教えてください。天下茶屋のTORI
京阪特急3000のオリジナルカラーで西村さん、INUBUSEさん、乙訓の老人さまから投稿があり、うれしく思っています。特に乙訓の老人さまの投稿で、はるばる越中に京阪3000が再就職した時、すべて塗り替えたのではなく京阪特急の現役時代の塗装のままで走っている写真を見た時は驚きと、またうれしく思いました。
さて、フィルムで撮影した写真のデジタル化を行っています。総本家青信号特派員さまの「写真整理学-3-」に書かれていたビネガーシンドローム症状のフィルムがあり、このフイルムからデジタル化を行っています。症状はひどくないのでホットしているしだいです。このなかにINUBUSE様とW氏と一緒に行った九州の蒸機の写真があり、これがだめになるとかなりの痛手となります。なにせ、九州の蒸機の写真はこれしかないのです。このデジタル化をしているフィルムの中にいつ撮ったかわからないが、南海天下茶屋車庫で撮った写真で入換用だと思いますが、「TORI」と車体側面にかかれた機関車があります。これはいったいどのようなものなのでしょうか。ご存知の方は教えていただきたいと思います。
アメリカ鉄道の旅(その1)
6月5日から19日までの2週間アメリカの中西部に行ってきました。
この旅行の主な目的は3つ、アムトラックに乗って大陸横断鉄道の雰囲気を味わってみたい、SL保存鉄道を訪問したい。世界最大といわれるBIG BOYを見たい。これに加えていくつかの博物館を訪問したいと言うことでした。ところがアメリカの場合、公共交通の面で制限があります。アメリカはご存知の通り車社会で移動はフライ&ドライブという、空港でレンタカー借りて旅行するのが一般的です。アメリカの都市部をレンタカーで走る自信はありませんので、レンタカーでの移動は田舎に限り、それ以外は公共の交通機関が使えるところと言うことで計画を立てました。その結果BIG BOYを見るのに比較的アクセスしやすいデンバーを選び、サンフランシスコからアムトラックのカリフォルニアゼファーでデンバーまで移動、そこから飛行機でデュランゴに飛び、デュランゴでレンタカー借りて、デュランゴシルバートン鉄道を訪問。また折角アメリカにいくのなら一度見てみたかったグランドキャニオンを入れ、この移動にフラッグスタッフからロサンゼルスまでサウスウエストチーフを使い、ロスアンゼルスからサンフランシスコに戻るのにコーストスターライトを入れると言う盛りだくさんな計画となりました。
ふるさとへ帰る岡山電軌3010
6月25日の中国新聞に「岡山から栃木へ路面電車”帰郷”」という写真入り記事がありました。調べてみると 今年4月に岡電の100周年記念として「路面電車を無料で差し上げます!!」という表明をしていたことを知りました。対象車両はもと日光軌道線の3010号です。発表後には公開説明会もあり、2ケ月ほどで引き取り先が決まったようです。今年の秋にふるさとの「日光霧降高原チロリン村」に引き取られてゆくそうです。もともと10両あった3000型も 今では3005,3007,3010の3両になってしまっています。昨年9月に車庫をのぞいたときには、3両が仲よく休んでいました。
富山の京阪特急
まだあるロクサン!京成電鉄モハ109
富山地方鉄道の元京阪3000型
どですかでん様 西村様
私も先月(5月12日)電鉄富山駅で京阪特急色の元京阪3000型を見ましたが、4月27日からの運行とは知りませんでした。主に路面電車を写していましたので鉄道線はあまり見ておらず、たまたま駅で写した中に一枚ありました。やはり見慣れた色はいいですね。次回はきれいな景色の中で撮りたいと思います。
15時少し前駅に行くと ちょうど休日のみ特別仕様に改装したサハ112を挟んだ アルプスエキスプレス(元西武特急車レッドアロー) 16013+112+16014の編成が宇奈月温泉から到着するところでした。(平日は 16013+16014の2両編成だそうです)

朝8:55発で立山まで普通電車で往復し11:05電鉄富山到着 折り返しは12:14発 特急うなづき5号で宇奈月温泉へ、折り返し14:56着の特急うなづき10号で電鉄富山に戻り、その後普通電車で立山往復の運用のようでした。

レッドアローいやアルプスエキスプレス到着です。
ホームには 3本の元京阪3000型が待っていて 東西の元特急車4本並びです。
いかつい顔のレッドアロー号と、優しい顔つきの京阪3000の並びです。

その後 右の10041+10042の編成に乗車して南富山へ向かいました。

モハ11042の車内です。なつかしい京阪特急ですね。
市内軌道線、富山ライトレール、万葉線も行ってきましたので 連節車(連節車)を中心に紹介させていただきたいと思っています。
犬伏
富山の京阪特急に寄せて
富山地鉄にあの懐かしい京阪特急が
今日、子供が帰ってきて、富山に行ってきてこんな写真を撮ってきたと見せてくれました。それが左の写真です。携帯のカメラで撮影したものですのであまり鮮明でありませんが、これを見てびっくりしました。すでにご存知の方がおられるかもしれませんがとりあえず報告まで。
いつから、どうなったか富山地鉄のホームページで調べましたがわからなかったので、「富山地鉄京阪特急」で検索すると、北日本新聞の記事に出ていました。これによると4月27日から運行していて、8編成のうち1編成を京阪オリジナルカラーにしたとありました。写真にあるようにハトのマークが付いています。記事には地元の富山レールクラブの会長さんも「鉄道ファンの間では、黄色と赤の”京阪色”が車体にマッチすると話題になっていた。本来の色に戻った車両を今後撮影したい」と言われています。また富山地鉄の人も「富山でぜひ乗ってほしい」といわれています。私も富山にいましたので美しい富山の風景のなかを走る京阪特急はすばらしいものと思います。西武のレッドアローの観光列車やなかなか話題の多い富山地鉄です。また、楽しみが増えました。
長春(新京)の路面電車 Part1 連節車
日本占領下時代に建国された満州国の首都新京(現;長春)に走る路面電車は、1941年開業以来71年を迎えています。
▲ 現在の長春地図に満州国時代の路面電車路線図を重ねてみました。
■線は1941年11月1日、■線は1942年9月12日、■線は1942年2月1日、■線は1941~1942年、■と■は1942年以降、■は1942年12月29日の開業路線です。現在運行しています54路は、1945年日本敗戦以降に開業した路線と思われます。
これまで4度の訪問をいたしましたが、最近2012年5月15日の長春訪問記事に、走行する車両を連接車と書き、乙訓の老人様より 「おいおい違うよ、連節車だよ。」 と、ご指摘を受けました。
発音は同じです。 恥ずかしながら、「連接車、連節車、どう違うの?」 と、全く分かっていませんでした。調べて初めて連接台車を使用しているのが連接車、使用していないのが連節車と理解できました。長春の走っているのは連節車です。訂正させていただきます。
また、「どんな音を立てていました? ドイツ方式なら直角カルダンでしょうね。西安大路の市電、車体は現代風ですが、台車や駆動装置はどうでした? まだKR8とPV弁ですか。」とのお問い合わせもいただいておりますが、気にしていませんでしたので、同じく分かっていません。天津1・ 2・ 3・ 4や上海で走行している1本レールのトランスロールは、日本では営業走行がない路面電車ですので興味深く観察しましたが、こちらの方は、中国では大連、国内では広島や岡山で見ましたのと同じタイプの路面電車でしたので、さほどの探究心がわきませんでした。次回に訪れる時はもっと詳しく報告させていただきますのでお許しください。
※ 上記をクリックしていただきますと、過去の訪問記をご覧いただけます。
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熊本電気鉄道 モハ51など
湯口徹先輩の撮影に遅れること8年、筆者も訪問し撮影していました。関三平先生の撮影からもずっと後年のようです。その明瞭な相違は車番の表記方法です。湯口先輩、関先生の写真にある、大きな書体で前面2か所の表記が後年、普通の書体で1か所に、側面前方と後方の2カ所表記がやはり1カ所に変更されています。書体の変化は著しく、PCのフォントに例えれば、Century や Times New Roman が、MS明朝に変わったようなものです。ただ車体に大きな変化はなかったようです。詳細な説明はできませんので、写真をのみご覧ください。
湯口徹先輩の記事はこちらです。
https://drfc-ob.com/wp/?p=9650
日本セメント上磯工場
6月9日【21120】で西村雅幸氏より「佐渡金山」、続いて6月11日【21205】でINUBUSE氏より「串木野金山」の訪問記が掲載されているが、昭和50年5月1日に日本セメント上磯工場を訪れた時の様子を紹介したい。
沿革は、明治23年4月函館市の有力者により設立された北海道セメントにより工場建設。大正4年7月アサノセメントに合併。アサノセメントは昭和22年5月日本セメントに社名変更。平成10年10月秩父小野田セメントと合併して太平洋セメントとなり、現在は同社の上磯工場となっている。
工場~峩朗鉱山間 (6.6㎞)、同~万太郎鉱業所間 (3.4㎞)の直流600Vで電化された専用鉄道が敷設され、峩朗鉱山からは石灰石を、万太郎沢鉱業所からは粘土が運搬されていたが、昭和48年に峩朗鉱山~工場間に長距離ベルトコンベアが完成して鉄道と併用となった。平成元年(月日不明)全面的にベルトコンベアによる輸送に切替えられ、鉄道は廃止となった。
〔電気機関車〕
1号機~10号機(4号機は欠)まで9両在籍し、2両が保存されている。連結器は1~5号機がピンリンク式、6~10号機は、自連とピンリンク式の両方を装備していた。
1~3号機/大正11年東洋電機(車体は汽車会社)で作られた。自重16tの2軸の小型電機で、ブレーキは手ブレーキと電磁吸着ブレーキであった。
2号機が生まれ故郷の東洋電機横浜工場で保存されている。

5号機/1~3号機の増備車として大正12年に作られた。メーカー、仕様等は1~3号機と同じである。
こちらは上磯工場近くの北斗市運動公園に保存されている。

7号機/昭和23年日立製作所製の自重25tD型機で、京福福井支社→えちぜん鉄道のデキ521、522と同形機である。

9号機/昭和59年東洋電機(車体は東洋工機)製の自重35tD型機である。

10号機/昭和61年東洋電機(車体は東洋工機)製の自重35tD型機で、9号機とほぼ同じスタイルである。
6号機(昭和10年東洋電機、車体は日本車輌製の自重25tD型機)は庫内で修理中、8号機は(昭和27年東洋電機、車体は日本車輌製の自重25tD型機)は万太郎沢鉱業所に行っていたため撮影していない。
〔客 車〕
201~204の4両在籍し、峩朗鉱山、万太郎沢鉱業所の従業員輸送に使用されていた。連結器はピンリンク式であった。メーカー、製造年等は不明のため写真のみとする。
201号車/客車の中では一番大型で、リベットの目立つ車体は鋼製のようである。2軸車ながらウィングバネがあり乗り心地は悪くなさそうである。扉は片側のみ中央に設置されていた。

202号車/中1扉の小型車で、この車のみ両側に扉があり、吊革が設置されていた。

203号車/物置小屋に車輪をつけたような、いかにも鉱山の人車というスタイルである。車体は木製鉄板貼りのようである。

〔貨 車〕
撮影した車両のみ紹介する。
ヲキ1/国鉄のセキ3000と同型で国鉄から購入したのかも知れない。元秩父鉄道にも「ヲキ」が存在するが「ヲ」が何を意味するのか未だに判らない。鉱石の「コオセキ」とか鉱石の英語「ore」からきているとか云われているが、どちらも違うような気がする。石灰石運搬用貨車の形式を「ヲ」にしただけと思っている。

3号車、5号車
片方に自連、もう片方にピンリンク式連結器を持ち、自連付の車両とピンリンク式車両の併結時の控車である。
かつて山陽本線の153系急行電車が瀬野~八本松間の勾配区間を自力で越えることができないため、EF61の補機連結時に使用されていたオヤ35と同様の役割を果たしている。
余談であるがJR東日本の「リゾートエクスプレスゆう」が非電化区間乗入れ時に機関車と間に控車として連結されるマニ502186(ゆうマニ)は両側共に双頭連結器を装備している。

車石と中国少数民族イ族のこと
先日、「佐竹さんを囲む会」に参加して新たに興味深い話をお聞きしました。まず、乙訓の老人さまと例の勢和鉄道についてワイワイガヤガヤとやって、形見分けとして「新日本鉄道史 下 」をいただきました。その後、総本家青信号特派員さまからOB会員ではありませんが今回参加された南草津図書館におられるN氏を紹介していただきました。勢和鉄道やら信貴電やらその他関西周辺の鉄道建設計画などについて面白い話を伺いました。その中で鉄道ではありませんが「車石」の話が出て来ました。これについては私はまったく知りませんでした.
勢野北口駅近くにある飛鳥時代に聖徳太子が創建した平隆寺が生駒線のすぐ横にあります。このお寺の近くを走る生駒線の電車を以前から撮ってみたいと思っていました。下の写真がそれです。右の電車のうしろの木があるところが平隆寺です。左のお寺は勢谷寺です。地名は「野」ですが寺は「谷」となっています。
写真を撮ってから家に帰る途中で不思議なものを見つけました。それが下の写真にあるものです。
最初は何じゃこれはと思いながら通り過ぎましたが、気になったので戻ってきて写真を撮った次第です。荷車を屋敷の中に入れるため、登りやすくしたものではないかと考えました。間隔がちょうど荷車の車輪間みたいで、溝がある石のレールの様でした。このときはまだ車石のことは知りませんでした。ひょっとしたらこれは車石ではないでしょうか。N氏のお話やインターネットで調べたら旧東海道で京の町へ荷物を運ぶために敷設?されていたようで、大津周辺でその遺物 が多くあるようです。私が見つけたのは奈良県で大津周辺から遠く離れています。そうすると、この車石方法は一部の地域だけ知られていたのではなく、他のところでもこの方法が伝わって使われていたのでしょうか。もしかしたら他のところでも見つかるかも知れません。
さて、「佐竹さんを囲む会」がお開きになったので佐竹さんにあいさつして帰ろうとしましたが、写真展初日にお会いしたとき伺った少数民族イ族の話で再び盛り上がってしまいました。この話に興味があるのは日本文化の基盤のひとつとして考えられている照葉樹林文化がイ族が暮らしている地域から西日本にまで分布しているとされているからです。これについては多く本がでているし、国立民族学博物館にいけば知ることができると思います。大阪モノレールに乗って行きましょう。そして、すでに半分は読みましたが最近ご無沙汰している司馬遼太郎の「街道をゆく 中国・蜀と雲南のみち」を買いました。しばらく時空の旅をしようと思います。(NHKの街道をゆくというシリーズで”時空の旅人 ”といっていました。なかなかいい言葉だと思います。)昔の鉄道を探るのも時空の旅になるのでしょう。
信貴電の不思議によせて
京阪交野線の前身は信貴生駒電鉄であったため京阪本線とは異なる部分があった。最大の相違点は、京阪本線は軌道法が適用されていたことに対し、交野線は地方鉄道法が適用されていた。駅の構造が明らかに京阪とは異なっていた。京阪本線の駅は駅舎には切符売場と改札口があるだけで、乗客はホームのベンチで電車の到着を待つが、交野線のすべてに当てはまるかどうかは不明であるが、比較的大きい村野、交野は駅舎内にもベンチがあり、電車到着まで駅舎内で待つような構造であった。
未開業区間の私市~生駒間は、昭和50年代は奈良交通のバスが4往復運行されていたが、阪奈県境の田原地区までは京阪バスも運行され、大阪府内は京阪バスの免許路線で奈良交通が乗入れる形であった。昭和50年代前半頃まではボンネットバスで私市~八ノ坪・八ノ坪~大和田間各3往復、リヤエンジン車に変わってからは交野市~私市~山口川~大和田間直通運転で4往復となった。勤務場所が京阪大和田駅近くの頃、気が向いた時に大和田駅を18時30分頃発車する交野市行の最終バスに乗り、交野線経由で帰宅した。
現在奈良交通は田原台1丁目~私市駅は廃止、京阪バスは交野市~大和田間の直通運転は取り止め、交野市~田原台1丁目間土休日のみ2往復と路線免許維持路線のような運行になっている。奈良交通の生駒~田原台1丁目間は頻繁に運行されているが、未開業区間を走破できるのは土休日のみである。
話がバスにそれてしまったが、もし戦前に予定通り生駒~私市間が開業し、かつ順調に経営されていれば、枚方~生駒間は京阪の準幹線となっていた筈で、更に枚方~高槻間が開業されていれば、東武野田線のような感じになっていただろう。
初めて生駒線を訪れたのは、近鉄合併直後の昭和39年12月21日(合併は同年10月1日)で、目的は木製車モ200形の撮影と乗車であったが、生駒駅に停まっていたのはモ660形であった。モ200形は同年10月1日の合併時に引退したようであった。
昭和44年9月21日、奈良線、京都線、橿原線、生駒線等の600Ⅴ区間が1500Ⅴに昇圧されると、旧大和鉄道→信貴生駒電鉄(大和鉄道は昭和36年10月1日信貴生駒電鉄と合併)の田原本線と共通で、モ400形+ク300形の2連に変わり、モ400形+ク300形が廃車になると元奈良線の特急車モ820+ク720が主力となり、ラッシュ時にはモ800+サ700+ク710+モ800の4連が加わった。
その頃の生駒線を写真で振り返ってみた。
信貴生駒電鉄デハ3→玉川工場入換車/(50-1-15)
昭和元年、信貴山下~生駒間の開業時に田中車輌で新製された半鋼製車で4両(デハ1~4)在籍した。半鋼製車としては初期の製品である。
近鉄と合併時に継承されず廃車になったが、デハ3のみ機器扱いで玉川工場の入換車として再記した。正面の貫通扉は改造時に設置されたもので、オリジナルは非貫通の正面3枚窓であった。

近鉄モ665→玉川工場入換車/(50-1-15)
昭和16年参急デニ2000形を名古屋線転出時に元の足回りを流用して作られた車両で、モ661~665の5両在籍した。ラストのモ665は昭和39年に荷電代用車となり、廃車後玉川工場の入換車になった。生駒線、田原本線でよく使用され、1500Ⅴ昇圧時にモ661→ク516、モ662→モ410、モ663→モ411、モ664→ク518となり、モ410、411は引き続き生駒線、田原本線で、ク516、518は京都線、橿原線で使用された。

モ409+ク309/南生駒~一分 (53-12-9)
元奈良電のデハポ1300形で、昭和32年に日本車両で新製された全金属製車であるが、電装品、台車は電動貨車デワポ501とデトボ351のものを流用している。
近鉄合併後モ455形455、456となり、更に昭和39年にモ455の電装品と台車の交換とモ456を電装解除してク355とする工事が実施された。昭和44年9月の昇圧時にモ400形とク300形に編入され、モ409+ク309となった。車体が比較的新しかったため、他のモ400形は昭和52年までに廃車されたが、その後も使用され、昭和62年に廃車になった。晩年は生駒線にこの車両専用のダイヤが引かれていた。

モ404+ク304/西田原本 (49-6-16)
モ404は元モ672で、昭和23年近畿車両で奈良電鉄デハポ1102として作られた車両。ク304は元ク574で昭和23年近畿車両で奈良電鉄デハポ1101として新製。昭和32年に電装解除してクハポ704となった。

モ405+ク305/新王寺~大輪田 (50-1-15)
モ405は元モ641で、昭和24年近畿車両製。前述のモ604と似ているが、こちらは近鉄のオリジナル車両である。ク305は元ク591で昭和17年木南車両で奈良電鉄クハポ651として作られた車両である。

モ822+ク722/池部~箸尾 (53-12-9)

昭和36年近畿車両で奈良線の特急用として新製された車両である。新生駒トンネル開通により大型車が奈良までは入れるようになると京都線、橿原線に回り、京阪三条乗入れにも使用された。奈良線、橿原線の車両限界拡大後は生駒線、田原本線で使用されたが、昭和59年から南大阪線6800形ラビットカーの台車、主電動機を利用して狭軌化し、伊賀線に転属した。
函館の連接車と単車とバス
先日機会があり函館へ行ってきました。連接車(連節車)は2組在籍し当日(2012年6月14日)は2007年製9601号が車庫待機、2010年製9602号が営業運転中でした。アルナ車両リトルダンサーシリーズ初の2車体型で函館初の全面超低床車です。台車部分が少し傾斜し高くなっていますが、いい乗り心地でした。
30型39号は火曜水曜日を除き4月中旬から10月末まで毎日昼間運転しています。当日は朝1往復ののち一旦車庫で調整のうえ午後出庫しました。
「元は1910年製造 成田市の成宗電気軌道車両で1918年に函館へ移り、1936年まで客車として運行、1937年にササラ電車に改造、1992年函館市制70周年記念事業のひとつとして、当時の姿に復元、台車は、製造当初の米国ブリル社製をそのまま使用し、車体は当時の図面を基に製造され1993年より「箱館ハイカラ號」の愛称で、函館の街を走っています。 2010年に箱館ハイカラ號は,生誕100周年を迎えました。」とのことです。

定番の撮影地 (十字街 末広町間) 午後も運休かと思っていましたが 摩周丸をバックに走ってきました。
運転手、車掌の2名が乗務しています。もう少し天気が良ければと悔やまれます。駒場車庫発どっく前行きです。

折り返しの駒場車庫行きに乗りました、9600形とはまるで違う非バリアフリー車の社内では車掌さんがお年寄りに一生懸命説明して切符を販売していました。この4月からの新人車掌さんとのことでした。乗車するたびに一人ずつ行先を聞き切符を売っていましたが、この電車を見かけて行き先も決めず乗った人も数人いました。私もそうでしたが。
パンフレットを見ていると五稜郭公園前で降りるとボンネットバスに接続しているようですので降りることにしました。

五稜郭公園前を発車した39号のサイドビューです。
乗り心地は柔らかいバネが良く効いてみごとなピッチングで、線路状態の悪いところやポイント通過時には徐行していました。
線路状態のいいところは快適です。

車掌さんに教えていただいたバス停で待っていると ボンネットバスがやってきました。五稜郭行きですが、そのまま乗っていると函館駅まで行くことができます。

車内です。函館浪漫号はエンジンや駆動系も昔のものと同じでレストアされていまして、運転出来ない運転手もいるようです。結構力もあり50km/hほど出ていました。路線の運転手ではなく観光バスの運転手とガイドさんでの運用とのことでした。函館バスの社長の趣味で買ってきたようなものだそうです。車内で車掌さんからのお話でした。
藤本先輩に素性を調べていただきました。
以下は藤本先輩からのコメントです。
「ボンネットバスに詳しい知人に聞いたところ、次のような回答がきました。
元々高松の五色台の上にあった廃車体。福山の時計と自動車博物館でレストアの上、金毘羅宮の裏手にあった「四国お祭り広場」の送迎に使用。「お祭り広場」廃業後、岡山の宗教団体で使用。その後岡山の中古車業者「リマニットモーター」に売却。「リマニットモーター」が再整備の上売り出していたものを函館バスが購入したということでした。
五色台の前が不明で、琴電か琴参ではないかと言っておりました。
営業ナンバーを取得しているバスの中では日本一古いです。」

函館駅前で一休み。
函館では今までいろいろな使われ方をしていたようですが、今年は「函館はいから号」に接続して五稜郭への足として、また五稜郭と函館駅のシャトルとして活躍しています。

五稜郭へと走っていきました。
再び「函館はいから号」を谷地頭で待ちました。
少し遅れて坂を下りもうすぐ終点です。

谷地頭停車中です。ここから 湯の川へ行き折り返して駒場車庫入庫です。

運転台です。
この電車に再び乗車して函館駅まで行きました。

函館駅前です。
湯の川へ向けて走り去りました。
函館は青函連絡船のあって頃、北海道の玄関口として栄えていましたが、飛行機の時代となって、函館山や五稜郭、トラピスト修道院、洋館、朝市 いろいろと観光資源はありますが高速道路にも恵まれず、いまひとつというところでしょうか。 路面電車の路線も縮小してきましたが現在の路線で安定しそれなりの乗客もあるようです。当日は修学旅行の小学生が5,6人のグループで何組も路面電車を利用して市内観光をしていました。一日乗車券は600円と格安ですし6分間隔の電車は便利です。函館バスも頑張っています。
写真はすべて2012年6月14日です。 犬伏 孝司
写真整理学 -3-
今日は台風の接近で一日家に閉じこもったまま。こんな時こそ、写真の整理の絶好機、何事もコツコツとやりたいものです。
モノクロフィルム(2)
もうひとつ、モノクロフィルムで大きな問題は、経年による劣化だ。
本掲示板でも、tsurukameさんらからも報告のあったビネガーシンドローム現象がその代表例である。フィルムのベースに、経年による加水分解が起こり、酢酸が発生し、あるレベル以上になると急激な劣化を招く現象だ。初期には酢酸臭とともにフィルムベースが湾曲する程度だが、進行すると、フィルムはストロー状に丸まってしまう。こうなると、引き伸ばし機にも掛からず、スキャンさえ不可能になってしまう。当会では”八つ橋”と京都らしい雅びな愛称で呼ばれるが、実態はたいへん深刻な問題である。個人が所蔵するフィルムだけでなく、図書館などで古文書などを保存しているマイクロフィルムにも、その現象が及んでいる。
ただ、幸いなことに、後述する以外には、私のフィルムにその現象はまだ見られない。この現象が顕著なのは、ある時期に製造されたF社のフィルムと言われている。ある時期とは、昭和40年以前を指すようで、その時期、F社のフィルムは、国産フィルムの中では高価で、値の安いSフィルムをもっぱら愛用していた。結果的には、倹約志向が良好な結果を得ているのは皮肉なものだ。
とは言うものの、昭和40年代前半に十数本はFフィルムを使用しており、酢酸臭とともに、若干の湾曲が確認できた。正常なフィルムにも感染すると言われているので、このフィルムだけは現在、隔離中である。
▲ビネガーシンドロームの初期状態のF社フィルム、強烈な酢酸臭のため、現在隔離中
意外にネガが健在なのは、保存方法にも理由があるようだ。フィルムは、密封せず、ある程度の空気の流入のある容器に保存するように言われている。私も、ファイバー製の紙箱、プラスチック製の整理ケースに保存しているが、いずれも空気の流入するようになっている。年に一度は、天日に干して虫干しし、乾燥剤も欠かさない。そして、ネガカバーの材質も大きいと思う。私のネガカバーは昔ながらの硫酸紙を使った紙製のネガカバー、これだと、湿気を吸収するが、現在のビニール製だと、フィルムが密着して、フィルムの呼吸ができないように思う。
しかし、ビネガーシンドロームの症状がなくても、フィルムをよく観察すると、出し入れするたびに擦り傷が多くなり、経年によって、粒子に”緩み”が生じているのか、プリントしても軟調気味になって、以前のような締まった写真になかなか上がらない。加えて、長く愛用してきた引伸機もついに手放し、銀塩プリントを自家処理することはできなくなった。将来、フィルム劣化がますます進行することも考え合わせると、フィルムのデジタル化も急務の課題だ。
一昨年から、フィルムスキャン機を導入し、現状では、外部へ提供写真については、すべてデジタル化しており、印刷時の効果実証も得ているが、自家保存を目的としたデジタル化までには手が回っていない。長くお付き合いのある方からの報告では、毎日一定量のフィルムをデジタル化することを日課として、数年かかって数万枚のモノクロフィルムのデジタル化をついに完了したそうである。これぐらいの決意がないと達成は難しい。
モノクロフィルムの将来の着地点は、前記の撮影リストのデータベース化、デジタル化したフィルムとのリンク化を計ることとなるだろう。その実現には、膨大な時間と、絶えることのない熱意・根気が絶対に必要だ。
▲モノクロネガの整理状況、ネガカバーの番号順に並べてケースに収納。ベタ焼きアルバムの番号とは対応しているので、ベタ焼きで目的のコマさえ見つかれば、即座にネガへたどり着ける。
熊本のロクサン
写真整理学 -2-
モノクロフィルム(1)
写真を媒体別にモノクロフィルム、カラー(ネガ・ポジ)、デジタルに分けると、圧倒的に多いのがモノクロフィルムだ。なんせ1961年、小学校6年生から鉄道写真を撮り始め、2002年に幕を下ろすまでの40年余り、モノクロフィルムで撮り続けた。整理番号「1」から始まった35ミリのネガカバーは、カラーポジのメイン化、その後のデジカメの導入により、「1707」でついに途絶えてしまった。これ以外に6×6も数十本あるから、コマ総数は約6万3000となる。フィルムの銘柄は、初期は国産SSフィルム、大学生の頃からコダック社トライXになり、途中で、国産SSS(ISO200)・ISO400、コダック社プラスXなども試験的に使い始めたが、またトライXに戻っている。多少、粒子は粗いものの、カリカリッとしたトライX独特の描写は大好きだった。高校生の時にフィルム現像を覚えたので、大部分は自家現像処理である。初期は、国産の現像液、その後はずっとコダック社の現像液D76の1:1現像を標準とした。
コマ数は、もっと多く撮っておられる方も多いので、自慢することもないが、唯一、我ながらよくやったと思うのは、すべてのコマのコンタクト(ベタ焼き)を取っていることだ。ベタ焼きは6コマずつに切り、ネガカバー番号別に、アルバムに貼り付けている。アルバムも、年代によって様式が異なるが、総数が67冊になった。ネガではなかなか読み取りにくい中身も、ベタ焼きでは、かなり読み取れる。もちろん、すべてプリントできれば最善だが、費用的にも時間的にも困難だ。
問題は、撮影データとの関連付けだ。大学生の前半まで、まだ撮影枚数の少ない時期は、アルバムにひとコマずつの撮影データを書き込んでいた。ところが、枚数が多くなってくると手が回らなくなり、撮影データを書き留めた台帳に分離する形を取った。こうなると、ひと目で閲覧が出来ない。ベタ焼きはネガカバー単位だが、台帳は流れに任せて、記入の基準も思いつき、杜撰な時期もあって、互いにリンクしていないからだ。目的のコマを探し出そうとすると、場合によっては大仕事になる。
今後の方策は、そのために、関連付けをより密接にした撮影データ一覧化が急務になる。エクセルでデータ化できれば、検索も容易だが、自分の技量と照らすと一気には実行困難で、ひとまず、紙ベースでの手書きリスト化を考えている。自作したA4用紙一枚の撮影リストに、フィルム1本36枚分の撮影内容(撮影場所、列車名、車号、年月日など)を記入するようにする。書くという作業は、記憶にも繋がり、ページを繰るという原始的な検索方法も、一番手っ取り早い。

▲ベタ焼きアルバムと撮影台帳の一体活用が、モノクロフィルム整理の課題。
塩江温泉鉄道跡を訪ねて
佐渡の鉄道
島の鉄道と言えばまず淡路島、戦前の沖縄県営、屋久島の林鉄、サトウキビの南大東島を思い浮かべるのですが、佐渡島にも鉄道があったのです。佐渡と言えば金山で有名ですが、この金鉱山の鉱山鉄道です。実は鉄分抜きのつもりで佐渡旅行をしてきたのですが、思いの外 多くの車両や遺構に接することができました。佐渡の鉱山鉄道についてはJTBキャンブックス 岡本憲之著「全国鉱山鉄道」に1ページだけ紹介されていますが、もう少し詳しくご紹介しましょう。
佐渡金山は約400年前に開山され、江戸幕府の財政の基盤となったのですが、明治維新後は官営鉱山となり、明治29年からは三菱に払い下げられ、三菱金属、三菱マテリアルと名を変えながら平成元年3月末に閉山しています。現在は「金山資料館ゴールデン佐渡」として多くの観光客を集める史跡となっています。残念ながら鉄道車両は静態保存ですが、まずまずの保存状態でした。
開山当時は露天掘りから始まるのですが、後ろの山の真ん中にV字型の切れ込みが見えます。現在は木が生い茂っていますが、金脈を掘り下げて行った大きな切れ込みで「道遊の割戸」と呼ばれる佐渡金山の象徴です。この金脈に向かって入ってゆく坑道と線路が道遊坑です。
この鉱山鉄道の軌間は508mm(1フィート8インチ)と三菱鉱山規格の500mmが混在していたらしいのですが、その区別は不明です。機関車は日本輸送機(ニチユ)製です。ニチユ製の小型蓄電池機関車にはいくつかのタイプがあって、この2Ton車はF型と呼ばれた量産機です。ともあれ佐渡でニチユにお目にかかるとは思いませんでした。ニチユと言えば神足、神足と言えば乙訓のご老人をはじめぶんしゅう殿、特派員殿の地元ということで不思議な縁を感じました。
昭和13年に三菱電機製の5Ton電気機関車が4両導入される以前には輸入電機が働いていたようですが、詳細はわかりません。蓄電池車ではなく架線式の電機だったと思われます。坑外には2Tonガソリン機関車もいたようですが 、これも詳細不明です。須磨の御大のお出ましを乞う次第。
蓄電池機関車は仕事を終えると充電のため車庫に戻ります。今は機械工場ということで工作機械などが展示されていますが、レールの上に旋盤などが置いてあるところを見ると この建物は本来の機械工場ではなく 機関庫だったと思われます。小さなターンテーブルがいくつかあって、充電エリアと整備エリアになっていたようでした。
ここで使われているレールは主要坑道が15Kgレール、一般坑道が12Kgレールということで錆びた古レールが棚に並べられていました。棚にバラ積みされたレールというのも珍しい光景でした。
坑道から2Ton車に牽かれて出てきた鉱車は、坑外は牽引力の大きい4Ton機関車に牽かれて破砕場のホッパーへ運ばれたようです。その4Ton機関車も別棟に保存されていました。
機関車がニチユ、電池や整流器がGS日本電池、充電制御継電器がオムロン立石電機製と なんとすべて京都で生まれたものというのも京都人としてはうれしい限り。今は亡きSさんが御室にお住まいだったり お父様が確かGSにお勤めだったことも思い出され ここでも不思議なつながりを感じてしまいました(考え過ぎ、こじつけのようですが・・・・)。ところで佐渡島は北前船の寄港地で越後とのつながりよりも関西との文化的なつながりが深い島です。佐渡おけさも もとは北九州地方のハンヤ節が関西、北陸と伝わったものだったり、今も村毎に立派な能舞台が数多く残されて能の伝統があり、料理も関西風のうす味だったりで興味が尽きない島でした。その佐渡金山に京都生まれの機関車たちが働いていたのも おもしろい縁だと思った次第です。
この金山には江戸時代の様子を再現した宗太夫坑と明治時代の様子を再現した道遊坑の2つの観光用坑道があり、両方を見ると1時間半程度を要します。観光バスで乗りつける団体客は時間に追われるため宗太夫坑とお土産店だけで次の名所へ行ってしまうようで、ご紹介した道遊坑の鉱山鉄道跡まで足を延ばす人は少数です。従ってゆっくりと見学できました。この2つの坑道のほか選鉱場跡、製錬所跡などの古い産業遺産も含め、また金とともに金の量の30倍を産出した銀とあわせた金銀鉱山として世界遺産登録を目指して活動しているようでした。今は静態保存の鉱山鉄道ですが、その一部でも動態保存化できれば 集客力も増えるのではと思いました。特にニチユは盛業中であり、比較的良い状態で保存されている機関車ゆえ 復元は楽なように感じます。
現在国内で稼働中の鉱山鉄道がいくつあるのか不勉強ですが、稼働中の鉱山鉄道があっても 普段は見学や撮影は難しいでしょうから 閉山しているとはいえ その様子がよく判り 楽しいひと時を過ごすことができました。わざわざ金山だけのために佐渡に渡ることはないと思いますが、花の島、トキの住む島、古い文化の残る島と様々な顔を見せてくれる島に興味のある方は是非訪れてみられてはいかがですか。




























































