ニュースから2題

身近なことからいうと、堺市が殆ど決まりかけていた新型LRT電車の導入を断念。これにより久々の関西地区における路面電車の新規路線の夢が画餅に終わった。それのみならず阪堺線の堺市内区間の存続も極めて危うくなったことが想像できる。単に鉄道マニアだけでなく近未来の交通政策を考えているものにおいても非常に残念な結果になったといえよう。

昨年の堺市長戦における争点であったLRTの導入は、前市長のシャープの工場誘致とともに大浜地区の活性化などのビジョンは描けていた。しかしリーマンショック以降の急速な経済状況の悪化で、「もしかして赤字が増えるものはやらない方がいいのでは」という世論にもつながった。橋下大阪府知事の政治パフォーマンスも時にはポピュラリズムに敷衍する。識者としては非常に残念な結論と言えなくもない。今の経済状況下では消極法しかでてこないが、これでは座して死を待つのみではないかとも言えるであろう。橋下知事の大阪府政には戦後処理的な暫定的な役割も感じるがそこの負の部分が最もでたことの一つがこれではないだろうか。

もう一つのニュースは鉄道でなくバスの話。九州に本社をおく西日本車体工業が会社解散という悲痛なニュースだ。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/keizai/detail/20100122-OYS1T00197.htm

70−80年代に正面運行窓付近の逆「く」の字型の車体デザインで一世を風靡したNSKボディーであるが、近年は親会社である西鉄のバス事業がずっと縮小して苦戦していることが伝わってきた。今の路線バス事業はローカル部門は殆ど赤字でそれを高速バス事業で補うのがせめてもの経営。しかし高速道路の大幅割引で公共交通の役割だけでは存続が困難になった事業者が増加している。そうでなくても西鉄はじめ九州地区ではバス会社の苦境が伝わっていた。

NSKボディーは京都市バスでもかつては結構見られたが、私自身が九州出身だけに非常に残念に思う。またこういう企業が無くなって代わりの産業があるかという問いに「ない」としか言いようがないのが今の社会状況だ。

映画「フラガール」では常磐炭坑の閉鎖に伴い「ハワイアンセンター」設置の夢というテーマがモチーフになっていた。今の地方には就業や若者の未来、数十年働ける環境や企業の存在と言った基盤が非常に薄い。そういう背景からみてもこの西日本車体の解散には行政や地方政治の無策を痛切に感じる。地方の「荒れ」は最後には日本中を覆うのではないか。私の不安ができれば当たらないことを願うのみである。

「こだま」型 若き日の思い出 (4)

昭和30年代後半になると各地の幹線で電化が推進される。その多くは交流電化が採用され、直流区間にも乗り入れ可能な交直両用の特急用車両が計画された。「こだま」型の人気は絶大で、地方からも「こだま」型電車の到来が待ち望まれていた。
このような背景で生まれたのが、「こだま」型の交直両用電車、60Hz用481系、50Hz用483系で、それまでのDC特急を置き換えたり、新設の特急を誕生させた。
その嚆矢として、北陸本線に「雷鳥」(大阪~富山)「しらさぎ」(名古屋~富山)各1往復が、昭和39年12月から走り始めた。もともと、東海道新幹線開業の同年10月から運転予定で列車ダイヤにもスジも入れられていたが、肝心の車両が間に合わず、年末からの運転開始となった。

山科大築堤を行く、運転開始間もない「雷鳥」。わずか1往復の運転で「第◎雷鳥」でも「雷鳥◎号」でもない、ただの「雷鳥」

 初めての481系も山科で撮っている。151系に比べて床面が高く、その分ボンネット部が圧縮され、ややズングリした印象であるが、60Hz用を示すためスカート部が赤に塗られたのが新鮮だった。今まで電車とは全く無縁だった北陸本線に「こだま」型が走り、しかも京都で見られるとは、大変な嬉しさだった。その後、さらに151系と識別を容易にするため、昭和40年10月改正増備車からは481系、483系ともに赤い”ヒゲ”が入れられた。
北陸に待望の「こだま」型が走ったのだから、その人気ぶりは伺えようというもの。改正後ごとに「雷鳥」「しらさぎ」は増発が続けられ、昭和53年10月改正では、「雷鳥」19往復、「しらさぎ」6往復、計25往復となった。481系の増備車は貫通型になり、すべてが「こだま」型ではなかったし、一部は581系も含まれるものの、たいへんな数の「こだま」型が北陸路を駆け巡った。ボンネット型の「雷鳥」は平成16年まで残り、実に40年もの歴史を持ち、特急の中では最長となった。

湖西線が昭和49年にできるまでの「雷鳥」は米原回りだった。田村駅の南方、現在の長浜ドーム前付近を行く

赤ヒゲの入った「しらさぎ」。米原を出てすぐの北陸本線。当時は田園が広がり、すがすがしい光景の中を行く、「こだま」型はますます美しかった

「こだま」型 若き日の思い出(3)

昭和39年10月1日、「こだま」型の地図は、一夜で塗り変わる。東海道新幹線の開業によって東海道本線の昼間特急からすべて撤退し、全線の電化が完成した山陽本線に活躍の場を移す。
東海道新幹線と接続して、下関行き「しおじ」、宇野行き「ゆうなぎ」「うずしお」(「うずしお」は昭和36年10月改正から)が、、新大阪、大阪から出発して行った。「つばめ」「はと」は、新大阪を始終発に変更して、サヤ420を介してEF30、ED73に牽かれ交流区間の博多まで乗り入れを果たした。
翌年昭和40年10月改正から、さらに広島行き「しおかぜ」が加わる。、それまで昼間特急は「かもめ」「みどり」のみだった山陽本線は、日本一の特急街道に召し上げられた。その拠点になったのが、向日町運転所(現・京都総合運転所)、一躍、花形車両の配置区となり、151系や、153系やキハ82系などが顔を揃えて全国的に注目を浴びることになる。
私も撮影対象として、本数の増加した「こだま」型を求めて、大阪、新大阪へ出向いた。すべて駅撮りではあるが、現在の駅と違って、障害物も少なく、広々して写しやすい。
151系は出力増強されて順次181系に改造されたほか、181系新造車も増備された。そして、「こだま」型の交直両用版481系が出現する。

大阪駅の「うずしお」。手前のクハ151-9は、博多乗り入れのためジャンパ栓が増設され、連結器カバーもはずされた

昭和39年10月改正で新設された「ゆうなぎ」。先頭はクロ151-1 当時の新大阪駅はすぐ横まで民家が迫っていた

上毛電鉄「新春イベント2010」

総本家・青信号特派員さんが1月10日から14日にかけて6回に亘り「新春から鉄道写真三昧」のタイトルで正月期間中の活動報告をされた。私は年末の28日に「銚子電鉄」、29日に「ひたちなか海浜鉄道」に出かけたこともあって、元旦と2日は自宅でおとなしくして、3日に「上毛電鉄」を訪れた。当日、上毛電鉄は「新春イベント2010」が開催され、群馬県近代化遺産に登録されているデハ101の臨電の運転、昨年東急から入線したデキ3021が大胡電車庫内での運転が実施された。

 上毛電鉄の前に伊勢崎の華蔵寺遊園地に保存されているC6120を見学した。年末に高崎での仕事帰りに行ったのであるが、閉園間際で夜景しか撮れなかったためである。

高崎駅で両毛線小山行(441M)に乗換待ちの間に、信越線横川行(127M)クモハ107-110+クハ106-110を撮影し、これが今年の撮り初めとなった。伊勢崎到着後急ぎ足で華蔵寺遊園地へ。駅から約3キロあるため30分かかり、9時30分開園直後に到着した。既に10人位の人が撮影しており、その後も続々と撮影者が来園してきた。20分程で見学と撮影を切上げ、前橋までバックして上毛電鉄の中央前橋駅へ。JRの前橋駅から約1キロ離れており、レトロ調のシャトルバスが運賃100円で結んでいる。乗車予定の電車まで少し時間があるので駅の直ぐ横の踏切で到着電車の撮影をしたが、既に三脚が数台並んでいた。撮影後、電車に乗り4つ目の上泉で下車して桐生寄りの踏切でデハ101を撮影した。次の電車で大胡に行くと、車庫内ではパンタを上げたデキ3021と、デハ104が停車していた。暫くすると前橋方面からデハ101が戻ってきて3両並びとなった。その他にも元銚子電鉄デハ101が履いていた雨宮製の台車、東武伊勢崎線の急行に使用されていた行先板等が展示され充実した内容であった。

今年の撮り初め クモハ107-110+クハ106-110

 

華蔵寺遊園地のC6120

12月の初めの地元の新聞には1月8日搬出と書かれていたが、実際には1月19日に搬出された。12月16日から1月4日まではキャブ内が一般公開された。

 デキ3021+元東武鉄道テ241

 

昨年10月に東急から入線後、整備が続けられて自走できるまでになった。貨車は昭和3年日本車輌製で、野田線七光台検修区の非常用機材倉庫として使用されていた。

 デハ101

開業時に昭和3年川崎車輌で新製された車両で、現役の営業車としては最も古いと云われている。)この日は、臨時電車として大胡→西桐生→中央前橋→大胡と営業運転された。1往復9万円で貸切運転ができるため、結構走っているようである。

 

上泉~赤坂間(真横から狙えばバックに赤城山が綺麗に入るが、人が多かったため踏切から撮影した。

デハ104

 

平成9年に廃車されたが解体されずに残されている。デハ101が1両しかなく多人数の団体に対応できないため、復活を期待したいところである。電装品が老朽化して復活が難しければ、クハ化してデハ101とMT編成を組んでも良いと思う。

 デハ711+クハ721

 

上は中央前橋駅直ぐ横の踏切から手軽に撮影できるので、時間の無い時におススメである。下は大胡

東武鉄道で使用されていたヘッドマーク

 

ヘッドマークからも判る通り、浅草~中央前橋間を直通運転していた時期があった

台車

 

銚子電鉄デハ101が履いていた台車で、762mmから1067mmに改造した痕跡がはっきり残っていた。

 

東武鉄道クハ701が履いていたKS105

「こだま」型 若き日の思い出 (2)

山科大築堤の「つばめ」

日本の基幹路線ともいうべき東海道本線の全線電化が完成したのは昭和31年のことで、電化を機に、当時の客車特急「つばめ」「はと」を凌ぐ高速列車の計画が立てられた。EH10を使った高速度試験も行われたが、従来の機関車牽引では限界があり、動力分散方式の電車を採用することになった。
こうして誕生したのが初の特急電車モハ20系、のちの151系で、昭和33年に東京~大阪間の「こだま」としてデビューした。すべてに画期的な性能・設備だったが、中でもボンネット型の前面形状は、今だに名車として語り継がれ、「こだま」型を強く印象づけている。
乙訓の老人は、Oさんの世話で「こだま」の試運転に潜り込むという幸運に恵まれ、車内で「こだま」を設計された星晃さんに会われている。その後「トレランス」号で星さんと再会され、「こだまの試運転に乗れたのは一生の思い出です」と礼を言ったと述懐されている。

その後、好評に答えて「つばめ」「はと」「富士」などが相次いで151系で登場したが、旺盛な輸送需要にはまだ追い付かなかった。そこで、全く新設の交流電化の広軌鉄道を建設し、抜本的な改善をすることになり、昭和34年に東海道新幹線が建設起工された。つまり、東海道本線では電車特急の増備を続けながら、新幹線の建設を進めるという、二重の投資をしていたわけだが、それほど輸送力の改善が急務だった。
こうして、昭和39年、新幹線の開業と引き換えに東海道本線の昼行特急は全廃となり、わずか6年で東海道本線から撤退することになる。子供心にもぜひ記録しておきたいという欲望がメラメラと湧いて来る。

中学生ながら“山科の定番撮影”にこだわった一枚。これで後部が切れていなかったら言うことなし  (昭和39年8月3日)

この時に初めて行ったのが山科の大築堤だった。京阪御陵駅で降りて、駅前の道を南下して築堤をくぐるトンネルの手前に上へ行く小道があり、なんの障害もなく築堤に上れた。
ここで写したのが「つばめ」である。他の「こだま」「はと」などと共通の編成であるが、ただ唯一、ヘッドマークだけが違っていた。他は白地にスミ文字のいたってシンプルなものだが、「つばめ」だけは上下のバック地がグレーになっている。由緒正しき「つばめ」の矜持にも感じられた。
客車時代の「つばめ」には全く記憶も記録も持ち合わしていない私にとって、「つばめ」と聞いて真っ先に思い出すのは、151系の「つばめ」である。
最終日となる昭和39年9月30日も、中学校から帰ってすぐに山科に駆けつけている。前にも書いたが、その時に築堤にいたのはほんの2、3人だった。とくに最後の「こだま」を見送るときは先客も帰ってしまい、私一人で、本日最後の東海道本線の電車特急を見送った。その「こだま」は、フィルムが切れてしまい、写せなかったが、夕闇の大築堤を、赤いテールライトが過ぎ去っていく光景が、今も記憶の片隅に残っている。

最終日、山科の大築堤を下って行く「第二つばめ」。つぎの日は東海道新幹線の開業日、10日後には東京オリンピックが開かれる、日本の歴史を刻んでいく日々だった(昭和39年9月30日)

 

25年前の新春鉄道写真三昧

【6240】で総本家青信号特派員さんが阪堺電車の初詣風景の素晴らしい画像と書き込みを拝見して、25年前の昭和61年の元旦、ほぼ同じ場所で撮影したことを思い出し、当時の画像を引っ張り出してみた。

昭和58年のゴールデンウィーク期間中に生活の拠点を東京都内東部の亀有に移し、急激な生活環境の変化と旧形国電、旧形客車が姿を消したこともあって、鉄道に対する情熱はすっかり冷え切っていた時期であったが、正月休みに帰省した時に何故か阪堺線の「改々電車」(205形)と元京都市電(251形)が見たくなって出掛けたものと思われる。「改々電車」と元京都市電が営業運転に就くのは、ラッシュ時と初詣輸送時くらいのため、関西在住の頃にまともな写真が撮れておらず、チャンスと思ったのかもしれない。そのため車両中心の画像であるが、満員の乗客で当時を偲んでいただければと思う。

モ205形

旧阪堺電気軌道が開業時に新製した木製車を昭和12年から22年にかけて鋼体化した車両で、205~250の46両在籍した。最後はワンマン化されなかった平野線で使用されていたが、昭和55年11月27日、地下鉄谷町線が八尾南まで延長に伴い、平野線が廃止された時に246~248の3両が中扉を新設してワンマン化され生き残り、主にラッシュ時と正月に使用された。改造を重ねているため「改々電車」と言われた。(怪々電車と言う人もいた)

モ251形

元京都市電の1800形(ワンマン改造前は800形)で251~256の6両が在籍した。京都市電時代の旧番は車号順に1844、1866~1870である。複雑な改番を行った600形→1600形と違い、800形時代の車号に単純に1000をプラスしただけである。転入当初は日常的に使用されたが、パワー不足でスピードが出ないため多客時以外は使用されなかった。廃車後は256(元1870←870)が京都時代の塗装で我孫子道車庫に保存され、一般公開時に見ることができる。また、255(1869→869)はアメリカアリゾナ州の博物館(オールド・プエブロ・トロリー)に譲渡され、869時代の前後扉に復元の上動態保存されている。

251/元1844←844で、251形の内この車のみ昭和25年近畿車輛製である。844時代は九条車庫の配置にされ、伏見線でよく乗った思い出深い車である。窓枠は昭和30年代後半にアルミサッシに取替えられていた。

 

252/元1866←866で、昭和28年愛知富士産業製、このグループが5両全車転入した。ツーマン時代は間接自動制御で烏丸車庫に配置され、通学時によく乗った車両である。車体は半鋼製であったが、内装は木目プリントの軽金属板が使用されていた。866は、600形を1600形への改造にあたりテストカーとして、ヘッドライトのシールドビーム化(但し1灯)自動昇降式ビューゲルの取付け、車内外スピーカーの取付け、直接制御化が行われた。

 

254/元1868←868で、昭和28年愛知富士産業製。867~870はワンマン改造時に直接制御となった。

 

255/元1869←869で、昭和28年愛知富士産業製。廃車後アリゾナ州の博物館(オールド・プエブロ・トロリー)に譲渡され動態保存されている。869時代の前後扉に復元されているが、ヘッドライトが窓下に移動、集電装置が阪堺時代のパンタのままと原形とは多少異なるがよく残ったと思う。

 

256/元1870←870で、昭和28年愛知富士産業製。現役時代は「タマノ井酢」の広告車であった。廃車後、京都時代の塗装に戻され動態保存されており、一般公開時に見ることができる。

モ121形

昭和42年に元大阪市電の1601形を譲受け、木製車モ101形の足回りを組合せて竣工した。121~130の10両在籍したが平成12年までに廃車となり、ラストナンバーの130が浜寺公園に保存されている。

 

モ151形

昭和2年川崎造船所兵庫工場製で電4形として10両作られた。モ161形、モ301形への改造により、最終的には151~154の4両となった。当初は直接制御であったが昭和35年に多段式間接制御に改造、昭和54年にワンマン化されたが平成13年までに廃車された。

 

モ161形

昭和3年161~170か川崎車輌で、昭和6年171~176が田中車輌と大阪鉄工所で作られた。当初から総括制御が可能な間接非自動制御で連結器を持ち、昭和26年まで平野線で連結運転を行っていた。現在も10両が健在で多客時を中心に使用されている。

 モ301形

モ151形とモ161形の戦災復旧車で301~307の7両在籍した。制御器は多段式間接制御で301形同士の連結運転は可能であったが、161形とは制御器の相違から不可能であった。

 

モ351形

木製車モ101形の主電動機を流用して昭和37年(351・352)と38年(353~355)に帝国車両で作られた。車体は昭和32年に新製されたモ501形とほぼ同じであるが車掌台の窓が異なる。主電動機を流用しているため釣掛式であるが、台車は空気バネの新品、主電動機も間接自動式の新品である。昭和61年から冷房化され、現在も全車健在である。

 

モ501形

昭和32年帝国車両で当時の最新鋭技術によって作られた高性能車で501~505の5両在籍した。昭和60年から冷房化され、現在も全車健在である。

 

 

 

この時点では505は未だ冷房化はされていない。

 

 

 

 

 

 

冬の芭石鉄道へ Part6 蜜蜂岩站→黄村井站乗車

今日は、阪神大震災から、15年目を迎えました。私ごとで、申し訳ありませんが、当時、私は、勤務していた会社の神戸支店の責任者として赴任して、業務も順調で、意気揚々としていましたが、突然の惨事に啞然とするばかりでした。

鉄道網もズタズタとなり、5日後、三田からの神戸電鉄が開通したので、地下鉄新神戸駅圣由で、市内へと、行く事が出来るようになりました。徒歩で、三ノ宮に近づくにつれて、目の前に拡がる光景は、想像を絶するものでした。

高校生時代にも予兆がなかった突然の心臓発作で倒れ、10分搬送が遅れたら死んでいたと言われた経験を持ちます。人間、何処でどうなるか分らない。人生は、1回のみ、一瞬一瞬を大切に生きようと、あらためて思った日でした。
こんな日に、神戸と同様に、四川大地震で大被害を受けた地の、紀行文を書くのは、自然と力が入ります。

第4日目 2010年1月1日
① 成都クラウンプラザ8:30-(チャーター車)→13:50石渓站14:30-(観光列車)→15:08蜜蜂岩站15:20-(観光列車)→16:20黄村井站
② 黄村井站17:35-(観光列車)→石渓站18:45-(チャーター車)→19:15犍為天波大酒店

15:20、地形上、カーブできる土地がなく、やむなくスイッチバックとなった蜜蜂岩站を発車しました。進行方向を逆に変えた列車は、Y型になったポイントを渡り、石渓から来た線路を左に見ながら、山の斜面に沿って、大きく右にカーブします。そして、路線最大の36.14‰の急勾配を必死に駆け上がっていきます。

短い手掘りの後が残る、第5トンネルを抜けると、右手に絶壁の高い岩壁が見えます。欧米ファンが好む撮影地です。この辺りからは、カーブまたカーブで、ゆっくりと登り坂を走ります。

15:30蜜蜂岩站から3.2km、左手に春には、菜の花が一面に咲く、段々畑で有名な撮影地の大カーブを、左に大きく曲がりますと、菜子埧站がありますが、通過します。人家も多くなってきました。


15:38菜子埧站から2.0kmを走り、列車交換できる仙人脚駅に到着しました。ここで、石渓站を30分前に出た定期列車の折り返し便と交換待ちで、しばしの停車をしました。

ホームはありませんが、線路横には、駅舎と間違う雑貨店があります。駅の周りには、集落が広がっています。
15:53、定期列車が出た後に、発車しました。

15:58、コンクリート造りのトイレとホームが見え、停車しました。付近に人家がないので、定期列車では、停車しない、観光列のみの站だそうです。

胡小姐が、みんな降りて撮影しますと言いますので、降りますと、列車は、築堤を逆走して、警笛を鳴らし続けながら、勢い良く煙とドレインを出して、戻ってきました。陽がさして、運が良ければ、ドレインに虹が出る、芭石鉄道一の撮影ポイントとなっています。

お立ち台も整備されていて、全員がカメラを向けます。残念ながら、この日は、曇っていましたので、虹は出ません。
観光列車のみのサービスですので、こられる方には、乗車をお薦めします。3月には、段々畑は、菜の花が咲き、右上の站の壁の写真のような光景が拡がるそうです。

16:08 交換設備のある焦埧站を、最徐行で通過しました。站を過ぎると。使われなくなったホッパーを左に見ながら、加速していきます。しばらく行くと、かなり長い第2、第1トンネルを連続してくぐりました。通過中、車内は、真っ暗です。時折、トンネル内の裸電球で、車内が明るくなりますが、一瞬です。


站に掲示されていた時刻表です。1日4便の定期列車です。芭溝站か、蜜蜂岩站近くの宿に泊まらなければ、効率的な撮影は難しそうです。

16:12 トンネルを抜けると、直ぐに芭溝站着きました。ここで、大多数の乗客は降りていきます。
かつて、芭石鉄道は、国営の嘉陽集団により沿線炭鉱開発の輸送として、1959年に開業されました。最盛期には、10,000人余りの炭鉱休業者家族が居住した町でしたが、炭鉱閉鎖によって、会社も去り、今では約3,000人に衰退しました。

職を失った労働者は、出稼ぎへと出て行き、老齢者の町となっています。そのため、古い町並みと芭石鉄道を観光名所として、売込みを図っています。

16:14 終着駅に向けて、芭溝站を発車。眼下に古い町並みを見る事ができます。


16:20、運行表の定刻に5分遅れて、黄村井站着でした。残っていた観光客は、ホームから橋を渡って、炭鉱服に着替え、炭鉱見学ツアーへと行きます。観光料金は、50元(=700円)だそうですが、我々は、何の興味もないので、パスしました。

胡小姐は、ここから溝站まで歩いて、芭溝の古い町を散策に行こうと誘いますが、我々の興味は、線路の先に見えるホッパーと、その上にあるトロッコ集団です。こちらを選択しました。

帰りも来た観光列車に乗らないと、次の一般列車は、18:45です。発車時間は、17:20と、確認して、向かいました。

登ってみますと、トロッコしと、ナローゲージより狭い380㎜の軌道がありました。
インクラインは、石を上に上げるようになっていましたが、はっきりとは、分りません。

ホッパーは、上のトロッコから石炭を落とす原始的な物で、トロッコを見ていると、炭鉱の責任者が来て、相棒が質問する事に答えてくれています。こういった時は、通訳がいると、詳細を聞けるので、ありがたいです。私の片言では、通用しません。
この炭鉱は、この地区でも最も古い物で、トンネルの壁は、石造りです。この先、1500mが採石現場だそうです。

相棒の撮影です。かれは、こんな風景を気に入っていました。

17:35
、炭鉱見学者が、遅くになったので、定刻を15分遅らせての発車です。列車は、日暮れが近い帰りの坂道を下りていきます。
18:08芭溝站以外の途中站は無停車で、定期列車が交換待ちをする、蜜蜂岩站に到着。
18:11、定期列車が、黄村井に向けて発車した後、大急ぎで、SLの方向転換を行い連結して、下山しました。

18:28躍進站到着。18:30躍進站発車、18:45、定刻には15分遅れで、暗闇になった石渓站に着きました。往路は、1時間50分。復路は、1時間10分の芭石鉄道全線19.8キロ乗車の旅は、終わりました。

相棒のたっての希望で、羊肉料理店に入り、食べた夕食です。羊の内臓と地元野菜が入った鍋料理です。味は、彼のご両親の出身地、沖縄の料理と、全く一緒で美味しいと、うんうんと、言いながら食べていました。

今夜の宿は、基本ツアーでは、楽山市のホテル泊でしたが、前もって、石渓站に近い、犍為のホテルに変更しておきました。石渓站前からは、チャーター車に乗って、約30分で、天波大酒店に着きました。

3つ星ホテルですが、部屋に入ると、窓が開けっぱなしで、寒く、また、バスタブなしで、ぬるいお湯のシャワーです。亜熱帯に属して、冬でも10度前後で、京都よりは暖かい所ですが、慣れてくると一緒で、夜間は寒く感じます。寛容な性格の相棒も、これにはクレームを入れました。

明日は、9:30石渓站発の第2次に乗車して、今日決めた撮影地を目指します。胡小姐には、今日と同じく、8:30ロビー集合と打ち合わせをして、早め、ベットに入りました。

「こだま」型 若き日の思い出 (1)

京都駅の「こだま」

ボンネット形の「こだま」型電車の定期運用がいよいよ3月改正で消えると書いた。昭和33年の151系「こだま」のデビューから数えて半世紀あまり、ついに輝かしい歴史に幕を下ろす時が来た。
デビュー当時の「こだま」型は、撮影の対象というより、乗りたくても乗れない憧れの列車だった。山科の人間国宝は「展望車に乗るのが憧れでした」と折に触れて語っておられるが、私にとっては、まさしく「こだま」型がそれに当たる。そう思いながら、古い鉄道写真アルバムを繰っていると、第一ページにこんな写真が貼ってあった。

京都駅1番ホームの上り「第一こだま」 東京方のクハ151

昭和36年8月3日7時30分、上り「第一こだま」、小学6年生の腕ではさすがに稚拙な写真だが、特徴あるホーム屋根の形状から京都駅と分かる。この日、京都駅の一番ホームに私はいた。と言っても「こだま」に乗った訳ではなかった。
8月の中旬に家族で伊豆箱根への旅行を計画していた。その下調べに、父とともに京都駅へ来たのである。この頃の東海道本線は、逼迫する輸送需要に追いついていなかった。「こだま」が昭和33年にデビューし、その後も「つばめ」「はと」「富士」と電車特急「こだま」型が増発されたものの、電車特急の人気は高く、2週間前発売の指定券はすぐに売り切れていた。ダフ屋が横行していた時代で、何倍もする特急券を泣く泣く購入せざるを得ない。
勢い、自由席のある急行に目が向くが、これも夏のシーズンなどは満員になる。とくに京都から東上する場合、大阪で乗り込まれると、座れる可能性は極めて低い。この頃の交通公社の時刻表には、急行・特急の月旬ごとの前年の乗車率が載っていた。8月号を見ると、東海道本線の主要な急行は、軒並み100を超していた。
そんな状況の中で、実際それを確かめに京都駅へ来て、乗るアテもない「こだま」を写したということである。
これほど左様に、当時の「こだま」型は、日本国民すべての憧れでもあったのだ。ちなみに、その旅行、急行の利用はあきらめ、結局、京都発の普通列車を乗り通し、約10時間かけて沼津に着いた。

EF510-501が故障

皆様、今年もよろしくお願いいたします。

特派員氏の新年からの投稿におおいに勇気づけられております。

また阪急6300の記事に現況を知りました。懐かしくも時代の流れは必然です。

国鉄117系、京阪3000系、そして阪急6300系と3種の2ドアクロスシート車が3様に駆け抜けた頃の京阪間は、夢のようでした。いやほんとうに関東からこの電車たちに乗るために関西の大学を目指した学友も居てたと思います。

 

さて、他ブログからの転載記事ですが、昨年12月に落成したJR東の特急牽引機が取手付近のデッドセクションで故障、停まってしまったようです。

http://blogs.yahoo.co.jp/koutyan485_583/11534900.html

EF81の置き換え用の期待を担って登場した新鋭機もこのくらいの初期故障はやむをえないのか。

正直に言うと私もブルトレ専用機が出たこともあまり知らなかったのですが、番号の付け方と車体カラーにEF60500番台、EF65500番台以来の期待が込められているように思えます。

投入直後で冬期ということもあり、まだ本調子がでないのか。久々の華やかなロコだけに復調して常磐線のクイーンとして羽ばたいてもらいたいものです。

今回は写真が無くて済みません。

冬の芭石鉄道へ Part5 石渓站→蜜蜂岩站

第4日目 2010年1月1日
①石渓14:30-(観光列車)→15:08蜜蜂岩

13:50芭石鉄道の石渓站に到着しました。既に、乗車予定間際の14:00発車の第3次は、どの車両も満員で、立っている人もたくさんいます。すし詰め状態で、押し込まないと、乗れません。


石渓站の壁にに大きく貼ってあった、花咲く春の芭石鉄道です。こんな写真を見ると、この頃には、また来て見たくなります。

ご覧のとおりの押し込み状態です。これでは、ただ乗るだけで、やっとです。

通訳兼ツアーコンダクターの胡小姐は、今日の運行予定確認に行ってきました。そして、『この列車は、満員なので、30分後に、座れる観光列車が出るので、そっちにしません?』か、聞いてきました。今日は、全線乗車で撮影地視察の予定でしたので、座っていける観光列車にすると、返事しました。この判断は、後々正解でした。

第3次の発車前に、躍進駅から来た小型ELの牽引する、石炭列車がやってきました。その後、小さいくせに大きな汽笛を鳴らして、発車しました。
7両の客車を牽引して、石渓站を出発する第3次。上の写真は、M・K氏撮影。

№9号機の牽引する第3次。後で分ったのですが、テンダー車は、№10と書かれていました。これって、なぜなのでしょうか? 今回は、一応、機関車番号を優先して、記載します。

第3次の発車シーンを撮り終え、ゆっくりとホームを見ると、まだまだ、人がいます。中国人団体観光客も多いようです。世界的には、有名な芭石鉄道ですが、観光列車が運行され、専用客車まであるとは、現地に来るまで知りませんでした。ましてや、中国人が、芭石鉄道に乗りに来る観光ツアーまであるとは、驚きです。

胡小姐の話ですと、連休で観光客も多いので、普段は運行しない観光列車を、今日と明日は、運行する。3日目は、様子を見るが、ダメでも定期列車に観光用車両を連結すると言っていましたが、予定は、限りなく未定に近いのが、この国の常識ですので、毎日確認するように言いました。




観光列車の編成は、№10号機(機関車)+№14(テンダー車)+8+4+2+6の4両編成客車。一般列車とは違って、ベンチ式クロスシートの座席と、窓ガラスが完備されていますが、車内灯は、ありません。



№10号機の運転席にあった運行表です。帰国後に、訳してみましたのが、上の表です。1日2本の観光列車があって、それぞれ運行予定が異なっています。現地で、通訳さんに訳してもらっておれば、効率的に動けたのにと、反省しました。

我々の乗車する車両は、最後部です。展望デッキもあって、これは最高です。発車間際に機関区から、入場厳禁と表示された車庫から、№14号機(機関車)+№9(テンダー車)が、側線を走って来ました。どうしたのかなと、前頭部を見ると、№10号機の前に連結しました。思いもしなかった重連です。前方へ撮りに行きたいのですが、直ぐの発車でした。

№14号機+№10号機の重連! インターネットや写真集からも見た事がありません。走行写真を是非とも、撮りたかったです。

14:30、定刻に発車。それならと、ハイビジョンムービーカメラを取り出して、身を乗り出しての動画撮影を始めましたが、用意しておいたサングラスと、マスクを車に忘れてきましたので、石炭ガラの細かい燃えカスが、飛んできて目に入ってしまいました。簡単に取れません。瞬きする度に痛みが出ます。今回も、初めから、アクシデント発生です。いつも、ドジばかりで、情けなくなります。

仕方がないので、身を乗り出すのは止めて、手だけを出し、液晶画面を見ながら撮影しました。
出発してから、上り勾配と、山の斜面を切り抜いたS字カーブの連続です。段々畑には、野菜がこれでもかと植えられています。農家も玄関を線路に向けて、線路近くにあります。

架線区間を走行しますが、電柱間には、ロープが張られていて、洗濯物が干してあります。線路横の犬走りは、通行人が大勢歩いています。その都度に、警笛を鳴らし続けて、走りますので、最高です。さすが、平行する道路がなく、この鐡道のみが、沿線住民の足であり、生活道路でもある事を実感できます。

観光列車ですので、ホームのない『幺炭坥站』は、通過しました。第6トンネルを抜けて、30~40km/hで快走しますが、ガタゴトと左右上下振動は激しく、まるで、100km/hで走行しているかのような体感です。

15分後の14:45、広場は、屋根なしの自由市場となった、高層住宅街が突然見え出し、ホーム屋根のある『躍進站』に、停車しました。離合の出来る島式ホームです。躍進站は、石渓站から、4.4km、近くには、大きな炭鉱と、火力発電所があります。

止まっていても良いので、重連列車を撮りに行こうと、降りましたが、直ぐに切り離されて、前方に移動していきました。後部の№10号機のみがホーム反対側車線を戻ってきて、ここで逆行して、ホッパー内へと向かいました。


ホッパー内で、テンダー車への石炭の積み込みを行い、元きた場所へと戻りました。

また重連で走るのかと思いきや、№14号機のみ連結され、№10号機は、ホーム反対側へとバックしてきました。№10号機が、その後石渓站まで回送されたのか、ホッパー内に石炭を満載されていた貨車を牽引したのか、分りませんが、もし後者なら、SL石炭列車が走っている事になります。

14:54№14号機牽引の観光列車が、発車しました。架線区間は、この站を2キロ程までで終わり、段々畑が続く山間の勾配を登って行きます。S字カーブが続く度に警笛が鳴らされ、またこんな所で警笛が鳴るのかと思うと、人やバイクが行き過ぎますが、これは、最終站まで続きました。

15:08、所要時間14分で、スイッチバックの、『蜜蜂岩站』に到着です。観光客は、降りて、機関車が、切り離され、後部に連結される光景に見入っています。

ここで機関車は、一旦、元来た線路に戻って石炭ガラを捨てます。地元住民は、この石炭ガラで、まだ使用できるものを求めて、待ち構え、拾っていました。

SLが戻ってくると待ち構えた観光客が、記念撮影です。まるで、大井川鉄道にいるようです。こんな光景、中国で、見た事ありません。

静かに発車を待つ、観光列車。C2型蒸気機関車は、現在稼動しているのは、わずか3両です。修理は、自社工場で、全てを行っています。いつまでも、頑張って欲しいと、思いました。

『蜜蜂岩站』からのレポートも、まだまだ続きます。

新春から鉄道写真三昧 (6)

仕上げは上越線の貨物で

最後の日は、準特急さんと上越線へ向かった。
上越線の貨物列車は夜間帯の運転が中心であったが、牽引機の運用の効率化のためダイヤを見直し、平成21年3月改正から白昼の貨物列車が復活した。
ただ上越線は関西から行きにくい線区で、特派員も一度も撮影したことはない。そこで、年齢にもめげず、つねに戦闘的に写しまくっておられる準特急さんに教えを乞うた次第だ。撮影地としては、津久田、岩本などの山峡区間が有名ではあるが、アプローチが難しいようなので、平坦区間ながらも好ましいカーブが存在する八木原を選んだ。
朝早くに上野を発ち、準特急さんと合流、車内では積もる話で時間も過ぎてしまう。降り立った八木原は、空っ風が強いものの、きれいに晴れ渡り、西の榛名山、東の赤城山と独特の山容が望める。
貨物列車の牽引は、EF64重連またはEH200で、とくにEH200は初めて写す機種だ。傾斜した前面窓のヨーロッパスタイルのなかなか好ましい機関車である。EF64を写すのもずいぶん久しぶりなことだ。貨物列車は昼間の撮影時間帯に不定期も含めて上下6本が写せる。

EF64重連が力強い唸りを上げて通過して行った

淡雪を載せて上越国境から下ってきたEH200牽引の貨物列車

電車は上越線水上行きだけでなく、吾妻線の電車も通り、たいへん本数が多く効率がいい。185系の特急「水上」「草津」は、新前橋で分割併合するため、約5分間隔で同方向に通過する。普通列車は高崎車両センターの115系、または107系である。115系は全車湘南色のまま。115系はまだまだ多いが、原色で全車残っているのは高崎だけである。
列車が待つ間には、準特急さんから鉄道写真の楽しさを語っていただき、たいへん収穫の多い一日であった。このあと【6132】で紹介された新年会へと向かったが、さすがに喋り疲れたのか、二人はぐっすり眠ったまま、電車は大宮へと向かって行った。

湘南色のまま残る115系も貴重になってきた