こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥ ③

“阪堺線”と言えば、初詣で活躍する旧型車は有名ですが、そのほかの時期にも通うことが多くなりました。以前は恵美須町から出ている阪堺線の寂れた雰囲気が好きで、北天下茶屋などへよく行ったものですが、いかんせん乗客減で本数も減ってきて、日中は24分ヘッド、もはや路面電車とは言えない間隔になりました。いっぽう、天王寺駅前から出る上町線は、阿倍野・天王寺の再開発事業も終わって商業施設への乗客も増えて、改正のたびに増発されて、日中は6分ヘッドの運転となりました。自分好みの撮影地も多いのですが、なかでもハマっているのが、あべのハルカスとのコラボです。本欄でもWAKUHIROさんらが発表された写真が刺激になったのがきっかけです。東京に勝てるものが何もない大阪ですが、今のところ高さ日本一を誇っているのが、あべのハルカス、まもなく、その座も東京に奪われるようで、今のうちに日本一高いビルと現役最古の電車が走る阪堺線を、との思いで通っています。
高いだけあって、ハルカスは遠くからでも望むことができるが、できるだけ膝元で大きく取り入れたい。そこで選んだのが「松虫」、ここは、あべの筋の併用軌道から専用軌道に入るところにあり、クルマにも邪魔されることも少なく、その全容を収めることができる。午後の遅い時間帯から、夕景、夜景を楽しんだ。

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JRE MALLの商品

こんなのがココ ↓ で売られていましたので、買いました。
https://www.jreastmall.com/shop/g/gS039-XA0100-001/

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 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ②

終端の小さな駅が、日没とともに、はなやかな光彩に包まれた。

叡山電鉄の八瀬比叡山口駅で、毎年冬に行なわれている“イルミステーション”に行って来ました。開業当時の面影を残す、八瀬比叡山口の駅舎をはなやかなイルミネーションで飾るイベントで、12月から2月までの開催で、ことし5回目、冬の叡電では定番行事となりました。ただ、きらびやかな構内も、平日の夕方とあっては人影も見えず、ただ老人が一人だけ走り回って必死にカメラを向けているのでした。

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 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ①

深刻な事態が続いています。クローバー会の活動も影響を受け、私のまわりの行事・イベントも中止・延期に追い込まれています。感染が早く収束し、以前の日常に戻れるよう願うばかりです。この事態に及んでの趣味活動は、団体での行動は自粛すべきでしょうが、前向きな姿勢を失わないためにも、個人の活動は元気に取り組みたいものと思っています。
私もデジ青投稿を、老齢人生の第一の使命と考えて投稿を続けていますが、家に引き籠って文字を打ち込み、カビの生えたモノクロ写真を載せただけでは、決して元気さが伝わりません。もっと明るく、リアルで空気感の伝わる写真も載せて、多少なりとも誌面から元気さを感じてもらいたいと、最近の撮影記録を、しばらく紹介させていただきます。少し前に岡山へ行って、岡山電軌を撮ってきた。目的はこれ、東武日光軌道線から来た3000形のうち、日光線の塗色に復刻された3005号だ。岡電では予備車的な存在で、冷房も無いところから、秋冬春に月に一回だけ運転される。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑨

稲荷

勧進橋から分岐する稲荷線は、明治37年に開業しました。その距離はわずか0.7kmで、専用軌道で上り勾配を上って行きました。上り詰めると、師団街道の踏切を通り、京阪電鉄と平面交差します。市電はいったん停止し、信号を確認後、京阪の線路と平面交差して、琵琶湖疏水に架かる橋上の「稲荷」に至っていました。すぐ向こうは国鉄奈良線で、同線の稲荷駅も近い距離にあります。伏見稲荷大社への参拝客が多く訪れていて、とくに初詣や初午、例祭の時は乗降客であふれていました。

稲荷に関して最近のトピックは、何と言っても停留場付近からレールが“発掘”されたことでしょう。停留場のあった橋の改修によって、コンクリートで埋められていたレールが露出したものです。

行った時は発掘レールはブルーシートで覆われていたが、今後は現地で保存・展示されると言う。最終日の午後、停留場付近を柔らかい陽光が包み込んでいた。みんな思い思いに別れを告げていた。501号の下部付近から、上記のレールが発掘された。

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鉄道、つれづれ草ー“乙訓の長老”からのお願い その2

乙訓の長老様の記憶はさらに続きます。

⑧近江鉄道の八日市駅で撮影。左220形車番読めません、右は読めませんが米原行きクハ12〇〇+モハ□で撮影時期は1990年代でしょうか。以下写真⑨⑩もこれだけで撮影時期は分かりませんでした。

⑨写真⑧と同じ八日市駅の220形224でしょうか。到着番線からこの列車は近江八幡方面からの列車では?

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑧

勧進橋

鴨川を渡ると、京都市の南区から伏見区に入り、伏見・稲荷線の本場に入ってきた感がします。右にカーブすると、すぐに勧進橋の停留場で、土蔵造りの荒れ放題の待合所が東側にありました。ここから明治37年にできた稲荷線が左へ分岐して行きます。「伏見稲荷大社」と大書きされた石碑と、稲荷参詣道(新道)の竣工を記念した石碑が緑地帯のなかにありました。稲荷方面~中書島方面は、直通電車もなかったため、相互乗り換えには、ここで乗換券が発行されていました。また今回も大部分の写真をMさんから提供いただきました。稲荷から来た稲荷線と合流する勧進橋、安全地帯の無い停留場からの乗り降りはたいへんだ。

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客車廃車体訪問記 内地編66 大阪府-3

【First Train】 34.347193, 135.242997 2011年12月29日撮影
オハ46 378
JR和泉鳥取と南海鳥取ノ荘の中間、蓮池の北縁にあるレストランである。現在も営業している模様。オハ46の廃車体は珍しく、他に京都鉄道博物館のオハ46 13がある。
◆スハ43 378(1954年5月新製 川車)→(1956年2月11日改番)オハ46 378→1966年7月22日近代化改造、信越線対策併施 幡生工→1971年7月15日体質改善B3 高砂工→1986年廃車
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昭和の電車 改訂版(55)ー小田急デハ1600型ー

小田急には乗ったことは無いが、正面貫通扉にある「転落防止柵?」に記憶があります。これは「転落防止柵」で間違いないのでしょうか?

また、関先生の解説中に「16㍍の車体が重宝されて、各地の中小私鉄で重宝・・」とありますが、その各地の写真をお持ちの方があれば、ぜひとも見せて頂きたい。

 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑦

十条通

十条通の交差地点に停留場が設けられていました。十条通は、京都市南部の東西の所要道路で市電時代から自動車の通行が多くありました。民家、商店も次第に途切れて、近くの鴨川の水流を利用した染工場などが見えてきました。正直、なかなか絵になりにくいところで、私自身は、1、2点しか撮っておらず、今回もMさんの撮影で助けてもらいました。

【十条通 定点対比】

停留場前には、古い家並みが残っていた。市電時代は商店もあったが、右の現況では、さすがに看板も無く廃業しているものの、家そのものは改装されて残っていて、この西南の一角だけは、市電時代のままだった。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑥

札ノ辻

大石橋を出た市電は竹田街道を南下して行きます。古来からの竹田街道の街路をそのまま踏襲しているため、道は右に左に緩くカーブを続けます。商店、民家の連なる街並みを見ながら「札ノ辻」に到着です。いかにも旧街道らしい停留所名で、街道などに高札を立てた辻のことを言い、現在でも、地名や交差点名称として全国で見られます。この交差点は、東西の通りが、宇賀神社への参道に当たっていて、人通りも多かったようです。現在、この参道は、地図を見ると札ノ辻通とありました(今回の写真は、大部分Mさん提供の写真を掲載しています)。【札ノ辻 定点対比】いかにも街道筋らしい家々が連なっていた昭和の時代、停留場に到着する501号。左は、現在の札ノ辻交差点、中央の二階建てが、市電時代と変わっていないのが分かる。

 

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 廃駅をめぐる  【11】

臼ノ浦  (昭和46年12月廃止)

九州の炭鉱地帯と言えば筑豊や三池だけでなく、松浦半島にも小規模な産炭地がありました。その運炭を目的として、現・松浦鉄道の前身、松浦線から3つの支線が伸びていました。臼ノ浦線(佐々~臼ノ浦3.8km)、世知原線(肥前吉井~世知原6.7km)、柚木線(左石~柚木3.9km)で、行き止まりの短い盲腸線は、採掘された石炭の輸送、または積出港への輸送を目的に敷設されたものです。そのうち、私は臼ノ浦線だけ乗ることができました。同線は、佐世保北部の炭鉱から運炭輸送を目的に佐世保軽便鉄道によって昭和6年に建設された762mmの鉄道がルーツで、国有化、改軌ののち、戦後に臼ノ浦線となったものです。機関区のあった佐々から分岐して、臼ノ浦までの3.8kmで、中間に駅はありません(以下、昭和44年3月)。訪れた昭和44年、臼ノ浦線には、まだC11の牽く石炭列車が走っていた。セム、セキの混合、トラ、ワフも混じる興味深い編成だった。

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昭和の電車 改訂版(54)ー京浜急行デハ230型ー


この色を見たら「きぼう」を思い出しました。
琴電へ行った京急230型、ことでん30型はこれですね!
乙訓の長老の撮影でご覧下さい。

 

 廃駅をめぐる  【10】

香月  (昭和60年3月 廃止)

つぎは九州、筑豊などの炭鉱地帯には、かつて無数の支線が伸びていました。今ではすべて廃止されて、あれほど複雑だった時刻表の地図もすっきりしました。筑豊本線の中間から分岐していた香月線のそのひとつでした。沿線では、石炭の採掘が古来から行なわれていて、九州鉄道によって敷設免許を得て、工事が着工されます。九州鉄道は明治40年に国有化され、その後も工事が進められ、明治41年7月に、中間~香月の3.5キロの路線が開通し、途中には、新手、岩崎の駅が設けられました。水運に頼っていた石炭の輸送は、香月線の開通で飛躍的に増加、最盛期には、中間~新手は、九州初の3線区間(貨物用複線+旅客用単線)となり、わずか3.5キロの区間に、3列車以上の貨客列車が走っていたと言います。しかし、エネルギー革命によって昭和30年代後半から探鉱が次つぎ閉山し、訪問時には気動車のみの旅客列車で、貨物列車はもう見られませんでした。第一次特定地方交通線として、昭和60年3月限りで廃止されました。ちょうど、扇町から輸入炭を秩父鉄道三ヶ尻まで運んでいた、日本最後の石炭列車が無くなったニュースが入ったばかりでした。(以下、昭和46年12月)

香月駅で発車を待つ130D、キハ4520+キハ1010という当時の新鋭気動車と10系気動車の始祖が仲良く繋がっていた(以下、昭和46年12月)。

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東急3450系の窓の大きさ他

表題の件について米手作市様より関先生とお前の写真の窓の大きさが違うようだとご指摘があり、お詳しい方に助けを求めたところ、早速回答を頂きましたので原文のまま掲載をさせていただきます。なお、この方は、ぶんしゅう旅日記さんが名付け親の「不銹鋼」さんで時々デジ青の台湾編などで出てこられる方です。内容は以下の通りです。

準特急様の撮影されたデハ3456号は1963年10月の更新後で窓高さを850mmから950mmに変更されています。

ちなみにこの車両は旧モハ517號で1981年11月に廃車後、宮崎台にある電車とバスの博物館にカットモデルとして保存されています。

この運転台部はそのまま更新後の姿、旧連結部はモハ517號にもどし、窓高さを850mmに、片隅式運転台を復活させています。

この改造工事は小職が1982年に担当させていただきました。

お時間がございましたら、ご案内させていただきます。

暫くはコロナの影響で不要不急の外出は憚られますね。

以上ですが、えらい方にご回答をいただいたもので宮崎台に行ってきたいと思います。そのころの紺と黄色、およびその後の青ガエル等緑色の復刻色の写真もご紹介させていただきます。

2018.08.22 多摩川線沼部1317▼

2020.01.30 多摩川線沼部1312▼

2018.10.02 東横線多摩川5822▼

京阪700形旧80型塗装色最終日

2016年9月に「80形誕生55年記念イベント、80形塗装車両」との投稿をさせて頂いてから3年半、3月3日が最終運行日となりました。80形が登場したのは1961年8月12日それから55周年を記念して701,702号がこの色に塗られました。この車両は何度か撮影しましたが、昨日は天気も良く暖かかったので撮影に出かけました。平日にもかかわらず、特に浜大津交差点にはいつもより多くの人が集まっていて、学校が休校になったためか高校生らしき姿も見られます。     ↑ 最終日の700形旧80形塗装色 続きを読む

客車廃車体訪問記 内地編65 兵庫県-2

【健康ひろば加古川】 34.736263, 134.853301 2005年5月4日撮影
スロ81 2122
旧型お座敷客車の廃車体である。珍しい。健康ひろば加古川は、山陽電鉄別府駅の北北東約500mにあって、お好み焼き・明石焼きのスロ81 2122、喫茶・寿司・麺類・丼のサシ581-25が営業していた。今は全く別の店舗になっていて現存しない。
◆ホハ(ナハ)35040(1925年新製)→(1928年改番)ナハ23481→(1951年鋼体化改造 大宮工)オハ61 123→(1962年改造 長野工)オロ61 2088→(1964年改造 松任工)オロフ61 2004→(1967年改造 多度津工)スロフ62 2004→(1979年改造 高砂工)スロ81 2122「摂津」→1986年廃車
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 廃駅をめぐる  【9】

郷津  (昭和44年9月30日廃止)

今回の郷津は、以前の記事でも触れていて既出ですが、改めて“廃駅”として紹介します。郷津は、北陸本線の最東端に当たる駅で、地滑りが多く発生する災害多発地帯でもありました。昭和40年代に進められていた北陸本線の複線電化の改良工事に際しては、西隣にある谷浜と、東隣にある直江津を長大トンネルで直結することになり、その中間に当たる郷津には、代わりとなる駅も新設されず、昭和44年9月限りで廃止されることになりました。郷津は、明治44年に国鉄信越線の駅として開業し、のちに路線名が変わって北陸本線の駅となりました。昭和39年には、集中豪雨で地滑りが発生し、土砂で駅が埋まったこともあります。駅舎は山側の国道8号沿いにありましたが、周囲に人家はほとんどなく、訪れた時は、北陸本線の糸魚川~直江津の最後の非電化シーンを収めるため、能生、谷浜といくつかの駅に降り立ち、夕方になって、郷津に降り立ちました。郷津を通過する大阪発青森行き特急「白鳥」、堂々14両編成の82系特急が日本海沿いを行く姿は、“クイーン”の称号にふさわしいシーンだった(以下、昭和44年8月)

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昭和の電車 改訂版(53)ー東急電鉄デハ3450型ー

私は全く分かりません。写真も一枚も持ってません。
準特急さん、タスケテください!

 

 

 廃駅をめぐる  【8】

岩代川俣  (昭和47年5月14日廃止)

“岩代川俣”と言っても、私にとっても記憶が繋がらない駅でした。線名である川俣線も、今となっては正確な場所を言い当てることはできないと思います。廃止されたのが昭和47年で、地方交通線の大規模な廃止よりもっと先に、ひっそりと消えています。開業は大正15年で、松川~岩代川俣の12.2kmが開通しています。本来は、常磐線の浪江までの敷設を目的としていましたが、建設は途中でストップ、盲腸線のまま終わりました。途中に岩代飯野、岩代大久保(戦前に廃止)を設置していました。川俣、浪江、と来て思い出すのは、福島第一原発事故による放射線量の高い帰還困難区域などの居住制限に指定されたことです。昭和43年に、国鉄がまとめた、鉄道より自動車が相応しい赤字83線区のひとつに挙げられて、昭和47年5月14日に廃止となりました。川俣線の始発は、東北本線の松川、われわれ世代にとっては、松川事件のあったところとして認知されている駅。

川俣線の終点の岩代川俣、到着した727Dは、キハ52141+キハ22328の2連、いずれも郡山区の所属で、キハ22328は、郡山に1両だけ配置されていたキハ22。寒冷地用のキハ22の本州での配置は、青森、八戸、山形などは知られているが、これはキハ22南限の1両に当たるだろう(昭和46年9月)。

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