先日弘前城を紹介した際に奈良の駅名研究家さんから、最近用事で和歌山に出かけることが多いこととかつて和歌山市電が存在したことを知ったとのコメントが寄せられた。お城と電車シリーズでは現在12ある残存天守の半数とその近くの電車を紹介してきた。和歌山城は残存天守ではないので今回番外編として発表させていただく。
和歌山城は天守曲輪(くるわ)を中心に一二三段式に曲輪と櫓を配備したさまが姫路城にも負けない堂々とした形をしていると言われている。五層でなく三層であることなどいろいろ事情があったようである。この城は豊臣系の築城から関ケ原で功のあった浅野幸長(よしなが)を経て家康の十男頼宜(よりのぶ)が紀州五十五万五千石の城主となって以来御三家のひとつとなった。また、童謡「鞠と殿様」で有名である。たまたま2009年9月26日に訪問する機会があったのでその時の雄姿を発表させていただく。
和歌山城は1945(昭和20)年の空襲で天守、小天守群を焼失し、1958(昭和33)年にコンクリ―ト造りで再建された。▼
岡口門は切り妻造りの櫓門で狭間塀(さまべい)、追廻門(おいまわしもん)とともに重要文化財に指定されている。▼
さて、市電の方であるがこれは和歌山市民や一般の方には市電の方が通りがよかったのかもしれないが南海電鉄の和歌山市内軌道線のことと思う。1909(明治39)年の開業で1971(昭和46)年に廃止されている。1968(昭和43)年11月21日の夕刻、南海和歌山市駅で降りて次の宇治迄数枚撮ったのでその一部を発表する。この和歌山市内軌道線については総本家青信号特派員さんがデジ青で「たーちゃんの訪問記」のような題で沖中忠順さんの貴重な撮影記録を詳細に説明しておられる。只今は勘秀峰さんの写真展の支援等で多忙であるが、「ターちゃん」へのアクセス方法を教えていただければ幸いである。
始発停留所の市駅前の710で海南や和歌の浦方面にも走っていた▼
市駅と隣の宇治の間で撮った303であまりいい写真ではないが後方にボンネットバスが写っている▼
連接車2003・2004▼
次に当時の東和歌山駅(現和歌山駅)の風景を1枚。C58328牽引の白浜方面に向う臨時の準急列車である。1964(昭和39)年8月15日の10時40分頃の撮影で右にEF52が見える。尚、当時の和歌山市駅と東和歌山駅の間にあった和歌山駅は現在は紀和駅となっている。▼
準特急様
早速、リクエストにお応えいただきまして誠にありがとうございます。和歌山城近辺に当時の車両が静態保存されているとのことなので、時間があれば見に行ってみようと思っております。
さて、紀和駅が昔の和歌山駅とは俄かには信じがたいものがあります。現在では1面1線の簡素な駅となり、かつて賑わっていたとは到底思えません。歴史を知るって大事ですね。デジ青は本当に良い「教科書」です。
このような記事がありました。共有します。https://www.sankei.com/article/20190511-GQEIAHAGFBK7NEP73HJBSKFTRI/
準特急さま
過去の記事までお気遣いいただき、ありがとうございます。故・沖中忠順さんの幼名“た~ちゃん”を冠した、電車めぐりは。2017年に載せていました。和歌山電軌のことは、次に載せていて、以下③まで連載されています。
https://drfc-ob.com/wp/archives/88595
今回の京都市電展は、勧秀峰さんが頑張っていただいて、私は手伝い程度しかしていません。ただ、私のほうが足腰の激痛で、今日は会場へ行けなかったのが残念です。今日は、さっそく、ぶんしゅうさん、86さんを始め、京都のベテラン蒸機写真家、紫の1863さんが来場されたこと、聞いています。
総本家青信号特派員様
そうです。これです。有難うございます。足腰の激痛は大変気になります。どうぞ大切になさってください。
準特急様
最近この掲示板に投稿されているテーマで京都市電と京阪電気鉄道、南海電鉄和歌山市内軌道線、沖縄電気軌道が一つの車両でつながりました。
「沖縄都ホテル」が勤務していた会社の関連会社でしたので出張時にはよく利用しました。当時からホテルの敷地内に沖縄電気軌道の橋脚跡があるのを承知していましたので、当時の代表者に沖縄戦を潜り抜けた貴重な遺跡であるので一般の人が見学できるように整備し、案内の看板でも建てたほうがよいと提言したことがありました。そのときに沖縄電気軌道のことを調べたのですが、京都電気鉄道(後の京都市電)で製造された車両が沖縄電気軌道を走っていたことを知りました。
沖縄電気軌道は1914年に開業し1933年に廃線になるまで僅か19年の営業期間でしたが、当初は目論見通りの営業収入を確保しましたが、1929年に並行するバス路線が開設されると輸送人員は急速に減少し、これに対抗するため1930年に増発用に京阪電気鉄道和歌山支店から11・12号の2両の車両の譲受し、翌1931年から運行を開始しました。これには両社の設立に関わった京都の才賀電機商会(才賀藤吉社長)の仲介があった思われます。
京阪電気鉄道の和歌山での事業は1922年~1930年の8年間でしたが、この車両は和歌山水力電気時代の1920年に京都市電から譲受した18-20号の3両のうちの2両だといわれています。
京都市電時代の3両は、もとは1918年に京都電気鉄道を買収した時に継承したいわゆる「N電」と呼ばれる車両で、市営路線と重複する区間の整理、狭軌路線の標準軌への拡幅が順次行われ、狭軌1形電車の余剰が発生し全国に譲渡された中の3両です。結果として僅か2年ですが京都の街中を走った2両の車両が、和歌山を経て戦前の沖縄を走ったことになります。
余談ですが戦後も京阪グループは、よほど和歌山に関心があったのか1960年代に京阪自動車(現、京阪バス)の京都-奈良経由-新和歌浦の定期バスの路線がありました。高速道路が開通していない時代なので国道24号を走行したようですが、今では考えられないことです。
快速つくばね様
よくつながったと改めて感心しております。昔の私鉄は電力事業などをやっているところもあり、京阪電鉄は和歌山水力電気を合併し、今は関西電力となっている和歌山地方の電力供給の大半を担っていたとは初めて知りました。その和歌山水力電気が兼営していた和歌山軌道線もご存知の通りその後幾多の変遷を経て南海電鉄となり1971(昭和46)年に廃止されました。京都市のN電が和歌山経由で沖縄に行ったことも全く初めて知ったことです。見づらくて恐縮ですが、1968(昭和43)年に台湾に行く途中、沖縄に寄った時のパスポートの一部の写しです。沖縄は本土復帰前で米ドルを使い、車は右側通行でした。