あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~6~

2008年3月29日 三木鉄道の最終日曜日

第三セクターの三木鉄道(厄神~三木6.6km)が2008年3月いっぱいで廃止されました。国鉄三木線が第一次特定地方交通線に指定されて、1985年4月、第三セクターとしては最短の路線として発足しましたが、旅客量は減る一方で、20年余りしか維持できませんでした。当時、三セクの廃止は、北海道ちほく、神岡、高千穂鉄道に次ぐ4例目でした。両端で鉄道と接続しているものの、旅客の行き来はもともと少なく、加古川方面へは厄神で乗り換えを強いられ、神戸方面へは神戸電鉄三木駅への徒歩連絡を強いられるなどの壁もあり、同時期に転換した近くの北条鉄道が、いろいろな施策で話題を作りながら、持ちこたえているのとは対照的でした。三木鉄道へは廃止直前に何度か通った。JRで加古川回りで行くより、神戸電鉄で三木まで行っていた、当時、関西一円で使える、乗り放題のスルッとKANSAI 3dayチケットがあり、格安で三木まで行くことができた。石野付近を行くミキ300形

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~5~

2006年3月25日 南海貴志川線の最後を見に行く

しばらく私鉄を続けます。南海電鉄貴志川線(和歌山~貴志14.3km)は、岡山電軌100%子会社の和歌山電鐵へ運行が引き継がれることになり、初の公募による、民間事業者の鉄道譲渡認可事業となりました。貴志川線としての最終の日曜日、2006年3月26日には、スタンプラリーなどの感謝イベントが行われて、私も行って来ました。同社は「タマ駅長」や「いちご電車」など、奇抜な施策で注目を浴びていますが、それは少し後のことで、南海色をそのまま残しての引継ぎとなりました。以前の貴志川線には1201形が走り、何度かクローバー会の面々と訪れたこともあるが、引継ぎ時には、ズームカー22000系を貴志川線用に改造した2270系の2両編成Mc+Tcに統一されていた。貴志川線は、日前宮・竈山神社・伊太祈曽神社への三社参りの鉄道として、大正5年に山東軽便鉄道が、大橋~山東(のち伊太祈曽)を開業させた。昭和6年には和歌山鉄道に改め、昭和18年、全線電化。その後、和歌山電軌を経て、昭和36年に南海電鉄貴志川線となった。貴志川線は南海の鉄道線からは孤立した存在で、昭和46年に和歌山軌道線が廃止されると、すべての南海線とは離れ小島となり、南海が昇圧後も、貴志川線だけ600Vで取り残された。平成7年から、2270系電車が投入され、ワンマン運転となった。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~4~

2007年3月24日 113系を山陰本線で

前回の113系つながりで、デジカメ初期に撮った山陰本線京都口の113系を見てもらいます。今から見ると、ずいぶん興味深い113系が走っていました。

本日の夕方には、今月末で消える草津線直通の113系を求めて、京都駅0番ホームで孫のような世代に囲まれ写していました。なかなか写欲が湧かない抹茶色の113系ですが、なくなるとなると、愛おしさが出てきました。山陰本線京都口の113系は、京都~園部の電化が完成した1990年から走り始めているが、その後、電化の延伸や列車本数の増加で、今では考えられないような改造車や塗装があった。その最たるものが、二丁パンタの113系2両ユニットだった。1996年の園部~綾部の電化時に、113系の中間Mユニットを先頭車化してワンマン対応の2両編成となり、京都~園部では同区間の4両編成との併結運転となった。今回の撮影場所は、千代川~並河で、かつてC57が走っていた頃、一緒に撮っていたT君が、菜の花をボカしてC57と一緒に撮り、「花道を行く」のタイトルを付けて心酔していた場所だ。撮影当時は、複線化工事の真っ最中だったが、田んぼの中を一直線に伸びていた。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~3~

ほぼ同月同日シリーズ、3月の続きとして、しばらくデジカメで撮ったカラーを見ていただきます。私のデジカメ歴は2003年から始まっていますから、ちょうど20年になります。最初はコンパクトデジカメで、まだ画素数も色調も満足できるものではなく、もっぱら個人ユースとしての使いかたでした。画素数も多くなり、色調も安定してきた頃に、一眼デジカメを購入し、鉄道写真もフィルムからデジタルに移行します。高齢者がデジカメ時代と聞くと、つい最近のようにも思いますが、もう結構な年数が経過しました。初期の時代に撮った写真は、立派な古写真に入っているのかもしれません。事実、デジカメ初期に撮った内容を見直すと、今では見られない車両や鉄道ばかりで、改めて年月の隔たりを感じます。

2006年3月13日 横浜で「出雲」、113系を撮る

京都地区の113系が今月いっぱいで撤退することがアナウンスされているが、東海道本線の東京口で運転されていた国府津車両センターの113系は、E231系の投入で2006年3月18日改正で運用を終了した。これにより“湘南電車”発祥の地から、オレンジとグリーンの塗装が見られなくなった。JR横浜支社では、最後まで残った4編成に意匠の異なるヘッドマーク(シール)を貼付して走った。

小田原行き快速アクティー3715M クハ111-1405F 新子安

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~2~

1981年3月 東京で私鉄・バスを撮る②

渋谷で撮ったあとは、以下のように、京王・小田急・都バスを撮り、最後は国鉄の列車も撮って、一日を終えます。前回の東急5000系、6000系、今回の京王3000系、小田急3000形など、その後、地方私鉄で第二の働き場所を見つけた車両も、今では、それもほとんど見られなくなり、時代の隔たりを感じます。京王井の頭線のステンプラカー3000系が製造されたのが昭和37年、当時の「鉄道ファン」の表紙でも紹介され、編成ごとにカラーが異なる正面のFRPのマスクには強い憧れがあったが、乗ることも見ることもなく、今回初めて撮影できた。下北沢~新代田 (以下、昭和56年3月13日)

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~1~

“地元大事”と、関西の蒸機を連載していましたが、同じようなモノクロ写真だけ並べても、単調なこと甚だしく、もう少し地域、車両に変化が必要だと感じています。最近、身体が思わしくなく、自宅に籠って古いデータやフィルムを見直していると、「こんなモン撮ってたんか」というような写真も出てきました。「古い」というキーワードは、50年前であっても、20年前であっても、大きな価値を生みます。発表する機会は、まだ気力の残る今しかないと思いました。ただ成り行きで紹介するのではなく、何かの“括り”は必要でしょう。そこで、タイトルに掲げたように、古いネタであれば、ほぼ同月同日の切り口で何でも載せて行く、ゆるい括りとしました。今まであまり発表していない私鉄電車やバスなども、この際、蔵出ししたいと思います。

1981年3月 東京で私鉄・バスを撮る①

そんな時、ある方から、地元大事はわかるけど人によって地元もいろいろあるでェ、もっと広い範囲、関東方面も紹介せえと、叱咤激励されました。確かにそうですね。そこで、手始めとして、昭和56年3月に行った東京の私鉄・バスめぐりを載せることにしました。この時は、先輩のTさんの結婚式に招かれて、東京へ行ったもので、式の前日に入り一日撮影したものです。乗り換えの合い間はあるものの、東京で丸一日、撮影に費やしたのは初めてでした。特段珍しいものはありませんが、年月が経ってみると、それなりの価値が出てきた例として、まず紹介します。夜行バスに乗って早朝に東京に到着、廃車の始まった東急(初代)5000系を撮るのが第一の目的だった。大井町から大井町線に乗ると、まだ“青ガエル”を多く見かけた。デハ5000の最終車5055先頭の大井町行き 同車は松本電鉄モハ5005として譲渡された。 (以下、昭和56年3月13日)

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 関西の蒸機を巡る ~草津線~  ⑤

最終回の草津線蒸機は、貴生川から、甲賀、油日、柘植と巡ります。東海道沿いに古くから集落のあった草津~貴生川と比べると、この貴生川~柘植は、ローカル色も濃くなります。草津線の列車ダイヤを改めてみますと、撮影当時の昭和40年代、朝夕を中心に4往復の客車列車がありました。朝の下り3本は、草津からEF58に交代して京都までの直通でした。草津を早朝6:11に発つ上り722レは、亀山経由で紀勢本線を一周して、夜の20:51に和歌山市に到着する当時の名物鈍行でした。貨物列車は、亀山から梅小路へ向かう列車が多くあり、牽引機は、亀山区、奈良区の集煙装置付きのD51でした。SLブームの渦中で、関西本線では休日のたびにD51牽引のイベント列車が走り、その流れで、デフに装飾を入れた機も見られました。そんなD51の奮闘も、昭和47年10月改正でDD51と交代し、客貨からD51の姿は見られなくなりました。柘植から油日寄りへ歩くこと数分、絵になる松、杉の並木が迎えてくれる。加太への移動にも便利なところで、お気に入りの撮影地だった。ここは県境を越えた三重県となる。 786レ D51 497 油日~柘植 昭和47年2月

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 関西の蒸機を巡る ~草津線~  ④

貴生川

草津線は、貴生川を境に様相が変わります。草津方は人家も多く、当時から京都方面への通勤圏に入っていて乗降も多く見られましたが、いっぽうの柘植方はローカル色が強くなり、勾配区間もあって蒸機の奮闘が見られました。街道の東海道も、貴生川までは並行するものの、水口から鈴鹿の山あいに入って行くため、草津線は貴生川~柘植の比較的平坦なルートを選択しました。

地図を見ると、貴生川付近の集落は杣川の対岸にあって、駅側にはほとんど人家が見られませんが、草津線が開業する前日の明治33年12月28日に、近江鉄道が彦根から伸びて来ました。昭和8年には信楽線も開業して、貴生川は乗換駅としての機能を持つようになります。朝から降り続く雨のなか、機体をホームに映して、D51 841の牽く4791レが貴生川に到着する。駅の配線はその後も大きな変化はないものの、駅舎は橋上化されている。  昭和47年6月

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 関西の蒸機を巡る ~草津線~  ③

石部から 三雲、貴生川へ

今回は2つ目の駅、石部から始めます。石部は、東海道51番目の宿場に当たり、草津線の南側に並行する東海道沿いには、今でも宿場町の面影が残っています。京からは9里(約35キロ)の距離となり、京を出発した初日の宿泊地として「京立ち、石部泊まり」と言われて、宿場は賑わったと言います。

石部からさらに三雲方面に歩くと、当時は、家棟川、由良谷川、大砂川と3つの天井川が流れていて、草津線は下を潜っていました。草津線の電化に際して、家棟川、由良谷川は平地化されて、うち家棟川の跡地には、新しく甲西駅や湖南市役所が建てられました。現在、天井川で残るのは大砂川のみで、煉瓦積みポータルが古い歴史を伝えています。

夕方の柘植方面の客車列車は、逆光上で撮るのに最適。背後には、いかにも秋らしい雲が漂っていた。726レ D51 178 石部~三雲 昭和47年9月      

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 関西の蒸機を巡る ~草津線~  ②

では草津から順に蒸機との出会いを巡って行きます。草津線の起点は柘植ですが、感覚的にはやはり草津です。明治期、官設の東海道線は、滋賀県下では琵琶湖の航路に代わって、中山道に沿って鉄路で建設されることになります。それに対抗して、東海道に沿って旧宿場町を巡り、草津から四日市へ至る、私設鉄道を建設する機運が起こります。草津~三雲が明治22年12月に開業、翌年には三雲-柘植-四日市の約63キロが一挙に開通しました。これが、関西私鉄の先駆けとなる名門、関西(かんせい)鉄道の出発点となったのです。関西鉄道と言えば、JR関西本線のイメージが強いのですが、現在の草津線から始まったのです。今でも草津線には、関西鉄道の社紋がある煉瓦積みのアーチ橋が残り、歴史の変転を見ることができます。東海道本線から分岐した直後のカーブ上で、亀山発京都行き725レを撮影する。D51 145の牽引。前項の草津線初撮影と同じ昭和44年3月の撮影。この時は、草津線と東海道本線は平面で分岐・合流していたが、東海道線の列車を支障することになり、昭和45年に、付け替えが行われ、現在のように上下線が分離、高架化された。

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 関西の蒸機を巡る ~草津線~  ①

桜の開花も近いというのに、投稿はいっこうに進まず、デジ青の論戦にもついて行けません。体調も万全でなく、何をするにも“身体が資本”を改めて感じる毎日で、本日の長良川鉄道イベントも参加が叶わず、家で悶々としていましたが、地道に投稿を続けていきたいと思っています。

まずは古典ネタで入るのが高齢趣味者の定めと言うことで、しつこく蒸機ネタから始めます。1月の写真展「煙の記憶」、多くの皆さんに来場いただきましたが、改めて感じたのは「蒸機の時代は遠くなりにけり」です。現役蒸機の時代を知らない世代が、来場者の約半数でした。その方たちの眼は、北海道のC62重連や、九州の流麗なC57よりも、山陰本線京都~園部など身近な線区に注がれます。前回、本欄で小浜線のC58を連載した時も、予想外のコメントをもらいました。近郊の線区は、蒸機形式や沿線風景において、北海道、九州と較べると見劣りすると思うのは高齢者だけで、その時代を知らない世代にとって、そんなことは関係がなく、蒸機の時代と、現在の風景を対比して興味深くご覧になっていました。 やはり地元の写真を、きちんと載せて行くことが大事だと感じ、今回は草津線を採り上ることにしました。

草津線の蒸機を初めて撮ったのは意外に遅く、昭和44年2月のことだった。この時、DRFCで近江鉄道彦根車庫の見学があり(西村さんが、近江の白帯貨車を載せられていた)、早めに草津へ行って、駅で京都へ向かう蒸機を撮った。この時は亀山区のC58 240が牽いていた。駅構内は、50年後の今もそれほど変わっていないが、右手には関西鉄道由来の煉瓦庫がホームと隣り合っていて、駅前の再開発工事も途上だった。

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鉄道とは何の関係も無い話 年賀状考

沖中・湯口両先輩の逝去に接し、やる気が失せた老会員の独り言に付き、興味の無い方の閲覧は不要。

毎年、正月元旦は年賀状を拝見するのが何よりの楽しみである。
差し出された方々の顔を思い出しながら一枚一枚読んでいくと、数十年の時間もつい最近のように思い出されるから不思議だ。同じようにこちらから送った年賀状をどのように読んでくれているかを想像するのも楽しみとなる。

⇧スユ3025 (本文と何の関係も無いイメージ画)

私は毎年三種類の年賀状を作る。
一つ目は家族同士のお付き合いがある方への年賀状。二つ目は私のみのお付き合いの方、または仕事上のお付き合いの方。三つ目は趣味、鉄道趣味界の友人。
いずれも大切な友人・知人ではあるが付き合う角度がちがうため、デザインには頭を悩ますことになる。夏を過ぎる頃から写真を撮りためて年賀状が発売されるや、一気に作成する。
そこで最近はある問題に突き当たるのだ。
一つは喪中ハガキのこと。
11月に入る頃から喪中ハガキがぼつぼつ来始める。11月に来るのは「あの人が亡くなったのか」と名簿を消すことになるのだが、12月中旬を過ぎてから来るのには往生する。先に書いたように12月に入ると年賀状の作成は終わっており、宛先も書いていることが多い。何時亡くなったのかと見てみると10月から11月であれば致し方ないが、2月や5月になくなっている場合はもう少し早く知らせて頂きたいと思ってしまう。
そしていつも悩むのがご遺族のお考えである。つまり「喪中だから年賀状は出さない」のは分かるが、受け取るのも断るということなのだろうか?死者を悼む気持ちは分かるが新年を言祝ぐのとはちがうと思うのだが皆さんはどう思われるのかお聞きしたい。
因みに我が両親が亡くなった時は喪中ハガキと年賀状は出さず、例年通り受け取ってから正月明けに「寒中見舞い」として旧年に親が亡くなったので年賀状は失礼した旨を書き記した。
また、喪中ハガキの範囲も問題である。親や配偶者、子供と言った近親者の場合は当然として、親の兄弟や配偶者の親兄弟まで知らせなければならないのだろうか?
この範囲も皆さんのご意見をお聞きしたい。

さて年賀状である。
最近とみに「今年で年賀状を終わりにする」と書かれた“賀状じまい”の年賀状が来るようになった。
これにも頭を悩ませる事になる。
「私は年賀状を出さないが、貰うのはかまわないので送って下さい」というのか、「私は出さないから送らないでくれ」というのか判断しかねるのだ。
先にも書いたように当方は毎年の楽しみで作るのだから送りたいのである。これを嫌われたら年賀状の趣旨にも反する。
私はこの様なハガキを貰っても一方的にこちらは出すことにしている。それは「私は元気ですよ」と一方的なお知らせをしている事になるが、年賀状を貰うことは期待していない。現に「出さないが下さい」と書いてある終い状もあるのだ。
さて、思い当たる方々よ、貴兄のお考えやいかに!

上越路のEF5861

11月15日にデカンショまつり号氏が大宮鉄道博物館にEF5861が保存されたことをご紹介頂きました。この記事を拝見し、そう言えば 私が4年間高崎で過ごした際に61号機に出会ったことを思い出し、写真を探してみました。平成12年から13年に撮影していました。当時の所属区名板は「田」、田町でした。

平成13年1月6日 上越線井野駅を通過する「EL&SL水上号」。先頭はC58363。次位がEF5861。

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 青い瞬間(とき) -Blue Momentを追いかけて -6-

京都鉄道博物館では、一年に数回、夜間開放の「ナイトミュージアム」が行われ、梅小路蒸気機関車庫も公開されて、自由に撮影することができました。ところが、最近は様子が変わって来て、人数限定でカメラメーカーの新製品デモ・撮影会となったり、団体主催による有料撮影会になってしまいました。“有料”がいまやノーマルになってしまった鉄道現場の見学・撮影会ですが、入館料金だけで誰でも気軽に入れた以前が思い出されます。博物館の展望ロビーから、Blue Momentに包まれた、ライトアップされたラウンドハウスを見る。

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 亀山駅から歩いて ある碑を見に行く

9月4日に行われたクローバー会の三岐鉄道ツアー、孫のような現役生も参加して、三世代相当の参加者が乗り歩きを楽しみました(その様子については、伝言板〈会員限定〉に奈良の駅名研究家さんからの報告があります)。終わってからは、桑名駅前で年寄り限定の懇親会を行い、参加者は20時ごろの列車で帰宅しましたが、私だけは一泊して、翌日、ある目的を持って、JR亀山駅に降り立ちました。紀勢本線に沿って、鈴鹿川を渡り、歩くこと20分で、どこでも見られる、地方の集落のなかにある、中村公民館という、地域の集会所前に着きました。

 

紀勢本線の始発、亀山を出て、鈴鹿川を渡り、下庄トンネルに入る手前をJR東海のキハ25が行く。今から77年前の終戦直前、この付近を走っていた亀山発鳥羽行き列車に向けて米軍機による銃撃事件があった。

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 “ナメクジ”に 魅せられる  (6)

貨物列車を牽く“ナメクジ”

本シリーズも最後となりました。今回は、“ナメクジ”が本領を発揮した貨物列車を牽くシーンです。旅客を牽いた前回と比べて、さすがに多くの写真を撮っていました。いまの動態D51は旅客ばかり牽いていますが、やはり、D51は貨物を牽く機関車だったと改めて思います。その中の“ナメクジ”ですが、全国分布は、前回に記したとおり、東北・北海道に多く見られました。機構上、集煙装置を取り付けられないことと、第一動輪の軸重が少し軽く、勾配区間ではあまり好まれなかったようですが、それでも、全国的に“ナメクジ”の牽く貨物列車が見られました。最終回に当たり、改めて“ナメクジ”と標準型の差異を並べて見た。左:D51 61[尻] 初期グループの半流線形、1~85、91~100の95両がいた。右:D51 164[戸] 給水温メ器を煙突前に置いた、“デゴイチ”の代名詞、日本の蒸機の代表的スタイル。これ以外に戦時タイプの1001~1161の161両がある。両者を比べると、“ナメクジ”は煙室端面にRがあるが、標準型は角型、煙室扉の取っ手は、“ナメクジ”は両側の2個、標準型は片側1個。

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沖中さんの置き土産

“乙訓の老人”こと沖中忠順先輩が西方への旅に発たれてはや3ヶ月になろうとしています。今でも電話が掛かってきて「おい、話があるから四条大宮まで出てきてくれ!」と言う声が耳に響く気がします。そんな頃、四十九日・納骨式が開かれることになり、会長と共にお呼び頂きました。
ところで沖中さんが亡くなって驚いた事(不謹慎ながら嬉しいこと)がありました。
それは、会いたかった方にお目にかかれたことです。
お一人は、このホームページでたびたびコメントを下さっている「乙訓の老人の甥」さん、今一人は当会創立者のお一人の「重澤崇」先輩です。

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 “ナメクジ”に 魅せられる  (5)

旅客列車を牽く“ナメクジ”

昨日からクローバー会写真展「鉄路輝く」が開かれています。私も初日から受付をさせてもらいましたが、東京、京都、大阪から著名な鉄道ファンや、デジ青でお馴染みのコメンテーターの皆さんに来場いただきました。3年半ぶりに行われた写真展では、同席した会員相互の親睦だけでなく、外部の皆さんとも交流できるのは、何より写真展の魅力です。来場者との話は、デジ青にも及び、やはりクローバー会活動の源泉を担っていることも再認識しました。

さて、“ナメクジ”のこと進めます。これからは、客貨列車を牽く“ナメクジ”を見て行きます。改めて“ナメクジ”の地域別の配置を調べてみました。昭和42年(55年前)の配置を見ますと、“ナメクジ”95両のうち、廃車になったのは4両だけ、なんと91両が現役で走っていたのです。地域別にみると、北海道33両、東北30両、中部・近畿13両、九州15両となり、北海道・東北で大半を占めています。なぜ、こんな偏りがあるのでしょうか。考えられるものとして、“ナメクジ”製造直後の配置には北海道が多く、その後も道内を転々として、海を渡らなければならない北海道では蒸機も封じ込めの例があったこと、“ナメクジ”は構造上、集煙装置を取り付けられず、北海道には集煙装置の使用線区が無かったことなどが挙げられます。ただ、貨物を牽く“ナメクジ”は多く撮ったものの、旅客列車に限定すると極めて少数です。

雪に覆われたニセコ・アンヌプリを背景に上目名の勾配を上がって行くD51 64[長] C62重連「ていね」「ニセコ」の先頭が時々D51に差し替えられてガックリきたと聞くことがある。それがもし“ナメクジ”だったら、C622先頭より価値があっただろう(上目名~目名、昭和46年3月)。

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 “ナメクジ”に 魅せられる  (4)

これも“ナメクジ” 変形機のいろいろ

“ナメクジ”95両のうち、ほかとは異なる外観をした機体もいました。前号の長鉄式デフの95号も含まれるかもしれませんが、今回は、デフなしナメクジと、標準型になったナメクジという珍品です。

吹田第一機関区のデフなしナメクジ、D51 78 吹田一区のD51の役目は、おもに吹田操車場での入換え。付近を電車で通ると、はてしなく広がる操車場のあちこちにD51の煙が立ち上っていたものだ。何十両も連結した貨車編成を、ハンプへ押し上げて突放し、係員がデッキに飛び乗り、前後動を繰り返していた。係員の立ち位置の確保と見通しを良くするため、思い切ってデフを取り去ったもの(梅小路、昭和41年10月)。

 

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 “ナメクジ”に 魅せられる  (3)

形式写真を見直す

先般の鉄道ピクトリアル「D51」特集で、改めて思ったのは、形式写真の美しさでした。小さいころ、車両だけをきっちり写した形式写真にも憧れを持ちました。ピク蒸機特集に載った、形式写真の第一人者、西尾克三郎さんの写真を飽かずに眺めたものでした。自分でも形式写真を撮りたいと思うようになり、フィルム現像を覚えたり、ブロニー判のカメラを買ったりしたものでした。周囲に邪魔がなく、ロッドが降りて、下回りにも光線が当たり、公式側を3:7あたりで撮った、形式写真の条件を満たす写真の美しさを改めて思ったものでした。こんな好条件で撮れるのは、万にひとつぐらいですが、それだけに、近い条件で撮れた時の喜びは大きく、現在では、個人レベルで、現業部門で形式写真を撮ることなど、不可能になっただけに、余計にその価値を感じます。

▲ D51 25[福] 近くの山陰本線にも“ナメクジ”がいた。福知山機関区にD5125、D5166の2両がいて、貨物を牽いている姿が見られた。66号は米手さんもコメント欄に寄せていただいた。もう1両の25号は、で、正面に形式入りナンバープレートを付けた白眉の“ナメクジ”。「形式D51」と小さく入るだけで、なんとも格が上がったように見える。私の写した“ナメクジ”のなかで、形式入りはあと1両、出水区のD5194だけだった。梅小路区に配置の時代もあり、その時は東海道本線で貨物を牽いていた(福知山区、昭和42年10月)。

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