出発!ローカル線聞きこみ発見旅

という番組があります。
BSジャパン(BS7)の旅番組ですが、6月13日19:00から今話題の木次線をやります。
内容は男女のタレントが一泊二日の間に全線の名所や名物を10ヶ所見つけるという単純なものですが、普通は下りないだろう駅にも立ち寄るのがおもしろいところです。
さて、木次線ではなにをおもしろいものとして選定するかに興味がわきます。

ちょうど話題沸騰中の「木次線」ですからご案内しました。

 

熊本市電171号(現長崎電気軌道601号)の活躍

長崎電軌600形601号は元熊本市電170形171号で昭和28年3月製、昭和44年8月に熊本から長崎に譲渡された電車です。熊本ではほかの車両より小さめでしたが長崎では200形300形と同サイズです。172号と2両が譲渡されましたが172号は昭和62年に廃車となっています。最近では保存車的な存在で秋の「路面電車の日」に走るか「貸切」で走るか程度でほとんど車庫にいます。しかし常に整備され車内にICカード対応の設備も設置されいつでも営業運転できる状態になっています。今回の熊本地震に際し募金箱を乗せて《がんばれ!!熊本号》として一般運用されています。
5月中とのことでしたので その活躍を見ようと行ってきました。(2016年5月25日)

↓ 朝 浦上車庫から出庫し 赤迫折り返し 1系統「正覚寺下」行きで長崎駅前にやってきました。JR長崎駅からの歩道橋が左に見えます。
朝のラッシュ時なので車内は満員です。長崎は坂の街 自転車の少ない街で路面電車の乗客は多いですね。
171号の色は熊本から譲渡された時の色に復元されていてきれいです。
「熊本地震」義援金 募金箱 設置のご案内 と側面に表記されています。
長崎601-1

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がんばる井原鉄道

運行管理収支、旅客数が右上がりの井原鉄道です。第三セクター鉄道ですから自治体負担分を含めた会社全体の収支でも評価すべきでしょうが、少なくとも旅客数の増加は営業努力の成果として拍手を送るべきでしょう。通勤、通学の定期券収入の多寡が命運を分けることも確かなようです。なお旅客数の増加、収支改善には 昨年米手作市様ご夫妻も貢献されております。

平成28年5月27日 中国新聞朝刊

平成28年5月27日 中国新聞朝刊 井笠 おかやま面

同紙 中国総合面

同紙 中国総合面

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伊豆急100系

いま話題を集めている木次線三段スイッチバックのカラー写真が撮られたのが1971年とか、その10年前に登場した電車とは思えないスマートな車両です。この時代、都会と地方にこれほどの差があったのですね。ところで今でも不思議に思うのですが、伊東線の先に伊豆急があって乗り入れをしています。伊豆急にとってどんなメリットがあるのでしょうか?国鉄が伊東線を延長すればいいだけのことで、東急が飛び地鉄道を作る理由が分かりません。
伊豆急100型_NEW

【くまモン】は誕生前だった

 

今や熊本は【くまモン】で沸き返っている。それはさて置きデジ青【71074】では初めて熊本に足を踏み入れた時、熊本駅前から藤崎宮まで歩き当時の熊本市電を紹介した。その後も熊本には片手以上の回数で足を踏み入れている。瀬戸内海航路や航空便で九州に渡り別府や湯布院の温泉につかり、上達が見られないゴルフを諦めた後は熊本観光組となった。その頃に大阪市電900型導入を目撃した。またワンマンカーに乗り合わせた折に乗車券が区間制で、不思議な思いに駆られたことが思い出される。何故か博多経由の熊本入りは1989年までなかった。

1989年のGW5月2日、午前中に工事段取りを済ませ山陽新幹線で九州に向かった。門司港の街並み見物と夕食後、門司港初発夜行急行「かいもん」で鹿児島に向かった。小倉から転換クロスは満席、博多では釣り客で超満員となった。鳥栖を前にして転寝となり、発車衝動以外はぐっすりであった。終着鹿児島中央駅の降車客は座席定員の半分を割っていた。九州で夜行列車に乗ったのは1958年9月以来のことで、その時は松山→別府→鹿児島のコースだったのだが、台風襲来で行く先々で雨雲に追われる始末であった。今回の鹿児島は快晴だが午後になると薄曇り(桜島の灰)となり、特急で熊本に向かった。旅行業者に頼んだ宿は市電車庫の斜め向かい。これ幸いと夕食後に撮影許可を貰いに出向き、操車室で京都から来たといって歓談、ついでに手続きを済ませた。これで翌朝の動きが楽になる。

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カラーで蘇ったクモハ73106東ウラさんの木次線三段スイッチバックの写真

 デジ青で、いつもコメントをいただいているクモハ73106東ウラさんにぶんしゅうさんがお願いした出雲坂根三段スイッチバックを登るC56の貨物列車の写真を見せていただきました。元は総天然色写真だそうですが退色劣化が激しいので白黒で公開されました。やはり総天然色ではどのような写真だったのかと興味がわきます。それで厚かましいのでしたがクモハ73106東ウラさんにお願いをしてJPGファイルで送ってもらいました。見た瞬間にアッと思ったのですが総天然色に復元すると言ったからにはやらないといけません。艱難辛苦の末、出来上がりました。まだ、ちょっと色調が気になるのですが公開いたします。公開にあたってはクモハ73106東ウラさんから了解をいただきました。

何とか3月下旬ごろになったクモハ73106東ウラさんが撮影した出雲坂根三段スイッチバック (一段目)

何とか3月下旬ごろになったクモハ73106東ウラさんが撮影した出雲坂根三段スイッチバック (一段目)

 コメントにもありましたように1971年3月の撮影だそうです。想像して色調整をしなければならないのが難しところです。最初にカラー復元したものは撮影された3月下旬とはかけ離れた色の風景でした。それを何とかそれらしく見えるように再調整をおこないました。参考になる風景の写真がなかったので火野正平のこころ旅で丹沢山系の風景が放送されました。季節としてはほぼ同じようなので、これを参考にしました。それが先ほどの写真です。それでは最初に調整した写真はどのような色であったかというと

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吉備線LRT化の動き

中国新聞に小さな記事が載りました。

平成28年5月25日 中国新聞朝刊

平成28年5月25日 中国新聞朝刊

今年度中に何らかの方向付けがなされるようです。岡山のベッドタウン的なエリアであり 大学や吉備路の観光スポットもあり、平坦地のためLRT化には好条件がそろっているように思えます。山陽本線をまたいで1067mmの岡山電気軌道とつなげば、更なるメリットも期待できるのではと思います。吉備線はかつての中国鉄道ですから、駅間も短く、福塩南線のように買収私鉄の雰囲気が残る路線です。沿線には中国鉄道時代の橋台や橋脚がいくつも残っています。いまのうちに記録しておかねばと思っています。やや古いスナップですが備中高松駅の交換風景を添付しておきます。ついでに稲荷山支線も復活してもらえば言うことないのですかが・・・。

平成23年9月10日 備中高松駅にて キハ403001と交換

平成23年9月10日 備中高松駅にてキハ403001他 プラットホームが中国鉄道時代の低いまま。

大井川の新緑

2年振りに大井川を訪れました。実は昨年も同志社の高分子化学ゼミの仲間と行ったのですが、SL牽引列車に乗り寸又峡に泊まり、接阻峡など観光中心 でしたので、鉄道沿線の大井川をゆっくり眺めることは出来ませんでした。今年は大井川水系の中でも、筆者が最も好きな塩郷から下泉間3.1km をゆっくり見て歩きました。五月晴れに山々は新緑に萌え、大井川も真っ青でした。

先ず、塩郷にある清流公園に立ち寄りました。
605011
立 ち寄るのは三度目ですが、上の板張りモニュメントと下の歌碑を改めて撮影したかったのです。大井川の今昔や『水を返せ運動』などを読み、知るにつけ大井川 の風景をもっと撮影しておきたくなりました。この公園は線路沿いの狭い土地を利用して作られており、良いカーブ位置に建っているのですが、公園とSL列車 を一枚に収めることは不可能です。なお、想像ですがひょっとしたら昔の塩郷駅がこの場所だったのではと思いました。昭和53年製作の寅さんシリーズ第22 作『噂の寅次郎』に出てくる塩郷駅は、島式ホームで線路が2本あったのですから。その痕跡をさがしてもそれらしき場所が他に見当たりませんので。
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福塩線の通学列車を追って

また福塩線か、また中国地方かとブーイングが聞こえてきそうですがご容赦を。「中間考査」なるものに縁がなくなって50年近くが経ちます。徹夜で丸暗記とか、ヤマをかけてマル外れとか、一旦昼寝してから夜に勉強するつもりが熟睡してしまって赤点とか そんな思い出多いのが私のテスト期間です。今どきの高校生たちのテスト期間中の様子や通学列車の雰囲気を見たくなり、丁度どですかでん氏が日帰りで福塩線の乗り鉄に来られるのに合わせて出かけました。列車本数も乗客も多い都会の鉄道では通学生はそれほど目立たないでしょうが、通学生が頼みの綱の地方線区では学校行事と列車運行が連動している状況を今まで考えたこともありませんでした。今回は撮り鉄ではなく、乗り鉄なのでマイカーを使わず JRに貢献することにしました。

福山発11:15の府中行き243Mに乗ります。福山市内の高校も中間試験中なのでしょう。こんな時間帯に いろいろな制服の高校生が大勢乗っています。沿線には大学もあるので大学生も乗っています。

平成28年5月19日 福塩線243Mの車内

平成28年5月19日 福塩線243Mの車内

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備後路の新緑を追う 2016年 Part6 福塩線を撮る

新尾道から入り三次を中心に芸備線・福塩線・三江線と西村さんとご一緒に回った「備後路の新緑を追う 2016年」も最後の掲載となりました。3月末から桜の開花・満開も良かったですが新緑を追いかけての旅も実り多く来年も参りたいと思っております。下記の地図のピンマークがカメラのGPSが記録した今回の撮影地点です。西村さんには大変お世話になりましてありがとうございました。今年はまた稲穂が垂れる実りの頃、また紅葉のシーズン、そして初雪が降る頃に再訪したいと思っておりますのでよろしくお願い申し上げます。
では、今回の旅の最後の投稿をさせていただきます
01_Map10

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出雲坂根の一宿は駅長官舎、半世紀前

デジ青は木次線で大賑わいです。今更筆者の同じような画像は二番煎じと思い、皆さんの画像を閲覧する読者を決めていましたが、その内ムズムズし始め、西村さんの『出雲坂根今昔』を見て、三段画像なら比較してみようと、油に更に火を付けたく、投稿におよびました。学生時代最後の冬休み、名古屋の住職見習い(当時3回生)と二人の撮影紀行の話です。

★昭和38年12月30日
前々日、伯備線布原信号場付近で撮影後、住職見習いの友人(その後著名な毎日新聞記者となる)が住む湯の郷温泉に泊めて貰い、翌日の午後、出雲坂根駅に降りたったのです。
▼客427レ(松江発備後落合行き) 機C56104【木】 出雲坂根駅に進入直前。
スイッチバック二段目にあたる坂から登ってくる列車を見下ろしました。
08602

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備後路の新緑を追う 2016年 Part5 三江線を撮る

第3日目 5月7日 その2

朝の福塩線芸備線撮影後は、混み合う三次市内を迂回して三江線の対岸を走る375号線を北上します。

DSC_3243012▲ 9:04 撮影地 Google座標; 34.807227, 132.777060
走っていますと長谷~船佐江津三次行きの1番列車423Dが走ってくるのが見えました。まさか間に合うとは思っていなかったので車を停めて急な山の斜面を行くDC2連(キハ120-357・315)を撮ります。前回来た時には連日とも単車運行でしたが今日は2連です。後部は団体扱いではなく一般客扱いで運行されています。30%程度の乗車率でした。
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備後路の新緑を追う 2016年 Part4 朝の福塩線・芸備線を撮る

第3日目 5月7日 その1

今日は朝に福塩線・福塩線を撮ります。時刻表をご覧のとおり、昼間は運行が少ない両線ですが、5:00~8:30には上下計7本が撮れますので頑張って4時半起きです。
01_福塩線ダイヤグラム_100 01_三江線・福塩線ダイヤグラム_100▲ 上は西村さん作成の福塩線ダイヤグラムです。西村さんは、初めての撮影地に赴く時にはダイヤグラムを作成した後、地図やGoogleの航空写真とストリートビュを見ながら仮想撮影ポイントを見つけていかれるそうです。私も初めての地で撮影する際は、列車乗車でロケハンとダイヤグラムを作成する事を常としていますがダイヤグラム作成だけでも1日はたっぷりと必要です。今回は西村さんにお任せして、事前に撮影候補地をリストアップしていただけました。ご面倒をおかけしていますが助かります。ありがとうございます。

今日の最初の撮影地は、三良坂~吉舎です。朝食はホテルで食べられる時間ではありませんので途中のコンビニで買うことにして出発しました。
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ぶらっと能勢電御報告

5月14日少し暑すぎるくらいの好天の元、ぶらっと能勢電ツアーが催行されました。参加したのは23名、川西能勢口に集合の後、平野で下車、まずは能勢電本社にお邪魔し、お話をお聞きしてから車庫の見学をさせて頂きました。一昨年阪急電鉄より譲渡された5000系などを思い思いに撮影、乗車しての洗車体験もありました。    IMG_5691  続きを読む

出雲坂根今昔

71661で湯口大先輩が見事に察知されたように、ここのところ木次線で盛り上がっています。湯口氏、東ウラ氏、どですかでん氏から貴重な俯瞰写真や新旧の案内図が次々と紹介され デジ青らしい盛り上がりを楽しませて頂いております。米手作市氏からは貸切列車で煽られておりますが、それは宿題にさせて頂くとして、もう少し火に油を注いでみたいと思います。手元にあります 昭和53年3月発行の「日本鉄道請負業史 大正・昭和(前期)篇」の木次線の項を開いてみました。すると開通直後と思われる スイッチバックの俯瞰写真が載っていました。

開通当時の出雲坂根

開通当時の出雲坂根

出雲坂根駅で交換したと思われる上下2列車がとらえられています。

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出雲坂根の周辺案内板

小生の投稿で、「クリック拡大してご覧あれ」と記しながら、その実拡大できないではないかとのご苦情が。自分でやってみたら確かにそうだ。要はデジ青掲載に際し、ファイルを小さくし過ぎたことによるドジである。よって再度案内板だけご覧に入れ直す。
木次線出雲坂根周辺図1973.8.13
真中辺、「近道」とあるのが件の「旧道」=「湯口徹氏受難之地」である。県道4kmを40分とあるが、若い時でも1km10分はかなりきつい。かつて街中でも歩いていて抜かれかけると、張り合ったものだが、今では「お急ぎですねえ、どうぞお先に」という心境。
「平家」跡というのは、平家落武者が住み着いたところだろうが、これも鉄道が敷かれる前は文字通りの山間僻地であった証左であろう。

 

出雲坂根の案内板

 湯口先輩の「木次線2」を見ていると出雲坂根の案内板がありました。私も撮っていましたがちょっと?と思ったのです。なぜかというと私の撮った案内板の写真には「貝の化石」と書かれてあったのが湯口先輩の案内板には書かれていなかったのです。しかも全体的にちょっと違うようです。さてその案内板というのは

MN01916-木次線

これは1973年12月に撮ったものです。

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木次線2

さて三井野原でのステホは暑からず寒からず、気持ちよく寝させていただいたが、何やら周囲がおかしく、むっくり起き上がって一驚。このさして広からぬ三井野原無人駅のプラットホームが、何と夏休みラジオ体操会場と化し、開拓部落の子供たちと、世話役の大人が20人ばかり、体操をしていた。その真ん中の待合室で若者が一人、炊事道具をおっ拡げて安眠をむさぼっていたのだから、皆の衆気が散って体操に身が入らない。これには恐縮し、世話役さんに会釈して早々に荷物と、我ながら美味ならざる夕食(の食い残し)を片付け、リュックを担いで撮影に。先ずは上り初発の備後落合6時42分発416D出雲横田行き、キハ025で、乗客はそれでも数人あった。木次線上り一番列車416D 三井野原 続きを読む

木次線 出雲坂根のスイッチバック

いつもコメントをいただいておりますクモハ73106東ウラさんから出雲坂根のスイッチバックでC56形が活躍した当時の貴重な写真をいただきましたので掲載させていただきます。カラーでいただきましたが退色劣化激しく、私の技術ではどうやっても復元不可能でしたのでモノクロにてなりました。

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三井野原今昔

湯口先輩から木次線の貴重な写真が多数紹介されました。国鉄が唯一の交通手段だったことを如実に物語る写真の数々です。その中に三井野原駅に停車中のキハ024の写真があります。撮影日が昭和38年8月12日のようですが、それから47年後に偶然同じようなアングルで撮っていたカットがありました。

2010年5月3日 三井野原駅にて 1450D キハ120206

2010年5月3日 三井野原駅にて 1450D キハ120206

よく見ると ステホされたという右側の待合室の壁や屋根や縦樋は当時のままのように見えます。約半世紀前は出力60馬力のキハ02、そして現在は250馬力のキハ120です。レールバスがいかに非力だったのかを再認識しました。ひと駅走ってオーバーヒートはさもありなんです。ところで私の写真で 三井野原駅のホームに行列ができているのは団体客です。団体客と言ってもバスツアー客で 三井野原駅から出雲坂根駅間のひと駅だけ木次線に乗車し、スイッチバックを体験するという団体客です。開拓農家の方が乗り降りされ、冬だけはスキー客でにぎわった駅に 半世紀後には観光バスが横付けされてガヤガヤと多くの中高年が乗り込むことになろうとは地元の方は思いもよらなかったことでしょう。またこの待合室で寝泊まりした若者がいたことも。湯口先輩 貴重な写真をありがとうございました。続報を楽しみにしております。