:22-7007 R68編成 JR西日本所属)
さらに阪急シリーズが続きます。
阪急千里線  南千里駅
珍しく駅間での写真です。これは駅を出てすぐ北側にある南千里公園の下を抜ける隧道の出口付近と思われます。車両は3300系梅田行きです。サクラの季節に撮られた写真ですね。

こちらに登場しているのと同じ3330編成の写真です。 北千里ー山田間 2021-2-3

さて第4弾最後は関大前駅。
千里線の駅はホームがカーブしている所が多いです。線形もカーブが多い。しかも急カーブで狭いところを走っていなので、きれいな編成写真は撮りにくいですね。

この蓋は、幼稚園側の改札を出て、階段を上がったらすぐ前に・・・
登場している車両は1300系 1303編成です。
この付近で撮影した写真はさすがに無いので、本線を走行していたのを。
特急の運用に入った1303編成 特急 大阪梅田行き。 富田ー総持寺間  2022-2-11
というところで、マンホールに描かれた車両の実際の写真を手持ちの中から探してアップしましたが、いい加減長くなってきたので、このあたりにして、第5弾と6弾は次回ということにしておきます。
そのあとは全国各地のマンホール蓋やマンホールカードの話をする予定です。
お付き合いありがとうございました。

マン鉄の勧め(2)マン鉄の聖地、吹田市へ行こう!

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前回はマン鉄(マンホールと鉄道)について紹介させていただいたが、結構な数のコメントをいただいたので、早速続編を投稿させていただきます。

現在、全国にはおよそ1500万枚のマンホール蓋が設置されているそうです。
これらの中には、幾何学模様だけのものや、自治体の市町村の章が入っているもの、
さらにキャラクターやイラストなどの図柄が入ったもの、そしてそれらをカラー化したものといろいろな種類があります。
小生が住んでいる大阪府の中で、吹田市は交通の要衝として発展してきた「鉄道のまち吹田」として市のPRをしています。それをイメージして市内の鉄道駅にデザインマンホールを設置するプロジェクトを展開しています。
市内には、北大阪急行、大阪メトロ御堂筋線、阪急千里線、JR京都線、JRおおさか東線、大阪モノレール、そしてJR貨物の7社6線の鉄道が通っています。
また、これらの路線に加え、以前は「東洋一」と言われていた、吹田操車場があり、現在もJR貨物に引き継がれています。また、旧国鉄吹田工場もJR西日本に引き継がれています。
市としてはこれを下水道のPRに使用するため、各鉄道会社とコラボしマンホール蓋を設置しているわけです。
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東京ステーションギャラリーで開催の「鉄道と美術の150年」

 昨年末、わざわざ「やこうれっしゃ」に乗って東京にいったのは東京駅にある「東京ステーションギャラリー」で開催している「鉄道と美術の150年」を見るためである。いつも日曜日にEテレで日曜美術館を見ているのであるが、本編の他に「アートシーン」というコーナーがあって開催中の美術展の紹介をしている。そこで紹介していたのが「鉄道と美術の150年」である。ありとあらゆる鉄道に関する作品が展示されている。絵画はもちろんであるが写真もある。これがまた前衛写真やジオラマ風写真などいろいろな写真である。横尾忠則氏の作成のポスター、また貼り絵の山下清氏の駅弁の掛け紙もある。言葉では言い表せない多彩な作品と作品説明分もじっくり読むと楽しい。鉄道を趣味にしていて、絵画等に興味がある人は楽しい展覧会である。会期は1月9日まで。

 

 いろいろな発見のある美術展であることは間違いない。会期の終了も近くなっているので取り急ぎ紹介まで

 

マン鉄(マンホールと鉄道)の勧め(1)プロローグ

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初めての投稿となります。工(電気)ー1979年度 山下敬司です。
新しい投稿者が増えないとの話もあり、自分も投稿しないといけないなあと思い、先に投稿されております「お城と鉄道」シリーズに倣って「マンホールと鉄道」ということにしてみた次第です。

最近は鉄道ファンの中でも、いろいろと新しい分野の方々がその切り口を変えて鉄道の魅力を紹介してくれているので、底辺も広がって来ているように思う。
昔から聞くのは乗り鉄、撮り鉄だが、某N局で放映されている「飲み鉄」とか、「模型鉄」、「音鉄」などなど、次第に増えて来ている。
そもそも「鉄道ファン」という一括りではその趣味活動の範囲が広すぎて、自分が好む趣味範囲を互いに認識するために必然的に細分化してきたもののように思う。大抵の人は複数の分野に趣味を持っていることになるだろうが・・・

そして、今回小生が勝手に名付けてご紹介しようとしている「マン鉄」とは、「マンホール蓋」の図柄に登場する鉄道車両や鉄道関連の施設などを収集しようという趣味のことである。
例えばこのようなマンホール蓋があるのだ。
山口県山口市(旧小郡市)の下水マンホールの蓋のデザイン。

これは、旧小郡市の汚水用マンホールの蓋で、SLやまぐち号をモチーフに山口市指定の天然記念物「オゴオリザクラ」の花をあしらい、小郡に暮らした俳人、種田山頭火の句が添えられたものだ。現在は小郡市は山口市と合併したのだが、小郡区としてその地名は残存しているので、デザインの更新は行われていないようだ。

マンホールはある程度整備された町であれば、必ずあると言ってもいいくらい、どこにも見かけるものだ。

そもそも小生がマンホールに興味を持ち始めたのは2006年頃で、行ったところでマンホールの写真を撮るというだけの事だったのだが、その後2019年にTVで「マンホールカード」というものを紹介する番組があり、調べてみると全国に700種類以上のカードが発行されていることがわかり、しかもいくつかの自治体では鉄道車両が図柄に取り込まれたものがあるということで、鉄道趣味とマンホール蓋撮影の趣味が合体した。
ちなみに上述のマンホールカードとは、下記写真のような自治体などが発行しているトレーディングカードの一種で、発行している自治体の使用しているマンホール蓋の図柄とその図柄の関連や由来などの説明が書かれたものである。
例えば、先ほどの山口市の場合はこのようなカードが配布されている。

そして同年には会社を定年退職することになり、時間的な余裕ができたこともあり、出かける際に、そのついでというか、お城(日本百名城)を見て歩く趣味と、鉄道の乗りつぶしとマンホールカードとマンホール蓋の写真収集という3つの趣味を掛け持ちで行っている状態となっている。だから、どこかに出かけるのは事前調査と計画が大変である。(笑)

とは言え、コロナ禍で外出に制限が加えられていたり、カードの配布も中止されていたりということもあり、まだ進捗はこれからという所で、何度かに分けてこのテーマで書き進めていきたいと思う。

今回は初投稿ということもあり、とりあえずここまでとさせていただき、次回は近畿地方でのマン鉄活動の成果をお届けしたい

 

準特急、準特急を撮る!

12月17日(土)ダイヤ改正で阪急電鉄に準特急が新設された。準特急は2001(平成13)年から今年3月まで21年間京王電鉄で使用されていた列車種別である。京王では当初、特急と準特急の違いは分倍河原、北野の停車であったが、その後その2駅に特急も停車するようになり、千歳烏山、笹塚の停車が違いとなっていたが、3月からはその違いもなくなり特急に一本化された。座席指定の京王ライナーの存在があったものと思われる。一方、阪急電鉄では京都線で快速急行→準特急へと変更があり午後を中心に土日祝、平日ともにかなりの準特急ができた。これに対し神戸線の準特急は極めて本数が少ない。ダイヤを検索されたし。

それでは12月17日土曜日改正初日からの撮影を順を追ってみる。この日は門真市のホテルを出て大阪モノレールで阪急京都線南茨木に向い、茨木市で目的の準特急京都河原町行きに乗り換えた。久しぶりに見慣れたネーミングの列車をみたがこの日は曇天で雨が降りそうな天気であった。8時2分準特急列車は9404を先頭に到着。▼

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沖中・湯口 両先輩を偲んで

1961(昭和36)年、浪人中だった私は、模型も写真もやめて趣味の鉄道は読書のみに縮小していました。11月下旬に鉄道ピクトリアルを買ってくると、同志社大学鉄道同好会による私鉄車両めぐり48・京阪電気鉄道が掲載されていました。戦時中に空襲をのがれ大阪市から先祖の地である京都府宇治市に疎開していて、京阪電車は幼いときから身近な電車だったのはさておき、こんな記事を掲載させる実力のある鉄道同好会があるんや!これは何がなんでも同志社大学に合格せんとあかんと年末年始も猛勉強して1962年度生として入学できました。入学式を終えるや鉄道同好会を探し回り無事入会できました。
京阪電車の記事の主筆、沖中先輩・湯口先輩は大学入学の恩人です。円山公園の長楽寺でのコンパをはじめ、同好会では鉄道を種に広く雑学なるものを学ばせてもらえ、その後の人生に少なからず役に立ったと思っています。早いもので入学してから60年余り、仲良くお二人、ご逝去の2022年は感慨深い年になりました。
沖中忠順さん湯口徹さん、本当にありがとうございました。

鉄道ピクトリアル 私鉄車両めぐり48 京阪電気鉄道の一頁目と編集後記です。難産のうえ、お二人を中心に4回にわたって掲載された大作であることが分かります。

 

 ありがとうございました。湯口 徹 さん

既報のとおり、クローバー会会員、湯口 徹 (ゆぐち とおる)さんが、去る12月11日に、お亡くなりになりました。享年86でした。当掲示板を通じて、会内外の皆様に、謹んでお知らせ申し上げます。

湯口さんは、昭和11(1936)年9月、佐賀県鳥栖市に生まれ、高校時代から京都市に居住、同志社大学経済学部に進学されました。在学中に、故・沖中忠順さんらとともに、鉄道同好会を設立され、初期段階に鉄道ピクトリアル誌上で私鉄車両めぐり「京阪電鉄」を発表され、斯界から注目を浴びました。OB会の設立後は、メンバーの中心として活躍され、当掲示板にも、多くの投稿をしていただき、会メンバーは多大な薫陶を受けるとともに、当会の名を広めていただきました。

活動は会だけに留まりませんでした。「一次資料しか信用しない」「他人の原稿も信用しない」、その強い意志で、数々の著書を発行され、鉄道趣味界、なかでも、内燃動車の研究においては第一人者の確固たる地位を築かれました。お上に汲みしない、歯に衣着せぬ明快な論理は、“湯口節”として、出版社や読者から信頼を得て、多くの湯口ファンも醸成されました。しかし、その影には、公文書館や図書館へ一週間続けて筆写に通うなど、地道な調査、ご自身の努力があったからこそ、なし得られた境地でした。

クローバー会にとっては、今年7月の沖中忠順さんに続いての悲報で、まさに“巨星墜つ”でした。謹んで、お悔やみ申し上げます。

ご逝去の報は、米手さんから第一報を入れていただきましたが、改めてご遺族の了解を頂いたうえ、掲示板でお知らせするものです。

お城と電車(13)甲府城

甲斐の国と言えば武田信玄であり、その城は甲府城ではなくもう少し北にある躑躅ケ崎館である。甲府城は武田氏滅亡後将軍家に最も近い親藩の城となった。築城は1583(天正11)年とも1585(天正15)年とも言われ家康が建てたとの説が有力である。三橋美智也の武田節には「人は石垣、人は城」とあるがこの石垣はどこのものなのだろうか。関東には石垣があるのは江戸城、小田原城、甲府城、沼田城(山梨県は、天気予報やニュースなど関東、甲信越と一括りになっている)くらいだと聞いたことがある。幕末の戊辰戦争の末期には幕府から新選組組長近藤勇に甲陽鎮撫を命ぜられたが、目指す甲府城に行きつかず板垣退助に敗れ敗走し最後は板橋で処刑されている。明治の廃城の後に現在のJR中央本線が開通しており城は分断されている。

写真の左部分にも再建の城建物があるが下手な撮影で右の櫓のみ 2018.4.8 17:25身延線ホームより撮影 ▼

50年前の大和川検車区

一昨日は奈良の駅名研究家さんが計画された阪堺電軌161形の乗車会に行ってきました。天王寺駅前から浜寺公園までの乗車で、途中我孫子道でトイレ休憩という計画でした。我孫子道では車庫の方に入りそこで下車となりました。降りたあたりで撮影していると同乗していた係員の方から奥まで来てもらっても結構ですよと言われ、車庫内も見学させてもらいました。ここは我孫子道車庫とも言われていますが正式には大和川検車区で、すべての車両が配属されています。私のDRFC現役時代に見学会で来たことがあり、今回2回目の車庫見学となりました。乗車会についてはまた報告していただくとして、昔の見学会を振り返ってみることにしました。↑ 当時主力のモ250形の前での記念撮影です。50年も経っていて、皆さん大分お変わりになっておられるのでそのまま出させてもらいました。 続きを読む

保存蒸機とその現役時代(50)C551

前回京都鉄道博物館でC621の横に並んでいたのが同じくトップナンバーC551。昭和10(1935)年川崎車輛の製造で小樽築港、旭川、室蘭、旭川とずっと北海道内で活躍した。C55はC51→C54→C55と続くライトパシフィックの位置づけでスポーク動輪が最大の特徴であった。それまで二つあったコブも一つにまとめられそのスタイルはボックス動輪化されたC57に引き継がれていった。C57は完成された亜幹線用の旅客用機関車で貴婦人と呼ばれるようになったが同じライトパシフィック機ではC55の方が貴婦人だという人もいた。名古屋区の関西線や福知山、豊岡区の山陰線、福知山線、播但線等関西地区でも見られたが、転属、廃車で北海道、九州に集約されていった。蒸機ブームの始まるころにはC55、C57の姿を求めて若者は遠隔地を旅行したが、今はお爺さんになって同じような昔話に花を咲かせている。

京都鉄道博物館に静態保存中のC551 2011.4.23 ▼

1966.9.4 東室蘭のC551 この写真はプロ野球大洋、巨人で駿足好打の選手として活躍した屋敷要さんの「遥かなる鐡路」に掲載されたもの ▼

1966.9.4 東室蘭 同機のナンバープレート他 ▼

関連写真として台湾彰化で見た入れ替え作業中のC55形CT252 1968.3.23の撮影で台湾は国共内戦で台湾に逃れた蒋介石総統の時代で大陸は毛沢東であった。▼

お城と電車(12)熊本城

熊本城は慶長12(1607)年築城の名手と言われた加藤清正により建てられ、その後加藤氏改易後小倉から細川忠利が入城し細川家が幕末まで続いた。城は明治10(1877)年、日本の最後の内戦西南戦争の戦地となり、原因不明であるが焼失している。その後昭和35(1960)年に大小天守が復元された。平成28(2016)年の熊本地震により損傷を受けて現在は修理中である。熊本城は別名銀杏城と言われている。城内には宇土櫓という遺構が残存し小西行長の宇土城の移築と言われたが真相は不明である。有名な櫓であるが写真が見つからず割愛させていただいた。また、熊本城の石垣の勾配は見事で武者返しと言われているがこれも写真紛失で割愛した。どなたか特徴ある姿を撮っておられ追加していただければ幸いである。熊本城は江戸城は別格として大坂城、名古屋城とともに三名城と言われていることは前に述べたが、もう一つ規模的なことを考慮して三大名城というのがあるが、これは大坂、名古屋、姫路城であるがいろいろな説があり三名城自身も三大名城とも言われはっきりしない。

1988.5.1  昭和35(1960)年再建の大小天守 ▼

城内には西南戦争で西郷隆盛と戦った官軍熊本鎮台司令長官谷干城(たにたてき / たにかんじょう)の銅像があったが、現在は他の公園に移されている。▼

熊本市交通局の電車は皆さん何回かデジ青で発表されている。私は市電にあまり熱心ではなく、ついでに撮った数枚のみである。何れも1988.5.1熊本城前付近である。1032▼

1093②健軍町行きと読める ▼

同じく9703 ▼

 

 

保存蒸機とその現役時代(49)C621

昔の乗り物絵本には大抵C62の「つばめ」や「はと」が出ていた。それを写真に実現した山科の鉄道写真界の人間国宝佐竹先輩には毎度のことながら羨ましき限りである。もっとも今の若い方には撮れただけでもええやないかと言われそうであるが今回はそのC62のトップナンバーである。私の撮影時(1963-1964年)の山陽本線は架線が張り巡らされていたが走るホテルと言われた20系ブルートレインは何れもC62牽引で、撮影可能な下り1列車「さくら」、7列車「みずほ」が広島運転所(旧広島第二区)、3列車「あさかぜ」、5列車「はやぶさ」は下関区の担当であった。また、その他の急行列車もC62若しくはC59が牽引し、正しく夢のような時代であった。この様な中でトップナンバーC621は一度も優等列車牽引に巡り合わなかったのは残念である。しかし、トップナンバー故なのか広島で保存の後に梅小路の京都鉄道博物館に静態で保存されている。訪問した日は何れも雨だった。

C621略歴:1948(昭和23)年 1月 日立製作所笠戸工場にて落成 製造番号1921

新製後広島第二区に配属、1950(昭和25)年8月から1957(昭和32)年9月のおよそ7年間は宮原区で特急「つばめ」、「はと」など主力列車を牽引したが、再び広島に配属され1967(昭和42)年7月に同区で廃車となった。

1963(昭和38)年3月27日 下関 221列車柳井発門司行きを牽引後機関区へ向かう▼

1964(昭和39)年7月23日 横川-己斐(現西広島)229列車大阪発門司行き ▼

1968(昭和38)年3月27日 下関 C621ナンバープレート▼

2011年4月23日 小雨煙る中、屋外展示中のC621 ▼

2022年11月13 日 ホームカミングデイ総会の直前に撮影 北海道にいたC551と庫に並んで展示中 ▼

 

お城と電車(11)江戸城

江戸城と言えば太田道灌が築城(1457年長禄元年)したと習った記憶がある。その後、徳川の本城として家康、秀忠、家光三代が改修、各地の諸大名を総動員(こきつかった)して広大な城郭をつくりあげた。天守は1607年慶長7年)につくられたが明暦の大火等で現存していない。過去にNHKブラタモリでも江戸城が放映されたが敷地は日本一でどこまで続いていたのかのかよくわからない。

2003.5.1 西の丸のシンボル伏見二重櫓と続き多聞櫓 ▼

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 道東の“駅”を「記念消印」で巡る  ③

クローバー会「ホームカミングデー」の感動の余韻に浸る間もなく、デジ青復帰します。集まりでも、デジ青について述べさせてもらいましたが、投稿する側からすれば、あれこれ議論する前に、とにかく投稿を続けることが最善の道だと思い、私もセッセと載せて行くことにします。

浜小清水

大正14年の開業、当初は「古樋」という駅名だったが、市街地の小清水が、8キロほど内陸側にあるため、「浜小清水」と改称された。急行が健在な頃は停車駅で、駅も二面三線の交換駅で、側線も多かった。いまは対向式の二線駅になっている。浜小清水を発車する網走行き、C58+客車3両、側線には多くの貨車が留置されていて、貨物扱いも多かったことが分かる。左手のオホーツク海には流氷が広がる。
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1987年を振り返る(その4)

10月4日、同志社大学鉄道同好会30周年記念号では、宮原客車区から始発の京都駅までの送り込み回送の添乗を担当した。ここでの用務と言えば、荷物の積み込み、確認と向日町区でのサボ取り付けくらいしかない。これを同じ85年度生のK氏と一緒に行うのが仕事であった。

1987.10.4 宮原客車区

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EF58 61 鉄道博物館に収蔵

EF58 61が鉄道博物館に収蔵され、期間限定でお召装備で展示されているとのことで、11月5日、新潟車両センターの公開の帰りに、大宮で途中下車して、行ってまいりました。

展示場所は、入り口正面です。さすがに他の展示車両と異なり周囲を硝子板が囲ってありますので、なかなか撮影づらい状態で展示されています。その上、入れ代わり立ち代わり写真を撮る人がいるので、なかなかタイミングが難しいです。

15時過ぎ行ったのも、閉館まで粘って、人がいなくなったらとの思いでした。

待っていると偶然、外を後継のE655系「なごみ」が通過しましたが、突然のことでタイミングを逸してしまいました。

窓の外の茶色い線がE655系「なごみ」です。

どうやったら、うまく撮影できるか? いろんな場所から検討してみました。2階からは、上の写真にあるように車体に梁がかかります。

下に戻ろうと下りのエスカレーターに乗ったとき、閃きました。

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1987年を振り返る(その3)

9月6日、秋田の大学の友人を訪ねることになり、青春18利用なので、大垣夜行340Mで東京まで出て、上野から常磐線に乗り換え、北上する。日立電鉄に乗るため、大甕で降りる。上野から鈍行では約2時間半の道のりである。

1987.9.7 鮎川から大甕まではほぼ常磐線と並走

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