カラー版◆大阪通信員さんが撮った 昭和の鉄道 (3)

大阪を記録する③ 天王寺駅

カラースライドを大阪通信員さんからお預かりする際に、依頼を受けていたことを忘れていました。天王寺駅の想い出を書きたいので、ぜひスライドを載せてほしいと言うことでした。“ミナミ”で生まれ育たれた通信員さんにとっては、格別の思い出のある駅だと思います。ただ先日、阪堺線のビール電車に乗るため、天王寺駅前に集合した時には、“このあたりに来るのは、何年振りやろか”と言っておられ、最近はめっきり行動力が衰えられた様子でした。

△ 通天閣を見ながら、オレンジ色の大阪環状線101系、ウグイス色の関西線101系が並走しなかがら、天王寺駅に進入する(以下、昭和58年)。

△ 天王寺駅に停車の101系、手前は「第一休車」の貼り紙を付けた、阪和線で走っていたクハ76。△ 「臨時」の幕が入った28・58系DCが関西線を行く。窓下に愛称板があることから、この時期、関西線で運転されていた「柳生号」だろうか。

 

△ 天王寺を発車した阪和線、紀勢線経由の名古屋行「くろしお」。82系DCの優美な運転台付近がよく分かる。

 

 

 

 

 

 

 

△ 地上線から、高架の阪和線への連絡線が見える。大阪通信員さんには、この連絡線に格別の思いがあるとのこと、ぜひ思い出お願いします。

カラー版◆大阪通信員さんが撮った 昭和の鉄道 (3)」への10件のフィードバック

  1. 湊町、天王寺と、大阪通信員様シリーズ、興味深く拝見しています。昔の天王寺駅といえば、やたらハトが居てた記憶があります。揚げ足取りでたいへん恐縮ですが、昭和51~2年頃の撮影ではないでしょうか?
    関西奈良電化が昭和48年、阪和線の旧型国電引退が昭和52年、紀勢線新宮電化が昭和53年でした。最近は1年前と2年前の記憶の区別もできませんが、少年時代の記憶は未だ鮮明です。
    急行型DC列車も気になりますが、何でしょう?乗客が全く見えないので回送?

    • 宇都家さま
      ご指摘、ありがとうございます。“過ちは改むるに憚ること勿れ”です。そうですね、すべて同一日の撮影とすると、昭和53年に紀勢線の新宮電化が完成していますから、80系DCが走る訳ないですね。誤りは無いに越したことはないですが、過ちを恐れるあまり投稿をためらうより、多少の誤りは織り込み済みで、どんどん投稿していきますよ。また指摘してください。

  2. 大阪特派員さま
    先にコメントさせて頂きますことをお許し下さい。実は小生も以前から大阪特派員さま同様、この連絡線が気になって気になって仕方なかったのです。
    小さい頃天王寺駅で乗り換えていた時には全く気付いていませんでした。(見ていてもわからなかったでしょう)
    この連絡線の存在を知ったのはある鉄道雑誌に「龍華区の客車が回送で通過していた」という文を目にしたときでした。その後環状線で通った際に確認しましたが、確認したらしたで、あの急こう配を?という疑問?符がついてまわり、俄かには信じられませんでした。今も半信半疑ですが、たとえば天王寺から紀勢線直通の客車列車の大半は龍華区持ちでしたから、あの連絡線を通らないと入出区できないわけで、疑う余地は全く無いはずなのですが、如何せん、現認していないため未だに?が消えていません。色々想像もしてみたのですが、昔の貨物操車場のハンプを連想し、模型的な運転としか思えなくて頭がスンナリと受け入れてくれません。
    23時発の夜行名古屋行の回送を見るため22時頃から張り込もうと何度考えたことか。ことごとく未遂に終わりましたが。どなたかご長老の方で実際にご覧になった方がおられましたら是非ともご説明を承りたいと切に願っております。
    今朝がた本欄投稿を拝見して現地確認に行ってきました。といえば聞こえはいいのですが、たまたま天王寺方面に用事があってついでに環状線から再確認してきました。現在同線は上部側1/3ほどしか残っていません。もうかなり前になりますが施設関連会社か何かの用地とするためでしょうか、下側の1/3ほどは撤去され、駐車場のような使われ方をしています。
    しかしたとえ1/3であっても小生を悩ませ続けている急こう配の状況はまだ十分にわかります。平坦線の多い都会で見るからでしょうか、33‰ほどに見えてしまいますが、実のところはどれほどの勾配だったのでしょう。ご存知の方はお教え下さい。

    • 1900生さま
      ほんとに急勾配ですね。ヤボ用を兼ねてと言え、わざわざ現地まで行っていただいたのですか、ありがとうございます。私も経緯を調べようとしたのですが、天王寺駅は改良工事が何度も行われていて、解明することができませんでした。書きましたように、大阪通信員さんも、この連絡線には、ひとかたならぬ関心をお持ちのようで、いまその思い出を待っているところです。

  3. 急勾配の連絡線ですが1900生の言われるとおりの紀勢線直通の客車列車が入出線に使用されていたと思います。小学生のころ臨海学校に紀伊田辺へ行った時も客車列車ですので天王寺駅で待っていると逆向きにホームへ入ってきますし、夜行普通列車はやたまも同じようにホームに入ってきました。さて、どこから来るかというと関西線竜華操車場からということですが、この入出線にはもう一つポイントがあります。寺田町駅近くまで伸びている留置線です。竜華からきた回送列車は発車まで寺田町あたりまである留置線に留置されています。また天王寺に帰ってきた列車はこの留置線に引揚げてしばらく留置されます。環状線で通勤していたころに寺田町に着く前に留置されている客車列車を見たことがあります。ラッシュの時間帯が過ぎるまで 留置していて、列車が空いた時間帯に竜華へ帰っていくのではないかと推測します。なお、この寺田町あたりまで伸びている留置線跡はいまでも残っていると思います。実際の動きは見ていませんが状況証拠から天王寺駅のスロープはそのような使い方をされていたと思います。だんだん、スロープが消えて行っていますが、まだ使用していた頃の名残がわかるのでいつも通るたびに見ています。

    • どですかでん様
      小学校時代の想い出を、ありがとうございます。寺田町方面への引上げ線は、本欄の4枚目写真、キハ82の向こうにも見えていますね。たかが連絡線、されど連絡線で、連絡線は“坂道”とも呼ばれていたようですが、連絡線と引上げ線を使った、客車の入換の妙味について記述されているサイトも見つかりました。

  4. 紀勢線直通夜行は、DLに牽引され、関西線の中線で待機、その後、寺田町方に入換し、スロープを推進で上がり阪和線ホームに入線してました。1980年代初頭、ハネ2両で回送はDD13牽引だったのを見たのを覚えています。EF58は竜華~天王寺間の関西線を走れなかったのでしょうか?
    その後、1984年元旦、旧型客車最末期の「はやたま」に乗車、その際はハネ1両にDE10の回送牽引になっていましたが、早めに天王寺に着いて、入換も見物しました。
    また、それよりもっと前ですが、昼間に環状線の中線(あたり)で12系客車のトップナンバーを見た記憶もあり、多分、臨時きのくにが天王寺に到着後、スロープを降りて、竜華へ還るところだったかと思われます。
    当時は環状線から阪和線への直通など夢物語で、まさか実現するとは思いもしませんでした。

    • 宇都家さま
      またまた幼少の頃の天王寺駅の想い出、ありがとうございます。上欄にも書きましたが、この連絡線のことは、多くのサイトに記述がありました。要は、夜行「はやたま」など、阪和線の客車列車の基地は龍華のため、天王寺駅では、関西線から阪和線へ押し上げるため、連絡線が活用されたわけですが、一時的な留置のため、どですかでんさんも指摘された、寺田町方面の引上げ線も活用された訳ですね。ただ、いつ頃に連絡線が開設されたのかは不明でした。

      • 部外者ですが、いつも楽しく拝見しています。
        天王寺駅のスロープですが、阪和電鉄開業時にロコ1100という入換電気機関車が新製されており、省線との貨車等の受け渡しに使われたとありますので、ここのことではないでしょうか。
        1,500Vの直接制御、発電ブレーキ付で33パーミルを上り下りしていたそうです。
        (のち、1952年に杉本町・竜華間連絡線開通で失業し、近江鉄道へ譲渡されたとあります。)

  5. 大ヨト様
    いつもご覧いただいているとのこと、ありがとうございます。天王寺駅の連絡線ですが、阪和電鉄の時代から使われていたのですね。戦前からあったとは、驚きでした。
    と思って、お書きのロコ1100はたしか近江鉄道の頃に撮ったはずと、私のデジ青投稿歴を見ますと、なんとお書きの通りのことを、以前に書いていました。
    私も覚えがありませんでしたが、大ヨト様のお蔭で蘇りました。これからも、どんどん突っ込み入れてください。

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