クローバー会写真展準備完了

まもなく開催される「クローバー会写真展」に展示する会員の作品をパネルに貼る準備作業が市内某所で秘密裏に開かれた。

手配師のF氏によって集められた人夫は5人、ほとんどが未経験者で一時間をかけてで理解させた。作業を始めるとそこはベテラン、二人一組になり手際よく処理して行き18時40分には110枚の作品を完成できたのは鬼の監督と、トリミング指導の人間国宝氏の尽力によるものである。

会員各氏は友人知己を誘い合わせて見に行って下さい。

2月14日~28日 地下鉄烏丸御池駅ギャラリーにて開催です。

今でも気になる江若鉄道(Ⅴ)

今回は湖西線開業後も残っていた元江若鉄道の堅田駅と近江今津駅を紹介する。

旧堅田駅
撮影日は湖西線開業後の昭和50年9月28日である。湖西線の駅は約300m近江今津寄りの山側に新築されたため、江若鉄道時代の旧駅舎がそのまま残り、看板を「本堅田」に取換えバスターミナルとして使用されていた。堅田から生津、途中、葛川細川方面と安曇川方面はここが始発であった。

 駅舎を島式ホームに見立てたため、駅舎側から乗れるように、右側通行で進入した。

 停車中のバスは、車体が小さい43年式BA20で、元安曇川営業所の所属で勾配区間用にギヤレシオを変更して、比良駅(鉄道廃止後は比良舞子口)~比良リフト間で使用されていた。湖西線開業後は乗客が増えたため大型車に置換えられ、堅田営業所に転属して堅田~生津・途中間等で使用された。奥に見えるのは整備工場である。

旧近江今津駅
撮影日は昭和50年5月18日である。廃止後5年半経過しているが、駅舎、機関庫がほぼ原形のまま残り、「近江今津駅」の看板もそのままであった。
この時点では、国鉄バス近江今津営業所は隣接した場所にあったが、程なく国鉄近江今津駅の琵琶湖側に移転した。

 江若鉄道が営業していた頃と全く変わっていない。

 元のホーム側から見た駅舎

 「近江今津駅」の看板もそのまま

 機関庫

国鉄バス若江線について
江若鉄道と関係が深かった国鉄バス若江線について少し触れておきたい。
江若鉄道の延長として「江若線」とならずに「江」と「若」がひっくり返って「若江線」(読み方は「わかえ線」ではなく「じゃっこう線」)となったのは若狭側から開業したことによる。昭和10年12月20日省営自動車小浜自動車所が開設され、新平野駅~若狭熊川間が開業、昭和12年12月21日若狭熊川~近江今津間が開業して江若鉄道と結ばれた。江若鉄道が近江今津まで開業したのは昭和6年1月1日のことで、省営自動車を介して若狭と結ばれるまで約7年を要したことになる。

戦後、昭和31年5月1日から江若と国鉄バスの相互乗入れが実施され、江若バスが2往復小浜まで乗り入れる代わりに、国鉄バスも2往復浜大津まで乗り入れた。江若バスは始発が京阪三条で、京都市内から小浜までの直通ルートとなった。湖西線開業後は国鉄バスの浜大津乗入れは廃止され、江若バスは安曇川始発で存続したが平成9年3月8日に廃止された。

大阪、京都と小浜を結ぶ幹線ルートとして位置付けられ、早くから冷房車が投入されたが、最近では近江今津駅までマイカーで出る人が増えたこと、大阪~小浜間に近鉄バスと福井鉄道バスの共同運行で高速バスが開業したことで乗客は減少している。小浜駅と上中駅の「みどりの窓口」では若江線経由の鉄道連絡乗車券を販売している。同様の例は白馬駅でアルピコ交通の長野行特急バスと長野駅からの新幹線の直通切符を販売しており、東京~白馬の移動はこのルートが一般的になった。
〔国鉄バスの形式〕
車両の解説の前に、国鉄バスの形式について簡単に説明する。国鉄バスも鉄道同様車両の転属が全国規模で頻繁にあったため、登録番号ではなく、局番と呼ばれる形式と番号で管理されていた。鉄道車両の場合は、アルファベット、カタカナと数字の組み合わせであるが、バスの場合は、電話番号と同じく3桁の数字ハイフォン4桁の数字で表示されていた。(例537-3016)第1位は車体長または用途を表しており、下記の通り分類される。
1/車幅長2300mm・全長7000mm・定員29名以下
2/車幅長2300mm・全長8400mm未満
3/車幅長2300mm以下・全長8400mm以上9800mm以下
4/車幅長2300mm超・全長8400mm以上9800mm未満
5/車幅長2300mm超・全長9800mm以上
6/中長距離・観光用
7/高速用

第2位は座席の形状を表す。
1/横向シート(ロングシート)
2/横向き、前向き混用シート
3/前向きシート
4/リクライニングシート

 第3位はエンジンメーカーを表す。
1/いすゞ、2/ニッサン、3/トヨタ、4/三菱ふそう、5/プリンス、6/その他国産、7/日野、8/民生(日産ディーゼル)、9/外車、0/その他

 第4位は年式表す。西暦年号の末尾の数字。

第5位~7位はその年の登録順に付番されるが、バネの種類と冷房装置の有無により始番が次のように規定される。
板バネ/001、冷房付板バネ/401、/501空気バネ、冷房付空気バネ/901
以上のことを念頭に置いて写真を見ていただくと解りやすいと思う。

〔国鉄バスの車両〕
滋22か・・95 (521-1019)/46年式いすゞBU10(帝国自動車工業)

「いすゞ」と「帝国」の組み合わせは民営では少ないが、国鉄バスでは多数存在した。グリーンとクリームの濃淡の旧塗装時代
(50-5-18)

滋22か・・97 (521-1021) )/46年式いすゞBU10(帝国自動車工業)

近江今津から琵琶湖北岸の集落、海津、永原、飯ノ浦を経由する木ノ本行。(近江今津~木ノ本間は琵琶湖線)木ノ本には近江今津営業所の支所があり、琵琶湖線と柳ケ瀬線を担当していた。(50-5-18)

滋22か・384 (637-4401) /48年式日野RC300(帝国自動車工業)

第1位の数字が「6」の中長距離用で、前中扉のワンマンカーであるが、窓が引き違い(メトロ窓)で冷房付きである。このタイプは
44014403の3両在籍した。(54-3-3)

滋22か・411 (641-9911) 44年式いすゞBH20P(川崎重工業)

オバQ形車体で東名高速線の中短距離用として
99119930の20両作られたが、トイレがないため早々に一般路線に転用された。方向幕には「東京駅」「静岡駅」「東名静岡」「沼津駅」等があった。車内設備が良いので貸切に使用されることが多かった。この車のことを「ハイウェイオバQ」と呼ぶ人がいるが、本当の「ハイウェイオバQ」は車長が長くトイレ付のBH50Pのことである。(50-5-18)

滋22か・423 (537-3016) /48年式日野RC300(帝国自動車工業)

近江今津駅を発車した小浜行。車体は前述の「滋22か・・95」と似ているが、こちらはエンジンメーカーが「日野」でライトの形や後部の形状が異なる。このタイプは
3003300930153019の12両在籍した。(50-5-18)

 滋22か・458 (527-5001) 50年式日野RE100(帝国自動車工業)

 
狭隘路線用のツーマン車で1形式1両の珍しい車両である。 (54-3-18)

滋22か・539 (537-6409) /51年式日野RC300(帝国自動車工業)

前中扉の一般的な車両であるが、重要路線である若江線用のため冷房付で、背もたれの高い2人掛け座席と通路部分に補助席が設置されていた。
64096414の6両在籍した。(59-1-1)

滋22か・668 (537-8403) 53年式日野RC301(日野車体工業)

前述の51年式と同タイプであるが、窓が上下共サッシュになった。座席は51年式と同じである。
84038406の4両在籍した。(59-1-1)

滋22か1011 (531-3478) 58年式いすゞK-CJM520(富士重工)

スタイルが今風になってきた。座席は背もたれの高い2人掛けと通路部分に補助席が設置されていた。
34783480の3両在籍した。(59-3-23)

滋22か1014 (647-3975) 58年式日野K-RC721P(日野車体工業)

貸切と兼用で使用された。1形式1両であった。
(59-3-23)

石2う1563 (631-9903) 44年式いすゞBU20P(富士重工)

近江今津営業所の管轄路線にマキノと国境にスキー場があり、スキーシーズンは他の営業所から車両を借入れて臨時便が増発された。この車両は穴水営業所からの借入車で、
99019905の5両在籍した。 (54-3-3)

名古屋22か1657(537-3017) /48年式日野RC300(帝国自動車工業)

名古屋営業所からの借入車で
3003300930153019の12両在籍した。(55-3-22)

〔江若バスの車両〕
江若は安曇川駅~近江今津駅~小浜駅~小浜港間を2往復運行され、社名の面目を保っていたが、前述の通り平成9年3月8日付けで廃止され、若狭には行かなくなってしまった。
若江線に運用されていた車両の一部を紹介する。

滋22か・・35/44年式ふそうMAR470(三菱)

昭和51年5月、京阪バスから譲り受けた車両で、「奥琵琶湖定期観光バス」の予備車を兼ねていた。この車両の経歴は複雑で、昭和44年9月、「京2い1373」京都定期観光バスの車両として誕生。45年12月ワンマン改造後翌年1月に大津営業所に転属して「滋22か・・35」となった。京津国道線を中心に使用され、観光シーズンには京都定期観光バスの応援に行くこともあった。江若に入線後も使用の本拠地が滋賀県のため登録番号の変更はされなかった。尚、京阪バスには同形車が「京2い1374→滋22か38」、「京2い1375→滋22か36」と2両在籍したが、昭和54年12月に廃車になった。
(55-3-22)

参考:京阪バス時代の滋22か・・35

 (50-3-2
/浜大津)

滋22か・・79/46年式いすゞBU05(西日本車体工業)


西工のカマボコ形車体で、滋22か・・75~80の6両在籍し、全車安曇川営業所の所属であった。上は近江今津から若江線の保坂から国道367号線(通称鯖街道)を南下、椋川集落を経由して朽木を結んでいた路線である。
下の車両の方向幕「今津西町」は元江若鉄道の近江今津駅である。(54-3-3/朽木学校前・下 55-3-22/安曇川営業所)

滋22か・212/47年式日野RE100(帝国車体工業)

滋22か・207~213の7両在籍し全車安曇川営業所の所属であった。
(55-6-14)
 

滋22か・651/53年式いすゞBU04(川重車体工業)

座席が改良され、背もたれが高くなった。同時に新製された滋22か・652は堅田営業所に配置された。
(54-3-3)

 滋22か・723/54年式日野RE101(日野車体工業)

この年式以降方向幕が大きくなった。同時に新製された滋22か・724と共に安曇川営業所の所属であった。
(54-3-3)

滋22か・725/54年式いすゞBU04(川重車体工業)

1形式1両で安曇川営業所の所属であった。
(54-3-3)

滋22か・779/54年式日野RC301(日野車体工業)

若江線(江若では小浜線と呼んでいた)のサービスアップを目的として作られた車両で安曇川営業所初の冷房車ある。国鉄バスは早くから冷房車を投入する等サービスアップに努めていたが、江若は座席こそ良くなったが冷房車がなく、夏ともなれば乗客が江若便を敬遠する傾向にあった。国鉄バスとの格差を解消するために冷房車を投入した。車体も特注で座席と窓が一致している。滋22か・778、779の2両在籍した。
(59-3-23)

連接車5

前回の広島電鉄、筑豊電鉄に続き今回も連接車天国の江ノ島電鉄を発表する。単線ながら12分おきに、それも来る電車、来る電車、形や色が違うので面白いと言えば面白いが、何となくケバケバ電車が多い様に見える。本来の江ノ電カラーの方が落ち着いていて好きだ。

2010.5.31 稲村ケ崎付近 藤沢行き305・355・501・551

現役最古参でしぶとく残っている人気者。300形は複雑な改造の過程があるがこの305は新造に近い。

 

2012.2.2 稲村ケ崎~七里ケ浜 1002・1052・10・50

1979年登場でブルーリボン賞をもらったとか。ブルーリボン賞は豪華な車両が多く、通勤車両や路面タイプはローレル賞と思い込んでいたので驚きである。

 

2012.2.2 腰越付近 鎌倉行き2002・2052連結部分

後方は義経、弁慶ゆかりの満福寺。 頼朝の拒絶により足止めをくった所。

 

 

2012.2.2 鎌倉高校前 →1552・1502・1151・1101 藤沢行き

嵐電カラーは期限延長なのか今でも見ることができる。尚、この日偶然にも横浜在住のIさんが多忙な仕事の合間をぬって全く同じ場所で黄昏のいい写真を撮られている。

 

2012.2.2 稲村ケ崎~七里ケ浜  藤沢行き2002・2052・21・61

この電車は下枠交差式パンタグラフ。 比較的落ち着いたカラーであるがコカコーラの宣伝が邪魔で残念である。

2012.2.2  峰ケ原信号所 2002・2052中間台車

 

2010.5.31  稲村ケ崎~七里ケ浜 藤沢行き10・50

1997年登場のレトロ調の電車。都電にも似たようなコンセプトの車両があった。シングルアームパンタグラフ装備。

 

2012.2.2 稲村ケ崎付近 鎌倉行き61・21・2052・2002  

江ノ電は嵐電と共同宣伝の提携をしているが、阪急とも同様の話でもあったのか。

 

2012.2.2 稲村ケ崎~七里ケ浜 鎌倉行き62・22 

61・21は2002年、62・22はその翌年登場。 このようなラッピング等宣伝がないオリジナルカラーの方が落ち着いて綺麗に感じる。歳のせいかな。また、単線ローカル電車の写真には2両編成くらいが丁度よい。

 

2012.2.2 稲村ケ崎~七里ケ浜 鎌倉行き552・502 

連接車らしい写真が撮れる場所は狭い所を走る江ノ電では少ない。やっとそれらしいのが撮れたと思ったら前パン(シングルアームパンタ)が切れてしまった失敗作。500形(2代目)はステンレス製。502Fは2008年登場で江ノ電では最も新しい。

 

1970 稲村ケ崎~七里ガ浜 鎌倉行き303

同じ300形でもこの番号あたりになるとよくわからない。江ノ電では元玉電の600形は撮影したが、元山梨交通800形は撮影できなかった。

 

1970 稲村ケ崎 藤沢行き502

1956年登場でヨーロッパスタイルといわれたが今は廃車され足回りが20形に流用された。

 

以上、江ノ電連接車を取り急ぎ発表したが、形や色が多過ぎて全部掲載するとご迷惑がかかるので特に1000系列のうち1100、1200等は色違いも含めてカットした。

浜大津ターミナル復元(その4)

京阪大津支社

京阪大津支社

その3でご紹介した商工中金ビルの隣の京阪大津支社が出来上がり、この一角の建物が揃いました。京阪タクシーの看板を揚げましたが、まともな写真がなく、また年代によって変化しているようで 汽船タクシーかもしれません。次は交差点を渡った角の おみやげ屋、パチンコ屋のブロックにしようと思いますが、今までの建物と違って おみやげ屋はオープンな店であり、店先をどのように作ろうかと悩んでいます。ナショナルの広告塔も大切なアクセントになります。ではまた。

奈良電デハボ1200登場!

懐かしの奈良電!

思い出せば紀元節が復活した年に柏原神宮まで乗ったのが最初でした。奈良電はよく乗りましたが、久津川にいた友人の家を訪ねるためで、特急に乗ることは無く、奈良電らしからぬ明るい社内とクロスシートにかかった白いカバーに感激したものでした。

もっともこれは近鉄になってからで、この絵にある奈良電色ではありませんでした。近鉄特急の色でありながら車体幅やキハ20のような窓に旧型車の匂いがして特急料金を取られるのが不服ではありました。

 

とほほ! 寝台特急日本海 運休

2月中旬からの長期の中国鉄路の旅準備のために体力温存に努めておりましたが、そろそろ我慢できなくなり、それではと厳寒撮影の予行演習も兼ねて、3月時刻改正でなくなる寝台特急日本海急行きたぐにの乗車をやっておこうと思いたちました。

同行者を探したところ伏見の山の手住宅街に住むDRFC-OBのT君から、是非共との快諾を得ました。私には珍しく2度の打合せを行い、津軽鉄道ストーブ列車と、T君が愛した五能線を乗車して、沿線の有名な不老ふ死温泉に連泊をして、撮影後きたぐにで帰るとのプランが出来上がりました。宿泊・レンタカー手配、切符の購入等々を済まして、本日自宅を出発しました。

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浜大津ターミナル復元(その3)

大津公会堂、江若浜大津駅本屋に続いて 京阪浜大津東駅の背景となる幸福相互銀行と商工中金の2棟が竣工しました。幸福相互銀行は改装されて日本政策金融公庫やクリニックが入ったビルとして現存しています。屋上の広告塔は看板が外されて骨組みだけが当時のまま残っています。一方の商工中金は建て替えられて現存せず、今は大津商中日生ビルという高層ビルになっています。例によって外観の色は判らず、創作です。この2棟が出来たので 次はすぐ隣の京阪大津支社を作れば 浜大津交差点の東南ブロックが一応出来上がることになります。幸福相互も商工中金も単純な箱型なので楽だったのですが、京阪大津支社は瓦屋根のL型の建物なので手間取りそうです。大きい建物ばかりを作ってきたので ちょっと息抜きにかわいい浜大津交番も作ってみました。京阪浜大津駅に隣接していたものです。以前買ったままで出番の無かった赤のLEDを交番のアクセントとして組み込んで点灯するようにしました。建築模型もなかなか楽しいものですヨ。

アルミカーについてのつぶやき

暫くおとなしくしていた。その間、福島電鉄、連接車やアルミカーと、参入したい話題が続発したが投稿出来なかった。アルミカーについては、澤村君とこんな会話を交わしたことがある。京阪5000系の事だが、「台枠もアルミと言う話を耳にしたが、本当か?」と尋ねた。暫くして「台枠、正面の工作共にアルミニュームです。」との返事を貰った。続けて「でないと座席昇降装置、付加された4扉分の装置類を含め、T車で自重25頓(補機積載車)の数値をクリアすることなど不可能です。正面の形状、庇があるのはアルミ板工作上から考え出されたことで、意匠上の理由だけではないのです。」と教えられた。前代未聞の座席昇降装置付き5扉車の設計について京阪車両部と川重設計部は、アルミニューム構体製作について知恵を絞り切った事であろう。5000系の竣工は197012月だから、DRFC1967年生の澤村君は入社前で、入社後の彼に老人は質問をぶつけたようだ。

ダブルデッカー試作が宮下社長に認められた頃、「次は5000系の更新です。」と言いだした。第1編成が終わったころ「台枠、大丈夫だったか?」と尋ねてみた。「川重の専門屋が後20年は大丈夫と言ってくれましたのでヤレヤレです。」と晴れやかな顔をしていた。この後、6000系をはじめ新造車は全てアルミカーが続くのだから、当事者は気になって当然の事である。玄人の澤村君と素人で野次馬精神旺盛な老人の間で、京阪5000系について2人が特別に話題にした事であった。

車両構造について、どのように、何を基準として分類すればよいのだろうか。鉄道車両の車体構成材進歩の道筋を追ってみると木材、木材と鋼鉄材の混用、鋼鉄材、金属材等の過程を辿っている。鋼鉄は金属材だが、20世紀前半は金属材の中でも独立した存在であったが、20世紀中期から他の金属材と混用されるようになった。その中でアルミニュームが車両の軽量化で注目を浴びるようになり、今日を迎えている。

車両構造上、最も重要視されているのは台枠である。木造建築で言えば土台である。これの良し悪しが出来栄えに、寿命に大きく影響する。さて栃尾鉄道のモハ210号はどんな構造材と仕上げ材でもって製作されたのだろうか。山陽電鉄のアルミカーは、台枠を始め構造材はすべてアルミニュームだと社員さんから聞いたことがある。日本では戦時体制下、ドイツからアルミ合金であるジュラルミンを輸入して軍用航空機に使用しようとしたが、工作技術伴なわず断念したと兄から聞かされたことがある。それが戦後、鋼板代わりに使用され「ジュラ電」登場となったようだ。

栃尾鉄道はどのようなルートでアルミニューム板を入手したのか、それを車体のどの部材として使用したのか、日本最初のアルミ製電車として相応しい条件を備えていたのか、謎の残る話題である。老人は1959年、東北旅行の帰途に栃尾電鉄に立ち寄っているが、長岡-悠久山間往復を夕方しただけで車庫には寄らず仕舞いであった。こんな先進的な車両があるなら長岡でステーションホテルするのであったと、今になって悔いている。こんな事を思い付いた。新潟、富山県は大河による水力発電国である。阿賀野川水域では忌まわしい産業公害の加害者として昭和電工の名が出てくる。同社は戦前期にアルミニューム精錬に成功したようだ。富山では黒部川、庄川の下流域でアルミ精錬、加工業者の名が認められる。アルミ精錬、加工には莫大な電力を必要とするが、新潟では昭和電工が製品販路開発のため県下の企業である栃尾電鉄に、試験使用を委託したとしたら出来すぎる話となるかな? 想像することは当っても外れても楽しい。

さて近鉄名古屋線の6531号の写真を1枚見付け出した。ご要望にお応えできるかどうか……。他の車両も高橋弘さんにプリントしてもらったが、どなたかにプレゼントしたので手許にない。再プリント待ちにさせて下さい。ありがたい事にNEOPAN SSはしっかり残っている。

 

近鉄名古屋線クハ6531号、1958.11.03

近鉄名古屋線クハ6531号、1958.11.03

連接車4

今回は連接車の多い広島電鉄と筑豊電鉄を採り上げてみた。

広島電鉄には皆さんよくご存知の通り京都市の1900形をはじめ各地の路面電車を元の色のままで走らせる等興味深いものがある。最近はヨーロッパスタイルとでも言おうか長い新型連接車も見られ、私のような何でも屋にはとてもその全容を把握するのは無理である。広島県在住の方や路面電車のご専門の方々のコメントをお待ちしたい。尚、新型と表現したが、最近よく使われるLRTなのか軽快電車なのか今一よくわかっていないのであえて使わなかった。新型路面電車の中にはLRTや軽快電車でないものもあるのであろう。

1977.10.8  宮島線井口付近 2505

1961年~66年に製造され後に3100形に改造された。改造されずに廃車されたものもある。この時は荒手車庫で阪急から譲渡された今津線500形、嵐山線210形を撮影することが主目的であった。後方には併走する山陽本線が見られるが、まだEF58や80系が走っていた。

1977.10.8 荒手車庫 西鉄1203

西鉄福岡市内線から譲渡された頃の姿と思われる。後に広島電鉄3000形となった。

2008.9.8 胡町 3007

元西鉄福岡市内線1101、1201、1301形を改造、3007ACBは元西鉄1305A・1207B・1305B

2008.9.8 八丁堀~胡町 3703

 

2008.9.7 紙屋町西 3803

 

2008.9.7  宮島線阿品東 3904

暑い1日だったがこの電車の時は御日様が隠れた。

 

2008.9.7  原爆ドーム前~紙屋町西 3952

この日はセ・リーグで行ったことがなかった広島市民球場で阪神戦を見るのが目的であった。広島城を見学してぶらぶらと球場のあたりを歩いていたら「1番センター赤星」のアナウンス。この日はナイターでなくデイ・ゲームであった。ホテルに戻ってお色直しすることも出来ず、そのまま重いリュックで球場へ行く。この日も阪神は負けた。確か巨人に13ゲーム差をひっくり返された年と思う。

 

2008.9.8  銀山町 5107 

5連接車で何となくヨーロッパで見かけるスタイルである。顔は西武の30000に似ている様な気がする。

 

筑豊電鉄という名前は最近まで知らなかった。西鉄の子会社で1956年3月に開業しているので最近できた電鉄会社ではない。何しろ鉄道趣味という厄介な病にかかった頃は蒸機第一で、筑豊といえば猫もしゃくしもC55やD50を追っかけ、北九州電化にもあまり目を向けなかった。ましてや筑豊電鉄なぞ存在すら知らなかった。1964年10月の交通公社の時刻表が手元にあるが、それによると黒崎~筑豊直方70円、朝夕通勤時は2~3分毎、日中5~10分毎とある。JR直方からかなり離れた遠賀川の畔に高架の筑豊直方駅があった。大きな川に小さな電車では撮影するにも感が狂ってしまう。来る電車来る電車皆連接車でしかも吊り掛け車と聞く。スタイルはカルダン車なのだが。

2010.11.19  筑豊直方~感田 黒崎駅行き2003

西鉄軌道線1000系列を譲り受けて3両連接車に改造したもの。

 

2010.11.19  筑豊直方~感田 筑豊直方行き3005

2000形を車体更新したもの。乗客が少ないのか広電の長編成化とは反対に短編成化されている。

 

 

浜大津ターミナル復元(その2)

藤本様 江若の貨物列車、貨車の写真ありがとうございます。大津公会堂に続いて、主役である江若浜大津駅本屋が完成しました。藤本様の霧の浜大津駅DD1352写真を再現してみました。第3期工事はナショナル広告塔のあるお土産物屋、パチンコ屋の一角にするか、商工中金・幸福相互銀行にするか、あるいは京阪大津支社にするか思案中です。すべて必要なので要はどの順に手をつけるかだけのことですが・・・。

感動 ふたたび!

写真展の準備で忙しく、掲示板投稿もままならない当特派員のところに、嬉しいニュースが飛び込み、思わず手はキーボードを叩いてしまいました。

昨年11月に行われ、その感動が覚めやらない、西村さん「江若鉄道復元模型運転会」の様子が、いま発売中の「とれいん」2月号に、ご本人による復元記が掲載されています。会場の様子も、わざわざ取材に来られたMさんの手で撮影されており、当日の様子がリアルに伝わってきます。Mさんは、ご自身のコラムにも、関連記事を寄せられ、江若の思い出とともに、西村さんとの出会いについても、言及されています。

今回はプロローグで、全体の概要を記されていますが、「友人たちの協力」と題して、クローバー会のネットワーク・レスポンスについて言及されている点、お手伝いした私としても、たいへん嬉しい思いで読みました。

今後も連載が続き、製作記へも入ってくるようで、これからが楽しみです。

「江若鉄道復元記」の載った「とれいん」2月号、まだの場合は、売り切れないうちに書店へ直行!

今でも気になる江若鉄道(Ⅳ)


 近江舞子~北小松間 (41-4-29)
 
今回は貨物列車と貨車を話題にした。
我々団塊世代が現役の頃は貨物列車が1往復運行されており、廃止1年前の43年8月19日のダイヤは下記の通りであった。
〔下り301貨〕浜大津9:15→叡山9:40/9:50→堅田10:06/10:15→和邇10:27/10:40→高島町11:22/11:35→安曇川11:45/1205→新旭12:10/12:20→近江今津12:30
〔上り302貨〕近江今津14:00→新旭14:10/14:20→安曇川1426:14:45→高島町14:55/15:06→和邇15:46→堅田15:58/16:10→叡山16:25/16:35→浜大津16:58  
上記の他、三井寺下、滋賀、雄琴温泉、真野、近江木戸、比良、近江舞子、北小松、饗庭に停車し、日吉、蓬莱、近江舞子南口、白髭、北饗庭は通過した。
時刻の表示されている駅は貨物ホームがあり車扱い(1車貸切)を含め貨物全般を取り扱い、その他の停車駅は小口貨物のみ取り扱っていたと思われる。

【貨物列車】

 浜大津駅での入替作業
(40-12-8)

 霧の浜大津駅で発車待ち
(41-1-31)

 浜大津~三井寺下間の琵琶湖疏水の鉄橋 
(41-2-19)

 滋賀~叡山
(44-10-14)

 滋賀~叡山
(44-10-10)

 日吉~雄琴温泉
(44-10-5)

 蓬莱~近江木戸
(44-10-18)

 蓬莱~近江木戸
(44-10-26)

 近江舞子~北小松
(41-4-29)

 北小松~高島町
(44-10-4)

北小松~高島町
(44-10-5)

 高島町駅
(44-10-5)

 水尾~安曇川
(44-10-24)

【ディーゼル機関車】
DD1351
昭和32年12月汽車会社製で国鉄のDD13に先立って新製され、試作的要素が強かった。廃止後別府鉄道に譲渡された。

 高島町 (44-10-4)

DD1352
昭和37年5月汽車会社製で国鉄DD13112~264とばば同形である。廃止後岡山臨港鉄道に譲渡された。

 三井寺下機関区 (44-10-3)

 DC251
昭和35年帝国車輌製で、昭和39年3月31日付で廃止された熊延鉄道DC251として新製され、同年8月27日付で江若鉄道が購入した。DD13と共に貨物列車の牽引に使用され、特に水泳シーズンはDD13が臨時の客車列車に使用されるため、貨物列車は本機の独壇場であった。元機関士の方のお話では乗り心地は最悪で、腸が捻じれる思いであったとか。廃止後は紀州鉄道に譲渡された。

 

 
  三井寺下機関区 (44-10-3)

【貨車】
貨車については手許に資料がないため画像のみとする。
ワ2(形式ワ1形1~7)

 三井寺下
(44-11-1)

ワ102(形式ワ100形100~105)

 三井寺下
(40-8-13)

ワ150(形式ワ150形150~152)

  三井寺下
(41-2-16)

ワム11(形式ワム11形11~13)

  三井寺下
(44-10-10)

 ワム13
ワム11と同じ形式に分類されているが形が異なる。

 三井寺下
(44-10-10)

ワフ450(形式ワフ450形)

 三井寺下
(40-8-13)

 三井寺下
(44-10-12)

ワフ280(形式ワフ280形)
昭和19年汽車会社製、元国鉄ワフ28054

  三井寺下
(44-10-24)

トム306(形式トム300形300~307)

 近江今津
(44-10-11)

【ディーゼル機関車その後】
3両の機関車は全機譲渡され、社紋を取り換えたのみで同一車号で活躍した。しかし、譲渡先鉄道の廃止や貨物営業の廃止により姿を消した。

DD1351
別府鉄道に譲渡され、土山線の重量貨物を引いて活躍したが、昭和59年2月1日廃止により廃車になった。


 別府港
(49-5-12)

DD1352
岡山臨港鉄道に譲渡されたが、昭和59年12月30日廃止により、水島臨海鉄道に譲渡された。同鉄道では部品取りとなり車籍には入らなかった。

  南岡山
(49-5-12)

DC251
紀州鉄道に譲渡されたが、昭和59年2月1日貨物営業廃止により、同年7月廃車になった。

 紀伊御坊
(52-1-16)

DC301
昭和29年新三菱三原車輌製で、昭和39年DC251と代替で別府鉄道に譲渡された。DD1351と再会したが、昭和53年4月廃車になった。
DC301の江若鉄道時代の画像は、湯口先輩投稿の10月29日【15831】「江若鉄道廃止以来42年」に掲載されているのでご覧いただきたい。

 別府港
(44-10-21)

近鉄名古屋線ク6561形について

1月10日【17372】「今でも気になる江若鉄道(Ⅲ)」で乙訓の長老より「オハ1960」台車についてコメントをいただき、一寸と気になったので手持ちの資料で確認した。当会には近鉄に詳しい方が多数おられるので間違い等があれば訂正をお願いしたい。

〔ク6561形〕
ク6561形は、昭和27年近畿車両で名古屋線急行用として6561~6565の5両新製された車両で、扉間転換クロスシート車であった。
昭和33年にク6561が運転台撤去の上トイレを設置、扉を両端に移設して特急用に整備されサ6531となった。
昭和34年11月19日から27日にかけて実施された改軌工事により名古屋線の標準軌化が完成したが、その際ク6562とサ6531は台車を近畿車両製K-67から同社製のKD-31Bに履替えた。
この時に放出された台車と近江今津に保管されていたホハ101の台枠を利用して江若鉄道のオハ1960が製作された。

 冨吉(
43-4-29

〔サ6531形〕
ク6561がサ6531に改造された経緯は、昭和28年に特急用としてモ6421形とク6571形が各5両ずつ新製、昭和30年に増結用としてモ6426が増備され、その相棒として昭和33年にク6561を改造してサ6531が作られた。
昭和35年新ビスタカーの増備によりモ6421形、ク6571形と共に扉を増設して一般車に格下げ改造が実施され、特急用であった期間は僅か2年であった。
長老に於かれましては、その貴重な画像の公開を是非お願いしたい。

 冨吉(
43-4-29

〔その他の車両〕
近鉄に詳しい方を差し置いて、同時期に撮影した名古屋線車両の画像を何枚か貼り付けた。

モ6304(モ6301形)
名古屋線名古屋~桑名間の前身関西急行電鉄モハ1形として昭和13年に10両新製。昭和16年の改番でモ6301形6301~6310となった。扉間転換クロスシートを装備し、戦後特急復活時には特急にも使用されたが、昭和31年ロングシート化された。

 白塚(
43-2-13

モ6316(モ6311形)
6311~6315は昭和17年、6316~6320は19年に新製され、前車は扉間転換クロス、後車はロングシートであったが、昭和31年に扉間転換クロスに改造された

 白塚(
43-2-13

モ6334(モ6331形)
戦後の昭和23年、6331~6340の10両新製された。扉間固定クロスシートであった。

 白塚(
43-9-28

モ6338(モ6331形)
昭和37年、車体を20mに延長して中央に両開きの中扉を設置した。

 白塚(
43-9-28

モ6267(モ6261形)
昭和22年、戦災車モニ6251、6255の改造名義でモ6261、6262と新製車としてク6321~6325の7両作られた。ク6321~6325は昭和33年に電装され、モ6263~6267となった。

 白塚(43-9-28

 モ6421(モ6421形)
昭和28年特急専用車としてモ6421~6425、ク6571~6575の10両、昭和30年にモ6426が新製された。10100系新ビスタカー、10400系エースカーの増備により中扉を設置して一般車に格下げられた。画像のモ6421はク6571と共に養老線から大井川鉄道に譲渡されたが、現在は休車となり千頭に留置されており再起の見込みは薄い。

 白塚(
43-2-13

モ6431(モ6431形)
昭和33年大阪線の旧ビスタカー10000系と同時期に新製された特急専用車で、モ6431、6432、ク6531、6532の4両作られた。10000系がWN駆動であったのに対し吊掛式であった。昭和40年早くも中扉を設置して一般車に改造された。

 白塚(
43-2-13
ヘッドライト2灯化後

 白塚(
43-9-28
特急時代のク6581
内部、八王子線撮影時の「ついで撮影」。他の車両も真面目に撮影しておくべきだったと悔やまれる。

 四日市(
40-5-23

モ6447+ク6547(モ6441形+ク6541形)
昭和33年、元伊勢電気鉄道(以下伊勢電と略す)モニ6231形を解除して大阪線モ1460形と同形の車体を新製した。10編成作られた。検車区では6441系を「デラ」、新性能の1601系を「ラビ」と呼んでいたが、「デラ」は「デラックス」、「ラビ」は「ラビット」の略と思われる

 四日市(40-5-23

モニ6226(モニ6221形)
昭和4年伊勢電デハ二221形として6両新製。昭和7年「デ」を「モ」に変更、昭和16年3月15日関西急行成立時にモニ6221形6221~6226となった。昭和34年の名古屋線改軌時より養老線への転属が始まり、最終的には全車養老線で使用された。モニ6226は窓改造が実施され下段固定上段下降となった。

 白塚(
43-4-29

ク6461(ク6461形)
昭和4年伊勢電ハ461形として3両新製、直ぐにクハ461形に変更、昭和16年の改番でク6461形となった。窓上に半月形の飾りがあったが後に撤去された。昭和42年に運転台を撤去してサ6461形となった。

 四日市(
40-5-23

サ6451(サ6451形)
昭和3年伊勢電ハ451形付随車として3両新製、翌年運転台を取りつけてク451形、昭和16年の改番でク6451形、昭和42年運転台撤去でサ6451形となった。

 冨吉(
43-4-29

サ6471(サ6471形)
昭和5年伊勢電が桑名~大神宮前間全通時にクハ471形として3両新製、昭和16年の改番でク6471形となった。昭和22年6月有料特急運転開始時に特急用となったが、昭和36年一般車に格下げとなった。昭和39年に運転台が撤去されサ6471形となった。

 白塚(
43-9-28

ク二6481(クニ6481形)
昭和5年伊勢電が桑名~大神宮前間全通時にデハ二231形として12両新製、昭和16年の改番でモニ6231形となった。電装品をモ6441形に流用、南大阪線の「かもしか号」用に改造、伊賀線、養老線に転属で、最終的に名古屋線にクニ6481~6484の4両が残った。

 白塚(
43-4-29

ク6503(ク6501形)
昭和4年、吉野鉄道の301形として14両新製、称号はサハであるが実体はクハであった。関西急行鉄道開業時に名古屋線に転属した。昭和16年の改番でサハ301~310はク6501形6501~6510、サハ311~314はク5511~5514を経てク6511~6514となり、後日古巣の南大阪、吉野線に転属した。
ク6503は事故復旧時に車体更新が実施され、画像のスタイルになった。

 白塚(
43-2-13

モ6253(モ6251形)
昭和5年、参宮急行デニ2000形として8両新製、昭和11年に狭軌化され名古屋線に転属、昭和16年の改番でモニ6251~6258となった。戦災で6251と6255を焼失(後にモ6261、6262として復旧)、車体更新で荷物室を廃止してモ6251形となった。荷物室扉を客室扉に変更したので変則3扉車になった。

 冨吉(
43-4-29

モ6257(モ6251形)
ヘッドライト未改造車。名古屋線の張上げ屋根の車両はヘッドライトの2灯化が行われ、優美なスタイルが崩れてしまった。

 冨吉(
43-4-29

モ2217+モ2243
名古屋線広軌化後、大阪線の2200形が入線するようになった。2200形と2227形の豪華な2両編成であるが、2217は昭和5年製で2扉クロスシートは3扉ロングシートに改造されている。

 白塚(
43-9-28

モ2243(モ2227形)
2200形(新)とも呼ばれる車両で昭和14年と16年に20両新製された。戦後も特に大きな改造は行われず、最後まで扉間転換クロスシートであった。画像のモ2243は片運化時にヘッドライトを増設している。

 白塚(
43-9-28

ク3115(ク3110形)
昭和16年、モ2227形の制御車としてク3110~3114の5両新製された。昭和38年から40年にかけて中央に両開き扉を増設した。

 四日市(
40-5-23

デ21(形式デ21)
昭和4年、元伊勢電521号機として日本車輌で新製、電装品は東洋電機製である。名古屋線改軌時に本機も改軌された。この時改軌されたのはデ2(昭和2年川崎造船製)、デ21、デ32(昭和23年三菱重工製)の3両で、デ2は塩浜工場の入替、デ21とデ32は保線工事に使用された。

 白塚(
43-2-13

トムフ7152

 白塚(
43-2-13

 

 

本邦初のアルミカー

「新年第1回は山陽電鉄のアルミカー」の湯口先輩のコメントを拝読して胸が透く思いであった。と言うのも「アルミボディ電車の最初は山陽電鉄」の記事に対し、いつも「日本初のアルミボディ電車は越後交通のモハ210でっせ」と心の中で叫んでいたからである。
という訳でモハ210と電装解除後のクハ112の画像をご覧いただきたい。

 長岡駅/43-9-30

 
 下長岡/48-4-29

越後交通栃尾線には特徴ある車両が多数在籍していたが、その中で両端デッキ付のモハ209を紹介する。昭和27年自社工場製でモーターは平行カルダンの55.95kW×2と吊掛式42kW×2の双方を持つという変わった機構で、ラッシュ時には客車を4~5両引き、正に機関車兼用の電車であった。

 長岡駅/4
7-4-30

銚子電鉄の近況


君が浜~海鹿島間を走行するデハ1002

年末の12月29日、銚子電鉄を訪れたので報告したい。
現在の在籍車両は、デハ801(元伊予鉄道モハ106)、デハ1001、デハ1002(元営団地下鉄2040、2046)、デハ2001+クハ2501、デハ2002+クハ2502(元伊予鉄道モハ822+クハ852←京王電鉄デハ2070+サハ2575、モハ823+クハ853←デハ2069+サハ2576)の7両の電車とデキ3、ユ101である。
デハ801は一昨年9月23日にデハ701と一緒に「さよなら運転」を行ったが、廃車にはならずに車籍が残り客扱いはしないがイベント時に動いている。ユ101は長らく外川駅に留置されていたが現在は笠上黒生駅の側線に留置されており、再起の見込みは極めて薄い。

当日は、デハ1002とデハ2002+クハ2502が稼働していたが、年末のためか観光客は少なく、単行で丁度良い程度の乗客数であった。
デハ1002は、丸の内線方南町支線時代の塗装に変更され、11月26日から運用に就いており、車号に因み1002部限定で記念乗車券が販売されている。デハ1002の前身は銀座線の2000形の2040であるが昭和43年5月に方南町支線用として丸の内線に転属した。もう1両のデハ1001は元2000形2046でこちらは最後まで銀座線の所属であった。

平成22年1月23日に「さよなら運転」を行ったデハ702はデハ701と共に笠上黒生駅の側線に留置されていたが、11月8日の夜「ポッポの丘」(10月9日【15231】「房総半島横断の旅」参照)に向けて搬出された。「ポッポの丘」では再塗装等整備の上12月16日から一般公開されおり、近々見に行きたいと思っている。

外川駅の側線に留置されているデハ801。予備車として残されており、再度勇姿が見られるかもしれない。

丸ノ内線方南町支線時代の塗装に塗り替えられた。/笠上黒生

塗装変更のポスター

記念乗車券発売のポスター

笠上黒生駅に進入するデハ2002+クハ2502

デハ2002



 デハ2002の車内

 クハ2502の車内



 デハ2001+クハ2501

 デハ1001

 笠上黒生駅の側線で放置状態のユ101


本社、車庫等銚子電鉄の中枢機関がある仲ノ町駅


唯一の交換駅 笠上黒生駅

 【耳寄り情報】
JR東日本千葉支社では1月14日から3月31日まで「パワフル×スマイル千葉フリーパス」を発売している。通用期間は1月14日から3月11日までの土休日、3月17日から31日までの毎日で、千葉県内のJR、銚子電鉄、小湊鉄道、いすみ鉄道の全線が乗り放題で1800円である。但し発売箇所が千葉県内JRの有人駅に限られており、都内からの場合は松戸、市川、南流山のいずれかの駅で途中下車して購入する必要がある。松戸~銚子間の片道運賃は1890円、松戸~大原間は同1590円であり、上記私鉄を訪れる場合はおススメある。また「青春18」と異なり特急券を買えば特急にも乗車可能である。

新年第一回は山陽電鉄アルミカー

関三平画伯の「昭和の電車」シリーズも新年再開です。

山陽2000系だったか分かりませんが、扇形の模様の入った車体の電車を見たことがありました。tsurukame先輩、湯口先輩、ご解説お願いします。場所柄、前歯堅造氏あたりが適任なのだがあいにく彼は国鉄のスハ43にしか興味がなく、かつて「急行つるぎを愛する会」を一人で創ったぐらいだから山陽電車には興味はなさそうである。

小田急消滅車両補正

 デジ青[17357]「小田急消滅車両」でJR東海の371系小田急乗り入れ車両も掲載したが、これは小田急の車両ではなくJR東海の車両であり3月に消滅するという情報はない。3月17日ダイヤ改正で消滅する小田急の車両は10000形、20000形、5000形で、同時にJR東海371系の小田急乗り入れがなくなるということを早とちりしてしまった。お詫びしたい。なお、JR371系はまだ使われるようで団体専用なのか他の使われ方があるのか注目される。また、小田急は気動車5000形、5100形や3000形(SE車)以来の伝統を守り、どうも御殿場までは乗り入れを継続するようだ。その車両は地下鉄乗り入れに使われている60000形との情報も流れている。お詫びの続きで有名撮影地で申し訳ないが、私自身始めて行った御殿場~足柄の371系と今後御殿場線乗り入れに使用されるとの噂のある小田急60000形を掲載する。

 

 2012.1.13 JR御殿場線御殿場~足柄 2M 特急「あさぎり2号」新宿行き

金曜日であったが、付近には車10台が並び、和歌山、滋賀の関西ナンバー、豊田、浜松の中部ナンバー、品川、所沢の関東ナンバーなどを見かけた。駅から徒歩25分。歩いて来たのは私一人。

 

2011.11.5 小田急小田原線鶴川~玉川学園前 60051 箱根湯本発特急「メトロはこね22号」北千住行き

この車両が乗り入れ予定の60000形MSE

連接車3

今回は福井鉄道である。福井鉄道は福井駅前の路面軌道しか見ておらず高速で走る姿がなく申し訳ない。

 

      1967.9.14 市役所前 急行福井行きモハ202-2+202-1

 当時は地方私鉄の雄のような存在で連接車の紹介では必ず顔を出していた。 1960年より日本車両で3編成つくられ現在も現役と聞く。後に両端台車はJR113系のものに交換されたり、冷房化により概観に変化が現れたが、この写真は新製時に近いものである。この車両に乗ったことがないので大きなことは言えないが、WN駆動、固定クロスシートの意欲的な急行用車両で綺麗な湘南スタイルの電車と私は思う。尚、この時はゼミ旅行で立山に行った帰りに福井に立ち寄ったもので、路面電車の撮影はその後も駅前で済ませて数だけ稼ぐというぐうたら撮影が多い。

 

      2011.9.6 市役所前 越前武生行き 772 

1987年に日本車両で4編成つくられ2005年まで名鉄岐阜市内線揖斐線直通に使われた車両。側窓は当初からの冷房車のため、固定式である。それにしても見事なカラーリングの車両である。ところで「大人の休日クラブ」を利用すると東京から出てきて福井で2時間ほど撮影してその日のうちに帰ることができる。それも安い料金で。時間的に大変便利で有難いがはるばる来た感じは失せる。

 

                 2011.9.6 公園口付近 越前武生行き「日通号?」 770

撮影中京浜東北色の車両が来た。同じく名鉄から譲渡されてきた770であるが、ごらんの通り、日通の広告電車。赤字経営では背に腹は替えられず広告も重要な収入源と思うが、何となくその会社の魂を売ったようで寂しい。最近は大手私鉄でもどんどん広告電車が走っており撮る方は興醒めである。

 

 

    2011.9.6 本田四ツ辻 福井駅前経由田原町行き886

 路面を歩いていて本田四ツ辻という停留所に来た。どうやらこの先が専用軌道といおうか高速鉄道線に入るようで写真はまさに今路面に入るところである。車両はこれも名鉄美濃町線で使われていたもので1980年日本車両で5編成つくられた。デジ青[17097]連接車2で紹介した名鉄時代のものと比べると福井カラーは実に爽やかである。

 この他に福井鉄道にはモハ160形という古い車両を2両組み合わせてつくった連接車が存在し、161-2が福井市下馬公園に、161-1が越前市旧南越線村岡駅跡に保存されていると聞く。現役時代を含めカメラに収められた方もおられよう。請発表。福井といえば阪急のK氏の故郷。最近、京都での懇親会で元気なお顔をデジ青で拝見させていただいたが、見てるかな。見てないやろな。

 

 

福島電気鉄道軌道線


朝のラッシュ時福島駅前

電車嫌いとされる老人だが、電車でもある種のジャンルは大好きとは、かねて何度か記した。曰く花巻電鉄軌道線、秋保電気鉄道、駿豆鉄道三島軌道線、静岡鉄道秋葉線、松本電気鉄道浅間線等々。それに(正直言えば)京阪電鉄京津線もそうか。今回は福島電気鉄道軌道線を。撮影は1961年2月28日、ほんの1時間余に過ぎない。

この電車は、元来信達軌道と称す2フィート6インチ軌間の蒸気動力軌道で、開業は1908年4月14日だが、すぐ大日本軌道に併合され、その福島支社に。1918年1月8日再び信達軌道として譲渡=地元資本で独立。ところが1922年5月蒸気機関車の排出火の粉で沿線鎌田村80棟焼失の大火災を惹起し、憤激した住民が妨害し18日間運行がストップするという、恐らく他例の無い大事件になった。

以後赤字続きで、1924年には資本金100万円に対し424,742円の繰越損金を抱えるに到る。その窮状からの脱出は、佐伯宗義が専務に就任し、半額減資の上増資、それに多額の借入金とで不採算区間をばっさり切り捨て、1067mm改軌と電車化を果たしたからである。地元は蚕糸で豊かであったとはいえ、これだけの大鉈を振るえる人物はわざわざ富山県から招聘せねばならなかった。

ついでにいえば改軌工事は陸軍鉄道聯隊の演習として実施してもらったのだが、道路そのものの拡幅には到らず、電化はしても車体巾は軽便時代の5フィート6インチ(1,676mm)のままである。道路拡幅の場合その土地は軌道事業者が自前で購入し、竣功と同時に無償で道路管理者の所有に帰すのが軌道法の決まりである。

佐伯宗義はその後故郷の富山県下の鉄道を併合し、富山地方鉄道を作り上げる。敗戦後は国会議員の傍ら富山-金沢間を結ぶ加越能鉄道の実現に邁進し、土地もかなり取得した由だが、国鉄北陸本線の電化で挫折した。輸送機工業1953年製加越能鉄道加越線のディーゼルカー、キハ15001の台車がFS13で、いつでも電車に改造できる設計だったのも、その名残であった。


真冬なのに冷しラーメン 冷麦の看板とはこれ如何に

電車が離合している間路上交通はほぼストップする

それはさておき、この電気軌道は勿論単線で、要所に離合設備があるのだが、朝夕のラッシュには5両の電車がゾロゾロと続行運転をするのが有名だった。どっちからも5両づつが離合するのはかなりの奇観壮観ではあった。例えば茨城交通水浜線でも似た風景ではあったが、確か3両続行が関の山で、5両続行というのはここだけではないか。

小生は当時この電車そのものにはさしたる感傷も興味もなかったが、ただただ5両続行なるののを見たかっただけである。というのも、かの「東北の電車」を「青信号」に連載した若かりし乙訓老人の縄張りと固く信じていたからでもある。だから撮影もものの1時間余、それでも福島駅前から2.9kmの祓川までは歩いて往復した。今から思えば片道ぐらい乗車したらよかったのだが、貧乏ドーヤン生にはその10円が惜しかったのである。


左の建物にある「トーハツ」の看板はバイクメーカーの東京発動機 大阪発動機(ダイハツ)はまだ健在だが

バスが道路の残り巾でやっとこさ通り抜けている


この道路巾だから、電車がおれば自動車は片側しか通行できない

軌道線の廃止は1967年9月16日(聖光学園前-湯野町)、1971年4月12日(軌道線全部)であった。詳しくは乙訓老人が黙っておれまいて。ご老人よ!出番でっせ!

浜大津ターミナル復元(その1)

昨年の浜大津での江若イベントは多くの方々のご協力によって 思い出深いものになりました。今年は京阪大津線開業100周年にあたるとかで、是非浜大津ターミナルの復元をという声に押されて 再び無謀にも今秋までに工事を進めることにしました。とは言え、江若と京津線、石坂線の集まる浜大津ターミナルは多くの建物を再現しなければならず、軌道敷きや変な角度のクロッシングなど三井寺下などで経験していない部分もあって 多くの不安を抱えての工事着工となりました。年末に藤本氏が多くの写真を投稿して頂き、車両もさることながら 後ろに写っている建物の細部が判り 大変助かっています。ところで江若廃止当時から残っている建物に「大津市社会教育会館」があります。昔の大津市公会堂です。浜大津ターミナルの復元には この公会堂は不可欠と考え、大津市歴史博物館のK学芸員にお願いして 公会堂の図面を探してもらいました。年も押し詰まった12月30日に詳細寸法の入った外観図が1枚届きました。さっそく1/80に拡大コピーし、併せてインターネットで写真を集めて 年明け早々 まずこの公会堂から工事を始めました。世の中には建築模型士なる民間資格があり、建築模型用材料も通販で買えることを知って、今回は建築模型に多用されるスチレンボードを使うことにしました。現存する建物だけに あまりごまかすこともできず、写真とにらめっこで何とか完成しました。12月31日の藤本氏の写真で、京阪352のうしろに写っている建物です。 

まだ玄関前の植え込みなどが未完成ではありますが、まずまずの出来なので、これに気をよくして次は江若浜大津駅の製作に入ることにします。ちなみにこの公会堂製作に要した材料費は500円程度です。

ところで大津市歴史博物館製作のDVD「映像でたどる大津の歴史」を購入し、収録されている江若鉄道のカラー動画(当時の8mm映像)を繰り返し見ています。そのなかに 特派員氏が写真のパネル板で作られた「さようなら 江若鉄道 同志社大学鉄道同好会」のヘッドマークが数秒間ですがアップで出てきて 感涙にむせびました。このDVDは大変貴重なカラー映像で1500円はすぐにモトをとった感じです。

さてクローバー会の皆様、気が早いのですが この浜大津ターミナルのジオラマが完成した暁には車両が必要になります。江若の車両はすでに充分あるのですが、京阪の車両がないと格好がつきません。モデラーの皆様、まだ半年以上ありますのでポール時代の京津線、石坂線の車両製作に挑戦してみてください。かく言う私は すでに20型と70型(72)を製作中です。80型、260型、300型、350型それに「びわこ」もほしいですネ。それから浜大津貨物駅に出入りしたハチロクも欠かせません。そこまでは私も手が回りそうにないので、皆様のご協力を仰ぐ次第です。

今年も皆様のご協力をよろしくお願い致します。