「特急三百哩」、導入部分を見てもらったあと、前半の鉄道シーンを見てもらいます。ある駅に鉄道電話が入って来ます。「何者かの悪戯で無人の機関車が線路を勝手に走り出した !」と言うもの。無人の機関車が走るのは、昔も今もアクション映画の常套ですが、なんと線路上には先行して下関行きの列車が走っています。下り勾配のため、重量のある旅客列車に、やがて暴走機関車が追突 !? さて、その結末は?▲レールの間にカメラを据えて、機関車が通過して行く撮影手法も、90年前に採り入れられていた。
「老人の戯言」カテゴリーアーカイブ
「特急三百哩」を観る ! (上)
日本で最初の鉄道映画といわれる「特急三百哩」。DVDに復刻された原盤を、所蔵・管理されている京都おもちゃ映画ミュージアムからお借りして、さる6月17日、京都キャンパスプラザで、クローバー会のプロジェクションイベントとして上映することができました。▲タイトルにいきなり、梅小路機関区配置のC51203が出て驚かされた。まだデフもなく、御召を何度も牽いた梅小路の代表的なC51だった。後年、紀勢線六軒駅の事故機となり、廃車される。なお題名の「三百哩(マイル)」だが、当時の鉄道の距離表示はマイルで、メートルになるのは昭和5年から。「三百」の由縁については後述。
北九州へ “思い出探し”の旅 ❷
▲ 若松駅対比 大正9年にできた旧駅舎(上)と、駅構内が再開発されて昭和58年にできた現在の駅舎(下)。同じ位置に建つように見えるが、旧駅は線路方向に建っていて、国道199号側に面していた。新駅は終端駅スタイルに改められて、国道495号側に面するようになった。キューロクが保存展示された場所にコンビニが建っていた。
若松駅は、石炭とともに栄え、石炭とともに凋落していきました。鉄道建設期、筑豊興業鉄道では、始発駅は、地域の中心だった芦屋に置く計画でしたが、地元の反対で若松に変更になり、明治24年に若松駅が開業しました。石炭の需要の高まりとともに昭和30年代前半には最盛期を迎え、若松駅は、石炭の積出港として日本一の貨物量を誇るまでになりました。しかしスクラップ・アンド・ビルド政策で、石炭は斜陽化の一途となり、私が訪れた昭和40年代の初頭には、石炭扱い量は激減していましたが、最盛期など知る由もない私にとっては、広いヤード、石炭車の群れに、石炭がまだこの国の重要なエネルギー源だと思ったものでした。
蒸機が無くなってからも、二度ほど若松駅を訪れて、その変化は確認したつもりですが、今回、さらに周辺の様相が変わっていて、小雨のなか速足で回って来ました。
北九州へ “思い出探し”の旅 ❶
▲北九州市若松区に、“若松市電”とも呼ばれた北九州市営軌道が走っていた。国鉄若松駅から、若松の繁華街を通り、北部に集中していた工場への貨物輸送を担っていた路面軌道だった(昭和50年6月)。
デジ青投稿、再開します。さる土・日に行われたクローバー会の北九州ツアー、楽しかったなぁ、充実の二日間でした。会員や外部の皆さんに、持ち場ごとに協力をいただき、クローバー会ならではの見学・探索となりました。
私にとっても北九州は思い出の地です。デジ青にも載せましたが、高校2年生の時、初めて2週間の一人旅をしたのが九州でした。関門トンネルをくぐって門司に着いた途端、空気感が違ったことを今でも覚えています。あたりかまわず上がる蒸機の煙、顔を真っ黒にして無我夢中で写し続けました。これが北九州なんだと思いました。以来、何度も訪れた九州ですが、コロナ禍もあって数年ぶりの訪問となりました。
その昔に訪れた地と、現在の姿を対比するため、ツアーを終えた翌日の一日、すっかり姿を変えた折尾駅や、直方、若松を一人で駆け回って来ました。今回は若松の街を走っていた貨物軌道です。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~16~
日常の記録 大阪駅の24時間④
最終回の大阪駅24時間は、夕方から最終電車までをお伝えします。ドーム屋根の向こうに陽が傾き始めると、駅は二回目のラッシュ時を迎え、多くの乗客がホームを行き交います。そして、陽が落ちて、あたりが暗く包まれると、大阪駅はいっそう輝きを増して来ます。
▲新快速を補完する快速も頻繁運転される。この列車は、JR東海まで足を伸ばす223系快速の大垣行き、夕方以降、大垣行きは3本運転されていたが、いまではJR東海へ乗り入れる快速はなくなった。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~15~
日常の記録 大阪駅の24時間③
昼に「トワイライトエクスプレス」の上下が相次いで大阪駅に発着したあと、午後からは、話題となるように列車の発着もなく、ちょっと気だるい時間が過ぎて行きます。新しくなった大阪駅の視点や、旧来の光景、はたまた“旧線跡”の探索を続けました。
▲大阪環状線はオレンジ色の電車で占められている。完全なループ運転を開始してから50年を迎え、201系には記念のヘッドマークが掲げられていた。▲▲いっぽうの103系は、高運転台の体質改善車が活躍していた。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~14~
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~13~
日常の記録 大阪駅の24時間①
つぎの日常の記録、大阪駅の24時間です。西日本最大の駅、大阪駅は、2014年、大屋根が載った5代目の駅に生まれ変わりました。その後も、大阪駅周辺の再開発事業は進化を続け、ことし3月、大阪駅うめきたエリアが開業し、特急「くろしお」「はるか」、おおさか東線の列車が地下ホームに乗り入れ、大阪駅の拠点性と、関西全体のネットワークがより強化されました。
ある出版社の依頼で、大阪駅の24時間を記録したことがありました。早朝の4時52分、回送で到着する大阪環状線外回りの電車から、深夜0時34分発の「サンライズ出雲・瀬戸」まで、一人で取材・撮影をこなしました。と言っても一回だけの取材では満足な撮影はできず、時間を区切って、何度も大阪駅へ通い詰めたものでした。▲大阪駅の魅力のひとつは、国鉄型の活躍が見られたこと。大阪環状線を走る奈良区の103系電車ウグイス色編成と、福知山線の「こうのとり」381系電車が顔を揃えた。どちらも、今となっては見られない車両で、まだ10年にも満たない時代の記録だが、改めて鉄道の進化を感じる(以下、2014年4月、5月撮影)。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~12~
日常を記録する② 阪和線で103系を駅撮り
日常の記録、つぎは阪和線へと移ります。当時、アーバンネットワークと呼ばれた関西の通勤線区で、輸送が逼迫していたのが阪和線でした。高架工事が進捗し、改正ごとに増発が進みますが、車両の中心は、まだ103系でした。昭和43年10月改正で、関西初となる103系が配属され、全国でも4番目の投入線区となりました。この時期、首都圏では一掃され、残るのはJR西日本と九州の350両程度、そのなかで、吹田総合車両所日根野支所の103系には、最大の90両が配置され、全車が青22号に塗られて、阪和線の主力として活躍を続け来ました。4扉電車には余り関心を示さない私も、日常の記録の要諦として、この時期に何度か阪和線を訪れたものでした。
▲ラッシュ時の阪和線、次つぎに103系がやって来て圧倒される。日根野区の103系は、「普通」はもちろん、和歌山始発の「快速」運用にも入っていた。前項投稿のコメントで、阪和線を、河昭一郎さんは「憧れの線区」と表現され、阪和線沿線で育った893-2さんは「掃きだめ」と表現された。どちらも至言だと思う。私自身も、高校生の頃、古臭い社型電車ばかりで、掃きだめ感のある阪和線に憧れて、高校2年生の時、はるばる鳳電車区を訪れたことを思い出した。左:天王寺行きクハ103-591ほか、右:鳳行きクハ103-127ほか(以下2010年5月、南田辺、長居、鶴ケ丘にて)。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~11~
日常を記録する① 朝の山崎駅
前項でも触れましたが、この大混雑ウィークは、遠出は止めて、近場でサクッと撮るに限ります。この習慣、デジカメを始めた十数年前も同じでした。近くのJR、私鉄へ行って、この時代の「日常」を記録していました。単なる列車写真の羅列にしか過ぎませんが、今となっては、ほとんどの車両が世代交代しています。改めて「当たり前の記録」の重要性を知る5月の連休でした。今回は、東海道本線の山崎駅の午前中、大阪方面行きホームの先端から見た列車を見ていただきます。▲この場所が、とくに賑わうのが“ネタ”列車の通る時だろう。この時代は、最後のボンネット特急車両となった、金沢車両所の489系H01~03編成がやって来た時に尽きる。少し前までは「はくたか」代走や、時には「雷鳥」でも走ることがあったが、この連休期、一往復だけの臨時特急「ふるさと雷鳥」に充当されて、久しぶりに晴れ姿をとらえられた。あとは、月に数回、北陸方面から、京都への団体輸送・修学旅行に使われることもあり、チャンスが訪れると、白レンズ・三脚・脚立組に囲まれて、小さくなって、すき間から狙ったものだ。最末期はずいぶん汚くなってしまったが、この時期はまだ車体も美しく、ボンネット全盛を彷彿させた。クハ489-3F (2009年5月、以下特記以外同様)。
古いハガキ
行方不明のネガを探して、魔窟に足を踏み入れました。
そこから多量の切符、家族写真(鉄道写真の探しているものは未だ発見できず)、駅弁の包装紙等などと共に、就職のため上京した年の年賀状が出てきました。大西友三郎先輩や吉谷和典先輩など、鬼籍に入られた方からの懐かしいはなむけの言葉に改めて感激しました。
その中に当会設立の第一世代である重澤崇先輩からの年賀状もありました。ところが発見したその日に重澤先輩から沖中先輩・湯口先輩の一周忌にまつわるハガキが来たのです。
これも故人のご縁と、ご了承を頂きここに掲載致します。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~10~
関西本線沿いの私鉄 三岐鉄道
続いて北勢線と並行する三岐鉄道へも寄りましたが、もう夕方で、数枚を撮っただけで退散しました。今では旅客は、西武鉄道から来た電車に占められていますが、この時代は、自社新造、社型電車など、一両ずつ個性のある電車ばかりで、まだ青緑に塗られた旧塗装でした。三岐は、セメント会社と地元株主によって設立された産業鉄道で、長らく貨物は蒸機、旅客は気動車で行われ、電化したのは昭和29年で、貨物は電機に代わったものの、旅客の全線電車化は昭和35年のことで、訪れた年のわずか14年前のことで、電車化の際に用意された車両がほとんどでした(以下、昭和49年4月)。▲終点の西藤原に着いた電車、かなりの乗降客があったことが分かる。いま、ウィステリア公園として、三岐で使われた蒸機などが保存されているところには、貨車ホームがあったことが分かる。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~9~
関西本線沿いの私鉄 近鉄北勢線
内部・八王子線に続いて、同じナローの北勢線を訪れています。ただ、沿線を訪ねることはなく、Tさんのクルマで終点の阿下喜に、少し寄っただけの初回訪問でした。いまでこそ、同じナローながら、両者は会社も違い、車両も異なりますが、当時は、同じ近鉄の一員で、車両の仕様も同じで、車両の移動も行われていました。▲北勢線は、大正3年に北勢鉄道として西桑名(現)~楚原の762mm開業に始まり、昭和6年に阿下喜まで開通、同時に電化も完成し、北勢電鉄と改めた。昭和19年には三重交通として、付近の小鉄道が一元化されている。社名は三重電鉄を経て、昭和40年に近鉄に吸収されて、近鉄北勢線となった。私が北勢線で思い出すのは、訪れる少し前の昭和48年の「鉄道ピクトリアル」の写真コンクールで、終点の阿下喜で、乗客が寒そうにして、電車から降りて改札口に向かうシーンが推選に入った。そのことが頭にあり、阿下喜に着いて、真っ先に同じシーンを狙ってみた(以下、昭和49年4月)。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~8~
関西本線沿いの私鉄 近鉄内部・八王子線
関西本線絡みで、四日市を走っていたナローの軽便電車、近鉄内部・八王子線(現・四日市あすなろう鉄道)を初めて訪ねた時の記録です。この時は、近鉄ファンのTさんに連れられて行ったと思います。現在の車両とは全く異なる、近鉄電車と同じマルーン色に塗られた、好ましいスタイルの小型電車がMT編成で走っていました。▲四日市市の西部、日永・室山地区の生糸、酒を運ぶため、明治45年、三重軌道によって762mmで開通した。最初は蒸気運転で、のちに電化した。社名は三重鉄道、三重交通、三重電鉄と変わり、昭和40年、近鉄の傘下となった。路線は内部線(近鉄四日市~日永~内部5.8km)、八王子線(日永~伊勢八王子2.9km)、当時は内部行き、八王子行きが各20分ヘッドの頻発運転だった。写真は、八王子線の室山~伊勢八王子、天白川に沿って走る、214+162+132のMTT編成、訪問の3ヵ月後の昭和49年7月、集中豪雨で川が氾濫し、路線は寸断され、八王子線全体が不通となった。昭和51年に日永~西日野のひと駅が開通するが、残る西日野~伊勢八王子は復旧することなく廃止となり、四日市あすなろう鉄道になっても、八王子線はひと駅だけの電車が走っている(以下、昭和48年4月)。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~7~
関西本線笠置 桜のころ
また同年同月シリーズに戻ります。佐竹さんの関西本線の続きとして、関西本線の桜の名所、笠置付近を見てもらいます。とうの昔に桜は散っていると言われそうですが、昭和の時代は、4月の入学式前後に満開を迎え、さらに遅れることもあって、今頃にやっと散り果てることもありました。関西本線の笠置周辺は、京都南部随一の桜どころで、しかも昭和46年のNHK大河ドラマ「春の坂道」の柳生一族の舞台に近いとあって、大賑わいを見せました。しかも、都合のいいことに、鉄道とも絡めて撮れることでも知られていて、私も二年続きで訪れたものです。しかし50年後の今では、話題すらにも上がらなくなりました。鉄道の衰退もさることながら、桜そのものも衰弱しているようで、逆にほかの草木が繁茂して、見通しも悪くなったようです(以下、昭和47年4月、昭和48年4月)。▲笠置駅の構内を通過して行く、下り荷物列車、構内は桜で埋め尽くされていた。跨線橋から見下ろすのが、いちばんのポイントだった。
佐竹さんから 66年前の“亀ノ瀬”付近の列車を
関西本線 河内堅上付近
去る9日に行われたクローバー会行事「亀ノ瀬トンネル付近の鉄道遺産を巡る」、晴天に恵まれて、皆さんとウォーキングを楽しみながら、鉄道遺産を見聞しました。大阪鉄道の時代から、地すべり災害が頻発し、百年以上に渡って自然の脅威と共存しながら、最新の土木技術で、奈良と大阪の国境を護って来た、人々の英知を感じました。話には聞いていたものの、実際、現地に足を運ぶことにより、廃棄されたトンネルが偶然発見されたドラマなどを目の当たりにして、「鉄道遺産」への新たな興味が湧いて来ました。しばらく足を痛めていた私も久しぶりの山歩きを楽しんだのですが、なんとしたことか、案内人のどですかでんさんが、突如、同じ症状に見舞われて、みんなで抱えながら下山する緊急事態に見舞われましたが、無事、帰宅ができて何よりでした。
下車した河内堅上駅の付近は、昔から、大阪近郊の撮影地として有名で、佐竹保雄さんも、よく撮影されていました。佐竹さんに過日のことを話すと、ぜひデジ青でも、見てもらってくださいと、昭和32年に撮影された写真を提供いただきました。▲河内堅上から、大阪寄りの第五大和川橋梁は、上下線が離れていて、上路ガーダー橋で撮りやすかった、C58 31[奈]の牽く奈良発湊町行き433レ、この時期、10系気動車も走っていたものの、旅客の大部分は、蒸機の牽く客車列車で、キハ35系が大量投入されて、DC化されるのは数年先のことだった(以下、昭和32年11月21日)。
部分廃止の留萌線 55年前の記録から偲ぶ (下)
昭和の時代、われわれが留萌線を訪れる理由は、前記テーマのD61だけではありませんでした。最初にも記しましたが、沿線は産炭地であり、輸送のための私鉄、専用線が分岐していました。留萌から出ていた天塩炭鉱鉄道、恵比島から出ていた留萌鉄道、その終点には明治鉱業の専用線がありました。天塩炭鉱鉄道にはC58似のカマなどがいましたが、私が訪れた前年の昭和42年7月に廃止されてしまい、実見することはできませんでした。留萌鉄道は、DC、DL化されていましたが、その終点の昭和から奥に伸びる明治鉱業の専用線で働いていたのが、いまでも語り継がれるB型タンク機10形、15号、17号でした。ドイツのクラウス製の優美な小型機は、まだ北海道に多くいた私鉄蒸機のなかで白眉の存在で、多くファンが留萌線、留萌鉄道を乗り継いで、山あいの小さな専用線を訪れたものです。▲2両のクラウスは明治22年製、当時で80年近く使われた現役蒸機では最古と言われた。たいへん美しく手入れされて、大事にされていることがよく分かる。
部分廃止の留萌線 55年前の記録から偲ぶ (中)
今回は、留萌線、羽幌線だけで使用された、わずか6両の希少な蒸機、D61について記します。もともと留萌線のような「丙線」の貨物輸送は戦後、9600が一手に引き受けていましたが、車齢が高く、代替機が求められていました。そこで、電化の進展によって、余剰が見込まれるD50、D51の従輪を二軸化し、下級線区にも入線できるD60、D61が誕生しました。D60は78両が改造されて、広範囲に使用されますが、D61は種車となるD51の需要が依然として高く、改造はわずか6両に留まりました。最初、稲沢一区に配置され、中央西線、関西本線で試験が行われたあと、配置先に選ばれたのが深川機関区留萌支区で、昭和35年から使われます。築別炭鉱で採掘された石炭を、積出港の留萌まで運ぶことがメインで、D61の運用も、留萌~築別の羽幌線が中心となりました。石炭輸送も増大したため、昭和40年にD51の入線テストが行われ、深川区のD51とともに仕業に就きました。留萌線の深川~留萌では、昭和43年10月の貨物本数は、下り9本、上り10本となり、D61、D51、それに9600も混じって働いていました。▲写真 D61のメインの働き場所、羽幌線でD51と重連で貨物を牽く。 続きを読む
部分廃止の留萌線 55年前の記録から偲ぶ (上)
一昨日になりますが、テレビのニュースを見ていると「留萌線廃止」のタイトルが飛び込んできました。そうか、3月31日限りで、JR北海道の留萌線、石狩沼田~留萌が廃止されたのですね。残る深川~石狩沼田も3年後には廃止と伝えられています。北海道のJR線が次つぎ廃止になり、マスコミもマンネリを感じたのか、今までの廃止に比して、報道も少なかったようにも思います。私も頭の片隅にはあったものの、寝耳に水のニュースとなりました。深川~留萌の鉄道は、明治33年、北海道炭鉱鉄道によって石狩炭田など沿線の石炭輸送を目的に申請され、明治43年に開業しましたので、110年目の部分廃止となります。
留萌線、懐かしい響きです。初めて訪れたのは、昭和43(1968)年8月、DRFC一年生のときで、たしか鉄鈍爺さんと一緒だったと思います。当時は「留萠」であり、堂々と本線を名乗っていました。もう55年が経ちました。最近も数年前にも行ったことがあり、最近の様子も知らないことはないのですが、 高齢者にとっては、やはり、9600やD51、ここだけのD61が長い石炭列車を牽く姿や、沿線にあった私鉄や専用線を訪れたことを思い出さずにはいられません。これからの写真は、過去のデジ青にも載せていますが、いま一度、思い出の留萌線を振り返って、長年の歴史と地域への貢献を称えたいと思います。
▲廃止前、唯一の交換駅として有名になった峠下、55年前は他にも交換駅はあったが、ほぼ中間となる峠下は、絶えず交換があって、運輸上も重要な駅だった。昭和43年当時、旅客が下り14本、上りが16本(区間列車を含む)、さらに貨物は下り9本、上り10本も設定されていたから、客貨あわせて、ほぼ30分ヘッドぐらいで運転されていたから驚くばかりの本数だ。峠下では、絶えず列車交換が行われていたのだった。下り石炭列車を牽く、国鉄最後の蒸機、D61が牽く石炭列車(昭和44年9月)。
芸備線5月下旬まで運休
2017(平成29)年4月にクローバー会の木次線ツアーがあり、新見から備後落合まで満員のキハ120に座れずに揺られ、ようやく着いた備後落合では、肝心の木次線スイッチバック区間が土砂崩れのためにバス代行になっていると知って、一同ガッカリしたのが昨日のようです。早いもので あれからもう6年が経とうとしています。その際に通過した芸備線備後八幡・内名間で去る3月23日に新見発備後落合行き445Dが備後八幡を19:15に発車後、19:20頃に線路上の落石に乗り上げ、キハ120の前の台車が脱線するという事故がありました。乗客はゼロで、運転士にケガはなく、軽微な脱線事故で済んだのは不幸中の幸いでした。