兵庫・鷹取工・高砂工・姫路6

その6に入る前に謹んで前稿の訂正を。加古川で撮影した2軸の救援車の形式をエ790と記したが、現に車体にちゃんとエ749とあるではないか。まさしく80歳目前の耄碌ぶりをさらけ出し、お恥ずかしいやら落ち込むやら。何卒ご寛容ありたい。

2軸木製救援車は最終時点エ740、エ770、エ790の3形式にまとめられ、エ740には旧客車だけでなく貨車からの改造も含まれる。あとの2形式の種車は、手荷物車、郵便車を含めた客車で、妻面に屋根上ランプ着脱作業のためのステップと手摺が残っているものが結構多かった。救援車になってからでも、出動は極めてまれ(本来ない方がいい)だから、屋根石油ランプが生きているものすらあった。加古川のエ749は当然形式740である。お詫びして訂正させて頂きます。

高砂を後にして姫路に。姫新線と播但線にはまだまだ木製客車が健在であった。鷹取工、高砂工に行ったのは先述の通り1955年7月16日だが、姫路はその前後に何回か行っているので、その間に撮影した車輌も一緒にご覧頂くことにする。
ナハ23776室内転換クロス1955.6.2姫路S

ナハ23776大ヒメ姫路1955.6.6S

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43年前の越美北線

ぶんしゅう殿の越前路の旅が連載され、なつかしく拝見しています。1973年(昭和48年)3月に越美北線を訪ねた際に追いかけたカマ28651が九頭竜湖に保存されていることを初めて知りました。以下は白山の山なみがまだ真っ白な3月15日の撮影です。

市波-小和清水間 足羽川鉄橋を行く 8153レ

市波-小和清水間 足羽川鉄橋を行く 8151レ

水害で橋が流され、長く不通となって廃線も話題になったのは確かこの橋だったように思いますが、ウロ覚えです。

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「兵庫・鷹取工・高砂工・姫路5」に寄せて

久方ぶりに湯口大先輩のお宝画像が登場し、じっくりと拝見しています。その中で控車ヒ104が紹介されました。釈迦に説法のようで恐縮ながら、控車には航送用と構内用がありました。このヒ104は構内用だと思います。大きな駅や操車場で入換機関車とセットで使われていました。さすがに私はヒ100を見たことはありませんが、ヒ600は写していました。

昭和44年7月28日 津山駅 C58236+ヒ628

昭和44年7月28日 津山駅 C58236+ヒ628

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広電ビール電車

よく冷えたビールが恋しい季節になってきましたが、こんな記事が載りました。詳しくは6月20日に広電ホームページにお知らせが載るそうです。

平成28年6月14日 中国新聞朝刊

平成28年6月14日 中国新聞朝刊

車両は768号のようです。768号は昭和40年代に大阪市交から広島にやってきた古老ですが、窓回りなどはかなり改造され、台車まで赤く塗られているようです。ところで 定員26名、広島・西広島間往復1時間40分で129800円だそうです。定員一杯の26人の団体として ひとり約5000円です。ビール飲み放題でお弁当付きだそうですが 決して安くはないように思います。そう思うと昨年の広島ツアーでの貸切電車は もちろんビールも弁当もありませんが 28名 約1時間で15000円 おひとり535円はお得感一杯でした。

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兵庫・鷹取工・高砂工・姫路5

木次線で盛り上がって、その間丸1か月空いてしまったが、その5を続ける。タイトルに従い高砂工場に行くためには加古川で高砂線への乗り換えが必要である。加古川には機関支区があり、当時まだ複線だった山陽本線鷹取以西は塩屋手前まで、国道2号線に沿い、海側に張り付いて走る。このため台風などの強風時は波をかぶるため電車の運行が止まり、加古川線のC12が客車共急遽出動して神戸―西明石間を臨時代行運転したものである。その後複々線化で海面を埋めて新たに2線分の敷地を確保し、防波堤ができてこのようなことはないし、第一近くに機関車や客車は一切ない。

その加古川に、何故かヒ=控車がいた。これは機関車が入れない可動桟橋などに客貨車を押し込む際、機関車との間の「控え」に使うのが本来だが、桟橋などあるわけない加古川ではどんな使い方をしていたのか、確かめなかった。ご存知の方のご教示をお待ちする。

ヒ104加古川1955.4.22S

ここの救援車は2軸車の形式エ790で、この形式には前身が客車と貨車と2種があり、これは残念だが有蓋貨車の改造である。客車の成れの果てなら板バネが長い。 続きを読む

2016年 初夏の北陸路一人旅 Part3 白川郷、城端線

第3日目  6月2日

5:30 朝の温度は12℃、山間の道の駅でさわやかな朝を迎えました。同じく宿泊されていたのは車3台です。
今日は合掌造り集落のある白川郷、そして五箇山を散策後、散居村の展望台から城端線の夕景を撮りたいとぶんしゅう7号を走らせます。
DSCN5194027_1DSCN5200028_1

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富山に行ったがや

 昨年は西条に「白牡丹」を飲みに行ったじゃけん、今度は富山で、ちょっこし遠い黒部へ行くことになったがや。ということで、6月4日の午後12時に電鉄富山駅に集合したやちゃ。しかし、第一日本語弁の大阪弁と違って、第二日本語弁の富山弁で書いていくのはかなり難しちゃ。もう富山弁で書くのはやめとくが。

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車体幅狭比べ

乙訓ご老人から名指しがあったからには、この世捨て人とて何ぞ申さねばならん。で、車体幅の狭い比べだが、諸兄もし拙著「花巻電鉄(上中下)」RM LIBRARY176~178をお買い求めいただいておるならば、上巻(176号)23頁をお開き下され。「主要狭幅車輌数値比較表」があって、幅福島交通軌道線(信達軌道←大日本軌道福島支社を改軌電化)の車体幅最大5呎6吋(1,676.4mm)とある。

この電気軌道は動力変更、3呎6吋改軌は鉄道聯隊の演習として実施したのだが、道路横断定規を改定しなかった=できなかったとは、道路の拡幅がなされなかったことに尽きる。軌道での車体幅は、併用する道路の「残り幅」で車体最大幅が決まるから、「へっつい」機関車が牽引していた客車の幅を、電車になっても拡げられなかったのである。

拙著表から福島より狭いものを探すと、沖縄馬車軌道1,440mm、日本硫黄(沼尻=旧耶麻軌道)の最も古い客車1~3が4呎10吋(1,473.2mm)、現在の富士急行が1067mmで開業する以前の冨士電気軌道(軌間2呎6吋)、それに笠間稲荷軌道(軌間2呎)が5呎(1,524mm)、花巻電気の軌道線4、5が5呎3吋(1,600.2mm)とある。動力が人間様の人車軌道では、4呎(1,219mm)程度もザラである。もっとも初期の車輌寸法は呎吋ではなく、尺寸が多いが。

現在でもバリバリ営業中の黒部峡谷鉄道だが、恐らく今では使っていない無蓋貨車改造の開放客車が1,640mm、三井鉱山神岡鉄道(軌間2呎)が1,650mmであった。これらを比較すると、福島交通の1,676mmとは、「3呎6吋の電車」としては著しく狭かったことが分かる。なお明治期―それも早い時点で開業した路面電車は、京都電気鉄道を含め6呎(1,828mm)が多かった。なお常識的な「軽便」では、車輌最大幅=車輌定規最大幅は7呎(2,133.6mm)が大方で、これは地方鉄道建設規程が定めている車輌定規の寸法だからだが、例えば1067mm改軌前での小坂鉄道ディーゼル機関車DC3、4は、勿論特別設計許可を得ていたが2,430mmもあった。

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ところで、日本硫黄沼尻鉄道の無蓋貨車の写真があるので、ご愛嬌にご披露申し上げる。要は40輌あった沼尻名物の硫黄運搬用三枚側無蓋貨車セタなのだが、その最大幅1,540mm、実幅1,4656mm、内法1,390mmを実感頂くだけの目的である。だからなぜか貨車に乗車している若者3名はどうでもいいわけで、その名はプライバシーとして特に秘しておく=詮索も無用である。左の1名が手を下に伸ばしているのは、マイクで録音中なのである。撮影は1964年1月2日であった。

2016年 初夏の北陸路一人旅 Part2 越美北線の麦秋

第2日目 6月1日

7:30 昨日は久しぶりの304㌔の長距離ドライブが効いたのか疲れていました。朝1番の始発から撮影を始めるつもりでしたが熟睡で遅くの起床です。2番列車は10時以降になりますので、熱いコーヒーを入れてゆっくりと朝食を取ってからの出発にしました。

03‗小麦生産量今日の撮影の最初の目的地は麦畑としました。福井は米どころですが転作による小麦の栽培も盛んな所で、昨日も水田と交互する場所が見かけました。小麦の生産量は北海道が最も多く全国の50%以上を占めていますが福井県も№5の生産地です。
小麦は秋から初冬に種をまき初夏に収穫期を迎えます。そして黄金色に実った麦畑は「麦秋」と呼ばれています。薄緑色になった水田と違ったコントラストを見せてくれています。
大野付近が多く見かけられましたので、今日は麦秋の中を行くDCを撮りたいと撮影ポイントを探すことから始めました。
DSC_3588_100 続きを読む

海外写真展開催のお知らせ

小竹先生02小竹先生私事で恐縮ですが明日6月10日(金)~16日(木)に鉄道写真家小竹直人先生と一緒に海外へ行っております仲間たちとの写真展を大阪のオリンパスギャラリーにて開催させていただきます。地下鉄四ツ橋線の本町駅上にあって交通便利なところです。
お時間ありましたら、お立ち寄りください。よろしくお願い申し上げます。
私も期間中は現場に入っております。

やっと目覚めた福島電鉄の思い出

デジ青【17434】2012年1月13付で須磨の大人から1971年4月12日に廃止となった軌道線について「出番でっせ!」と尻を叩かれた。目下幽閉の身であるので身動きできない、解放後に後塵を浴びさせてもらうとコメントを入れてから4年半近くなる。その間、身辺に……、言い訳が多い気ままな生活を送ってきたことで申し訳ない。そこで福島について思いを寄せてみた結果、、貨物列車が2ケ所から郊外に向けて運行していたことに思い当った。小学生の頃から京阪電車が天満橋~塩小路貨物駅間で貨物電車を走らせているのに興味を持っていたが、1955(昭和30)年6月25日に営業廃止となった。関西では近鉄、南海で残っていたが、両親の出生地、つまり田舎と現在の生活拠点の京都を結び種々雑多な物品が「小口便」と称するもので行きかいしていた。兄の結婚相手は近江八幡の人で、こちらは「飛脚便」で行き交いしていた。祖母は小口便を「チッキ便」と呼んでいたが、その違いはここでは触れない。

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2016年 初夏の北陸路一人旅 Part1 越美北線 その1

備後路の新緑を追った旅の次は6月4日に開催されるクローバー会「富山旅行」参加をまたいでの北陸路の旅を計画しました。北陸路は2011年からほぼ毎年のように訪問していますが初夏の時期は初めてです。田植えも終わり新緑も深まった北陸路を走る電車たちを撮るのが今回の狙いです。今回は移動に便利で宿泊代もかからないぶんしゅう7号に乗って出かけることにしました。
ついでに今まで行っていなかった合掌集落のある白川郷五箇山にも行ってみたい、黒部渓谷鉄道にも初めて乗ってみたいと、その奥に入るパノラマツアーも申し込みました。問題は天候ですが週間予報では雨が降る気配はありません。後は事故がないようにゆっくり行こうと5月31日に出発することにしました。

01_Map_100 続きを読む

今春の撮影

早いもので今年も梅雨の時期となった。鉄道写真も季節を表した作品はその季節のうちに投稿すべきと思う。旬のものは当然時期があることはわかっているのだが、私のデジ青「今春の撮影」は見事な西日本や津軽の桜の連続発表の後で投稿を躊躇しているうちに時期を逸してしまった。興醒めでいまさらとお叱りを受けるのを覚悟で拙作を発表させていただく。

最初のJR相模線はデジ青では一度発表されたことがあるが、地味な路線で話題性に乏しい。昔はC11が貨物を牽引し、気動車も晩年は近郊型のキハ35系であったが何れも撮影したことはない。ただ、この地味なローカル線も私の家からそう遠くはなく相武台下に桜の名所もあり近年は時々出かけている。今回は桜の前に咲き誇った菜の花を題材にしてみた。

2016.3.29 原当麻-下溝 1172F 茅ヶ崎行き クハ205-511 ▼s-16.3.29原当麻-下溝205-511茅ヶ崎行1172F

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熊本がんばれ!!

20150605 通り町からお城を望む

おはようございます。TSURUKAME先輩の投稿を拝見して昨年の夏、通り町の電停から撮ったお城を掲載します。電車は映っていませんがこの景色は心にいつまでも残っています。

今現在二の丸広場へは入ることができます。お城の再構築計画も進んでいるようです。元の姿を眺められる日が来るのを楽しみにしています・・・

先輩のお尋ね 長六橋の位置、変っていないと思います。白川にかかる大きな橋がいくつかありますが長六橋は一番堂々としています。だって電車が走っていたのですから・・・失礼しました。

熊本市電 たったの4日で運転再開

熊本、大分両県の皆様、震災を心からお見舞い申し上げますと共に、一日も早い復旧を祈念しています。

震災から1ヶ月が過ぎた今週、テレビで熊本市電が、壊れた路面などを直ちに修理し、震災からたったの4日で運転を復活させたと知りました。その上、全国から集まったボランティアを無賃で輸送したそうです。

そんな映像を見て、半世紀前のフィルムを取り出してみました。1963年当時の熊本市電と熊本市街の様子です。その後長崎電軌に移った171、172号機の在りし日の姿もありました。長崎電軌の171号機は先日INUBUSE氏から現況報告がありました。1963年、3回生の春休み3週間、九州を周遊し鉄道三昧の日々を過ごした時のフィルムです。
(系統、停留場などは当時の名前または表記のままです。)

▼熊本城前 ②系統・健軍線(熊本駅-健軍町間)(健軍町行き) 120型  1963.3.27  07202
軌道の向こう坪井川を越え、長塀と瀬戸口門が、その向こうに田子櫓など、左奥隅に天守閣が見えます。市電はこの先すぐで右折して、通町(とおりまち)筋に進みます。
【現在】Google Earth 3D で確認すると、現在もこの場所はほとんど変らずにお城が望めそうでした。
07202
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出発!ローカル線聞きこみ発見旅

という番組があります。
BSジャパン(BS7)の旅番組ですが、6月13日19:00から今話題の木次線をやります。
内容は男女のタレントが一泊二日の間に全線の名所や名物を10ヶ所見つけるという単純なものですが、普通は下りないだろう駅にも立ち寄るのがおもしろいところです。
さて、木次線ではなにをおもしろいものとして選定するかに興味がわきます。

ちょうど話題沸騰中の「木次線」ですからご案内しました。

 

熊本市電171号(現長崎電気軌道601号)の活躍

長崎電軌600形601号は元熊本市電170形171号で昭和28年3月製、昭和44年8月に熊本から長崎に譲渡された電車です。熊本ではほかの車両より小さめでしたが長崎では200形300形と同サイズです。172号と2両が譲渡されましたが172号は昭和62年に廃車となっています。最近では保存車的な存在で秋の「路面電車の日」に走るか「貸切」で走るか程度でほとんど車庫にいます。しかし常に整備され車内にICカード対応の設備も設置されいつでも営業運転できる状態になっています。今回の熊本地震に際し募金箱を乗せて《がんばれ!!熊本号》として一般運用されています。
5月中とのことでしたので その活躍を見ようと行ってきました。(2016年5月25日)

↓ 朝 浦上車庫から出庫し 赤迫折り返し 1系統「正覚寺下」行きで長崎駅前にやってきました。JR長崎駅からの歩道橋が左に見えます。
朝のラッシュ時なので車内は満員です。長崎は坂の街 自転車の少ない街で路面電車の乗客は多いですね。
171号の色は熊本から譲渡された時の色に復元されていてきれいです。
「熊本地震」義援金 募金箱 設置のご案内 と側面に表記されています。
長崎601-1

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がんばる井原鉄道

運行管理収支、旅客数が右上がりの井原鉄道です。第三セクター鉄道ですから自治体負担分を含めた会社全体の収支でも評価すべきでしょうが、少なくとも旅客数の増加は営業努力の成果として拍手を送るべきでしょう。通勤、通学の定期券収入の多寡が命運を分けることも確かなようです。なお旅客数の増加、収支改善には 昨年米手作市様ご夫妻も貢献されております。

平成28年5月27日 中国新聞朝刊

平成28年5月27日 中国新聞朝刊 井笠 おかやま面

同紙 中国総合面

同紙 中国総合面

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伊豆急100系

いま話題を集めている木次線三段スイッチバックのカラー写真が撮られたのが1971年とか、その10年前に登場した電車とは思えないスマートな車両です。この時代、都会と地方にこれほどの差があったのですね。ところで今でも不思議に思うのですが、伊東線の先に伊豆急があって乗り入れをしています。伊豆急にとってどんなメリットがあるのでしょうか?国鉄が伊東線を延長すればいいだけのことで、東急が飛び地鉄道を作る理由が分かりません。
伊豆急100型_NEW