京阪本線特急色600形車両の運行

大津線開業100周年記念イベントのひとつとして今日から石坂線600形を、京阪本線特急色に変えた1編成が運行始めました。また10月27日には「京阪本線特急色600型車両」臨時列車及び撮影会が行われます。詳しくは京阪大津線のサイトをご覧ください。今日は朝から快晴で、先日購入したカメラの初撮りを兼ねて出かけました。今日から運行されると言うことはwebで知ったのですが運用がどこにも書いていません。仕方なく電車が見える、島ノ関駅近くのファミレスで昼食をとりながら待ちました。運行は石山寺-坂本間ということで、最悪40分待てば石山寺行き、坂本行きのどちらかを捕まえることができます。待つこと30分、特急色の車両がやってきました。石坂線でも最近はラッピングした車両が多く、何も貼られていない車両は少数派になっています。久しぶりの特急色、塗装したばかりでラッピングも広告もない車両はやっぱりきれいですね。

時刻が特定できたので時刻表を見て運用を想像し、浜大津から近江神宮にかけて歩きながら写真を撮りました。浜大津ではこれを狙っているのかカメラを持った人が数名いて撮影しています。最近は曜日に関係なくこのあたりでカメラを構えている人を見かけるようになりました。地元民として乗客の増加につながればと思っています。

尚参考のため今日の運行確認できたのは浜大津発13:30近江神宮行き、13:54石山寺行き、14:38坂本行き、15:16石山寺行きでした。京津線ですが1969年ポール時代の300系特急色の写真も添えておきました。

宮崎交通チハ101~103

敗戦後1ドル360円の超円安レート設定による外貨絶対不足で、石油燃料輸入は厳しく制限され、産業復興のトラックや壊滅状態のバス等に限っての配給が長らく続き、電化あるいは石炭でしのげる鉄道には、配分がなかった時代の、それも最末期に出現した車両である。何度も記したが江若鉄道のみ、米軍の虎の威を借りて独自に燃料を確保し、1948年4月以降他鉄道より2~3年早いディーゼル化を成し遂げたが、常総筑波鉄道をはじめとする諸鉄道は指をくわえて見るだけで、その後も闇ルートで確保した燃料を、代燃と偽って使用するしかなかった。多くの鉄道がこの時期電化に走ったのは周知の通りだし、蓄電池バス、タクシーも少なくなかった。TAMAなる電池自動車も発売されていた。 

宮崎交通の鉄道線では、1950年3月蓄電池動車を3両作り上げた。それというのも、同社には既に電気自動車を扱い、バッテリーに関し技術経験を積んでいた宮崎電気自動車サービスという子会社があり、ノウハウを持っていたのである。国鉄のキハ40000を3両購入し、エンジン、トランスミッション、冷却装置、ガソリンタンク等を撤去。代りに150V50kW電動機を1個装着し、駆動システムは従前のものをそのまま使用=ギヤ比も4.056のままだが、逆転メカニズムは殺していた筈である。

宮崎交通チハ101 1958年3月13日南宮崎 湯口 徹撮影 

車体全長に渡って屋根上に逆L型アンテナ(歳が分るが)が張ってあり、走行中ずっとラジオが流され放しだったのは、当時として大サービスなのだが、勿論真空管式ラジオ受信機である

電池は湯浅80V(40個直列)、252Ahを2組床下に装着し、80V/160V切替及び抵抗制御で、電池直列/並列各4ノッチ、計8ノッチであった。車両の改造は広瀬車両、電気部分は中島製作所と神戸電機鳥羽工場。50kWとは67馬力だから、ガソリンカー時代のGMF13=100馬力に比せば2/3だが、幸いこの線の南宮崎―青島間はさしたる勾配がない。竣功図記載の自重は19.78トンで、キハ40000の18.09~18.35トンに比し、1.5~2トン重くなったのは、ひとえに鉛電池のためである。詳しくは田尻弘之『宮崎交通鉄道部』RM LIBRARY69を参照されたい。

電気車の科学1950年10、11月号、宮崎交通鉄道部長の「蓄電池車の採用について」によれば、車両1両の払下と改造、充電所が200万円、計800万円の予算でスタートしたが、地上設備も含め総額1,153万3,516円、内訳は車両払下3両が214万8,197円、電装とも改造費同216万円、蓄電池予備1組共216万円、充電所費252万4,319円、輸送費30万円とのことである。

走行1km当り消費電力1.48kWh、石炭に比せば動力経費が半減した由。しかし現実にはこの直後ディーゼル化が可能になり、蓄電池化は設備投資と人手が馬鹿にならず、結果論としてはもう少し待ってディーゼル化すればよかったことは間違いない。宮崎交通は追いかけて蓄電池機関車2両も増備し、それでいて蒸気動力も残存するという、二重投資を余儀なくされ、ディーゼル化することはなく、国鉄日南線に土地を譲って1962年7月1日廃止したのであった。

なお電池動力は米手作市氏ご指摘の通り、かつて国鉄にAB10なる蓄電池機関車があったのは、火薬工場での引火を恐れたためである。他には鉱山等の産業用に電池機関車はかなり存在し、敗戦後では本郷軌道が蓄電池動力を併用している。旅客運輸動力に蓄電池を採用したのは、範多商会が輸入したエジソン・ビーチ電車を、神戸電気鉄道(現在の神戸電鉄ではなく、神戸市電の前身)が、1906年に試用した例しかない。結局このエジソン・ビーチ電車はどこにも売れず、小樽の石炭埠頭で使用する計画もあったようだが、軌間が1435mmでもあり、実現せず。

現在に至って、新鋭電池によるテストは少なからず行われているが、さて、商業ペースでの実用となると話は別である。なおドイツではかなり古くから、電池動車が実用化されていたが、結局はディーゼルに敵わなかった。

60年前のエコ・カーバッテリーカー

宮崎交通のチハ101型、今はやりのバッテリーカーの走りです。そういえば昭和の初めに国鉄が非電化区間用に蓄電池機関車AB10型、後に電装されてEB10型になった事もありましたね。

ほかにも“電池式自走客車”があったかもしれません。

八月だ、もっと熱くなろう!赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part11 SOLO(ソロ市内線)

神谷武志企画のテレマカシーツアー  第7日目 8月10日 2の1

am; ソロ(スラカルタ)のIndah Palace Hotel 6:30→6:40 ソロ市内線(6:40~10:15)→
pm;
 →14:53 PC Tasikmadu(15:00~17:30) 17:28→ジョグジャBorobudurのManohana Hotel
▲ インドネシアのおかあさんたちは、笑顔一杯でたくましく見えました。Solo-Kota駅では、そんな光景に囲まれました。だから子供たちも元気に育っていくのでしょうね。

6:40、市内のホテルから約10分でPurwosari駅に到着しました。今日ぼ午前中は、この駅からの営業している支線を使ってのチャーター列車に乗車してのフォトランを楽しみます。

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夏の思い出 総決算 -1-

気がつけば9月も下旬です。ここしばらくクローバー会会員とともに、鉄道誌への寄稿・校正作業に追われ、やっと終わったのが、一昨日の午前5時でした。

この間、ずっと家に籠ったままの生活が続き、外は暑いのに、撮影にはとんと熱くならないまま夏が終わってしまいました。

掲示板では役立たずの状態が続いていましたが、これまでの埋め合わせのため、少ない材料を駆使して、夏の報告、総ざらえです。

この夏、珍しく海外旅行が相次ぎました。と言っても、台湾ですが…。

ただ台湾は、本欄でも、準特急さん、ぶんしゅうさんはじめ、デカンショさん、ブキウギさんから、その良さを刷り込まれています。別の用務が発生し、急遽、台湾行きとなりましたが、用務の間に、しっかりカメラに収めてきました。

確かに今も、日本の国鉄時代の懐かしい光景が見られる台湾鉄路ですが、そのなかでも客車急行列車は、まさに国鉄時代の東北本線・山陽本線の再来を思わせる列車で、すっかり魅せられました。今回は、客車急行列車に絞って紹介しましょう。

台湾鉄路には4種類の運賃タイプがあり、日本で言えば、特急、急行、準急、普通列車に相当する。日本のような運賃+料金の概念はない。時刻表に莒光號Chu Kuang Haoと表示されているのが、この急行列車である。すべて客車編成で、電化区間はEL、非電化区間はDL牽引となる。客車は、冷房付き、リクライニング転換クロスシートで、日本で言えば14系客車に当たる。日車・日立で製造されたが、1970年以降の増備車は台湾製もあり、総数は400両を超える。客車の形式は、数字2桁(自重)+英文(種別)+数字5桁(形式区分)の表し方、種別のうち、FPは商務車(1等車)、SPは普通車(2等車)、Kは車掌室付きとなる。製作年代によって細部は異なる。

写真は、台湾高鉄(新幹線)台中駅との乗換駅、新烏日NewWurihiに到着する莒光號655次、台湾高鉄開業に伴い、相互乗換駅として新設された。655次は、台東発高雄行きの夜行列車で、台湾一周路線のうち、10分の9を走破する台湾鉄路最長距離の列車、オール座席車なので台湾版「八甲田」「桜島・高千穂」と言ったところ。

今回は電化区間しか行けなかったので、先頭に立っていたのは電気機関車のE200型である。1976年GE社製で、ほかにも同系としてE300・E400がある。高運転台で、オレンジ部に腹掛けラインが入って、いかにも米国製らしい無骨なスタイルだ。

写真は、平渓線との分岐駅、三貂嶺Sandiaolingを通過する莒光號。付近は、まるで国鉄時代の保津峡か武田尾の趣きだ。

集集線に少し前から動態保存運転されているDT688(D51)を撮影後、乗換駅の二水Ershueiへ。ビンロウ(檳椰子)の樹がいかにも、南国へ来たことを感じさせてくれる。1両目の青色車は、行李車(荷物車)の45WBK80009、2両目も同型車の45WBK80001である。このように1~2両の荷物車の連結が常で、これも国鉄時代である。時刻表には記載がないが、一日数本の荷物専用列車も走っている。

莒光號を駅撮りではなく、駅間で撮りたくなった。台北から2時間程度で行けるお立ち台として、宜蘭線の大里Dali を選んだ。駅から10分も歩けば、太平洋の大海原が見える。沖にはカメの姿に似た亀山島が見える。ポジションも並行する道路から簡単に収まる。おまけに、東部幹線の一部だけあって列車本数も多い。まさに、新幹線開業前の山陽本線須磨下車徒歩10分の気分だった。

DRFCなにわ船場鉄道フェスティバルに再登場!

先に「大津の86」特派員から速報された来る10月12~14日に、【船場まつり】で再び「まつり」の盛り上げ役としてDRFCは活躍する。次回は関西大学、大阪市立大の鉄研との合同参加で、今回好評を呼んだNゲージ京阪電車オンパレードに加え、新機軸が計画されている。【船場まつり】は大阪・中央大通の階下の船場センタービル中心に北は本町通、南は南宝寺商店街、東は堺筋、西は御堂筋を中心に広い範囲で開催される。開催は10時から16時まで、衣服をはじめ掘り出しもの雑貨などの「のみ市」がうりであるお買い得の祭りである。親父一人で訪れるのはもったいない。家族お揃いで、友達誘い合わせ、財布を緩めるつもりででご参加ください。DRFOは御堂筋の西、10号館1階で展開します。

尚、老頭児特派員は13日午後、「船場鉄道フェスティバル」コーナー周辺をウロウロしようと思っています。三条京阪では折りたたみ椅子があり、90分間休息させて頂きました。そこへ会長さんのみならず多くの方と言葉を交わすことが出来ました。15時30分、片づけに入った時、京阪電鉄鉄道企画部の方が挨拶に来られ、来年以降も今回の企画を継続させるので協力要請がありました。「こちらこそよろしく、ご要望あれば現役にお話し下さい、OB会としてバックアップさせていただきます。」との返事をさせていただきました。

サークルステーションIN三条

 本日京阪三条駅にて行われた「サークルステーションIN三条」に行ってまいりました。会場でお会いした米手作市様より、デジ青に様子をアップするようにとのご依頼で報告させていただきます。

 

地下コンコースの一角にグリークラブ等が順に発表するステージがあり、その奥のスペースに9mmゲージのレイアウトが置かれています。京阪の車両が走行し、コントローラーも解放され、子どもたちも運転を楽しみ、ステージの発表に負けず劣らず人が集まっていました。一角ではビデオが上映され、先日受賞された「学生支援センター所長 地域貢献賞」の盾も置かれていました。

  この受賞もあって今回のイベント出展依頼が来たそうです。また、10月12~14日には船場祭り2012にも出展するそうで、これからますます鉄道趣味を通しての地域への貢献という活躍が期待されます。乙訓の老人様もお見えになり、同じく10月14日に南草津で行われる佐竹先輩の講演会の案内を渡され、現役会員とOBとのコラボもあった今日のイベントでした。

10月12日、青森駅に集まれ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おっ~と、青森展も載っていますよ。

本日、一斉に発売された鉄道雑誌各誌に、クローバー会写真展in青森の案内が掲載されています。

会員の皆さんに協力を求め、テーマに合った写真が次つぎ寄せられました。厳選された珠玉の作品50点が、現在、京都にある品質第一の極上仕上げ店で、一点一点丁寧にプリント中。全貌をお知らせするまで、しばしお待ちを!

期間中、はるばる青森まで展覧に訪れる会員も、続々と約3名が現れています。10月12日以降は青森へ!

八月だ、もっと熱くなろう!  赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part10 AMBARAWA(アンバラワ保存鉄道)

神谷武志企画のテレマカシーツアー  第6日目 8月9日 2の2

am: ペガロンガンのNirwana Hotel 6:30(約14キロ)→7:08スラギ製糖工場9:00→9:35 Hotel 9:45→
pm: →(約146キロ)→14:15アンバラワ保存鉄道(15:04~18:28)20:06(約65キロ)→23:34ソロ(スラカルタ)のIndah Palace Hotel


▲ アンバラワ保存鉄道の途中駅で蒸気機関車を見にきていた子供たち。澄みきった綺麗な目がとても印象的でした。


▲ GPSロガーの軌跡地図に計測ポイントを入れたペガロンガン→スラギ→アンバラワの走行地図です。計測ポイントの数は任意に指定できます。加工前の元本地図では、ポイントをクリックするとGPSデータが表示されます。約8分毎のポイントですが、多くなっているのが渋滞を起こした地点です。
ご覧のように右上のスマラン手前で渋滞に巻き込まれましたので、市内を避けて山中を迂回して走りアンバラワ鉄道に向かいました。 続きを読む

9月22日午後は三条京阪地下1階に集合!

先日【23496】で、どですか電氏から紹介されたDRFC現役が「サークルステーションIN三条」に参加する件ですが、クローバー会メンバーはもとより、DRFC・OBで時間の許す諸氏はぜひ京阪電車三条駅地下1階までお越しください。折角の京阪電車のお誘いに、我々も乗せてもらおうではありませんか。Nゲージでどんなパフォーマンスを展開してくれるか、やさしい目で見守ってやろうではありませんか。OB諸兄は現役たちに「何年度のなにがし」と名乗り上げ、8月25日のようにならないように、こちらから彼らを励ましてやろうではありませんか!

老人は午前中、佐竹先輩宅で打ち合わせがありますから、それを済ませた上で三条京阪に参ります。申し訳ないのですが12時開会に間に合いません。遅くなっても13時30分ぐらいには到着するようにします。老人は遅れて参加すると先着のクローバー会の方、伝言願います、15時30分閉会後、対岸に「王将」があります。希望者は餃子定食で生数杯如何でしょうか。ただし、割り勘ですからそのつもりでお付き合い下さい。

 

八月だ、もっと熱くなろう!赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part9 PG.SRAGI(スラギ製糖工場)

神谷武志企画のテレマカシーツアー  第6日目 8月9日 2の1
am: ペガロンガンのNirwana Hotel 6:30(約14キロ)
→7:08スラギ製糖工場9:00→9:35Hotel9:45→
pm: →(約146キロ)→14:15アンバラワ保存鉄道(15:04~18:28)20:06→23:34ソロ(スラカルタ)のIndah Palace Hotel


▲ スラギ製糖工場の集積場ヤードで入換え作業を見る親子? お爺さんと孫? どちらか分かりませんが、子供を大事そうに抱えて見つめておられました。

昨夜遅くというより早朝近くにB班5名が到着され合流されました。B班は今日から14日まで励まれます。一方のA班は、11日に帰国の途につかれます。O氏と私は、失業者で毎日が日曜日ですので、A&B班を跨いでの日程です。
B班は、T・Tさん、S・Teさん、S・Taさん、J・Mさんと台湾のことなら任せてくださいと第一人者のお一人片倉佳史さんが、住まわれる台北から来られました。 今日から3日間は、13名の猛者軍団になります。



▲ 上の地図は、O氏がお持ちのGPSロガーからの今日一日の行動軌跡です。この地図は、ブラウザから開いた軌跡、地図をコピーして、PhotoShopで編集したものです。これではできませんが、元の地図からは任意の位置をクリックすると、時間等のGPSデータが読み取れます。
私は、愛用のNikon300sにGPSを装着していますので、写真を撮りますと、ロガー同様にデータが1コマ毎に保存されますが、軌跡まではできません。GPSロガーですと、後でどのコースを行ったのか分かり、大変に便利です。私も帰国後に同じ製品を買い求めました。

今日は、早朝6時半にホテルを出発してスラギ製糖工場で撮影の後、一旦ホテルに戻り荷を取った後、ラック式のアンバラワ保存鉄道に乗車と撮影をしてソロ(スラカルタ)のホテルへと参ります。 続きを読む

八月だ、もっと熱くなろう! 赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part8 PG.SUMBERHARJO(スンバルハルジョ製糖工場)

神谷武志企画のテレマカシーツアー  第5日目 8月8日
am: ホテル→スンバルハルジョ製糖工場機関区→指令所→集落の橋
pm: 集落の橋→指令所→ホテル

早朝にホテルで朝食後出発、少し風があるためか空気が澄んでおり、今日はスラメト山(標高3,432m)がよく見えます。

7:40にスンバルハルジョ製糖工場に到着しましたが、機関区は、昨日のような蒸気機関車からの煙が立ち込めていなく朝日が斜光になってくれません。どうも、風のため機関庫内に煙が滞留しないためのようです。こんな時にこそ、昨日見えなかったものを見るセンスを要求されますが、私ごときの腕では捜し求める方が無理だったようでした。

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広電2題

中国新聞にはかなりの頻度で広電のニュースが掲載されます。それだけ地元に根づいた鉄道であることの証左かもしれません。ひとつは広島駅前をどうするかの話、もう一つは廃車になったドルトムント市電を改装したレストランが好調だという話です。

浜大津ターミナル ジオラマ完成間近か

       会員諸兄からの情報提供に始まり、模型材料現物提供、あるいは労力ご提供などなど様々な形でのご支援を頂き、ようやく完成の日が近づいてきました。来る10月27,28日と11月3,4日の土曜、日曜に 昨年と同じスカイプラザ浜大津にて展示、運転会があります。開催まであと1ケ月余となりました。今年は京阪京津線開業100周年でもあるので、京阪車両もそこそこ揃えないと恰好がつかず、残された時間のなかで京阪車両もできるだけ準備するつもりです。会員諸兄に浜大津でお会いするのを楽しみにしています。

「2012 サークルステーションIN三条」に現役同好会が参加

3000系の運行時間を調べるために京阪のホームページを開いてみると最新情報の項目の中に「同志社大学×京阪電車連携イベント 2012サークルステーションIN三条」の開催についての発表があって、開いてみると現役の鉄道同好会が鉄道模型展示と運転で参加することが記載されていました。このイベントは平成22年から開催されていて、今回で3回目だそうです。前回までは「同志社グリークラブ」の男性合唱と「同志社大学マジック&ジャグリングサークルHoucus-Poucus」のマジックショーでしたが、あらたに3サークルが参加し、そして鉄道同好会の鉄道模型の展示運転と盛大に行うようです。開催日時と場所は下記のようになります。

場所 京阪電車「三条駅」地下1階コンコース
日時 平成22年9月22日(土、祝日)
男性合唱、マジックショーなど  13時30分から16時(予定)
鉄道模型展示と走行       12時00分から15時30分(予定)

詳細は京阪のホームページをご覧ください。OB会員の皆様、現役の活動を盛り上げに行きましょう。文字だけでは寂しいので学生時代に撮影した3000系6連の写真を掲載します。

大垣の朝

9月8日【23326】でINUBUSE氏が養老線に転属した正統派ラビットカーの夜景等の投稿をされたが、1週間前の8月29日のこと、名古屋に行った時、昼前まで時間が空いたので、これ幸いと養老線を訪れた。

東京駅6時発「のぞみ1号」で出発、名古屋から東海道本線快速に乗継ぎ、大垣発8時43分桑名行に乗車して次の西大垣駅で撮影した。
乗車した桑名行は(←大垣)モ611+サ571+ク511で、旧車号はモ1801+サ6109+ク1901の元名古屋線と元南大阪線の混合編成であった。中間のサ571はク6109として新製され、後日運転台を撤去したため大垣寄りの妻面に丸味があり窓配置が変則になっている車両であるが、この車両に乗ったため撮影はできなかった。
以下、撮影順に紹介する。

西大垣9時発大垣行→9時16分発桑名行/モ612+ク512
旧車号はモ1802+ク1902で平成5年3月に転入している。モ1800形とク1900形は昭和41年に新製された名古屋線の通勤型車で各4両作られた。

9時29分大垣行→9時45分回送入庫/ク524+サ564+モ624
旧車号はク6114+モ6018+モ6017で平成5年6月に転入している。モ6000形は昭和38年に新製された南大阪線の通勤型車で新製時はラビット塗装であった。サ564はパンタが付いているため「M」に見えるが電装解除されている。

9時40分揖斐線運用車の回送入庫/モ602+サ552+ク502
旧車号はモ1657+サ6153+ク1752で平成5年3月に転入している。元名古屋線と元南大阪線の混合編成である。モ1650形は昭和38年(1651~1655)と41年(1656~1659)、ク1750形は40年に1751・1752がモ1600+ク1700形の増結用として作られた。モ1651~1654の4両は57年6月京都線急行新田辺~京都間5連化の時、新田辺区に転属して連結面に簡易運転台を取付け、京都寄りの先頭に連結されていたためご存知の方も多いと思う。
中間のサ552は養老鉄道唯一のトイレ付車両であるが、普段は施錠されており、団臨に使用時のみ使用される。サ6151形は、モ6000形のT車として43年にサ6151~6153の3両新製されている。

9時56分大垣行→10時14分桑名行/ク523+サ563+モ623
旧車号はク6108+モ6016+モ6015で平成5年12月に転入している。前歴等は前述のク524他3連と同じである。

10時27分発大垣行/ク521+サ561+モ621
旧車号はク6101+モ6012+モ6011で平成4年6月に転入している。そろそろ切り上げないと間に合わなくなるため、この電車で戻ったため、大垣駅で先頭のク521の撮影のみに終わった。(以前は全車両撮影できたが、線路際にホテルが建設されたため<大垣寄りの先頭車のみとなった)もう少し頑張ると、この電車と揖斐線の回送入庫が撮影できるが、そこは止むを得ないところである。

留置車/モ604+ク504
旧車号はモ1659+ク1952で平成6年7月に転入している。モ1659は昭和61年、ク1952は62年製で異系列同志の連結である。桑名寄りのク504のみ撮影可能であった。

INUBUSE氏が撮影された元正統派ラビットカーモ6858+モ6857のク506+モ606はあいにく車庫の中で、出庫は18時30分とのことで、帰りにリベンジしようとも思ったが、かなり暗くなるので今回はパスした。

養老線を初めて訪れたのは、現役時代昭和42年7月23日のことで、改造されていたとはいえ旧養老鉄道や伊勢電の車両を見て、近鉄にもこんな車両があったのかと驚いたものである。その後何回となく訪れ、そのたびに車両のバリエーションが増え、志摩線改軌で不要になった元三重交通の車両も転入した。その後元名古屋線のモ6301系列、モ6441形にほぼ統一されたが、新性能化、冷房化が推進され現在の車両になった。

現在の車両も昭和40年代に作られており、車齢を考えるといつ廃車になってもおかしくない。加えて近鉄では少子高齢化による乗客減により運転本数が減少傾向にあるため、今後南大阪線、名古屋線の比較的新しい車両に置き換えられる可能性もあり、引き続き注目していきたいと思っている。

ちなみに42年7月23日は、ロギング太郎さんと行動を共にし、養老線の後、岐阜の行くと市内線の単車の最終日、午後は名鉄金山橋で流電モ3400形、名古屋駅でキハ90を撮影した。

京阪旧3000特急車最後の夏

KAWANAKAです。

夏も終わりですが、京阪旧3000特急車最後の夏の続き。

I,W両氏と澤村氏の墓参を済ませた後、3人京阪で大阪都心へ。おかげでシールラリーが満印になりました。ここまで来たら、富山地鉄と大井川に詣でて締めくくりをせねばなりません。

9月の1,2日、富山に遠征しました。ちょうど富山は風の盆の時期であり観光客で混んでいたが、それを横目に京阪色3000に会いに行きました。夏の濃い緑に京阪色はよく合います。立山駅で念願のプレミアムカードをゲット。暑い中来た甲斐がありました。帰りの駄賃に旨い具合に475急行色に出くわし、それに乗車して帰途につくというオマケまでつきました。折角ですので定番の場所での1コマを。

次に、9日に大井川。早朝出発の老年18切符利用の日帰りです。同じ行くならカマも撮ろう、そしてカードを貰わないとあかんので、金谷から新金谷まで暑い中、真昼間歩き。新金谷で汗まみれになってプレミアムカードをゲット。シールが完成しました。

ただ、やっぱりというか予想とおり、3000は運用に入っておらず、ひっそりと新金谷に留置されていました。しばらく動かないとのことで、シールラリーに協賛するのであれば、「最後の夏」に走らせてもエエのではないかと、残念でありました。同じ思いをした同業者もおりました。折角なので福用まで出向き1コマとって帰途に着きました。走っている写真は撮れませんでしたが、走りたそうな3000が片隅から寂しそうに覗いています。

ついでに、8月に撮った旧3000もどうぞ。

これで小生の夏も終わりになりました。

広電(続々報)

今朝の中国新聞朝刊にまた広電の記事が載りましたので ご紹介します。5連接ではなく3連接の新車も計画中とのこと。横川や白島線から旧型車が淘汰されるのも遠くないことのようです。まずは大阪市電900型が危ない?

中国新聞 H24-9-11朝刊

キハ44000→キハユニ15

「昭和の電車」シリーズの次回の予想を立てるが最近は全く当たらない。国鉄モハ63形から始まった「63シリーズ」が長く続き、次は「改造連接車シリーズ」が始まったが僅か2回で終わった。次は大阪市電の改造連結車、終戦直後の南海と続いたので「終戦直後シリーズ」が始まるのかと思いきや、予想に反して今回はキハ44000形が登場した。

兵庫ふるさと通信員様よりキハ44005→キハユニ156をカラーでUPしていただきましたので、気動車に詳しい諸先輩方を差し置いて解説を試みた。

キハ44000形は、昭和27年から28年にかけて新製された電気式気動車で、DMH17Aエンジンに直結した300Ⅴ100KWの直流発電機を駆動し、発生した電力で後部台車に架装した45KW×2の主電動機を駆動した。
27年8月44000、44001が日本車輌(支店)で44002、44003が汽車会社で作られ千葉気動車区木更津支区に配置された。翌28年3月44004~44007が日本車輌、44008~44011が新潟鐵工所で、44012~44014が東急車両で作られ、44004~44008が木更津支区、44009~44014が大原区に配置された。木更津支区は主に房総西線(現内房線)、大原区は主に房総東線(現外房線)で使用されたが、土気~大網間の勾配区間でのパワー不足のため、程なく成田区に転属した。27年製と28年製では側面のスタイルが異なり、27年製はクハ86の初期車を3扉にしたようなスタイルに対し、28年製は窓が2段化され、上窓はHゴム支持(通称バス窓)になった。関 三平さんのイラストは先頭車が27年製、2両目は28年製で描かれている。

昭和32年4月の称号改正でキハ09形(1~15)となったが、同年度中に液体式とキハユニ15形(1~15)に改造され、全車千葉を離れて北海道を除く全国に分散した。

昭和50年3月末の配置表では、それ以前に廃車になった5、7、15以外の12両が健在で、山形区に4、水戸区に8、10、13、加古川区に3、6、9、浜田区に14、岡山区に1、11、徳島区に12、人吉区に2が配置されていた。

キハユニ151
キハ44000→キハ091、昭和33年3月大宮工場で改造されキハユニ151となった。当初鳥取区に配置されたが37年に岡山に転属して55年8月廃車になるまで在籍した。47年頃正面に貫通扉を設置した。/上:岡山駅 (44-10-19) 下:正面貫通化改造後/岡山駅 (49-11-23)

キハユニ153
キハ44002→キハ093、昭和32年12月大宮工場で改造されキハユニ153となった。当初鳥取区に配置されたが37年に岡山区に転属、更に48年9月に加古川区に転属して55年7月廃車になるまで在籍した。フロントガラスを小さなものに交換したため不細工な顔になった。/加古川区 (49-5-12)

 キハユニ154
キハ44003→キハ094、昭和32年12月小倉工場で改造されてキハユニ154となった。改造後から52年7月廃車になるまで一貫して山形区に在籍した。47年頃正面に貫通扉を設置した。/余目駅 (41-9-5)

 キハユニ156
キハ44005→キハ096、昭和33年3月大宮工場で改造されてキハユニ156となった。改造後から56年5月廃車になるまで一貫して加古川区に在籍した。/加古川駅 (49-5-12)

 キハユニ1514(連結面)
キハ44013→キハ0914、昭和32年12月大宮工場で改造されてキハユニ1514となった。当初加古川区に配置されたが、49年9月岡山区に転属、更に50年3月浜田区に転属して54年11月廃車になった。/加古川区 (41-3-6)

 【参考】
キハ44500→キハ15→キハユニ15
キハ44003~44014の新製と同時期、液体式気動車の試作車としてキハ44500~44503の4両が日本車輌で新製された。キハ44003~44014と同一スタイルで大宮区に配置され川越線で試用された。

昭和32年4月の称号改正でキハ15形(1~4)となり、34年度中にキハユニ15形(16~19)に改造された。改造後16、18は豊岡区、17、19は小郡区に配置され、昭和50年度廃車になるまで転属することなく在籍した。

キハユニ1517
キハ44501→キハ152、昭和35年3月大宮工場で改造されてキハユニ1517となった。50年11月廃車になった。/広島駅 (40-3-27)

 【その他】
キハユニ154と同じ日に撮影した「行先板」と「愛称板」を紹介する。
盛岡~秋田間を花輪線経由で結んでいた急行「よねしろ」の行先板で、夏の期間中は船川(昭和43年4月男鹿に改称)まで延長運転されていた。追分から直接船川に行かず、一旦秋田まで行き、船川線の定期の普通列車に併結され船川まで運転された。

 急行「月山2号」の愛称板。「月山」は上り2本、下り1本という不思議な列車で、上りの「月山1号」は酒田~山形間、「月山2号」は酒田・鶴岡~山形~仙台間の運転であった。
下りは、仙台~山形~鶴岡・酒田間1本のみの運転で、愛称は「月山」であった。従って「月山2号」の愛称板を表示する列車は上りのみであるが、専用の愛称板が存在した。