嵐電を写すために嵐山まで来たついでに、山陰本線(嵯峨野線)にも寄ってみることにしました。嵯峨野の竹林のなかにある野々宮踏切へ、観光客に囲まれて向かいます。この踏切は、50年前にはC57を求めて通ったり、最近では、湘南色の113系が見られなくなるというので何度か訪れていましたが、それ以来の久しぶりの訪問となりました。▲竹林やそれに続く小倉山も新緑に映えている。通り過ぎる列車は、残念ながら無表情な車両ばかり。城崎温泉行き「きのさき9号」。
「老人の戯言」カテゴリーアーカイブ
新緑の京都をめぐる (1)
多層建て客車急行「青葉」に敬意を表して
当会には「至宝」または「人間国宝」と言われる大先輩がおられます。佐竹保雄先輩と湯口徹先輩です。それに続く第2の湯口と私が勝手に呼んでいるのが今回「多層階建て客車急行」を掲載された井原実さんです。彼の精密緻密な分析力は第一級と思っており、今回の論文も豊富なデータを解析して得たものだと思います。
この中で客車の編成が出てきますが我々世代には見飽きた客車でも、少し下がった世代には見たこともない車両が多いと思い、当時の客車急行がどんな客車で編成されていたかが分かればおもしろいかな、と考えアルバムから探し出しました。
★できるだけ多層建て客車急行「青葉」掲載の車両番号に近いものを選びました。
★改造・改番後の車両もあります。
★例によって、日時・場所はいい加減ですので(ここが井原さんと決定的にちがう所)各自が類推してお読みください。
市電が走った街 京都を歩く 四条線⑧
「四条堺町」
▲「四条堺町」を出て、大丸百貨店の前を行く西行きの20号系統、市電、市バスと行き交い、歩行者、クルマも多く、今と比べるとずいぶん雑多な街並みだが、活気のある繁華街の様相を見せる。右の市バスは、廃止された伏見線18号系統の代替バスとなる82号系統で、河原町→四条→烏丸の一方循環だった。過日の市電写真展でも、82系統の市バスが写真の片隅に入っていて、話のネタになったことがある。大丸は京都・伏見で創業した呉服店が発祥、四条通へは大正元年、四条通の拡幅、市電開業と同時に開店した。先ごろ、関西で最後となるデパートのファミリー食堂が無くなることで話題になった。 続きを読む
市電が走った街 京都を歩く 四条線⑦
「四条河原町新京極」また市電四条線シリーズに戻ります。「四条京阪前」を出ると、京阪電車と平面交差して四条大橋を渡ります。現在の四条大橋が竣工したのは昭和40年のこと、市電時代は出来たてで、真っ白でシャープなデザインが、三条大橋などとは対照的でした。四条大橋の西南畔の東華菜館は、いまも変わらない姿を保っています。屋上から市電・京阪を見下ろす光景は、乙訓の老人はじめ、多くのベテランファンが、ジョッキ片手に写した撮影名所でした。▲四条河原町のランドマーク、高島屋百貨店をバックに東行き乗り場で客扱いする7号系統。「スキー用品大処分」の垂れ幕もこの時代らしい。屋上には観覧車が見えるが、奇しくも、勘秀峰さんと、鉄道雑誌編集のMさんは、これに乗って市電を写したと、それぞれが述懐されている。 続きを読む
「市電と昭和の京都」 ご来場ありがとうございました。
勘秀峰さんとともに行いました「市電と昭和の京都」展は、3月8日を持って8日間の会期を閉じました。休みなしの8日間というのは私も初めての体験でしたが、二人とも元気にフルタイムで来場者の対応に当たり、いまは快い達成感と疲労感に包まれています。最初は一日10~20人の入りで、まったりとした雰囲気でしたが、途中から新聞で紹介されるや、開場前から門前に列ができるありさま、新聞を見た方、またラジオでも案内があったとのことで、ご近所、遠方から続々の入場となりました。ご来場数はサイン帳では184人、サインなしで帰る方も含めて約240人が入場です。15分に一人入場の計算であり、皆さん、“写真展に行く”と明確な意志を持って来場されているわけで、外出も制限を受ける、この時期、よくぞ来ていただいたものと、厚く御礼を申し上げます。▲西木屋町通に面した会場の「高瀬川四季AIR」、新聞には紙面の都合で住所の記載がなく、迷いに迷って来られる方が多く、ご迷惑をお掛けした。
デジ青探偵団の皆様、お力を!
以前に紹介したことがある、古い日本映画に出てくる鉄道シーンを解析するサイト「日本映画の鉄道シーンを語る」http://tetueizuki.blog.fc2.com/
を久しぶりに見ましたら冒頭に上映されるカットに映る軽便鉄道を「これは井笠鉄道だ!」「いや、鞆鉄道ではないか」とモメていました。
そこで余計なお世話ですが時間をもてあましている(と、思う)デジ青探偵団の皆様に出動をお願いして解決してあげようと勝手に決めた次第です。
写真は同サイトからコピーしたもので、サイズが小さい上に映画のコマからプリントしたため、非常に画質が悪くなっています。映画は東宝で1956年に製作された「黒帯三国志」というもので、本編では倉敷市交通局の1号機関車や古典客車が使われています。これはなかなか強敵だと思いますからフンドシを締めて掛かってください。
うれしくないニュースを1本
今朝の中国新聞に、うれしくない記事が載りました。木次線の観光列車「奥出雲おろち号」の廃止について、沿線自治体が同意したというものです。
ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈3〉
東北編③ 2月4日(金) 冬の会津に浸る
会津柳津 6:37→会津坂下 6:54 急「いなわしろ1号」 キハ52 128
会津坂下 13:45→会津若松 14:34 430レ オハフ61 3044
会津若松 15:35→喜多方 16:01 231レ
喜多方 16:04→熱塩 16:41 623レ オハフ61 2520
熱塩 16:51→喜多方 17:31 624レ オハフ61 3044
喜多方 18:07→会津若松 18:21 急「あがの2号」
会津若松 18:17→郡山 21:10 232レ オハ61 2914
郡山 22:59→横手 4:40 急「津軽1号」 ナハフ10 2002
(車中泊)
▲会津柳津を急行「いなわしろ1号」で出発する。と言ってもキハ52単行の遜色急行。 続きを読む
ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈2〉
東北編① 2月3日(木) まずは只見線へ
(2/2)京都駅14:00→名古屋駅16:22 名神高速バス210便
名古屋駅17:00→東京駅22:40 東名高速バス124便
東京→上野
上野23:50→会津若松5:08(遅れ5:40着) 急「ばんだい5号」「ざおう3号」クモハ455-9
会津若松7:47→滝谷9:26 425レ オハフ61 2169
滝谷13:35→会津川口14:23 429D キハ45 505
会津川口14:27→会津柳津15:20 432D キハユニ26 41
(春江荘Y・H泊 一泊二食650円)
▲東京までは名神・東名の高速バス、均一周遊券で乗れる急行が、東海道線では「桜島」「高千穂」だけになり、高速バスは有効な移動手段だった。▲▲上野からの急行は30分以上遅れて会津若松に到着、すぐ接続の只見線列車に乗れず、ED77 1牽引222レなど写して時間調整。
▲只見線425レは会津坂下で8分の停車、車内から驚くほどの高校生が降りてきて、たちまち列車の前を埋め尽くした。坂下には、高校が3校あって、駅は時ならぬ高校生ラッシュ、これは現在も変わらず、最近も只見線へ向かわせる動機となった。
ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈1〉
はじめに
「市電」はしばらく休んで、また「50年前」シリーズを続けます。今回は、「50年前のほぼ同月同日」シリーズとしました。50年前の昭和47年のことを振り返りますと、市電四条線などの廃止を見届けたあとは、学校の授業は、全学封鎖のお蔭ですべてなくなり、卒業試験は全部レポートに変わり、難なく卒業が決定、あとは入社式を待つのみと言う、趣味人生で最大のチャンスを迎えていました。もう出掛けるしかありません。同年の2・3月には、東北(2/2~2/10)、信州(2/18~2/24)、北海道(3/12~3/24)、ほか近隣へ、計31日に渡って撮影旅行を続けます。
▲この期間に使った均一周遊券、東北-15日間有効、6000円 信州-7日間有効、3300円 北海道-20日間有効、7040円(いずれも京都発着、北海道は冬期2割引き料金)。鉄道ピクトリアルの今号に均一周遊券の詳しい解説がされている。この時期の表紙には、地域の郷土玩具が描かれているのは知っていたが、バックの白抜きは「しんにょう」であり、これは「遊」の字をデザイン化したものと初めて知った。
当時の国鉄は、幹線ではほぼ無煙化が近づいていたものの、まだ蒸機は1601両(昭和46年4月)が残っていて、それに呼応して、空前の“SLブーム”が起きています。また一般の旅行も、万博後のDISCOVER JAPANの浸透で旅行客が急増、旅客需要もさらに拡大、ダイヤ改正ごとに、優等列車の新設、列車増発が続きます。趣味者にとっても国鉄にとっても、希望のあふれた時期でした。
市電が走った街 京都を歩く 四条線⑦
四条京阪前 ②
▲「四条京阪前」で京阪電車と交差する。当時は遮断機もなく、交通信号と警手の笛だけで行き来していた。京阪電車のすぐ横を、歩行者が横断していった。
「四条京阪前」の北側には京阪電車四条駅、南側には南座があります。四条河原は、出雲の阿国が舞った踊り、つまり歌舞伎の発祥地と言われ、南座は、公認された踊りを舞う劇場として、その歴史をいまに伝えています。明治時代に北側にあった北座もなくなり、南座だけが、歌舞伎の発祥地に残った唯一の劇場です。昭和4年に由緒ある桃山風破風造りの豪華な劇場を竣工させて、京都の代表的な劇場として、多様な演目を採り上げて来ました。とりわけ歳末の吉例顔見世興行は、一度も絶えることなく続けられてきた京都の年中行事です。
そして眼前からは、警笛の音が聞こえて来ます。四条線と京阪電車が平面交差していて、四条線の開通は大正元年、京阪電車は最初に五条まで開通し、三条まで延長されたのが大正4年、以来、京阪電車と市電の平面交差が60年近く続けられて来ました。市電が消えて、京阪電車が地下に潜って、川端通が拡幅されて、すっかり付近の様相は変わったものの、改修された南座、菊水ビル、東華菜館など、また四条大橋から見る右岸の街並みなどには、50年前と変わらない風景があります。これも京都ならではと言えるでしょう。
市電が走った街 京都を歩く 四条線⑥
四条京阪前 ①
▲急行運転がはじまった午前7時過ぎ、街には朝陽が射し込み、そのなか、1系統の赤い系統板がいっそう映える。背後の四条京阪でも人の波が。
祇園を出て、四条線に入ると、そこは祇園の繁華街のど真ん中。一力茶屋の赤いべんがら色の土塀が続き、いまも四条通にその歴史を映しています。花見小路は石畳になり、無電柱化されて、風情のある通りに改修されましたが、当時は変哲もない通りで、馬券売り場へ向かう無彩色の集団が黙々と歩いている通りでした。繁華街はなおも続きますが、鴨川から西の四条通と明らかに違うのは、いかにも祇園らしい、伝統的な食材や小物を扱う店が多いことです。一昨年の冬まで、インバウンド観光客が押し寄せ車道まで人がはみ出すほどだった四条通ですが、先ごろの写真展で、一週間、朝晩、この付近を歩きましたが、信じられないほどの閑散ぶりで、いまとなっては、あの異様な混雑ぶりが懐かしくもあります。やがて市電は「四条京阪前」に到着です。▲一力茶屋のある花見小路通を過ぎて行く。▲▲門に「節分」の文字が見えるが、市電は節分を待つこと無く、1月22日に廃止されている(昭和47年)。▲早朝の四条通、人もクルマも少ない祇園を発車し四条京阪前へ向かう7系統。
昨日のエトセトラとウエスト銀河
呉線の観光列車「エトセトラ」と下関行き観光特急「ウエストエキスプレス銀河」の運転日が重なると、備後赤坂駅で折り返し待ちの「エトセトラ」の横を「銀河」が通過してゆく筈なので、そのシーンを撮ろうとクルマで出かけることにしました。しかし、そのためだけにクルマを走らせるのは、燃料高騰の昨今不経済なので、先般連載しました「尾道鉄道跡探索」で まだ調査できていない、御調町市駅周辺の取材も兼ねて出かけました。「尾鉄」については別稿でご報告します。
まずは、尾道で乗客をおろしたあと、折り返し駅である備後赤坂駅まで回送で走ってくる「エトセトラ」を撮ることにして、東尾道・松永間の今津川鉄橋に行きました。丁度干潮で砂地がむき出しで、パッとしないのですがここで撮ることにしました。
市電が走った街 京都を歩く 四条線⑤
▲「ぎおん」の7系統ツーマンカー時代の1610号と20系統686号、この二枚、何が違うでしょうか。右上の電停看板に注目、昭和43年撮影(上)では「衹園」、昭和47年撮影(下)では「祇園」になっている。この違いはなぜ?
この交差点の名称は「ぎおん」に違いはありません。ただ行政地名では、祇園町北側と祇園町南側であり、「ぎおん」は通称地名と言えるでしょう。開業から戦前までは「衹園石段下」で、市バス停留所名も四条線時代は同様の名称でした。短縮して「石段下」が、通りも良かったように思いますが、最近はあまり聞かない表現です。市電停留場の表記は、右の写真のように「衹園」ですが、現在では、バス停留所をはじめ、地図上の地名表記も「祇園」になっています。
「祇」と「衹」、どちらでも正解ですが、意外なことに、新字の印象を受ける「衹」が旧字であり、新字は「祇」なのです。流れを見ると、戦後すぐ、国語審議会は当用漢字を決め、「しめすへん」はすべて「示」になります。昭和23年になって、活字の標準となる当用漢字字体表では「しめすへん」は「ネ」となります。市電停留場名も、これに従い、「衹園」にしました。ところが平成12年になって、印刷に用いる字体の拠りどころを示す表外漢字字体表が答申され、その際に「衹」は「祇」に変更され、新旧が逆転したような改訂となったのです。コンピューターのフォントの基準となるJIS規格コードも、平成16年に「祇」が標準字体となります。事実、昭和の地図では「衹園」が多いものの、平成の地図では「祇園」が圧倒的です。冒頭の看板の字体も、この流れのなかで変更されたようです。Vista以降のOSは、この変更規格に合わせて「祇」と出て、旧字体を思わせる「祇」が逆に主流になりました。ただし、手書きの拠りどころとなる楷書、行書の一部(祥南行書など)、またモリサワフォントの秀英書体は、いまでも「衹園」です。
市電が走った街 京都を歩く 四条線④
廃止当日をしのぶ 〈特別版〉 ②
では、50年前の四条線最終日、昭和47年1月22日(土)の様子、後半に参ります。四条河原町新京極から7系統に乗って、一気に九条大宮へ行きました。ここで定番の東寺五重塔バックの市電を撮ります。何度か撮っていたものの、大宮~九条の曲がるシーンは今日が最後です。歩きながら北上、高校生の下校、新幹線交差も狙って、四条大宮まで歩き、お好み焼きで遅めの昼食としました。食後、西南角のビルに上り、交差点付近を写します。当時は“京の新宿”と呼ばれた四条大宮から、明日には市電が全く消えてしまう衝撃が、胸を締め付けます。▲7号系統に乗って四条通を西へ。右手に大丸。
▲九条大宮で曲がる、本日最終の7号系統、700形の「7」は比較的珍しい。▲▲東寺前では洛南高校生が大量に乗車。▲▲▲島原口付近、多くの系統が輻輳する。▲▲▲▲新幹線との交差を何度も試したが、それも最後。
壬生車庫へ行ってみると、車庫内には、廃車の700形間接車、1000形が集められていました。聞くと、夕方までに、他車庫からの廃車予定を壬生車庫へ移送するとのこと。土曜の午後とあって、小中学生が異様に目立ちます。立ち入り禁止の車庫内を、職員が監視を続けています。あと▲この写真も実は最終日、サラ金ばかりが入っているペンシルビルに勝手に上がって撮った。すぐ近くの郵便局長をされていた、ベテランのKさんに、写真展でこの写真を見せると「ワシも撮ったでぇ」と言われた。
で分かったことですが、この時、関係者のみのお別れ式が密かに行われていて、ヘッドマークも用意されていたとのこと。いったん家へ帰ってから、午後9時に祇園で藤本さんと合流、夜景を撮ります。1時間ほど撮影してから、再び壬生車庫前へ。ますます人が増えて、しかも「市電をまもる会」が抗議集会を行うなど、騒乱状態のなか、21号系統の最終が出て行きます。この時、初めて「さようなら四条・千本・大宮線」のヘッドマークが登場します。続いて、23時10分発(所定)の1号乙系統がヘッドマーク付きで発車、壬生車庫付近では撮れないと判断して、千本三条へ移動して、最終をバルブ撮影。そのあと、運よく四条大宮から7乙の最終に乗り、四条堺町で下車、ここでもDRFCのメンバーと会い、所定23時40分発の四条線東行き最終となる、「臨」錦林車庫行きを、四条繁栄会が見送り行事、続いて西行き最終となる、壬生車庫で見送った1号乙系統が所定23時50分に通過します。混雑で堺町では不可能と判断、四条烏丸まで走って、安全地帯によじ上り、1号乙系統最終を撮ったのが、前号のトップ写真となります。▲祇園では何度もバルブ撮影を試みた。
今日も写真展に来られた方から、「四条線は急に廃止になったから、他線に比べて写真が少ない」との声を聞きました。私も、廃止が決まった1週間前から、急に撮り始め、最終日も、朝から晩まで追い回していたこと、やっと50年後に理解をした次第です。
▲千本三条でクルマのすき間からやっと最終電車をバルブ撮影、この付近で、近くにお住いの紫の1863さんが撮影されていて、勘秀峰さんともニアミスをしていたことが判明した。当時は縁もゆかりもない、他人同士、50年後のいま、四条線を語り合う時、不思議な縁を感じる。
市電が走った街 京都を歩く 四条線③
廃止当日をしのぶ 〈特別版〉 ①
▲今日が四条・千本。大宮線の廃止から丸50年、廃止反対の世論の絶頂期で、他線の廃止とは様相の異なる最終日となった。「さよなら」のマークは、最終電車のみに取り付け、私は最後の1号乙系統を、四条烏丸西行きの安全地帯によじ上って迎えた。時に昭和46年1月22日23時50分だった。
▲50年前の様子は、見つかった日記からよみがえった。7時30分に起きて、自転車で祇園へ行き、四条通や一力茶屋を入れて撮影、市電は乗客で一杯で、果たして明日から代替バスで輸送できるのか案じられた。
今日も写真展受付のため、朝、四条通を急いでいると、当会の勘秀峰さんとばったり出会い、話しながら写真展会場に向かっていますと「四条線がなくなって、今日で丸50年ですよ」と聞きました。私も漠然とは意識していたのですが、今日がその日とは初めて知りました。しかも、50年前も同じ土曜日だったと聞き、巡り合わせにびっくりしました。二人で会場に着くと、もうお二人が写真を熱心に見学中です。“いよっ”と挨拶されたのは‥‥。
市電が走った街 京都を歩く 四条線②
祇園〈2〉 ブランドナンバー「1」
前回〈1〉で、四条線を走っていた1系統は、文字どおりのファーストナンバーと記しました。衹園-百万遍-千本今出川-四条大宮-衹園と市内中心部を循環する系統でした。ほかの都市を見ても、東京都電では、品川駅前と上野駅前を結び、銀座通を貫通する系統が1系統であり、大阪市電でも、阿部野橋から四つ橋筋を通り大阪駅前に至り、堺筋を通って阿部野橋へ戻る都心の循環系統もやはり1系統で、「1」は、都市を代表する系統とも言えるでしょう。しかも京都の場合、壬生車庫の系統板の地色は赤で、ほかの車庫の系統板ように、車体色に同化する色ではなく、ひと目でそれと分かる鮮やかな色は、なおさら存在感がありました。ただ私の場合、1系統の循環コースのほぼ中央に住まいしていたので、ふだんの生活のなかで乗車する機会は、ほとんどありませんでした。
今回は、1系統に限定して、しかも四条線の廃止で、消えてしまった車両を集めてみました。こうして見ると、車両だけでなく、並走するバス、撮影のジャマをしたクルマまでも、50年前ならではの価値があります。
▲1600形ワンマンカーに改造されずに残った、戦前製の600形が4両いたが、四条線の廃止で廃車となった。最後は錦林車庫だったが、撮影時は壬生車庫で、「1」を付けて祇園石段下を曲がっていくのは、須田寬さんも絶賛された“青電”の雰囲気をよく伝えていた(以下、昭和43年5月)。
市電が走った街 京都を歩く 四条線①
祇園〈1〉 Gion
▲新春の「祇園」と言えば、八坂神社の初詣風景しかない。しかし四条線のあった昭和47(1972)年までの初詣風景はなく、やむを得ず、東山線時代の初詣風景で代用。
年が改まって、もう二週間。気を入れ直して、掲示板投稿に励み、日常の記憶を綴っていきます。さて、京都市電の四条・大宮・千本線が廃止されたのが、昭和47(1972)年1月23日で、まもなく廃止50年を迎えることになります。昨年末も、50年絡みの話題を採り上げ、それ以前にも、本欄で廃止後50年の伏見・稲荷線を特集したばかりと思っていたら、もうつぎの四条・千本・大宮線が控えているわけですね。やはり、50年前の昭和40年代は、激動が続いていたことの証だと思います。ことしも「50年前」から始めたいと思いますが、四条・千本・大宮線は、距離も長く、停留所も多くあって、一挙にとは行きません。まずは祇園~四条大宮の四条線として、「祇園」から始めて行くことにします。
五十年前に見た 当たり前の風景 -12-
梅小路に集まった蒸機18両
50年前の京都で、もうひとつ忘れられない出来事がありました。梅小路機関区で、昭和46年11月24日に、国鉄百年の記念映画「蒸気機関車-その百年」のファーストシーンの撮影が行われ、全形式の現役蒸機18両が、一時的に梅小路へ有火または無火で回送、集められたのです。翌昭和47年10月には、梅小路蒸気機関車館が開館し、再び保存・動態蒸機が集められます。そのメンバーと重複する蒸機もありますが、あくまで現役のため、異なる蒸機も集められました。
以前に本欄で、このことを掲載したところ、「立ち入り禁止で写せなかった。うらやましい」とか、「極秘に進められたのに、どうやって知ったんや」とか、いろいろな意見をもらいました。実は、どう情報を知り得たのか、全く記憶に残っていませんでしたが、最近、片付けのなかで当時の日記が見つかり、日々の動きがよく分かりました。情報の入手先は、ふたつあって、ひとつは、M模型へ行った時に「もうじき梅小路に蒸機が来るらしいで」と店主から聞かせてもらったこと。そして、決定的だったのは、同年11月18日に、国鉄に就職された、2年先輩のGさんが、午前にBOXへ来訪されて、「梅小路にC622が来とるぞ」と知らせてもらったことでした。“それっ”と午後に、数人で梅小路に出かけました。この時はカメラの持参はなく、見ただけで終わっていますが、C622をはじめ、9633、C551、C59164、D612が来ていて、日記には、「一回で小樽築港、旭川、糸崎へ来た気分」と書かれています。その翌日、10時に改めて十数人で梅小路に集結、平日午前のため、小中学生も見られず、自由に撮影できたのでした。授業は、どうしたんやと聞かれそうですが、学校は、学費値上げに端を発した紛争が再度起こって、キャンパスは校舎が封鎖中、授業に行きたくても行けず、のびのびと撮影に専念できたのでした。これも、50年前らしい背景でした。
▲梅小路で再会したC62 2、函館本線で見たのは、この3ヵ月前だった。まさか、京都で見られるとは、夢を見ているようだった。撮影した午前は光線もバッチリ、ロッドも下りて、撮影に良好な状態だった。下の表を見ると、11月16日に到着、撮影後、ただちに返却されているので、梅小路にいたのは8日間だけだった。