上田丸子電鉄 クハ252・253他

(1)クハ252・253について
湯口先輩の「1958年 上田丸子電鉄その3」の「びわこスタイルのクハ252」の写真について【10896】本邦初公開と書かせていただいたが、クハ253の「正面3枚窓」の写真も初公開と思われる。「びわこスタイル」から「正面3枚窓」に改造されたのは相模鉄道時代で、併せて乗務員室扉の設置が行われている。ところがいつの間にか正面2枚窓に改造されているのである。京阪の704が事故復旧時に正面3枚窓から2枚窓への改造されたことは有名であるが、あまり例がない。クハ253の2枚窓改造の理由は、クハ252とスタイルを合わせるためだけであったのだろうか。また、書物
(ネットを含む)の中にはクハ253が「びわこスタイル」から直接「正面2枚窓」に改造されたように書かれているものがあり注意が必要である。
クハ252は、昭和61年10月1日の1500V昇圧時に、クハ253は昭和50年3月に廃車された。

 


「びわこスタイル」から「正面2枚窓」改造後のクハ252。(上/45-3-16 下/60-8-8)

 


「びわこ」→「正面3枚窓」から「2枚窓」に改造後のクハ253。非運転台側は3枚窓のままである。(42-3-23)

(2)再びサハ28について
湯口先輩のコメントの通り、今月発売「鉄道ファン2月号/江ノ電全通100周年によせて・1950年代のポール時代をふりかえる(1)」に201、202の鮮明な写真が掲載されている。201は両端に2枚折戸、扉間に2枚ずつセットになった12枚の窓があるが、折戸の前に縦長の窓が無い。202は2枚折戸の前に超狭い縦長の窓が設置されており、扉間には201と同じく、扉間に2枚ずつセットになった12枚の窓がある。ここまでの情報では、湯口先輩も仰せの通り、202の方がサハ28に近い。
一方、201の廃車は昭和31年で、翌32年に撮影されたダルマの写真が掲載されている。202は昭和29年に旧王子電軌174号の3000形への車体更新で不用になった旧車体を購入して振り替えている。サハ28の製造年は昭和33年であり、4年前に廃棄された202の車体よりも、2年前に廃車になった201の車体を流用した可能性が高いと考えるのが自然である。201、202共に「鉄道ファン」の写真でもお判りの通り、扉位置、窓回り等を中心に大幅に手が加えられているが、応急改造感は免れない。また、果たしてダルマになった車体を売買するか?という疑問もあるが、これはあり得ない話ではない。もし昭和29年に廃車になった202の車体が、どこか(例えば東急車両)で比較的良好な状態で残っていたとするならば、こちらの可能性も充分にあり、両端の細い窓と共に非常に気になるところである。
どちらの車体を利用したかは別にして、骨組みだけを残して大幅に手を加え、扉をやや中央寄りに移設、扉間に8枚の窓を設置した。扉と車端の間に窓を1枚設置した結果、僅かに空間ができたので細窓を設置したという可能性は「無きにしも非ず」であるが、この程度の空間にわざわざ幅の狭い窓を設置するだろうか。真相解明は、当時担当された方の記憶に頼る以外には無いと思われる。
私自身はネコパブ社「RM LIBRARY74/上田丸子電鉄(下)」の記述から「201の車体→サハ28」と思っていたが、再考の余地がありそうである。

 (3)【10928】「1958年上田丸子電鉄その4」で紹介された車両について
上から順番に解説する。
①モハ3332
モハ3331、3332の2両在籍した。大正13年日本車輌製で丸子線の前身、丸子鉄道が大屋~丸子町間の電化の際に新製したデ100形101、102が前身である。山梨交通から購入したモハ2340形2341、2342の稼働に伴い、昭和40年5月に廃車された。
②③モハ3552
モハ3551、3552の2両在籍した。大正14年日本車輌製で大屋~上田東間の延長開業時に新製したデ200形201、202が前身である。昭和44年4月19日廃止時まで在籍した。
④モハ4251 ⑤⑦モハ4254
モハ4251~4254の4両在籍した。昭和2年川崎造船所製で真田傍陽線開業時に新製したデナ100形101~104が前身である。湯口先輩が撮影された時点は車体更新前で、荷物扉の戸袋窓が楕円形、窓は下降式であった。昭和36年~38年にかけて車体更新が実施され、楕円形窓は通常の形に、客室窓は2段上昇式となった。⑤の4254の行先板付の写真は非常に珍しい。昭和47年2月20日廃止まで主力として活躍した。

 
車体更新後のモハ4252 (42-3-23)上田
⑥モハ5251
モハ5251~5253の3両が在籍した。昭和3年日本車輌製で、デナ201~203が前身である。「丸窓電車」の愛称で新製時から昭和61年9月30日の1500V昇圧前日まで一貫して別所線で使用された。昇圧後は、5251と5252は別所温泉駅の留置線、5253は長野計器㈱丸子工場に静態保存されている。5251は近々整理される予定で引取り手がなければ解体される予定である。

 
湯口先輩が撮影された27年後の昭和60年8月8日の姿であるが、スタイルの変化は殆ど見られない。
⑧モハ5262 ⑨モハ5263
大糸線松本~信濃大町間の前身、元信濃鉄道の買収車で、共に大正15年日本車輌製であるが、経歴が異なる。
モハ5262は信濃鉄道デハ5として誕生、昭和12年6月1日鉄道省買収によりモハ20004、昭和28年6月1日の改番でモハ1102に、翌29年に電装解除してクハ5110となるが程なく廃車となり、同年11月に上田丸子電鉄に譲渡。再電装の上、別所線に投入されモハ5262に、昭和33年制御器変更(HL→カム軸式)による改番でモハ5362、昭和35年小田急クハ1650形の旧車体と乗替え鋼体化してモハ5371に改番、昭和61年10月1500Ⅴ昇圧により廃車となった。
モハ5263は安曇追分~北池田間を営業していた池田鉄道のデハ1として誕生、昭和11年営業不振による内燃化により信濃鉄道に売却して同社のデハ1(2代目)に(初代デハ1は昭和10年火災焼失により廃車)、鉄道省買収によりモハ20001に、昭和28年の改番でモハ1100に、昭和30年6月上田丸子電鉄に譲渡。別所線に投入されモハ5263に、昭和33年制御器変更(HL→カム軸式)による改番でモハ5363、昭和35年小田急クハ1650形の旧車体と乗替え鋼体化してモハ5372に改番、昭和61年10月1日1500Ⅴ昇圧により廃車となった。旧車体は長らく上田原電車区の倉庫として残っていた。

ここで改めて湯口先輩の写真を見ていただきたい。モハ5262が停車している場所は、上田駅の真田傍陽線側である。別所線と真田傍陽線はどちらも元上田温泉電軌の路線であるが、別所線は600Ⅴ(昭和28年9月750Ⅴに昇圧)真田傍陽線は1500Ⅴのため、モハ5262を真田傍陽線で使用することは不可能である。この場所に停車していた理由は不明であるが、何らかの理由で国鉄長野工場入場時かも知れない。
モハ5263は急行の行先板に注目していただきたい。当時国鉄の急行列車に接続して急行運転が行われていた時の写真である。

 
モハ5263の廃車体 (45-3-16)上田原 
⑩モハ5361
昭和4年日本車輌製で、東武野田線の前身総武鉄道モハ1003として誕生、63形割当による供出車として昭和22年に入線した。当初の車号はモハ1001であったが、後日モハ5361に改番、制御器変更(カム軸式→HL)による改番でモハ4261となった。真田傍陽線廃止後、弘南鉄道に売却され、モハ110に改番の上、大鰐線で使用された。

 
大鰐線で3両編成の先頭に立つモハ110/後2両は元富士身延鉄道の買収車(50-4-28)津軽大沢付近
⑪ED2111
丸子線の前身、丸子鉄道の貨物列車用として昭和12年坂元工業所という聞いたことが無いメーカーで新製された。台車をはじめ電装品は中古品と思われる。ご覧のようにスタイルは独特で他に同形車は見当たらない。北陸鉄道で紹介された「三山工業」は現在も盛業中であるが「坂元工業所」についての現況は不明である。丸子線廃止後解体された。
⑫101 ⑬102
丸子線で使用されていた元伊那電鉄買収車のモハ5261とクハ261の鋼体化種車として入線した元東急のクハ3222とクハ3224である。鋼体化後はモハ5271とクハ271となったが、丸子線廃止後解体された。
機会があれば、改めて昭和40年代の上田丸子電鉄各線の車両の紹介をしたいと思っている。

大連に行ってきました。

先週の金曜日から日曜日にかけて、会社の旅行で大連に行ってきました。

土曜日一日自由行動の時間がありましたので、午前中は、満鉄本社とアジア号。午後は、バス約一時間かけて旅順まで行き、「坂の上の雲」で話題の二百三高地や水師営などを見学した後、一日二往復しかない列車で、二時間弱かけて戻ってきました。

朝一番に、宿泊したフラマホテルから歩いて10分ほどの旧満鉄本社にある満鉄の資料館へ。事前に調べたところ、無休とのことでしたがカギがかかっており開いていません。棟続き隣に行っても、手で追っ払われる始末。そうこうしている内、駄目もとでガイドブックに書かれていたところに電話をしたところ、日本語のできる方が出て、やっとカギを開けてくれました。ひとり入場料として50元払って入場。中では、日本語がとても上手なガイドさんが付っきりで、満鉄の歴史をガイドしてくれました。

展示物がある部屋は、撮影禁止でしたが、総裁室は撮影可能でした。

そののち、金庫や会議室を見学。満鉄のグッズがあるみやげ物販売コーナーへ。

残念ながら、どれもなかなかのお値段で手が出せませんでした。一つだけ満鉄のマークが入った帽子掛けを3000円で購入しました。

旧満鉄本社を後にして、タクシー(8元)で勝利橋をわたり、パシナが保存されている鉄路錫炉安装工程公司へ。

アーチをくぐった先の扇形庫の中に、お目当てのパシナが居ます。ここもカギがかかっており、カギを開けて見学させてもらうのに50元かかります。カギを開けるだけで何の案内もなく、50元もとられます。きっと、ここの人たちのこずかいとなっているのでしょう。それにしても高いです。

雨の当たらない庫に入っていますが、撮影に不向きです。なんとか前面だけは、撮影できました。

運転台にも上れますが、やはり日本のSLと比べると一回りも二回りも大きい感じです。

感動のパシナの見学ののち、再びタクシー(8元)で、大連駅に出て、バス(7元)で旅順に・・・駅前で交渉して、戦跡めぐりのタクシーをチャーター約3時間で100元です。

最後は、中国で現存する最古駅舎といわれる旅順駅に車をつけてもらい、大連から来る快速 K7329次の到着を待ちます。定刻は、旅順着15:58ですが、少し遅れて到着しました。

到着後、機回しして、旅順発16:25 大連着18:14の普快6332次となります。編成は、前から6両硬臥+1両軟臥+6両硬座+1両行李車の14両編成です。長距離列車の間合い運用のようで、旅順~大連に関係ないようなサボがつけられていました。   旅順大連間の硬座は、4.5元で、硬臥や軟臥には、乗車できないようでした。車内では、地元民がトランプ賭博をやっており、さながらギャンブルカー状態でした。

定刻に、大連に到着。隣には、和諧と書かれたHX30680という電気機関車に牽引された快速 ウルムチ行が停車していました。

いつか、機会があったら乗ってみたいものです。

墓参りに行って来ました

 当掲示板に近頃、「高野山」の話題がたくさん見受けられます。米手作市さんが旧婚旅行に出かけたり、乙訓の老人が『関西の電車巡察』で巡ったり、はたまた青信号特派員さんによる「厠」の話などなど・・・。遅ればせじと「元祖高野山 」も墓参りに行って来ました。例年5月の中旬、寺の特別天然記念物・石楠花(シャクナゲ)が満開となる頃に出かけるのですが、本年は叶わず、延びに延びて、とうとう11月28日(日)になってしまいました。秋の高野山1day チケット最終日の3日前でした。買っておいた代金3,000円券を払い戻すと、何もせずに500円失うのが勿体なくて、重い腰を上げました。
 先週と違って、この日は曇り空、肌寒い日でした。阪急塚口を午前6時23分、快速急行にて出発。地下鉄を乗り継ぎ、難波発7時12分橋本行きに乗車。車両は6000系。車齢40年を越えた車両とか。いかにも重そうで、幅広の片開き扉だが、開閉は比較的にスムーズに見えました。橋本着8時2分。
  8時6分発に乗り替え、44分極楽橋着、ケーブルで54分高野山着。山上バスで今日は真っすぐに奥の院バス停へ。高野槇を500円で買い、裏参道を急ぐ。公園墓付近を左に折れ参道に入る。丁度芭蕉碑の前である。折りたたみ式手桶に水を汲み、そこから100mほどの墓に参る。参道右手、加賀前田家、伊勢藤堂家を通り過ぎて間もなく、参道の右手。小さな空き地と、美濃加納城主松平家墓所と書かれた、白い角柱標識に接して左が鶴家の墓。参道から3~4mの距離ですので、すぐに判ります。奥の院にお越しの節はどうぞお参りください。但し、『鶴』は『靍』と彫刻されています。苔がこびり付き少し見難いです。墓は明治36年(1903)の建立です。「日暮れに握手、日と英」と習い憶えた1902年の日英同盟の翌年になります。この頃神戸で羽振りの良かった曾祖父が建てたとか。南海高野線が全通80周年ですので、それより27年古いことになります。ご先祖様はどのような交通手段で登山されたのでしょうか。
 ご先祖には申し訳ないが、この日は菩提寺・金剛三昧院に立ち寄らずにまっすぐにバスで高野山駅へ戻ります。10時40分発ケーブルで山を下りました。ケーブルカーは確か3代目の車両。2代目にも乗ったと思うが記憶は不確か。ケーブルカーから見えた向かいの山は紅葉していました。山上は時季外れで樹木はすっかり葉が落ち、枯れ木になって風情無しでした。

 下は、先ほど山に登る時に撮影しておいた勾配標識ですが、最急と最緩の勾配標識を見落としました。南海電鉄のホームページによると、最急は562.8‰、斜度29度22分、最緩は273.9‰、同15度19分とか。同じ事を考える人もいるもので、乙訓の老人も8年ほど前に乗った時、順番に撮影したそうです。

 下は、2008年6月、新緑の頃、下りのケーブルカーです。緑豊かでした。これに反して今回は時季外れで、もの足りません。来年は、やはり石楠花が満開の頃に行くことにします。 

 極楽橋に着くと、11時26分発のこうや4号(11000系)が停車中。私は向こう側の快速急行に乗車です。まもなく下りこうや5号 (この日は30000系)が到着するので、その時には2編成が揃うことになります。

2編成が揃った2008年の時です。時刻は13時30分前後だと記憶します。向う側には乗車する2300系が見えました。

快速急行難波行きで10時49分に出発。途中紀伊細川で下り「天空1号」と交換。今日は土・休日ダイヤで運行です。今日の私の第2の目的は、天空の撮影です。

  上古沢で下りこうや5号と交換。11時21分紀伊清水で下車。天空を撮影すべく、紀の川鉄橋付近まで歩くことにしました。鉄橋のこちら側に大きなカーブがあり、内側が畑で障害物が無く、良い撮影地であり、かねてから一度出かけてみたいと思っていた場所です。約2km歩いて目的場所に到着しました。上り天空2号まで30分近くあります。
 乙訓の老人が、「らくさい便り」で『天空の名前の由来についてtsurukame さんの解説を待とう』とかありましたが、墓があるだけで高野山密教を知る訳ではありませんので、解説できませんが、南海電車のHPで「天空」に関して曰く、『弘法大師「空海」が開いた世界遺産・高野山は、標高約900mに位置し、周りを奥深い山々に囲まれたその街並みは、まさに天空都市の趣です。列車の愛称は、その高野山が醸し出す印象に由来します』とあるから、その辺りではないでしょうか。チベットや中国の3~4,000mの高地で、天と空が迫ったような場所や都市には、よく「天空」なる表現を使うようです。高野山はそれほどの髙地ではありませんが。なお余談ながら、「天空のシンフォニア」なるパチンコ台があるとか。
 間もなく「天空2号」が下ってきました。オープンデッキ設置とかで、橋本寄りのドアが開いています。外観上、少し違和感が残りました。左手方向に紀ノ川を渡って橋本駅へ、後方が紀伊清水駅。正面の山々は和泉山脈。

 撮影場所を、先ほどより300m程離れた紀ノ川鉄橋の袂に移動しました。列車間隔は30本近くに1本ですが、上下ともなれば、結構頻繁に列車に巡り会いました。高野下駅折り返しの上り2300系が通過。橋本駅に向かう

そして、上り「こうや6号」です。12月からは、橋本発となり、冬季の山登り・下りはお休みの列車です。

 最後に、お目当ての「下り天空3号」です。日曜午後ですが、乗車率は高いように見えました。人気の電車なのでしょうか。次回、墓参りは来年5月中旬に戻します。その時の撮影は、大変ですが中古沢の鉄橋にしようかと思います。

叡電デナ1

関三平さんのプロフィールがわかりました。

 お尋ねの関三平さんは、とっても有名な迷路図作家です。
 1940年大阪生まれ、70歳。京都工芸繊維大学意匠工芸学科卒。
 1977年に(零)日本迷路公団を創立され、「総裁」を名乗っておられます。

 若い頃から鉄道が好きで、仕事の合間に鉄道会社を訪ねては人脈を築き、資料を集めたり。もちろん趣味で。
 70歳になり迷路を書くのも「しんどくなった」らしく、「それじゃぁ、趣味の鉄道話しでも」と、9月からスタート。とりあえず50回を予定しているらしく、単行本出版も当然、視野に入れているそうです。
 絵は水彩画ですが、色にこだわりがあるらしく、原画を自分でパソコンに取り込み、いい色が出たものをカラーコピーして我が社に渡しているそうです。 

     日本迷路公団総裁「プレジデント・サンペ。

      プロフィール
     1940年大阪生まれ。京都工芸繊維大学意匠工芸学科卒。
     1977年(零)日本迷路公団を創立。
     以来、総裁プレジデント・サンペを名乗る。

     著書
     「迷図の国のケンとマリ」
     「コンピュータ世界のケンとマリ」
     「ケンとマリの迷図紀行」

 

台湾の旧車両

最古のディーゼルカーDR2700型も活躍中

最古のディーゼルカーDR2700型も活躍中

台東行199次普快
台東行199次普快

 いささか旧聞に属しますが、今年の6月に台湾に行きましたので賑やかし程度のものですがアップさせていただきます。関東のデカンショまつり号様とご一緒させていただきました。第一の目的は電化完成後は恐らく淘汰されるであろう旧型客車です。日本製とインド製があり、インド製はドア自動扉のセミクロス車で117系300番台風の車内レイアウトです。日本製はスハ44軽量客車にしたような形す。10系客車で回転クロスの3等車があればこんなんだっただろうというような形です。花蓮発の199次に鳳林から台東まで、台東からは354次で枋寮まで乗りました。旧型客車は大井川以外では久しく乗ってなかったので懐かしく感じました。でも路盤がよいのか乗り心地も悪くなく相当とばします。

 

 台東~枋寮の区間は大武付近が昨夏の台風で鉄橋が流され不通になっていた区間です。まだその災禍の痕が残っていましたが鉄橋が流れるくらいですから相当なものです。台湾は中央部の峻険な山から海まで短く、大雨洪水になると大変です。高雄からは台北までは座席夜行の客車急行で戻ります。グリーン車並みにリクライニングするのですが座席は座席です。寝台があればと思いました。

 

 台北に戻ってからは、釣り掛け式の特急電車に乗ります。イギリス製のEMU100型、イタリア製のEMU300型とも固定窓のリクライニングシートで特急にふさわしい設備です。EMU100型は製造後30年足らずですがもう1編成しかないとか。こちらはM車でも遮音が効いているのか車内はいたって静かですが、EMU300型は豪快な釣り掛け音が轟き釣り掛けファンにはたまりません。名鉄7300でもはたまた80系300番台でもない不思議な世界です。

 

 台湾の鉄道シーンは日本、英国、イタリア、韓国などさまざまな国で作られた車両が活躍し、車両だけでなく日本時代の古い駅舎もまだ大事に使われています。関空から台北までLCCも就航し、行きやすくなりました。また行ければ年明けにでも行こうと思っています。

 

 

夜の高雄駅 台北行きの夜行が停車中
夜の高雄駅 台北行きの夜行が停車中
EMU100型
EMU100型
EMU300型
EMU300型

 

 

 

 

 

1958年上田丸子電鉄 その4


上田丸子電鉄モハ3332

例により藤本哲男氏から、ピタリと勘所を押さえたコメントが頂戴でき、後期高齢者寸前(来年)の老人は痛く感激し、かつ長年の胸の痞えが消えて、心底嬉しく晩酌が「殊の外」すすんだことであった。藤本氏よ、有難う。

で、上田丸子の残りを片付けるが、全部「本物の」電車ばかり。この解説もして頂ければ、老人は望外の幸せでありまする。何卒良しなにお取り計らいあらんことを。


モハ3552


モハ4251

モハ4254

モハ5251

モハ5254

モハ5262

モハ5263 この2両は信濃鉄道の買収国電だ ぐらいはいくらなんでも小生でも分かる

モハ5361 これは東武←総武

ED2111 台車はブリル27E メーカーは坂元工業社?なるところとか

東急から搬入されたばかりの101 仮台車とはいえ旧ガソリンカーのものだから押し潰されそう

同じく102 こっちはブリルMCB摸造台車?

鉄道スケッチ

重い腰を起こして漸く青信号に投稿しようという気になりました。 先輩諸先生や同期のF氏のような奥深い記事、K氏のような外国の紀行は書けませんが、幼い頃に鉄道に憧れたそんなプロモートが出来たら、ええやないかと思うに至り、またやはりJ氏の尻叩きもあって、拙写を披露するところから始めることになりました。 ヨロシク!! 暫くは、鉄道の季節を追っていきます。1年くらいはクオータリー+臨時便を出して行き、その後、色々書いていこうと考えています。 なに、大した学術的なものは一切ありませんから、適当にあしらって頂いて結構と思います。 さて、もう季節は冬に突入ですが、ちょうど秋が終わったので秋からの風景。目的も無く、思いつきで感じた写真を投稿します。 本格的に秋が深まるころ、同期のJ氏に声を掛けました。小生は長らく関東に勤務していて、関西は浦島亀太郎状態であったので、何年ぶりかに加太に行きまへんかと。30年いやもっと経っています。どないなっているやろうかと訪れた写真です。 すでに加太は無人駅で野猿の天下。駅の横になっている柿を食べてホームを我が物に歩く様子に驚きました。あの築堤にも猿の姿が・・・。 この写真は、昔よく通った場所から少し高い禁断の場所から捕ったものです。

休みの日にふと、同期のM氏の大和川での阪堺電車の写真を思い出し俄かにどないなっているか見に行きたくなりました。その写真とは40年前のものですので、60前後の人は見たことがあるかもしれません。すでに高速道路の橋が架かっていて往年の風景はありませんでしたが、空が高く、秋やなあ!という天気に恵まれました。歩くのが面倒くさいので、橋のたもとで、空を撮ってみました。

住吉さんへ戻ってみました。ちょうど神輿が練り歩いていました。そんな日本の風景を境内からスナップしました。 メタボになって膝が弱っているのでタイコ橋からの撮影は怖かったですが、神輿の向うにちょうど電車がきました。そんなこととは関係なしに神輿は通過していきます。

秋は抜けるような青空が魅力です。仕事で帰ったときについでに寄りました。 1つめは、ひたちなか海浜鉄道。田んぼの中にある中根駅辺りの風景です。 何?国鉄色ではない?ま、あまり気にしない、きにしない。次の那珂湊には、「たま」ほどではなけど、駅員のねこがいます。そのおさむ君に餌をやって家路につきました。 北関東で天気が良いときは、赤城山がよく見えます。上毛電鉄の赤城山は有名ですが、JRだって裏赤城?が見えます。 快晴の中を115系が走ってきました。 *赤城山と思いますが・・・。違えばばゴメンです。 せっかくここまで来たのですから、吾妻線に行かねばなりません。ちょうどダムの建設場所辺りが川原湯温泉です。車中のおばさんは、この温泉も客が減ったねえ、と言っていました。その近所、渓谷を見下ろす鉄橋に来ました。日本最短のトンネルのあるところにはあと2kmくらいのところです。おりしも湘南色の185系がくるので、写真を撮っていた観光客にお「どうせ撮るなら電車もどうですか}と一緒に撮りました。ちょうど一陣の風が吹いて山間で残り少ない紅葉を散らせて行きます。

関西は秋がもう少し長いようです。 またまた休みの日に。能勢電鉄を訪れました。1時間ほどで大阪に仕事で戻ってきましたが、4連でワンマンなのですね。びっくりです。光風台から坂を上って見ましたが、季節を感じさせるものはkの黄色い花くらいです。あとはポジションがあいません。まあ、これでも秋かな、と1枚撮りました。

さて、小生の自宅は、東海道線、トレインビューの場所に ありますが、実は関東勤務の時に無理して購入した自宅が佐倉にあります。写真は今年(ということにしたかったのですが)ではなく1年前ですが載せます。我が家は丘の上にあり、総武線と成田線の分岐近くにあります。そのためにバラエティーには富みませんが、やはりある意味でトレインビューです。佐倉は朝霧が多いのですが、ちょうど通勤時、霧が上がりかけた中を今はなき初代成田エキスプレスが成田からの客を運んで来ました。乗客はまだ寝ているかも。霧が明けたら晴天です。手持ちのエクスリムで来た瞬間をスナップしました。

こちらは東海道の秋。自宅は線路脇なので、いつでもふらりと出かけることができます。このときも天気が良かったので、JRと阪急を撮りにチャリンコで出ました。ススキがきれいです。

まもなく、ススキの季節が終わり白い冬になります。 冬も鉄道はいろんな表情を見せてくれます。 そんな、景色を拙写ではありますが、お届けしたいと思います。

上田丸子電鉄サハ28について

北陸鉄道に引続き、1958年上田丸子電鉄シリーズが始まり、貴重な画像をワクワクしながら拝見させていただいております。特に「びわこスタイル」のクハ252の写真は見たことがなく、本邦初公開ではないかと思います。

湯口先輩が疑問を呈しておられるサハ28について、私の知る範囲で書いてみたいと思います。湯口先輩が仰せの通り確かにパッと見はガソリンカー改造車に見えますが、書類上は昭和33年6月自社製の新製車となっています。実態は昭和31年6月に廃車になった江ノ電(当時の正式社名は江ノ島鎌倉観光)201の廃車体を購入し、モハ3223に車体を流用したサハ25(元飯山鉄道キハニ5)の台車を組合せて作られた車両です。(11月23日付【10474】1958年上田丸子電鉄で記述されておられる通り)ならば江ノ電の201とは何かということになるのですが、昭和11年に新製された夏季専用の納涼車の車体を、昭和24年東急車両で一般車に改造したもので、僅か7年で廃車になっています。江ノ電時代の201の写真は見たことがありませんが、車体の下部の切れ込みから、扉が両端にあったこと、写真では判りにくいですが扉を埋めた溶接の痕跡、車端の縦長の窓は、確かに元江ノ電の車両であることを示しています。201と同じく納涼車改造の202の写真はRP誌「私鉄車両めぐり・江ノ島鎌倉観光」に掲載されています。
参考までに江ノ電の車両も貼っておきます。

 
サハ28 昭和42年3月28日  上田

 


107、110 昭和45年3月12日  極楽寺
いずれも昭和6年川崎車輌製であるが、主電動機が107は37.3kw×2、110は44.7kw×2である。車端に縦長の窓が設置されている。

【番外】電動貨車2 昭和45年3月12日  極楽寺

 
元東急のデト3011(大正11年汽車会社製)を昭和22年に購入したもので、当初荷台に乗客を満載して営業運転をしたこともあると言われている。昭和45年3月31日付けで廃車されたため間一髪でセーフであった。

1958年上田丸子電鉄その3


上田丸子電鉄サハ41←ハフ101←省キハ101←飯山鉄道キハ101

半月開いてしまったが、その3を続ける。旧飯山鉄道のガソリンカーは、第二陣が記号番号もキハ101、102と大きくなっただけではなく、手荷物室がなくなって100人乗り、17.5トンと大型化。機関もウォーケシャ6RBに強化され、端面も2枚窓半流に。なお飯山鉄道ではキハ101のみ代燃化し、それも片側運転室反対側(妻面から窓2個)をベニヤ板で仕切って炉室にして、木炭瓦斯発生炉を床上に設置。当然ながら定員が7人減少した。ヨーロッパには代燃炉室内設置例も結構あるが、我国では鉄道省キハ41000のシンダガス代燃化、私鉄では淡路鉄道と飯山の2例しかない。


サハ42←省キハ102←飯山鉄道キハ102

台車は当然に菱枠だが、端梁を設け、軸箱守とステーで結ぶなどの補強は上田丸子にきてからであろう。連結器も簡易連結器から通常の下作用に交換されているが、車体はよく原形を保っている。


サハ41
サハ252←相模鉄道クハ1501←クハ1051←サハ50←ホハ50←神中鉄道キハ50←キハ40

サハ252は日車東京支店製「びわこ」スタイルのディーゼルカー、神中鉄道キハ40で、よく改番を重ねている。やはり菱枠台車に端梁や鋼板リブを付すなど、加工強化されている。同型だったサハ253は端面を改造しているため、前身がすぐにはピンと来ず、しばしの間悩んだ記憶がある。


クハ253←相模鉄道クハ1502←クハ1052←サハ52←ホハ52←神中鉄道キハ52←キハ42
クハ253 「びわこ」スタイルを残すクハ252とは全く同じ出自だったが こっちは端面を改造しているのでまるっきり違う車両に見える

戦前もっともディーゼルカーが成功したのは、一番遅くに採用した神中鉄道であった。機関に国産品を選び、メーカーの指導が直接受けられたことが大きいと思われる。この80人乗り車は日立649-R2を装着していたが、大型バスやトラック用として、ある程度ではあっても量産され、それだけ供給側も使用データーや経験があったのである。

因みに戦前の国鉄は、ディーゼル車は機関車も動車も、ことごとく失敗―それも手ひどい―した。機関がそれだけのために新たに開発された、未熟もいいとこの不完全品だったのが最大原因である。見方を変えれば、国鉄工作局の仲良しグループ(要は退職者を受け入れ、かつ陸軍肝煎りの「統制機関」開発競争に敗退した負け組でもあった)である新潟鉄工所を中心とした内燃メーカーが、ロクなディーゼル機関を開発できなかったことでもあった。


クハ253連結面 これが「びわこ」スタイルの流線型だったとは思えまい

サハ28 誰が見てもどこかのガソリンカーの成れの果てと思うだろうが その実???

サハ27は東武鉄道キハ30←神中鉄道キハ30で、モハ3121←モハ311←モハ301←善光寺白馬電鉄ゼ100と同型(ディーゼルカーだから床高は20mm高いが)車だが、1番違いのサハ28はご覧の通りの姿で、前歴不詳。車体幅が狭く、かなりの軽量というか簡易な車体で、誰が見てもガソリンカーの成れの果てと思うだろうが、これが難物なのである。台車は間違いなく内燃動車用で、片側は偏心しているから、余計幻惑される。

故吉川文夫氏に尋ねても、ウーン、江ノ島から買ったというんだが、よく分からんのだ、との返事しかもらえなかった。少なくともこれに該当すべき内燃動車は存在しない。小林宇一郎「上田丸子電鉄」鉄道ピクトリアル164号でも、「実は江ノ島鎌倉観光から購入したもの」「出入り口は折り戸だったという」と歯切れの悪い説明しかされず、要するに地元の先輩でも分からないのである。欲求不満がつのるではないか。どなたか解説してくださらんか。

中国の新幹線に豪華なCRH380B登場予定!

現在、滬杭高速鉄道を走る次世代の超高速列車CRH380Aが営業列車としては世界最速となる486.1km/hを達成したことは先日ご報告いたしましたが、このほど京滬高速鉄道用CRH380Bが新たに加わると発表がありました。

CRH380Aとの相違点は
①今までのCRHシリーズの動力分散式ではなく、TGV同様の両端が電動車の16両編成。
② 中間車14両は、1等車が3両、2等車10両、食堂車1両の編成。定員は1004人。
③目玉として、3両の1等車の内1両は、「はやぶさ」のグランクラス 以上のハイグレードシート(180度リクライニング・液晶TV付き)を設置。
④CRH380A、380Bとも来年2010年10月1日までに開業予定の上海~北京間京滬高速鉄道に使用予定。

以上が現地報道されている内容ですが、どうして今までの分散式を採用しなかったのか不思議ですね。先頭車はどんなフロントノーズになるのか楽しみです。
全長1,318キロを約4時間で走行する予定ですので、表定速度は300~330km/hにもなります。380km/hの連続走行が必要です。
「はやぶさ」のグランクラスにも驚きましたが、CRH380Bも飛行機のファーストクラス同様となると、是非とも乗車してみたいです。運賃ですが、2等が約600元(約7,500円)になるだろうとの推測が出ています。特等は3倍だと1,800元(約22,500円)ですが、車内サービスも国際線の飛行機並みに豪華車内食あり、アルコール飲み放題を含めての飲料サービスも実施されれば乗車する価値は充分あります。

2010年 秋の中国一人旅 Part15 南京地下鉄

第14日目 11月3日

① 上海10:00(G7010)→11:15南京
② 南京16:05(G7149)→18:04上海虹橋

今日は、滬寧高速鉄道に乗車して、南京に着きました。南京は通過した回数は数え切れないくらい多いのですが、下りた事のない街です。今回初めて下り立ち、ホームでCRH撮影後、南京地铁の初乗車を目指しました。
【南京地铁】
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2010年 秋の中国一人旅 Part14 滬寧高速鉄道

第14日目 11月3日

① 上海10:00(G7010)→11:15南京
② 南京16:05(G7149)→18:04上海虹橋

今日は、2010年7月1日に開業した滬寧高速鉄道に乗車して、往路は上海から南京へ、復路は上海虹橋行きと少しルートを変えて往復します。
【滬寧高速鉄道】

2008年7月1日、中国鉄路の中でも最も列車本数密度が高く、輸送力の限界に達している上海~南京間の打開策として、鉄道部と江蘇省、上海市は共同出資で高速旅客専用線の建設計画を立ち上げました。そして驚愕のわずか2年間で総延長300キロの路線を完成、今年2010年7月1日に開業しました。
設計最高速度は、350km/hで、21箇所の駅が設置されていますが、日本の新幹線「こだま」のように各駅停車する列車はなく、各列車とも別々の停車站を設定しています。滬寧高速鉄道の列車番号は、G7000番台が振り当てられました。南京~上海・上海虹橋間に使用される車両は当初、CRH2C、CRH3でした。 続きを読む

電車・バスでまわる「歩くまち・京都」京都フリーパス

京都市が音頭をとって、お得な?1日乗車券が今月11日~来年3月23日まで発売され通用期間となる。そこで通用区間について検証してみることにした。先ず【鉄道】全線OK:市営地下鉄、叡電、嵐電、一部区間:近鉄・京都~向島、京阪・出町柳~中書島、阪急・河原町~洛西口、桂~嵐山、となっている。京福のケーブル、ロープウェイや京阪京津線が外れたのは仕方ないないとして、京阪宇治線・中書島~六地蔵を適用外としたのはなぜだろう。六地蔵で少し歩けば周回コースとなり、今話題の寺田屋を始め「新酒ブーム」に沸く伏見へ呼び込めるのに・・・・・・。そして【バス】市バス:定期観光を除く全線、京阪バス:定期観光、比叡山線、比叡平線、松井山手線を除く山科、醍醐、中書島地区(該当地区までは市営地下鉄を利用、京都バス:市バス市内均一区間及び広河原線鞍馬温泉以南と岩倉、大原、嵐山地区(大原地区は小出石以南?)。これで京都盆地は雲ケ畑地区以外は含まれる。比叡山線、嵐山高雄線は省かれる。京都シティバス:中書島、淀地区、京阪京都交通:中山営業所全線(京都市内)、西日本JRバス:京都駅~栂尾、阪急バス:向日営業所全線(阪急電鉄との接続駅は洛西口だが、東向日まで150円で清算すれば大原野神社、勝持寺・花の寺、十輪寺、善峰寺に、長岡天神で180円で清算すれば光明寺、乙訓寺に行ける)、ヤサカバス:全線、となっている。通用期間1日、価格:2,000円(小児の設定はなし)ここまで来て「なにっ!」となった。ちょっと高いやおまへんか!市バス1日乗車券500円、それに地下鉄全線つけて+700円で1200円、それが京都市交通局以外を付けたら800円アップとは何ぼにも高い!郊外観光に出たら近場で半日、鞍馬や大原行ったら1日がかりが相場や、しかも冬場、寒い京都や皆さん山の麓までいかはらへん。1000円にして気楽に利用してもらって「京都はええとこどした」と、言ってもらえるように出来ませんか。老人はアムステルダム、ウィーンで24時間キップを利用したことがあるが、ユーロが130円時で700円ぐらいやった。フランクフルト アム マインではゾーン2で前記ぐらい。ベルリン、デュッセルドルフ、その他、ホテルの宿泊カードが市内交通機関のフリーパスとなっているところもあった。【損して得を取れ】の類で、一考を要する価格設定であると思う。折角スルッと関西シリーズで好評を得ているのに、何とかしないと企画倒れになってしまう。京都市長の考え一つや思う。帯をしっかり締めなはれ!

489を流す

先週末のことになりますが、久しぶりに489系ボンネット編成が東海道線に姿を見せました。修学旅行の団体列車として金沢~大阪間を走ったものです。大阪行きの回送は、ぶんしゅうさんと山崎で待ち受けようとしていたところ、ダイヤを読み違えで寸前のところでアウト! 戻りの金沢行きを日没後の山崎駅で辛うじて写すことができました。

金沢総合車両所の489系ボンネット編成は、ことし3月改正で最後の定期運用「能登」から離脱しましたが、残った1編成は、特急の代走をしたり、団体列車で東京・大阪・京都へも来たり、予想外の活躍を続けています。
「臨時」表示ではありますが、ボンネットの姿、いいものです。自分自身が鉄道に目覚めた頃から走っている、50年間続くスタイルを見ると、つい鉄道少年だった時代のことを思い返したりします。
今まで489系ボンネット編成を、好んで撮りに行きましたが、時々、流し撮りをして楽しんでいます。流すことによってボンネット部がより強調され、DT32系台車の上に大きな車体が乗って、下回りがスコンと透けて見えるのが大好きです。
もちろんすべて成功するわけではなく、目も当てられない写真のほうが多いのですが、それだけに決まった時は快感です。撮りためた中からいくつかを紹介しましょう。

流し撮りの基本は、数を稼ぐことから始まる。一日10数往復も「雷鳥」が運転されていた時代、居住地近くの山崎~長岡京間には、流し撮りに適した真横から狙える区間がいくつかあり、よく自転車に乗って行ったものだ。「雷鳥」編成には、スカート部に切り欠きがあり、美観を損ねているが、真横なら、それも気にならない。この写真は、乗務員ドア付近は確かに止まっているが、アタマは流れてしまっている。斜めから撮る場合、止まるのは一点だけで、それをアタマに持ってくるのはなかなか難しい。

薄暮時に「しらさぎ」を流し撮りをする。露出の厳しい時間帯だけに、その低速シャッターがちょうど流し撮りに使える。北陸本線田村付近、バックは琵琶湖岸であり、空で抜くこともできる。当時、「しらさぎ」もボンネットだった。しかも「雷鳥」と違って、連結器カバーも付いたオリジナルのボンネットだ。前照灯を輝かせ、夕闇迫る湖東路を名古屋へ急ぐ姿である。

「能登」の廃止後も、今年の春は波動用として、ボンネットは、しばしば京都・大阪へ顔を見せた。ところが、ヘッドマークは良くて「臨時」、下手をすると、マークなしの蛍光灯むき出しの姿で、絵にならないこと夥しく、正面勝ちの撮影では全くサマにならない。そんな時、サイドからの流し撮りは有効な方法である。山崎付近でバックに緑を入れ、国鉄色が引き立つようにした。

ここで、流し撮りの方法をひとつ‥。カメラの流し方は、巷のハウツウどおり、腰を基点にして、上半身を振る抜く、野球のスイングと同じだ。つぎにシャッター速度だが、上ると成功率は高まるが、バックが流れない。私としては、確実に決めたいときは1/125S、成功率は低くなるがバックをより流したい場合は1/60S以下としている。それと、連続シャッターを使用する場合、高速ではなく、低速を選択している。高速連写だと、ほとんど幕が下りたままでファインダー視野から対象物が確認できないが、低速だと、幕の開閉の間にしっかり対象を眼で追うことができる。この春も、琵琶湖をバックに1/125Sで真横の編成を抜いてみた。

阪堺電車 モ101形

引続き国電の「クハ76形」あたりが紹介されるのかと思っていたところ「阪堺電車モ101形」でした。深い二重屋根の重厚なスタイルは路面電車の傑作の一つと思います。最終的な廃車が昭和42年ですので、乗車、撮影はギリギリ間に合いました。撮影したのは、初めて上町線を訪れた昭和39年11月で、その後廃車になるまで阪堺線は何度か訪れていますが、撮影はこの時のみです。

 
モ117

 
モ113

 
モ170(この時点で既にパンタ化され、連結器は取り外されていた)

 
モ235(台車を振り替え低床化している)

 
モ352(モ101の電装品を流用して作られた)

 
モ504(この時点では連結器が残っていた)

いずれも昭和39年11月3日 姫松で撮影。

2010年 秋の中国一人旅 Part13 CRH380Aと滬杭高速鉄道

第13日目 11月2日

① 上海虹橋10:00(G7307)→10:45杭州
② 杭州16:00(G7320)→16:45上海虹橋

今日は、2010年10月26日に開業した滬杭高速鉄道を走行する最新のCRH380Aに乗車して、上海虹橋から杭州までを往復します。

杭州駅で配布していたパンフレットからのスキャンです。上海虹橋~杭州間には、途中7駅が設けられています。

ホテルから余裕を持って出発しましたが、地铁が後2駅を残して駅間で停車して動きません。いつものように車内放送もなく10分も過ぎると、飛行機に乗られるであろうスーツケースを持った乗客達も落ち着きがなくなってきました。何とか走り出しましたが、次の駅で全員降ろされました。車両故障だったのか、遅れたので単なる間引きのための車庫入りなのか分りませんが、とにかく余裕がなくなったのは事実です。後続列車は直ぐに来ましたが、虹橋火車站ではダッシュしている乗客もかなりいました。
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今回は阪堺線

朝のNHKドラマを見ていると、阪堺線の旧型電車がよく出てくる。設定は松虫あたりと聞いているがなじみがないのでよくわからない。以前投稿で阪堺線があったがいま残っている電車には木造はない。この絵のダブルルーフもない。果たして乗った人はいるのだろうか。乙訓の長老ぐらいか。ご存じの方は今回も薀蓄をお願いする。

なお、このシリーズはまだまだ続くそうで、後に単行本化も予定されているようです。必ず買います。

江若鉄道三井寺下駅再現(その7)

車両の増備にうつつをぬかしていましたが、ようやく土木工事を再開し、三井寺下の敷地に線路の敷設を終えました。2個のカーブポイントを含む合計17個のポイントからなるにぎやかな配線です。まずは全貌が見える形になりましたが、我が工房の床を全面占領する大きさで 足の踏み場がない状態です。1次工事は済みましたが、これから17個のポイントマシンの自製、制御システムの設計、制御盤の製作、そして駅舎や車庫など数多くの建物の製作と これから先が思いやられます。無謀にも工事を始めたからには 開業の日を夢みて がんばることにします。敷地周辺の住宅地の雰囲気をどのように再現しようかと悩んでいます。1/80で仕舞屋風の民家を再現して作れば 立体的で最もリアルなのですが さすがにこれは自信と根気がなく 絵を書く案が有力ですが、これは平面的でかえって違和感を生じるかなどと考えているところです。
三井寺下構内1
三井寺下構内1
三井寺下構内2

三井寺下構内2

2010 年秋の中国一人旅 Part12 上海虹橋駅

第12日目 11月1日

① 天津 21:53(D341)→7:14 上海虹橋
② 地铁 虹橋火車站→東安路→ホテル
③ ホテル→地铁東安路→豫園→上海站
④ 上海站→南京路→外灘→地铁東安路→20:30ホテル

6時過ぎに目覚めて車窓を見ると、並行する在来線が見えました。眠っていて分りませんでしたがどうやら南京から7月に開業した滬寧高速鉄道に乗り入れたようで、走行速度も200km/h以上は出ています。D341次に使用されている編成は、CRH2を寝台列車用に車内を設計変更したCRH2-E形で、最高速度は250km/hです。最高速度350km/hで走行する寧高速鉄道を走行するのはダイヤ編成上無理がありますが、早朝の上海方面行きCRH2-E編成のみが連続運行された最終後に最高速度350km/hのCRH2-C・CRH3・CRH380Aが走り出すように上手くダイヤ編成されています。従って、上海までに下車する客もいますが、乗車する客もいます。

6:12
D341次无錫(無錫)に停車しました。ホームは在来線横に新たに造られています。无錫から苏州(蘇州)にかけての沿線は、水路がはり巡らされた水郷の村々が続きます。朝霧が幻想的に漂う墨絵の車窓に釘づけになりました。

停車・通過站を見てきましたが、殆どが広大で高さがある屋根付き鉄骨ドームです。軟臥下鋪の車内サービスにスリッパがありましたが、見るのは初めての赤・黄と鮮やかやカラーです。こんなところにも変化を遂げようとする中国鉄路の一端が見えます。 続きを読む

中国版新幹線 CRH380A 世界最高速度486.1km/hを記録!

祝「東北新幹線 八戸駅~新青森駅間の開業」

本日2010年12月4日、東北新幹線の延伸開業となりましたが、浮かれていてはいけません。昨日12月3日、中国鉄路では2011年開業予定の京滬高速鉄道(上海虹橋・上海~北京南)の一部完成した区間において、CRH380A編成が鉄輪式の営業用車両としては、世界最高速度の486.1km/hを記録しました。

これまでの鉄輪式の営業用車両としての最高速度は、今年9月28日に同じCRH380Aが滬杭高速鉄道で記録した416.6km/hでした。来年早々に500km/hへの挑戦を行うと発表されていましたので、今回は予行演習だろうと思います。
CRH380Aは、東北新幹線等で運行されている「はやて」E2系をベースに中国独自技術で開発したと発表されていまして、現在滬寧高速鉄道(上海虹橋・上海~南京)と滬杭高速鉄道(上海虹橋・上海~南京)で運用されています。
ちなみに鉄輪式のこれまでの最高速度は、TGVの574.8km/h(2007年)、日本では955系の443km/h、リニアでは581km/hですが、いずれも試験用車両でした。今回は、営業用車両が記録したことに大きな意義があります。日本の技術供与があったとはいえ立派な記録です。
京滬高速鉄道の営業運転では、380km/hで走行し北京~上海間(約1,300キロ)を4時間台で結ぶと言っておられますが、これで現実味を帯びてきました。将来的には500km/h運転を目指しますので、ひょっとしたら東京~名古屋間のリニアより早くに鉄輪式で500km/h運転をするかも・・。恐るべし中国鉄路となってきました。

CRH2からフロントノーズをロング化したCRH380A形。鉄道ファン必見の展望室もあります。昨日12月3日、武广高鐡(广州南~武漢)にも8編成が配置されました。