2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part5 石渓站→蜜蜂岩站

第4日目 2010年1月1日

①石渓14:30-(観光列車)→15:08蜜蜂岩

13:50芭石鉄道の石渓站に到着しました。既に、乗車予定間際の14:00発車の第3次は、どの車両も満員で、立っている人もたくさんいます。すし詰め状態で、押し込まないと、乗れません。


石渓站の壁にに大きく貼ってあった、花咲く春の芭石鉄道です。こんな写真を見ると、この頃には、また来て見たくなります。

ご覧のとおりの押し込み状態です。これでは、ただ乗るだけで、やっとです。

通訳兼ツアーコンダクターの胡小姐は、今日の運行予定確認に行ってきました。そして、『この列車は、満員なので、30分後に、座れる観光列車が出るので、そっちにしません?』か、聞いてきました。今日は、全線乗車で撮影地視察の予定でしたので、座っていける観光列車にすると、返事しました。この判断は、後々正解でした。

第3次の発車前に、躍進駅から来た小型ELの牽引する、石炭列車がやってきました。その後、小さいくせに大きな汽笛を鳴らして、発車しました。
7両の客車を牽引して、石渓站を出発する第3次。上の写真は、M・K氏撮影。

№9号機の牽引する第3次。後で分ったのですが、テンダー車は、№10と書かれていました。これって、なぜなのでしょうか? 今回は、一応、機関車番号を優先して、記載します。

第3次の発車シーンを撮り終え、ゆっくりとホームを見ると、まだまだ、人がいます。中国人団体観光客も多いようです。世界的には、有名な芭石鉄道ですが、観光列車が運行され、専用客車まであるとは、現地に来るまで知りませんでした。ましてや、中国人が、芭石鉄道に乗りに来る観光ツアーまであるとは、驚きです。

胡小姐の話ですと、連休で観光客も多いので、普段は運行しない観光列車を、今日と明日は、運行する。3日目は、様子を見るが、ダメでも定期列車に観光用車両を連結すると言っていましたが、予定は、限りなく未定に近いのが、この国の常識ですので、毎日確認するように言いました。




観光列車の編成は、№10号機(機関車)+№14(テンダー車)+8+4+2+6の4両編成客車。一般列車とは違って、ベンチ式クロスシートの座席と、窓ガラスが完備されていますが、車内灯は、ありません。



№10号機の運転席にあった運行表です。帰国後に、訳してみましたのが、上の表です。1日2本の観光列車があって、それぞれ運行予定が異なっています。現地で、通訳さんに訳してもらっておれば、効率的に動けたのにと、反省しました。

我々の乗車する車両は、最後部です。展望デッキもあって、これは最高です。発車間際に機関区から、入場厳禁と表示された車庫から、№14号機(機関車)+№9(テンダー車)が、側線を走って来ました。どうしたのかなと、前頭部を見ると、№10号機の前に連結しました。思いもしなかった重連です。前方へ撮りに行きたいのですが、直ぐの発車でした。

№14号機+№10号機の重連! インターネットや写真集からも見た事がありません。走行写真を是非とも、撮りたかったです。

14:30、定刻に発車。それならと、ハイビジョンムービーカメラを取り出して、身を乗り出しての動画撮影を始めましたが、用意しておいたサングラスと、マスクを車に忘れてきましたので、石炭ガラの細かい燃えカスが、飛んできて目に入ってしまいました。簡単に取れません。瞬きする度に痛みが出ます。今回も、初めから、アクシデント発生です。いつも、ドジばかりで、情けなくなります。

仕方がないので、身を乗り出すのは止めて、手だけを出し、液晶画面を見ながら撮影しました。
出発してから、上り勾配と、山の斜面を切り抜いたS字カーブの連続です。段々畑には、野菜がこれでもかと植えられています。農家も玄関を線路に向けて、線路近くにあります。

架線区間を走行しますが、電柱間には、ロープが張られていて、洗濯物が干してあります。線路横の犬走りは、通行人が大勢歩いています。その都度に、警笛を鳴らし続けて、走りますので、最高です。さすが、平行する道路がなく、この鐡道のみが、沿線住民の足であり、生活道路でもある事を実感できます。

観光列車ですので、ホームのない『幺炭坥站』は、通過しました。第6トンネルを抜けて、30~40km/hで快走しますが、ガタゴトと左右上下振動は激しく、まるで、100km/hで走行しているかのような体感です。

15分後の14:45、広場は、屋根なしの自由市場となった、高層住宅街が突然見え出し、ホーム屋根のある『躍進站』に、停車しました。離合の出来る島式ホームです。躍進站は、石渓站から、4.4km、近くには、大きな炭鉱と、火力発電所があります。

止まっていても良いので、重連列車を撮りに行こうと、降りましたが、直ぐに切り離されて、前方に移動していきました。後部の№10号機のみがホーム反対側車線を戻ってきて、ここで逆行して、ホッパー内へと向かいました。


ホッパー内で、テンダー車への石炭の積み込みを行い、元きた場所へと戻りました。

また重連で走るのかと思いきや、№14号機のみ連結され、№10号機は、ホーム反対側へとバックしてきました。№10号機が、その後石渓站まで回送されたのか、ホッパー内に石炭を満載されていた貨車を牽引したのか、分りませんが、もし後者なら、SL石炭列車が走っている事になります。

14:54№14号機牽引の観光列車が、発車しました。架線区間は、この站を2キロ程までで終わり、段々畑が続く山間の勾配を登って行きます。S字カーブが続く度に警笛が鳴らされ、またこんな所で警笛が鳴るのかと思うと、人やバイクが行き過ぎますが、これは、最終站まで続きました。

15:08、所要時間14分で、スイッチバックの、『蜜蜂岩站』に到着です。観光客は、降りて、機関車が、切り離され、後部に連結される光景に見入っています。

ここで機関車は、一旦、元来た線路に戻って石炭ガラを捨てます。地元住民は、この石炭ガラで、まだ使用できるものを求めて、待ち構え、拾っていました。

SLが戻ってくると待ち構えた観光客が、記念撮影です。まるで、大井川鉄道にいるようです。こんな光景、中国で、見た事ありません。

静かに発車を待つ、観光列車。C2型蒸気機関車は、現在稼動しているのは、わずか3両です。修理は、自社工場で、全てを行っています。いつまでも、頑張って欲しいと、思いました。

『蜜蜂岩站』からのレポートも、まだまだ続きます。 Part6 へ続く

新春から鉄道写真三昧 (6)

仕上げは上越線の貨物で

最後の日は、準特急さんと上越線へ向かった。
上越線の貨物列車は夜間帯の運転が中心であったが、牽引機の運用の効率化のためダイヤを見直し、平成21年3月改正から白昼の貨物列車が復活した。
ただ上越線は関西から行きにくい線区で、特派員も一度も撮影したことはない。そこで、年齢にもめげず、つねに戦闘的に写しまくっておられる準特急さんに教えを乞うた次第だ。撮影地としては、津久田、岩本などの山峡区間が有名ではあるが、アプローチが難しいようなので、平坦区間ながらも好ましいカーブが存在する八木原を選んだ。
朝早くに上野を発ち、準特急さんと合流、車内では積もる話で時間も過ぎてしまう。降り立った八木原は、空っ風が強いものの、きれいに晴れ渡り、西の榛名山、東の赤城山と独特の山容が望める。
貨物列車の牽引は、EF64重連またはEH200で、とくにEH200は初めて写す機種だ。傾斜した前面窓のヨーロッパスタイルのなかなか好ましい機関車である。EF64を写すのもずいぶん久しぶりなことだ。貨物列車は昼間の撮影時間帯に不定期も含めて上下6本が写せる。

EF64重連が力強い唸りを上げて通過して行った

淡雪を載せて上越国境から下ってきたEH200牽引の貨物列車

電車は上越線水上行きだけでなく、吾妻線の電車も通り、たいへん本数が多く効率がいい。185系の特急「水上」「草津」は、新前橋で分割併合するため、約5分間隔で同方向に通過する。普通列車は高崎車両センターの115系、または107系である。115系は全車湘南色のまま。115系はまだまだ多いが、原色で全車残っているのは高崎だけである。
列車が待つ間には、準特急さんから鉄道写真の楽しさを語っていただき、たいへん収穫の多い一日であった。このあと【6132】で紹介された新年会へと向かったが、さすがに喋り疲れたのか、二人はぐっすり眠ったまま、電車は大宮へと向かって行った。

湘南色のまま残る115系も貴重になってきた

新春から鉄道写真三昧 (5)

消えゆくボンネットを夜間撮影

今年3月のJRダイヤ改正でいちばんのショックは489系「能登」の廃止だ。以前から廃止は噂されていたものの、ついに来るものが来たという感じだ。昭和33年の「こだま」デビュー以来、国鉄のシンボルでもあったボンネット型特急車両の定期運用がついに消える。
東京へ行くたびに「能登」は意識していたが、時間帯が早朝、夜間とあって、なかなか思い通りには撮れない。ただ「能登」にこだわりがなければ、夜間の間合い運用で、上野発着のホームライナー2往復が「能登」編成で運転されており、数は稼げる。カメラの高感度撮影のテストも兼ねて、流し撮りをすることにした。
撮影地は、上野にも近く立ち寄りしやすい鶯谷に決めた。ホームの横には、猥雑なネオンが不夜城のごとくに輝いている。これをバックにシルエットで流し撮りという目論みである。線路が多くてどこを通過するかよく分からないが、上野駅の入線が地上ホームか地平ホームかで判断する。

鶯谷駅南口の陸橋からホームライナー回送を流し撮り

 

極彩色のネオンをバックに鶯谷を通過する「ホームライナー古河3号」

陸橋から、ホームから、ボンネットを狙ってみるが、どちらも斜め上から流し撮りのため、ピントが合うのは一点だけになる。それを車両の先端部に持ってくるのは、運次第、至難の流し撮りだ。
このあとに催された新年会で、同席されたI伏さんにお聞きすると、氏は上野にある会社に出勤する前に、鶯谷で上りの夜行群を撮られ、それから出勤されるのを日課とされているそうだ。
感度はISO3200でもほとんどノイズは感じられなかった。やはり、これはデジカメの大きなアドバンテージである。ただ写すときに限って手前の京浜東北線の電車とカブってしまう。結局本番の「能登」の時はアウトだった。寒風に吹かれて、肩を落として深夜の鶯谷を離れたのであった。

電車史の歴史を飾ってきたボンネット型特急車の定期運用がついに消える

 

 

2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part4 成都→石渓站

昨夜、相棒は、ホテルに戻るとホテルマンを捕まえて、得意の英語で、『メタセコイア』の事を聞いていますが、誰も知っていません。植物園にも行きたいようで、尋ねましたら、郊外にあって、タクシーでも約40分はかかると言われました。滞在日程からして行くのは、無理です。

申し遅れましたが、相棒のM・T君は、某女子高校の先生を続けていて、毎年オーストラリアから来る、交換留学生が滞在する6ケ月間の間、直接の担当者ではないが、観光に連れて行ったりして、生の英語を学んでいるそうです。北京科学植物研究所でも、英語が堪能なエリート研究生との会話をしたのも彼です

第4日目 2010年1月1日
成都のホテル8:30→11:15楽山市12:10→14:00芭石鉄道石渓站 
 6:30

新年の朝を迎えましたが、中国では旧正月(2010年は、2月14日)を新年としているので、何の催しも行われません。ホテル内も、クリスマスの飾りつけが残っています。ただ、ホテルマンは、外国人客に向けては、『happy new year』と、声をかけてくれました。     品数豊富な朝食バイキングを食べてから、荷物をまとめ直して、案内人を待ちました。今回は、初めての芭石鉄道訪問です。海外旅行初めての相棒もいますので、いつものように、一人、バスに乗り継いで、分らぬ土地を行くのは、冒険でもあります。高くつきますが、地元旅行社の、芭石鉄道ツアーを申し込んでおきました。

8:30、約束の時間にロビーに行くと、若干25歳、成都の大学で日本語を学んで、日本語検定1級の資格を持つ、四川美人の胡小姐が待っていました。旅行社が用意した車は、8人乗りの大型ワゴン車、これなら楽です。

直ぐに、約136km先の楽山市(乐山市)に向けて発車です。2010年4月開業に向けての地鉄建設中で、通行規制が多く、迂回しながら混みあう街を出て、成楽高速公路に入りましたが、3日間の連休で、世界遺産となった楽山大仏や峨眉山へと向かう観光客の車も多く、そして濃霧です。50~100m先しか見えず、最徐行を強いられました。楽山インターチェンジ出口も閉鎖されていて、ここも先まで行っての迂回です。

四川盆地は、山々に囲まれているので、この時期は、霧発生が多いとの説明を、胡小姐から聞きました。多難を思わせるスタートです。車内で。胡小姐と4日間の行程の確認と、芭石鉄道の時刻表を受け取りました。

11:15、予定を大幅に遅れての楽山市に到着でした。普段ですと、約2時間で着くそうです。楽山市は、人口133万人、青衣江、岷江、大渡河の合流点にあるところから、成都市、重慶市などの主要都市につながる水陸交通の要衝として栄えています。合流した川は、ここからは、大渡河となり、長江に注いでいます。
▲ ご飯は、桶に入れて、約40分間蒸します。しかし、ほっくらとした銀シャリではなく、パサパサでした。

楽山市での運転手を入れての、4人分の昼食の総菜です。左上から、川魚と豆腐の煮込み、トマト、野菜と溶き卵のスープ、左下から野菜炒め、ソーセージ、きゅうりとおぼろ豆腐のスープです。これで、291元=4.074円。旅行社の案内する餐馆(レストラン)です。高めは、仕方ありません。

芭石鉄道の始発駅石渓までは、途中で適当な食事場所がないので、ここで昼食タイムです。名物は、ナマズ料理との事で、生簀で品定めをしましたが、60cm級で、測ってもらうと、約4.500円と言われ、パスして、庶民的な川魚にしました。


12:10、霧で川面も見えない岷江大橋を渡り、石渓への約55kmの1本道を大渡河に沿って、向かいます。片側1車線の舗装道路ですが、整備が悪く、所々陥没までしていますので、快走は出来ません。対岸の石渓に渡るフェリーは、1~3日の間、休航でまたまた迂回しました。

13:50芭石鉄道の石渓站に到着しました。成都から、約188km、途中、迂回を余儀なくされましたので、実際は、約200km、昼食等の休憩を入れて、約5時間半の行程でした。日本から3日間と半日、本当に、ようやくたどり着いたとの感が、ありました。

石渓站前の坂道を駆け上がっていくと、そこには、発展リニューアルを続ける中国鐡路站とは、違っての芭石鉄道沿線の生活感溢れる光景が、広がっていました。
Part5 へ続く

新春から鉄道写真三昧 (4)

京成“青電”を撮る

続いて京成電鉄を訪れた。同社では創立百周年を記念したリバイバルカラーの3300形を走らせている。“青電”“赤電”“ファイアーオレンジ”の4両編成3本だが、他車と共通運用のため、どこに入るかは運次第。そこは、クローバー会のありがたいところ、F本さんに尋ねるとすぐに的確なアドバイスが返ってきた。

それによると、金町線に入る確立が最も高いという。果たして高砂駅に降り立つと、4番ホームに発車待ちの金町行きが待望の“青電”であった。3300形のラスト編成モハ3353~モハ3356で、このダークグリーンとライトグリーンの塗色は、“赤電”とともに昭和55年に消滅している。

この電車に乗って初めて柴又駅に降りた。正月明けにも関わらず、帝釈天の参拝客で駅周辺は一杯。柴又から単線になった線路端で、バスツアーの客と雑談を交わすうちに、すぐに戻りの“青電”がやって来た。日中は20分ヘッドである。柴又~金町間の中間付近は道路と並行し、サイド気味に撮ることも可能だが、晴れるとどうしてもビル影ができてしまうので、曇天がお勧めだ。

金町線を行く京成リバイバルカラーの3300形

京成の案内所に聞くと、その他のリバイバルカラー2編成は夜間のみの運行とのことで、金町まで撮ったあとは高砂へ戻る。ホームに着くと本線の複々線区間を行く電車を夕陽が染め上げている。あわてて、3・4番ホームの端へ行って写しまくる。この高砂~青砥間、複々線になっており、乗り入れる車両は京成、都営、北総、芝山、千葉NT、京急と6社にも上がり、多種多様な車両、複雑怪奇な運行には、傍目からはほとんど理解できない。これに金町線の発着、車庫への入出庫も加わって、よく上下2面4線で回しているものと感心しきりである。この区間、中川を渡るため、区間の中央部が凸部になっており、望遠レンズで見る編成は写欲を沸かせる。

京成では今年7月の成田スカイアクセス(成田新高速鉄道)の開業を控え、新型スカイライナーがデビューし、現行のスカイライナーにも変化があることだろう。斜光線に側面を照らされて、その特徴ある鋭角の前部を強調していた。 

夕陽を浴びて交換する京成3500形と千葉ニュータウン鉄道9000形

高砂駅を通過する下りスカイライナー

 

 

号外! JR西日本車両カラーの一新!

『冬の芭石鉄道へ』の投稿を編集しながら、一息ついたので、朝日新聞の夕刊を見ていましたら、驚くべき記事が掲載されていました。2010年4月から、順次にJR西日本車両の車体色が、変わります。ホームぺージのトップページは、話題の最新ニュースを投稿していただいておられますが、こうなると、大変でしょうね。
私も、『冬の芭石鉄道へ』の投稿が終わり次第に、『ぶんしゅう7号』を相棒に、撮りまくりの旅に、出なければいけなくなりました。

2009年 冬の芭石鉄道へ Part3 北京西站→成都T7次 その2

第3日目 2009年12月31日

北京西站16:49-(T7次)→18:39成都


7:15
、心地良い、走行振動に熟睡した朝を迎えました。T7次は、北京西站から京广線を南下し、河南省の省都の鄭州北站からは、隴海線を圣由して、乌鲁木齐(ウルムチ)、拉萨(ラサ)方面へ向かう線区との分岐駅の宝鳰站に、15分遅れで、到着していました。外は、遅い夜明けを迎えようとしています。中国国内には、時差はありませんが、実質的には、東北地方(旧;満州)と比べると、1時間以上は、日の出、日の入りが、遅いようです。

宝鳰から成都までは、1956年に開業した宝成線を走ります。直ぐに険しい山間路線となり、大小いくつものトンネルを抜けて、川に沿って、速度も40~70km/hで、ゆっくりと、右へ左へのカーブを走行します。人家が見えると、駅があります。単線ですので、全ての站で、客車や貨物列車の交換がありました。 続きを読む

新春から鉄道写真三昧 (3)

スカ色113系を撮る

1月4日からは東京方面へ向かった。掲示板【6132】に記載された関東支部の新年会と、出版社での打合せが主目的だったが、もちろん撮影計画も織り込み済みだった。

最初に向かったのは千葉方面。まず総武線で「成田エクスプレス」を撮る。昨年10月から新車両のE259系が投入され、現行の253系はNEXの26往復中16往復にまでに減ってしまった。しょっちゅう見る電車ほど、意外とキッチリした記録が出来ていない。駅撮りながらも、いい光線状態で記録しておきたい。

数を減らした253系。12両編成が疾走するのはなかなかの迫力(小岩)

 そして、いちばん気掛かりなのは、209系2000番代車と置き換えが始まった房総地区の113系の行方である。スカ色に塗られた113系は、近郊形電車のなかではいちばん好きな塗色だ。

以前は、文字通り横須賀線でしか見られないカラーで、この色を見ると、東京へ来たという実感が沸いた。昭和45年の万博のとき、大船電車区から113系が応援に来て、臨時「万博号」として活躍したときは、関西でもスカ色が見られて嬉しかったなぁ。 

E233系の投入で京浜東北線から捻出された209系を大規模改造して生まれた209系2000番代車は、昨年10月より幕張車両センターに配属されて、113系を置き換え始めた。クハの車内はクロスシートに改造されている。

現在では分割併合を伴わない8両または10両固定の運用に限定使用されており、4両、6両編成の場合は、まだ113系。西千葉駅で2時間ばかり観察していると、約2/3が113系、残り1/3程度が209系といったところ。しかし、JR東のすべての総合車両センターで改造工事が進行中で、房総地区の113系、211系を置き換えるのも時間の問題であろう。

この本千葉駅、やや逆光気味ではあるが島式ホームから編成全体がうまく纏められる。内房線、外房線とも撮れるので本数も稼げる。駅の時刻表には編成両数も記載されており、113系を特定することもできるので便利だ。

まだ主力として活躍するものの終末が見えてきた房総の113系(本千葉)

113系に代わって活躍を始めた209系2000番代。車内外が大幅に改造されている(本千葉)

2009年 冬の芭石鉄道へ Part2 北京西站→成都T7次 その1

遅れましたが、新年おめでとうございます。皆様方は、どのようにお過ごしでしたでしょうか。

私は、同じDRFC-OBのM・T君と一緒に、年末から大地に入り、念願だったナローゲージでSLの走る、四川省の芭石鉄道に行ってきました。芭石鉄道は、中国鐡路とは、直結されていなく、省都成都からも、約4時間以上もかかる、独立した鐡路で、簡単にいける所ではありません。今回の旅も、いつもと同様に、ハプニングと出会いの連続でした。

今年も、身体が動ける限り、国内・海外の鉄道を訪ねて、第2の青春を謳歌するつもりです。その都度、ご報告をさせていただきますので、よろしくお願い申し上げます。

第2日目 2009年12月30日

① 永安里-(1号線)→苹果园-(Taxi)→北京植物園
② 北京植物園-(Taxi)→北宫门(4号線)→西単-(1号線)→永安里
③ 永安里-(Taxi)→北京西站
④ 北京西16:49-(T7次)→翌日18:39成都

昨日、チェックイン後、両替をして、フロントの日本人のご好意で、立替払いをしていただいた、成都への特快T7列車の寝台切符を、受け取りました。普通は、こうはいきませんので、感謝、感謝です。

北京西站発車は、16:49です。充分に時間があります。M・T君に、故宮、万里の長城、天壇公園等々、北京の観光地をあげて聞きましたら、意外や、植物が好きなので、植物園に行きたいと言います。植物園は、市内中心部から、北西へ約20数キロ、新緑や紅葉で有名な『香山』の麓にあります。

久しぶりに1号線の終点、苹果园站にも行って見たいので、案内することにしました。苹果园站は、客扱いでは、終点ですが、Part1の北京地鉄路線図でもお分かりのように、実際は、まだ先に工務員専用の3駅があります。しかし、その詳細は、公表されていなく、なぞとなっています。
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新春から鉄道写真三昧 (2)

初詣は阪堺電車で

初詣風景と電車の取り合わせができるところと言えば、関西では阪堺電軌の住吉鳥居前ぐらいになってしまった。かつては、京都市内でも祇園や四条京阪などがあり、正月になると足繁く通ったものだ。
折りしも阪堺にはグリーン・クリームの竣工時の塗色に復元されたモ501形が走り出した。特派員は、正月の住吉大社は初めてのことだが、電車好きの乙訓の老人は毎年住吉詣でを繰り返したと聞く。しかし、今年は孫の世話で忙しく、電車どころではなかったらしい。
南海本線住吉大社駅から続く参道は人で埋め尽くされていた。阪堺電車も大増発で、最近新設された、天王寺駅前から浜寺駅前への直通系統もひっきりなしに来る大輸送。降車、乗車を分け、自動車を締め出した臨時安全地帯から降りた客は住吉大社の太鼓橋へ向かっていく。非冷房車で冬季限定となったモ161形も、大形の車体を買われての大活躍。
堺市内中心部のLRT計画が持ち上がり、阪堺と一元化する計画が進展して阪堺にも一時は光明が射し込んだかに見えたが、LRT計画中止を唱えた新市長が当選したことにより、計画も頓挫してしまった。正月だけとはいえ、悲観的な将来を吹き飛ばすような繁盛ぶりに心強く感じたものだった。、

次々に来る電車。路面電車全盛時代を思い起こさせる

デビュー当時の塗装に戻されたモ501形、504、505が年末から走る

最古の現役路面電車、モ161形も大活躍

南海住吉大社駅から人波をかき分けるように進む阪堺電車が望める

新春から鉄道写真三昧 (1)

掲示板読者の皆さまも、良き新年をお迎えになったことと思います。

当特派員も昨秋、念願のリタイヤを果たし、鉄道版“晴耕雨読”の毎日を送っておりますが、年も改まり、思いを新たにしています。

届いた年賀状には、鉄道写真の楽しさを説く年賀状が多く見られました。私も同感です。この歳になると、自分の足で鉄道撮影に行ける健康の有り難さも痛感します。戦闘的な撮影は望むべくもありませんが、自分のペースで写真を撮り続けたいと念願しております。

 

阪急6300 最後の正月

新年の撮り始めは、いちばん手近な阪急京都線へ出かけてみる。

摂津市駅開業に伴い、京都線では3月14日からダイヤ改正が実施される。増備を続けてきた9300系が全編成揃うことから、同時に6300系特急車が全廃されることもアナウンスされている。

現在、営業に就いているのは6350Fの1編成のみとなり、年末年始の12月27日から1月7日までは「初詣」のヘッドマークを付けて走った。おそらくヘッドマーク付きで走るのはこれで最後かと思い、近くで狙ってみた。

趣味の対象というより、日常の足として利用してきた6300系も、本線特急から見られなくなると思うと、さすがに愛惜の念が湧いてくる。いかにも電車の顔をした、端正なスタイルは、やはり6300系ならではだ。

寅年の「初詣」ヘッドマークを付けて最後の正月輸送に励む6350F

駅のホームで何気に眺めていた6300もまもなく過去のシーンになる

6300系を初めて写したのは、車庫に搬入されたばかりの昭和50年6月、当会の車両見学会が正雀車庫であり、当時OBだった私も参加させてもらった。車両は奇しくも最後まで残った6350F編成だった。オール転換クロスシート、車端に寄った2扉、初めての2色塗装、そしてステンレス帯を配した前部スタイル、すべてが新鮮で、大宮~十三無停車の京都線の特急にふさわしいステータス車だった。

デビュー当時、このような結末を誰が予測しただろうか。車齢35年での予想外に早い引退は、すなわち京都線を取り巻く環境の変化でもあろう。10分おきに6300系が通り過ぎたのは、ほんの数年前だった。時代の変化を感じずにはいられない。

デビュー当時の6350 現在とは白帯の塗り分けが異なっている 見学会では当会OBの阪急社員お二人に案内してもらった

2009年 冬の芭石鉄道へ Part1 旅立ち

第1日目 2009年12月29日

長岡京 7:00-(快速)→7:27 大阪/
梅田 7:34(地下鉄)→7:43 なんば 8:00(ラピート)→8:39 関西空港  10:25(JL785)→12:50 北京空港 14:00-(机場快軌)→三元橋北京地鉄10号線)→国貿→15:00 ホテル

ホテル→永安里(1号線)-西単(4号線)→北京南站 17:40(京津城際鐡路C2067次)→18:10天津21:00-(C 2090次)→21:30北京南站→西単→永安里→22:30 京倫飯店

北京空港からは、広州地鉄(川崎重工社の技術供与)に続き、中国地鉄2番目となった鉄輪式リニアモーターカー(ボンバルディア社の技術供与)の机場快軌(総延長28.1km)に乗車して、三元橋站で、10号線に乗換え、ホテル近くの国貿站まで行きました。

私が、頻繁に訪中を重ねた10年前は、2路線総延長42.6kmだった北京地鉄ですが、2009年末では、総延長227.2kmまでになりました。5年後には、561kmになる予定です。経済成長も、年10%を越える勢いで発展を遂げている中国ですが、地鉄も脅威の延伸を成し遂げています。

開業当時の天津站 CRH2-300のオンパレードでした。

現在の天津站 CRH3のみの、運用となりました。

北京南站からは、2008年8月開業した、中国鐡路初めての新幹線、京津城際鐡路乗車を案内して、天津に向かいました。開業当初は、殆どの列車は、JR東日本等から技術供与された『はやて』CRH2-300が、最高速度350km/hで、走行していましたが、契約上のトラブルにより、日本側からクレームが入り、もう、1編成も走っていません。

天津到着後は、夕闇の中でしたが、ライトアップされて綺麗になった、かつての租界街を案内し、天津名物の肉饅頭を食して、深夜、北京に戻りました。
  Part2
 へ続く

【レポート】関東地区の新年会

本年も宜しく@ロギング太郎です。
 
一昨日、関西から佐竹様ご夫妻と、福田さんが東京へ来られたので、関東在住のOB6名が集まり総勢9名で新年会を開催しました。
(宴会後の記念撮影)

 

本当に時間を忘れる程の盛り上がりでした。

記念写真は例によって肖像権の尊重を図っておりますが、今年は寅年に因み警戒色柄の特製標識に仕立ててみました。
しかし「どうしても○○さんの素顔を見たい」と仰る奇特な方は、小生宛に個人メールください。厳重包装のうえ密送します。 (^^;)
今後も東京へ来られる方が居らっしゃいましたら、事前に早川さん、西尾さん、永田さん、小生などに日時をご連絡頂けば、歓迎会の案内を関東在住者へメール同報して通知します。
老若男女が気軽に入れ、しかも料金はリーズナブルなお店もあります。
もちろん「稿料が入ったから今夜は儂に任せろ」てな太っ腹ご提案も大歓迎でございます。 m(_ _;)m
 

鉄道廃止この10年で6百キロ超

 「東京―新大阪」上回る

共同通信ニュースより

 2000年度から10年間に全国で廃止された鉄道は一部廃止を含め、30路線で計約635キロに上ることが5日、国土交通省のまとめで分かった。大半はローカル線で、東海道新幹線東京―新大阪間を上回る鉄道が消えた計算。乗客減による赤字が原因で、政府の高速道路無料化が実現すれば、廃止がさらに増える可能性もある。

 過疎化に加え、燃料費高騰や車両・施設の老朽化で地方の鉄道会社の経営は悪化。00年3月、地元合意なしに廃止できる規制緩和がされ「ハードルが下がった」(国交省)ことも一因とみられる。「足」を失い暮らしに影響が出る地域への対策も大きな課題だ。

 廃止された鉄道や路面電車30路線(貨物路線を除く)のうち6路線は、旧国鉄再建のためバスに切り替え対象となった路線を第三セクターなどで継承した。神岡鉄道(岐阜、富山)や三木鉄道(兵庫)などで、廃止距離は全体の約半分を占め、維持の難しさを示した。

 廃止距離の最長は、北海道ちほく高原鉄道(140キロ)。

新年のご挨拶

クローバー会の皆様、明けましておめでとうございます。

現役の身ですので遠出はできませんが、「ご近所鉄」で近場のニュース等を書き込みしたいと思います。今年もよろしくお願いします。

Tsurukame先輩は西暦でしたので私は平成の年号にしました。

 

ここからはオマケです。