今年最後の投稿は新聞記事の転載となりました。去る28日(火)20:35頃瀬野・八本松間で上り貨物列車が脱線し、29日、30日と上下線は運休し、どうやら31日午後から運転再開となる見込みです。まずは昨日30日の記事から。
「老人の戯言」カテゴリーアーカイブ
五十年前に見た 当たり前の風景 -11-
京都駅1番ホームのC575
年末の連投、失礼します。50年前の昭和46年と言えば、初回にも書きましたが、山陰本線からC57の牽く列車が消えたことが特筆されます。それが4月26日のこと、その後、1ヵ月もしないうちに、サプライズが待ち受けていました。C57が重連で、京都~姫路を往復する臨時列車「青葉の姫路城と蒸気の旅」の牽引でした。京都~大阪では、前年にC57 5牽引の丹後山田行の列車が走っていますが、今度は姫路までの運転、しかもC57が重連で牽くというもの。牽引に当たったのは、人気絶頂のC575が先頭、C5739が次位で、山陰本線の牽引を終えても梅小路に籍があり、このあと、豊岡区などへ転属するまでの間、“SLブーム”に乗っかった、ひと稼ぎと言ったところでした。
▲C57重連の牽く「蒸気の旅」は、昭和46年5月23日からの土日、6月27日までの計10日間運転された。梅小路から単機で回送されたC57重連が、京都駅1番ホーム横で待機する。もう見られないと思っていたC57の流麗な姿が、京都駅でよみがえった。
五十年前に見た 当たり前の風景 -10-
羽後交通 雄勝線を訪ねる
阿仁合線合宿のあと、奥羽本線を南下し、湯沢から分岐する羽後交通雄勝線(湯沢~西馬音内)を訪ねています。当時、奥羽本線沿いでは、横手から分岐していた横荘線が前月の昭和46年7月に廃止になったばかり、これから行く雄勝線の廃止も噂されていて、先手を打っての訪問となりました。雄勝線は、雄勝鉄道によって湯沢~西馬音内~梺の11.7キロが昭和10年に全通、昭和27年に社名が羽後交通雄勝線になり、電気鉄道としてポール電車が客貨混合列車を牽いていました。昭和42年に西馬音内~梺が廃止、湯沢~西馬音内に短縮。横荘線が廃止され、余剰車のDCが雄勝線に移動し、内燃動力に切り換えられたばかりでした。▲阿仁合線合宿を終えて、湯沢から13時30分発の羽後交通キハ3に乗車して、35分で終点の西馬音内に着いた。以前、趣味誌に「“にしもない”は“なにもない”ところだった」と洒落が載っていたが、どうしてどうして結構な賑わいだった。駅前はまさに昭和そのものの風景で、鴟尾のような屋根飾りを付けた木造の二階建て駅舎、バイクや自転車に乗って集まった来た若者、駅前広場は未舗装、そして、何よりチラリと見えるバスは、ボンネットバスではないか、写している時は、バスに興味も無く、全く気づいていないが、その端部から、いすゞBXD30のようだ。
五十年前に見た 当たり前の風景 -9-
夏の狂化合宿先、阿仁合線荒瀬の朝
50年前の夏休み、恒例の“夏の狂化合宿”は、7月に飯田線温田、8月に阿仁合線荒瀬で行われています。私は阿仁合線2泊3日のキャンプに参加し、そのあと、東北各地をメンバーとともに回りました。阿仁合線という、何の特徴もない線区で合宿が行われてたのか、「青信号」27号の旅行記を見ても理由は不明です。阿仁合線始発の鷹ノ巣で食糧を仕入れ、リュックを担いでキャンプ予定地の荒瀬に着いたものの、夕立に見舞われて、キャンプ地は水浸し、急遽、駅前にあった公民館に頼み込み込んで、一泊させてもらい、畳の上で寝て、本当のキャンプは翌日一日だけで、昼間は阿仁合線を写しまわっています。とくに「上杉」という駅は、文字どおり杉林の中を突き切っていて、印象に残り、翌年一人でもう一度訪問したほどでした。阿仁合線は一日旅客が9往復、当時は多く見られた典型的なローカル線、そのなかの荒瀬は、沿線の中心の阿仁合から、ひと駅、終点の比立内へ行ったところにあり、今から見ると、朝のラッシュ時には、信じられないほどの乗降がありました。地方のローカル線の当たり前の風景でした。▲阿仁合線参加のメンバー
▲奥羽本線鷹ノ巣から分岐する阿仁合線(現・秋田内陸縦貫鉄道)、当時はC11が一部の旅客、貨物を牽く、ごく当たり前のローカル線だった。この地が、当会の栄えある、狂化合宿の地に選ばれた。乗り降りしたのは「荒瀬」、どこにでもある棒線一本、ホーム一面の無人駅だった。特に朝の時間帯、驚くほどの乗降があった。“日本三大美人”の地らしい雰囲気も漂う(昭和46年8月)。
五十年前に見た 当たり前の風景 -8-
一度だけの名古屋市電
前回の「名松線」で誤記がありました。均一周遊券の名称は「南紀」ではなく、「南近畿」でした。また発売は、周遊地に至近な京都・大阪からの発売はなく、名古屋の発売でした。どうやら名古屋に住んでいた知人に頼んで購入したようです。さて、その「南近畿」の帰りに、名古屋へ寄っています。周遊地までのルートは、幾通りもあって、たとえば名古屋からは、関西本線だけでなく、東海道線-京都-奈良線でもいいし、東海道線-大阪-阪和線でもOKという選択自由なものでした。いまの「おトクなきっぷ」のように、二人以上とか一週間前購入とか、制約ばかりではなく、なんともおおらかな切符ではありました。
さて、その名古屋駅前で市電を2枚だけ撮りました。あと名古屋の市電は、別の日に乗換えの間に撮った数枚だけ、それ以外に撮ったことはなく、私としては貴重なシーンとなりました。
▲名古屋駅前の特徴のひとつ、ロータリーに掛かる11系統の1800型。名古屋と京都をざっと比較すると、最盛期の総延長は、名古屋106キロ、京都67キロ、路線長では京都の1.5倍以上、最盛期の車両数では名古屋422両、京都357両(トロバス除く)で、それほど差がないのは、京都が稠密な輸送を行っていたせいだろうか。
五十年前に見た 当たり前の風景 -7-
今年の行事先の50年前(2) 名松線今昔
クローバー会の行事先の今昔、続けます。12月12日には、名松線の乗り歩き会に参加して来ました。“歩き”はほとんどなく“乗り”が目的で、列車に乗って終点まで行き、すぐ折り返して来るだけですが、みんなでクロスシートに座って、松阪駅名物の駅弁を食べながら、景色を眺めたり、ダベったりと、ただ乗っているだけが、この時期、こんなにも楽しいことかと思いました。
50年前の昭和46年にも、一人で名松線を訪れたことがあります。この時は、南紀均一周遊券で回った時でした。九州・北海道の均一周遊券は何度か使用したことはあるものの、南紀均一周遊券はこの時だけでした。紀勢本線に夜行の鈍行が走っていて、参宮線・紀勢線東部で写したあと、夜行に乗って次の日は紀勢線西部・和歌山線に行くなど、狭い範囲でも有効な使い方ができたのでした。終点、伊勢奥津、交換駅の家城での、ほぼほぼ定点対比です。▲50年前の名松線の終点、伊勢奥津駅、松阪14:47発429Dに乗って、伊勢奥津に16:06に着いた。島式ホームに、使われていない貨物ホームもあった。C11の時代に使われていた給水塔が印象的だった(昭和46年7月)。▲10日前の伊勢奥津駅、構内は棒線駅になるなど単純化されたが、給水塔がそのまま残っていた。 続きを読む
五十年前に見た 当たり前の風景 -6-
▲伊賀上野で、国鉄「柳生号」のキハ35系と並ぶ、当時の近鉄伊賀線のモニ5182 (旧)伊賀鉄道が電化して伊賀電鉄となった大正15年に、デハ1~6として製造された荷物室付きの半鋼製。デハニ1~6と改番され、関西急行鉄道(関急)発足時にモニ5181形5181~5186に改番、近鉄に引き継がれた。(旧)伊賀鉄道の出自で、長らく伊賀線の主として住みついたが、昭和52年に廃車となった(以下、昭和46年5月)。
今年の行事先の50年前(1)
今年もあと10日ほどになり、クローバー会の活動の振り返りとして、最近実施された行事先の50年前を見ていきます。中止されたホームカミングデーの代替行事として、ことしは11月7日に伊賀鉄道で貸切列車を運転しました。現役生も参加して、久しぶりの大人数の行事となりました。東急のオリジナル塗装車を充当していただき、途中駅での停車時間も長く、たっぷり撮影を楽しむことができました。
近鉄時代の伊賀線には、さまざまな出自の個性的な車両がいて、数年ごとに、あらたな転入車両と入れ替わっていて、撮影年代も推察できたものです。ちょうど50年前にも、国鉄と接続する伊賀上野周辺で撮っていました。と言っても、主目的は、伊賀線ではなく、その年に放映のNHK大河ドラマ「春の坂道」の舞台となった柳生への観光客の輸送、また折からの“SLブーム”に乗じて運転された「SL柳生号」(当時の愛称は「汽車ポッポ柳生号」)を撮影するためでした。
五十年前に見た 当たり前の風景 -5-
五十年前に見た 当たり前の風景 -4-
二条駅を偲ぶ(1)▲二条駅の北にある旧二条通の踏切から、駅構内に入って、発車する下り列車を撮ることができた。列車は、日曜日の夕方17時10分発の1827レ、日曜日に運休する列車の牽引機を、翌日月曜日に使用のため、次位に回送として連結して、重連で二条を発車するところ、先頭は、梅小路C57のなかで、絶対的な人気のC57 5、次位は煙で隠れてしまった。右手に広い貨物ヤードが広がっていて、ガスタンクも見えていた。左手にも引込線があり、ここは自動車の貨車輸送の積み卸し場で、「ク」が停車している(昭和46年1月)。
山陰本線ほど変貌を遂げた線区も珍しいと思います。50年前は非電化単線、一時間に一本程度、旧型客車やDCが侘しく走っていたものが、今や、複線電化、15分ヘッドで電車が走る、都市近郊路線になりました。前回の馬堀付近も新線、駅移転とすっかり変わりましたが、今回の二条駅周辺も、高架化、付近も再開発されて、劇的に変わったところです。馬堀へ行くにも、市内に住んでいた当時は、二条駅で乗り降りしたもので馴染み深い駅でした。時には、学校を終えて(サボって)、1系統の市電に乗って二条駅まで行ったこともありました。明治37年建築、和風の駅舎も風情がありましたが、ここでは、手軽な撮影地としての二条駅を見てみました。 続きを読む
五十年前に見た 当たり前の風景 -3-
当時走っていた山陰本線のもうひとつのDL、DF50に参ります。当会にも、DF50信奉者がおられ、当欄でも拝見しています。私もDLのなかでは、いちばん好きというか、もっとも親近感を感じたDLでした。50年の前のもっと前、海水浴行きなどで山陰本線を利用すると、先頭が蒸機でなく、DF50だと、快適な旅が約束されて、ホッとしたものです。当時はまだ茶色の旧色の時代、ドドドッというエンジン音を聞きながら、紫煙の匂いを嗅ぎながら、五感で鉄道が近代化へ向かって行くのを感じたものでした。▲嵯峨野の竹林を抜けて1826レ DF50 559 (昭和46年4月)
嵐山で ひととき鉄気分
割り込み失礼します。冬の京都の誘客策として、各地域で行われた夜間のライトアップ事業ですが、一定の効果があったとして、今年限りでの終了がアナウンスされています。このなかで、17年の歴史を持つ「京都嵐山花灯路」も幕を下ろすことになり、去る12月10日から行われています。観光客相手のイベントには、ほとんど関心が無かったのですが、“今年で終わり”の声には勝てず、とうとう見届けに行ってきました。それを後押ししたのは、京都市民になって手に入れた待望の敬老乗車証、コレを使うと、乗り換えなしの一系統で現地まで到着できる、スグレモノです。ほんとに便利になったものです。さて、点灯開始の頃に着くと、渡月橋付近は多くの人で賑わっています。背後の山までライトアップされて、これはこれで、なかなかのモンです。しかし、ここでも“鉄”の血が騒ぎます。ここから、ちょっと横道に入ってみますと‥。
▲嵐電嵐山駅は、常設の電照ポール「光の林」があって、ここも見物客でにぎわっている。東側の踏切前から発車前の嵐電を。
▲▲山陰本線の野々宮踏切へ行くと、ラッシュ時の複線に、上下の特急、普通が来て、4本待ちとなった。見物客の列がたちまちできる。開くまでの間、名残の紅葉を入れて‥。
五十年前に見た 当たり前の風景 -2-
山陰本線のDL(1)
▲ギラリのDD54 2が862レを牽いて馬堀の築堤を行く。DD54一次車特有の特徴あるフォルムが浮かび上がる。50年前の山陰本線のDLは、あのDD51は、まだ一両も入線しておらず、DD54、DF50という、今も関心の高い両機が、旅客、貨物の牽引を担っていた(写真は昭和46年1~4月撮影)。
今から50年前の昭和46年には、京都周辺の鉄道で、二つの大きな出来事がありました。ひとつは、北丹鉄道(福知山~河守)の休止(のちに廃止)であり、もうひとつは山陰本線京都~園部を走っていた、梅小路区のC57の廃止、DL置き換えです。いずれも、DRFCでは、行事を行って見送りをしています。当時の山陰本線の客車列車・貨物列車は、蒸機牽引のC57より、DD54・DF50のDLが多かったものの、どしても眼はC57に向いていました。DLは撮っていたものの、顧みることはほとんどありませんでした。そこで、当時の山陰本線の“当たり前”だった、DLの牽くシーンをまず見てもらいます。
「わが“やましな”の記憶」 あれこれ話 -Ⅶ-
貨物を牽いたD52・D62
▲大カーブを終えて、直線で山科駅に向かうところに、三条通(当時、国道1号)を越すガーダー橋があり、アクセントとなっていた。眼前をゆっくりとD52 203の牽く貨物が通り過ぎる。戦後の荒廃も癒えて、貨物機と言えど、美しく整備されていた。よく見ると、同機にも集煙装置が取り付けられていることが分かる。
佐竹さんに好きな蒸機は? と聞くと、意外にも「D52です」と返事があったことは、準特急さんからの投稿からも伺えます。今回の写真展で、その気持ちが理解できたような気がします。昭和30年代の山科の主役は、C62・C59でもなく、貨物を牽いていたD52・D62であったこと、その当時に撮影した人間でしか分からない実感だったと思います。なにせ、戦後、高度成長の端緒に付いた時代、鉄道の貨物量は、現在とは比較もできないぐらい膨大なものでした。資料を見ますと、昭和31年の鉄道の貨物輸送量は約18,000万トン、現在では4,000~4,500万トンですから、ざっと4倍の貨物量があったわけで、とくに、天下の東海道本線には貨物が集中していたのでしょう。
「わが“やましな”の記憶」 あれこれ話 -Ⅵ-
集煙装置を付けたC62
▲上り「はと」を牽くC62 42 向こうに山科駅が見える(昭和30年5月)。
「これは初めて見ました」と、撮られた佐竹さん自身もまだ気づいておられなかった写真も数点展示しました。上掲の写真もそうです。撮影場所は、山科駅の少し東、大築堤で撮られた写真は数多いのですが、山科駅が入った写真はほとんどありません。いつも完璧性を追求される佐竹さんらしい撮影場所の選択ですが、写真展の場合は、流れの変化と、撮影場所を明確に伝えるという観点から、駅構内も必要と感じて加えることにしました。この写真から、山科駅は二面四線の典型的な国鉄駅の構造だったことも分かります。そして、注目すべきは、C62 42の煙突回り、ヘンなものを付けています。これこそ、C62に唯一取り付けられた集煙装置なのです。
「わが“やましな”の記憶」 あれこれ話 -Ⅴ-
「わが“やましな”の記憶」 あれこれ話 -Ⅳ-
蒸機同士の併走
▲貨物列車を牽くC51が必死に逃げる。それを追うのは、C6235の牽く特急「はと」。たいへん珍しい蒸機の併走が山科で見られた。昭和31年1月
いまの山科は複々線、つまり4線化されていますが、写真展の時代は3線で、外側2線は上り線、内側1線は下り線でした。これは、太平洋戦争前、とくに貨物輸送の増大で、線路容量が逼迫したため、昭和19年12月に上り線が2線化されたものです。大津方に10‰の連続勾配が続き、とくに輸送力貨物列車は極端に速度が遅く、後部に補機を付けても、梅小路~大津が30分も掛かったと言います。特急・急行の優等列車では京都~大津10分ほどですから、本数の増加は困難な状態でした。そこで緩急分離を目的に2線化されたものです。外線を貨物、中線を特急などの旅客に分離されることが多かったようですが、この写真のように逆のケースもあり、適宜。使い分けしていたようです。
「わが“やましな”の記憶」 あれこれ話 -Ⅲ-
重油で走ったC59
写真展では、山科の大カーブを行く定番の構図だけでなく、変化をつけるため、ロング、俯瞰など、さまざまな写真を並べました。斜め後部、やや俯瞰で撮ったC59も選びました。背後に山科の“里”が入っていて、いまの山科と比較できるのも選んだ理由の一つですが、このC59だけに見られる特徴のある角度なのです。キャプションに触れておきましたが、気づいてもらえるだろうかという思いがありました。ところが、その写真に近づくなり、「これは重油専燃機じゃないですか!」と、ずばり看破された方がおられたのです。その方こそ、“SL好きの国会議員”のMさんでした。C59のテンダー上に見える重油タンクをしっかり見ておられたのです。▲東山トンネルを出て、山科の“里”を走る週末準急「ゆのくに」を牽くC59127 煙突からは煙が出ていない。“ゴォー”と言うドラフト音だけが響いていた。山科では、「つばめ」「はと」「さくら」「鳥羽快速」、それに「ゆのくに」がいちばん早かったと佐竹さんは述懐されている。
「わが“やましな”の記憶」 あれこれ話 -Ⅱ-
今回から、個別の写真について、“あれこれ”述べてみましょう。写真展の場合、展示する写真候補のなかから、ポスター、はがき、雑誌告知などの事前の案内用として、リリース写真として選ぶことになります。写真展の内容を端的に表す、シンボリックな写真となる訳ですが、どの写真にするか‥‥、普通なら例の「雪のC622つばめ」でしょう。ところが、前回に述べたように、このネガも所在が不明なのです。以前にネガがあった時に、スキャンしたデータを取っていたものの、今回、門司鉄道記念館で作ってもらったビッグサイズの写真も再展示することになり、競合は避けて、新規の写真がふさわしいとなりました。▲C6230「つばめ」でリリース原稿を作成
▲▲雪の日のC622「つばめ」は文句ない写真だが‥‥。 続きを読む
「わが“やましな”の記憶」 あれこれ話 -Ⅰ-
11月11日(木)から開催していました、佐竹保雄写真展「わが“やましな”の記憶」、福田静二写真展「煙の旅 はるか」が終了してから2週間が経ちました。多くの皆さんに来場いただき、御礼や経過をデジ青で報告をと思いながらも、その間に、京都のほかの大学で講演があったりして、準備で忙しく、何も投稿できないまま2週間が経ってしまいました。それも終わって、やっとキーボードに向かうことができました。 ▲写真展が行われた、ひとまち交流館京都
広島から小ネタ5題
まずはいつものように新聞記事から。広島カープは今年もBクラス。何とか4位に浮上したとは言え、鈴木誠也の大リーグ挑戦もあって、地元ファンには来季への不安がぬぐいきれない年末を迎えています。一方、芸備線や木次線の存続問題がメディアに取り上げられることも増えつつあります。気動車にラッピングを施しただけで乗客が増えるとは思えないのですが、芸備線、福塩北線を走るキハ120の1両にカープラッピング車が登場しました。