今でも気になる江若鉄道(Ⅲ)


気動車のトレーラーとして使用中のオハ1957/浜大津 (40-3-18)

今回は廃止時に在籍していた客車を話題にした。
オハ1957~1960、オハ2763~2765の7両の客車が在籍した。昭和40年頃まで日常的に朝夕の快速列車に、オハ1957~1960は気動車のトレーラーとしても使用されていたが、走行部分の老朽化や総括編成の登場等により、快速列車での使用を取り止め、速度制限(65㎞/H)を設けて夏季の水泳シーズンの臨時列車にのみ使用されるようになった。水泳臨時列車専用のように記されている書物やネットが散見されるが、大きな間違いであり注意が必要である。
【オハ1957~1960】
オハ1957~1959は、明治35年関西鉄道四日市工場製の木製客車ホハ102~104を大鉄車両で車体を新製して鋼体化した車両である。オハ1960は昭和36年大鉄車両で新製した車両であるが、昭和30年廃車になったホハ101の台枠と近鉄名古屋線の改軌で不要となった台車を再利用している。
車体は1両毎に細部が異なる。
〔オハ1957〕(形式オハ1900)
昭和32年(1957年)ホハ104を鋼体化したもので、座席はロングシートである

三井寺下 (41-11-27)
〔オハ1958〕(形式オハ1910)
昭和33年(1958年)ホハ103を鋼体化したもので、近江今津側が正面2枚窓の非貫通で車掌室が設置されている。座席は扉間クロスシートである。

三井寺下 (41-11-27)

貫通側/三井寺下 (43-5-18)

堅田 (44-10-4)
〔オハ1959〕(形式オハ1910)
昭和35年(1960年)ホハ102を鋼体化したもので、浜大津側が正面2枚窓の非貫通で車掌室が設置されている。座席はオハ1958同様扉間クロスシートである。

堅田 (44-10-4)
〔オハ1960〕(形式オハ1960)
前述の通り、昭和36年大鉄車両で新製車。ホハ101の台枠と近鉄名古屋線ク6561形の台車K-67を再利用している。座席は扉間クロスシートである。


堅田 (44-10-4)

【オハ2763~65】
元国鉄オハ27(オロ31の格下車)で昭和39年に譲り受けた。車歴は下記の通りである。
オロ31110(昭和3年日本車輌)→オハ27110→江若オハ2763
オロ3192(昭和3年日本車輌)→オハ2792→江若オハ2764
オロ31117(昭和3年川崎車輌)→オハ27117→江若オハ2765
いずれもトイレ、洗面所を撤去して63と65に車掌室を設置している。
〔オハ2763〕

快速列車に使用中/浜大津 (41-12-8)
〔オハ2764〕

快速列車に使用中/浜大津 (41-11-29)

高島町 (44-10-4)
〔オハ2765〕

高島町 (44-10-4)

【列車の画像】
〔快速列車〕
昭和41年頃迄DD13牽引の快速列車が1往復運転されていた。当時の時刻表が手許になく、昭和44年6月時点の時刻表では、上りは近江今津発6時40分で途中新旭、安曇川、高島町、北小松、比良、蓬莱、和邇、堅田、雄琴温泉、滋賀、三井寺下に停車して浜大津着は8時5分、下りは浜大津17時55分、近江今津着19時15分で、所要時間は普通列車より約10分早く、通勤快速とでも云うべき列車であった。
5両編成で浜大津寄りからオハ1900番台3両+オハ27形2両が基本であったようであるが、一度だけオハ1900番台2両+オハ27形3両を見たことがある。

快速列車は浜大津駅到着以外撮影していないが、無いよりマシと思っていただきたい。
DD1352+オハ1959+オハ1960+オハ1958+オハ2764+オハ2763/浜大津 (41-12-8)

DD1352/浜大津 (41-12-8)
〔気動車のトレーラー〕

キハ51+オハ1960+キニ4 / 浜大津 (40-3-11)

キハ19+オハ1957+キハ12 / 浜大津 (40-3-18)
いずれも近江今津からDDT編成で到着後、三井寺下に回送のため先頭のDを反対側に連結したところ。
〔水泳臨〕

DD1352の引く近江舞子行回送列車/滋賀~叡山 (44-8-16)

水泳帰りの客で満員の浜大津行/滋賀~叡山 (44-8-16)


DD1351の引く浜大津行/滋賀~叡山 (44-8-16)

伊香保の電車(Ⅱ)


正門の扉が開いていると電車が見える。

 昨年の9月30日/乙訓の長老【15051】「老人伊香保温泉に遊ぶ」、10月4日/西村雅幸氏【15086】「伊香保の電車」等で、渋川市内に保存されている「伊香保の電車」が話題に上がったが、年末の12月26日(月曜日)仕事で高崎に行った時、早めに出かけて見学した。
場所は渋川駅から徒歩15分位の渋川~高崎間のバス道路沿いにあり、「平形眼科」の大きな看板があり直ぐに判った。立派な門を入り受付けの方に来意を告げると「どうぞ」と云うことで車内を含めて見学することができた。

東武伊香保線の廃止は昭和31年12月28日で、廃止後半世紀以上経過しているにもかかわらず非常に美しい状態で保存されている。屋根のない所でこれだけの状態を保つため日常的にメンテナンスがしっかり行われており、保存されておられる方の並々ならぬ熱意を感じた。

 車体は戦後の更新修繕で丸屋根になっているが外吊りの扉はそのままである。

 車内

 運転台付近

 
 行先板

平形眼科の全景

もう1両の保存車
渋川駅から徒歩5分位の公園にD51724が保存されている。こちらも保存状態は良好である。

年初めの外回り鉄はじめ

KAWANAKAです。

七草粥を食べる時期が終わったので、あけましておめでとうではないですが、仕事を利用した外回り鉄の初めです。会社恒例の豊川稲荷詣でが毎年年初めの週末にあり、小生は2回目の参加です。幹部が夜にホテルアソシアで新年会をして、あくる日ゴルフをするというものです。嫌味を聞かされますがタダ酒飲めるのとタダゴルフ(小生は参加しない) ができて休日勤務になりますからそれなりの価値はあります。

今年は豊川からどのようにして帰宅しようかと思いましたが、準特急先輩の記事を見て、中津川経由(経由といえるかどうか)で帰ることとし、中津川まで行くなら長電に立ち寄ろうと思って立寄り外回り鉄をしました。豊川までの新幹線が老年切符に化けて追加費用なしです。

中津川: 準特急先輩に貨物の時刻をお聞きしてお稲荷さんのパワーでイザ出発。ところが中央線は休日ウヤが多く、中津川で丁度時間を持て余していそうな赤線帽子のエライさんに、時刻を聞き午後から外回り鉄をはじめました。聞けば1325上り、1525下り、1630下り、同時刻1630に遅れている上りが来るかも知れない(中津川通過時刻)とのこと。予定していた釜戸は諦めてスーツにコート、かばん、革靴で落合川から少し中津川寄りに戻って撮影することにしました。かつて若かりし時に訪れたときとは様変わりであるが、それでもすかたんを幾つかしましたが外回り鉄としての使命を少し達成しました。

御なじみの場所での見飽きた写真なので、ちょっと違った写真を掲載。股覗き状態での山が新雪を被って綺麗です。

長野: 夜遅く、帰宅途中の長野で途中下車。お宿は少しロケには高いかと思った朝付き5000円のホテルの投宿。手違いから部屋がなく、スイートで勘弁? してくれと言う。応接セット、広いバス、クローゼットがあり、こんなことならもっと早くチェックインすれば良かった。

翌日は、長電2000系で、HPによれば206レ(須坂0801→長野0829)、203レ(長野0847→須坂0913)とあります。バイキング朝食を大急ぎで流し込み(沢山食べておくと昼食のコストと時間が省略できる)、昨日と同じくスーツにネクタイ(寒いから)、革靴、コート、かばんで現場へ。

かなりの人出であったが、3月に本当の最終であるので、意欲のある人は廃線になる屋代線の撮影を兼ねて行かれてはどうであろう。

写真は朝陽を出たとことの203レの1枚であるが、英語のヘッドマーク。後尾は当地で有名なトンガラシ屋の八幡屋磯五郎の広告のヘッドマークで同じく英語版、トンガラシの絵入りである(実際に行って見てください)。何でも売ってしまいそうな長電であるがようやる。

(こんなこととはイザ知らず、走り去る電車の逆光写真を超トリミング。ぼやぼや写真で恐縮)

外回り鉄はここまで、鹿渡、屋代線・・・と興味はあるが、後の祟りを恐れて老年切符で帰ることにした。カバンには持って行っても良いというホテルのパンがわんさか。かじりながらのエコノミー帰路となりました。

ところが・・・、篠ノ井線を通過中、姨捨に下りたくなって下車。知らんうちに姨捨公園というのがあって安易に写真が撮れるという。あやかって次の電車までの時間を使って1枚。あまりに安易。あまりに来る車両が詰まらんし、寒い。帰ることに。

なお、下の写真は2人は何の関係もなく、前後の写真から判断すると偶々そういう場面になっただけ。小生は電車が来ても鉄でない人は、みんな反対の景色の方を見ている、というのを撮ろうとしただけであります。

人を写したのでついでに1枚。

長野駅での見送りの風景。子沢山になった奥さんを置いての別れ風景。子供はお父さん?がどこに乗っているのかわからなくて単に手を振っている。奥さんの里が長野で、旦那が名古屋かどこかに行くのかな?、しかし明日はまだ休み。てな、ことを考えて、あんまり高給ではなさそうな奥さんの風貌を見て色々想像した。苦労かけるねえ・・・。がんばろう。いやー、鉄道は良いねえ。

・・・で、脱線しましたが、外回り鉄初めはこれにて終了。久し振りの中央西線であるが考えてみれば、JJR東海の合理化も流石であるが金は持っているんでしょうね。富の再配分を何とかならんものかと。不当に高い(と小生は考えている)新幹線でシコタマ儲け、殆ど国鉄の車両を駆逐し終わって(次はどうしようというのでしょうか)、只管、鉄を無味乾燥なものにしている東海。

年明け、色々考えさせられるよそ道帰宅2日の外回り鉄でありました。

小田急消滅車両

新幹線100系、300系、日本海、十和田観光等今年の3月は消える車両、電鉄会社が多く、忙しい。1月5日付け日経新聞によると小田急電鉄でも3月17日のダイヤ改正で10000形Hiseと20000形RSEを引退させ、同時に1969年からの通常車両5000形も引退させるとのこと。JR東海の小田急乗り入れの取りやめと小田急の沼津乗り入れを御殿場まで短縮するという話は聞いていたが、小田急は今後乗り入れに何形を充当するのだろうか。デジ青巻頭写真で大活躍の893-2さんも8日兵庫県宝塚市から小田急撮影に来られたようです。私も関係写真をのっけてみました。

2011.11.6  JR御殿場線谷峨駅を通過する沼津発新宿行き「あさぎり4号」 20001

 

2011.2.10  相武台前~座間 箱根湯本行き「はこね25号」10051 ここは桜の季節は好撮影地となる。一部長野電鉄に譲渡され、撮影済みの方もおられよう。

 

2011.11.7 鶴川~玉川学園前 沼津発新宿行き「あさぎり2号」 JR東海371系

 

2010.2.20 伊勢原~鶴巻温泉 5255~8551 小田原発急行新宿行き 所謂小田急顔の最後。 昨年の東武顔8111に続きその会社を代表する顔が減っている。

本年もよろしくお願いします

頑張ろう2012年。甦らそう日本!
本年もよろしくお願い致します。

山陽電鉄2012号他3連。1963年1月3日、須磨浦公園近くにて。

1962年7月1日、プレス公開、電鉄姫路にて。2012+2505+2013。

本邦最初のオールアルミカー。山陽の3扉車モデルの先駆車。性能比較の為同時に、ステンレス車2014+2506+2015を製造し運用、その後のアルミカー採用の先駆車ともなった車両。

2010年以来、山陽電車と共に新年のご挨拶をして来まして早や3年目。しかも、2013、2014、2015と用意が出来ていますので、これからもまだまだ続きます。お楽しみに。

マレー国鉄に少しだけ乗ってきました。

昨年、12月9日から12日まで、会社の職場旅行で、マレーシアのペナン島へ行ってまいりました。

一日、自由行動があり、何をしようか迷っていたところ、対岸のBUTTERWORTHまで渡ると、鉄道があることがわかり、早速、海にも入らず「鉄」してきました。

12月10日、ホテルを出て、午前中は、世界遺産にも登録されているジョージタウンを散策。昼過ぎに、対岸に渡るフェリーターミナルへ移動。ターミナル内で、BUTTERWORTH1400発の11列車SINARAN UTARAの切符を購入。行先は、1445着Nibong Tebaiです。プレミアシート(1等)で14マレーシアリンギット(約366円)です。帰りの切符も予約しようとしましたが、すぐ折り返すような行動が理解されず、どうしても売ってくれませんでした。

フェリーで渡ること、約15分。対岸のバタワースに到着。フェリー乗り場近くの駅に移動しますが、駅前には、SLとDLが展示されています。

駅自体は、プレハブの仮設駅です。

ここバタワースからは、クアラルンプールまで、一日2往復(昼行・夜行)。クアラルンプールを経由して、シンガポール近くのウットランズまで1往復(昼行)。バンコクまで1往復(夜行)の列車が発着しています。ここで、無事帰りのNibong Tebai1516発10列車SINARAN UTARAの切符を購入。BUTTERWORTHは、1615着の予定です。帰りは、スーペリアクラスで11マレーシアリンギット(約286円)です。

乗車するBUTTERWORTH1400発の11列車SINARAN UTARAは、機関車26110+ASC2216+ASC2155+ASC2151+ASC2201+AFC1413+ADNS2616+ADNS2640+ADNS2617+ADNA2604+PCC212の8両編成で、ASCは、スーペリア(二等車)。AFCは、プレミア(1等車)。ADNSは、寝台車(開放型二段寝台でオロネ24のような感じです。PCCは、電源車です。車両番号は、車体に書かれておらず、車体中央の水タンクか空気溜めのようなものに書かれており、ほとんどが韓国HUNDAI製です。一日二往復ですので、夜行でクアラルンプールから来たものが、昼行で、クアラルンプールへ折り返すのだと思います。

運転士に身振り手ぶりで、「ジャパンの鉄」であることを伝え、26110機関車運転室に乗り込むことに成功。

最高速度は、120キロのようです。ただ、この機関車の長さが異様に長く、客車と同じくらいの長さです。線路に下りての撮影も、こころよくOKをもらいました。

そののちに、プレミアシートに移動。革張りのシートで一列と二列の配置で、なかなかのものです。

車中では、パン(フジパン製のアンパンかココナッツパン)とミネラルウォーターの配られました。小一時間の旅で、Nibong Tebaiで到着。途中、長大編成のコンテナ列車と何度かすれ違いました。また、、現在は、非電化ですが、電化工事と路盤改良工事たけなわでした。Nibong Tebaiは、一面の駅でこちらも仮設駅で、駅舎は、プレハブです。隣で高架駅の工事がたけなわです。ただ、一日に往復しかない旅客列車のためにこのような工事が必要なのか?甚だ疑問です。

左に見えるのが、高架化した新しい駅です。

帰りの列車は、クアラルンプールを0845に出た列車ですが、約35分遅れて、NibongI Tebaiに到着しました。帰りは、スーぺリアクラスは、二列・二列で、パンなどの配布もありませんでした。パン代だけでも3マレーシアリンギットは、しますので、絶対プレミアがお得です。その上、このスーペリアには、人の他、赤アリが巣を作っているくらい大量に乗車しており、一緒に行った後輩は、うとうとしているうちにTシャツの中にアリが入り込み、体中に刺されておりました。

ということで、少しだけ、マレー国鉄に乗車してきました。

ペナン島に行く機会がありましたら、是非、お勧めします。

白銀、三道嶺、雅満蘇 失業者二人の旅日記  初冬の大地へ      Part15 総集編 

今回は、O氏と2人の初冬の大地への失業者二人の旅になりました。一人旅は訪れる地での出会いがあったりでそれなりに楽しいのですが、道連れがあるのは話も弾み楽しく旅をすごせます。特に老人となった今は、ボケることが多くなり注意力が散漫になりますので、何よりも安心感がありました。

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失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part14 帰路

第14・15日目 12月13・14日

① (T76次) →9:16 鄭州 19:43(K284次)→翌6:55上海(18分早点)
②  14日 上海浦東13:10(JL894)→16:15関空
③ 14日 関空(JR)→新大阪→長岡京

▲ 兰州始発の北京西行きのT95次に乗車して郑州で下りました。切符をご覧のように快適な高級軟座寝台(二人1室)です。当日でも空席のある切符ですので、站の切符売場に並んで購入予定でしたが、時間がもったいないとトウさん圣由で依頼しました。手数料は50元と朋友料金で、良心的に対応してくださりました。
O氏は、いつもは時間優先でのんびりと長距離夜行寝台列車には乗っておられなかったので、高級軟臥は初めての経験だそうです。軟臥4人分のスペースを二人で使用しますので、料金も2倍(軟臥下鋪で740元=約9,250円)しますが、トイレ洗面所がついていますので非常に快適です。兰州局の看板列車だけあって、列車乗務員も若くて美女揃いです。兰州から郑州までは、1,187キロ、14時間9分の快適な乗り鉄旅でした。

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失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part13 白銀 その4

第13日目 12月12日  白銀4日目

① 白銀 15:30(チャーター車)→蘭州
② 蘭州1 9:07(T76次) →翌 9:16 鄭州

今日は、
359次撮影後に兰州に向かい夜行列車に乗車して翌日郑州下車、鄭州鉄道日記さんとお会いしてからO氏は北京へ、私は彼と一緒に上海へと向かいます。ご一緒に帰国したいのですが、JAL北京線は関空への直行便はありません。東京圣由だと、午後便では翌日のトランジットとなりますので、上海からの直行便としました。


▲ 今日は土日運休だった三冶錬往復の客車列車が走りますので、両方撮ることにしましたが、7:53三治錬行きの355次は暗くて、ISO3200でも開放で、シャッタースピードは80分の1しか切れません。初めて前照灯を点けて来ました。
357次は、場所を三冶錬よりに変えましたが、こちらも 8:19と日の出前の薄明るい状態で、ISO400の開放で160分の1です。

折り返しも撮った後、貨物は入るのか、SY牽引ではないかと情報収集のために踏切番小屋に行きますと、今日はDL牽引で今ヤードで待機中との連絡が入りました。私はDLでも一応撮っておきたいと近くの丘に向かうことにしましたが、O氏は蒸気以外に興味がないと動かれません。
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失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part12 白銀 その3

第12日目 12月11日 白銀3日目


8:22、朝日が顔を見せる頃に来る1470号機牽引の357次をお立ち台で、9:14の折り返しをDongchanggou站で撮りました。
山間に陽があたるようになりましたので、時間は分からないがいつもは、DL貨物列車が上ってくる事があるので、暇ついでに11時までは待って撮ろうかと、O氏と意見が一致しました。
11時近くになり、そろそろ引き上げようかと話をしていると、踏切番小屋に行っていたトウさんが来られて、昨日DLが故障したので蒸気機関車が来るようですと、思いもかけぬ知らせを持ってきてくださりました。

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失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part11 白銀 その2

第11日目 12月10日  白銀2日目

今日も夜明け前に目覚めて、いつものように朝食を仕入れて出発しました。7:50白銀新站を出る357次を撮影するには、日の出の関係上、昨日行った深部銅鉱手前の丘に登らなければなりません。


8:19、朝焼けの中、白煙を吹き上げながら1470号機牽引の357次がやって来ました。白銀のハイライトです。撮り終わった後も余韻に痺れました。 続きを読む

失業者二人の旅日記  初冬の大地へ      Part10 白銀 その1

第10日目 12月9日

哈密21:04(T296次)→12:10蘭州(20分晩点)
② 蘭州12:21(チャーター車)→13:46白銀

兰州站からはトウさんがチャーターした車に乗って、高速道路を白銀に向かいました。約100キロの道のりです。中国鉄路も通ってはいますが、本線上の白銀西站は、約7キロ離れた街外れにあり、上下各7本だけが停車しています。市内には支線の白銀市站がありますが、朝に上り1本、下りは夕方に1本しか旅客列車は走っていません。所要時間も約3時間と、利用できません。


▲ 兰州は中国全土に知れた牛肉麺発祥の地で、前回に準特急先輩と美味しい麺をいただきました。左のこってりした新疆拌麺とは違って、コクがあるのに透き通ったスープは、日本人好みでもあります。麺の種類は選べますので、平麺を注文しました。トッピングは、焼き豚ならぬ焼き牛肉です

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謹賀新年/竜ヶ崎線



年の初めは辰(=竜)年に因んで、昨年開業111周年を迎えた関東鉄道竜ヶ崎線の近況等をお伝えしたい。
竜ヶ崎線は常磐線佐貫駅と竜ヶ崎市の中心部を結ぶ僅か4.5㎞の路線で、ほぼ中間地点に入地駅(棒線のため交換不能)がある。全線の所要時間は7分で朝夕のラッシュ時間帯は約20分、それ以外は約30分間隔で運行されている。一列車の往復運行のため、20分間隔の時は両端駅での折返し時間が3分しかなく極めて慌ただしい。
配置車両はキハ532、2001、2002の3両で、ラッシュ時2連、それ以外の時間帯は単行でワンマン運転を実施している。
龍ヶ崎市内に大規模団地や大学が出来たため人口は増加しているが、竜ヶ崎駅から離れているため乗客の増加には繋がっていない。竜ヶ崎~取手間にはバスが運行されており、常磐線の本数が少なかった時代は、バスで取手に出て本数が多く確実に座れる国電に乗り換える人が多かった。常磐線交流区間の運転本数が増加して佐貫駅に停車する電車が増えると竜ヶ崎線の乗客も増加し、バスは1~2時間に1本程度にまで減少している。

歴史は古く明治33年8月14日に762㎜の龍崎鉄道として開業し、大正4年7月に1067㎜に改軌、戦時中の昭和19年5月13日鹿島参宮鉄道に移譲、昭和40年7月1日鹿島参宮鉄道と常総筑波鉄道が合併して関東鉄道となり同社竜ヶ崎線となった。
昭和46年8月1日よりワンマン運転を開始したが、普通鉄道としては日本初と言われている。

竜ヶ崎駅の看板 
(H23-11-23)


竜ヶ崎駅(H23-11-23)

〔現有車両〕
キハ532(キハ532形)
旧国鉄キハ20の台車、機関、主要機器を流用して昭和56年新潟鐵工所製で新製した。キハ2000形が登場するまでは主力として活躍した。現在は予備車的な存在となったが原則として第1、第3土曜日と第2、第4日曜日の9時~14時頃まで定期運用に入っている。キハ2001と2002のいずれかが検査に入ると朝夕ラッシュ時にキハ2000形と2連で走る。

竜ヶ崎駅進入
(H9-5-5)

竜ヶ崎駅進入/2両目はキハ2002 
(H23-11-23)

キハ532+キハ2002/竜ヶ崎~入地 
(H23-11-23)

キハ532+キハ2002/佐貫~入地 
(H23-11-23)
竜ヶ崎に向かって左側/後ろのキハ2002には乗務員室扉が無い。

車内は新京成の800形と似ている。蛍光灯は30
Wの短いものが間隔を空けて設置されている。

 キハ2001、2002(形式キハ2000形)
平成9年新潟鐵工所製の新製車である。竜ヶ崎線はホームが竜ヶ崎に向かってすべて右側のため、竜ヶ崎寄りの運転台が右側にあり、左側には常務員用扉がない。朝夕2連、昼間単行で主力として活躍しているが、前述のようにいずれかが検査に入るとキハ532との混色編成が登場する。

キハ2001/竜ヶ崎 
(H23-11-23)

 
キハ2002+キハ532/竜ヶ崎~入地 
(H23-11-23)


〔過去の車両〕
自分で撮影した車両のみ紹介する。
4号機関車
大正14年川崎造船所製のC形機関車で、現在は龍ヶ崎市歴史民俗資料館に保存、展示されている。

竜ヶ崎 
(S50-1-3)

DC201
常総筑波鉄道時代に昭和28年新三菱重工三原製作所製のL形機である。常総線で貨物列車を牽引していたが、昭和43年竜ヶ崎線に転属した。47年貨物列車廃止後は保線工事列車に使用されていたが49年に廃車となった。

佐貫 
(S45-3-15)

キハ305
昭和10年日本車輌で常総鉄道キホハ61として新製、窓が小さく幕板の広いスタイルはお世辞にもスマートとは言えない。昭和30年に筑波線に転属、31年にキハ305に改番、昭和40年に竜ヶ崎線に転属した。
湯口先輩の「内燃動車発達史/上巻」のP72に新製時の写真が掲載されているのでご覧頂きたい。



竜ヶ崎 
(S41-3-12)

キハ40202
昭和6年日本車輌製で、牟岐線の中田~羽ノ浦間の前身阿南鉄道キハ201として新製、昭和11年7月1日鉄道省に買収されてキハ40510に、更に改番でキハ40307となった。昭和23年鹿島参宮鉄道に売却されてホハフ402となり鉾田線で使用、昭和27年気動車に復活して竜ヶ崎線に転属した。
「内燃動車発達史/上巻」のP279に湯口先輩が昭和30年に竜ヶ崎駅で撮影された写真が掲載されているのでご覧頂きたい。


竜ヶ崎 (S45-3-15)

キハ41302
昭和9年川崎車輌で鉄道省キハ41070として新製、昭和27年エンジンを日野DA55に換装してキハ41599に、昭和30年DMF13に換装してキハ41355に、昭和32年4月の称号改正でキハ0436となった。昭和35年4月25日付け武蔵五日市支区で廃車になり、同年12月に鹿島参宮鉄道が譲受け、竜ヶ崎線に配置された。
昭和46年8月のワンマン化の際も改造され昭和57年1月まで在籍した。

竜ヶ崎 
(S41-3-12)

竜ヶ崎駅進入 
(S41-3-12)

竜ヶ崎 
(S50-1-3)

キサハ41801
昭和8年日本車輌製で鉄道省キハ41070として新製、昭和27年エンジンを日野DA55に換装してキハ41502に、昭和29年DMF13に換装してキハ41322に、昭和32年4月の称号改正でキハ0423となった。昭和37年3月31日付勝浦機関区で廃車になり、昭和39年に鹿島参宮鉄道が譲受け、エンジンを撤去の上竜ヶ崎線に配置された。昭和45年に常総線に、その後筑波線に転属して昭和54年3月に廃車になった。

竜ヶ崎 
(S41-3-12)/塗装は黄色一色であった。

筑波線転属後/真鍋
(S49-8-26)

キハ521、キハ522
元江若鉄道キハ18→キハ5121→キハ521、キハ19→キハ5122→キハ522の車体乗せ替え後。車歴等は11月25日付【16203】「今でも気になる江若鉄道」をご覧いただきたい。

キハ521/竜ヶ崎 
(S63-5-18)

キハ522/竜ヶ崎 
(S63-5-18)

キハ522/竜ヶ崎 
(H9-5-5)
この時は前面に貫通幌が付いており3連運用があったのかも知れない。

キハ531
元江若鉄道キニ6→キハ5123→キハ531の車体乗せ替え後。

竜ヶ崎 
(S63-5-18)

キハ531の銘板

車体乗せ替え後も「昭和6年川崎車輌」の銘板が残っていた。

〔「竜ヶ崎」と「龍ヶ崎」〕
「竜」と「龍」の使い分けを考察すると極めて曖昧であることが判る。市名は「龍ヶ崎市」で「龍」を使用しており、市立の小学校は「龍ヶ崎小学校」と「龍」を使用しているが、県立高校は「竜ヶ崎第一高校」と「竜」を使用している。私立の幼稚園、保育園は「龍」と「竜」が入り乱れている。警察は「竜ヶ崎警察署」JAは「JA竜ヶ崎市」、都市再生機構(元日本住宅公団)は「竜ヶ崎ニュータウン」で、その中に「龍ケ岡」と「北竜台」と2つの地域があり、「龍」と「竜」が入り乱れている。

更に最も不可解なのが竜ケ崎駅の看板で、「崎」をよく見ると「﨑」を使用している。古い切符を見ると「龍ヶ崎」となっており、いつのまにか「龍」の字が複雑なため簡単な「竜」にしたというのが真相ではないだろうか。駅の看板の「﨑」を不思議に思う人はいないのだろうか。

〔竜ヶ崎ニュータウンのバス〕
竜ケ崎ニュータウン行のバスは佐貫駅から出ており、「竜」のイラストのバスが使用されている。但し専用車ではないため標準色のバスが使用されたり、「竜」のバスが他の路線に使用されることもある。
元々関東鉄道と茨城観光自動車の共同運行であったが、茨城観光自動車が平成13年6月に廃業したため関東鉄道の単独運行になった。関東鉄道は「いすゞ」茨城観光は「日野」を使用していたが塗装は共通で、茨城観光廃業後は関東鉄道が車両を引き取った。

土浦22か1711/関東鉄道赤竜/7
式U-LV324K(
H8-1-15) 佐貫

土浦22か1710/関東鉄道青竜/7年式U-LV324K
(H8-1 -15) 佐貫

土浦22か1715/茨城観光自動車赤竜
/7年式U-HT2MMAA(H9-5-5)正直車庫

土浦22か1714/茨城観光自動車青竜
/7年式U-HT2MMAA(H8-1-15) 佐貫

失業者二人の旅日記  初冬の大地へ Part9 雅満蘇(牙曼苏;Yamansu)その3

皆様、明けましておめでとうございます。今年も長文の紀行記を投稿し、お読み疲れ等のご迷惑をおかけいたしておりますが、出来るだけの簡略化を目指しますので、なにとぞご勘弁を賜りたくよろしくお願い申しあげます。

第8日目 12月7日  雅満蘇2日目

もし朝に運行があるのではと7時前には起きました。隣の部屋におられるアイグリさんに昨夜の情報をお聞きしましたが、運行は決まらなかったとの残念な返事です。蒸気機関車の様子を見に行かれたO氏からも止まったままだと確認されました。

それではと、夜間撮影でもするかと三脚を持って、まだ真っ暗闇を出かけました。

夜が明けてからアイグリさんが、事務所に行かれていろいろと聞いていただきましたが、検査員の偉いさんが引き上げるまで運行はないだろうとの返事です。そして、 蒸気機関車の運転手が親しい同じウィグル人です。今日彼は、交代でハミに帰っていくので、その前に単機であれば、フョトランができるように頼んでみますが、がどうでしょうかとの提案がありました。O氏と相談しましたが、もう1日あるので、明日に期待しようとお返事しました。
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年末 大慌ての決算報告(3)

今年は遠方へは行けなかった代わりに、近郊の撮影はよく行きました。住まい近くの東海道本線山崎~長岡京、また嵐電、叡電など、季節ごとに訪れるようにしました。天候や時間帯に応じて、即行動に移せます。地元でお気に入りの撮影地を持つことは、撮影の原点への回帰でもあり、写真のクォリティを高める大きな要素になるとも感じました。
そして、もうひとつ見つけた原点がありました。
自分が楽しければ、それでいいのが趣味活動です。しかし趣味活動の過程で得られた生成物(写真でも、模型でも、調査でも)が、人々の心に何らかの語りかけができれば、それはそれで趣味活動の醍醐味だとも感じました。
それを感じたのは、浜大津での江若復元模型運転会でした。西村さんの緻密な再現力・製作力や、誠実で真摯な対応が、来場者に大きな感動を呼びました。これぞ、趣味活動の着地点であると痛切に感じました。
僭越ながら、昨日までの私の写真展でも、”懐かしい””楽しませてもらいました”のメッセージをいただきました。ただ古いだけの写真が、人の心を癒したとすれば、こんな嬉しいことはありません。大震災でも、泥まみれの写真を復元することが話題になりました。”写真の力”なのですね。
加齢を重ねると、撮っただけでは勿体ない。やはり人様に感じ取っていただく活動も、趣味の大きなテーマだと感じた一年でした。
しかし、過日、王将で餃子を食べながら、準特急さんが思わず述懐された”ワシは外へ出るのが好きなんや。歩くのも大好きなんや”の言葉に、やっぱり写真を撮ることも楽しい、要はインとアウト、そのバランスをよく保ちながら、これから趣味活動を進めたいと思うのでありました(ふぅー、除夜の鐘に間に合った)。

▲屋代線晩秋 ここへ来て私鉄の廃止が各地で取り沙汰されるようになった。長野電鉄屋代線も、来年3月に廃止されることになった。屋代~須坂間の24.4キロ、かつて首都圏から信越本線経由で急行が乗り入れいたのも遠い思い出、いまや単に千曲川右岸の集落を結ぶ使命しかない。乗ってみると、想定外に乗客がいない。90分ヘッドで3500系2連はガラガラだ。最盛期の6分の1以下に減少しているらしい。起死回生の増発などの社会実験も不発に終わったようだ。
人が押し寄せないうちにと、晩秋の信州入りとなった。屋代線の中間にある松代駅は、隣り合う松代城跡が秋色に染まり、木造駅舎とあいまって、実にいい味を出している。ただ、駅前からは、長野駅前へ向かう他社バスが頻発する。長野まで超大回りする電車では全く勝ち目が無い。屋代線は、ほかにも木造駅舎が多い。今まではさして気にも留めなかった木造駅舎だが、とみに気になる存在になった。

▲消えた京福原色 叡電のデオ700系から、京福電鉄時代のデュー時に塗られた、当時の京福福井支社や京都バスと同じ塗色のマルーンとクリームの原色車が消え、新色に塗り替えられた。新色は洛北の自然をイメージしたという、訳ありのカラーのようだが、明るすぎて弱々しい。その点、原色車は電車に相応しい色に思う。八瀬比叡山口、三宅八幡と、私の好きな駅で、最後の1両となった原色車724号は、紅葉の背景によく映えていた。

昭和40年前後の浜大津界隈(Ⅱ)


交差点を通過する三条行急行。右端に京阪バスのボンネットバスが見える。
(39-8-2)

今回は、前回に続いて電車と難問のバスの画像をお目にかける。バスについては、昭和40年前後は少しは興味があったが、撮影は全くしていないので、昭和50年頃撮影した中から昭和45年頃までに製作された車両を紹介する。

【電車】

 浜大津折り返しの穴太行の352/西村雅幸氏がコメント欄に書かれた「渡り線の位置」の件、この写真でお判りいただけると思われる。当時は引き上げ線がなく本線上で折り返していた。浜大津駅統合後、京津線の浜大津止まりの準急は到着後、一旦坂本方面の線路に転線して石山寺行を通した後、石山寺方面の線路に転線、坂本行通過後、再度転線するという面倒なことをしていた。
(43-9-25)

 356+357の坂本行/この時点ではバックの商工中金ビルは4階建
(43-9-28)

 262+261の浜大津折返しの坂本行 (49-12-8)

 交差点を通過する308+307の三条行準急
(55-1-6)

上栄町から浜大津方面を望む/306+305の三条行準急
(51-2-11)

【バス】
当時、浜大津に発着していたバスは、江若の他、京阪バス、近江バス、滋賀交通、国鉄バスの4社で、主力は江若、京阪、近江の3社であった。国鉄バスは江若と相互乗り入れで小浜~浜大津間を2往復運行していた。江若は京阪三条~小浜間を2往復運行し、4時間弱で結んでいた。

バスの写真の前に登録番号(ライセンスナンバー)について少し解説する。
現在の「京都200か2012」のプレートを例に取ると、上段の陸運事務所略号の後の3桁の登録番号は平成11年に制定されたもので、それ以前は「京22か2011」のように2桁で、陸運事務所にコンピュータが導入された昭和45年9月~46年4月頃(全国一斉に導入されたのではなく、都道府県により差がある)から付番されたものである。更にそれ以前は「京2か1011」のように1桁であった。
2桁の時代は下2桁の42と49を欠番にして登録順にナンバーを交付していたが、1桁時代はナンバーを特定のバス会社に割当てしていた地域があった。

滋賀県では昭和37年12月から橙色の「滋2あ」ナンバーは廃止されて、緑色の「滋2い」ナンバーへの付け替えが行われ、江若には「滋2い1001~」割り当てられた。ちなみに「滋2い1~」は近江、「滋2い801~」は京阪バスに割当てられている。余談であるが昭和44年に京阪バスの「滋2い846/38年式BXD30」を譲り受けているが、使用の本拠地が滋賀県内と変わらないため登録番号はそのままで、見る人が見れば、京阪中古であることは一目瞭然であった。
昭和42年12月に割当てナンバーは廃止になり、「滋2い2501~」の届け出順に付番されることになった。

〔江若バス〕
滋2い1035廃車体/いすゞBB751(37年式新日国工業)

 昭和47年4月に廃車されたが、安曇川営業所に残っていた。昭和46年勤務先のキャンプの下見でサンケイバレイに行った時、京阪三条から乗車した小浜行がこのタイプであった。
(54-3-3 安曇川営業所)

滋2い1038廃車体/いすゞBB751(37年式日産車体)

BB751のラスト3両(10
37~1039)は社名変更により日産車体製となった。廃車は昭和47年4月である。(54-3-16 堅田)

滋2い1079/日野RB10(41年式金産)

54年2月廃車
(50-5-18 安曇川駅)

滋2い1077廃車体/日野RB10(41年式富士重工)

 52年7月廃車
(54-3-3 安曇川営業所)

滋2い2715/いすゞBU05D(44年式川崎重工)

鉄道廃止時に代行輸送用として大量に作られたワンマン車である。滋2い27
01~2705、2708~2719、2721~2723の20両在籍し、代行輸送終了後も主力として活躍した。(55-1-6 浜大津)

滋2い2739/いすゞBU05(44年式川崎重工)

鉄道廃止時に代行輸送用として作られたツーマン車である。滋2い27
06、2707、2720、2733~2740の11両在籍した。代行輸送終了後、前後扉のワンマン車に改造して引き続き使用される予定であったが、実際に改造されたのは「滋2い2737」1両のみで、他の車両は譲渡された。(49-12-19 堅田駅)

滋2い2737/いすゞBU05(44年式川崎重工)

上のグループ改造車である。改造が中止となったのは、費用が掛かりすぎるためと言われている。
(55-1-6 浜大津)

〔京阪バス〕
滋2い 858/ふそうMR480(38年式三菱重工)

中1扉のツーマン車で、石山駅~上千町・岩間寺間で昭和51年頃まで使用されていた。
(51-3-23 浜大津)


バックビュー

滋2い 884/ふそうMR620(40年式クレハ)

ふそうの中型車の元祖。ボンネットと共通運用で長等公園~浜大津~朝日ヶ丘住宅等で使用されていた。当時としては斬新なスタイルであった。
江若にも同型車が1両(滋2い1065)在籍して、和邇~途中線等で使用されていたが、スプリングの破損事故があり早々に姿を消した。悪路の走行には不向きであったのかも知れない。(50-3-2 浜大津)

滋2い 888/いすゞBXD30(40年式帝国)
 
昭和51年頃まで長等公園~浜大津~朝日ヶ丘住宅、石山駅~大石~曽束間で使用されていた。
(49-12-15 浜大津)

滋2い2589/いすゞBU10(43年式川崎重工)

京阪バスではリヤエンジン車のいすゞは珍しかった。
(50-3-2 浜大津)

滋2い2762/ふそうMR470(42年式クレハ)

後部の窓が独立窓から連続窓に替わって間もない頃の車両で、後部の形状から「クレハの丸型」と呼ばれていた。
(51-3-23 浜大津)

滋22か 379/ふそうMR480(40年式クレハ)

前述の38年式の代替のため門真支所から転属してきた車長の短い車両。元の登録番号は「大阪2あ 126」である。
(50-1-1 浜大津)

滋22か 381/ふそうMR470(40年式三菱)

中1扉のツーマン車で比叡山線で使用されていた。座席は定期観光車と同じであったため、春、秋の休日には定期観光で使用されることもあった。「滋22」の登録番号は京都営業所からの転属車のためで、元は「京2い1268」であった。
(50-1-1 浜大津)

〔近江バス〕
滋2い 358/ふそうMAR470(39年式クレハ)

元貸切車に中央に扉を取付け路線車に改造した。エアサスで座席は貸切時代のままのリクライニングシートのため乗り心地は良かった。名神大津より大津駅、浜大津、堅田を経由して琵琶湖大橋を渡り守山駅行で、現在は堅田駅~守山駅間の運行となっている。
(49-12-15 浜大津)

滋2い 427/ふそうMAR470(42年式クレハ)

前中扉のワンマン車で、エアサスであった。
(49-12-15 浜大津)

滋2い2693/ふそうMR470(44年式クレハ)

前後扉のワンマン車で後部扉が引戸である。
(50-3-2 浜大津)

滋2い2864/ふそうMR470(45年式クレハ)

前後扉のワンマン車で後部扉が折り戸である。
(54-11-18 浜大津)

〔滋賀交通〕
水口から栗東インター~大津インター間名神高速道路を走行して浜大津までと、一部の便は自社の自動車教習所まで運行していた。また、水口~京都駅八条口間の運行もあり、大津市内や京都に向かう人にとっては乗換えが無いため便利な存在であったが、マイカーの普及による乗客減により廃止された。

滋2い2838/ふそうMR520(45年式三菱)

滋賀交通は車長の短いMR520が主力であった。
(51-3-23 浜大津)

 滋22か 631/ふそうB805L(43年式三菱)

昭和52年に貸切車に後部扉を設置して路線車に改造した。座席は貸切時代のリクライニングシートのままであった。
(54-11-18 浜大津)

都電荒川線のクリスマス

12月22日と23日の16時~18時まで、荒川車庫に於いて正面にリースを取付けた花電車がクリスマスツリーと共に展示された。22日に会社帰りにコンデジで撮影したので報告方々ご覧いただきたい。運転されなかったのは残念であるが、今後もこのような形で活用されることを期待したい。


16時30分、現地到着直後の撮影。


到着1時間後17時30分頃撮影

8809との並び

失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part8 雅満蘇(牙曼苏;Yamansu)その2

第7日目 12月6日 雅満蘇

蒸気機関車が撮れないなら、せめてレールバスを入れて撮りたいと発車時間の確認をお願いしていましたが、 朝食中に出発してしまいました。関係者と連絡を取っていたアイグリさんでしたが、上手くいかなかったようです。仕方ありません、お奨めの撮影地に案内をお願いしました。


▲ グーグルから作成しました地図のとおり、路線は道路と離れています。アイグリさんの一押しは、かつて站があった雅山です。途中までは舗装された道路がありましたが、直角に右折して砂漠に入り、道なき道を適当に走ります。約30分で到着しましたが、列車交換が出来るようになっていました。周りに人家などありませんので、站というより信号所です。

雅山站から雅満蘇方向の小高い丘に登って、山口方面から折り返すであろうレールバスを待つことにしました。アイグリさんは、何度も電話して列車が来る確認をします。
待つ間にここに来た日本人はおられたのですかと聞きますと、旅行社のオオタニさんという方が2度、他に4人1組の日本人が来られています。欧米人も1組来られています。私達の訪問は5番目の案内ですと言われました。
さすが三道嶺のようにたくさんの列車が走行する事がなく、不定期で走っても一日1往復では、訪れる方はわずかのようです。
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梅小路機関車舘での「蛍の光」

梅小路機関車間の開館は1972年と記憶するが、1975年の大晦日、民放TV共同での「行く年来る年」の極めつけは梅小路機関車舘での、蒸機汽笛による「蛍の光」だった。この曲は8音階でできているから、8両の蒸機の汽笛共鳴室の容量を加減して1両1音とし、山本直純が指揮して、オーケストラをからませ「蛍の光」を演奏したのである。つまりは8両の蒸機に同時に火を入れたことであり、当然組合も、機関士や助手のOBたちも、全力を挙げ協力したのは間違いない。

これをM君が録音し、そのテープを貰っていた。最近はアナログテープを聴くこともほとんどなく、先だってテープデッキを使おうとすると、中に入れたままのテープ再生は出来るが、取出しが不能。当然交換もできない。修理に出すと直るかどうかといわれ、1万円ぼったくられたが、目出度く再生は復活。

で、本日何十年ぶりかで、M君のテープを再生してみた。後期高齢者の身体各部は老朽疲弊甚だしく、パッキンがことごとく劣化し、尾篭な話だがありとあらゆる排泄部がよろしくない。要は「締り」が悪い。当然涙腺(これも排泄部に違いなかろう)も著しく脆くなっており、すぐ泪が出るのは「生来」感受性が高いからだと強弁しているが、老齢劣化には違いない。

36年ぶりのテープは幸い健在だった。蒸気機関車の汽笛で音楽を演奏するというアイディアも良かったが、「蛍の光」の何ともいえない哀愁と蒸機の汽笛とのマッチが言葉に尽せない。

そういえばM君はDRFC-OB会に顔を見せなくなって久しいが、元気で商売に励んでいるんだろうなぁ。

連接車2

 年末の駆け込み投稿で賑わっております。大変結構なことですが、おかげで先日の連接車1もはるか彼方に追いやられてしまいました。私も駆け込みで連接車2を登場させます。前回は名古屋市電で終わりましたので今回は同じ名古屋の名鉄を採り上げました。

           1973.3.4 谷汲線更地2151+連接車401

           単車を改造して連接車にしたもの

 

          2005.3.6 美濃町線上芥見 岐阜行き880形 

          880形は美濃町線廃止後福井鉄道に譲渡 

 

          2005.3.6 美濃町線上芥見 関行き875+876 

          元札幌市A841+A842