静岡鉄道近況(2021年末)

ご無沙汰しております。先日のクローバー会撮影会では大変お世話になりました。久しぶりに多くの方々とお話ができ楽しい時間を過ごせました。ありがとうございました。
今年の秋から、転職で再び関東に引っ越しました。気が付けば静岡→京都→埼玉→神奈川→静岡→東京と転属(?)を繰り返しておりましたが、そろそろ落ち着きそうです。
静岡では3年半ほど暮らしていました。陸送撮影に引退車両の追っかけと撮り鉄としてはイベントが盛りだくさんでした。
そして家から最も近かった静岡鉄道は新車導入ラッシュ。昨今の情勢と相まって、3年ほどで姿が大きく変わりました。
私自身の備忘録も兼ねて簡単にまとめさせていただきました。

ピンク色同士の離合、1011FとA3007F

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 五十年前に見た 当たり前の風景  -4-

二条駅を偲ぶ(1)二条駅の北にある旧二条通の踏切から、駅構内に入って、発車する下り列車を撮ることができた。列車は、日曜日の夕方17時10分発の1827レ、日曜日に運休する列車の牽引機を、翌日月曜日に使用のため、次位に回送として連結して、重連で二条を発車するところ、先頭は、梅小路C57のなかで、絶対的な人気のC57 5、次位は煙で隠れてしまった。右手に広い貨物ヤードが広がっていて、ガスタンクも見えていた。左手にも引込線があり、ここは自動車の貨車輸送の積み卸し場で、「ク」が停車している(昭和46年1月)。

山陰本線ほど変貌を遂げた線区も珍しいと思います。50年前は非電化単線、一時間に一本程度、旧型客車やDCが侘しく走っていたものが、今や、複線電化、15分ヘッドで電車が走る、都市近郊路線になりました。前回の馬堀付近も新線、駅移転とすっかり変わりましたが、今回の二条駅周辺も、高架化、付近も再開発されて、劇的に変わったところです。馬堀へ行くにも、市内に住んでいた当時は、二条駅で乗り降りしたもので馴染み深い駅でした。時には、学校を終えて(サボって)、1系統の市電に乗って二条駅まで行ったこともありました。明治37年建築、和風の駅舎も風情がありましたが、ここでは、手軽な撮影地としての二条駅を見てみました。 続きを読む

 五十年前に見た 当たり前の風景  -3-


山陰本線のDL(2)

当時走っていた山陰本線のもうひとつのDL、DF50に参ります。当会にも、DF50信奉者がおられ、当欄でも拝見しています。私もDLのなかでは、いちばん好きというか、もっとも親近感を感じたDLでした。50年の前のもっと前、海水浴行きなどで山陰本線を利用すると、先頭が蒸機でなく、DF50だと、快適な旅が約束されて、ホッとしたものです。当時はまだ茶色の旧色の時代、ドドドッというエンジン音を聞きながら、紫煙の匂いを嗅ぎながら、五感で鉄道が近代化へ向かって行くのを感じたものでした。嵯峨野の竹林を抜けて1826レ DF50 559 (昭和46年4月)

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 嵐山で ひととき鉄気分

割り込み失礼します。冬の京都の誘客策として、各地域で行われた夜間のライトアップ事業ですが、一定の効果があったとして、今年限りでの終了がアナウンスされています。このなかで、17年の歴史を持つ「京都嵐山花灯路」も幕を下ろすことになり、去る12月10日から行われています。観光客相手のイベントには、ほとんど関心が無かったのですが、“今年で終わり”の声には勝てず、とうとう見届けに行ってきました。それを後押ししたのは、京都市民になって手に入れた待望の敬老乗車証、コレを使うと、乗り換えなしの一系統で現地まで到着できる、スグレモノです。ほんとに便利になったものです。さて、点灯開始の頃に着くと、渡月橋付近は多くの人で賑わっています。背後の山までライトアップされて、これはこれで、なかなかのモンです。しかし、ここでも“鉄”の血が騒ぎます。ここから、ちょっと横道に入ってみますと‥。

嵐電嵐山駅は、常設の電照ポール「光の林」があって、ここも見物客でにぎわっている。東側の踏切前から発車前の嵐電を。

▲▲山陰本線の野々宮踏切へ行くと、ラッシュ時の複線に、上下の特急、普通が来て、4本待ちとなった。見物客の列がたちまちできる。開くまでの間、名残の紅葉を入れて‥。

 五十年前に見た 当たり前の風景  -2-

山陰本線のDL(1)

ギラリのDD54 2が862レを牽いて馬堀の築堤を行く。DD54一次車特有の特徴あるフォルムが浮かび上がる。50年前の山陰本線のDLは、あのDD51は、まだ一両も入線しておらず、DD54、DF50という、今も関心の高い両機が、旅客、貨物の牽引を担っていた(写真は昭和46年1~4月撮影)。

今から50年前の昭和46年には、京都周辺の鉄道で、二つの大きな出来事がありました。ひとつは、北丹鉄道(福知山~河守)の休止(のちに廃止)であり、もうひとつは山陰本線京都~園部を走っていた、梅小路区のC57の廃止、DL置き換えです。いずれも、DRFCでは、行事を行って見送りをしています。当時の山陰本線の客車列車・貨物列車は、蒸機牽引のC57より、DD54・DF50のDLが多かったものの、どしても眼はC57に向いていました。DLは撮っていたものの、顧みることはほとんどありませんでした。そこで、当時の山陰本線の“当たり前”だった、DLの牽くシーンをまず見てもらいます。

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スモールイベント「名松線乗り鉄」の報告

 12月12日(日)の「名松線乗り鉄」には、12名の参加をいただき、ありがとうございました。当日はお天気も良く、途中「家城駅」での列車交換・通票交換の撮影、終点「伊勢奥津駅」では給水塔等の撮影も、順調に出来たことと思います。また機会あれば「乗り鉄」の計画を立てたいと思いますので、ご参加のほどお願いいたします。

 五十年前に見た 当たり前の風景  -1-

日常を記録する

しばらく途絶えていましたが、また自身の記録に戻ります。京都市伏見区の深草が、旧深草町誕生百年を記念して、伏見区役所深草支所、龍谷大学、地域の文化団体が中心になって、多くの記念事業を展開しています。私は、深草には何の縁もない、一介の市民に過ぎませんが、できる範囲の協力をしてきました。テーマは「未来へ紡ぐ深草の記憶」。地域の暮らし・文化は、身近であるがゆえに、みんなで語り継ぎ、継承しなければ、その良さや重要性に気づくことなく失われてしまいます。地域の文化・歴史を共有して、未来を創造することが大事であるとの考えのもと、地域の暮らし・文化にまつわる写真・資料を収集、デジタル化して、地域で共有する取り組みです。文化庁の地域総合活用推進事業にも認定され、私もその趣旨に賛同して昨年から協力してきました。

深草の地域を東西に横断していたのが市電稲荷線で、50年前、昭和45年に廃止された。現在の同一地点から見ると、左の稲荷山は、マンションに囲まれて、頂上付近しか見えず、中央でひときわ目立っていた伏見稲荷の儀式殿(結婚式場)は、現在でもあるものの、老朽化して、すっかり色褪せして、地味~な存在になっていることを、ワークショップに来場していただいた市民の皆さんに見ていただいた。

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 「わが“やましな”の記憶」 あれこれ話 -Ⅶ-

貨物を牽いたD52・D62

大カーブを終えて、直線で山科駅に向かうところに、三条通(当時、国道1号)を越すガーダー橋があり、アクセントとなっていた。眼前をゆっくりとD52 203の牽く貨物が通り過ぎる。戦後の荒廃も癒えて、貨物機と言えど、美しく整備されていた。よく見ると、同機にも集煙装置が取り付けられていることが分かる。

佐竹さんに好きな蒸機は? と聞くと、意外にも「D52です」と返事があったことは、準特急さんからの投稿からも伺えます。今回の写真展で、その気持ちが理解できたような気がします。昭和30年代の山科の主役は、C62・C59でもなく、貨物を牽いていたD52・D62であったこと、その当時に撮影した人間でしか分からない実感だったと思います。なにせ、戦後、高度成長の端緒に付いた時代、鉄道の貨物量は、現在とは比較もできないぐらい膨大なものでした。資料を見ますと、昭和31年の鉄道の貨物輸送量は約18,000万トン、現在では4,000~4,500万トンですから、ざっと4倍の貨物量があったわけで、とくに、天下の東海道本線には貨物が集中していたのでしょう。

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D52追加!

米手作市さん !  戦時設計もう1枚。1964(昭和39)年4月1日、小雨降る小郡付近を行く上り貨物列車牽引の給水温め器付きD52456[小郡]です。▼

1964(昭和39)年4月3日、糸崎駅を出発するD52348[広島]牽引の下り貨物列車。改造された姿であるがシールドビームの前照灯がD52の巨体に似合わない。三原在住の西村さんやその後糸崎を訪問された方の情報では現在の糸崎駅界隈は機関区があった頃の雰囲気はないという。▼

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D52戦時設計

山科のC6242集煙装置付きから話題が徘徊していますが米手作市さんが戦時設計スタイルのD52417を発表されました。本来はコメントで反応すべきですがまだまだ渋滞しているようですので、私の撮りました「Ⅾ52戦時設計」を新たに項目を起こして掲載しました。文章でぐたぐた説明よりも写真の方が早いと思ったからです。

 

かつてデジ青に投稿したことがありますが、横から見た走行中のD52460です。所属は柳井区です。この機関車は給水温め器は付いています。1963(昭和38)年3月27日下関駅での上り方向の貨物牽引です。

 

同じ横からですが、小郡区所属のD52126です。こちらは給水温め器がありません。1964(昭和39)年4月1日小郡区での撮影です。 続きを読む

 「わが“やましな”の記憶」 あれこれ話 -Ⅵ-

集煙装置を付けたC62

上り「はと」を牽くC62 42 向こうに山科駅が見える(昭和30年5月)。

「これは初めて見ました」と、撮られた佐竹さん自身もまだ気づいておられなかった写真も数点展示しました。上掲の写真もそうです。撮影場所は、山科駅の少し東、大築堤で撮られた写真は数多いのですが、山科駅が入った写真はほとんどありません。いつも完璧性を追求される佐竹さんらしい撮影場所の選択ですが、写真展の場合は、流れの変化と、撮影場所を明確に伝えるという観点から、駅構内も必要と感じて加えることにしました。この写真から、山科駅は二面四線の典型的な国鉄駅の構造だったことも分かります。そして、注目すべきは、C62 42の煙突回り、ヘンなものを付けています。これこそ、C62に唯一取り付けられた集煙装置なのです。

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今朝の瑞風を追いかけて

オミクロン株が心配になりだした昨今ですが、コロナ対策万全をウリにした国内ツアーが堰を切ったように再開されているようです。JR西の看板列車「トワイライトイクスプレス瑞風」もフル稼働のようです。昨夜、運転日を調べていたところ、何と今朝が「山陽上りコース」の2日目にあたっていて、早朝呉線三原口から尾道にかけて走る日であることがわかり、次のチャンスは2月22日までないことから、早起きして呉線須波駅で待ち受けることにしました。昨夜下関を出発した瑞風は山陽路を三原まで来て、深夜三原から呉線に入って広まで走り、広で折り返して日の出の頃に忠海・三原間の瀬戸内海沿いを走りながら朝食タイムというダイヤ設定になっています。須波駅には7:31に到着し、7:37に広行き115Mと交換、7:44に須波発となっていて、13分停車します。

令和3年12月7日 呉線須波駅にて  島影の向こうが茜色になり始めた日の出前

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 「わが“やましな”の記憶」 あれこれ話 -Ⅴ-

ハチロク補機

逢坂山トンネルの西口付近、貨物列車を押し上げるハチロク補機、本務のD62は、もうトンネルに入っている。撒いた砂のため、道床は白くなっている。上りの重量貨物列車は、梅小路~膳所で補機の助けを借りて10‰勾配を上がって行った。

山科にハチロクとは、ちょっと違和感がありますが、写真展では数点を展示しました。このハチロクは、1200tの重量貨物列車の後部補機として、梅小路~膳所の上り貨物で運用されていました。佐竹さんが最初に山科で撮った昭和23年には、なんと補機にC53が使われていたということですが、まもなくハチロクに置き換えられました。

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 「わが“やましな”の記憶」 あれこれ話 -Ⅳ-

蒸機同士の併走

貨物列車を牽くC51が必死に逃げる。それを追うのは、C6235の牽く特急「はと」。たいへん珍しい蒸機の併走が山科で見られた。昭和31年1月

いまの山科は複々線、つまり4線化されていますが、写真展の時代は3線で、外側2線は上り線、内側1線は下り線でした。これは、太平洋戦争前、とくに貨物輸送の増大で、線路容量が逼迫したため、昭和19年12月に上り線が2線化されたものです。大津方に10‰の連続勾配が続き、とくに輸送力貨物列車は極端に速度が遅く、後部に補機を付けても、梅小路~大津が30分も掛かったと言います。特急・急行の優等列車では京都~大津10分ほどですから、本数の増加は困難な状態でした。そこで緩急分離を目的に2線化されたものです。外線を貨物、中線を特急などの旅客に分離されることが多かったようですが、この写真のように逆のケースもあり、適宜。使い分けしていたようです。

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