キハ44000→キハユニ15

「昭和の電車」シリーズの次回の予想を立てるが最近は全く当たらない。国鉄モハ63形から始まった「63シリーズ」が長く続き、次は「改造連接車シリーズ」が始まったが僅か2回で終わった。次は大阪市電の改造連結車、終戦直後の南海と続いたので「終戦直後シリーズ」が始まるのかと思いきや、予想に反して今回はキハ44000形が登場した。

兵庫ふるさと通信員様よりキハ44005→キハユニ156をカラーでUPしていただきましたので、気動車に詳しい諸先輩方を差し置いて解説を試みた。

キハ44000形は、昭和27年から28年にかけて新製された電気式気動車で、DMH17Aエンジンに直結した300Ⅴ100KWの直流発電機を駆動し、発生した電力で後部台車に架装した45KW×2の主電動機を駆動した。
27年8月44000、44001が日本車輌(支店)で44002、44003が汽車会社で作られ千葉気動車区木更津支区に配置された。翌28年3月44004~44007が日本車輌、44008~44011が新潟鐵工所で、44012~44014が東急車両で作られ、44004~44008が木更津支区、44009~44014が大原区に配置された。木更津支区は主に房総西線(現内房線)、大原区は主に房総東線(現外房線)で使用されたが、土気~大網間の勾配区間でのパワー不足のため、程なく成田区に転属した。27年製と28年製では側面のスタイルが異なり、27年製はクハ86の初期車を3扉にしたようなスタイルに対し、28年製は窓が2段化され、上窓はHゴム支持(通称バス窓)になった。関 三平さんのイラストは先頭車が27年製、2両目は28年製で描かれている。

昭和32年4月の称号改正でキハ09形(1~15)となったが、同年度中に液体式とキハユニ15形(1~15)に改造され、全車千葉を離れて北海道を除く全国に分散した。

昭和50年3月末の配置表では、それ以前に廃車になった5、7、15以外の12両が健在で、山形区に4、水戸区に8、10、13、加古川区に3、6、9、浜田区に14、岡山区に1、11、徳島区に12、人吉区に2が配置されていた。

キハユニ151
キハ44000→キハ091、昭和33年3月大宮工場で改造されキハユニ151となった。当初鳥取区に配置されたが37年に岡山に転属して55年8月廃車になるまで在籍した。47年頃正面に貫通扉を設置した。/上:岡山駅 (44-10-19) 下:正面貫通化改造後/岡山駅 (49-11-23)

キハユニ153
キハ44002→キハ093、昭和32年12月大宮工場で改造されキハユニ153となった。当初鳥取区に配置されたが37年に岡山区に転属、更に48年9月に加古川区に転属して55年7月廃車になるまで在籍した。フロントガラスを小さなものに交換したため不細工な顔になった。/加古川区 (49-5-12)

 キハユニ154
キハ44003→キハ094、昭和32年12月小倉工場で改造されてキハユニ154となった。改造後から52年7月廃車になるまで一貫して山形区に在籍した。47年頃正面に貫通扉を設置した。/余目駅 (41-9-5)

 キハユニ156
キハ44005→キハ096、昭和33年3月大宮工場で改造されてキハユニ156となった。改造後から56年5月廃車になるまで一貫して加古川区に在籍した。/加古川駅 (49-5-12)

 キハユニ1514(連結面)
キハ44013→キハ0914、昭和32年12月大宮工場で改造されてキハユニ1514となった。当初加古川区に配置されたが、49年9月岡山区に転属、更に50年3月浜田区に転属して54年11月廃車になった。/加古川区 (41-3-6)

 【参考】
キハ44500→キハ15→キハユニ15
キハ44003~44014の新製と同時期、液体式気動車の試作車としてキハ44500~44503の4両が日本車輌で新製された。キハ44003~44014と同一スタイルで大宮区に配置され川越線で試用された。

昭和32年4月の称号改正でキハ15形(1~4)となり、34年度中にキハユニ15形(16~19)に改造された。改造後16、18は豊岡区、17、19は小郡区に配置され、昭和50年度廃車になるまで転属することなく在籍した。

キハユニ1517
キハ44501→キハ152、昭和35年3月大宮工場で改造されてキハユニ1517となった。50年11月廃車になった。/広島駅 (40-3-27)

 【その他】
キハユニ154と同じ日に撮影した「行先板」と「愛称板」を紹介する。
盛岡~秋田間を花輪線経由で結んでいた急行「よねしろ」の行先板で、夏の期間中は船川(昭和43年4月男鹿に改称)まで延長運転されていた。追分から直接船川に行かず、一旦秋田まで行き、船川線の定期の普通列車に併結され船川まで運転された。

 急行「月山2号」の愛称板。「月山」は上り2本、下り1本という不思議な列車で、上りの「月山1号」は酒田~山形間、「月山2号」は酒田・鶴岡~山形~仙台間の運転であった。
下りは、仙台~山形~鶴岡・酒田間1本のみの運転で、愛称は「月山」であった。従って「月山2号」の愛称板を表示する列車は上りのみであるが、専用の愛称板が存在した。

大垣の夜

9月5日の夜 岐阜あたりで急遽宿泊することになり、ネットで検索し大垣駅の横のホテルを予約しました。またとない機会なので 荷物を置き養老鉄道の西大垣駅へ向かいました。

西大垣駅です。本社や車庫が併設されており、乗務員交代も行われ 養老線の業務の中核的存在です。
中線もあり車両撮影しやすい所です。
次の電車を写したい旨 駅員に断わり 反対側のホームで待っていると なんと一編成しかないラビットカー色の電車がやってきました。

モ606とク506の編成です。もと南大阪線のモ6857とモ6858です。(昭和38年5月製造)
昔 河内松原在住の時 よく乗った正統派ラビットカーモ6800形32両、モ6850形8両のうち生き残っている2両です。当初この色でしたが徐々にマルーンに塗り替えられていき この2両は2009年9月にこの色に復活しています。
本日9月8日、「~ラビットカーのリバイバル塗装車に初めて乗れる~吉野線開業100周年記念列車ツアー」が運転されるようで この車両のふるさと南大阪、吉野線でも4両編成がリバイバル塗装車となるようです。車番は6051-6052-6171-6136のようです。元ラインデリア車の冷房改造車で、過去ラビットカー色の経験のない車両ですね。
ふるさとから遠く離れたところで 毎日頑張っているこの2両のラビットカー、末永く活躍してほしいと思っています。

次の電車は標準色 といっても近鉄本体の車両はツートンカラーとなっていますので単色塗装は養老鉄道の標準色ですね。

同じ場所での モ613とク513です。(元名古屋線のモ1803とク1903)
暗い中での手持ち撮影でしたが ライトの光の印象的な写真となりました。


大垣駅まで乗って来た ク524-サ564-モ624 の3両編成です。
もと南大阪線の ク6114-モ6018-モ6017 です。(昭和41年10月製)
42年3月末に名古屋から大阪に引っ越したころの最新鋭車で きれいなラビットカー塗装でした。
現在 養老鉄道は3両編成7本、2両編成6本 計33両 全車両近畿日本鉄道が所有しているとのことです。

次はおまけの樽見鉄道です。

専用ホームで発車を待つ ハイモ295-315 池田満寿夫デザインの特別塗色だそうです。
貨物列車が無くなり、客車も無く、今は気動車6両のみで 頑張っています。

大垣駅の北口は再開発され 商業施設などでにぎわっていますが、南側は以前からの雰囲気が少し残っており その一角にヨ8000が2両置かれていました。貨物駅とのことです。

ヨを見たところで食事に行きにホテルに戻りました。
犬伏

国鉄キハ44000その後の一つ、キハユニ156

キハ44000、第二次増備型の内の一両です。第一次と異なり、窓がバス
窓です。その後キハ09になり、液体化式に、さらに改造でキハユニ15と
なりました。兵庫県の加古川線には、湘南型正面の車が3両在籍したそう
でそのうちの一両、キハユニ156です。

1965年8月29日、719D 加古川線野村駅、現在の西脇市駅で撮影。
写真左は728D。ちなみにフィルムは、Agfa color でした。

富士フィルムが500年もつ?

読売新聞9月5日の学芸欄に「フイルムは残る」というコラムがあった。目下全盛を誇るデジタルも、遠からぬ将来再生できなくなる虞がある。記憶媒体の劣化や規格変更が理由である。アナログの録音テープ、8mm映画は完全に、VTRですら過去のものになている。しかしカラー映画を3色に分解し、白黒フィルムに記録すれば、「500年もつ」と富士フイルムが言っているそうな。

他のフイルムメーカーがいうのならともかく、事もあろうに富士とは。勿論引用原文が分らないから、軽率な批判はできないが、富士フイルムがヴィネガー・シンドロームで社会の膨大な文化を損ね、しかもメーカー自体は謝るどころか、一言の警告すら発せず、そ知らぬ顔の半兵衛を決め込み続け何十年。その富士が「500年もつ」とは、一体どんな顔でいっているのだろうか。厚顔無恥とはこういうものであろう。

恐らく富士フイルムは、かような自社の古い過去の(と自分では思っているのだろうが、富士ヴィネガー・シンドロームは現在でも脈々として進行中である)恥部など、職員に一切教育していないのであろう。日本を代表する企業の一員で、しかも現在細々ではあってもでも銀塩フイルムを造り続けている希少なメーカーだが、その富士フイルムの職員に、「500年もつ」ためには、一体どこのフイルムに記録したらいいのか聞きたい。へー、そんなことがあったんですか。でも今のウチのフイルムなら大丈夫ですよ、とのたまうのか。恐らく読売の記者も、そんな経緯を全く知らないでこのコラムを執筆したに違いなかろうが。

佐竹保雄講演会のお知らせ

佐竹さんの講演会が来たる10月14日の鉄道記念日に滋賀県草津市、南草津駅前のフェリエ南草津5階で開かれます。

詳しくは添付のパンフレットをご覧下さい。当日は家族連れや子供達も来てくれますが、鉄道マニヤは少ないかもしれませんのでOB会の会員各位はできるだけご参加お願いいたします。。

 

八月だ、もっと熱くなろう!赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part7 PG.SUMBERHARJO(スンバルハルジョ製糖工場)

神谷武志企画のテレマカシーツアー  第4日目 8月7日 2の2



▲ 9:36、機関庫から1kmほど離れた所にある指令所に到着しました。ここは工場の敷地のはずれにあり、鉄道の運行を管理しています。しかし、遠くにDL9号機とローリーがいるだけです。このローリーに積んだサトウキビは、O氏が言われていた、運搬途中で落下したのを拾い集めたものなのですね。

▲ 指令所内に入った神谷隊長とO氏は、今日の運行予定について指令官から聞かれています。 
私は初めてですので、サッパリ分かりませんが、これから何時どこに行けば神谷隊長が思われているショットを撮れるかの大事な打ち合わせのようです。分からないなりにも聞いておけば、その内には分かるかもと聞き入りました。

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広電値上げ(続報)

昨日広電の値上げと旧型車更新のニュースをお届けしたのですが、以心伝心 今朝の中国新聞が採り上げてくれました。中国新聞さんも「デジ青」をチェックしているようです?! 「信用乗車」という言葉は初耳でしたが 宮島線も含めて均一運賃とは。そして車掌を廃止するとのこと。あの長い連接車がワンマンになるわけですが、今でさえ車掌が戸閉めで随分気を使っているのに、ワンマンだと運転士に相当負担がかかるように思います。赤字経営が許されない企業経営のためには、人件費抑制は避けて通れないこととは言え、厳しいですね。広電さんがんばってくださいと言いたくなります。と言うのも、広電の運転士、車掌は全員が正社員ではなく派遣社員がかなりの比率を占めていたものを、同じ仕事で賃金に差があるのはおかしいという組合建議を容れて正社員化してきた背景も関係しているように思います。広島の都市交通のかなめであり、地元に貢献している広電さんに 乙訓先輩のコメントにあるように どの程度の公的支援があるのか不勉強ですが 更なる支援を望みたいものです。

広電 旧型車更新加速のため運賃値上げへ

8月23日に広島電鉄は16年ぶりの運賃値上げを来年中国運輸局に申請するとプレス発表した。値上げの理由は旧型車、老朽車の更新を加速させたいためとしている。現行運賃は市内一律150円(白島線は120円)だが、170円~180円に値上げしたいとのこと。路面電車では国内最大規模を誇る広電はグリーンムーバーなど超低床車両への置き換えや電停のバリアフリー化を進めているが、現行運賃では更新がままならないと説明している。以前は低床の市内線と高床の宮島線に分かれていたが、現在ではその区別は無く、もと京都市電1900型をはじめとする単車が65両、永久連結車と連接車70編成が活躍している。単車の大半が車令45年以上を経ているため2027年までに48編成を新造し、老朽更新を進めたいとしている。京都1900型は15両が元気に広島市内を走り回っているが、旧神戸市電の570型、1150型はそれぞれ1両になり、旧大阪市電の900型も9両に減っている。旧西鉄も然り。市民に好評の超低床連接車は1編成2~3億円かかり、また連結車ばかりになると広島駅前のターミナルも狭隘で、宇品終点のような連結車にふさわしい駅への大幅改装も必要なため値上げはやむなしということになろう。釣り掛けの旧型車に乗ったり、撮影できるのもあと数年になりそうである。路面電車好きの諸氏は是非広島へ足を向けて下さい。

国鉄キハ44000型

珍しく、国鉄の車両です。

キハ44000型、この当時の気動車は湘南型を気取っていましたね。このあとキハ10系へと変化しますが、エンジンは懐かしのDMH17シリーズのA型です。おもえば気動車と言えばこのエンジンで、湯口先輩の講義で聴いた「このエンジンからの進歩がなかったことが我が国の気動車にとっての不幸だった」を痛感します。

115系三昧の夏の一日

8月中旬、JR東日本のホームページを見ていると、湘南色の115系の臨時快速「むさしの奥多摩号」が大宮~奥多摩間運転されると書かれていました。115系が青梅線に入線することは珍しいことです。

インターネットで検索すると、運転日は、7月28・29日、8月4・5・11・12・18・19日で、ヘッドマーク付で運転されているようです。ただ、115系の調子が悪く、運転が中止になったり、E233系の代走になったりで、あまりうまく走らない臨時のようです。

そろそろ引退も囁かれている115系ですので、一念発起して、18日土曜日に青梅線に出かけることにしました。いろいろ行程を検討すると、当日南越谷~鎌倉間運転されるスカ色の115系M40編成を使用した「ホリデー快速鎌倉号」の回送も撮影できるようなので、準特急さん・新所沢都民さんに、「宜しければ、いかがですか?」とお声をお掛けしたところ、前日にも関わらず、参加するとのことでした。

当日、始発電車で最寄の北総線印西牧の原駅を出発、浅草・神田経由で新宿へ。前日に購入した新宿6:38発の183系全車指定臨時快速「みたけ・おくたま探訪号」に乗車、一路御嶽を目指します。車両は、前後に特急のシンボルマークが付いたOM103編成ですが、幕がないため、「臨時」表示です。乗車率は、新宿出発時点では、10%も満たない状況でした。

所沢新都民さんは、この列車を途中で撮影するとのことでしたが、拝島での乗り換えに失敗し、結局のところ撮影できず、御嶽で三人集合となりました。

この面子が揃うと、過去の経験から雨の確率が高いのですが、やはり期待通り小雨がポツポツ降るような状況の下、川井で下車。川井から御嶽方面に戻った旧東川井信号所跡で、115系湘南色の快速「むさしの奥多摩号」を撮影。

川井駅に戻り、新宿から乗車してきた快速「みたけ・おくたま探訪号」の回送を撮影しました。

川井駅から古里駅に行き、中線に長時間停車の快速「むさしの奥多摩号」の回送を撮影したころには、日が差してきました。

その後、今度は、スカ色115系の「ホリデー快速鎌倉号」を撮影するため、武蔵野線へ。当初は、駅間でとも思ってましたが、再び雲行きが怪しくなり、結局、屋根のある西国分寺駅で、1時間ほど、回送を待ちました。

やって来た「ホリデー快速鎌倉号」の正面幕は、快速のままでラッキーです。

そのあと、元お召し機のEF8181もやってきました。

東所沢に回送後、再び、鎌倉に回送される列車まで、二時間弱。昼食ということで、西国分寺駅周辺を探しましたがお店がなかなか見つからず、やっと見つけたお店で、生ビールと刺身定食で、前半の反省会と相成りました。

再び、ホームに上がると夏の日ざしが差しており、順光で回送を撮影できました。残念ながら、今回は、幕が回送となっていました。(本来の姿ですが・・・)

ここで、新所沢都民さんと別れ、再び準特急さんと青梅線へ。この頃には、夏の日差しが照りつけて、腕が痛いほどです。雨の原因は???

青梅駅で下車し、奥多摩よりに歩いて、快速「むさしの奥多摩号」の回送と快速「みたけ・おくたま探訪号」の回送を撮影した後、朝撮影した旧東川井信号所に舞い戻り、快速「むさしの奥多摩号」撮影した後、青梅で解散となりました。

115系三昧の夏の一日でした。

なお、「ホリデー快速鎌倉」は、豊田区の115系M40編成で運転されてきましたが、先日発表されたJR東日本の秋の臨時列車運転計画では、183系となっていました。115系の引退の日が近づいてきたようです。

八月だ、もっと熱くなろう! 赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part6 PG.SUMBERHARJO(スンバルハルジョ製糖工場)

神谷武志企画のテレマカシーツアー  第4日目 8月7日 2の1


▲ 昨夜から宿泊しているペカロンガンのホテルニルワナ(Hotel Nirwana Pekalongan)で、朝食後いつものように6時半過ぎに出発しました。丁度、町は通勤と通学ラッシュです。白いヒジャブを被っている子もいました。ヒジャブは、イスラム教徒が、髪を隠すためのベールです。
踏切も渡りますが、インドネシア鉄道の注意マークはペケ2つです。

7:53、スンバルハルジョ製糖工場に着きましたが、工場前の線路には、空ローリーが留置され、サトウキビを満載したトラックが荷降ろしの順番を待っていました。

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八月だ、もっと熱くなろう!赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part5 PG.SUMBERHARJO(スンバルハルジョ製糖工場)

神谷武志企画のテレマカシーツアー  第3日目 8月6日 2の2

▲ 12:00、計ったような時間に、定番メニュー昼食が始まりましたが、その中でもこのスープは絶品です。ビールが主食の方が多い軍団ですが、これだけは唸らせました。 続きを読む

南海戦前の冷房電車

南海鉄道戦前の冷房電車に関しては、鉄道史料55号に西 敏夫/小野田 滋両氏により詳述されている。これから要約すれば、1936年6月12日申請、7月11日設計変更認可及び車両定規突破により特別設計許可、7月21日竣功届。クハ2802の床下にガス圧縮機等一式を2基搭載、屋根上の冷却機から冷房をするもので、モハ2002との連結だが、冷房はクハのみ、モハはファンデリアとあって、当然ながら乗客は皆クハに集中したそうな。7月18日~9月10日まで、定期検査で2日、モーター冷房故障で2、3回冷房を中止した以外無事乗り切ったが、温度は予定通り下がったものの、湿気は十分取リ切れなかtっとのことである。

翌1937年にはMTユニットで冷房するように改良し、屋根上に何とも雄大?なダクト、連結面は専用幌を設置している。前年の湿気除去不足に換気回数を1時間13回から25回に増加させ、空気吹き出し口も増加させている。冷房主機はやはりクハ(和歌山方)に搭載し、モハ(難波方)は屋根上風道によりクハから冷気を供給。2両一組でモハ2001~2004/クハ2801~2804の計8両で、7月1日から冷房使用開始した由だが、この年だけに終わったのは、7月7日日華事変(日中戦争)ガぼっ発し、戦時体制が強化されたからである。

下図は上が1936年のクハ2802改造図、下が1937年モハ+クハのユニット図(いずれも鉄道史料55号より転載)

なお上図のクハは32.52トンから35トンに、下図ではモハが45.72トンが46トンに、クハは32.52トンが45.72トンというヘビーウエイトになった由。

謎の南海電車・クハ2001系

文の冒頭にあるCMソングは聞き覚えがあるよな気がしますが、この電車は全く知りません。

説明を読んで疑問がいくつもわいてきます。

まず、冷房のシステムについてです。クハ2801で冷気を起こしてフードで2001へ送るとか、勾配を使って冷気を分配するとか、全く想像がつきません。さらに難波―和歌山を蒸気機関車で運行したとか、どうなっているのでしょうか?南海本線は完全電化でしょう?

どなたか、戦後生まれの若輩者にわかりやすく教えて下さい。

八月だ、もっと熱くなろう! 赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part4 P.G.PANGKA(パンカ製糖工場)

神谷武志企画のテレマカシーツアー  第3日目 8月6日 2の1


今日の午前中は、昨日に引き続きパンガ製糖工場での撮影、午後からはスンバルハルジョ製糖工場へと向かいます。


▲ 朝は6時にホテルのレストランに集合して、朝食はインドネシア風のバイキングです。お粥やスープもありましたので、ガッチリと食べました。

▲ お食事中に話題になったのは、部屋の天井の矢印と、カーテンボックス上にお菓子の袋が放置してあるとの事でした。矢印は、イスラム教徒の多いインドネシアですので、メッカの方角を指している”キブラ”と分かりましたが、お菓子の袋が分かりませんでした。食事の後で見てみるとありました。芳香剤です。思わぬ所に置いてあるので間違いますね。


▲ 7:26、昨日同様に工場前の踏切からの撮影開始です。2号機が回送されてきました。
集積場ヤードでは、丹念にポイントやレールぎわに落ちたサトウキビを取り除いて燃やしています。シュガートレインは、ローリーの脱線が多発するほど、上下左右の揺れが大きく、積んだサトウキビを落下させながら走っていきます。レール上に覆いかぶったサトウキビを踏みながら走りますが、ポイント部分では、重いSLでも脱線しますので、取り除かなければなりません。

▲ 今朝はまだサトウキビを運搬するトラックの到着が遅いのか、ローリーへの積み替えが進まず、発車はまだのようです。

猛者軍団もSLが走らないので、ゆっくりと時が来るのを待ちます。


 ▲ SLの牽引するシュガートレイン撮影が目的でしたが、DLも年代物の珍しい機関車が多く、これを見るのも楽しみでした。日本に走っていましたら、SL同様に追い掛け回されるヨダレの出る、車両です。

7:46、次はDL12号機が空車を牽引してきました。
1950年、ドイツSCHOEMAの製造です。

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日本鐵樂者写真展/「炭鉱(やま)の機関車」

都電荒川線、鬼子母神前電停、メトロ副都心線、雑司ヶ谷駅近く都内豊島区鬼子母神参道の直ぐ近くにある「三愚舎ギャラリー」で「炭鉱(やま)の機関車」をテーマにした写真展が開催されている。

主催者は「日本鐵樂者撮影家集団」金澤 忠、蔵重信隆、杉 行夫、野口信夫の各氏で、メインは昭和40年代に撮影された台湾の瑞三炭鉱、インドのティポン炭鉱で、デジ青でぶんしゅう氏が発表された中国のグース、昭和50年の夕張線、52年の釧路太平洋炭鉱の電機の生き生きした姿が展示されている。台湾国鉄のオハフ33を18m級に短くした客車を牽くDL等も見逃せない。

会期は9月2日(日曜日)まで、時間は12時~18時30分(最終日は17時まで)、木曜日のみ休廊となっている。土曜、日曜は開廊されているので関東地区の方で興味のある方は是非見に行っていただきたい。私が行った日には時々コメントをいただいている村樫四郎氏が観覧に来ておられた。

八月だ、もっと熱くなろう!赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part3 P.G.PANGKA(パンカ製糖工場)

神谷武志企画のテレマカシーツアー  第2日目 8月5日 2の2


午前中の撮影は終了です。昨夜、ホテルには深夜到着で、朝は皆さん5時過ぎには起きられたようですので睡眠不足です。皆さんの体調を案じての神谷隊長の心遣いで、泊まっているホテルに一旦戻っての昼食。食後は、シャワーとお昼寝タイムとなりました。私は初めてのインドネシアとあって高ぶっておりましたので、ホテルのプールでひと泳ぎしました。後は落ち着いたのか、心地良くなってプールサイトのチェアーで、監視員の方から起こされるまで眠ってしまいました。


▲ 15:36、再び戻ってきたパンカ製糖工場の機関区。午後からの斜光がス3号機にスポットライトを浴びせていました。バックにおいてあるのは、サトウキビの絞りかすの”バカス”です。他の工場では、マキを燃料にしていますが、ここではバカスを主に使っていますので、火の粉がよく排出されます。夜はすばらしく、通称”花火”といわれていて、ここを訪れる鉄ちゃんの憧れになっているそうです。

これより夜まで、2号機をチャーターしての撮影開始です。民家の立ち並ぶ、工場ヤードの引き揚げ線の先方向に向かいました。


▲ ここまでトレインが来るのは珍しいのか、住民の皆さんも出てきて走行を見守ります。猛者軍団は連写で答えます。カメラ2台が見える奈良からお見えのW・Jさんは、ずっしりと重そうな背中のカメラバックに、6×7の他に3台、合計5台ものカメラを持ってきておられました。なんと重量は25kg以上とか、体力勝負の撮影でもあります。


▲ 猛者軍団は、2号機と不安定な空ローリーに乗って、集積場ヤードの先へと向かいます。

▲ 行ける所までと来ましたが、ここから先は線路が埋もれていてダメです。神谷隊長は、もう少し先ならバナナ林で良いロケーションなのにと残念だと申されていました。ここより少しヤードに戻して、夕陽が沈むのを待ちました。 


▲ 16:58、陽はまだ高かったのですが、機関車に近づいて夕陽を入れてみました。

▲ 17:22、特殊フィルターをお借りして撮りましたので、狙っていたショットには近くなりました。

▲ 17:44、陽が沈んだ後も残像を求めてみましたが、日本のような綺麗な夕焼けにはなりませんでした。

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大阪市電751型

昭和20年3月14日、B29の大編隊が大阪を襲いました。今は亡き両親から何回となく聞かされた話の出だしです。

当時、両親は千日前にあった大劇のまえで写真館を開いていました。昼頃から始まった空襲は悲惨を極め、大劇の地下に逃げ込んだ両親は逃げ遅れて最後に地上に出たときは、すでに難波と千日前を結ぶ通りは炎のトンネルとなっていたそうです。何分かに一回、風が起きてトンネルの炎が上へ開くときがあるのに気づき、日本一(日本橋一丁目)の交差点へ出たときにはこの世のものとは思えない光景だったそうです。高島屋の前の石畳には亀の甲に似た焼夷弾が不発のまま突き刺さり、市電が何台も堺筋に並んで止まっていて、そのほとんどが骨組みだけになり、まだ燃えているものもたくさんあったそうです。父は、そこに落ちていた自転車を拾って母を後ろに乗せて祖母のいる八尾を目指したと言っていました。

今日の画を拝見して、両親からの話を改めて思い出しました。

※今回は、投稿者の手落ちで、保存に不備があり色が悪いことをお詫び申し上げます。

八月だ、もっと熱くなろう! 赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part2 P.G.PANGKA(パンカ製糖工場)

神谷武志企画のテレマカシーツアー  第2日目 8月5日 2の1


▲ 昨日は、闇夜の中を走行していましたので、どこへ向かっているのか初めてで分かりませんでしたが、ジャカルタから東へ約200キロ余りを移動しました。宿泊したホテルは、テガル駅から近いBahari-inで連泊となりました。 続きを読む

新規機能のお知らせ

先日の掲示板システムの更新により、画像投稿機能に関して、変更と新規機能の追加がありました。

一つは、画像追加の画面(下画像)においてドラック&ドロップでの追加が可能になりました。複数画像の一括追加にも対応しています。

また、2つ目として、これまでの画像投稿では下記のように記事の間に”一枚ずつ写真を挿入する”形となっていますが、

ギャラリー機能を使用することで、投稿記事に含まれる画像の一覧(ギャラリー)が追加できるうようになりました。
ただし現時点では、ギャラリー機能はレイアウトが崩れます。近日中に修正予定です。