昭和56年1月18日に小松島で撮影したキハニ5000の廃車体をご覧にいれます。


803/旭駅前通
「49年前の山陽電軌」で、モ701形とモ801形が廃止後土佐電鉄に譲渡されたことを記したが、昨年10月1日、高知を訪れた時に乗車、撮影の機会を得たので現況を報告する。
当日、羽田空港8時発の飛行機で出発して、高知空港からバスで高知駅前に着いたのが10時頃であった。1日乗車券で全線、全区間を途中で撮影しながら移動したが、路線が長いため、乗車時間が結構長く、その分撮影時間が短くなり、全稼働車両を撮影するまでには至らなかった。
平成26年10月1日、土佐電鉄、高知県交通、土佐電ドリームサービスの3社が経営統合され、新たに「とさでん交通」としてスタートした。
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西村雅幸氏に悪乗りし、1957年3月3日現在小松島に残存していたニ5000型3輌の廃車体写真をご高覧に供する。記憶は限りなく薄れているが、確か大昔?のデジ青が、まだ写真も1回3~5コマぐらいしかアップできなかった頃に、一度ご覧頂いたような気もしないでもない。ただ大方の諸兄はお忘れだろうし、小生も80歳の申し分のない爺ィに成り果てて、昔の事は忘れたよ、と開き直って、再度かもしれんがご覧頂く。耄碌も時としてかなり便利=重宝なものではある。

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西村雅幸氏お説の通り、キハニ5000は鉄道省工作局のエリート技師(大方が東大か京大機械科卒)が、お山の大将=世間知らず=苦労して先行した私鉄ガソリンカーに学ぶことを全くせず、それでいて外形だけは直近完成のドイツ国鉄2軸ディーゼルカーVT801の真似をした車輌でした。
何から何まで国産品を使う(点火栓だけは国産品がなく米国製ボッシュ)という意気込みは、それなりに評価すべきですが、国産では海軍内火艇(内燃機関動力小型舟艇)用しか床下装着できるものがなく、致命的に出力不足でした。またエリート技師はコロ軸受を使った経験がなく、高価でもあったので、通常のメタル軸受とした反面、内装=椅子や網棚、照明器具、窓などを客車と共通にするという、過度の標準化思想に囚われて、車体断面を狭めるという発想は100%欠落していたのです。
それでもある程度の軽量化配慮もしてはいたのですが、自重が15噸以上になり、その上欠陥が山ほどあったのに、使用側の研修も十分にせず、いきなり機関庫に配属するという、致命的な失敗が重なりました。運転局側は配置に対し独自の判断をし、故障してもその影響が本線に及ばない、また機関庫が近くでエンコしてもすぐ救援に行けるローカル盲腸線を主体に配備しました。
このため例えば正明市-仙崎、徳島-小松島、大垣-美濃赤坂(西濃鉄道)、長町-仙台‐岩切‐塩釜、東室蘭-室蘭などの盲腸線、先端が未開業で短い区間のみの部分開業しかしていない実質盲腸線の姫路-播磨新宮、西村氏が記された三呉線を含む糸崎-三原-須波、などに投入されたのでした。
詳細は拙著『日本の内燃動車』成山堂交通ブックス121に詳述していますので、そちらをご覧頂きたいのですが、要は自重に対する機関出力の致命的不足で勾配線には全く使えず、平坦線ばかり。絶対に自分たちの失敗を認めない工作局エリート技師たちにしては極めて珍しい事例ですが、キハニ5000に関して(のみ)は、失敗を認めています。これが私鉄なら、例えばGMF13に換装して2軸客車を1輌牽引さすところでしょうが、国鉄はせいぜいが重連使用ぐらいで、当然機関士が2名いりますから、経済的の筈のガソリンカーが、かえって無駄遣いになった例も少なくないのです。
1957年3月小生は小松島周辺でニ5000の車体を複数撮っているのは、はるか以前デジ青でも紹介しました。全12輌中機関を下してニ5000と、手荷物車になったのが8輌、3輌が救援車ヤ5010からさらにその内2輌がエ810に。1輌(キハニ5008)は1933年11月22日事故で廃車になっています。キハニ5005→ヤ5012は幸い復元され、苗穂工場に保存されていますが、復元に当たり外見だけの機関複製に苦労した由です。
なおこれは蛇足ですが、内燃機関の出力は「通常」最大出力で表示します。しかし国鉄はなぜか「標準」出力でした。従ってキハニ5000の43馬力とは、1,200回転時の出力で、最大は1,500回転時の45馬力です。この場合は大して変わりはないですが、現在の自動車用機関は4,000~5,000回転時での最大馬力表示で、標準=1,500回転程度ならぐっと落ちます。キハニ5000が致命的に出力不足は間違いなくも、現時の自動車との単純な比較は不適でしょう。
糸崎や尾道がらみの投稿連発で恐縮です。鉄道とは関係のない郷土史のことを調べるために図書館で古い新聞記事を丹念に見ていると、自ずと鉄道関連の記事にも目がとまります。昭和8年8月8日の中国新聞備後版にこんな記事を見つけました。

山陽電軌505/昭和44年3月27日 御裳川
団塊世代より上の世代の方で、この風景に見覚えのある方がおられると思う。
Tsurukame先輩より昭和37年3月の山陽電軌をご紹介いただいたが、更に7年後の状況を紹介する。
昭和44年3月27日、九州旅行の途中、前日に下関に戻って「火の山YH」に宿泊、朝8時頃から9時半頃まで山陽電軌を撮影後、再度九州に戻った。
データは少し古いが、昭和38年6月末時点での在籍車両は、単車のモ101形8両(101~108)、109形8両(109~116)、ボギー車モ201形5両(201~205)、モ206形2両(206・207)、モ301形7両(301~305、501・502)、モ503形4両(503~506)、511形5両(511~515)、601形5両(601~605)、701形4両(701~704)、801形5両(801~805)、811形2両(811・812)で、単車16両、ボギー車39両、合計55両である。
3月27日の朝ラッシュ時に撮影したが、単車は全く見かけなかったので、使用休止になったか、完全に予備車化してしまい余程のことがない限り使用されなくなったのかもしれない。
以下、撮影した車両を解説する。
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先に「尾道の話題」として「ラ・マル しまなみ」をご紹介し、私のボヤキに米手作市様より「ハゲドウ」して頂いてから1週間が経ちました。今日はその「ラ・マル しまなみ」が走る日なので、尾道・糸崎間の回送電車を撮りに出かけました。例年センター試験の日にはよく雪が降りますが、温暖な当地でも珍しく薄っすらと雪化粧の朝でした。回送電車は正午ごろですから、かなり気温は上がってはいるものの風が強く時おり横なぐりの雪も降って 海岸で待つのも大変でした。丁度海岸近くをタグボートが2隻の台船を曳いて西へ向かっているのですが、向かい風で全く進まず難儀していました。
昨年末に糸崎及び糸崎以東に残る山陽鉄道時代のレンガ積み橋台を3回に分けてご紹介しました。年が明けて次は三原以西を詳細にチェックしようと思っていたのですが、西に向かうと時代は新しくなり、東に向かうと時代を遡ることになりますので、古い方を優先することにして まず尾道市内を歩いてみることにしました。尾道市街地での見どころはレンガ積み橋台もさることながら、山陽鉄道の社紋入りの敷地境界杭です。実はこの境界杭については、2003年10月に発行されたJTBキャンブックス「鉄道廃線跡を歩くNo.10」のなかで 山陽鉄道に造詣の深い長船友則氏が「尾道周辺の山陽鉄道境界杭」という現地レポート記事を載せておられます。これを読んで 一度自分でも現物を確認しようと思いながら10数年が経ってしまい、ようやく実現したというわけです。
尾道駅から線路に沿って東に歩くことにしました。長船氏のレポートを頼りにまず最初の地点「千光寺前踏切」付近の境界杭を探しました。ここは線路の山側です。意外と簡単に見つかったので さい先良しと次の地点に向かいました。しかし帰宅して写真を確認すると どうも別物だったようで、本物はどうやら草むらの中に隠れていたようです。残念! ここから東に10mほど行った歩道沿いの花壇の中にも境界杭がありました。
第8日目 9月25日
今朝の楽しみはドイツ版余部鉄橋の上をどんな蒸気機関車が走ってくるかでした。

▲ 9:10 撮影地③ Google座標; 47.819024, 8.553502
朝食を終えてホテル前でカメラを構えて待つことしばし、鉄橋を渡る音が聞こえてきました。東側の起点駅Blumberg-Zollhausから列車は発車するのですが機関区は西側のフュッツェン (Fützen )にありますので1番列車の牽引機は回送されます。青く晴れた空の下、風もなく綺麗に白煙を残しながら単機回送のD型タンク機が来ました。
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最近はどこに撮影に行ってもその場所が既にネット等で紹介されていることが多く、昔経験した発見の喜び、楽しみはほとんどなくなってしまった。そこで近頃は変化球と称して流し撮りをよくやるようになったがこれが何年やってもピタリと止まったことがない。ゴルフをやる人、あるいはやった人はよくわかると思うがグリーン周りのバンカーショットも難しい。バンカーショットと鉄道写真の流し撮りはジャンルは全く異なるがどちらも緊張感がある。バンカーは球の手前何センチだったか忘れたがそこに打ち込んで砂を薄く取ってやればうまくい行くと聴いたような気がするが結局マスターできずに終わってしまった。プロはバンカーを苦にせずピンに寄せるが、私は砂を沢山取ろうが出ればホッとしたものである。
さて表題の件であるが、昔のフィルム時代は流し撮りの成功率が低い。これは一発勝負の難しさと思うが、最近のデジカメでは連続撮影ができ、私の場合は2発目、3発目で成功率(といっても1発目よりはマシであるというだけである)が高いようである。デジカメでも列車速度に合わせて1発目を切るのは難しいということである。因みに私の基本はシャッタースピードは1/60秒、ISO100である。当然のことと思うがそれよりシャッタースピードを上げると成功率は高まるが、流し撮りの感じが弱まるし、下げるとその反対であり、私は流しでよく使われている1/60を速い列車も遅い列車も同じように使っている。馬鹿のひとつ覚えかもしれないが1/60の感触で自分なりの流し撮りをマスターしたいと考えていたからである。そうするとこれも当然であるが遅い列車の方が合わせ易く成功率は高い。それでは撮影例である。 続きを読む
第7日目 9月24日
【ブレゲンツァーワルト鉄道(Bregenzerwaldbahn)】
今日はオーストリアの保存鉄道ブレゲンツァーワルトを訪ねます。
この鉄路は伐採木材と旅客輸送のために1902年に開業、ボーデン湖の港ブレゲンツ(Bregenz)からベーツァウBezauを結ぶ延長35.33㌔、760㎜ボスニアゲージの狭軌鉄道でした。1980年に谷間を走る区間が崖崩れで寸断され、再び復活することはありませんでした。現在は最奥部のシュワルツェンベルク~ベーツァウの約5㌔で保存鉄道として運行しています。
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デジタル青信号をご愛読の皆様方、またご投稿者の皆さま方、新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。
ぶんしゅうは今年も投稿を続けさせていただきますが最近はボケが進行して来たのか、また初訪問の所が多く、中々記事がまとまらず投稿が遅れてばかりで申し訳ございません。加えて今回の旅ではカメラに取り付けた撮影場所記録をするGPSが不調で機能せず、もしもに備えてGPSロガーも用意していたのですがデータが飛んでしまう不運に見舞われました。こうなるとお手上げで、記憶を掘り起こしながら自力で行うしかなく、ボケ老人にはとても時間のかかる問題となりました。
第6日目 9月23日 その2
12:00 一旦ホテルに戻ってチェックアウトを行ってから荷物を載せて峠を目指しました。
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皆さま新年明けましておめでとうございます。街に出ると元日から営業している大型店も多くなり、昔のようなお正月風景は年を追うごとに薄れてゆき、季節感がなくなってゆくのを痛感します。新聞は年末の数日間は元日配達分を印刷するため ページ数が少なくなり、その分元日には郵便受けに入らないようなぶ厚い朝刊が届くのは 昔ながらの正月らしさです。そんな元日に届いた中国新聞朝刊の記事をご紹介します。今年の初投稿が横着な新聞ネタでのスタートになりましたが、悪しからず。
6段抜きの記事なので分割スキャンしたため 読みづらくなっていますが、著者は原武史さんです。私には共感できる部分が多くありましたが、皆さまはいかがでしょうか。後段に出てくる広島駅のアクセスの良さも 平成30年代半ばには広電が駅ビル2階に乗り入れる構想ですので 駅前風景は大きく変るでしょうから 原先生の目にはどのように映るでしょうか。


年末にまたまたコネタで失礼します。折尾駅、鹿児島本線は1月2日から新しいホームに移ります。画像のホーム、ホーム下の通路はさよならになります。ホームの屋根を支えるレール、レンガ造りの通路。また一つ昭和の鉄道遺産が消えていきます。寂しい限りです。私は通勤に赤間・博多間を毎日利用していますが、中州で飲んだくれてふと気が付くと折尾・・・が年に2・3回、いや4・5回あり、折尾駅にはむなしい気分で立ち尽くしています。来年からは新しいホーム、新しい通路。なるべく行かないようにしたいものですが・・・来年もコネタですがお世話になります。皆様良いお年をお迎えください!!
今年最後の投稿はまたしても新聞ネタとなりました。新年1月8日(日)は井原鉄道が全線500円で乗り放題となるそうです。神辺・総社間は通常1100円ですから お得なことは間違いないようです。開業記念日が1月11日なのですが、来年は11日が平日のため8日に繰り上げたのでしょう。
乗り放題といえば 今年は広電の1日乗車券(600円)に大変お世話になった年でした。鉄道各社でいろいろな乗り放題切符やワンデーパスが発売されていますので、利用される方も多いと思います。私は大津での江若イベントの合間に 近江鉄道のフリー切符(550円)で貴生川から彦根まで途中下車を繰り返しながら1日を楽しんだことを思い出します。
今年1年 三江線をはじめローカルニュース、新聞ネタでお騒がせ致しましたが、来年もよろしくおつきあい下さい。ありがとうございました。皆さま良いお年を!
テレビを買い換えたら便利な機能が満載です。ネットに接続したり、HDをビデオデッキの代わりに接続出来たり、パソコン並みの拡張機能が付いています。
なかでもキーワードを登録しておけば勝手に録画してくれる機能は大変便利です。
そんなわけで昨日の深夜(今暁)4:55からBS朝日で放送された表記の放送が録画されていました。
内容は、3.11の震災直後に新潟から郡山まで運行された燃料輸送列車の記録です。
もしやと思って注視していると、やっぱり出ていました。
DRFC・OBの志水仁君が当時の機関士手配に苦労した事などを説明していたのです。聞くと当時はDD51 を運転出来る機関士は郡山には一人しかいなくて急遽志願してきた機関士を稲沢で研修させて乗務させたことなど、再現ドラマと記録映像で話していました。
我々の仲間が影ながら活躍していてくれたのを見て誇りに思えましたのでご紹介しておきます。