追憶の九州 一人旅 (4)

大畑再訪

「ゲキ☆ヤス土日きっぷ」を使った九州の旅も終盤となります。日豊本線で485系を撮ったあとは、肥薩線の山線区間の再訪とします。隼人から乗る特急「はやとの風」は、日曜日とあって自由席の確保が心配でしたが、案に相違してガラガラ、木を多用した車内の設備とあいまって快適な列車の旅となりました。
途中、明治の駅舎としてブレイク中の嘉例川駅に停車すると、すごい人出に迎えられます。ところが、駅前を見ると自家用車で満杯、何のことはない、鉄道を一切利用せず、鉄道の名所を車で訪れる現実に、鉄道ブームの断片を見た思いでした。終着の吉松駅に着いて、向かいのホームの「しんぺい」に接続1分間で連絡、いよいよ肥薩線の山線区間に入って行きます。
平成16年の九州新幹線の開業時に生まれた観光列車「しんぺい」「いさぶろう」は吉松~人吉間に2往復、上りを「しんぺい」、下りを「いさぶろう」と呼びます。指定券があれば乗れる普通列車で、絶景ポイントでは停車・徐行、車載カメラからの展望ビデオの放映、真幸、矢岳、大畑の各駅では10分余りの停車、駅では地元の特産品販売、そして制服の似合うアテンダントの甲斐甲斐しい接客と、観光列車らしいサービスがたっぷり。
大畑も40年ぶりの再訪となりましたが、以前に大畑の情景に惚れ込んだTさんから、「大畑は木が茂ってあきまへんで」と聞かされていました。確かに、蒸機の時代と比べると、大畑ループは車両を超す草木が茂っていて見通しが利きません。名声を博した撮影地が最近はすっかり写せなくなったとよく聞きます。それは、人工物の構築より、むしろ草木の繁茂など自然の変化によるものが多いようです。
変化した車窓と、観光地化した山線に、かつての大畑を訪れた時の感動がなつかしく甦ってきました。

スイッチバックして大畑駅に進入する「しんぺい」。大畑駅の配線は昔と変化なく、通過のできないスイッチバック配線は、昔のままだった。

大畑駅で10分停車する「しんぺい」。キハ47、140の3両編成で、古代漆色と呼ばれるエンジのカラーが青空によく映える。

大畑ループを行く。歳月は自然も変えてしまった。本来なら駅までも見渡せる地点だが、見通しはほとんど利かない。

ループ線の矢岳寄りのカーブを登って行く1121レ、爆煙を上げるD51。大畑で迎える朝の光景は、蒸機の良さをしみじみと感じた。当時の草木の茂り方はこんなものだった。

 

1121レとは、門司港発、鹿児島本線・肥薩線・吉都線経由の都城行きの夜行鈍行だ。当時、九州にまだ多く走っていた夜行鈍行の一本。何度もお世話になった列車で、列車番号は変わっているが、戦前から走っている列車だった。冬の朝、ループ線を上がってくる1121レ、南九州とは言え、さすがに寒い。煙を編成全体に纏わりつかせながら、ループ線を上がってくる。煙の軌跡が、そのままループ線の形になって残っていた。

大畑駅で発車を待つD51の牽く混合列車。重装備のD51が先頭、わずか1両の客車は、本日は貴重なダブルルーフのスハフ32、その後に長大な貨車編成が続き、しんがりをまたD51が務める。

戻りとなる都城発門司港行き1122レが深夜の大畑駅に停車する。車内は1121レよりさらに空いていて、1両にほんの数人の乗客だった。D51と客車から洩れる光が、駅構内をほのかに照らす。これほど夜行列車の旅情があふれた列車もない。1121レ、1122レは昭和47年3月改正で消えた。

クハ79066

長老よりご指名がありましたので、解説させていただきます。

関 三平さんの解説文を拝見すると「相当なファン」の方と思われます。「元スカ線のクハ47で、①10両すべて改造する筈が2両しか実現せず、飛び番となった。②スカ線時代はいつも中間に入り顔を見せなかった」等の項目は、旧形国電のことを相当勉強していないと書けない内容です。
ちなみに2両目と3両目はモハ70、4両目はクハ68の基本編成です。

 前身は、横須賀線の付属編成用として作られたクハ47形で、昭和5年日本車輌で47001~010の10両新製され、運転台の向きはすべて偶数(下り)向きでありました。
戦時改造で全車4扉化され、クハ85027~036となる予定でしたが、施工されたのは47004→85030、47010→036の2両に止まりました。形式の「85」は、湘南形の「サロ85」が使用するため、4扉のクハ79形に編入されることになり、昭和24年4月に改番が行われ、クハ85030→クハ79060、クハ85036→クハ79066となりました。

昭和26年11月29日付で2両揃って東京(最後の配属は津田沼)から淀川区に転属して城東線等で使用、060は昭和35年8月に高槻区に転属するも35年10月に淀川区にカムバックしています。
一方066は昭和33年7月に高槻区に転属しており、イラストはその時のものと思います。昭和36年9月に森ノ宮区に転属、城東線101系化により1カ月後の10月に東京にカムバックして池袋区に、東京地区で何度か転属があり、昭和40年4月に津田沼区から淀川区に戻り、060と共に片町線で使用され、060は昭和47年2月16日付、066は同年3月11日付で廃車になりました。

この2両の特徴は、更新修繕Ⅰの実施時期の関係から、更新修繕Ⅱが実施されなかったため、ベンチレーターがグロベン化されずにガーランド形のままであったことがあげられ、吹田工場で施工されていた正面窓と戸袋部窓のHゴム化は、060は正面窓のみ実施。それも一気ではなく、最初は運転台部分の1枚のみ、後日残り2枚も実施。066は全く実施されずに最後まで木枠のままでした。両車のスタイル上の差異は、066には正面左窓上に運行表示窓があったのに対し、060には無かったことがあげられます。詳細は写真をご覧下さい。

長老の仰せの通り「その筋の権威者」河 昭一郎様がご覧になっておられたとは吃驚です。

クハ79060 

 
昭和40年11月14日 鴫野 (この時点では正面窓は全部木枠)

 
昭和41年3月15日 河内岩船 (運転台部分の1カ所のみHゴム化)

 
昭和47年1月4日 放出  (最後は3枚共Hゴム化され、1カ月後廃車された)

クハ79066

 
昭和45年11月15日 鴫野  (正面窓は最後まで木枠のままであった)

2010年 秋の中国一人旅 Part11 天津津濱軽軌、トランスロール

第11日目 10月31日

① 中山門12:20(天津津濱軽軌)→13:00秦达
② 軽軌秦达站13:05(現代電車)→13:35学園区北
③ 学園区北14:14(現代電車)→14:42軽軌秦达站
④ 秦达14:58(天津津濱軽軌)→15:38中山門
⑤ 天津21:53(D341)→7:14上海虹橋

今日は、久しぶりに天津津濱軽軌(以下;軽軌)と延伸計画があった途中の秦达站から走るトランスロールの路面電車がその後どうなっているのかを確認に訊ねてみることにした。そして今夜は夜行寝台電車で第4、第5の中国版新幹線初乗車を目指して、上海へと向かいます。

【天津津濱軽軌】
Taxi乗車で始発駅の中山門站へと向かいます。当初の予定では、軽軌が延伸され天津鉄路站まで、また天津地下鉄も天津鉄路站を中心に中心部まで開業しているはずですが、まだです。地下鉄再開業も約2年間遅れました。元々交通インフラ計画自体があいまいだったのか、工事が遅れているだけなのか分りません。市民も前の事があるので、いつ開業するか分らない。他都市が前倒しで開業しているのと比べると天津はとてもいい加減で信用できないと言います。

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1958年8月上田丸子電鉄その2

前回ご覧いただいたのは旧飯山鉄道が最初に導入したキハニ1~5(定員60人)の「成れの果て」ばかりであった。飯山はその4年後、今度は手荷物室なし、100人乗り、ウォーケシャ6RB装着のキハ101、102をやはり日車東京支店から購入する。この2両も1944年6月1日の買収で省記号番号は与えられず、飯山時代のキハ101、102のままでほぼ使わなかった。廃車は1948年6月22日。上田丸子電鉄が1949年にキハ101を購入してハフ101を経てハフ41に、翌年102がサハ42に。


上田丸子電鉄サハ41←ハフ101←省キハ101←飯山鉄道キハ101

サハ41
サハ41 台車の補強が目立つ

サハ42←省キハ102←飯山鉄道キハ102

ハフ41←ハフ101←省キハ101←飯山鉄道キハ101

飯山のキハ101は1941年代燃化で木炭瓦斯発生路を片側運転室反対側に炉室を作って納めた。これは私鉄では極めて珍しい例で、他には淡路鉄道キハニ5しかない。ただ国鉄キハ41000形式はやはり室内に、それもシンダガス発生炉を設置していた。欧州でも室内例は少なくなく、新製時から車体中央に炉室を持つものすらあった。ついでながら、木炭による代燃はフランスが本場で、早くから実用化し、日本陸軍は昭和初期にフランスから代燃自動車を購入して研究(真似)をし、陸式なる、薪による乾式炉(瓦斯発生時加水せず、薪の水分を使う)を開発していた。
 

サハ253←クハ1502←相模鉄道クハ1502←サハ52←ホハ52←キハ52←キハ42

これは相模鉄道のキハ42→キハ52が出自である。戦前最後まで「びわこ」スタイルのディーゼルカーだったが、当時ディーゼルでの代燃化技術がなく、客車化→制御車化されていた。台車は通常の菱枠だが、ご覧のように随分とリブを付した補強がなされ、端梁もついている。また妻面がこのように改造されると、内燃動車ファンを自認していても、咄嗟に前身を言い当てることが出来ない。


「びわこ」スタイルのままのクハ252←相模鉄道クハ1501←サハ50←ホハ50←キハ50←キハ40


モハ3224←モハ3222←サハ26←東武鉄道キハ21←省キハ40300←キハ36470←秋田鉄道ジハ6

これは旧飯山キハニ1~5と殆ど同じと思われるだろうが、2扉車で、手荷物扉(右)幅が960mm、客扉は750mm。同系だが客扉を1か所なくし、狭い扉側に小窓1個を設けて辻褄を合わせている。機関がブダBTUと強力だが背高のため床高が1,270mmと高かったが、上田丸子での電動車化の際手前の飯山車と合わされた。勿論台車は電車用に履き替えている。

知りませんでした

そういえばこんなのがあったような気もしますが、京都-西明石の各停は貫通扉のある関西型でしたね。

それにしてもこの方・関三平さんはただ者ではありませんな。画材は何なのか、色鉛筆のようにも見えますがたいしたものです。一度お会いしてみたい!

11/29産経新聞夕刊より

前回裏写りがあったのをご指摘下さった親切な方、ありがとうございました。以後気をつけます。

2010年 秋の中国一人旅 Part10 南満州鉄道(満鉄)の客車

第10日目 10月30日

① 沈阳22:21(K28)→天津6:48
② 市内14:30(Taxi)→15:45万家碼頭駅16:45→17:40市内

K25軟座寝台の快適な車内と、心地いい走行音を聞きながらの熟睡でいつもの通り6時に起床しました。夜明けの車窓を見ながら定刻の6:48天津到着です。朝日がホームに差し込んでいます。
▲ K28の車両編成は、
SS9-0080(DL)+⑮XL20676+⑭YZ351535+⑬351543+⑫351540+⑪351539+⑩CA893557+⑨RW554681+⑧YW677536+⑦677539+⑥677538+⑤677542+④677542+③677543+②677542+①677530の荷物車+硬座車4両+食堂車+軟臥車1両+硬座寝台車8両の15両編成で、今日は北京~平壌間の車両は連結されていませんでした。
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2010年 秋の中国一人旅 Part9 調兵山 その2

第9日目 10月29日

① 調兵山バスターミナル17:20(バス)→19:10沈阳站
② 沈阳22:21(K28)→天津6:48

今日も昨日同様に夜明けと共に目覚めました。王千・大明・大青行きと3列車の牽引機を確認に行きますが、昨日同様DLでがっかりです。

東風4-7720牽引の大明行きの101次。YZ92-4522は最近更新されたのか、車体も綺麗に塗装されていました。殆どの客車は中国鉄路からの中古車で、色落ちと煤けた車両が多かったので、綺麗な車両を見るのは驚きでした。
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らくさい便り

臨時直通列車で【紅葉の嵐山へ】一直線!のパンフレットが効を奏したのか、平日昼間でも特急は満員の阪急である。なかでも梅田9:51発、桂10:32発の快速特急は6300系6連とあって、座っている乗客より立っている人の方が多い盛況ぶりである。これに気を良くしたのか、来春「京風」特急-観光特急-を梅田~河原町間で運転させることになった。毎週土日祝日運転で、当面1日1往復の予定。途中停車駅は十三、淡路、桂、烏丸となる。観光特急は6両1編成(6351・6F?)で内装を「京風」に改装するとか。特製HMはもちろん、この1編成に愛称を付けると言っている。南海の「天空」に最初首をひねったが、真言密教にまつわると知り納得したもんだ。これについてはthurukameさんの解説をまとう。平凡だが、京風なら「雅」-まさとは読まないーが王朝風となり平安京を偲ぶものになる。外装の変化には期待はもてないであろうが、内装にはお手並み拝見と参ろう。こうしたリクレーションカーは近鉄の「十八番」だが、南海に続いて阪急(新京阪線)とはこれいかに。本来、行楽列車頻発がお手のもの筈の京阪に、ダブルデッカー以降ヒット商品がない。中之島線不入りの余波を受け、宇治線のワンマン化が近々実行されるようだ。宇治線の再起は京市交東西線との直結だ。なに、車両の寸法が違う。京市交の車両にちょいと手を加え、宇治線に乗り入れさせればなんとかなる。むちゃな事を言っているのではない。アムステルダムへ行けば2.4m幅が3mの線区に直通しておるぞ!ドンマイ、ドンマイ。夢は嵐山、びわこ、宇治を結ぶためだ。

2010年 秋の中国一人旅 Part8 調兵山

第8日目 10月28日
夜明けと共に目覚めました。6:28王千行き、6:40大明行き、7:16大青行きと連続して発車します。この牽引機関車を見ておかないと今日の運用が分らないので、急いで調兵山站に向かいました。


2010年10月現在の調兵山站発着の時刻表です。2年前と殆ど変わっていません。
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佐竹さんの写真展打ち上げ会と朝がゆ会

佐竹さんが年末に山科青少年活動センターで写真展を開かれることはすでにお知らせしましたが、12月12日に打ち上げ会が近くのおそば屋さんで開かれます。

参加の申し込みを受け付けておりますが11/24現在、沖中・吉田・篠崎・田野城・滝本・小西・円中・四方・福田・井原・玉田各氏の出席が確定しております。あと少し余裕がありますのでご希望の方は田野城までお願いします。

このほかに12/19に七条京阪のサカタニギャラリーの朝がゆ会でお話会も開かれます。こちらは直接サカタニまでお申し込み下さい。案内状を掲載しますのでご覧下さい。

1958年8月上田丸子電鉄

なんで上田丸子へ行ったかは、写真を見ていただければわかる。この電鉄は、実に多数のガソリンカー、ディーゼルカーの『成れの果て」をかき集め、電動車、制御車、付随車にしていたからで、就中旧飯山鉄道のボギーガソリンカー、7両全部を集めていた。飯山には他にキハ51なる、2軸車が1両あった(←南総鉄道キハ103)が、これは飯山鉄道買収(1944年6月1日)に含まれず、日立航空機立川工場の通勤用に転じていた。


上田丸子電鉄モハ3223+モハ3224 3224は秋田鉄道ジハ6買収車

飯山鉄道は1931年7月17日瓦斯倫動力併用認可を得、日車東京支店と5両のガソリンカーを契約したことが、1931年上期の営業報告書に記されている。しかしこの時点日車東京支店はボギーのガソリンカー製造実績がなかった。そのためかどうか不詳だが、設計は本店が行った。1930年10月/11月製の佐久鉄道キホハニ51~56と若干の差異―窓が下降式、寸法も厳密に同一ではない―があるが、ほぼ同様の設計であった。車体実幅は2,200mmと狭いから、扉下に踏み板を張り出している。

組立図は勿論本店が引き、図番組8ハ-831、日付昭6-3-30。ところが支店にも組8ハ-145、昭6-7-27なる組立図一式が存在し、しかも「基図本組8ハ-831」の記入がある。すなわち支店は本店の図を完全にトレース=コピーしたのであった。

それからがややこしい。各車には支店の銘板が張ってあり、従前ファンは、この5両は日車東京支店の製造と信じて疑わなかった。しかし日車売上台帳を見ると、一筋縄ではいかない。それは、本店、支店両方に注文先を飯山鉄道とする売り上げ実績、工号があるからである。工号とは日車内部の符丁で、顧客からの何番目の注文かが分かる仕組みで、本店と支店とで様式が違う。

売上台帳64期(1931年6~11月)での本店は、車両の部ではなく、「製作器具内訳表」に注文先飯山鉄道、品名手荷物室付半鋼製四輪ボギー瓦斯倫客車、数量5両外4点、請負金額39,707円、製作費36,918円63銭、工場損益2,788円37銭。支店は「製作車両内訳表」にやはり注文先飯山鉄道、品名半鋼製四輪ボギー瓦斯倫客車、数量5両、請負金額60,000円、制作費56,786円34銭、工場損益3,213円66銭。常識的には本店の発注先を飯山鉄道でなく、支店とすべきだったのであろう。

これから判断すれば、受注は間違いなく支店。ところが現実には本店が下請けで2/3を製造し、支店へ。支店が残りを仕上げた、と読める。支店の制作費には本店への支払=36,918円が含まれている訳で、飯山鉄道キハニ1~5竣功図記入代価は1両12,500円だから、5両で62,500円。2,500円が搬入経費(運賃、保険料、荷役費)と思えば勘定は合う。

車両業界では下請等の実態がどうあれ、最初に受注したところがメーカーとされ、そこの銘板を張るのが常識で、現にこの飯山5両も竣功図を支店が調整し、製造所名日本車両製造株式会社東京支店、昭和6年9月と明記されている。この5両は日車東京支店製として間違いはないのだが、上記の如き事情が介在した。それも5両の内3両を本店が、2両を支店が作ったのならまだ話は分かるが、付加価値額からは2/3本店で製造した半製品を、支店で仕上げたという、極めて珍しい事例と判断できる。


モハ3223←サハ25←運輸通信省キハニ5←飯山鉄道キハニ5
サハ22←ハフ103←運輸通信省キハニ4←飯山鉄道キハニ4

話が100%脱線した。この5両―飯山鉄道キハニ1~5は、設計認可1931年7月17日、機関ウォーケシャ6SRL、チェーン2軸連動。買収でも省形式はずキハニ1~5のまま。1944年(キハニ2、3)と1948年6月22日(1、4、5)が廃車になり、全部1949、50年に上田丸子電鉄に払い下げられ、1~5の番号順ならサハ23、ハフ102→サハ21、サハ24、ハフ103→サハ22、サハ25に。

サハ23←運輸通信省キハニ1←飯山鉄道キハニ1 この位置の踏み板が原型である

さらにサハ25は台車を電車用に履き替え、モハ3223に改造。但し一旦廃車されていたと聞くから、廃車復活ではなく、単にボディを再用したのであろう。連結しているモハ3224も同系列車には違いないが、飯山ではなく秋田鉄道ジハ6買収車で、鉄道省キハ36470→キハ40300→東武鉄道キハ21→上田丸子電鉄サハ26→モハ3222→モハ3224という経歴になる。

なお飯山の5両は、客扉幅が750mm、手荷物扉幅960mmだったが、小生が見た時点ではすべて手荷物室側の客扉を埋めていたが、面影は十分残している。サハ22、23共、その扉跡が分かるだろう。また連結器は簡易連結器だったが、全車通常の自連に換装しており、モハ3223、サハ22は妻下部に鋼板を重ね張り足している。

2010 年秋の中国一人旅 Part7 瀋陽地下鉄

Part6の投稿を終えてから、10月18日瀋陽鉄道博物館入場の雰囲気が何か違っているとの印象を感じたと掲載しましたが、インターネットでいろいろ調べていましたら、まだ招待客及び部内関係者のみの入館受付で一般客の受付はなく、あっても許可された団体予約に限られているとの事でした。何も知らず飛び込みで行って入場できたのは、現場の好意だったのが分りました。ご配慮をいただきましてありがとうございます。

第7日目 10月27日 その2
① ホテル9:00(Taxi)→9:38瀋陽鉄道博物館 25.4キロ
② 瀋陽鉄道博物館10:47(Taxi)→11:35ホテル 全部で153元(約1,900円)
③ ホテル13:05(Taxi)→13:10沈阳地铁青年大街站 10元(約125円)
④ 青年大街站14:03(沈阳地铁)→14:13沈阳站
⑤ 沈阳站前15:00(バス)→16:50調兵山バスターミナル 25元(約310円)
⑥ 調兵山バスターミナル16:55(相乗りTaxi)→17:15ホテル 5元(約60円)

瀋陽鉄道博物館の視察を終えて、ホテルの部屋に戻ってみると、「ゼネラルマネージャーからお会いしたい。帰られたらご連絡下さい。」と英語メーセージが封筒に入れてドア下に入っていました。
チェックアウトの支度を終えてフロントに行きますと、日本語の出来るホテルマンも待機していて、GMに連絡しました。GMからお詫びを申し上げたいので少し待ってもらえないかと言われました。丁度、昨夜インターネット予約した日本の代理店からも電話が入っていて、直接話せました。向こうにも間違った所在地地図を送った責任もあります。この件は日本に帰ってからにして、ホテル側の信用・安全についてホテル側の評価はどのように考えているかを聞きました結果、次回の宿泊は無料でスイートを提供しますのでご納得お願いしますとの返答です。ホテルの「面子」としてはこの程度のようです。冷蔵庫の飲料は勿論無料でした。ミスは誰にでもありますが、昨夜のフロント女性からは最後まで謝罪の言葉はありませんでした。典型的な中国人だから仕方ないかと思い、9月27日開業したという沈阳地铁試乗のため、ホテルマンの見送りを受けてTaxiに乗車しました。
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ポール時代最末期の能勢電

10月15日付の【9939】「ちょっと気になっていた電車」で準特急様が能勢電を話題にされておられたが、ポール時代の写真は非常に懐かしく思った。
能勢電のポール時代は、諸先輩方が多数記録に残されておられて、私などの出る幕ではないが、少しばかりの写真があるので当時を偲んでいただければと思う。
能勢電鉄がポールからZパンタ、パンタに切り替わったのはDRFC入会以前の昭和41年1月17日である。私が撮影したのは前年の10月から12月にかけて京阪沿線の高等学校に通学していた頃で、滑り込みセーフであった。当時の在籍車両は31形2両(31・32)、50形3両(50~52)、60形2両(60・61)、10形8両(10~15・28・29)、20形6両(20~25)、電動貨車1両(106)の22両であった。
以下、形式毎に画像を並べてみた。

31形(31・32)
大正15年日車製で当初31~36の6両作られた。昭和30年10月に32が鼓滝踏切で大型トラックに衝突して大破し、復旧時に瑞穂工業により半鋼製改造時に31も追加された。(32は31年7月、31は同年9月竣工)残った33~36は鋼体化されることなく、昭和36年に廃車となった。35の部品を流用して電動貨車106が瑞穂工業の出張工事で作られたが、書類上は新造扱いである。
昭和41年、320形導入時にZパンタ化されることなく廃車となった。

 
多田駅を発車する川西能勢口行(昭和40年11月1日)

 
絹延橋車庫(昭和40年12月22日)

50形(50~52)
元阪急37形(37~39)(大正10年梅鉢鐵工場製)の70形(71~73)を昭和28年(71・73→50・51)と30年(72→52)に鋼体化改造したもので、50・51はナニワ工機、52は帝国車両で竣工した。昭和41年1月集電装置変更時にZパンタに取り替えられた。50と52は同年12月に廃車となり、残った51は61と共に川西能勢口~川西国鉄前間で使用、昭和56年12月20日同区間廃止により休車、翌年6月に廃車となった。

 
川西能勢口駅(昭和40年12月22日)

 
鼓滝駅を発車した妙見口行(昭和40年12月22日)

 
多田駅に到着した川西能勢口駅(昭和40年11月1日)

 
建設中の平野車庫の横(昭和40年12月22日)

60形(60・61)
借入中の阪急40形(大正12年藤永田造船所製)の40・41を昭和29年9月に譲り受けてナニワ工機で鋼体化改造して30年1月に竣工した。昭和41年1月集電装置変更時にZパンタに取り替えられた。60は同年12月に廃車となり、残った61は川西能勢口~川西国鉄前間で使用、昭和56年12月20日同区間廃止により休車、翌年6月に廃車となった。

 
絹延橋車庫(昭和40年12月22日)

 
鼓滝~鶯ノ森間の猪名川鉄橋を渡る妙見口行(昭和40年12月22日)

 
鼓滝駅を発車して妙見口に向かう(昭和40年12月22日)

 
平野~多田間を走行する川西能勢口行(昭和40年11月1日)

 
川西能勢口駅(昭和40年11月15日)

10形(10~15・28・29)
元阪急(←新京阪)のP-4、P-5形を昭和32年10月に1500Ⅴ→600Ⅴに降圧、パンタグラフをトロリーポールに取替等の改造を正雀工場で実施の上譲り受けた。翌年3月から下記の編成で常時2連で使用されることになった。( )は阪急時代の車番。
←妙見口
10(11)+11(21)・12(27)+13(22)
14(14)+15(23)・28(28)+29(54)
10~15は2個モーター、28は4個モーター、29はTcである。 
昭和41年1月集電装置変更時にパンタに取り替えられた。320形と置換えで14+156は41年12月に、それ以外の車両は42年10月に廃車となった。

 
急カーブで川西能勢口駅に到着(昭和40年11月15日)

 
鼓滝駅に停車中の川西能勢口行(昭和40年11月15日)

 
鼓滝駅に停車中の川西能勢口行(昭和40年12月22日)

 
猪名川鉄橋を渡る川西能勢口行(昭和40年12月22日)

 
多田駅での交換(昭和40年11月15日)

 
川西能勢口駅停車中(昭和40年11月15日)

 
鼓ケ滝駅に停車中の妙見口行(昭和40年11月15日)

 
多田駅を発車する川西能勢口行(昭和40年11月15日)

20形(20~25)
元阪急(←新京阪)のP-5形を昭和36年5月に借入れた。昭和41年1月集電装置変更時にパンタに取り替えられたが、同年9月に返却され、阪急では直ちに廃車手続きがされて平野車庫で解体された。編成は下記の通りである。( )は阪急時代の車番。
←妙見口
21(51)+20(24)・22(18)+23(52)
24(19)+25(53)
偶数車がMc、奇数車がTc
10形、20形は1両毎に細部が異なり興味が尽きない。

 
絹延橋~川西能勢口間を走行する川西能勢口行(昭和40年12月22日)

 
絹延橋車庫に入庫(昭和40年12月22日)

 
続行車ありの標識を表示して鼓ケ滝駅を通過(昭和40年12月22日)

電動貨車106
31形のところで触れたが、昭和36年8月に35を瑞穂工業で改造した。昭和41年1月集電装置変更時にZパンタに取り替えられたが、保線作業車が導入された結果、仕事がなくなり平成3年3月に廃車となった。
ポール時代の写真が見当たらないため、Zパンタに換装後を貼り付けた。

 
昭和41年11月25日 平野車庫

【番外①】建設中の平野車庫
昭和40年8月21日から手狭になった絹延橋車庫に代わり、平野車庫が建設され、翌年1月25日に完成した。

 
建設中の平野車庫

【番外②】320形
昭和40年5月から8月にかけて阪急320形(320~331)が全車両入線したが、受入体制が出来ていないため、川西能勢口、絹延橋車庫、多田、妙見口に分散留置され、最終的に建設中の平野車庫に集結した。翌年5月から使用が開始され主力として活躍したが、1500形との置換えにより昭和58年から廃車が始まり、61年12月20日付で全車廃車となった。

 


多田駅留置線(上/昭和40年11月1日・下/11月15日)

【番外③】40形
阪急40形は40~45(44欠)の5両作られたが、42は阪神急行時代に昭和6年箕面線で消防車と衝突したため廃車となり、昭和7年2月に41、43、45の3両を借り入れた。昭和23年6月に43が衝突事故で大破したため40を借入れた。43は書類上は休車となっていたが、60形に改造されて不要になった41の旧車体と休車中の電動貨車206の足回りを利用して復活して引続き使用されていた。昭和37年12月43、45共に返却され、43は池田車庫に、45は西宮車庫に留置された後解体された。

 
西宮車庫(昭和39年12月25日)

【番外④】阪急宝塚線

 
川西能勢口駅を通過する回送電車(昭和40年12月22日)

 
石橋駅を発車した宝塚行急行(昭和40年12月22日)

取り急ぎクハ1711、1712

湯口先輩より【10193】「北陸鉄道その6」能登鉄道のホハ、北陸鉄道統合後石川総線でのサハ611の超貴重な画像の公開があり、更に今回その続編とも言える内容の披瀝があり、唯感激するばかりである。いずれの画像も本邦初公開ではないかと思われる。
「北陸鉄道 昭和40年代シリーズ」は、写真と資料を見比べつつ仕事の合間にぼちぼち進めており、現在石川総線を進めているところであるが、不明な点も多々あり悪戦苦闘している。以降加南線、金沢市内線、能登線と進めて行きたいと思っているが、何とか全部終わらせたいと思っている。
表題のクハ1711と1712は現在進行中の「石川総線」の中で登場するが、取り急ぎ画像のみ貼りつけた。クハ1711は46年3月20日野町で、クハ1712は45年10月11日鶴来での撮影である。

 

北陸鉄道サハ611、612

11月2日(10174)/11月8日(10193)の「元祖青信号」に、1925年製北陸鉄道サハ611が、国鉄形式ホ12000の、すこぶる古い―1911年か12年製のものと振り替わっていたことを記した。小生も編集の末席を汚している「鉄道史料」なる、マイナーも極まった季刊誌があり、その112号(Autumn2005)に、「私鉄のボギー客車落穂拾い―国鉄型」なる駄文を弄している。その中で能登鉄道ホハ1、2→北陸鉄道能登線ホハ1201、1202→石川線サハ611、612を簡単に記している。

それから5年経過した今年11月17日―つい先日、地元ご在住(であろう)の山本宏之氏という方から、鉄道史資料保存会にメールが寄せられた。北陸鉄道サハ651、652とサハ611、612に関してで、要約すると以下の通りで、文意を損なったとすれば要約者の責である。

「この車は1949年にホハ3001として能登線に入線し、1952年に石川総線へ移った際にサハ651となっていたが、許認可文書には一度も登場しておらず、無籍車と思われる」
「買い出し客などで能登線の輸送需要が増加し、燃料統制で使用が制限さられていたガソリンカーの代役として、運輸省から1023号蒸機の払い下げを受けていた中で、鉄道統制会の許可を得ずに大型客車を増備したのではないか」
「能登線がディーゼル化され、それが牽引するには荷が重い大型客車は電化路線に転用され、最終的に石川総線にサハ611、612、651の3両が揃った」
「1955年サハ611(湯口注能登鉄道からのオリジナル客車)の台車と台枠を流用してサハ2001を新製する際、車籍を継承せず、サハ611の廃車届もなく、サハ651(湯口注国鉄から購入した無籍車)の車体標記をサハ611に書き換えた」
「翌年にはサハ612も同様サハ2002に流用したが、この時はサハ612の廃車届が出され、二代目サハ611になった元サハ651も1965年廃車になった」

山本氏は恐らくこの掲示板はご覧になっていないだろうが、偶然とはいえ、実にいいタイミングで、これでほぼ実態が判明した。ただ「鉄道統制会」とは、戦時中私鉄の許認可事務の委託を受けて代行していた「鉄道軌道統制会」であろうが、これは敗戦後1945年12月26日解散しており、北陸が古いホハ12000を取得し、無認可で就役させたのはその後と思われる。ホハ12000には当然戦災廃車もあるが、老朽廃車は1948年以降で、翌年からはオハ60系新製のため、台枠の切継ぎ転用も゙始まる。1950年以降は職用車(配給車、救援車等)への改造もなされた。

金鉄管内での形式ホハ12000廃車は1951年度ホハ12047、48、56、12181、1952年度12049~51、53など。今となっては調べようもないが、恐らくはこのうちの1両が、サハ651→二代目サハ611になったのではなかろうか。なお山本氏は「大型客車」を、地方鉄道としては大きな客車ほどの意味でお使いと思われ、国鉄での「大型車」(形式が2万代=長軸・将来標準軌間化できる設計)、「中型車」(1万代)という分類ではあるまい。

また能登線3001とは、芸備鉄道キハ1→鉄道省キハ40308→石川鉄道ハフ20→北陸鉄道石川線サハ801→能登線コハフ3001で、1968年まで在籍、と承知していたのだが。能登線初代3001は無認可での国鉄形式ホハ12000で、石川線サハ801との交換で、番号も引き継いだのだろうか。

で、最後に諸兄にお願いが。まっとうなサハ611、612のUF12類似台枠と、TR10あるいは短軸化TR11台車を流用した北陸サハ2001(自社製)、2002(東洋工機)→クハ1711、1712をお撮りの方は、是非ご提供お願いしたい。

2010年 秋の中国一人旅 Part6 瀋陽鉄道博物館

第7日目 10月27日 その1

① ホテル9:00(Taxi)→9:38瀋陽鉄道博物館陽 25.4キロ
② 瀋陽鉄道博物館10:47(Taxi)→11:35ホテル 待ち時間を入れて往復計で153元(約1,900円)

③ ホテル13:05(Taxi)→13:10沈阳地铁青年大街站 10元(約125円)
④ 青年大街站14:03(沈阳地铁)→14:13沈阳站
⑤ 沈阳站前15:00(バス)→16:50調兵山バスターミナル 25元(約310円)
⑥ 調兵山バスターミナル16:55(相乗りTaxi)→17:15ホテル 5元(約60円)

【瀋陽鉄道博物館(沈阳鉄路陳列館)】
8:00、昨夜の事件でアップグレードされた部屋をいただきましたので、ゆっくりの起床です。窓からは、沈阳北站が一望に見えました。今日は、天津から丹东まで乗車したK189次の列車乗務員に調べてもらった「瀋陽鉄道博物館」の発見、9月27日開業した沈阳地铁1号線の試乗と、その後調兵山へと向かいます。今日は大忙しです。
荷物は整理して部屋に置いて、ホテルからTaxiに乗車しましたが、瀋陽鉄道博物館などドアボーイもTaxiの運転手も存在すら知りません。大体この付近とマーカーしてもらった地図と、達筆で書かれた私には読めぬメモだけが頼りです。助手席に座って、運転手と打合せをしてから発車です。

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2010年 秋の中国一人旅 Part5 丹東(安東) 瀋丹線(安奉線)

第6日目 10月26日

丹东13:52(K7318)→18:38沈阳北(30分延着)

昨夜は、歩き疲れましたのでホテル近くの「按摩」マッサージで足と全身を2時間かけて念入りにしてもらいました。これで100元(約1,300円弱)です。身体がほぐれたのでビールを飲んで美味しい中華料理を食べようと、昼間の餃子館に行きましたが閉店でした。仕方なく街中の食堂で麺を食しました。眼の前で麺を打ってくれますのでこれも美味しくいただきました。丹東は朝鮮料理も多いのですが、やはり東北料理が好きです。

丹东站発着の列車時刻表です。撮影の際に印刷してご利用ください。

【国際列車K27の撮影】
ホテルは朝食付きですので、その前の朝の散歩に昨日撮りそこねたK27を撮影する事にしました。撮影場所は、昨日同様の駅手前の踏切にしました。徒歩約30分で到着しました。

左は踏み切りに行く途中で初めて見た三輪電動車。中々のできばえです。夏は暑いのでオープンカーにもなるのでしょうか? 右は往路に乗りたかったK27です。国際列車だけあって、最新鋭の編成です。
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2010年 秋の中国一人旅 Part4丹東 国際列車

第5日目 10月25日 丹東

7:00丹東駅前ホテルにチェックインできました。部屋から駅前広場が見えます。7:17に到着する北京発平壌行きのK27を撮りたかったのですが、初めての土地です。買ったばかりの地図だけでは、撮影地が分りません。ホテルの窓からK27の入線を見ながらしばしの休憩タイムとしました。

土地が広いと言うことは素晴らしいですね。駅前広場では、スケート練習もやっていました。イチョウ並木は黄色く色着いて銀杏をひらっているおばちゃま多しです。

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追憶の九州 一人旅 (3)

想定外の大淀川へ

九州で使用した切符は、前述のように、土日2日間、九州内の新幹線・特急乗り放題という「ゲキ☆ヤス土日きっぷ」でした。土日は特急に乗りまくり、座席車の夜行特急では唯一となった「ドリームにちりん」にも乗って、久しぶりの夜行体験と宿泊費節減を画策していました。
ところが、鳥栖から乗った「リレーつばめ」の車内の揺れ・室温のせいで、次第に体調が悪くなり、とても夜行に乗り通す体力・気力がなくなってしまいました。急遽、予定を変更して宿泊することにし、深夜22時過ぎ、宮崎駅に到着しました。
ホテルでゆっくり眠った翌朝は体調も戻り、未乗車区間の宮崎空港線の乗車までの約一時間を、当初は予定にはなかった大淀川河畔の撮影に当てることにしました。

ホテルを出て、宮崎県庁の前を通って大淀川河畔に到着する。川の流れは変わらないものの、マンションなどの大形の建築物が林立し、両岸の光景はすっかり変わってしまった。かつて、宮崎ではいちばんブランド力のあったホテルもあったはずだが、代替わりして名前が変わっている。下掲の写真とほぼ同じ、橋梁と並行する橘橋への階段から、813系を撮影する。シンボルのフェニックスに樹勢が衰えたせいか、それとも背後の高層建物のせいか、南国宮崎の表現としては、いささか弱かった。

現在の大淀川での注目列車は、来年3月の九州新幹線の全通で、一部の撤退が予想される485系だろう。九州の485系は、大分車両センターに主に3両編成が、鹿児島総合車両所に主に5両編成があり、「ひゅうが」「にちりん」「きりしま」に運用されるほか、この写真のように、ホームライナーにも使用されている。例によってド派手な塗色であるが、実際見るとそれほど違和感もない。赤・クリームの国鉄色が1編成あり、つい先ごろもう1編成も国鉄色に戻され、この日の午後には、国鉄色同士の交換を見ることができた。

40年前の大淀川橋梁、この近くにユースホステルが3軒あって、早めに起きて朝食前に散歩がてら河畔に行き、当時から定番であった、フェニックスを入れて、C57の牽く列車を何度も狙ったものだ。橋梁は、南北にあるため、朝夕のシルエット撮影には格好の撮影地であったが、何度行っても雨が曇天だった。ようやく果たせたのは、大学も終わりに近い4年の冬休みだった。

大淀川のある宮崎~南宮崎間は、区間列車もあって、列車本数の多いところであった。気動車列車もあり、このような、キハユニ16を先頭にしたキハ20×3の4両編成もあった。当時でも、電気式気動車をルーツとする湘南顔の気動車はかなり珍しかった。キハユニ16は、もとキハ44100で、運転台なしの中間車キハ44200を挟んだ3両編成となり、蒸機ばっかりの九州に初めて配属された。九州の無煙化を実現した車両であり、記念すべき車両の唯一の残党だった。