2006年11月 初めて鹿島鉄道へ(2) ▲霞ケ浦の対岸に陽が落ちて行く。浜~玉造町 29レ KR505
鹿島鉄道の撮影記、続けます。当日午後からは、霞ケ浦に沿う八木蒔~浜~玉造町の鹿島鉄道ハイライト区間を、行ったり来たりの撮影となりました。11月ともなると、陽の落ちるのが、いっそう早くなり、その変化を採り入れながらの撮影となりました。
近々引っ越しの予定があるので身辺の整理をしています。
ところが出てきたのは中学時代から貯めていた新聞の切り抜き記事です。
スクラップブックに整理されたものもありますが、切り抜いたままのものもあり、もう酸化してボロボロのものもありあります。そこで一念発起してスキャンを始めました。なにせ60年以上前のものですからスキャナーに広げるだけで粉々になるものがあります。
そんな中からいくつかのシリーズに分けて公開しようと思います。
最初は思い出深い新幹線に関する記事から始めます。
お断りしておきますがスキャナーベッドがA4サイズのため見切れてしまう場合があります。この時は皆様の想像の翼を広げて切れた部分を想像してください。
スクラップは全て破棄しますが、必用と思われたら差し上げますのでご一報ください。
では、予告編をご覧下さい。
説明文は入れませんので各自ご議論ください。
何気に写した駅の風景
大阪通信員さんは、車両以外も、多くの写真を撮っておられます。否、車両以外の日常的な風景にこそ、通信員さんの鋭い感性が発揮されているように思えます。スライドを点検した際にも、「鉄道の施設」として、分類された袋があり、意識して撮られていたことが分かります。駅や撮影地で、何気に通信員さんが撮った、そんなカットを見ていただきます。▲あったなぁ、こんな洗面所が‥。夜行列車の発着する主要駅では、朝に列車が到着すると、われ先に顔を洗ったものだった。私自身は、蒸機を写していた時代、一時間でも機関区に居ようものなら、顔の周辺が汚れでムズがゆくなり、ホームや駅舎にあった洗面所へ駆け込んだものだった。写真は大阪駅で撮られたが、洗面所付近を黒くツブし、対向の471系急行を際立たせたのも、非凡な才能を感じる。
2006年11月 初めて鹿島鉄道へ (1)
「あの日あの頃」も続けます。2006年に鹿島鉄道へ行っています。茨城県下には非電化の私鉄が多くありましたが、常総線や筑波線は、連れられて行ったことはあるものの、距離も短く、車両数も少ない鹿島鉄道は、訪問順位が低いものでした。鹿島鉄道がアテにしていた貨物輸送が無くなり、急に先が見え出した、この年の11月にやっと訪れることがてきました。これぞ“ニッポンの田舎”と言った、穏やかな風景、きれいに整備された車両と、すっかり魅入られました。
▲霞ケ浦の湖畔を走る。対岸も望めて、筑波山も霞んで見えている。玉造町~浜 キハ432 鹿島鉄道は石岡~鉾田27.2kmの非電化私鉄。1924年に鹿島参宮鉄道として石岡~常陸小川が開通し、1929年に石岡~鉾田が全線開通した。その後、1965年に取手~下館、土浦~岩瀬の常総筑波鉄道と合併し関東鉄道となり、石岡-鉾田は鉾田線、取手~下館は常総線、佐貫~竜ヶ崎は竜ヶ崎線、土浦~岩瀬は筑波線となった。常総線は都心に近く利用客が増加したが、鉾田線と筑波線は利用客が減少、同じ運賃では採算が合わなくなったことから、関東鉄道は鉾田線と筑波線を分社化させ、鉾田線は鹿島鉄道、筑波線は筑波鉄道に分社化された。
▲広島の街を40年以上走り続けている、もと京都市電の1900形、よく言われていることだが、京都時代よりも広島時代のほうが長くなって、すっかり広島に溶け込んでいる。歳のせいか、とみに1900が愛しく感じるようになった。
最近“デジ青”の低調さが気になりますね。私も、締め切りのある依頼が続いて、いつでもOKの“デジ青”は、つい後回しになってしまい、自省の念に駆られています。言い訳無用、とにかく、自分でできる範囲で頑張るしかありません。
この歳になると、活動は衰えても、頭のなかは、いろいろな思いが巡ります。ひとつは、鉄道趣味も本卦還りするのではという思いです。春にクローバー会で北九州・福岡を訪れた際、広島で路面電車を撮り、北九州・福岡市内でも路面電車の廃線跡を巡りました。生まれた時から市電に囲まれて育ち、その原体験が鉄道趣味へと繋がっていきました。廃止された各地の市電を思い、今も元気に走っている路面電車を見ると、この歳になって愛おしさを感じるようになりました。まさに“本卦還り”ですね。
別府鉄道、片上鉄道
兵庫県下にも、山陽本線沿いには中小私鉄がいくつかありました。別府鉄道、片上鉄道へも大阪通信員さんは行かれていました。
▲山陽本線の土山から出ていた別府鉄道の土山線、別府港からの貨物輸送が中心で、DLが貨車と二軸客車を牽くと言う、なんとも浮世離れした編成が、昭和59年まで運転されていた。旅客数は極めて少なく、西日本の私鉄で最低の輸送人員だったが、ファンにとっては格好の乗車対象となり、私も何度か乗ったものだった。晩年は貨物量も減少し、写真のように、貨車なしのDL+二軸客車も見られ、手小荷物は、客車のデッキに積まれていた。DLはDD1351で、もとは江若鉄道で、廃止後に別府に来た。
朝夕のみ、能勢電の単行電車
大阪通信員さんの昭和の記録、続けます。おもに撮られた昭和40年代、蒸機に代表される国鉄だけでなく、中小私鉄にも、大阪通信員さんは強い興味を示されていました、関西を中心に、各地の車両を見ていただきます。今回は、先ごろ、鋼索線(妙見ケーブル)、索道線(妙見の森リフト)の廃止が発表された能勢電鉄、川西能勢口~川西国鉄前の国鉄前線です。昭和56年まで走っていて、比較的よく知られていましたが、なにせ、走っていたのは朝夕だけで、私もついぞ撮り損ねた路線でした。▲地平時代の阪急川西能勢口前から、何度もカーブを描いて、家の裏手の専用軌道を国鉄川西池田駅までを結ぶ0.6キロの路線だった。開業当時、沿線の旅客輸送のみでは苦しく、国鉄からの貨物輸送も狙って敷設されたと言う。廃止前は51、61が専用車として、朝夕のみ運転されていた。川西国鉄前駅はホームだけの構造だった。
福井鉄道
今回の“昭和の鉄道”、少し足を伸ばして、新幹線延伸で沸く福井市を走る、福井鉄道を見て行きます。いま福井駅西口では、高層ビルが建ち並ぶ駅前再開発が進行中ですが、その地区の南側、“電車通り”には、福井鉄道の通称“ヒゲ線”が発着していました。いまは福井駅前広場まで少し延びて、その名も「福井駅」となった終点ですが、少し前までは、「福井駅前」を名乗っていた終点から発車する電車です(以下、昭和41年8月撮影)。▲背後が再開発工事中の街区に当たり、高さ120mの高層ビルが建ち、事務所やホテルが入居すると言う。福井駅前-田原町の札を下げた、モハ63が発車を待っているところ。後には、デビュー間もないモハ200形が待機する。雑多な電車が集まり、福井鉄道がいちばん面白かった時代。
加太を行く
少し間が開きました。大阪通信員さんが撮られた“昭和の鉄道”を続けます。前回は関西本線の電化区間でしたが、今回は、関西本線の撮影名所地として名高い加太付近です。大阪通信員さんの現役時代には、「小海線を愛する会」と「加太会」と、2つの派閥?があり、ある時は競って、ある時は友好的に活動されたと聞きます。DRFC指定旅館の村田屋とともに、その伝統は引き継がれ、われわれの時代も、加太詣ではまだ続くのです。▲特急「あすか」(名古屋~東和歌山)もしっかり撮っておられた。昭和40年10月改正で走り始めたが、わずか2年で廃止されている。私も辛うじて加太で走行中を撮ったし、最終日は奈良駅で撮っているが、なにせ高校生の頃、とても人目に晒すような写真ではない。「あすか」は、空気を運んでいた「くろしお」回送を、無理やり客扱いに仕立てたもので、下りは名古屋19:00→東和歌山22:40、上りは東和歌山7:10→名古屋10:50と、わざわざ旅客の有効時間帯を避けて設定したような特急だった(以下、昭和41年撮影)。
タイムリーさを身上とするデジ青投稿も、こちらの怠慢で、なかなか進みません。“アレ”が“ソレ”になる前に、甲子園線を最後に載せます。今回は、甲子園線の下半分、甲子園球場を除いた甲子園~浜甲子園です。昭和50年の廃止時、終点は浜甲子園でしたが、阪神本線の出屋敷と今津を「コ」の字に結ぶ、今津出屋敷線の計画の一部を、甲子園線の延伸として充当する形で、浜甲子園から直角に西に曲がって、海岸沿いの中津浜までの0.8kmが1930年(昭和5)7月に開業しました。しかし戦争激化により、1945年(昭和20)1月に休止され、そのまま廃止となり、海岸線に直角に突っ込む形で、浜甲子園が終点となっていました。
▲甲子園線は、“女子高生”の輸送も担っていた。「甲子園九番町」の近くに、武庫川女子大、付属中高があって、登下校時、停留所付近は、車道までも“女子高生”で埋め尽くされる。
上甲子園~甲子園を行く
では“アレ”つながりで、阪神軌道線の甲子園線を紹介していきましょう。
大阪から神戸まで、JR、阪急、阪神以外に、もうひとつ路面電車があって、大阪から神戸まで行くことができました。国道2号をクルマに邪魔されながら走っていたのが、阪神電鉄の併用軌道線、通称“阪神国道線”でした。さらに縮めて“阪国”とも呼ばれていて、“阪国”には、北大阪線(野田~天神橋筋六丁目)、甲子園線(上甲子園~浜甲子園)、国道線(野田~上甲子園~西灘~東神戸)の3線がありました。
▲甲子園線の始発、上甲子園で発車を待つ。通常は、単行が折り返しているが、秋晴れの日曜日のこと、阪神パークへ向かう客が多いのか、「臨時」を掲げた1両も発車を待っていて、珍しい2両並びを見ることができた。▲▲電車の向こうを横切るのが国道2号で、国道線が走っていて、甲子園線との接続を行っていた。甲子園線は日中12分ヘッドで一応、路面電車の体をなしていたが、国道線に至っては40分ヘッドで、実際に乗換客はほぼ皆無だった(昭和49年11月)。
ついにやりましたね。こんなに早く“アレ”が来るとは思いも寄りませんでした。私は1ミリもタイガースとは関係はないのですが、高齢者にとっては、記憶に残る日となりました。しかも甲子園で、宿敵を完膚なきまでに叩いたこと、出来すぎのストーリーでした。テレビでは「18年前の優勝は、まだ生まれていなかった」の声もありましたが「約50年前には球場の前に路面電車が走ってたんやでぇ」と言うと、まちがいなく化石扱いされるでしょう。そう、甲子園球場の横には、1975(昭和50)年まで阪神軌道線(国道電車)の甲子園線が走っていました。
本欄でも、先にクローバー会行事で訪ねた福岡市内線跡を記しましたが、機会を見つけて、思い出に残る各地の路面電車を紹介したいと思っていたところでした。“アレ”を格好の機会ととらえて、阪神軌道線の甲子園線を紹介したいと思います。
▲左手、高架の阪神本線の甲子園駅があり、その直下に、軌道線の甲子園駅があった。浜甲子園行きの電車が出発して、左にカーブすると、車窓に大きな広告塔が見えてくる。背後の松並木は、かつて、ここに川が流れていたことを証言している。“銀鱗”の阪神バスも懐かしい。 続きを読む
大阪を記録する④ 大阪市電
大阪市電は、万博を前にした昭和44年3月に全廃、政令指定都市としては初めての廃止でした。私としては、“早く生まれていたら”の類いで、ごく僅かの写真しか撮れていません。大阪市内で生まれ育った通信員さんは、さすがに御堂筋を走る市電や、市電ではメインの堺筋線、上町線など、中心部の写真を撮っておられます。大阪市電をテーマにした書籍を編集した時は、大阪通信員さんのモノクロ写真も活用させていただいて作ることができました。大阪市電は、カラーで見るように“あずき色”で、阪急のマルーンより赤っぽい“溜色”でした。明治36年に開業した時、すでにこの色でしたが、これは御召の御料車と同じ色であることを、政府が気づき、畏れ多いことと、すでに認可済みの大阪市を除いて、以後は他都市が同種の色を使うことを禁じたと言います。逆に大阪市電は既得権にこだわり、最期まで、この色を守り通したと言われています。
△ 大阪市電は御堂筋も走っていた。と言っても、大阪駅前から淀屋橋までの間だけで、淀屋橋で東へ、北浜二丁目から堺筋を南下する堺筋線の一部を形成していた。大阪市庁の前から西を向いての撮影で、市庁舎は、現在のものではなく、旧のルネサンス様式の建築、背後は日本銀行大阪支店。今回は、対比可能なところは、ストリートビューの現況写真との対比を試みた。大阪中心部の街並みはすっかり変わってしまったが、保存の日銀大阪支店だけは、きれいに補修されて市電時代と同じ光景を見せている。(昭和41年6月)。
△ 大阪名物、スモッグが煙るなか、C57牽引、茶色の客車を連ねた急行「大和」が、関西本線の終点、湊町に到着する。B寝台(ロネ)2両の白帯が茶色に映える。
お盆のこの時期、台風の襲来もあって、一歩も外へ出ることなく、家に籠っていました。デジ青投稿に絶好のチャンスと意気込むのですが、気力の低下だけでなく、持ちネタの乏しさもあって投稿が続きません。先の投稿では、準特急さんから「あと数年早く生まれてきたら」論についてコメントがあり、「あのシーンを撮っていたらデジ青に載せられたのに」という思いもあります。私は「そんな言い訳したらアカン」と強がりを言ったようですが、心の中では七十数年生きて来た人間にも、その悔いが残ります。
そんな時、大阪通信員さんから朗報がもたらされました。大阪通信員さんは、私より7歳年上で、まさに「あと少し早く生まれてきたら」の写真を多数カラーで撮影されています。一部は昨年6月に行いました上映会でもご覧いただき、私も感嘆しながら進行をしていました。貴重な写真を一度だけの上映会で終わらせるのは、大変忍びなく、広く公開したいと思っていたところ、大阪通信員さんから、ぜひデジ青で公開してくださいと嬉しい返事がありました。快諾いただいた大阪通信員さんには厚く御礼申し上げます。
デジ青誌上では、米手さんが、投稿に困っているデジタル難民の記事・写真を代理投稿する老老介護も続いています。米手さんだけに介護を一任するのではなく、私も介護者として名乗りを上げた次第です。預かった写真は多数ありますが、まずは上映会の作品から見ていただきましょう。解説は最小限に留めて、皆さんからのコメントお願いいたします。
中国新聞には「鉄路のあす」というシリーズが断続的に連載されています。勿論広島県を中心に中国地方の話題がメインですが、8月15日の朝刊には「留萌線」の記事が載りました。北海道新聞との連携のようです。
「特急三百哩」、映画の中盤で繰り広げられる男女の憎悪劇の部分は省いて、後半のクライマックスシーンへ移りましょう。粗いストーリーとして、主人公の機関士が、暴風雨のなか、東京行きの列車を牽いて駅を出発。ところが、前方で手を振る白い影を見つけて急停車、下車して調べると土砂崩れが発生していて、危機一髪でセーフと言うストーリー、白い影は、機関士の将来の許嫁だったのです。▲「鉄道省ご後援」の肝入りどおり、当時の最新の車両、C53が何度も登場する。最大の特徴の「スリーシリンダー」も、あとで字幕に出て来る。C53はこの昭和3年から、短期間に大量に造られて、C51に代わる東海道・山陽の優等列車牽引用として、全部で97両が製造された。写真のC5344は梅小路区の所属、唯一の流線型改造C5343と、梅小路蒸気機関車館の保存機C5345の間に当たる機となる。