“アレ”にちなんで 阪神軌道線と甲子園球場 ③

タイムリーさを身上とするデジ青投稿も、こちらの怠慢で、なかなか進みません。“アレ”が“ソレ”になる前に、甲子園線を最後に載せます。今回は、甲子園線の下半分、甲子園球場を除いた甲子園~浜甲子園です。昭和50年の廃止時、終点は浜甲子園でしたが、阪神本線の出屋敷と今津を「コ」の字に結ぶ、今津出屋敷線の計画の一部を、甲子園線の延伸として充当する形で、浜甲子園から直角に西に曲がって、海岸沿いの中津浜までの0.8kmが1930年(昭和5)7月に開業しました。しかし戦争激化により、1945年(昭和20)1月に休止され、そのまま廃止となり、海岸線に直角に突っ込む形で、浜甲子園が終点となっていました。

甲子園線は、“女子高生”の輸送も担っていた。「甲子園九番町」の近くに、武庫川女子大、付属中高があって、登下校時、停留所付近は、車道までも“女子高生”で埋め尽くされる。

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 “アレ”にちなんで 阪神軌道線と甲子園球場 ②

上甲子園~甲子園を行く

では“アレ”つながりで、阪神軌道線の甲子園線を紹介していきましょう。

大阪から神戸まで、JR、阪急、阪神以外に、もうひとつ路面電車があって、大阪から神戸まで行くことができました。国道2号をクルマに邪魔されながら走っていたのが、阪神電鉄の併用軌道線、通称“阪神国道線”でした。さらに縮めて“阪国”とも呼ばれていて、“阪国”には、北大阪線(野田~天神橋筋六丁目)、甲子園線(上甲子園~浜甲子園)、国道線(野田~上甲子園~西灘~東神戸)の3線がありました。

甲子園線の始発、上甲子園で発車を待つ。通常は、単行が折り返しているが、秋晴れの日曜日のこと、阪神パークへ向かう客が多いのか、「臨時」を掲げた1両も発車を待っていて、珍しい2両並びを見ることができた。▲▲電車の向こうを横切るのが国道2号で、国道線が走っていて、甲子園線との接続を行っていた。甲子園線は日中12分ヘッドで一応、路面電車の体をなしていたが、国道線に至っては40分ヘッドで、実際に乗換客はほぼ皆無だった(昭和49年11月)。

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 “アレ”にちなんで 阪神軌道線と甲子園球場 ①

ついにやりましたね。こんなに早く“アレ”が来るとは思いも寄りませんでした。私は1ミリもタイガースとは関係はないのですが、高齢者にとっては、記憶に残る日となりました。しかも甲子園で、宿敵を完膚なきまでに叩いたこと、出来すぎのストーリーでした。テレビでは「18年前の優勝は、まだ生まれていなかった」の声もありましたが「約50年前には球場の前に路面電車が走ってたんやでぇ」と言うと、まちがいなく化石扱いされるでしょう。そう、甲子園球場の横には、1975(昭和50)年まで阪神軌道線(国道電車)の甲子園線が走っていました。

本欄でも、先にクローバー会行事で訪ねた福岡市内線跡を記しましたが、機会を見つけて、思い出に残る各地の路面電車を紹介したいと思っていたところでした。“アレ”を格好の機会ととらえて、阪神軌道線の甲子園線を紹介したいと思います。

左手、高架の阪神本線の甲子園駅があり、その直下に、軌道線の甲子園駅があった。浜甲子園行きの電車が出発して、左にカーブすると、車窓に大きな広告塔が見えてくる。背後の松並木は、かつて、ここに川が流れていたことを証言している。“銀鱗”の阪神バスも懐かしい。 続きを読む

カラー版◆大阪通信員さんが撮った 昭和の鉄道 (5)

関西本線、阪和線の電車・機関車

大阪通信員さんが撮られた“昭和の鉄道”、再開しました。前回までは大阪市内でしたから、少し範囲を広げて、通信員さんの地盤だった、関西本線、阪和線をテーマに見ていただきましょう。昭和48年10月、関西本線湊町-奈良が電化され、大阪から環状線経由で奈良を結ぶ113系電車による快速が登場した。灰色9号に朱色3号の帯を巻いた独自塗装となった。赤帯は、春日大社の鳥居をイメージしたものと言われ「春日色」の俗称もある。113系には0番台車など経年車が多く、平成元年に「大和路快速」の愛称とともに、221系電車に置き換えられた。

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カラー版◆大阪通信員さんが撮った 昭和の鉄道 (4)

大阪を記録する④ 大阪市電 

大阪市電は、万博を前にした昭和44年3月に全廃、政令指定都市としては初めての廃止でした。私としては、“早く生まれていたら”の類いで、ごく僅かの写真しか撮れていません。大阪市内で生まれ育った通信員さんは、さすがに御堂筋を走る市電や、市電ではメインの堺筋線、上町線など、中心部の写真を撮っておられます。大阪市電をテーマにした書籍を編集した時は、大阪通信員さんのモノクロ写真も活用させていただいて作ることができました。大阪市電は、カラーで見るように“あずき色”で、阪急のマルーンより赤っぽい“溜色”でした。明治36年に開業した時、すでにこの色でしたが、これは御召の御料車と同じ色であることを、政府が気づき、畏れ多いことと、すでに認可済みの大阪市を除いて、以後は他都市が同種の色を使うことを禁じたと言います。逆に大阪市電は既得権にこだわり、最期まで、この色を守り通したと言われています。

△ 大阪市電は御堂筋も走っていた。と言っても、大阪駅前から淀屋橋までの間だけで、淀屋橋で東へ、北浜二丁目から堺筋を南下する堺筋線の一部を形成していた。大阪市庁の前から西を向いての撮影で、市庁舎は、現在のものではなく、旧のルネサンス様式の建築、背後は日本銀行大阪支店。今回は、対比可能なところは、ストリートビューの現況写真との対比を試みた。大阪中心部の街並みはすっかり変わってしまったが、保存の日銀大阪支店だけは、きれいに補修されて市電時代と同じ光景を見せている。(昭和41年6月)。

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カラー版◆大阪通信員さんが撮った 昭和の鉄道 (2)

大阪を記録する② 電化後の湊町

△ 昭和48(1973)年10月、関西本線の奈良~湊町の電化が完成し、湊町駅でも電車が顔を並べるようになった。普通系は101系、快速系は113系だった。湊町駅は急にカラフルになった。

前投稿のコメントを見ても、高齢者以外には、“湊町”をすぐにイメージできないかも知れません。1994年9月の関西国際空港開港に合わせて「JR難波」になり、1996年には、JR西日本としては初の地下駅になりましたが、DCから電車への置き換えは、今から50年前のことですから、今の地下駅から、当時を想像するのは、たしかに難しいことでしょう。

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カラー版◆大阪通信員さんが撮った 昭和の鉄道 (1)

△ 大阪名物、スモッグが煙るなか、C57牽引、茶色の客車を連ねた急行「大和」が、関西本線の終点、湊町に到着する。B寝台(ロネ)2両の白帯が茶色に映える。

お盆のこの時期、台風の襲来もあって、一歩も外へ出ることなく、家に籠っていました。デジ青投稿に絶好のチャンスと意気込むのですが、気力の低下だけでなく、持ちネタの乏しさもあって投稿が続きません。先の投稿では、準特急さんから「あと数年早く生まれてきたら」論についてコメントがあり、「あのシーンを撮っていたらデジ青に載せられたのに」という思いもあります。私は「そんな言い訳したらアカン」と強がりを言ったようですが、心の中では七十数年生きて来た人間にも、その悔いが残ります。

そんな時、大阪通信員さんから朗報がもたらされました。大阪通信員さんは、私より7歳年上で、まさに「あと少し早く生まれてきたら」の写真を多数カラーで撮影されています。一部は昨年6月に行いました上映会でもご覧いただき、私も感嘆しながら進行をしていました。貴重な写真を一度だけの上映会で終わらせるのは、大変忍びなく、広く公開したいと思っていたところ、大阪通信員さんから、ぜひデジ青で公開してくださいと嬉しい返事がありました。快諾いただいた大阪通信員さんには厚く御礼申し上げます。

デジ青誌上では、米手さんが、投稿に困っているデジタル難民の記事・写真を代理投稿する老老介護も続いています。米手さんだけに介護を一任するのではなく、私も介護者として名乗りを上げた次第です。預かった写真は多数ありますが、まずは上映会の作品から見ていただきましょう。解説は最小限に留めて、皆さんからのコメントお願いいたします。

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どうなるローカル線(1)

中国新聞には「鉄路のあす」というシリーズが断続的に連載されています。勿論広島県を中心に中国地方の話題がメインですが、8月15日の朝刊には「留萌線」の記事が載りました。北海道新聞との連携のようです。

令和5年8月15日 中国新聞朝刊

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 「特急三百哩」を観る !     (下)

「特急三百哩」、映画の中盤で繰り広げられる男女の憎悪劇の部分は省いて、後半のクライマックスシーンへ移りましょう。粗いストーリーとして、主人公の機関士が、暴風雨のなか、東京行きの列車を牽いて駅を出発。ところが、前方で手を振る白い影を見つけて急停車、下車して調べると土砂崩れが発生していて、危機一髪でセーフと言うストーリー、白い影は、機関士の将来の許嫁だったのです。「鉄道省ご後援」の肝入りどおり、当時の最新の車両、C53が何度も登場する。最大の特徴の「スリーシリンダー」も、あとで字幕に出て来る。C53はこの昭和3年から、短期間に大量に造られて、C51に代わる東海道・山陽の優等列車牽引用として、全部で97両が製造された。写真のC5344は梅小路区の所属、唯一の流線型改造C5343と、梅小路蒸気機関車館の保存機C5345の間に当たる機となる。

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 「特急三百哩」を観る !     (中)

「特急三百哩」、導入部分を見てもらったあと、前半の鉄道シーンを見てもらいます。ある駅に鉄道電話が入って来ます。「何者かの悪戯で無人の機関車が線路を勝手に走り出した !」と言うもの。無人の機関車が走るのは、昔も今もアクション映画の常套ですが、なんと線路上には先行して下関行きの列車が走っています。下り勾配のため、重量のある旅客列車に、やがて暴走機関車が追突 !? さて、その結末は?レールの間にカメラを据えて、機関車が通過して行く撮影手法も、90年前に採り入れられていた。

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 「特急三百哩」を観る !     (上)

日本で最初の鉄道映画といわれる「特急三百哩」。DVDに復刻された原盤を、所蔵・管理されている京都おもちゃ映画ミュージアムからお借りして、さる6月17日、京都キャンパスプラザで、クローバー会のプロジェクションイベントとして上映することができました。タイトルにいきなり、梅小路機関区配置のC51203が出て驚かされた。まだデフもなく、御召を何度も牽いた梅小路の代表的なC51だった。後年、紀勢線六軒駅の事故機となり、廃車される。なお題名の「三百哩(マイル)」だが、当時の鉄道の距離表示はマイルで、メートルになるのは昭和5年から。「三百」の由縁については後述。

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 北九州へ “思い出探し”の旅  ❷

若松駅対比 大正9年にできた旧駅舎(上)と、駅構内が再開発されて昭和58年にできた現在の駅舎(下)。同じ位置に建つように見えるが、旧駅は線路方向に建っていて、国道199号側に面していた。新駅は終端駅スタイルに改められて、国道495号側に面するようになった。キューロクが保存展示された場所にコンビニが建っていた。

若松駅は、石炭とともに栄え、石炭とともに凋落していきました。鉄道建設期、筑豊興業鉄道では、始発駅は、地域の中心だった芦屋に置く計画でしたが、地元の反対で若松に変更になり、明治24年に若松駅が開業しました。石炭の需要の高まりとともに昭和30年代前半には最盛期を迎え、若松駅は、石炭の積出港として日本一の貨物量を誇るまでになりました。しかしスクラップ・アンド・ビルド政策で、石炭は斜陽化の一途となり、私が訪れた昭和40年代の初頭には、石炭扱い量は激減していましたが、最盛期など知る由もない私にとっては、広いヤード、石炭車の群れに、石炭がまだこの国の重要なエネルギー源だと思ったものでした。

蒸機が無くなってからも、二度ほど若松駅を訪れて、その変化は確認したつもりですが、今回、さらに周辺の様相が変わっていて、小雨のなか速足で回って来ました。

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 北九州へ “思い出探し”の旅  ❶

北九州市若松区に、“若松市電”とも呼ばれた北九州市営軌道が走っていた。国鉄若松駅から、若松の繁華街を通り、北部に集中していた工場への貨物輸送を担っていた路面軌道だった(昭和50年6月)。

デジ青投稿、再開します。さる土・日に行われたクローバー会の北九州ツアー、楽しかったなぁ、充実の二日間でした。会員や外部の皆さんに、持ち場ごとに協力をいただき、クローバー会ならではの見学・探索となりました。

私にとっても北九州は思い出の地です。デジ青にも載せましたが、高校2年生の時、初めて2週間の一人旅をしたのが九州でした。関門トンネルをくぐって門司に着いた途端、空気感が違ったことを今でも覚えています。あたりかまわず上がる蒸機の煙、顔を真っ黒にして無我夢中で写し続けました。これが北九州なんだと思いました。以来、何度も訪れた九州ですが、コロナ禍もあって数年ぶりの訪問となりました。

その昔に訪れた地と、現在の姿を対比するため、ツアーを終えた翌日の一日、すっかり姿を変えた折尾駅や、直方、若松を一人で駆け回って来ました。今回は若松の街を走っていた貨物軌道です。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~16~

日常の記録 大阪駅の24時間④

最終回の大阪駅24時間は、夕方から最終電車までをお伝えします。ドーム屋根の向こうに陽が傾き始めると、駅は二回目のラッシュ時を迎え、多くの乗客がホームを行き交います。そして、陽が落ちて、あたりが暗く包まれると、大阪駅はいっそう輝きを増して来ます。

 

 

 

 

 

 

 

新快速を補完する快速も頻繁運転される。この列車は、JR東海まで足を伸ばす223系快速の大垣行き、夕方以降、大垣行きは3本運転されていたが、いまではJR東海へ乗り入れる快速はなくなった。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~15~

日常の記録 大阪駅の24時間③

昼に「トワイライトエクスプレス」の上下が相次いで大阪駅に発着したあと、午後からは、話題となるように列車の発着もなく、ちょっと気だるい時間が過ぎて行きます。新しくなった大阪駅の視点や、旧来の光景、はたまた“旧線跡”の探索を続けました。

大阪環状線はオレンジ色の電車で占められている。完全なループ運転を開始してから50年を迎え、201系には記念のヘッドマークが掲げられていた。▲▲いっぽうの103系は、高運転台の体質改善車が活躍していた。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~14~

日常の記録 大阪駅の24時間②

朝のラッシュも一段落した大阪駅には、特急列車も発着し、かつて長距離輸送も担っていた、大阪駅の華やかな一面を垣間見ました。

食堂車クルーがお辞儀をするなか、札幌行き「トワイライトエクスプレス」が、10番ホームに11時11分、EF81に牽かれて入線して来た。翌2015年3月での運転終了がアナウンスされていて、大阪駅の目玉となっていた。この“お辞儀”が、揃わなかったり、準備で忙しく無かったりして、満足な撮影ができず、何度も通うハメになった(以下、2014年4・5月)。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~13~

日常の記録 大阪駅の24時間①

つぎの日常の記録、大阪駅の24時間です。西日本最大の駅、大阪駅は、2014年、大屋根が載った5代目の駅に生まれ変わりました。その後も、大阪駅周辺の再開発事業は進化を続け、ことし3月、大阪駅うめきたエリアが開業し、特急「くろしお」「はるか」、おおさか東線の列車が地下ホームに乗り入れ、大阪駅の拠点性と、関西全体のネットワークがより強化されました。

ある出版社の依頼で、大阪駅の24時間を記録したことがありました。早朝の4時52分、回送で到着する大阪環状線外回りの電車から、深夜0時34分発の「サンライズ出雲・瀬戸」まで、一人で取材・撮影をこなしました。と言っても一回だけの取材では満足な撮影はできず、時間を区切って、何度も大阪駅へ通い詰めたものでした。大阪駅の魅力のひとつは、国鉄型の活躍が見られたこと。大阪環状線を走る奈良区の103系電車ウグイス色編成と、福知山線の「こうのとり」381系電車が顔を揃えた。どちらも、今となっては見られない車両で、まだ10年にも満たない時代の記録だが、改めて鉄道の進化を感じる(以下、2014年4月、5月撮影)。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~12~

日常を記録する② 阪和線で103系を駅撮り

日常の記録、つぎは阪和線へと移ります。当時、アーバンネットワークと呼ばれた関西の通勤線区で、輸送が逼迫していたのが阪和線でした。高架工事が進捗し、改正ごとに増発が進みますが、車両の中心は、まだ103系でした。昭和43年10月改正で、関西初となる103系が配属され、全国でも4番目の投入線区となりました。この時期、首都圏では一掃され、残るのはJR西日本と九州の350両程度、そのなかで、吹田総合車両所日根野支所の103系には、最大の90両が配置され、全車が青22号に塗られて、阪和線の主力として活躍を続け来ました。4扉電車には余り関心を示さない私も、日常の記録の要諦として、この時期に何度か阪和線を訪れたものでした。

ラッシュ時の阪和線、次つぎに103系がやって来て圧倒される。日根野区の103系は、「普通」はもちろん、和歌山始発の「快速」運用にも入っていた。前項投稿のコメントで、阪和線を、河昭一郎さんは「憧れの線区」と表現され、阪和線沿線で育った893-2さんは「掃きだめ」と表現された。どちらも至言だと思う。私自身も、高校生の頃、古臭い社型電車ばかりで、掃きだめ感のある阪和線に憧れて、高校2年生の時、はるばる鳳電車区を訪れたことを思い出した。左:天王寺行きクハ103-591ほか、右:鳳行きクハ103-127ほか(以下2010年5月、南田辺、長居、鶴ケ丘にて)。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~11~

日常を記録する① 朝の山崎駅

前項でも触れましたが、この大混雑ウィークは、遠出は止めて、近場でサクッと撮るに限ります。この習慣、デジカメを始めた十数年前も同じでした。近くのJR、私鉄へ行って、この時代の「日常」を記録していました。単なる列車写真の羅列にしか過ぎませんが、今となっては、ほとんどの車両が世代交代しています。改めて「当たり前の記録」の重要性を知る5月の連休でした。今回は、東海道本線の山崎駅の午前中、大阪方面行きホームの先端から見た列車を見ていただきます。この場所が、とくに賑わうのが“ネタ”列車の通る時だろう。この時代は、最後のボンネット特急車両となった、金沢車両所の489系H01~03編成がやって来た時に尽きる。少し前までは「はくたか」代走や、時には「雷鳥」でも走ることがあったが、この連休期、一往復だけの臨時特急「ふるさと雷鳥」に充当されて、久しぶりに晴れ姿をとらえられた。あとは、月に数回、北陸方面から、京都への団体輸送・修学旅行に使われることもあり、チャンスが訪れると、白レンズ・三脚・脚立組に囲まれて、小さくなって、すき間から狙ったものだ。最末期はずいぶん汚くなってしまったが、この時期はまだ車体も美しく、ボンネット全盛を彷彿させた。クハ489-3F (2009年5月、以下特記以外同様)。

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古いハガキ

行方不明のネガを探して、魔窟に足を踏み入れました。
そこから多量の切符、家族写真(鉄道写真の探しているものは未だ発見できず)、駅弁の包装紙等などと共に、就職のため上京した年の年賀状が出てきました。大西友三郎先輩や吉谷和典先輩など、鬼籍に入られた方からの懐かしいはなむけの言葉に改めて感激しました。

その中に当会設立の第一世代である重澤崇先輩からの年賀状もありました。ところが発見したその日に重澤先輩から沖中先輩・湯口先輩の一周忌にまつわるハガキが来たのです。
これも故人のご縁と、ご了承を頂きここに掲載致します。

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