関東小ネタ続編

小田急VSEの引退は皆さん思いのほか興味を持っておられて大ネタだったかもしれないが、今年最後は正真正銘の小ネタです。関東でも行く人が少なく名前も相模鉄道と間違われやすいJR相模線。茅ケ崎-橋本間を1時間かけて走る全線単線の鉄道で3月の改正で205系500番台がいよいよ退役となる。そして朝夕3本あった横浜線八王子乗り入れも廃止される。個人的には青春18で東海道方面に出かける時はいつも利用していた線である。12月27日に見たところ6割くらいがE131系500番台に置き換わっていた。わざわざ撮りに行く人もいないと思うが、過去の拙作を参考に貼り付けさせていただく。

2018.4.3原当麻-下溝 菜の花を見て走るち茅ケ崎行きクハ205-511▼

2021.10.29上溝-番田 相模線100周年記念マーク付き茅ケ崎行き クハ205-501▼

2021.12.27入谷-海老名 新型クハE130-503茅ケ崎行き▼

 

 五十年前に見た 当たり前の風景  -12-

梅小路に集まった蒸機18両

50年前の京都で、もうひとつ忘れられない出来事がありました。梅小路機関区で、昭和46年11月24日に、国鉄百年の記念映画「蒸気機関車-その百年」のファーストシーンの撮影が行われ、全形式の現役蒸機18両が、一時的に梅小路へ有火または無火で回送、集められたのです。翌昭和47年10月には、梅小路蒸気機関車館が開館し、再び保存・動態蒸機が集められます。そのメンバーと重複する蒸機もありますが、あくまで現役のため、異なる蒸機も集められました。

以前に本欄で、このことを掲載したところ、「立ち入り禁止で写せなかった。うらやましい」とか、「極秘に進められたのに、どうやって知ったんや」とか、いろいろな意見をもらいました。実は、どう情報を知り得たのか、全く記憶に残っていませんでしたが、最近、片付けのなかで当時の日記が見つかり、日々の動きがよく分かりました。情報の入手先は、ふたつあって、ひとつは、M模型へ行った時に「もうじき梅小路に蒸機が来るらしいで」と店主から聞かせてもらったこと。そして、決定的だったのは、同年11月18日に、国鉄に就職された、2年先輩のGさんが、午前にBOXへ来訪されて、「梅小路にC622が来とるぞ」と知らせてもらったことでした。“それっ”と午後に、数人で梅小路に出かけました。この時はカメラの持参はなく、見ただけで終わっていますが、C622をはじめ、9633、C551、C59164、D612が来ていて、日記には、「一回で小樽築港、旭川、糸崎へ来た気分」と書かれています。その翌日、10時に改めて十数人で梅小路に集結、平日午前のため、小中学生も見られず、自由に撮影できたのでした。授業は、どうしたんやと聞かれそうですが、学校は、学費値上げに端を発した紛争が再度起こって、キャンパスは校舎が封鎖中、授業に行きたくても行けず、のびのびと撮影に専念できたのでした。これも、50年前らしい背景でした。

梅小路で再会したC62 2、函館本線で見たのは、この3ヵ月前だった。まさか、京都で見られるとは、夢を見ているようだった。撮影した午前は光線もバッチリ、ロッドも下りて、撮影に良好な状態だった。下の表を見ると、11月16日に到着、撮影後、ただちに返却されているので、梅小路にいたのは8日間だけだった。

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瀬野八 脱線事故

今年最後の投稿は新聞記事の転載となりました。去る28日(火)20:35頃瀬野・八本松間で上り貨物列車が脱線し、29日、30日と上下線は運休し、どうやら31日午後から運転再開となる見込みです。まずは昨日30日の記事から。

令和3年12月30日 中国新聞朝刊

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 五十年前に見た 当たり前の風景  -11-

京都駅1番ホームのC575

年末の連投、失礼します。50年前の昭和46年と言えば、初回にも書きましたが、山陰本線からC57の牽く列車が消えたことが特筆されます。それが4月26日のこと、その後、1ヵ月もしないうちに、サプライズが待ち受けていました。C57が重連で、京都~姫路を往復する臨時列車「青葉の姫路城と蒸気の旅」の牽引でした。京都~大阪では、前年にC57 5牽引の丹後山田行の列車が走っていますが、今度は姫路までの運転、しかもC57が重連で牽くというもの。牽引に当たったのは、人気絶頂のC575が先頭、C5739が次位で、山陰本線の牽引を終えても梅小路に籍があり、このあと、豊岡区などへ転属するまでの間、“SLブーム”に乗っかった、ひと稼ぎと言ったところでした。

C57重連の牽く「蒸気の旅」は、昭和46年5月23日からの土日、6月27日までの計10日間運転された。梅小路から単機で回送されたC57重連が、京都駅1番ホーム横で待機する。もう見られないと思っていたC57の流麗な姿が、京都駅でよみがえった。

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 五十年前に見た 当たり前の風景  -10-

羽後交通 雄勝線を訪ねる

阿仁合線合宿のあと、奥羽本線を南下し、湯沢から分岐する羽後交通雄勝線(湯沢~西馬音内)を訪ねています。当時、奥羽本線沿いでは、横手から分岐していた横荘線が前月の昭和46年7月に廃止になったばかり、これから行く雄勝線の廃止も噂されていて、先手を打っての訪問となりました。雄勝線は、雄勝鉄道によって湯沢~西馬音内~梺の11.7キロが昭和10年に全通、昭和27年に社名が羽後交通雄勝線になり、電気鉄道としてポール電車が客貨混合列車を牽いていました。昭和42年に西馬音内~梺が廃止、湯沢~西馬音内に短縮。横荘線が廃止され、余剰車のDCが雄勝線に移動し、内燃動力に切り換えられたばかりでした。阿仁合線合宿を終えて、湯沢から13時30分発の羽後交通キハ3に乗車して、35分で終点の西馬音内に着いた。以前、趣味誌に「“にしもない”は“なにもない”ところだった」と洒落が載っていたが、どうしてどうして結構な賑わいだった。駅前はまさに昭和そのものの風景で、鴟尾のような屋根飾りを付けた木造の二階建て駅舎、バイクや自転車に乗って集まった来た若者、駅前広場は未舗装、そして、何よりチラリと見えるバスは、ボンネットバスではないか、写している時は、バスに興味も無く、全く気づいていないが、その端部から、いすゞBXD30のようだ。

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 五十年前に見た 当たり前の風景  -9-

夏の狂化合宿先、阿仁合線荒瀬の朝

50年前の夏休み、恒例の“夏の狂化合宿”は、7月に飯田線温田、8月に阿仁合線荒瀬で行われています。私は阿仁合線2泊3日のキャンプに参加し、そのあと、東北各地をメンバーとともに回りました。阿仁合線という、何の特徴もない線区で合宿が行われてたのか、「青信号」27号の旅行記を見ても理由は不明です。阿仁合線始発の鷹ノ巣で食糧を仕入れ、リュックを担いでキャンプ予定地の荒瀬に着いたものの、夕立に見舞われて、キャンプ地は水浸し、急遽、駅前にあった公民館に頼み込み込んで、一泊させてもらい、畳の上で寝て、本当のキャンプは翌日一日だけで、昼間は阿仁合線を写しまわっています。とくに「上杉」という駅は、文字どおり杉林の中を突き切っていて、印象に残り、翌年一人でもう一度訪問したほどでした。阿仁合線は一日旅客が9往復、当時は多く見られた典型的なローカル線、そのなかの荒瀬は、沿線の中心の阿仁合から、ひと駅、終点の比立内へ行ったところにあり、今から見ると、朝のラッシュ時には、信じられないほどの乗降がありました。地方のローカル線の当たり前の風景でした。阿仁合線参加のメンバー

奥羽本線鷹ノ巣から分岐する阿仁合線(現・秋田内陸縦貫鉄道)、当時はC11が一部の旅客、貨物を牽く、ごく当たり前のローカル線だった。この地が、当会の栄えある、狂化合宿の地に選ばれた。乗り降りしたのは「荒瀬」、どこにでもある棒線一本、ホーム一面の無人駅だった。特に朝の時間帯、驚くほどの乗降があった。“日本三大美人”の地らしい雰囲気も漂う(昭和46年8月)。

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 五十年前に見た 当たり前の風景  -8-

一度だけの名古屋市電

前回の「名松線」で誤記がありました。均一周遊券の名称は「南紀」ではなく、「南近畿」でした。また発売は、周遊地に至近な京都・大阪からの発売はなく、名古屋の発売でした。どうやら名古屋に住んでいた知人に頼んで購入したようです。さて、その「南近畿」の帰りに、名古屋へ寄っています。周遊地までのルートは、幾通りもあって、たとえば名古屋からは、関西本線だけでなく、東海道線-京都-奈良線でもいいし、東海道線-大阪-阪和線でもOKという選択自由なものでした。いまの「おトクなきっぷ」のように、二人以上とか一週間前購入とか、制約ばかりではなく、なんともおおらかな切符ではありました。

さて、その名古屋駅前で市電を2枚だけ撮りました。あと名古屋の市電は、別の日に乗換えの間に撮った数枚だけ、それ以外に撮ったことはなく、私としては貴重なシーンとなりました。

名古屋駅前の特徴のひとつ、ロータリーに掛かる11系統の1800型。名古屋と京都をざっと比較すると、最盛期の総延長は、名古屋106キロ、京都67キロ、路線長では京都の1.5倍以上、最盛期の車両数では名古屋422両、京都357両(トロバス除く)で、それほど差がないのは、京都が稠密な輸送を行っていたせいだろうか。

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関東小ネタ

スマホのニュースを見ていると2022年3月のダイヤ改正が連日報じられている。内容はいろいろあるがコロナの影響で全体には楽しくない方向に向かっているような気がする。鉄道会社も努力はしているがある面で現実を見て行かざるを得ないのだろう。

そのような中で小田急のVSE50000形の廃車には正直驚いた。先日LSE7000形の廃車があったばかりなのにという気がする。VSEは2005年製造でまだ18年である。美人薄命とはこの事かと思う。白っぽいボディに細い赤帯でスカートも白という粋な出で立ちで颯爽とした姿はその後製造された70000よりも格好よく見えるというのは私だけではないと思う。2022年3月11日で営業を終え、その後イベント等で使用し、検査切れになる2023年には正式に引退するようだ。車体構造や部品調達などいろいろあるようだが現在のところ2編成共に運用に就いている。今ならまだ撮れそうである。小ネタであるが衝撃の大きい廃車と思い過去に撮った50000形を貼り付けてみた。

2020.10.2 富水 ▼

2015.12.18 愛甲石田-伊勢原 ▼

2010.7.17 渋沢-新松田 緑の中を行く ▼

2014.4.2 座間-相武台前 桜花爛漫の新宿行き ▼

2021.1.1 渋沢-秦野 富士山が写るが同業者の混雑でうまく撮れない ▼

 

 

 

 

昭和の電車 改訂版(241)ー名岐鉄道850系ー

今年最後の「昭和の電車」です。
このシリーズもあとわずかで終わります。
関三平先生の電車への愛情と知識には誰しも甲を脱ぐのではないでしょうか。
年が明けたら、懸案になっていた「一杯のみの会」を先生のご参加を頂いて開こうではありませんか?

来年が自由に飛び回れるようになることを祈念しております。

これも準特急さんのレポートです。
名鉄850系

大和川続き

大和川は笠置山地から流れ出て大阪湾に注ぐ68kmの一級河川である。と人並みに説明を始めてみたが地図を見ると意外と多くの鉄道がこの川を渡っていることを改めて知った。残念ながら上流にはほとんど行っていないのが実情である。下流の南海、阪和線あたりであまりにも鉄道が近接し上流を楽観視した結果で反省している。宇都家さんからも期待していると言われ、できるならやってみろと言われているような気がした。撮られた方がおられたらお助け願いたいというのが正直な気持ちである。

さて、阪和線から上流に向かうとまず、大阪メトロの御堂筋線のあびこから北花田に向かう鉄道が川底下を通っているがこれは無理である。それにしてもこの下流のあたりは「我孫子」とか「浅香」のつく駅名が実に多く地理に不案内な人は間違いやすい。

次にいよいよ近鉄電車が出てくるが、最初は南大阪線の矢田-河内天美間である。河内天美の車庫は行ったことがあるが、鉄橋は未訪問である。続いて恥ずかしながら道明寺線の柏原南口-道明寺間も行ったかことがない。

やっと出てきたのが大阪線の安堂-河内国分間でここは超有名な撮影地であり2200系の頃にも一度行っている。写真は2009.9.27撮影の急行青山町行き8912。この車両は1981年からの製造の奈良線向け8810系列で大阪、奈良、京都、名古屋、山田各線で見られる。▼

 

次にJR関西本線(大和路線)高井田-河内堅上間で川の蛇行もあり2回渡っているが、ここも行ったことはない。

河内堅上は大阪からワンコインで行ける静寂の地である。同じ関西の保津峡や武田尾は新線に置き換わって昔の面影は失われたが、ここはまだローカル色が残っている。河内堅上から次の三郷にかけて大阪府と奈良県の県境がある。ここの鉄橋は蒸機列車やキハ35時代の写真を趣味誌でよく見かけた。鉄橋がカーブしていたような記憶がある。このあたりは亀の瀬渓谷と言われ風景が素晴らしいが撮影好適地が時々水害に見舞われるのは全国同じである。写真は2013.5.8 王寺方面に向う201系である。▼

 

奈良県に入りトンネルを抜けて左にカーブするとどですかでんさんの動画にある鉄橋があり、右にカーブすると三郷駅である。上と同じ日の撮影でその鉄橋を渡る103系の王寺行きでお昼近くになると太陽が真上に近くこのように車両がつぶれるがこの日はこれを目当てに行っていた。▼

 

三郷を出ると次は交通のジャンクション王寺である。大和川は王寺の街を懐を抱くように流れている。まず、JR関西本線がそして北側には近鉄生駒線が渡っている。関西本線は見ていないが、近鉄生駒線王寺-信貴山下は私の好きな単線片ポールの好撮影地で道路から見下ろしたり光線の具合に応じて好き勝手に撮れるところである。これも上と同じ日の撮影で1024先頭の生駒行き。1987年から使用のモ1021系で王寺を出た生駒行きである。▼

 

このあとは申し訳ないが全て未訪問である。一部でも撮っておられる方は発表をお願いしたい。参考までにその未訪問の橋梁は①近鉄南大阪線矢田-河内天美間、②近鉄道明寺線柏原南口-道明寺間、③JR関西本線高井田-河内堅上間2カ所④JR関西本線王寺-法隆寺間、⑤近鉄橿原線ファミリー公園前-結崎間、⑥JR桜井線三輪-桜井間、⑦近鉄大阪線大和朝倉-長谷寺間近接して2カ所、以上9カ所もある。

 

 

 

 

 

 

 

 二条駅 のすたるじあ

先日の投稿コメントにご感想を頂きましたので、平成元年(1989)の山陰本線二条駅の駅をじっくり観察した時の写真を出してみます。
今や梅小路蒸気機関車館も京都鉄道博物館の一部になり、その中のジオラマみたいな旧二条駅舎ですが、この頃は山陰本線の前身、京都鉄道のターミナルの風情や、広い構内に臨して青果市場があった名残りなども感じられました。

明治30年(1897)に開業し90年以上、この地に君臨した旧二条駅も撮影の翌年から高架工事が始まり、曵き家されて、1996年には梅小路に移築されました。

諸先輩の皆様の方がずっと思い出も多いと思いますが、現役最後の時代の風景をご覧になられてください。
撮影は北野の天神さんの帰りなので6月25日の夕刻です。

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 五十年前に見た 当たり前の風景  -7-

今年の行事先の50年前(2) 名松線今昔

クローバー会の行事先の今昔、続けます。12月12日には、名松線の乗り歩き会に参加して来ました。“歩き”はほとんどなく“乗り”が目的で、列車に乗って終点まで行き、すぐ折り返して来るだけですが、みんなでクロスシートに座って、松阪駅名物の駅弁を食べながら、景色を眺めたり、ダベったりと、ただ乗っているだけが、この時期、こんなにも楽しいことかと思いました。

50年前の昭和46年にも、一人で名松線を訪れたことがあります。この時は、南紀均一周遊券で回った時でした。九州・北海道の均一周遊券は何度か使用したことはあるものの、南紀均一周遊券はこの時だけでした。紀勢本線に夜行の鈍行が走っていて、参宮線・紀勢線東部で写したあと、夜行に乗って次の日は紀勢線西部・和歌山線に行くなど、狭い範囲でも有効な使い方ができたのでした。終点、伊勢奥津、交換駅の家城での、ほぼほぼ定点対比です。50年前の名松線の終点、伊勢奥津駅、松阪14:47発429Dに乗って、伊勢奥津に16:06に着いた。島式ホームに、使われていない貨物ホームもあった。C11の時代に使われていた給水塔が印象的だった(昭和46年7月)。10日前の伊勢奥津駅、構内は棒線駅になるなど単純化されたが、給水塔がそのまま残っていた。 続きを読む

久しぶりの模型運転会

先週の名松線イベントに続き、19日には京都三光堂において模型運転会が行われました。前回の運転会は2019年8月でしたので2年ぶりの開催です。前回は暑い中、二階HOの運転場は冷房もなく、汗だくでの運転でしたが、今回は一階のNゲージともども快適に運転を楽しむことができました。運転者はHO3名、N4名(内1名はHO,Nの両方)そのほか4名の見学者がありました。三光堂はコロナ感染が拡大していた折はレイアウトの運転場は閉鎖していましたが、再開後は利用者も増えて結構予約が詰まっています。3時間の貸切で運転を楽しんだ後、近くの居酒屋で打ち上げと忘年会を開催、8名の方が参加しました。忘年会も2年ぶりの開催となりました。今年はコロナ禍ながら感染が落ち着き始めた10月以降を中心に4件のイベントを開催することができました。今年のイベントにお手伝い頂いた皆様、参加された皆様ありがとうございました。来る年が皆様にとって良い年となることを願っております。

大和川橋梁

山科の大写真展を拝見した後は紅葉の叡電や久しぶりの大和川散策を試みた。以前、レイル誌で武庫川、多摩川をめぐる鉄道を掲載させていただいたが、鉄道密度の濃い大和川周辺も興味は尽きない。11月15日朝、まずJR阪和線から海の方に向かった。最近はどこも家やマンション等が立ち並び防護柵等もあって撮り難く、その点、鉄橋は無難である。但し、編成中心の単調な写真になることは否めない。

 

JR阪和線杉本町-浅香

JR阪和線の大和川橋梁は浅香駅ホーム先端が格好の撮影場所であったが私鉄時代のホームなのか狭くて危ない。それに昨今の評判の悪い撮り鉄に見られないように即河原に出た。10年くらい前は103系や205系も見られたが、今はステンレスばかりで味気ない。

狭いホームから撮った2012.12.27の天王寺行き103系の後追い。▼

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 五十年前に見た 当たり前の風景  -6-

伊賀上野で、国鉄「柳生号」のキハ35系と並ぶ、当時の近鉄伊賀線のモニ5182 (旧)伊賀鉄道が電化して伊賀電鉄となった大正15年に、デハ1~6として製造された荷物室付きの半鋼製。デハニ1~6と改番され、関西急行鉄道(関急)発足時にモニ5181形5181~5186に改番、近鉄に引き継がれた。(旧)伊賀鉄道の出自で、長らく伊賀線の主として住みついたが、昭和52年に廃車となった(以下、昭和46年5月)。

今年の行事先の50年前(1)

今年もあと10日ほどになり、クローバー会の活動の振り返りとして、最近実施された行事先の50年前を見ていきます。中止されたホームカミングデーの代替行事として、ことしは11月7日に伊賀鉄道で貸切列車を運転しました。現役生も参加して、久しぶりの大人数の行事となりました。東急のオリジナル塗装車を充当していただき、途中駅での停車時間も長く、たっぷり撮影を楽しむことができました。

近鉄時代の伊賀線には、さまざまな出自の個性的な車両がいて、数年ごとに、あらたな転入車両と入れ替わっていて、撮影年代も推察できたものです。ちょうど50年前にも、国鉄と接続する伊賀上野周辺で撮っていました。と言っても、主目的は、伊賀線ではなく、その年に放映のNHK大河ドラマ「春の坂道」の舞台となった柳生への観光客の輸送、また折からの“SLブーム”に乗じて運転された「SL柳生号」(当時の愛称は「汽車ポッポ柳生号」)を撮影するためでした。

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 五十年前に見た 当たり前の風景  -5-

二条駅を偲ぶ(2)

鈴なりの旧二条通踏切の陸橋、土日ともなると近所の小中学生で一杯になった。

先述の旧二条踏切には、鉄骨造りの横断陸橋がありました。本線の列車だけでなく、貨車の入換で踏切の遮断時間も長く、歩行者用の陸橋が設けられたのでしょう。ここから見下ろすと、二条駅を発車した下り列車がカーブを曲がってやって来るシーンが撮れました。もちろん周囲の街並みも、下にいる撮影者も入りますが、逆に時代の証言にもなりました。京都市内では、いちばん手軽に撮影できるところで、蒸機が姿を消すようになると、どんどん撮影者が集まって来ました(昭和46年4月)。

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