ザグレブの鉄道とトラム

今年のホームカミングデーに発行する会報6号の原稿を会員の皆様にお願いしたところ、‘56年度生丹羽先輩より、会報の原稿に使ってくれとお手紙を頂きました。丹羽先輩は昨年亡くなられた沖中先輩、湯口先輩と同年代ですが、先日の長良川鉄道イベントにも参加され、最近も「ひだ号」の新車

ザグレブ駅にてHZ2044型
1981年EMD-GM製

HC85系を撮りましたと写真を送っていただきました。この他にも名鉄の昔話、20年以上前のブラックプールトラムの珍しい写真と記事も頂きましたが、クロアチアとザグレブトラムの記事はデジ青に投稿することで了解を頂きましたのでご紹介させていただきます。
また、この場をお借りして会報第6号への投稿をお待ち申し上げます。

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笠置のこと

ゴールデンウィークに入ったが、各人どのような計画をお立てだろうか。総本家青信号特派員さんが草津線に続いて関西線本線やナローの私鉄等の思い出の作品を報告されている。どれも立派な写真や記事を自主投稿され続けていることに毎度のことながら頭が下がる。そのような中で笠置駅のD51と見事な桜(2023年4月18日投稿)が目に留まった。私自身は笠置は景勝の地であるが降りたことはなく、ただ、1963(昭和38)年5月3日に亀山に蒸機を撮りに行った時に笠置駅に名古屋区のC57102が臨時列車を牽いて停車したのには驚いてシャッターを切ったことがある。ゴールデンウィークの真っただ中で行楽客を運んでいたものと思われる。通常、名古屋や稲沢の機関車は関西本線は亀山までの運用であったが、珍しく加太を越えて来たようである。▼

戦後という言葉も使われなくなったこの頃は高度経済成長期に入っていた。笠置駅も行楽客が大勢下車したが子供の姿は見受けなかった。832D奈良発笠置行きキハ3613。次の列車迄の20分待ちの間にキハ55系準急かすが1号+はまゆう+平安1号も撮ったがどういう訳かフィルム劣化で見られる状態でなく割愛した。▼

亀山区での定番の撮影場所。C51225は倉の中で撮影には不向きの状態でありボックス動輪のC51240とパイプ煙突のC5152は原形くずれで不満であった。不満と言えば、亀山まで来ていた名古屋区のC55は北海道に移った直後であり本州では豊岡、和田山だけになってしまったことである。▼

帰りに寄った奈良機関区は扇形庫にD51、C57、C58が一杯入っていた。この辺りは今はどうなったのか知りたいものである。奈良の駅名研究家さん専門外かもしれませんがどうでしょうか。▼

笠置駅で思いがけず出会ったC57102はこの日亀山からの帰りに奈良区に寄ってみたら既に方向転換をして名古屋に戻る準備ができた状態であった。モノクロでは分からないがナンバープレートは勿論赤ナンバーであった。 ▼

2002年6月23日の上笠田

 ぼくたちにとっては北勢線は上笠田。ぼくたちとはKくん、Hくんと私の3人。1971年10月、最初に私は上笠田を訪れています。このときは私ただ1人でした。それから2年後の1973年9月に突如として急行たかやまに乗って3人で上笠田へ(詳細はデジタルでない「青信号31号」に)

 それから29年経ってから、私1人で上笠田を訪れています。2002年6月23日でした。このときは車で行っています。当時、滋賀県多賀町で単身赴任をしていましたので山を越えれば上笠田のある三重県いなべ市に行くことができます。山越えの国道306号線を東へ走り上笠田へ向かいました。この国道はいつも冬期は通行止めです。しかも険しい鞍掛峠を越えなければなりません。1972年にトンネルが開通して舗装はされましたが、それでも厳しい道でした。

 ↑ 山越えの麓の集落 大君ヶ畑(おじがはたと読む)

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お城と電車(19)松本城

最近は城ブームなのか各地の城をテレビでもよく見かける。スマホで見ると今回の松本城は人気ナンバーワンになっているが、松本城は三名城にも入っておらず国宝(他に姫路城、犬山城、彦根城、松江城)ではあるがいささか驚いている。松本界隈にはその昔いろいろな城が点在していたようである。松本城はそのうちの深志城を武田氏が修築拡張したのが始まりのようで、その後織田氏によって滅ぼされた後に豊臣氏の命を受けた石川氏によって近世城郭への大普請が行われた。天正18(1590)年に入城した石川数正、康長父子二より造営された。天守は五棟からなり、康長時代の文禄元(1592)年から慶長元(1596)年に築造したものであるが、諸説がありはっきりはしていない。

1998.3.29  天守は五重六階で五棟が国宝となっている ▼

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あのC622をこさえた日立製作所が作った携帯電話で撮ったデジタル写真

 総本家青信号特派員さんが投稿された「あの日あの頃・・・~3~」のコメントにはじめてデジカメで撮ったことについて書いたのですが、それより以前にデジタル写真を撮っていました。2005年4月の頃からです。デジタルカメラではなく、携帯電話のカメラ機能を使っていました。それがこの写真の携帯電話です。

 この携帯カメラは結構よく写るのです。では、その写真はこんなものです。今はもう見られなくなった風景です。

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お城と電車(18)備中松山城

備中松山城は現存12天守のうち唯一の山城である。標高420mの臥牛山にあり、JR伯備線備中高梁駅から徒歩で20~25分かかり、高齢者にはタクシーの利用がお勧めである。この地は鎌倉時代から城や砦があったが、関ヶ原の合戦以降家康の傘下となり、小堀新助政次、その子政一が入った。政一は小堀遠州のことで城や庭造りの名人と言われた。現在の城は寛永19(1642)年水野(みずのや)氏の時代のものである。城主は目まぐるしく代わったが水野氏の後には播州赤穂の浅野氏となり大石内蔵助が城代となっている。昭和の初めの古写真を見ると天守はボロボロで崩壊寸前の姿である。明治6(1873)年の廃城令で藩主の居宅等は破壊されたが、天守や櫓、門等は不便な山の上にあったことが幸いし、そのまま放置され昭和16(1941)年に国の重要文化財に指定されている。

訪問したのは2002. 8.18の午後で暑い中を徒歩で行ってみると何と天守は工事中でがっかりした。▼

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こんなんあるで韓国版残り

前回、東大邱で撮ったミカド形ボックス動輪の蒸機と狭軌の蒸機を「こんなんあるで韓国版」と称して投稿した。最後にまだナローの客車列車など残りがある旨述べたところ、訪韓実績ナンバーワンの米手作市さんから「余命いくばくない者はぶつぶつ言わんと早よ発表せい」とお叱りを受けた。よく考えたら年齢的にまさしくそのとおりであり、ここに残りを発表する。但し韓国の鉄道に知識がある訳でなく単なる観光旅行の次いでの写真であり説明するに至らない点をお許し願いたい。前回は狭軌ナローゲージのヒョーキ蒸機について乙訓の老人の甥さんに助けていただいたのでここに感謝申し上げたい。

最初は角度を変えて再びボックス動輪のミカド形蒸機であるが、この機関車についてどなたか多少でも経歴がわかれば教えていただきたい 1971.4.24東大邱▼

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京都市電 写真展を振り返る2

<昭和30~40年代 生活の記録 写真と文章>
今回の京都市電の写真展では壁面の一角に「昭和30~40年代 生活の記録」のサブテーマを設けて40点弱の写真を展示しました。きっかけは昨年実家の遺品整理をしている時に大量に出てきたプリント写真です。普段の何気ない風景が克明に写されて、中には丸太町通りを走る市電を背景にした幼い日の私の写真もありました。私は小学校卒業の昭和43年までは河原町丸太町に住まいがありました。市電の写真展だから、このカットは使えそうだ。何なら、市電の写真の延長線上に、昭和30~40年代の写真の中で、当時の生活が感じられる写真をいくつかのテーマに分けて紹介できないだろうか。主たる来場者の50歳代以上の方にも抵抗感なく鑑賞していただけると思って企画を進めました。

実際会場で私と市電が写っているカットを説明すると、お客さまは納得してご覧になっていました。町内のレクリエーションの写真の前で「うちの町内ではびわ湖に水泳に行った」とか小学校の給食風景ではそれぞれの年代の献立が聞けて参考になりました。地蔵盆の写真で「八瀬の遊園地で遊んだ」の類の話ができるのも、写真展ならではです。

鉄道写真の展示会だから、鉄道100%の方が本当は望ましいのでしょうが、京都市電を核に、昭和30~40年代年代の写真や文章を通じて、当時の生活や人々の暮らしを振り返り懐かしんでもらうのを願って企画しました。お客さまの反応を見ても概ね好評でホッとしました。ギャラリーと言う空間を通じて、お客さまにどのようなメッセージを届けられるか。今回の写真展を通じて、そのヒントをもらった気がしています。
<写真上=寺町丸太町を西に入った北側。市電は1000形 昭和33年1月(2歳2ヵ月)写真下=会場風景>

こんなんあったで韓国版

韓国の蒸機と言えば両数が多かったミカ3が思い出される。保存機もあることから私は韓国のD51と思っているが、アメリカンスタイルである。

1971.4.22  慶州駅のミカ3 120で跨線橋がなく小学生が構内踏切を渡って乗車した後に出発していった。▼

ミカ3は朝鮮戦争で分断された北にも残っていたはずで何両かは見ている。
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福岡市政だより 3月15日号

久々の投稿です。標記の件、下記をご覧ください。福岡市営地下鉄七隈線天神南~博多駅間が3月27日に延伸開通します。これにより西鉄バスは路線の廃止、減便が実施されます。バスに頼ってきた市内の交通網がこれによって少しですが改善されます。福岡と博多が大きなパイプで結ばれます。

同じ号に福岡市内線廃線跡の記事も掲載されています。子供の頃慣れ親しんだ懐かしい思い出のひとこまです。人にやさしい路面電車、今からでも遅くありません。復活を・・と思うのですが・・

5月のイベントで少しですが皆さまにご案内できればと思います。事務局からの発信をお待ちください。

福岡市政だより3月15日号

久々の投稿です。標記の件、下記をご覧ください。福岡市営地下鉄七隈線天神南~博多駅間が3月27日に延伸開通します。これにより西鉄バスは路線の廃止、減便が実施されます。バスに頼ってきた市内の交通網がこれによって少しですが改善されます。福岡と博多が大きなパイプで結ばれます。

同じ号に福岡市内線廃線跡の記事も掲載されています。子供の頃慣れ親しんだ懐かしい思い出のひとこまです。人にやさしい路面電車、今からでも遅くありません。復活を・・と思うのですが・・

5月のイベントで少しですが皆さまにご案内できればと思います。事務局からの発信をお待ちください。

古い写真を見て思うこと

復刻カラーの私鉄電車撮影を楽しんでいたが趣味だからそれはそれでいいとして手元にある古い台湾や韓国の写真を取り出して思うことは日本はこれからどうなるかということである。ロシアのウクライナ侵攻や北朝鮮のミサイル連続発射に対して国連や日本は何もできない。気が付けば国産ジェット旅客機の撤退やH3ロケット打ち上げの失敗があり、経済的にも世界順位を落とし続けておりこの先どうなるか心配である。あまり政治的な話はこの会の趣旨に合わないのでコメント等は不要だが一人行く末を案じている昨今である。

1968.3.19 台湾の台北駅。国共内戦に敗れ台湾に逃れた蒋介石国民党は大陸反抗、実行三民主義のスローガンを掲げ、駅頭、車内、乗車券などにもそれが見られた。本省人(戦前から台湾に住む人)は今でもそうであるが、日本人に対して親切であったが、大陸からの外省人(主に国共内戦後に台湾に来た人)は日本語を喋らず全体に冷たい印象を持った。台湾鉄路などでは要職は外省人が占めていた印象である。下の写真の台北駅の左側屋上には光復大陸の文字が見られる。▼

台湾のディーゼル特急光華号はヘッドマークに中華民国の国旗と中国大陸の地図を掲げていた。1968.3.23台中の光華号▼

一方、客車特急の観光号全面のヘッドマークには少し見づらいが台湾の地図が掲載されていた。1968.3.23台中の南寄り1km付近のR63牽引の観光号▼

 

次に1971.4.26のソウル駅である。日本に比べて10年以上遅れた感じであった。朝鮮戦争を戦ったこともあり反共が強く反日意識も強かったと思う。台湾人程ではないが、親切な人も多く街には軍人も多く見られた。この頃はまだ夜間は外出禁止であった。▼

看板列車特急「セマウル号」に乗車したが、ディーゼル機関車牽引で客車の屋根には日本の151系こだまと同じようなクーラーを付けていた。ソウルから南へ直ぐの水原で撮ったPRボードで鉄道の将来計画のようであった。▼

その横には日本のブルートレインと貨物を牽くEF65500番台の写真があった。韓国語はわからないので内容は理解できないが、当時先を行っていた日本の鉄道のことを取り上げたのではないかと思われる。▼

丁度この時は韓国の大統領選挙が行われていた。ポスターは白黒で右端は朴槿恵のお父さんである朴正熙で、その隣が後に大統領となった若き日の金大中と思われる。最近日本の賃金があがらず停滞したままで韓国に抜かれたと聞いてショックを受けているが、このほか、造船、鉄鋼、IT関連、半導体などよくわからないが負けている分野も多いのではないか。ところが大統領が代われば政策がゴロっと変わるので徴用工や中国、北朝鮮問題など信用していいのか疑問である。▼

日本の総理の主義主張がはっきりせずフラフラした感じでも何とかなっているのはだらしない野党のせいでもある。いま、個人的には台湾有事が一番気がかりである。台湾が中華人民共和国台湾省にならないことを祈るばかりである。

 

京都市電 写真展を振り返る1

去る3月1日~8日まで、下京区の高瀬川・四季 AIRで開催されていた 佐々木秀隆 写真展 京都市電2系統が走った町並みは、8日間で200名を超えるご来場をいただき、ほんとにありがとうございました。OBの皆さんやデジ青をご覧の皆さんも多数ご来場をいただき、嬉しい限りです。当ギャラリーでの開催は4回目となりますが、総本家様プロデュースのもと、今回私が初めて内容を企画しました。

<2系統の特集 西大路通りの反応>
京都市電の特定の系統に中心を当てた企画はあまりなかったと思いますが、私が一番良く撮影した2系統は皆さんにお見せできる写真がたくさんあり、足りないところは総本家様の写真をお借りして、京都駅前から西大路九条まで48停留場の写真を揃えることができました。
2系統が走ったルートの中で西大路通りは地味な路線で、お客さまの反応を危惧していたのですが、西大路七条の変遷地図とともに、沿線にゆかりのある皆さんから「私の家内が勤めていた銀行や」「ここの会社が造った自転車に乗っていた」など身近で熱い感想が聞けて良かったです。

<よみがえった伝説の3系統>
今回2系統を取り上げる時に、2番と密接なつながりを持ち、早くに廃止された3系統を紹介したいと言う構想は最初から持っていました。総本家様のご尽力もあり鉄道友の会京都支部所蔵の、貴重な3番の写真が複数お借りできまして、2系統の展示の中に大きなスポットを作ることができました。厚く御礼申し上げます。
ほかの写真と明らかに違う年代の3番市電の姿に、皆さんは必ず歩みを止めて見入られました。私お手製の系統変遷図(1~4)も具体的な説明をするのに好評でした。

次回は鉄道と直接つながらない展示の話をします。 勘秀峰

 

 

西武2000系茶色で走行

散歩がてら西武を撮影中にいつもの黄色でなく茶系の電車を見た。車内の広告を見ると同社の創立110周年記念トレインとのことで前身の武蔵野鉄道デハ5560の復元カラーを2000系(2069-2070)に施したものである。この色は近鉄がこれも同社の前身大阪電気軌道のデボ1形の復元カラーに変更した5802Fと似た色である。個人的には阪神電車の旧型車の濃い茶色に近い感じがした。

2023.2.22 小手指-西所沢間を行く2070を先頭とする急行池袋行き ▼

次に2022.7.21 石切駅のトンネルに吸い込まれる準急西大寺行き近鉄5802F▼

南海電鉄でも復刻カラーがあった。同社創立130周年と7000系の引退を記念とした10004Fの旧グリーン塗装の復元で2015.6-2016.3と短いものであった。この写真は2015.11.9粉浜で撮影したもので住ノ江から難波に向う回送であるが、既に行先は和歌山市行きとなってる。「なーんなーん南海電車」の時代の色ではなかろうか▼

西武とともに復刻カラーのお好きな東武であるが最近伊勢崎線の特急200系(205F,209F)が1800系急行「りょうもう」に使われた復刻カラーに変更された。これは200系のデビュー30周年記念のリバイバルカラーで2021年8月から運行されている。2022.11.27福居-県間を行く特急「りょうもう24号」205-1赤城発浅草行き ▼

同じく東武動物公園-姫宮間の特急「りょうもう22号」赤城発浅草行き205-1▼

急行「りょうもう」の1800系時代に一度太田から乗車したことがある。日光、鬼怒川方面よりも伊勢崎、赤城方面の方が特急利用客は多いようである。東武の100系スペーシアには金色の徳川色の車両(103F、106F)に加えて1720系デラックスロマンスカー時代のリバイバルカラー(101F)が走り出したがまだお目にかかっていない。何れにしてもイベント的なものであるが、広告電車よりはましなので走っているとノコノコ出かけることが多くなった。本題の西武2000系や近鉄5802F復刻カラーは正に古い時代の色で濃い緑と共にあの時代はどこもあのような色であったのだろうと思う。

 

 

 

お城と電車番外編和歌山城

先日弘前城を紹介した際に奈良の駅名研究家さんから、最近用事で和歌山に出かけることが多いこととかつて和歌山市電が存在したことを知ったとのコメントが寄せられた。お城と電車シリーズでは現在12ある残存天守の半数とその近くの電車を紹介してきた。和歌山城は残存天守ではないので今回番外編として発表させていただく。

和歌山城は天守曲輪(くるわ)を中心に一二三段式に曲輪と櫓を配備したさまが姫路城にも負けない堂々とした形をしていると言われている。五層でなく三層であることなどいろいろ事情があったようである。この城は豊臣系の築城から関ケ原で功のあった浅野幸長(よしなが)を経て家康の十男頼宜(よりのぶ)が紀州五十五万五千石の城主となって以来御三家のひとつとなった。また、童謡「鞠と殿様」で有名である。たまたま2009年9月26日に訪問する機会があったのでその時の雄姿を発表させていただく。

和歌山城は1945(昭和20)年の空襲で天守、小天守群を焼失し、1958(昭和33)年にコンクリ―ト造りで再建された。▼

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SL大樹C11形123号と新聞記事

ぶんしゅうさんがよく使われるJALの「どこかにマイル」を私も愛用しています。先週はこれを利用して今まであまり行ったことの無い北関東に行ってきました。
「どこかにマイル」で今回候補に挙がったのは長崎、鹿児島、花巻、成田でした。希望は成田以外ならどこでも良かったのですが当たったのは成田、どこに行けばよいか迷って関東在住のクモハ73106東ウラさんにご相談したところ、SL大樹とその回送があるのでどうかと言われました。たまたまこの日は123号が運転される日で、これは願ったりと出かけることにしました。当日は早朝から車に乗せていただき、不鋳鋼さん、Y崎さんのクローバー会準会員の方々もご一緒されました。
↑ IMG3169:まず新高徳-小佐越間で大樹1号を撮影、この日は寒い日で煙もまずまずです。

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お城と電車(17)弘前城

東北唯一の現存天守は見事なさくらで有名な弘前城である。前回宇和島城では現地まで遠いとのご意見もいただいたが、弘前は東京からは日帰りが十分可能である。弘前城は天守自体は小さくて櫓のようなものであるが、他にも二の丸追手(大手)門を始め五つの城門が残っており何れも重要文化財に指定されている。弘前公園自体も広くて散策の価値が十分にある。弘前城は津軽藩代々の居城で初代藩主為信が計画したがほどなく亡くなり二代藩主信枚が後を継いで慶長16(1611)年に完成させた。天守は寛永4(1627)年の落雷により焼失し現在の天守は文化7(1810)年に本丸辰巳櫓を改造したものと言われている。弘前城で特筆されることは天守の移設である。これは本丸の石垣が外側に膨らむ「はらみ」が見られ、天守真下の石垣を修理することになり、高さ14.4m、重量400tの天守の移動させることになった。2014年春から3か月かけて移動したが、元に曳戻すのは早くて2026年から2028年頃と随分先のことになる。

遅咲きで有名な桜であるが訪問時は雪の天守でこれはこれで味わいのあるものであった。2013.1.29▼

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京都市電写真展のご案内

このたび、勘秀峰さんから展示会開催情報が届きました。以下にご紹介いただいた案内を転載させていただきます。

今回、総本家様のお力添えで京都市電の写真展を開催することになりました。
会場は昨年と同じ高瀬川の町家ギャラリーです。写真展では市電2系統をクローズアップした展示のほか昭和30~40年代初頭のスナップを集めた「生活の記録」切符類コレクションの新作も取り揃えてお待ちしております。
勘秀峰は基本的に在廊しておりますので、早春の京都へお越しください。

<展示会概要>
佐々木秀隆 写真展 京都市電2系統が走った町並み
主催 高瀬川ききみる会
会期 2023年3月1日(水)~8日(水)(期間中無休・入場無料)
時間 11:00~18:00 (最終日の8日は17:00まで)
会場 高瀬川・四季 AIR 京都市下京区西木屋町通仏光寺下る

なお8日の13:00~14:00にはギャラリートークを行います。

お城と電車(16)宇和島城

城の立地するところは高台にあったりして天然の要塞のような場所が多く、敵から攻撃されにくい。現在各地にある城も築城以前にはそのような砦跡のようなものがあった事例は多い。宇和島城も、戦国時代に既にあった小規模な城塞を豊後の大友氏に攻められている。その後城づくりの名人藤堂高虎により本格的に着手された。元和元(1615)年仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が入城し、寛文2(1662)年2代目藩主宗利により大改築された。以降、伊達氏歴代の居城となった。幕末の藩主宗城(むねなり)は松平春嶽、山内容堂、島津斉彬とともに幕末の四賢侯のひとりといわれ維新後も政府の要職に就いた。

1998.5.2 宇和島城残存天守 駅から少し高い所を登ったので平山城である。▼

1998.5.2 伊予市から途中伊予大洲城に立ち寄り昼前に宇和島駅到着。メモにはキハ326に乗車とあるが、宇和島駅の記録は1枚しかない。▼

宇和島は今でも遠いと思う。

 

 

 

愛称線名 続き

一月も終わりですね。毎年同じことですが、昼間の時間は徐々に長くなってきました。皆さんお元気のことと思います。迷図作家の関先生の高槻の中学、高校時代の同級生が私の先輩で今日軽い食事をしてちょっとした鉄道話をしました。愛称線の話を持ち出しましたところ東武鉄道のアーバンパークラインとスカイツリーラインの話をされました。お互いに古い人間であるからかもしれませんが、アーバンパークラインは野田線であり、JR琵琶湖線のような間違いは起こさないと思いますが、しっくりこないとのことです。パークラインは公園なので多分清水公園のこと指していると思います。沿線には大宮公園もあり、正解は分かりません。スカイツリーラインは伊勢崎線とありますが、ピンときません。そもそも東京スカイツリー駅(元は業平橋という伝統のある駅名でした)の近くの北千住駅まであたりだけのことと思っていましたら、伊勢崎線全部になるようです。ところで私個人は最近まで東武=日光というイメージから浅草-日光間を日光線と思っていましたが、東武動物公園-日光間が日光線だそうです。話は飛んで最近の市町村の合併の話が出て栃木県にさくら市というのがあるそうです。氏家町と喜連川が2005年3月28日に新設合併してできたそうで桜が売り物だそうです。当会にも千葉県の城下町佐倉にお住まいの方がおられますが、佐倉の方はどう思っておられるのでしょうか。また、群馬県には2006年3月27日に新田郡笠懸町、山田郡大間々町、勢多郡東村の2町1村の合併でみどり市という市ができたそうです。この様な例は日本全国まだまだあるでしょう。さらに旧駅名の話も出てDRFCの方なら都道府県をまたぐ駅で与瀬-浅川はご存知と思いますが有名なので今の駅名は指し控えましょう。もう奈良の駅名研究家さんから出たかもしれません。ここでアーバンパークラインの写真を貼り付けます。スカイツリーの写ったスカイツリーラインはどなたか撮られていれば貼り付けてください。

2013.9.19  大宮公園-大和田 柏行き61602 烏に邪魔された!

2013.11.20  釣り人も見られる古利根川 春日部-藤の牛島間の柏行き8410

2020.8.8 新柏-増尾 船橋行き8464の車体には東武アーバンパークラインの文字が入っている。私鉄一形式で最大両数を誇った経済車8000形も支線を除くと少なくなってきた。