現役生会長です。
10月29日(日)に上京中学校で開催された上京区民まつりに出展させていただきました。
新町レイアウトを展示しましたが、お子様を中心に多くの方々にお越しいただき、大盛況でした。
お越しいただいた皆さま、ありがとうございました。また、主催された皆さまや出展されていた皆さま、お疲れ様でした。
現役生会長です。
10月29日(日)に上京中学校で開催された上京区民まつりに出展させていただきました。
新町レイアウトを展示しましたが、お子様を中心に多くの方々にお越しいただき、大盛況でした。
お越しいただいた皆さま、ありがとうございました。また、主催された皆さまや出展されていた皆さま、お疲れ様でした。
徳川家康の命により、関ケ原で戦功のあった上州高崎の井伊直政が近江に封ぜられ慶長8(1603)年頃に築城に着手し元和8(1622)年に全体の完成がなされた。彦根城はその普請に際して近縁の諸城から門や櫓など多くの建物を移建したとも伝えられ、石垣も運ばれたという。大津城、安土城、長浜城、小谷城などがその対象となったようである。
2023.8.29 彦根城 三層三階の天守に石垣は牛蒡積み(野面積みでも奥行きのある胴長石を用いる)▼
2023.8.29 本丸太鼓門 ▼
2023.8.29 彦根駅の3475M近江塩津発新快速姫路行きクモハ224-104 ▼
彦根城は車を運転していた頃近江八幡城や安土城訪問後に行こうとしたがテントを張って工事中のため諦めた経緯がある。今回の訪問で日本の残存天守のある城は全て行ったことになる。猛暑の中、彦根駅からは徒歩でも行けるが往復タクシーを利用した。タクシーを降りてからが大変で長い階段状の道を歩き、天守へは急な階段を登り一苦労で会った。電車からは遠くに彦根城を見ることができたが、線路端を歩き城を入れて電車を撮る気力はなかった。湖国に聳える国宝彦根城を最後に「お城と電車」シリーズは終了とさせていただく。
姫路城の始まりは羽柴秀吉が姫山に三重の天守を構えた時からである。慶長6(1601)年に姫路に入城した池田輝政は大造営に着手し、同14年までに城郭全体の事業を成し遂げた。白鷺城とも言われ最も美しい城である。
2014.4.10 国宝であり、世界文化遺産登録の姫路城▼
2014.4.10 満開の桜と姫路城 ▼
姫路城をバックにした鉄道写真は是非撮ってみたいが場所が見つからず今日に至っている。あれだけ大きな城であるから新幹線、播但線、山陽電鉄のどこかで見えると思うが熊本や松山の様にはいかない。皆さんで撮れそうな場所があれば情報をお願いしたい。仕方なく姫路駅付近で撮影した写真を貼らせていただく。
2014.4.10 EF651136牽引西鹿児島発新大阪行き32列車「なは」と播但線用103系 ▼
1965.11.12 姫路駅を出発するC5743[豊岡]牽引の播但線貨物列車 ▼
お世話になっております。現役生会長です。
昨日、総会終了後に京田辺レイアウトの移動作業を行いました。長らく新町BOXにて保管されていましたが、11月に開催されるクローバー祭出店に際して、この度京田辺BOXに移動させることとなりました。業者の方々の安全な輸送、そして暑い中での搬入及び搬出に協力してくれた会員の皆さんのおかげで、スムーズに作業は完了しました。改めて感謝申し上げます。
クローバー祭は11月4日(土)と5日(日)に京田辺校地にて開催されます。当会も京田辺レイアウトを出店します。新町にて保管中にレイアウトの修繕も行いましたので、ぜひお越しください。
現役生一同お待ちしております。
夏目漱石の「坊っちゃん」や道後温泉で有名な松山にも残存天守がある。松山城は姫路城、和歌山城とともに三大平山城に数えられている。賤ケ岳の七本槍の一人加藤嘉明が築城した最初の松山城は五層であった。現存する天守は安政元(1854)年の再建であり、日本の残存天守の中では一番新しい。
1998.5.1 勝山山頂にある壮麗なたたずまいの松山城 ▼
伊予鉄道市内線電車と松山城を入れて撮れる場所が愛媛県庁付近にあるが、その機会を逃してしまった。伊予鉄市内線ではDRFCの間では元京都市電2000形の活躍が人気であるが、どのような形式でもかまわないのでお城を入れて撮られた方がおられたら貼り付け投稿していただきたい。私のは2017.7.16JR松山駅前の2103である。▼
2007年9月3日 諫早・長崎の日常を撮る
島原鉄道の続きとして、諫早・長崎の日常の光景を見ていただきます。列車待ちの間に撮った写真ばかりで、格別な意識もなく、当たり前に撮った写真です。その後、2022年9月に西九州新幹線が開業し、列車も駅舎もすっかり新しくなりました。まもなく開業一年となる西九州新幹線に乗ったことがない身にとっては、デジ青やほかのメディアで、現在の同付近を知ることしか術はありませんが、15年前との風景の違いを感じています。▲朝早くに諫早駅前のホテルを抜け出して、島原鉄道のDCを撮り、朝食後に諫早駅で長崎行き「あかつき」を撮った。もう“ブルトレ”という言葉も聞かなくなったが、15年前,(高齢者にとっては“つい最近”)には、まだ走っていた。九州伝統の椀型のヘッドマークを付けていた。▲▲最後部には“レガートシート”のオハ14形300番台を連結。
「お城と電車」と何気なく題を付けてきたが気動車が走る非電化区間も題としては電車である。今の若い方、特に女性は気動車であっても電車と表現する方も多いのでその辺は気にしないで進めることとする。気にするのは今デジ青上では総本家さんが自主公演「あの日あの頃ほぼ同月同日に還る~26~」で島原鉄道を取り上げられていることである。この点についてはつい先日総本家さんと東京渋谷で島原城ほかの話をさせていただいたのでここに発表させていただく。お城シリーズもそろそろ打ち止めであるが話が進むうちに思った以上に立派な島原城があったので今回の発表とした。
島原城は1618(元和4)年から松倉豊後守重政が約7年の歳月をかけて築いた近世城郭で五層の天守閣と大小の櫓から成る壮麗な城であった。それ以来4氏19代の居城であったが、1876(明治9)年に石垣と堀を残して解体された。1964(昭和39)年に地元の方や関係者の熱望もあり天守閣が復元された。4万石とは思えない分不相応の立派な城である。
2007.10.28 朝撮影した島原城 ▼
最近自動車免許の更新をしましたが、高齢なので認知試験がありました。画像を見せられ、いっとき置いてからさっき見たのは何やったという試験です。さて下の画像の場所は何処でしょうか。時は1959年。最近の掲示板投稿の一枚に違う角度からの画像が掲示されていましたが記憶にありますでしょうか。
暑くて投稿が進まないが久しぶりの「お城と電車」である。残存天守のお城には鉄道を入れて撮れるのがなかなかないのが悩みである。今回の犬山城はNHK大河ドラマ「どうする家康」の舞台となった木曽川河畔にある風光明媚な国宝の城である。犬山城は天文6(1537)年に創築された美濃金山城の移築説もあり同年信長の叔父信康が築城したとも言われているがはっきりしていない。本能寺の変以降は秀吉対家康・信雄連合の小牧・長久手の戦いを経て、世の中は徐々に家康が優勢となっていった。この間、家康が名古屋城を築くまでは犬山城の軍事的な位置づけは大きかった。一方、犬山城は成瀬家個人の所有で有名であった。元和3(1617)年に成瀬正成が城主となり以降9代の長きに渡り城地を守り続け明治を迎えた。濃尾大地震では天守以外は倒壊したが、旧城主の成瀬家の努力で保存された。1981.1.21のカラー写真の保存状態がよくなくこれ1枚が一番マシであるので掲載させていただく。▼
2009.3.7にDRFC-OB会の会合が犬山で開催されたが、翌日は明治村の古典蒸機、N電、蒸気動車それに古い建造物を見学した。行事終了後、名鉄犬山線と並行して走るJR高山本線を撮影した。その中に名鉄5402~5302の新岐阜発犬山行きを撮った写真があるが遠くの山の上にかろうじて犬山城が見える。5300系は5700系と同様にパノラマカーなき後にも残っていた2ドアクロスの車両で5700系が新造車であるのに対し、5300系は5000系や5200系からの機器流用車である。▼
ちょっと高くつくんですが「写ルンです」で写すのは面白い。現像ができあがってみないとちゃんと写っているかわからない。そして当たり前だが、ズームはない。フラシュはあるが、私は使わないことにしている。暗くてもそのままシャッターを押す。「写ルンです」は焦点距離32mm、レンズのf値は10、シャッタースピードは1/140sでレンズはプラスチック製。写真を撮るにはかなり制約されるが、この制約条件の中でどのように撮るのか。これも楽しみの一つである。
なんでも取っておく習慣があるのは戌年のセイか?と思われますが、本を整理していると思わぬものが出てきました。
「模型とラジオ」という雑誌を覚えておられますか?中学生の頃に毎月買って読みふけっていました。その昭和36年4月号に1/80の青写真が付いていたのです。当時としては話題の新型機関車ばかりです。べつに珍しくもないワイ!と言われるのを覚悟の上で夏枯れの紙面を賑わせたいと考えました。
横浜市電を投稿するにあたり7月15日に市電保存館に行ってきた。保存館は田浦の梅林を見た直後2011年3月11日の東日本大震災に遭遇して夜間横浜まで歩き通した時にチラッと見ているが実際館内に入ったのは始めてである。保存館は市電時代の滝頭車庫にあるが、磯子、根岸、京急上大岡あたりからバスに乗ることになるので便利ではない。館内には523(単車)、1007、1104,1311,1510、1601と花電車らしきものが保存されている。保存車と同一ナンバーの車両の現役時代の姿も併せて発表する。
まず、横浜と言えば単車王国でその代表である500型(501~559)は昭和3(1928)年から60両(うち15両は600型に改造)もつくられたのであちこちで見かけたことは前回に記した通りである。保存車輛のこのブルーカラーは残念ながら見たことがない。▼
横浜は2023年時点でおよそ人口が377万人あり大都会である。昔は神戸とともに2大貿易港として君臨した。一方、我が国始めての鉄道が明治5(1872)年新橋(汐留)-横浜(桜木町)間に開通したことは誰もが承知のことである。人口は2番目であるがその印象は東京の影に隠れてもう一つ薄いような感じがする。横浜の有名な観光スポットとしては中華街、山下公園、三渓園等があるが京都、東京、大阪と比べても少ないように思う。歌の世界では美空ひばりの出身地であり、「赤い靴」など物悲しい童謡があった街である。青江美奈の「伊勢佐木町ブルース」や石田あゆみの「ブルーライト横浜」などよく知られた曲が多数ある。石田あゆみは女優、歌手でフィギュアの選手であり、姉は同競技で全国3位になったことがある同志社大学卒業生である。最近のデジ青では駅弁が賑わっているがここは崎陽軒のシウマイである。
さて、本題の市電の話であるが、大学時代の4年間実家が横浜にあった関係で学校が休みの間に時々暇を見ては撮っていたものを今回発表させていただく。従ってかなり記憶が薄れて街並みも大きく変化したので一度かつての場所を見てみたいがこの猛暑では無理である。総本家青信号さんお得意の新旧定点撮影もできず全体に曖昧な所もあるがお許しを願いたい。加えてカラーは1枚もないことをお断りしておく。
横浜市電は明治37(1904)年7月に横浜電気鉄道により開業。途中、大正10(1921)年に横浜市が買収し、昭和47(1972)年3月に廃止されるまでの約70年間市民の足として活躍してきた。従って、70年の歴史のほんの最後の5~6年間の記録であるが、それでも廃止後50年を経過しており街の風景や人々の姿は今とは変わってしまっているので記録として報告する。
横浜市電は昭和40(1965)年から撮影を始めたがいつも見慣れていた京都市電に比べて今ひとつ洗練されていないように感じた。また、都電のように車種が多くないことも面白みに欠けていた。ただ、嬉しいことに単車がゴロゴロいたことである。
<単車群>
それではその単車から見て行きたいと思う。最初はダブルルーフであった400型である。この車両は32両あり、昭和41(1966)年に廃車されて形式消滅しているのでギリギリ間に合って撮ったことになる。1965.12.21元町付近⑤系統419号▼
500型は昭和3年(1928)年に東京瓦斯電気、蒲田車両、雨宮製作所で20両ずつ計60両製造された。戦後、15両が600型に改造されたが、昭和44(1969)に廃車となった。これだけの両数があったので市内の至る所でこの500型を見ることができた。この有名な麦田のトンネルを撮っていないと横浜市電を撮ったことにならないと言われた名所である。1967.2.11雪の日の麦田町-元町間の専用軌道を行く⑤系統539。
600型は戦後空襲で焼失した500型を復旧した車両で窓が二段式となっているのが特徴である。1966.8.17反町停留所を出た①系統603号弘明寺行き。▼
700型は戦前に200型と貨車を改造して作られたとのことであるが木工に秀でた職人がいたとかで木造のようだが定かではない。昭和42(1967)年に廃車となっている。1966.7生麦車庫で廃車直前の717号▼
この他に戦後の混乱期に最後の単車800型がつくられたがお目にかかることはなかった。
<ボギー車群>
1000型は横浜市初のボギー車で昭和3(1928)年震災復興事業で20両製造された。馬力が小さいため、平坦な路線を中心に運用され昭和45(1970)年に廃車された。
1969. 市庁前を行く②系統三渓園行き1019号。この付近に平和球場があり、現在は横浜スタジアムとしてDeNA横浜ベイスターズの本拠地になっている。市庁は現在は関内地区とみなとみらい地区の結節点に移転新築されている。▼
1967.7.31 杉田線廃止の最終日の⑬系統桜木町行き1005号。杉田▼
正月を迎えると停泊中の舟から一斉に汽笛が鳴り、新年を新たに感じたものである。漁船等は大漁旗を挙げて港横浜の正月を演出してくれた。ゴチャゴチャして見にくいが桜木町駅前の橋の上を行く1000型である。バックは海であるが、現在はみなとみらい地区になっており想像できない風景である。1969.1.2桜木町駅前▼
1968.8.17 東海道線の見える反町-青木橋あたりを行く⑫系統1019号葦名橋行き。▼
1100型は昭和11(1936)年に新式中型ボギー車として梅鉢車両にて5両製造された。クロスシートが装備され「ロマンスカー」と呼ばれたこともある。昭和42(1967)年ワンマン化改造されたが、1972(昭和47)年の市電全廃まで活躍した。
1969 市庁前付近の公園をバックに走る④補系統麦田町行きの1102号▼
1150型は和製PCCを目指した1500型の使い難さ経費増などの反省から従来の考えに戻して新たに製造したものであり外観は1500型に類似している。1952(昭和27)年から1955(昭和33)年にかけてナニワ工機、宇都宮車輛、交通局で22両製造され1972(昭和47)年の市電全廃まで使用された。1967.7.18 かつては海水浴場があった間門付近を行く⑤系統洪福寺行き1166。▼
1967.7.31 杉田線最終日の装飾された最終滝頭行き1166号。▼
1200型は1942(昭和17)年に製造された3扉ボギー車。1967.7.31桜木町駅前を行く⑬系統杉田行き。船と市電が写るのも横浜らしい。 ▼
1300型は終戦直後の混乱した昭和22(1947)年に輸送力増強のため30両を製造。車体も軽く、性能も安定しており、高馬力であって③、⑦系統のでの使用が多く最後のツーマン車として昭和46(1971)年まで使用された。1969.1.2 元町停留所の②系統葦名橋行き1317号。後方右に入った所がファッションの元町商店街があるが私には全く縁がなかった。▼
1400型は昭和24(1949)年木南車輛で10両製造され昭和45(1970)年まで在籍した。ノーシル・ノーヘッダーの丸みを帯びた外観が特徴。▼1967.7.31杉田停留所で発車を待つ⑬系統1405と後続の1403▼
1500型は300型の代替として1951(昭和26)年に製造。和製PCCカーだが吊り掛け駆動の間接制御車である。台車に防振ゴムを使い振動、騒音を少なくし、電機と空気ブレーキを使用するなどした。しかし、現場の評判がよくないのか20両の製造に終わったが、市電廃止の日まで使われた。1967.7.31杉田停留所で折り返す⑬系統桜木町駅前行き1509号。▼
1969 吉浜橋付近の④系統三渓園前行きの1513号▼
1600型は昭和32(1957)年交通局で6両製造された最後の新造中型ボギー車。後部乗降口を中央に移したバス型配置で出入り口を大きくとり、4枚折り戸を採用。昭和45(1970)年に廃車。1967.7.31オート三輪が走る国道16号杉田停留所の1603号。▼
次回はその2として滝頭にある横浜市電保存館を紹介して終わりにする。
予算本線の下り列車が宇多津を出て間もなくすると左前方の小高い山の頂にそびえる丸亀城のが見えてくる。ここで城シリーズの間が空いたので年をとっても頭脳聡明な諸兄には失礼であるがおさらいをさせていただく。快速つくばねさんからも詳細なご説明があったとおりが日本の残存天守は20あり、そのうち四国には4カ所ある。高知、松山、宇和島そして今回の丸亀である。
丸亀城は生駒、山崎、京極氏と三氏にわたって築かれ自然の山をうまく利用した城である。豊臣系の生駒氏はお家騒動で出羽矢島に転封され、山崎家治が寛永18(1641)年に入封し、この頃に現在の丸亀城は完成したと言われる。山崎氏も不運な城主で三代で絶家となり以降近江佐々木源氏の末裔京極氏の時代となり明治まで続いた。
版籍奉還後は多くの櫓などが取り壊されたが、旧藩士の必死の嘆願により天守や御門などは破却をまぬがれて、現在は重要文化財に指定されている。
三層の天守は、小藩であったため遠慮したのか、旧藩時代には櫓と称していて目の前に見る天守は小さい。しかしここから見る眼下の街や瀬戸内海は見事である。以下撮影は1998.5.3 ▼
6月17日に京都おもちゃ映画ミュージアムのご協力で「特急三百哩」を鑑賞できる機会を得ることができました。この上映会にご尽力をしていただいたクローバー会先輩諸氏に感謝したいと思います。ところで「無法松の一生」がタイトルに書かれているのはなんでやねん!
奈良の駅名研究家さんから「駅前喫茶店(第61回「城」を含む駅名)」で「城」とあったので一瞬びくっとした後、快速つくばねさんからのコメントでこの分野は準特急さんの専門と言われ、最近はあまり投稿していないので背中を押されたような気分で急遽ネタ探しをしたのがこれです。大分日が経ちましたが今回北九州大旅行をして来た時の話です。途中抜け出して熊本に墓参りに行ってきましたのでえらそうなことを言えませんが、イベント前後の話です。航空券が入手できなかったので普段はなかなか乗車できない山陽新幹線にしました。帰りに乗ったことがない500系に乗ることが目的でした。定宿にしている東横インの小倉駅新幹線口は少し辺鄙な所ですが客室から小倉駅を発車する新幹線が見えました。2023.5.26 岡山行きこだま874号500系8連▼
吉田耕司先輩は私が入会した時の4回生でした。卒業後も当時存在した江若鉄道の近江今津までご一緒させていただいたことがあります。先輩はもっと遠い所に旅立たれてしまい寂しい限りですがこの場をお借りして生前にお世話になりましたことに対して御礼を申し上げますとともにご冥福をお祈り申し上げます。
さて、北九州ツアーですが、参加者名簿を見ますと私が、最上段にあり、つまり最高齢参加者ということになり、皆さんにご迷惑をおかけすることはできないので前日26日に新幹線で小倉入りしました。おかげさまで天気に恵まれ幹事の方にもよくしていただき会長さんの投稿にありますように大変楽しい旅行ができました。特に最初の門司港にあります九州鉄道記念館ミュージアムには懐かしい国鉄時代の車両が展示されておりましたのでそれら展示車両の現役時代のフィルムを見つけ出して対比してみました。記念館の展示車両は参加できなかった方にも見ていただこうと思い掲載しました。
最初に目についたのはやはりC59のトップナンバーC591でした。1941(昭和16)年汽車会社製造で製造番号2000で名古屋区に配属され以降、姫路、門司港、熊本と転属していきました。準鉄道記念物になっております。▼
かんこうしゃしんは観光写真ではありません。感光写真です。大和郡山城のさくらと電車の感光写真です。
連日デジ青の自主投稿でご活躍の総本家青信号特派員さんが株式会社エリエイ発行のレイルNo126に登場。これだけでは何ということはないが、55年前の越美北線の8620形重連のお召し列車の機関士さんとの交流やその奥さんとのエピソードなどまるで映画のストーリーを見るような内容である。レイルに掲載されたきっかけはデジ青を毎日見ておられるレイルの編集長が総本家さんの越美北線のお召し列車重連の撮影記を見てこれはいけると考え昨秋から準備に取り掛かった次第である。写真の構成も申し分なく一度皆さんにも見ていただきたい。なお、マルーンさんと思われる方も文面に登場されている。発表が遅くなり申し訳ない。