総本家青信号特派員氏が筑豊のすばらしい写真を次々と紹介されています。その中にC5546が登場し、大分で保存されていると書かれていました。そう言えば 番号は覚えていないけれども、大分市内でC55の保存機を写したことを思い出し、写真を探しました。すると46号機ではなく53号機なのです。
地図を携えて線路端を歩いた日々 -4-
続いて折尾~中間のC地点付近に移ります。立体交差地点で複々線が入れ替わり、C地点では方向別運転になります。短い切り通し区間を過ぎると、左右が開け、ゆったりとした編成写真を撮ることができました。今でこそ宅地ビッシリですが、周囲は田が広がり、サイドからの真横写真も撮れました。そしてつぎの駅、中間駅へと至ります。
ここで、この区間の現状について記しておきますと、立体交差付近には昭和63年に新しく東水巻駅ができています。駅を中心に周辺は宅地化が進んでいますが、立体交差はそのまま残置されています。複々線もさすがに過剰インフラとなり、折尾駅は2線の対向ホームですが、発車するとすぐ単線になります。 また黒崎方面からの短絡線も単線化され、両者が寄り添う地点で両渡りポイントを設けて、ここからは複線構造となっています。さらに今は、折尾駅連続立体交差事業が進められ、付近の地形すら変えてしまうほどの大工事が2021年を目指して進行しています。
2016年 西方見聞録 Part35 ウイーンのトラム、メトロに乗る、撮る3
第17日目 10月4日 その4
15:56 国鉄Sバーンとの乗換駅前の Franz Josefs Bahnhof からはD系統のトラムから5系統へと乗り換えることにしました。目的地が決まっているわけではありません。行先はトラムに聞いてくれとのぶらり乗り鉄旅です。
しかし、他のトラムが0~71系統と数字なのにこのD系統とだけはなぜに英語なのでしょうか? 1つ疑問が残ったウイーンのトラム乗り鉄旅でした。
[googlemap lat=”48.225836″ lng=”16.360932000000048″ align=”left” width=”300px” height=”150px” zoom=”14″ type=”G_NORMAL_MAP”]48.225836,16.360932[/googlemap]
▲ 15:56 撮影地⑥ Google座標;48.225836, 16.360932
入線して来た5系統の4554号車に乗車して出発です。ご覧のように道路幅はそんなに広くはなく駐車中の車もあって走行できる車線は1車線だけですが、軌道にはみ出してトラムの走行を邪魔する車は見かけません。公共交通優先のマナーがよく守られています。
続きを読む
もうすぐダイヤ改正
3月4日のJRのダイヤ改正まで10日余りとなりました。さっそく時刻表3月号を買って眺めているところです。昨日の中国新聞朝刊には 可部線延伸開通を心待ちにする地元の記事がありました。
新しい時刻表を見て驚いたのは 可部線の下り最終871Mが広島発0:05、安芸亀山着0:43、翌朝の始発730Mが安芸亀山発5:08というダイヤです。以前レポートしたように、安芸亀山駅には電留線もあり、電車が駐泊するのは驚くことではありません。しかし安芸亀山駅は無人駅です。最終871Mの乗務員は電車を留置したあと、始発での仕業開始まで どこでどうするのだろうと余計な心配が先に立ちました。
さよなら 関西の湘南色電車
地図を携えて線路端を歩いた日々 -3-
▲夕陽にC55のスポーク動輪が透けて見える。本数の多いこの区間で初めて流し撮りも試みた。
B地点
折尾~中間のハイライト区間であるB地点の立体交差付近について写真を続けます。
前回投稿のコメントにも記しましたが、複々線区間の開業時は二つの鉄道でした。若松を始
発として折尾を通り、中間・直方へ向かう筑豊本線は、明治24年に筑豊興業鉄道として開業、これにより、水路に頼っていた石炭の輸送は、鉄道で若松港まで運ばれます。のちに若松は日本一の石炭積出港として発展しますが、増産される石炭は、若松だけでは賄いきれず、その前に開業していた九州鉄道(現・鹿児島本線)は折尾付近で、筑豊興業鉄道への短絡線を設け、連帯運輸を始めます。同時に、別々に設けられていた折尾駅も、現在のように共同駅として筑豊本線、鹿児島本線の交差地点に移設されました。複々線の誕生で、従来の若松だけでなく、九州鉄道経由で、戸畑、門司でも石炭の積み出しが行われ、また八幡製鉄所への石炭輸送も担うようになります。これによって、明治40年の両線の国有化の頃には、鉄道収入の半分以上は石炭輸送で占められる、黄金期を迎えたのでした。
阪和電鉄クタ800型
「国境鉄路」写真展開催のお知らせ
2016年 西方見聞録 Part34 ウイーンのトラム、メトロに乗る、撮る②
第17日目 10月4日 その3
昼食後はグランドホテル前のリング通りに出ました。旧市街を環状に取り巻くリング通りは全長5.3㌔、沿道には1860年代から1890年代までに建築された歴史的な建築の数々が並んでいます。そんな街中を走るトラムが撮りたいと雨降る中に出ました。
▲ 14:06 撮影地① Wien Oper Google座標; 48.202414, 16.369950
リング通りの電停は西回り一方通行を挟んで歩道側に上下線が分かれています。トラム軌道上に自動車は入ることなく流れています。
続きを読む
古写真から見た昭和京都の生活~市電の音が聞こえる風景~
N電 夜の梅小路を走る
2016年 西方見聞録 Part33 ウイーン国鉄近郊電車、ウイーンのメトロに乗る、撮る
東海道の電車を楽しむ-その6-
Wikimediaでは東海道の中間点を28宿見付と29宿浜松の中間(247,75Km)としている。それに合わせると現在のJR線では、東京~京都間513.6Kmの中間点256.8Kmは浜松257.1Kmが該当する。図らずも江戸と京都の中間点が良く似た位置にある事が分かった。その中間点から5宿離れた34宿吉田からの東海道は北に経路を取り西に向かっている。明治維新後建設された東海道線は浜辺(常滑)を辿り宮宿(熱田神宮)に向かった。後発の名古屋鉄道は旧東海道のルートを追うようにして名古屋から延伸してきた。そのため両線が肩を並べる熱田神宮前では国鉄線の経路80.7Kmに対し名鉄線62.2Kmとなり、その差は18.5Kmとなる。さて現在、JRと名鉄は豊橋~名古屋間で熾烈な速度競争をしているが本稿では取り上げない。
闇鉄「淡い冠雪」
関東の友人から「闇鉄」との撮り鉄の中での小分野名(渾名?)を頂きましたので、今後それで行きます。(笑)
京都駅の辺りで雪が積もるのは年に数回です。従って今年は2度目の出動となります。満月が優しく照らしていました。
サンライズ瀬戸・出雲、258系、5031M

サンライズ瀬戸・出雲、258系、5031M
近鉄大阪線の雪
この週末は各地で雪の被害が出ており大変な思いをされていると思いますが、奈良から伊賀に掛けては比較的雪が少なく交通機関への大きな影響も無かったと思います。このような中ですが、昨日(2/11)は少しは雪の中の写真を撮ろうと近場に出かけてきました。結果として思ったほど雪は多くなく地肌が見える状態でした。赤目口と三本松の様子です。
続きを読む
2016年 西方見聞録 Part32 ウイーン国鉄近郊電車、ウイーンのトラムに乗る、撮る
▲ 撮影地 Google座標; 48.202250, 16.369829
1869年5月25日に竣工したウィーン国立歌劇場の前をウィーン・リングトラムが行きます。ウィーン・リングトラムは、ウィーンが誇る美しいリング通りや国立オペラ座、ホーフブルク王宮、国会議事堂、市庁舎など壮麗な建物の数々を車窓から楽しむために30分間隔で運行されている観光トラムです。
【 ウイーンのトラム 】
ウイーンのトラムはこの国立歌劇場ができる4年前の1865年に1435mmゲージの馬車鉄道として開業しました。1883年蒸気トラムが入り、1897年にはDC600Vに電化されています。2013年現在で176.9㌔の路線があり、これは世界5番目の長さです。29路線での輸送量は年間2億9,360万人(1日平均約80万人)の利用客です。
この日は朝から雨が続きましたが今回の旅、最後の撮影日ですので頑張って乗って撮っての1日を過ごしました。
続きを読む
電車になった気動車、気動車になった電車
デジ青2017年1月26日[81165]東海道の電車を楽しむ-その5-を投稿された乙訓の老人さんはコメントの中で豊橋鉄道渥美線について訪問した時期が1962年と1993年で1993年の訪問時には気動車改造のトレーラーは廃車後で寂しい思いをされたとある。「待てよ!その車両撮ったことがあるかもしれない」と探し回ってみたら整理のできていないフィルム箱の中に見つけることができたので報告させていただく。ついでと言っては恐縮であるが気動車→電車、電車→気動車の改造車について私の記録したものも併せて紹介させていただく。ただ撮ったというだけで特に詳しい説明ができないのでその点はご容赦願いたい。
①気動車→電車 1978年9月16日 豊橋鉄道高師 ク2402
この車両は元は神中鉄道の発注で1938(昭和13)年に日本車両東京支店で生まれた流線形気動車キハ40形である。ここでややこしいのは神中鉄道というのは現在の相模鉄道(通称そうてつ)のことで神中鉄道と同じ1917(大正6)年創立で茅ヶ崎-橋本間を結ぶ現在のJR相模線の前身相模鉄道(旧)という会社もあった。1943(昭和18)年に神中鉄道は相模鉄道(旧)に吸収合併されたがその後直ぐの1944(昭和19)年に相模鉄道(旧)の相模線は国鉄に買収され、残った神中線部分は東急の傘下に入った。部分的に支援の電化等を経て1947年(昭和22)年に新生相模鉄道として独立し現在は大手15社の一角を担っている。1965年夏に相鉄を始めて見た時は神中鉄道時代の面影が駅舎や木造のラッチ等に残っておりローカルな感じがしたことを覚えている。この神中キハ40形はその後客車化されたり電車化(制御車)されたりした後1956年8月に相鉄から豊鉄に譲渡された。この間改番もなされてきたが最終的には1968年にク2400形のク2402となった。廃車は1982(昭和57)年である。 ▼
この時の主目的は戦前の関西国電の雄モハ52の撮影でクモハ73106東ウラさんと織田・徳川連合軍対武田軍合戦場近くの長篠で泊まりその翌日に豊鉄を訪問した。
地図を携えて 線路端を歩いた日々 -2-
「地図を携えて線路端を歩いた日々」に期待する
総本家青信号特派員氏が投稿された記事を読んで全く同感で こうして投稿しました。私は彼ほどの枚数は無いものの 50枚以上の地図を捨てられずに持っています。私は高校時代「地学部」でハンマー片手に化石採集をしていて、近江鉄道多賀線の奥、西濃鉄道沿線、北恵那鉄道沿線、有田鉄道沿線などの山の中を歩いていたこともあって その時に買った地図もあります。DRFC時代には特派員氏と同様に旅行前には小林地図専門店を訪ねるのが常でした。ガラガラとガラス戸を開けて入る古い町屋造りのお店だったように思います。
この一覧図で予め欲しい地図に当たりをつけておいてお店に行くのですが、出してもらうと線路は端の方に少しだけかかっているだけで わざわざ買うほどのものでは無かったりで 何度も出したり入れたりしてもらいながら選んだものでした。1色刷りが1枚80円でしたが、長い旅になると1枚では済まないので 財布との相談で どうしても必要なものに絞り込んで買ったものでした。
地図を携えて 線路端を歩いた日々 -1-
この齢になってくると、残された時間も考えて趣味活動するようになりました。活動が、今後に有効な成果をもたらすものかを、つねに考えます。資料・蔵書関係の整理も同様です。今までは、集める一方の拡大路線でしたが、一度立ち止まって、今後も有効なのかを熟慮して、時には“縮小”も視野に入れて進めています。かつて撮影時の必携アイテム必需品だった五万分の一の地図を代表とする、国土地理院発行の地図も同様です。
初めての撮影地は、列車の窓から首を出して地図で地形を確認、好適地を見つけると地図に印を付けて、つぎの駅で下車して、目的地へ向かったものでした。当時の鉄道雑誌にも「撮影地ガイド」はありましたが、アバウトなもので、信頼が置けず、やはりちゃんとした地図を購入しました。でも現地に着くと、地図から思い描い
た風景とは違ったり、撮影に適したカーブも、五万分の一の地図では表現しきれないこともあり、撮影適地を発見できないまま、ガッカリして帰ったことも多々あります。 昭和40年ごろから、撮影用に購入したり、また出版社から取材で使った地図を大量に譲り受けたりして、約300枚の国土地理院の地図が残りました。
しかし、いまは多様な地図アプリがあって、鉄道撮影に紙の地図を持参するのは、もはや化石人間以外の何物でもないでしょう。残された時間のなかで、有効に使うことはないと判断し、何枚かの思い出に残る地図や、京都周辺のものを除いて、すべて廃棄することにしました。
▲一枚一枚に思い出が詰まった五万分の一地図、一部を除いて廃棄することに










