京浜急行デハ230型とトンボ電車クハ140型

米手作市様からのご指名ではないが、迷図作家さん関連の京浜急行230型の乙訓の老人様発表の続きとして失礼ながら続行させて頂く。また、同作家の昨年7月7日のトンボ電車について廃車後ではあるがその姿も発表する。とんぼ電車については京浜急行クハ140型が電動車デハ51型であった頃にポールをふりふりして軽快に駆けた姿からその様に言われたとのことで私はその記事をよく読まずお尋ねして恥をかいた次第である。

         1998.5.4 房前~塩屋 38+37

この撮影名所はその後の訪問では覆いができてしまい撮影を諦めたように思う。

 

           1998.5.4 房前~塩屋 27

京浜急行デハ230のサイドビューである。京浜急行は馬堀海岸、三浦海岸、大森海岸、津久井浜、汐入、浦賀等々海に因んだ駅名が多いがこれほど海に近づいて走行している場所はないと思う。この撮影地点の背後に琴電の旧型車が保存されている。

 

           1970.1.4 川崎大師付近 

品川からの初詣臨時急行でだるまのヘッドマーク付き。前から246・245・250・249の編成。

1965年の夏には海水浴の臨時特急が230型を含め吊り掛け車も総動員して運行されていた。アルバイトの帰りに新子安の京浜東北線のホームからその快走ぶりを見たことがある。乗ってみると窓が大きくて低く、シルにリベットがつき少しP-6を思い出したが、小錦と舞の海の重量差、軽快差を感じた。

 

        1966.11.1 久里浜工場 141

この電車がその昔ポールふりふりとんぼ電車と言われたようであるが、丁度廃車された頃に久里浜工場にいたので撮影した。デハ230と連結してクハとなったり中間に入っていたとのことであるが、現役の姿は見ていない。

 

 

「日本海」「きたぐに」を送る (1)

「きたぐに」 -1-

3月のJRダイヤ改正で消える列車・車両は多いが、なかでも「日本海」「きだぐに」の定期列車からの撤退が話題を集めているようだ。今日も阪急に乗っていると、例の名神クロスは「日本海」狙いの人間が多く見受けられた。先日のクローバー会の写真展打ち上げで、大津の86さんから聞いた話では、「日本海」の寝台券を求めて発売初日に最寄り駅へ行ったところ、午前10時にもう売り切れ、A寝台だけ残っていると言われ、少しの間逡巡していると、もうA寝台も売り切れと言われたそうな。
「日本海」「きたぐに」は、臨時では残るものの、一昨年臨時となった「能登」が、今春には設定がなくなったように、完全廃止は目に見えている。
関西では「日本海」「きたぐに」は馴染みの列車だけに、いくつかの記録を残してきた。「きたぐに」から、その足跡を辿ってみよう。

田村付近を行く初代「きたぐに」(昭和41年)。新潟行きの昼行気動車急行だった。「奥能登」を併結した12両編成
昭和36年10月改正で金沢~新潟間の気動車急行が誕生、「きたぐに」と命名された。今まで同じ日本海縦貫線上にありながら、石川県と新潟県を結ぶ急行はなかった。さらに、福井~金沢間の交流電化が完成した昭和38年4月改正で大阪まで延長され、「きたぐに」は、大阪~新潟間600kmを結ぶ幹線の急行へと成長する。編成も8両編成となり、輪島発の「奥能登」(下りは和倉着)と併結する大阪~金沢間では12両もの長大編成となり、幹線急行にふさわしい列車となった。

雪の米原~坂田間を行く「きたぐに」(昭和42年)。当時はもちろん湖西線は未開通(と言うか、江若がバンバン走っていた時代)、北陸へ向かうすべての列車は米原経由で、運転頻度はすこぶる高かった
 昭和43年10月改正では、日本海縦貫線に寝台特急が新設された。従来、大阪~青森間の客車急行であった「日本海」の愛称を、そのまま新設特急に召し上げた。玉突き式に客車急行を「きたぐに」501レ502レと改め、気動車急行は「越後」と改められた。
大阪~青森間の客車急行に生まれ変わった二代目「きたぐに」の編成は、ロネ、ハネの寝台車は夜行区間の大阪~新潟間に連結され、新潟以北はロザ、ハザ、シの編成となった。ちなみに牽引機は、大阪~米原EF58〔宮〕、米原~田村DD50・DE10〔米〕、田村~糸魚川EF70〔敦二〕、糸魚川~新潟DD51〔東新〕、新潟~秋田DD51〔秋〕、秋田~青森DD51〔秋〕であった。

矢立峠を越える二代目「きたぐに」(陣場~津軽湯の沢、昭和44年)。この区間では、座席車に食堂車の昼行急行の編成だった

唯一補機が付いたのが大館~弘前間で、矢立峠を越すために、上下とも後部にD51〔弘〕が付いた(陣場~津軽湯の沢、昭和44年)

笹川流れを行く「きたぐに」(昭和44年)。ロザ、ハネ、ハザ、シ、ユと、何でもありの典型的な急行列車だった。

浜大津と堅田 昭和55年4月合宿の帰り

昭和55年4月の早い日、大学2年に進級し新入生を待つ直前、初めての春休み合宿に参加して、和迩浜の安い宿に泊まった。
この時は電車で和迩まで行き、翌日の解散後は江若鉄道の本堅田駅の駅舎が残っているので周辺の遺構調査をしようと、先輩のホンダZに乗り込んで、堅田のバスターミナルになっている駅跡に向かった。

この頃は対向ホームも残り、鉄道営業時代と大きく雰囲気を変えていない。
堅田の構内には路線バスの検査設備を備えた車庫ができ、新旧のバスが待機していた。
ここを訪れた目的はもうひとつ、最後のボンネットバスを見るためである。

他にもまだ、鉄道時代を物語る建物がいくつか残されていた。

日通の堅田営業所。

貨物積み込みホームの跡と貨物倉庫であろうか。

小さな木造の小屋。ランプ小屋でないと思うが、ストラクチャーとしては好ましい。

その後は、360ccの車体に男4人が乗り、三井寺下に向かった。

江若鉄道のものと思われる橋桁台が見つかった。

三井寺下の車庫のあったあたりは、再開発目前であったが、何となく鉄道の雰囲気が残っていた。
この建物は本社屋だったのだろうか。「在りし日江若鉄道展」(平成18年、大津市歴史博物館編)より右屋の二階建て部が本社屋、手前の横に長いのが駅本屋と判明する。駅本屋は痛みが激しく解体寸前のようである。

この表札で元江若鉄道の建物と推察した。当時は江若バスの時代だが、労働組合は鉄道事業解散後もその名で続いていた。今では「?」の略字体が左翼を感じさせる。昭和の時代ならである。

このあたりで先輩はびわこローズタウンの家に戻るので、残った3人のうち二人は近くの駅に向かった。
私はいつものように単独で歩き出し、浜大津に向かった。
その頃の三井寺の門前風景。

多分桜が咲く目前であっただろう。若い頃は花に心が動かないものだが、旧い物にはやたらと頭が働いた。
琵琶湖疎水の導入口がこの付近にあり、石坂線の電車をカメラに収めんとアングルを考えていたら、突然春雨が降って来た。

ごうごうと吸い込まれる水音を聴いていたら、ほんの一年前の自分と、ほとんどクラブ活動に費やした一年後の自分のギャップが面白く、不思議な気分で雨に打たれていた。
雨は一足で駆け抜けて行った。
浜大津に出ると石坂線の駅と、京津線の駅が別々の所にあり、乗り換えをするのに歩いていかねばならない。
往年はこれに江若の駅もあったから、大湖汽船の船着き場と国鉄の貨物入線でさぞかしこのあたりは賑やかであったであろう。

電車は石山寺行きの準急、300型305。ちょうど京津線のクロッシングを越える地点である。
背景の土産物屋の看板等に京都の資本を感じるが、特派員氏の同じ方向からのアングルと相違は少ない。
後年中年になり、このあたりを思い出を片手に歩いてみた。
夕暮れになると判るのだが、大津の歓楽街は背景部分の裏手あたりである。この水のほとりに開けた侘びしい歓楽街に遊んだいにしえの遊子たちを思う術もなく今は大きなビルが建ち並び、湖岸は遠くなった。

この日写した写真のなかで一番気に入った一枚を最後に並べておく。
日通の浜大津倉庫と、今も現存する大津市公会堂を背景に、浜大津に膳所方面から進入する坂本行きの各停。
弓なりのイコライザを持つ台車を穿く351x2連。渋い風景である。
一番手前の使われていない線路は、国鉄の貨物列車が江若の線路と直通運転するために敷設した3フィート6インチゲージである。

持ち論この時もこの線路の存在に気づいていたが、3線区間もすでに撤去され、梅小路の8620が小貨物を牽いて「ポー」と通った日々も既に遠くなっていた。
遥か昔は東海道線の本線蒸機がここまできて、長浜に向かう旅人を送り出していたのであろう。
あれから30数年が経ったが、本当に明治も昭和も、遠くなったなと感じる昨今の変貌ぶりである。

2012年冬から春への中国鉄路一人旅 Part2 1801次に乗って齐齐哈尔へ

第2・3日目  2月20・21日
① 北京北13:47(1801次)→13:10チチハル(齐齐哈尔)
② チチハル14:45(BUS)→15:40フラルジ(富拉尔基)


北京
からチチハルへは、最速のT47次に乗車すると15時間半で着くが、いわゆる本線を走行するので、未乗車区間裏街道を走る1801次を選びました。さすが普通列車だけあってのろいですが、本線とは違って山あり谷ありの山間を走りますので、車窓を楽しめます。




▲ 夕飯は、魚定食(45元)を選びました。チチハル局の列車食堂は初めてでしたが、ボリューム満点です。 魚は太刀魚でしたが、カラリとあがっていて小骨も気にならず美味でした。

春節も終わったので、今日の軟座寝台コンパートメントは独占かなと期待していましたら、同室者が一人いました。途中の赤峰まで帰るという品のよさそうな中年のおば様です。初めは、黙っていましたが時間の経過とともに、どちらからともなく会話が始まりました。

聞けば蒙族の方で、20歳になる娘さんがおられて鄭州の大学に在学中です。卒業後は日本に留学したいと望んでいます。自分は日本に行った事はないが、綺麗で、中国のような貧富の差もなく、自由で、何よりも安心できる国で尊敬しています。是非とも希望を叶えて学ばせてやりたいと、夫と共に一生懸命働いています。私も日本語を学んでいますと、途中途中で日本語を交えて話されます。

留学費用は中国では莫大な金額になるので大丈夫ですかと聞くと、職業は夫婦共医者だと言われます。でも給料は、一人4,000元(約6万円)だそうです。実際は、患者の心付けがあると思いますので、もっと多いでしょうが、日本とは桁が違います。
分らない言葉は筆談したり、辞書をひいたりしながらでしたが、瞬く間におば様が下車される真夜中の赤峰に着きました。久しぶりにいい話ができたな、こんな深夜に途中乗車する客はいないだろうと寝ようとしていましたら、 また同じような中年のおば様が部屋に入ってこられました。もう眠たいので寝ましたが、朝日が当たる頃からは、また中国語勉強タイムになりました。

▲ 地平線から上がった朝日が湖面に輝きます。凍える朝を迎えましたが、車内は26度と暑いくらい暖房が利いていました。 ▲ 朝の定食(20元)も2人分あろうかと思えるボリュームです。

天候も良く、チチハルには定刻着。極寒の地と思いきや北京と変わらぬ外温です。マイナス20度対策をしてきたので、汗も出てきて拍子抜けです。出口を出るとこれからの切符を依頼した旅行社のR氏が待ってくれていました。ご親切にも荷物を持っていただき、今回の最初の撮影地フラジルへのバスターミナルまで市内バスに乗って送っていただきました。

フラジルは、チチハルから南西約40キロに位置します。中国でも代表的な大型産業機器、軍事用に使用される特殊鋼、鉄道用には貨車製造の大工場があり、電力確保のための発電所があります。この工場群内の輸送に蒸気機関車が使われているというのです。、最新情報は昨年9月の中国鉄路の権威者である倉重様の訪問記です。6ケ月を経過した今、まだ生きているか分りませんが探究することにしました。

バスは中型バスで、満席になれば発車です。結構乗客は多く10分間隔で出ています。地平線が見える冬の荒野を一直線に走り約1時間弱で到着しました。

市内中心部に入ったところで、下車してホテル探しです。インターネットで探しましたが、紹介はあっても予約できるサイトがなかったので、グーグルアースから見て、鉄道駅近くで大きそうなホテルを数件リストアップしてきました。しかし、宇宙からみる光景と地上からの目線は別物です。歩いて探すのは大変ですので、最初に見つけたホテルに入って、部屋を見せてもらってから決めました。五百広場前で、インターネット可、バスタブもあります。市内を見渡せる9階の部屋で、朝食込の188元(約2,400円)でした。  Part 3 へ続く

快速観光電車 京急デハ230型

米手作市さん、ご指名に預り有難うございます。総本家さんから先日「琴電100年の歩み」の編集が終わったとの便りがありました。1年近く取組んでおられたCan Booksが、間もなく店頭に並ぶ事になりお慶び申し上げます。皆さんぜひ「立ち読み」お願いします。迷図作家さんがお取り上げ下さいました京浜急行電鉄デハ230型が、最後に活躍した電鉄線を紹介した書籍が同時期に刊行されるとは、なにか因縁めいたものがあるのでしょうか。

さて老人はデハ230型を始めての東京電車見物の時に乗っております。先日、横浜市電の展覧会で横浜に行く時も、都営地下鉄「泉岳寺」初発の快急、2100系先頭クロス(着席は限定4人)で59年前の京浜突進電車デハ230型のことを思い出しておりました。窓の高さ、これは関西で匹敵するものは奈良電クハボ600と南海1900号ぐらいのものと思います。運転席が独立せずに低い囲いで、自動扉の開閉を運転士がしていたこと、中間に連結していたのがモーター無しの「トンボ電車」であったこと、外部塗色が米手作市さんご指摘の強烈なものであったこと、東京の郊外電車は非貫通の両運が多いことを気付かせる電車であったこと、などなど。

先の東急3450型が50両であったことを知ったのは高校進学後で、京浜230型の55両も同時に知りました。その時、東急は4線に配置され目立ちませんでしたが、京浜の方は吉谷さん流に言えば「せんぐりせんぐりやってくる」電車の印象を持って帰京しました。

迷図作家さんご指摘の琴電志度線の海岸沿いの急カーブ、老人もお気に入りのポイントですが、昨年GWに「ぶんしゅう」さんを引張って行ったのですが、防波堤の上方に無粋な鉄板が追加され、さっぱりでした。16,7年前の盆休みに急カーブのところで撮影したのがあった筈と探しましたが出てきません。どなたかにプレゼントしたようです。代わりに10年ばかり前の工事中が出て参りました。ぶんしゅうさんは房前-原間の築堤沿いで撮影となりました。

屋島東方・31+32 貫通扉なし

屋島東方・31+32 貫通扉なし

房前ー琴電志度間を行く30+29、貫通扉あり
房前ー琴電志度間を行く30+29、貫通扉あり
塩屋ー房前間の海岸沿い急カーブは工事荳
塩屋ー房前間の海岸沿い急カーブは工事中

写真展アンケートから

▲集まったアンケート、貴重な意見が多く、今後の指針となる
開催して一週間が経過した写真展、先週末には会場近くで打ち上げも行われ、14名の会員が集合して賑やかに楽しく行われたのであった。
時間が経過すると”ボロ”も出てくる。写真の不備やキャプションの間違い、それにガラス張りの中で照明の光源で熱せられた写真は、どうしても変形が生じてしまう。
本日、その補修作業を進めていると、立会いのギャラリー運営者から「ごっつ来てまっせ」と言われて示されたのは、アンケートの束であった。なるほど用意したアンケート用紙はすべてなくなっている。
そこで今回は、回答の中から、今後の参考になりそうな事柄を選んで紹介してみよう。
「来場のきっかけは」
「たまたま通ったから」が約半数で第1位、これが不特定の人を集めることができる通路にあるギャラリーの長所でもある。「駅のポスターを見て」が第2位、今回は地下鉄烏丸線の全駅にA3ポスターを貼ってもらった。さすがは一日十数万人が利用する地下鉄駅だけの効果はある。次いで「知人の紹介で」、各会員から呼びかけをしてもらったお蔭である。意外と少なかったのが「鉄道雑誌の案内を見て」で、雑誌によってはページ左上と最上位の位置に掲出してもらうなど、かなりの期待値があったが、あまり動員には結びつかなかった。
「お気に入りの作品は」
これはさまざまで、個別のタイトルを挙げておられるケースも多かった。印象に残った言葉は、人間国宝の撮られた東北の古い写真に「素晴らしいのひと言」。他の会では、決して真似できない、当会の至宝だと改めて認識した。
「性別・年代は」
アンケートを記入してもらえるのは、どうしても高齢者が多い。今回も、「60歳代以上」が3分の2程度を占めたが、中には「20歳代女性」というケースも見られた。男女別では、3:2の比率であった。
「お気づきの点は」
さまざまな意見があったが、「テーマを絞ったほうがいい」が数件あった。これも悩ましいところで、テーマを絞れば、確かに写真展としての主張は明確になるものの、逆に応募の減少が懸念される。その折衷案として、今回のようなフリーテーマとテーマ展示の2本立てに落ち着かざるを得ないところだろうか。そのほか、キャプションの位置や、プリント用紙の光沢に言及される意見もあり、今後の大きな指針となった。

▲突如会場に現われた高齢者集団! 実は、過日の打ち上げ集合時の様子

▲打ち上げで、乙訓老人の講話をしんみり聞く会員

スカイレールをご存じですか

沖縄モノレールの藤本氏のコメントを受けて、広島にしかないローカルな乗り物をご紹介します。かつて西の箱根と呼ばれ D52やEF59が活躍した瀬野-八本松の あの瀬野駅から北側の住宅団地を結ぶモノレールとロープウエイの合体したような乗り物です。正式名称は「広島短距離交通瀬野線」ですが、スカイレールみどり坂線、あるいは単にスカイレールと呼ばれています。1998年にセキスイハウスと青木建設が瀬野駅北側の高台に住宅団地(スカイレールタウンみどり坂)を開発し、瀬野駅と団地間を結ぶ公共の乗り物として開業しました。1998年8月28日に開業、もと瀬野機関区があってEF59が並んでいた駅北側に建てられた駅が「みどり口」、中間駅が「みどり中街」、終点が「みどり中央」で 全長1.3kmの 軌道法に則ったれっきとした鉄道です。特徴は最大263パーミルの急勾配です。ロープウエイは風に弱く カーブができませんが、スカイレールは懸垂型モノレールのようなもので風には強く、ロープ牽引で急坂登坂、曲線走行ができます。駅構内はリニアモーター駆動です。座席8席、総定員25名の小さなゴンドラ2両が行ったり来たりしています。1999年には鉄道友の会ローレル賞も受賞していますが、あまりにローカルな乗り物のため知られていないと思います。私も開通直後に一度乗ったきりです。

定員25名。夜遅くなると狭い車内は個室のような感じになって 若い女性には不人気。今は団地内に小学校ができたので廃止されたが、以前は小学生通学専用便も運転されていた。下の写真は開通直後のため まだ家は少ししか建っていないが 今は景色も変わっているだろう。

主に軌道関係を神戸製鋼所が、車両を三菱重工三原製作所が製作した。下は開通を伝える社内報(三原通信 1998年10月号)です。

残念ながら後続の受注工事はなく、全国でここだけの乗り物になっています。広電の路面電車撮影などのついでに、瀬野まで足を延ばして 話のタネに乗ってみられるのも一興かも。当地へお越しの節は 是非ご連絡下さい。

浜大津駅、ありました。

西村さん
出てきましたよ、京阪浜大津駅。たまたま入線・出発シーンとも、撮っていました。下の写真2枚を見ますと、1番線に三条発の準急が入線し、2番線から三条行き準急が出発しています。つまり、1番線が石山寺行き、2番線が三条行きと考えられます。ただし、撮影年代は、昭和55年11月の浜大津駅再開発工事の最中で、浜大津駅が姿を消すと聞いて出掛けた時でした。江若廃止から10年以上経過していますが、運転ルールは変わっていないと思います。かすかな記憶をたどると、京都へ戻るとき、改札から櫛形ホームの端を通って電車に乗ったような気がします。
ついでに駅舎の入った写真も載せておきました。お役に立てれば幸いです。

▲(上)1番線に三条発が入線し、(下)2番線から三条行きが出発

▲この季節、駅舎の上の看板は、「ひらかた大菊人形」が定番だったようだ

▲ラッチ内から石坂線の電車を見る。1番ホームに接して本屋があった

浜大津ターミナル復元(その5) ・・教えて下さい!

浜大津の建物群は順調に製作が進んでいます。建物ばかりを作っているわけにもゆかず、そろそろ基板やレール工事にも着手しないといけないのですが、そこで強力な助っ人が現れました。今は名前を伏せておきます。彼と第1回目の打ち合わせも行って本格的に路盤工事に取りかかることになりました。そこでクローバー会の皆様に教えてほしいことがあります。京阪浜大津駅についてです。京阪浜大津駅の線路配置図を示します。

仮に1番線、2番線 そして1番ホーム、2番ホーム、3番ホーム、4番ホームと名前をつけました。知りたいのは この1番線、2番線がどのように使われていたかです。即ち三条発石山寺行きはまず1番線に入って 次にダブルクロスを渡って東口駅に向かったのか? 言い方を変えれば、1番線が石山寺行き、2番線が三条行きだったのか あるいはその反対だったのかと言うことです。レイアウトの製作上 この運転ルールをはっきりさせておく必要があります。ところが今までに集めた写真には これに答えてくれる写真が見当たりません。まずはこの件についてご教授頂きたいというのが第1点目のお願いです。もう一つは出札窓口、改札口、プラットホームの情景などが写っている写真を是非ご披露してほしいのです。どこに何があったかも定かではなく、屋根上にある枚方菊人形の看板とか広告看板とかそういった脇役がさっぱりわかりません。京阪浜大津駅の構内に関しては 東口も含め殆ど写真が無いのです。京阪社史などには写真があるのだろうと思っていますが残念ながら社史は持ち合わせていません。完璧な写真でなくとも もちろんモノクロでも あるいは撮影年月を問わず、 電車の背景に写っているというものでもOKですので よろしくお願い致します。 

2012年冬から春への中国鉄路一人旅 Part1  とほほのスタート

今年最初の旅は、いつもと違って43日間の長旅を計画しました。学生時代にもこれだけの長旅の経験はありません。それも大半は一人旅です。いくら慣れた大地でも、還暦を過ぎた老体には過酷には違いないだろう。はたして無事に旅を続けられるか、?マークが付くが、考えると行動できなくなるので、体調不良等で困ったら帰国してもいいだろうとの楽観的思考で出かけることにしました。

第1日目 2月19日
① 長岡天神6:02→6:19南茨木6:26→6:49大阪空港
② 伊丹空港8:20→9:40成田空港10:40→14:00北京空港
③ 北京空港→三元橋→国貿→京倫飯店

かつては、大地にこれでもかと飛んでいたJALも経営破たん以降は激減し、関西から首都北京までの直行便はない。いつものように伊丹から成田経由で向かいました。
伊丹空港に着いて、チェックインをするためにJALカードを取り出そうとするとありません。「あ~、やってしまった。」昨夜、盗難にあった場合を想定して、持っていくクレジットカードをスキャニングして、そのままスキャナーに置き忘れていました。

海外に行く際は、多額の現金を持ち歩くのは危険ですので、いつもはその都度、現地でキャッシングをしています。これは困ったと頭を抱えましたが、帰宅もできず送ってもらうこともできません。 とほほのスタートです。
しかし、今回は銀聯カードの残高が少なくなっていたので、預入に30万円を持ってきていました。何らかの要因で高額支払いが発生しない限りは、これでおさまるだろうと思いますが、もしもの時の安心感がないのは事実です。

常宿に到着、前回も依頼した旅行社のG氏が切符を持ってお待ちでした。
北京からは、最初のSL撮影地チチハルまで1801次に乗車します。距離1,374キロ、所要時間は23時間23分の乗り鉄旅です。途中の赤嶺までは昨年乗車済みですが、後は初乗車となります。
切符をご覧のように姓名とパスポート番号が記載されています。今までは動車(電車)だけ、身分証が必要でしたが、ダフ屋一掃のために他の列車でも必要となりました。航空券と同様ですが、乗車時にすべての乗客を身分証と合わせてチェックすることは不可能です。抜本的な対策とはならずも抑止力程度でしょうね。
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連接車6

東西の私鉄特急列車にも連接車がある。何れも単に連接車というよりもその時代を代表する私鉄高性能特急車両であり、新しい試みが随所に見られる興味深い車両である。

近鉄では1958年に7連で中間に3車体4台車連接構造を持つ10000系初代ビスタカーを登場させた。このような意欲的な車両は見ていて飽きない。続いて翌1959年には改良されたビスタカー決定版10100系が3車体4台車構造でデビューした。詳しいことは当会の田淵仁さん著の「近鉄特急」JTBキャンブックスを参照していただきたい。

 

1968.11.8 伊勢中川 宇治山田行き特急後部モ10001 中間の3両が連接車

           1968.9.19  八木駅 ク10005

中間のク10005でビスタードームを持つ。  左の車両サ10004との間にシュリーレン空気バネの連接台車が見える。

 

  1968.9.19 三本松 10102+10202+10303  上本町行き特急

上本町よりが非貫通流線型で宇治山田よりが貫通形タイプ。三本松駅は今でもこの風景は変わっていない。

 

1968.11.8  伊勢中川付近 宇治山田行き特急 宇治山田よりの貫通タイプモ10100形

 

 

小田急ロマンスカーといえば展望席のある連接車のイメージが強い。しかし、10000の後に続く20000、30000、60000は連接車ではない。2004年度登場の50000は落ち込んでいる箱根への誘客のためか伝統的な展望席連接構造で真っ白で目立つ派手なイメージの車両である。

 

 1969.11.16  鶴川~多摩川学園前 下り「さがみ」 3055~3051

3000系(SE)は1957年の登場で国鉄線で高速試験運転を行った話題豊富な車両。本来は8車体の連接車であるが、そのネガが見つからない。これは「えのしま」、「あさぎり」、「さがみ」などに使われた5連の姿で迫力がなく申し訳ない。大井川鉄道に譲渡されたものもあるが短命に終わった。産業遺産として海老名で1編成保存されており、鉄道フェスタなどで見ることができる。台車はシュリーレン。

 

 

  1999.6.19 秦野~東海大学前 「さがみ62号」新宿行き 

梅雨空の中、最後の活躍をしていた3100(NSE)。 3100系(NSE)の登場は1963年で3000系同様オルゴール電車であったが騒音としての苦情が多かったのかやめてしまった。台車はミンデンドイツ。

 

 2010.12.10 鶴川~玉川学園前 「はこね15号」箱根湯本行き7801

1980年登場の7000系(LSE)は3月ダイヤ改正で残るがこの塗装は消えるとか。台車はアルストームリンク。

 

 2010.11.5 渋沢~新松田 「はこね15号」箱根湯本行き7804

 

 

  2010.12.10 鶴川~玉川学園前 「はこね25号」箱根湯本行き10011

10000系(HiSE)は1987年登場だが3月のダイヤ改正で消える。2編成が譲渡先の長野電鉄で活躍中。台車はアルストームリンク。

 

 

  2010.2.20 相武台前~座間 「はこね27号」箱根湯本行き50902

足回りにスカートをつけて点検もし難いのではないかと思うがこういう個性的な車両は面白い。

 

 012.2.8 鶴川~玉川学園前 「はこね27号」箱根湯本行き中間車50202

50000系(VSE)の台車はボルスタレス。

沖縄

犬伏です。
先日 関東支部新年会の席で もっと気楽な内容でよいのでぜひデジ青に投稿せよとのお達しをいただき、最近 関東連絡網に投稿の記事再掲を含めて デジ青に投稿させていただきたいと思います。よろしくお願いします。
先週仕事で沖縄へ行き 空き時間にモノレールを写しましたので紹介させていただきます。
沖縄のモノレールは2003810日に那覇空港から首里の間が開通しました。戦前の鉄道は大戦中に破壊されその痕跡はほとんど残っていません。車社会となってしまった沖縄は交通渋滞がひどく特に通勤時は大変でした。いまさら鉄道でもないのではといわれる中のモノレール開通でしたが 那覇の街と人とそれに観光客にもなじんで それなりに役に立っているようです。7日は気温は22度でしたが小雨でこの時期なかなかきれいな青空は見られません。   

 
 
 
 

 

   

 最南端の赤嶺駅で那覇空港越しに海が見えるのですが・・・・。天気が良ければいい絵になりそうです。台風対策か駅の網入りガラスが残念です。

 
 

 

 

 ワンマン運転のため運転手は駅到着時車掌の役も行うため 島式ホ-ムの多いここの車両は右運転台となっています。
窓ガラスが雨に濡れてすれ違う車両が少しかすんでいます。
 
 

おもろまち駅から那覇市内方向です。 軌道のカーブがきれいです。

 

牧志駅近くの公園に桜が咲いているのが見えました。沖縄の桜は赤っぽい色の緋寒桜で1月中旬から2月上旬にかけて咲くのですが 桜の名所は北部に多くて那覇市内には少なく、モノレールと一緒に写せるところがあるとは思っていませんでした。さっそくその牧志公園で写したのが次の写真です。

モノレールと桜と高層マンションです。
小雨がときどき降る中でしたのでストロボ使用です。
青空の下で機会があればまた写したいと思います。
車両は2両編成13本が在籍しています。路線の延長計画もありますがまだ実現しそうにありません。もうすぐ10年になります。なかなか乗車人数は伸び悩んでいるようですが 運営面や人々の意識としてはやっと軌道に乗ってきたような感じがします。
 
 
 
 

 

 

 


 

 

写真展を見て

 恒例の第3回DRFCクローバー会写真展が開催された。2日目の2月15日、わくわくする気持ちを抑えながら会場に向った。

 会長さんから現役生まで幅広い層からの参加があり、出品数も多くボリューム感があった。今回は全体に実力アップされ、素晴らしい作品が多かった様に思う。

 「鉄路輝く」の部では単なる鉄道車両風景ではなく、各自が感じたもの、感動したものを表現しようとした努力の跡が随所に見られた。 私自身、刺激を受けて「よし、今度はあのような写真に挑戦してみよう」と思う作品が何点かあったが、考えてみると超炎天下の海外での奮闘撮影、旅先でのちょっとした人との触れ合い、夕暮れや夜の撮影等々には鋭いカメラアイ、感性と体力、気力が必要である。私の年齢ならもう無理かもしれない。脱帽である。

 一方、被災地復興に関連した「東北の鉄道」の部では秀麗な磐梯山麓のD50列車や貴重な過去の記録もあり、また、少数民族と東風3型のカラー等々国宝級(?)作品が見られたのもクローバー会の特徴である。

 諸準備を担当された皆様に改めて感謝申し上げる。願わくば、これら作品をコンパクトにしたものでも結構なのでデジ青か何かに掲載してもらえないかと思った次第である。また、応募作品を審査された委員の方々の総合評価、準備等の苦労話、今後の方向性等も会期終了後にでも発表していただければ幸いである。いずれにしても遠くから来てでも充分見る価値のある写真展であった。

次回も期待したい。

2012.2.15夕刻  烏丸御池ギャラリー

クローバー会写真展 続報

好奇心が旺盛な子どもは間違いなく興味を示してくれる。この子は、カラーは顧みず、モノクロの東北の鉄道に興味を示す渋い子だった。

女性の観客が多くなったのも、最近の特筆すべき現象だ。しかも一様に仔細に見定めている。この女性、一点一点カメラに収めていた
開場して4日目を迎えたクローバー会写真展、もうご来場いただけただろうか。さきほど山科の人間国宝からも電話が入った。案内を出された方から連絡があって、皆さんから称賛の声があったと喜んでおられた。一昨日は、はるばる関東から準特急さんが、バスと近鉄を乗り継いでご来訪、じっくりと鑑賞された。さすがは慧眼の士、キャプションの間違いを即座に見つけられた。
しばらく会場で定点観察していると、通り過ぎる人の様子がよく分かる。会場は地下鉄駅の通路だが、数年前と比べると、地上にビルが集積してきたせいか、ずいぶん人が増えた。通行のみが99%だろうが、写真展を無視して通り過ぎるのはほとんどいない。みんな一様にチラリと瞥見して行く。そのうち短時間でも足を止めて見入るのは2割程度と言ったところで、年代、性別はさまざまだ。朝5時の始発から晩24時の終電まで開いている会場だから、見学者の総数はかなりに上るのではないか。専門のギャラリーでは、敷居の高さに阻まれて、こうは行かない。このようなことが可能なのも自由通路にあるギャラリーだからこそと納得した。

特別展:横浜にチンチン電車が走った時代

2月14日夜、都庁地下のトンカツ屋に5人のクローバー会関東支部会員がお集まり下さり、老人と共に新年会が開催されました。話題は関東一円の鉄道に及びましたが、関西人としてうらやましいのはJR東日本が種々の動力車を動員して企画臨時列車を走らせていることでした。電車ファンの端くれの老人は、あの185系特急車7連が関西国電快速塗り分けで現れた時、「やったなぁ」と思ったものです。それが今春のダイヤ改正でもう1本増えるとか。今度はスカ色だと噂されているそうです。

15日はみなとみらい線:日本大通り駅下車3番出口0分(これは?)、横浜都市発展記念館で開催中の横浜「路面電車」物語-市電が廃止されて40年-【横浜にチンチン電車が走った時代】を拝観に行って参りました。3番出口につなげる建物の隣が発展記念館で、少し戸惑いました。平日であり会場は閑散としていましたが、それが幸いして90分たっぷり横浜の歴史の一端を知ることが出来ました。関東大震災、世界大戦による空襲と、2回の火災による壊滅が遭ったのにも係らず、よくぞこれだけの写真が集まったものと感動を覚えながらの一時でした。戦後の記録は高名な長谷川弘和先生提供品が中心でした。JTB Can Books「横浜市電が走った街 今昔」が老人の京都市電の半年後に発刊されましたが、その内容が京都と比べ横浜が豊かであるので恥じ入った思い出があります。その原本を今回拝見しているのだと心に言い聞かせながら、ポン友と言って下さった吉川文夫さんを偲ぶ一時ともなりました。実はみなとみらい線開業の頃、吉川さんに連れられこの界隈に来ていたのです。宿泊していたホテルから電話しましたら、「みなとみらい線に初乗りに行きませんか」と誘われたのです。「お身体大丈夫ですか、喜んでお供します」となり、横浜駅西口で奥様からバトンタッチとなり、向った展覧会会場は今回と同じビルであった様に思います。その内容が何だったか、思い出せません。鉄道関係であったことは確かです。

他府県人の入場料は300円です。でも値打ちがあります。会期は41日迄ですが、行くなら33日以降に行くのがベストです。4階でコーナー展・都市シリーズ「京都」~日本の路面電車発祥の地~(仮)が重なります。開館時間は930430、休館日は毎週月曜日(祝日の場合は次の日)となっています。

 

クローバー会写真展「鉄路輝く」明日から開催!

会員の一致協力で準備が進められてきた当会の写真展「鉄路輝く」、14日の開催を前に、本日いよいよ設営となった。
午前中、写真展の秘密基地となった、京都は壬生屯所近くの某会長宅に集結した精鋭部隊は、最後の仕上げを行った。昼は上にぎり+おまけの豪華昼食で英気を養ったあと、午後1時、地下鉄烏丸御池駅にあるギャラリーへ勇躍乗り込んだのであった。
そこには、最近、会社を放免になった部隊が待ち受け、100点余の写真が通路上に並べられ、壁面への貼り付けが開始された。そうこうするうち、山科の人間国宝がゆっくりとお見えになった。「心配で心配で」とおっしゃりながら、我々の作業を暖かく見守っていただいた。
さらにそこへ、手ぬぐいをマフラー代わりにした乙訓老人までが姿を現した。こちらは、写真の傾きを厳しくチェック。もうこれ以上望むことができないほどの豪華メンバーが揃った。聞くところによると、老人は明日、わざわざ東京都庁の地下まで行って、写真展のPRに務めるとのこと、老人の思慮深い思いやりに、全員いたく平伏したのであった。
途中、取付けピンがなくなり、あわててぶんしゅう号で買出しに出かけるなどの想定外の出来事があったものの、午後5時にはすべての作業が終了した。終始、一糸乱れぬ団結ぶりで作業をやり遂げるのは、やはりクローバー会のよき伝統であると痛感した。山科の人間国宝をして、「すごいですなぁ」と言わしめた今回の写真展、いよいよ明日から開場だ。

設営作業に汗を流す会員、金槌を叩き続ける音が地下鉄の駅に響いていた

きれいに設営されたギャラリー、さっそく足を止める人が多く見られた

東急デハ3450形


  片運化され、貫通幌付となったデハ3467
(47-12-17/大岡山)

関 三平先生の「昭和の電車」シリーズは、関西から東京西郊に舞台を移されたようである。東急の電車を意識して撮影したのは、デハ3300形と玉川線くらいで、今回の「デハ3450形」は、戦前の東京横浜電鉄の代表的車両であったことくらいのことしか知らないが、ついで撮影の写真が何枚か出てきたので貼り付けた。

デハ3450形(デハ3450~3499)
昭和6年から11年にかけて50両作られた。両運、非貫通車であったが、戦後の車体更新で大部分の車両の片運化、正面貫通化、窓の拡大化等が行われ、実施時期による仕様の相違等があり、1両毎に細部が異なる状態であった。
昭和56年から廃車が始まり平成元年には営業運転を終了したが、トップナンバーのデハ3450は、原形に戻して「電車とバスの博物館」に保存、東急車両製造の牽引車として使用されていたラストのデハ3499が「デハ3499保存会」により群馬県内で保存されている。
デハ3456
 

  片運改造のみで、運転台側は非貫通のまま (
52-2-12/大岡山)

デハ3468

 片運、貫通化改造されて幌付き(
47-12-17/旗の台)

デハ3484

 片運、貫通化改造されているが幌なし(
47-12-17/旗の台)

【その他の旧形車両】
デハ3500形(デハ3501~3522)
昭和14年にモハ1000として22両新製、改番でデハ3500形となった。事故復旧車のデハ3508以外は非貫通であった。
デハ3507

 
52-2-12/田園調布)

デハ3509

 ヘッドライト移設車 (
52-2-12/多摩川園)

デハ3512

 
52-2-12/多摩川園)

デハ3600形(デハ3601~3615)
昭和23年から24年にかけて戦災焼失した国電を譲受け復旧した車両である。
デハ3603

昭和24年、台枠を利用して新日国工業で車体を新製した。(
52-2-12/多摩川園)

デハ3601

旧国電モハ31087の事故復旧車であったが、昭和39年東横車両で車体を新製した。昭和57年廃車になり弘南鉄道に譲渡された。(
52-2-12/多摩川園)

クハ3770形(クハ3771~3782)
前述のデハ3600形同様戦災焼失した国電を譲受け復旧した車両である。
クハ3780

昭和24年、台枠を利用して新日国工業で車体を新製した。(
52-2-12/多摩川園)

デハ3700形(デハ3701~3715)
昭和22年規格A´型として新製されたが、車体老朽化により昭和36年東横車両で車体を新製した。昭和50年と55年に名鉄に譲渡された。
デハ3713

 
52-2-12/多摩川園)東急の旧形車は、もっとキッチリ撮影された方がおられると思うので、是非発表をお願いしたい。

 

 

こんなん、出てきました。(1) DRFC OB CLUB NO.1

 家の中を片付けていると、いろいろなものが出来きました。昔、買った雑誌や旅行などで使った切符、ネガなど・・・。見ているとあの時はあんなんあったんやな~。そんな事を思ってしまうのも、年のせいかなと考えてしまいます。 

 それでは今回はまさかこんなものを残しておいたのかと見てびっくりした代物です。それはDRFC OB CLUB NO.1とNO.2会報などです。NO.1は1985年11月22日の日付で26年が経っています。多分、OB会総会に参加した時にもらったではないかと思いますが、定かではありません。

 NO.1の大見出しは「あーあ吉谷さん逝く!」で、さらに中見出しは「すかたん列車赤信号を暴走」「極楽本線へ異線進入す」と続き、記事の最後は「オッサン、帰って来いや!」で締めくくっています。これには1985年11月19日付の毎日新聞大阪版の記事が転載されています。この新聞記事が吉谷さんのことがかなり詳しく書かれてあったのは、びっくりしました。写真に写っているのが1985年2月20日発の第1「すかたん列車」で同じ年の11月17日には4次元線へ経路変更したようです。なんか、上方落語の地獄八景亡者戯みたいなやな~。吉谷さんは「鉄道ファン」に吉谷さんらしい内容のエッセイが投稿されていました。これはまた別の機会に紹介することにしまっさ。

 NO.2はDRFC30周年としてマイテ492を走らせることについてのOBと現役との話し合いのやり取りを赤裸々に記録されたものであります。

 もうひとつはDRFCが出来るまでのいきさつと創成期のDRFCを知る上で貴重な歴史的史料です。30周年記念号である青信号57号にも「同志社大学鉄道同好会30年の軌跡」として書かれてあるが、この史料にはDRFCが出来た頃についてエピソードも含めて書かれてあり、読み物としてもおもしろく、DRFC重要文化財として保管することにしました。しかし、4次元鉄道の列車に乗ったらいずれ捨てられるやろな~。

では、つぎの掘り出し物はなんでしょう。

東急3450型、全く知らない電車です!

関先生の作品を見ているとあることに気づきました。見送り写真(後尾から先頭方向を撮る)が多いことです。普通は向かってくる列車を頭から撮るのですが、なにかこだわりがあるのか技術的な理由があるのでしょうか?写真班の方で分かる方教えて下さい。