追憶の九州 一人旅 (3)

想定外の大淀川へ

九州で使用した切符は、前述のように、土日2日間、九州内の新幹線・特急乗り放題という「ゲキ☆ヤス土日きっぷ」でした。土日は特急に乗りまくり、座席車の夜行特急では唯一となった「ドリームにちりん」にも乗って、久しぶりの夜行体験と宿泊費節減を画策していました。
ところが、鳥栖から乗った「リレーつばめ」の車内の揺れ・室温のせいで、次第に体調が悪くなり、とても夜行に乗り通す体力・気力がなくなってしまいました。急遽、予定を変更して宿泊することにし、深夜22時過ぎ、宮崎駅に到着しました。
ホテルでゆっくり眠った翌朝は体調も戻り、未乗車区間の宮崎空港線の乗車までの約一時間を、当初は予定にはなかった大淀川河畔の撮影に当てることにしました。

ホテルを出て、宮崎県庁の前を通って大淀川河畔に到着する。川の流れは変わらないものの、マンションなどの大形の建築物が林立し、両岸の光景はすっかり変わってしまった。かつて、宮崎ではいちばんブランド力のあったホテルもあったはずだが、代替わりして名前が変わっている。下掲の写真とほぼ同じ、橋梁と並行する橘橋への階段から、813系を撮影する。シンボルのフェニックスに樹勢が衰えたせいか、それとも背後の高層建物のせいか、南国宮崎の表現としては、いささか弱かった。

現在の大淀川での注目列車は、来年3月の九州新幹線の全通で、一部の撤退が予想される485系だろう。九州の485系は、大分車両センターに主に3両編成が、鹿児島総合車両所に主に5両編成があり、「ひゅうが」「にちりん」「きりしま」に運用されるほか、この写真のように、ホームライナーにも使用されている。例によってド派手な塗色であるが、実際見るとそれほど違和感もない。赤・クリームの国鉄色が1編成あり、つい先ごろもう1編成も国鉄色に戻され、この日の午後には、国鉄色同士の交換を見ることができた。

40年前の大淀川橋梁、この近くにユースホステルが3軒あって、早めに起きて朝食前に散歩がてら河畔に行き、当時から定番であった、フェニックスを入れて、C57の牽く列車を何度も狙ったものだ。橋梁は、南北にあるため、朝夕のシルエット撮影には格好の撮影地であったが、何度行っても雨が曇天だった。ようやく果たせたのは、大学も終わりに近い4年の冬休みだった。

大淀川のある宮崎~南宮崎間は、区間列車もあって、列車本数の多いところであった。気動車列車もあり、このような、キハユニ16を先頭にしたキハ20×3の4両編成もあった。当時でも、電気式気動車をルーツとする湘南顔の気動車はかなり珍しかった。キハユニ16は、もとキハ44100で、運転台なしの中間車キハ44200を挟んだ3両編成となり、蒸機ばっかりの九州に初めて配属された。九州の無煙化を実現した車両であり、記念すべき車両の唯一の残党だった。

秋の中国一人旅2010年 Part3 天津→丹東 K188/189乗車紀行

第4・5日目 10月24・25日

① ホテル11:30(Taxi)→11:50天津站
② 天津12:58(K189/189)→5:02丹東 1,004キロ 所要時間16時間14分

昨夜は、日本料理屋で朋友と久方ぶりに深酒しましたので、起床はゆっくりです。発車1時間前には天津站に着きましたので、朝食兼昼食を駅前の天津名物の肉饅頭屋で食しました。外に出ると雨が降りだしていました。

夜行列車乗車用に売店でビール・白酒やソーセージ類を買い出して、待合ロビーの電光掲示板を見ますと10分延です。このK189/189次(列車)は、上海始発で北朝鮮国境の丹東までの2,330キロを所要時間34時間32分、表定速度67.5km/hで結びます。天津からは、表定速度61.8km/hでゆっくりと向かいます。
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1957年5月金沢機関区



C5776とC5778

北陸鉄道のネガをゴソゴソやっていたら、国鉄車両も出てきた。金沢では機関区、客貨車区も、行きがけの駄賃というか、ついでに覗いていたのである。C57はどうでもいが、E10がズラリ並べられていた。周知のようにE10は1949年4月24日奥羽本線福島-米沢間電化で失業し、その後北陸本線倶利伽羅峠の補機として使われていたが、新随道の掘削で勾配が緩和され、再度失業していたのである。


E101  奇怪な除煙板にご注意あれ



E102(上)とE104(下)

その後北陸本線交流電化で、米原-田村間4.7kmという長大デッドセクションになり、ほぼ勾配のないこの区間が彼らの失業対策―最終職場になった。交流電化開業は1957年10月1日だから、米原区転出の数か月前だったことになる。さらにはこの米原-田村間も1962年12月28日電化され、全く用途を失って廃車された。

 

機関区の片隅に、立山重工製Cタンクが1両、さして荒れずに放置されていた。同類は各地で見られ、軍需工場や陸海軍工廠等で使われていたものが、敗戦後GHQ(General headquarters=占領軍総司令部)から賠償指定され、大蔵省管轄で保管されていたものである。結局は賠償にはならず、車両類は1953年ごろから順次指定解除されて私鉄で再活躍したり、引き取り手がないものは解体されてしまった。このCタンク機も、本当に車両不足が切実だった時期を無為に過ごし、再起したとは聞かない。金沢機関区は単に置場を貸していただけである。


ホユニ5051が完全な姿で残存していたのには一驚

客貨車区を覗いて仰天しかけた。何と、ホユニ5051(形式5050)がまともな姿で残存しているではないか。これは鉄道作業局ニボ17として、1889年神戸工場で誕生したもので、ホイロ5166(5150)→ホロ5508(5495)→ホユニ8605(8600)→という経歴。1950年2月14日名タヤで廃車されているから、この時点7年を経過している。

通常食堂や休憩室、組合事務所などに廃車体を転用する場合、台車を外すのに、これは一体どうしたことか。別段保存や転用などというものでもない。単に解体から漏れていた、というだけなのは、出入り口にハシゴ・階段の類が付けられていないことから分かる。蒸気機関車なら、誰かが画策して密かに残していた―例えば吹田教習所にC5345、555、65が残存―こともあったが、こんな例は珍しい。小生にしても、救援車や配給車化されず、営業車のままの雑形客車で、しかも足つきは、これ以外ほぼ見ていない。


ロ642車体

建物の間に、ロ642の車体を見つけた。形式628、628~680は新橋工場1888~1900年にかけ製造された、サイド2箇所扉のロングシート車で、片隅に便所があり、定員26人。

昭和46年の北陸鉄道浅野川線


クハ1651+モハ3011 46年3月21日 蚊爪

前回の金石線に引き続き、昭和40年代の浅野川線の状況について報告する。金石線は、ほぼモハ3000形で固められていたが、こちらは車両の転出入が激しいため、昭和46年3月時点での状況で報告する。特に同年7月11日加南線廃止後、大幅な車両の動きがあり、今回取上げた元遠州鉄道(車体のみ)のクハ1601、元国鉄のキサハ04のクハ1650形が姿を消した。

【沿 革】
前身は大正13年1月に設立された浅野川電気鉄道で、大正14年5月七ツ屋~新須崎(蚊爪~粟ケ崎間に存在し昭和36年6月廃止)5.3㎞を開業、同15年5月金沢駅前(現北鉄金沢)~七ツ屋間0.8㎞開業、昭和4年7月新須崎~粟ケ崎遊園前(現内灘)~粟ケ崎海岸間2.4㎞間を開業した。同社により砂丘開発の一環として粟ケ崎に大規模なレジャー施設が建設されたが、戦争のため軍部に徴収の上、軍隊の宿舎等に転用され閉鎖されてしまった。戦争末期の昭和20年2月粟ケ崎遊園前~粟ケ崎海岸間1.8㎞間が廃止(昭和27年7月に復活して海水浴シーズンのみ営業したが、昭和49年7月再度廃止)昭和20年7月20日北陸鉄道と合併して同社の浅野川線となった。
平成8年12月8日架線電圧を600Vから1500Vに昇圧して、従来の車両を元京王電鉄3000系改造の8000系に置換え、同時にワンマン運転を開始した。平成8年3月28日、金沢市の都市計画の一環として北鉄金沢~七ツ屋間が地下化された。

【昭和46年3月の状況】
当時から現在まで北陸鉄道各線の中で最も業績が良く、M車に関しては比較的車齢の若い車両が集められていた。運転間隔は朝夕ラッシュ時ほぼ20分、その他の時間帯は30分間隔で運転され、20分間隔の時は3列車、その他の時間帯は2列車使用されていた。この辺りの状況は現在もほぼ同じである。編成はMc+Tcの2連が基本で朝ラッシュ時は2本にMcが増結され3連となった。乗客が多い理由は沿線人口もさることながら、バス路線が並行するのは2つ目の上諸江までで、その先終点内灘までは競合がないことが挙げられる。市内中心部香林坊から内灘を経由して七尾線の宇野気方面に行くバスが1時間に1本程度(現在は更に運転間隔が開いている)あったが途中経路が異なっている。余談になるがバスの方向幕は「宇ノ気」と表示されていたが、現在はJRに合わせて「宇野気」と表示されている。正しい地名は「宇ノ気」である。
北鉄金沢と内灘の間に途中駅が10カ所設置されており、当時「割出」と「蚊爪」が交換駅であったが、現在は「三ツ屋」1カ所である。

【車 両】
昭和46年3月時点での車両は、電気機関車1両(EB221)、電車11両(モハ3010、3201、3301、3551、3561、3563、5101、クハ1001、1601、1651、1652)であった。同一形式が複数両存在しているのは、モハ3560形とクハ1650形が2両のみであとはすべて1形式1両であった。

1)電気機関車
EB221(形式EB22)
小松線の前身白山電気鉄道デ3→北陸鉄道モハ503が化けた電気機関車である。デ3はデ1、デ2と共に白山電気鉄道開業時に昭和3年新潟鉄工所で新製された木製4輪単車である。当件については、湯口先輩が「【9997】北陸鉄道2」で、モハ501、モハ502の画像と共に解説されておられるので、今一度お読みいただきたい。
一旦荷物電車モヤ503となり、加南線に転属し、昭和36年に電気機関車に改造された。昭和43年に浅野川線に転入して北鉄金沢駅構内にあった工場引込線の国鉄貨車の入換えに使用されていたが、昭和47年4月貨物営業廃止により廃車となった。

 
 
(42-3-21
 山代/浅野川線での画像がないため加南線時代を貼り付けた)

2)電車
前述の通りモハは3560形の2両以外は1形式1両、クハも1650形の2両以外は1形式1両であった。
モハ3011(形式モハ3010)
昭和33年日本車輌で新製され石川総線に配置された。主要機器は他車からの流用品であったが自動制御器を持っていた。昭和39年にモハ3000形(3001~3005)と共に金石線に転属したが、予備車的存在で後年主電動機を取り外してクハ代用となっていた。昭和45年HL制御器を搭載して再電装され、浅野川線に転属した。パンタ側非貫通、非パンタ側に貫通扉が設置されていたが、浅野川線転属時にパンタ側にも貫通扉が設置された。

 
46-3-21 蚊爪)

モハ3201(形式モハ3200)・クハ1001(形式クハ1000)
昭和32年、後述のクハ1001と共に日本車輌で新製され加南線に配置され、モハ3201+クハ1001の整った編成で使用された。主要機器も新製されたが他車との互換性を重視してHL制御器を装備した。昭和39年にクハ1001と共に石川総線に転属したが、制御器の違い(石川総線は間接自動制御)から朝夕ラッシュ時以外は休んでいることが多く稼働率は低かった。昭和43年モハ3201が、翌44年にクハ1001が浅野川線に転属となり、再び2連を組むことになった。モハ3201はパンタ側非貫通、非パンタ側に貫通扉設置、クハ1001は片運で運転台側非貫通で、最後までこのスタイルであった。

 


(
モハ3201+クハ1001 46-3-21 蚊爪)


(モハ3201の非パンタ側 
42-3-20 新西金沢)

モハ3301(形式モハ3300)
前述のモハ3011と共に昭和33年に日本車輌で新製され金石線に配置された。金石線は軌道法が適用されるため、連結運転時に全長が30m以下にする必要があり、モハ3011より車長が600mm短く、扉間の窓が1枚少なく5枚となった。機器類は新品で自動制御器を装備した。昭和39年モハ3000形投入により加南線に転属、更に昭和44年制御器をHLに換装して浅野川線に転属した。パンタ側非貫通、非パンタ側に貫通扉が設置されていたが、浅野川線転属時にパンタ側にも貫通扉が設置された。
1500Ⅴに昇圧後も、補助金による新車(実際は中古車)購入の代替車として残り、平成10年に廃車になったが昇圧改造はされていないので自力走行は不可能であった。

 
46-3-20 内灘)

 
(加南線時代 
42-3-21 山代)

モハ3501(形式モハ3500)・モハ3551(形式モハ3550)
モハ3501は昭和36年、モハ3550は昭和37年にそれぞれ日本車輌で新製され浅野川線に配置された。貫通扉は当初から両側に設置されていた。車体の仕様はほぼ同一であるが、モハ3501は、主要機器は新品で自動制御器を装備、モハ3551はモハ850形の廃車発生品を流用して作られ、HL制御器を装備した。モハ850形は元飯田線の辰野~天竜峡間の前身である伊那電鉄の買収車で最後は富山港線で使用後、昭和29年に北陸鉄道が購入した木製車で2両在籍した。
モハ3501は昭和39年に加南線に転属したが、昭和46年7月11日同線の廃止により浅野川線に復帰、その際にモハ3570形3571(昭和36年元遠州鉄道モハ13の車体を利用して自社で製作)の廃車発生品を利用してHL化した。
一方モハ3551は新製以来浅野川線に所属し、頻繁に転属が行われた同社では珍しい存在であった。
モハ3501は46年3月時点では加南線の所属であったが、元々浅野川線用として新製され、同線廃止後復帰したので時期のずれはあるがここで取上げた。

 
(加南線時代 
42-3-21 山中)

モハ3561・モハ3563(形式モハ3560)
加南線の前身、元温泉電軌から引継いだモハ1800(昭和17年木南車輌製)→モハ1831とモハ1810形(昭和18年木南車輌製)を昭和37年にHL制御化の上、前面に貫通扉を設置したもので、経歴はモハ1813→モハ3561、モハ1803→モハ1831→モハ3563である。モハ1801→モハ3562も在籍していたが、昭和45年に再度加南線に転属した。モハ3563はモハ3301と共に1500Ⅴに昇圧後も、補助金による新車(実際は中古車)購入の代替車として残り平成10年に廃車になった。 

 
(
モハ3563/46-3-21  内灘)

モハ5101(型式モハ5100)
昭和26年広瀬車輌でモハ5101~5103の3両が新製され、石川総線に配置された。 HL制御器を持ち、戦後製の新車として活躍していたが、車両の間接自動化が進められた結果、次第に第一線を外れ、昭和44年モハ5101が浅野川線に転属した。石川総線に残った5102と5103は昭和46年に間接自動式の制御器に換装されモハ3761、3762に改番された。(こちらは石川総線で解説する)

 
46-3-21 七ツ屋)

クハ1601(型式クハ1600)
元遠州鉄道のクハ51の車体を昭和37年に日本車輌経由で購入して自社で改造した。遠州鉄道クハ51は同形のモハ13、モハ14、クハ52と共に昭和23年日本車輌で新製され、車体は運輸省規格B`形であった。昭和36年にモハ13+クハ51、モハ14+クハ52の機器を流用してモハ38+クハ86、モハ14+クハ52が製作され、車体のみ北陸鉄道で再起し、モハ13→モハ3571、モハ14→クハ1602、クハ51→クハ1601、クハ52→クハ1603となった。一時は4両共浅野川線に配置されていたが、クハ1601を除き加南線に転属した。(クハ1601の写真がないため加南線転属後のクハ1603を貼りつけた).

 
(クハ
160342-3-21 山代)

クハ1651、1652(形式クハ1650)
元国鉄のキサハ04101、102を昭和36年に購入してサハ1651、1652として使用し、翌37年に運転機器を取付てクハ1651、1652となった。ハ化の際、運転台側正面窓の3枚窓化、非運転台側の貫通化、乗務員扉の取付け等が実施された。
経歴は下記の通りである。
キハ41040(昭和9年日本車輌)→キキサハ41800(昭和25年新小岩工場)→キサハ04101(昭和36年2月新潟区で廃車)→北陸鉄道サハ1651→クハ1651
キハ41041(昭和9年大宮工場)→キサハ41801(昭和25年新小岩工場)→キサハ04102(昭和36年2月新潟区で廃車)→北陸鉄道サハ1652→クハ1652

 
46-3-21 蚊爪)

2010年 秋の中国一人旅 Part2 天津駅での切符購入の難しさ

第2・3日目 10月22・23日 天津滞在

ホテルで朝食後、散歩がてらに駐在時いつも航空券を購入していた近くのJAL天津事務所を訪問しました。「お久しぶりです。」と、丁重なご挨拶を受け、最近情報を聞きましたが、「中国内では報道されていませんが不穏な動きがあるので、滞在・旅行者は充分注意をするよう領事館から指導を受けている。私もよく日本人か韓国人かを聞かれる事がありますが、韓国人と答えています。絶対に目立つ行動は慎むように。」と、忠告がありました。同じような忠告は、10年来親交のある日本料理店調理人からもありました。
前回の反日デモ多発の際は、日本で報道されるより現地では、中国人のみが行くような食事処や飲み屋で騒ぐと危ないが、そんな特別な事をしない限り問題はないと、たいして話題にものぼりませんでした。私も現地で実感していましたが、今回は現地で生活する日本人の対応方もちょっと違うなあ、気をつけなければと思いました。

普通運賃航空券は、かつて日本で購入するより中国で購入する方が格安でした。他にもいろいろとサービスがあって、恩恵に与ってきましたが、次第に運賃も上がり恩恵もなくなりました。この事務所も11月1日から営業時間は昼間の10:00~15:00、そして土曜日が休みになって縮小されます。
かつての中国線は、中国側の都合で便数も限られ、毎回訪中時はキャンセル待ちが続いていましたが、障害がなくなるとJALとANAが競って中国各地へと路線・便数を増やしていきました。需要を実際に見てきた者として、明らかに供給大過剰です。300人近く搭乗出来る飛行機に数10名足らず。ひどい時はクルーより少ない8名という便もありました。
まさにバブル状態だったのですが、大きな痛手を受け体力がなくなった結果は社員に対しての解雇、私達利用者にはサービスダウンが襲ってきました。国鉄が破綻したのとよく似ています。
この事務所がオープンした時から知っておりますので、思い出もたくさんあります。天津は今やTOYOTAの中国生産の主要基地となり、関連企業を含め多数の日本人が駐在・出張で来られていますが、私が来た当時は会う日本人は顔なじみばかりの人数でした。この事務所も消えないで欲しいと願って、天津站へと向かいました。
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2010年 秋の中国一人旅 Part1 旅立ち

第1日目 10月21日 移動時間;15時間30分

① 自宅5:00→長岡天神5:19(阪急)→5:38南茨木5:45(大阪モノレール)→6:08大阪空港
② 伊丹7:15(JL102)→8:24羽田10:30(JL023)→13:38(現地時間)北京
③ 北京空港站14:40(空港快速)→15:15東直門(北京地鉄2号線)→15:35北京站
④ 北京站17:00(2号線)→宣武門(4号線)→17:30北京南站
⑤ 北京南17:50(C2059)→18:20天津19:10(Taxi)→19:30飯店

「春の桜前線追っかけ」「初夏の北海道」等々と国内撮影の旅を続けてきましたが、中国へは半年間も行っていません。これほど長く訪中していないのは、ここ10数年間で初めてです。家の事情もあって我慢してきましたが、ストレスは溜まるばかりなので老体には良くありません。思い切って出発する事にしました。
しかし今迄利用していた関空からのJAL中国線は経営悪化で順次廃止されて、9月末には北京線も消えました。名古屋からまだ運行されている天津直行便しかないと思っていましたら、羽田国際空港ターミナル10月21日にオープンする。中国線もありとの発表がありました。

セントレアまでなら約6,000円、関西空港は安く行っても約1,600円の交通費が必要ですが、伊丹空港なら680円と格安です。早朝の出発は、苦になりません。そして、少しでも安く旅をしなければならない年金生活者です。
予定を変更して伊丹空港から搭乗してのトランジットで北京空港に到着するコースとしましたが、今度は特典航空券が満席で取れません。予約待ちを余儀なくされましたが、日中間の問題発生でキャンセルが多数出たのでしょう。直前に21日の出発が決まりました。 続きを読む

2010年11月7日 DRFC-OBクローバー会開催

2010年カミングデーにおいて、DRFC-OBクローバー会も開催されました。各自の近況報告や現役生も参加しての活動報告も行われ、親交を深めました。 来年度は、東京にて写真展を開催する予定で、現在場所探しをしている状況だそうです。決定しましたら、またHPにてお知らせがありますので、ふるっての参加をお願い申し上げます。




1957年5月/1958年7月北陸鉄道その6


能登鉄道ホハ 藤浦哲夫撮影 UF12類似台枠を篤と覧あれ この時点まだ赤帯の跡が残っている

先回投稿につき、早速藤本哲男氏から暖かいサポートがあり、老人は感激し「その6」を続けることにする。

能登鉄道ホハ1、2の台枠がUF12類似であること、台車もTR11の短軸化であることは先回記した。比較のため、能登鉄道時代、北陸鉄道統合、石川線転出後のサハ611をお目にかけておく。これがオリジナルの姿なのである。


北陸鉄道サハ611←能登鉄道ホハ1 高橋 弘撮影

さらに石川線では、モハ541の挿入を忘れていた。後期高齢者まであと10か月という老人性痴呆の寸前にほかならない。情けないがどうしようもない。


北陸鉄道石川線モハ541 元能美電気鉄道デ1 

なお金沢市内線も何枚か撮っているので、事のついでにご披露を。

金沢市内線308

金沢市内線2001

金沢市内線2004

江若鉄道三井寺下駅再現(その6)

平成18年に大津市歴史博物館で開催された企画展「ありし日の江若鉄道」の資料を藤本先輩からお借りして 三井寺下付近の航空写真を虫メガネで見ながら建物の配置などを割り出しはじめましたが、先に作った設計図に間違いが多いことが判明。適当に妥協することにして 工事を進めることにします。建設工事は足踏み状態ですが、またしても浮気の産物として ホハ100型客車3両がほぼ出来上がりました。これで 時代考証的に SL1118やC111に牽かせる相手が出来ました。今回も湯口先輩の「丹波の煙 伊勢の径」の写真があったればこそ 製作意欲も湧き 再現できたと思います。ところで このホハ100の色は 後年のナハやオハと同じく緑色で良いのでしょうか?仮に違っていたとしても まだ緑色のマッハの塗料がたくさん残っているので 緑色に塗装するつもりですが・・・。さて 車輌製作は一時休止にして これからはレイアウトの方に励むことにしましょう。

1118牽くホハ3両(旧関西鉄道)

1118牽くホハ3両(旧関西鉄道)

洛西たより

以前、阪急京都線洛西口駅周辺の東側で複線工事をしているのを見つけた摂津の御仁が、「あれ洛西NTの新線か?」と質問され、「いや、府道中山稲荷線との立体交差工事だ。」と答えた。下り(梅田行)線は9月11日深夜から早朝にかけて仮線に移動した。上り線は12月11日早朝切り替え予定である。これで工事は本格化するが、仮線とは言え高速で洛西口駅を通過するから「阪急もJR並や!」と言っている人もいる。3年後には高架線、駅が竣工する予定である。

さて今秋の紅葉は期待できると新聞発表があった。それを前に阪急は「紅葉の嵐山へ一直線」と、一大キャンペーンを張っている。11月の土日祝日は4ケ所から快速特急、直通特急が嵐山に向う。桂発を列記すると快特梅10:12、同じ10:32、快特河10:43、同梅10:52、同河11:03、直特宝11:12、直特神11:32、快特河11:43、同じ12:03、となる。この9列車を巡り4、5番線の上り方で場所取り合戦が始まっているようだ。11月7日、それに参入後のホームカミングディ?としたら怒られるやろうな……。阪急もでっかいテルテル坊主を新装成った嵐山駅に吊るしていかがであろうか!

1957年5月/1958年7月北陸鉄道その5

西金沢(のち白菊町)-鶴来-神社前は旧金沢電気軌道、新寺井-鶴来は能美電気鉄道が前身で、北陸鉄道に統合後は両者合わせ石川線。さらに神社前-白山下の非電化線であった旧金名鉄道→金名線を含め石川総線とも称されていた。神社前とは加賀一ノ宮である白山比め(しらやまひめ。「め」は口偏に羊)神社を指す。なお金名鉄道は1日2往復列車(ガソリンカー)が神社前まで乗り入れていた。電化は敗戦後の1949年12月6日である。

さらに金名とは、以前にも書いた記憶があるが、金沢と名古屋の頭文字で、熊延鉄道(熊本、延岡)や大社宮島鉄道(出雲大社、宮島)などと同類の、大風呂敷・大法螺吹き社名。世の中上には上があるもので、日露支通運電鉄なんて会社設立を謳い、詐欺そのもの?の計画もあった。


2軸単車の59 市内線のお古か ビューゲルとポール両方装着は庫内入換用であろう

モハ1502 汽車会社1925年製のオリジナル半鋼車デホニ102の荷物室・扉撤去

モハ3103 伊那電気鉄道買収車 伊那デ122→国鉄モハ1922→北陸

モハ3104 上と同じく伊那デ123→買収モハ1923→北陸
サハ611 能登鉄道ホハ1が前身とは「真っ赤な嘘」

小生は電車なんぞどうでもよく、このサハ611、612だけを撮りに来たのである。これは能登鉄道開業(1925年3月3日、羽咋-能登高浜)時2両購入した日車製の中型並の木製ボギー客車だが、製造が新しいだけあって、台枠はUF12並、台車もTR11を短軸にしたようなものである。北陸統合でホハ1201、1202に改番、さらに石川線に移ってサハ611、622に。蛇足ながら大正末~昭和にかけ、かような省型木製ボギー客車を開業時新製投入した鉄道には、能登のほか、弘南、北海道拓殖鉄道がある。

ところが、である。このサハ611を、目をこすってよっくとご覧あれ。やったらめたらと古い客車であることがお分かりになろう。台枠はUF11、台車に至っては1911年(明治44年)か1912年(45年)の代物である。すなわち、これは能登鉄道のオリジナル客車ではなく、鉄道院形式ホハ6810(→形式ホハ12000)の、最も古いかその直後―明治製の客車に相違ない。高橋 弘氏が1949年に撮られた写真は、オリジナルそのものである。

即ち、北陸鉄道では国鉄で廃車になったホハ12000形式を、恐らく1955年以降に購入し、振り替えたとしか考えようがない。それにしても振替とは、一般により新しい車両とするものであろうが、14年も古い車両との振替なんぞ、聞いたことがない。事故か何かで損傷したのに廃車手続を避けたのか。それとも新しい方の台枠を新製電車に流用した?可能性もあるかもしれない。電車屋さんよ、何ぞご託宣を。

北陸鉄道の車両紹介は極めて少なく、かつて鉄道ピクトリアル215~220号の「私鉄車両めぐり」も、執筆者には大変申し訳ないが、いまいち分かりづらく、内容にも欲求不満がつのった。このサハ611の項でも、正式の経歴が記されているだけで、挿入写真は明白に振替後なのに、失礼ながら全くお気づきになっていない。

追憶の九州 一人旅 (2)

早岐へ

土日2日間は九州内の新幹線・特急が乗り放題という「ゲキ☆ヤス土日きっぷ」を握り締めて、まず博多から向かったのは、早岐でした。「かもめ」「みどり」「ハウステンボス」の3特急を併結した列車は、13両編成という最近では珍しい長編成です。
「はいき」という響きが、いかにも九州らしい好ましい駅です。長崎へは何度か行ったものの、脇にそれる早岐・佐世保は学生時代以来で、文字どおり思い出の駅を訪ねる旅でした。

駅舎は、40年前と変わっていなかった。中の待合室の様子もそのまま。もちろん細かくは改造もされているだろうが、40年前の思いが蘇ってきた。ただ、蒸機の時代は現業機関が集中し鉄道のまちとして賑った早岐も、単なる分岐駅となり、ずいぶん寂しくなってしまった。

0番ホームと1番ホームを見る。幅の狭いホームと、木組みの上屋が、いい味を出している。支柱の下部が補強してあるのは、九州の駅の共通のスタイル。早岐の駅名標をしみじみ眺めながら、過ぎし日を偲んでいた。

かつての早岐機関区は、とうの昔に姿を消したが、煉瓦造りの給水塔だけが、記念物のように置かれていた。左手に「早岐機関区発祥之地」の碑が見える。下掲の機関区とほぼ同位置からの撮影。

ハウステンボスから一駅だけの「ハウステンボス」が、先頭車改造された切妻のクハ783を先頭に入線する。ここで佐世保からの「みどり」と併結される。併結後は、両端が流線型のクハ783・クロハ782となるため、貫通面を見せたクハ783はこの佐世保~早岐~ハウステンボスでしか見られない。

早岐機関区の上路式ターンテーブルに乗るC57111。門鉄デフは、もっともポピュラーなタイプだが、C57にはいちばん似合っていたし、区名板の「早」が、いかにもC57のイメージに合っていた。1並びの番号もよく、言わば、もっともC57らしい、好きなカマだった。

早岐機関区は、佐世保・長崎本線用のC57、貨物用のD51、それに松浦線用のハチロク・C11が配置され、区には煙が絶えなかった。この年に初めて買ってもらった135ミリの望遠レンズを通して、区の賑わいを表現してみた。

駅の構内で佐世保方から来たD51の貨物をとらえる。中間に石炭車も見えるが、これは松浦線沿線に小さな炭鉱があり、そこから運び出されたものだ。この時期、駅の構内とはいえ、上空を遮る架線もなく、実に広々としている。

高校生の私を早岐へ向かわせた最大の理由は、このC11の牽く特急「さくら」であった(写真は佐世保での撮影)。C11が佐世保~早岐の末端区間で特急「さくら」を牽くことが「鉄道ファン」に大々的に報じられていた。
早岐では、佐世保方に対してはスイッチバックとなるため、DD51の機回しの手間を省くため、この区間のみC11が先頭に立つというもの。最後の蒸機特急と言われ(その後「ゆうづる」で復活することは判明していない)、しかもヘッドマーク付きである。
勇躍、佐世保へ駆けつけたのだ。ところが、早岐から回送されてきた「さくら」を見て落胆した。ヘッドマークがない…。これでは入替中と変わらない。機関士に聞くと、いつも付けていないと言う。
あとで聞くと、ヘッドマークを付けるのは、取材や撮影ツアーで区に依頼があった時だけ付けているのだった。本には、ひと言も触れていなく、のちにある鉄道雑誌の編集長になる、その書き手をずいぶん恨んだものだった。

関西の電車・巡察の旅 その3


【お詫び】前回、最西端「網干駅の姿」を入れ忘れとなった。三河田原へ旅立ちの日となんら変わっていない。網干線沿線は、日鉄の撤退で過去の賑わいは薄れてしまった。

▲最西端・網干は2001年当時と変化なし

3日目:8月28日(土)、最終日である。ひょっとしてとの思いから2日目より早く家を出た。西向日6:13発普通を高槻で9300系快急に乗換え、淡路から大市交堺筋線を動物園前で降りた。先を急ぐなら天下茶屋で高野線に乗り継ぐのが本流だが寄り道するために、御堂筋線で天王寺へ出た。WCに立ち寄り近鉄阿倍野橋・河内長野行準急7:14発に間に合った。3+4の7両編成である。近鉄は名鉄と一緒で多両数固定編成を作らない。ここ南大阪線も2~4両編成の組み合わせで5~8連を組成している。列車によっては凸凹、色違い編成が現れる。そのうちに富田林到着。汐ノ宮は近い。なぜ汐ノ宮かと言うと友人がいる。3年前に電話があり「沖さん、隣に田中鎈市さんがいらっしゃるよ。京都在勤時代、電車の好きな変人が居た、と言ったら”それ、沖中はんやろ”と一発で当てはった」。電話を代わってもらいしばらく話したが、二人の接点が分らず尋ねた。汐ノ宮カメラクラブでご一緒であった。2人の年賀状の住所は番地が近接している。15年ばかり前、高野線・美加の台の住宅改修工事に行った時、河内長野から汐ノ宮を経て帰宅したが、どんなところか忘れてしまい、車窓で確かめたかったのだ。
河内長野の近鉄側の構内は南海側と比べると狭い。高野鉄道は19世紀末の開通、20世紀初頭開通の河南鉄道より早い。蒸気動車が乗り入れていた姿を想像してみた。接続の南海高野線は林間田園都市行急行、6000系8連がやって来た。南海は高野線の自社沿線開発を進め、改良工事に多額の資本投下した結果、資金繰りに困り倒産噂話で賑わったこともあった。さしずめ関西京成電鉄版である。京阪中之島線は自社建設線でないから気楽だろうが、東京メトロ副都心線と異なり、乗り手のないシーソーの片方みたいなもので、今後の大阪市の都市計画の進捗次第が命運を握っている。
林間田園都市下車は初めて、谷底の駅につきエスカレーター利用で改札口を出る。小さなロータリーにバス、タクシー乗り場があるが共に待機車はない。はるか南東方向にみどりに囲まれた住宅街が見える。近鉄が桔梗が丘団地を売り出した時、上本町から70㎞もあり狸の巣になるぞと従兄は冷やかしていた。林間田園都市は難波から39㎞、これならと思ったがバブル崩壊で苦労していると報じられた。10分ぶらつき、次の6000系8連急行で橋本に向かった。
南側の斜面を削り造成された小原田車庫には「天空」編成が留置されている。この車庫新設で急行の大運転(山線直通運転)は数えるほどになった。8連急行は8:39橋本に到着。

▲大運転用2000系が待機する

留置線の2303+2353がホームに据えられので、その車内で林間田園都市で購入したサンドとヨーグルトを腹に収め、WCへ。これが失敗となった。用を達している間に2304+2354が山から下りてきて増結した。そこへ次の8連急行が到着した。空っぽだった2300系4連はあっと言う間に埋まってしまった。止む無く先頭2354号、転換クロスシート扉横の背もたれに立つことになった。座る筈であったシートには、中年のオッサンが背摺りを後ろ向きにして向かいのオバハンと声高に喋ってけつかる。くそったれ!大油断であった。
走り出して暫くして、扉に持たれていた妙齢の御婦人、「トイレに行きたい」と同行者に言っている。グループで高野山参詣のようで、「困ったわ」と言い合っている。高野下を前にして「次の駅なら確実にトイレがある。40分後の電車で追いかけ、極楽橋で落ち合ったら如何?」と声をかけてみるが、「ええ」と言ったまま。上古沢だったかな、到着前にWCが目に入った。「早く行ってらっしゃい!」と肩を押したら「極楽橋で待っててね」と言い残し降りて行った。
9:47、極楽橋到着。想定第1番目の南端で、3時間34分要した。汐の宮見物なければ確実に3時間以内で到着となったであろう。ケーブルをチラッと見て「こうやさん」。紙(髪)を落とすのではなく清水が洗い流してくれるWCへ。折返し、2番目の南端へ行くために留置中4連の先頭車に急いだ。今度は失敗しないぞ、2303号のかぶりつきだ。小走りで先頭車に行けば車内はガランとしており間に合った。2300系は全転換クロス車で、扉間は1人・2人掛け、扉妻間2人掛2列のロマンスカー、老人が眼の色変える理由がここにある。

▲米手作市氏はケーブルカーで下山する

▲極楽橋では特急は手前、急行なら向こうの電車に乗車する

▲高野線(山線)は本年開通80年を迎えた

高野線(山線)は本年開通80年を迎えたその昔1251系3連の上り急行の電制音はすごかった。それに比べると2300系の電制は静かなものだ。そして電制と空制切り替え時のショックがない。「次の高野下で”天空”と交換します」とアナウンスがある。何、これを知っていたら何処かで途中下車していたのに。席確保のため動かず”天空”の入構を待った。橋本着11:02着、8連急行と乗り換えとなり、11:11発で天下茶屋をめざす事にした。
天下茶屋では早く家を出たせいか腹が「グゥ」となり催促している。WCを出たらカレーショップが目に入った。そこで腹に収めて、3番線4号車乗り場に立ち和歌山港行き「サザン21号」を待つ。やって来た8連、後4連は満員、前4連はガラガラ。こんな事だと思い自由席車と指定席車の分かれ目に立っていた次第。すでに戒を犯しているから”迷わず指定席車”である。ガラガラの車内に6人目の乗客となった。追加料金¥500。そして和歌山市から港への気まぐれ客は唯1人だった。和歌山港13:13到着。想定第2番目の最南端には+206分、なんと西向日から7時間要したことになる。これが10年前だと「迷わず水軒」となるのだが、2002年5月26日廃線となった。昼間にも1往復あったから、行くに苦労はなかったが、高野線に行く楽しみはそがれた事になる。

▲和歌山港に間もなく到着

▲本日2本目にして最終列車到着の水軒

▲距離表の数値は難波が起点

和歌山港から難波へ直行しようと思い、折返しサザンの先頭車のカブリツキに行くと「鉄」らしき親子が先に頑張っている。そこで和歌山市で下車、WCとして14:00当駅始発特急で北に向かうことにした。難波、淀屋橋、出町柳と繋いで最北端、鞍馬到着17:02となった。和歌山港-鞍馬間は市駅で一服しなければ3時間15分位の所要時分で収まるだろう。鞍馬では孫との約束、天狗の面を撮るために折り返しを1本ずらしWCとした。

▲天狗の面がお出迎え、お見送り

鞍馬17:18発、出町柳、祇園四条、河原町、と繋ぎ東向日18:33着。改札口には総本家青信号特派員氏が待ち受けていた。もちろん生中で、関西の電車・巡察の旅を乾杯で終結するためであった。本日の行程12時間20分、運賃6,240円、3日間の運賃合計16,900円(座席指定券代は省く)の旅であった。今回の道中、WCが目立つが、歳を取ると1時間前後で催す前兆があり、失敗のないように早い目に処理していたからである。

佐竹さんからのご案内

①1980年ペルーの旅・鉄道と遺跡・写真展
*マチュピチェ・クスコ・サクサイワマン城塞跡・ナスカ・アマゾン
*クスコ~マチュピチェ間の鉄道
日時:2010年12月3日(金)~12月14日(火)10:00~21:00まで
  (日曜日と最終日は18:00まで)休館日は水曜日
会場:京都市山科青少年活動センターhttp://www.jade.dti.ne.jp/~yamasei/
イベント:12月12日(日)15:30~16:45
   ・講演「鉄道趣味について」 沖中忠順氏
   ・フォルクローレ演奏 セサル ラ トーレ(クスコ出身・ボーカル、ギター)
入場料:無料
在廊:なるべく会場にいるようにしますが、事前に連絡いただければありがたいです。

②打ち上げ懇親会
※打ち上げ懇親会はイベント会場(山科青少年活動センター)から歩いて
いきますので17時までにセンターへお集まり下さい。
日時:2010年12月12日(日)17:30~21:00
会場:手打ち蕎麦「蕎岳(きょうがく)」(075-600-8006)
会費:3000円(そば、酒肴、ワイン・ビール・焼酎飲み放題)
定員:17名
申込:田野城までお願いします。tanosiro@e-corona.co.jp

③第72回 朝粥食べておしゃべり会
日時:2010年12月19日(日)午前9時~10時30分
会場:集・酉・楽サカタニ(京阪七条東、南側コンビに2階)
内容:「走れ トレランス号」  佐竹保雄
会費:350円?
申込:直接サカタニまでお願いします。(075-561-7974 )

「昭和の神戸と市内電車」作品展


以前この掲示板に、神戸元町4丁目のこうべまちづくり会館地下ギャラリーで、神戸市電や和田岬線列車の詳細、かつ何ともいえない温かみのある絵画、三ノ宮付近の立体模型などの作品展の紹介があった。この老人も習慣としての須磨-三ノ宮までのウォーキング中にたまたま拝見し、そのすばらしさを伝えた記憶がある。鈴木 城氏の長年にわたる作品群の由。

今回どうして老人の住所をお知りになったのかは不詳だが、やはり同じ会場で、11月11日(木)~23日(火・祝)「昭和の神戸と市内電車」鈴木 城絵画立体作品展のご案内を頂戴した。これは必見である。鈴木氏とご面識はないが、今回は是非お目に掛かりたいものと念願している。

会場は神戸の元町本通、4丁目と5丁目の堺の4丁目側南角にある「こうべまちづくり会館」で、9時30分~18時。京都からわざわざお越しになったとしても、それだけの価値は充分あると確信する。最寄駅は神戸高速鉄道「高速花隈」、神戸地下鉄海岸線「みなと元町」だが、JR元町、阪神元町からでも徒歩10分とかからない。

蛇足を加えると、冒頭リーフレット上の絵は、元町6丁目の三越前。三越撤退後は結婚式主体のホテルになり、それも震災前から家督争いか何かで閉鎖されたまま、今日に至っている。元町通りの西の入り口である。市電が通っている道路(多門通=現在中央幹線)は神戸高速鉄道建設に際し、左(山)側が拡幅された。

電車のすぐ横に「太井肉店」の看板のある異人館が覗くが、この建物は神戸高速鉄道が補償・全額負担して明治村に移築。最初は大井が牛鍋を営業していたが、現在では別の業者がやっている。なお大井肉店はビルになり、絵とほぼ同じところ(道路拡幅分だけ引っ込んで)で営業中である。

下の絵は、国鉄和田岬線の三菱造船所通勤客満載列車。ヘッドライトの背後に神戸港線名物のエア作動の鐘が見える。背後の誇線鉄橋は神戸市電高松線。この一帯は低地(旧湊川の川口扇状地)で、台風ではすぐ水没し、老人も若かりし日、写真取材で腰まで水に浸かった記憶がある。

飲酒の運転手が、公用車に「偉いさん」を乗せたまま、この誇線鉄橋の標準軌レールの上を、脱線もせず渡り切ったという「武勇伝」?があった。当時宴会中待機している運転手に、酒食が供されるのは至極当たり前というより「当然」であった。

なお和田岬線は旧山陽鉄道時代から存在し、現在では幹線道路の手前で切られ、駅も無人に。利用者は全員定期券のため乗車券自販機もなく、フリの客は無札で乗車し、兵庫駅で精算するシステムである。かつては川崎車両、神戸市中央市場の貨物が相当にあり、鐘紡の工場もあった(その後に競輪場が出来、市電車庫や交通公園にもなり、現在ではサッカー場と公園)のだが、旅客オンリーになり、それも三菱の縮小で昔の超満員など、かけらもない。

神戸市は地下鉄海岸線の開通で、和田岬線の廃止を予想していたが、何と電化までして残存したため、完全にアテが外れた。山陽本線の一部のため単独の収支係数は公表されていないが、平日朝夕のみ17往復、土休日は4/2往復で、黒字のはずもない。三菱が通勤上必要ならタダで譲ってでも、三菱に運行させたらと思うが。世の中にはいろいろ不思議なことがある。

追憶の九州 一人旅 (1)

先週、九州へ旅してきました。
北九州へは最近も何度か行っているものの、南九州となると大学生以来、40数年ぶりの訪問となりました。
同好の士とともに行く旅も楽しいものですが、自分の思いのまま、気の向くままに行動できる一人旅もいいものです。
私も定年退職後一年が経過しましたが、記録・撮影だけではなく、より広い視野をもって旅に出たいと念願しています。
私として心掛けていることは、
①以前に訪れた撮影地・駅を再訪問して、その変貌振りを確認したい。
②今では大きな価値も持たないが、JR全線乗車への努力を継続したい。
③車両だけでなく、鉄道遺産、バス、近代建築など個人的な興味にも時間を割きたい。
④この年齢、この時期だからこそ利用できる特典・割引は最大限に享受する。
といった趣旨のもと、旅を続けたいと思っています。
今回の九州行きも、第一の目的は消えつつある車両の撮影だったのですが、多少なりとも上記の趣旨を受けたものでした。今回は、かつての撮影地・駅の再訪問について、いくつか拾ってみました。
 

 改良工事で消える折尾駅を再訪問
九州上陸後、まず訪れたのは、折尾でした。
ここは、筑豊への入口駅に当たり、高校生の時から、もう何度乗り降りしたことでしょう。しかし、永く親しんだ駅周辺も、大掛かりな連続立体化事業が進展し、駅舎の解体も間近いとの報を受けての訪問でした。

折尾駅は、明治24年2月に鹿児島本線、当時の九州鉄道が開業、同年の8月には筑豊本線、当時の筑豊興業鉄道が開業、それぞれ別地点に駅が設けらた。その後、立体交差の現在地に共同の駅が設けられ、これが日本で最初の立体交差駅となる。寄棟屋根、木造2階建て、コロニアル様式を持つ現在の駅は、大正5年竣工の二代目の駅舎。
連続立体化計画では、筑豊本線の線路を西側に付け替えて、鹿児島本線に寄り添うように高架化し、新しい駅舎を建設しようというもの。折尾駅も周辺の住宅・学校への下車客が増加し、今や北九州市では、小倉に次ぐ第2位の乗降客数となっている。それだけに、明治のままの駅ではさすがに手狭になってきた。

鹿児島本線と筑豊本線が斜めに立体交差する折尾駅は、迷路のように複雑だ。高架下の通路は、煉瓦造りになっている。少し前に、筑豊本線若松駅ホーム側に西口が設けられ、人の流れがさらに複雑になった。また、構外には、鹿児島本線黒崎方と筑豊本線中間方を結ぶ短絡線があり、ここを通る鹿児島本線~筑豊本線の直通列車は折尾が通過扱いになっていたが、ここにも折尾駅が設けられている。構内の各所には、特製の駅案内図が貼ってある。

駅前広場に進入するのは北九州市営バス。西鉄バスが独壇場の北九州にあって、若松、折尾周辺で辛うじて路線を持っている市営バスだ。長らく、クリーム地に紺帯という、いかにも路線バスらしい、塗色で親しんできた同バスだが、黄緑色をベースにした新色に変更中で、見たところ、半数は新色に変わっていた。ちょうど、北九州市の地場企業である、バス車体製造会社の西日本車体工業も廃業してしまった。折尾駅前を特徴付けていたバスの車体・塗色が消える日も近いようだ。

▲鹿児島本線の下をくぐって若松へ向かうキハ47。筑豊本線は、折尾以南は電化され、篠栗線とともに「福北ゆたか線」を名乗っているが、取り残された折尾~若松間は、愛称「若松線」として、DCが行くだけの完全な別線扱いとなり、列車も朝の一部を除き、折尾折り返しになっている。

駅前には、西鉄北九州線の終点として、路面電車が高架の駅舎に乗り入れていたが、平成12年11月に廃止されている。駅舎のあったビル全体も解体中であった。もうひとつ、駅前には、筑豊の歴史を伝える川がある。この川は堀川と言い、江戸時代に遠賀川の氾濫を抑えるために、灌漑・水運用に掘られた運河である。川沿いの道路にびっしり立ち並ぶ、原色看板の飲み屋。これも筑豊が殷賑を極めた時代の遺産でもある。再開発事業が進めば、この光景もどうなるのだろうか。

初めて、折尾に降りたのは、昭和42年の高校2年生のときだった。高架の鹿児島本線ホームから迷路のような通路を通って、地上の筑豊本線ホームに行くと、真正面にC55のスポーク動輪が飛び込んできた。その時の印象が余りにも大きくて、それ以降、何度も筑豊へ行かせる結果となった。雨のホームに到着したのは、逆行C556の牽く若松発飯塚行きの列車。こんな列車が堂々と本線上を走っていた。

対向する若松方面ホームから眺めたC55の牽く列車。ホームがずいぶん低い。この頃、筑豊本線の旅客列車は、DCもかなり入っていたものの、客車列車はすべてC55だった。周りの家並みを見ると、さすがに今昔の感がある。

新しい瀋陽鉄道博物館 発見!

前回瀋陽訪問時に2日間をかけて探しても見つからなかった満鉄車両が多数眠る鉄道博物館をようやく見つけることができました。
だいたいの所は、瀋陽鉄道局の列車乗務員に調べてもらっていましたが、広い町です。地元タクシー運転手も近くでは聞きながら向かいますと、林の中に忽然と立派な建物が見えました。感激です。
正門を入ると、真新しいロビーに多数の鉄路員がおられ、最近開館したと思えました。聞くと、2010年10月18日にオープンしたばかりとの事で、未公表なのにどこで知ったか質問されました。日本人の訪問は、あなたが初めてですよと言われまして、また感激です。
館内には、あじあ号はじめ満鉄で活躍したSL等がきれいに磨かれ展示されていました。
詳細については帰国後にまとめますのでお待ちください。
すぐに行かれる方は、パスポートが必要なのと、入場拒否もありますのでお含みください。

中国鉄路 第5番目の新幹線「滬杭城際鉄道」本日開業

経済発展に合わせて交通インフラを急速に進める中国鉄路では、本日10月26日に上海~杭州間160キロを最高速度350㌔、所要時間45分で結ぶ「滬杭城際鉄道」が開業しました。
現地の朝のニュースでは、上海虹橋駅から中継で大々的に報じられています。7月に開業した上海~南京間300キロの「滬寧城際鉄道」に続いて第5番目の中国版新幹線となります。

21日に伊丹空港から、新しくなった羽田国際空港ターミナルで乗り継ぎ北京に降り立ちました。約6ケ月ぶりに大地ですので、あちこち鉄道の旅を楽しみたいと、北京駅で切符窓口に並び第1候補のウルムチ行きの軟座寝台切符を取れましたが、復路切符が現地でないと取れません。国慶節も終わったので、比較的空いている時期なのですが、他の地区も同様で、結局北朝鮮国境の丹東にきています

これからは、10月8日に開業した瀋陽地铁の初乗車、再オープンしたと鉄路員が言う瀋陽鉄道博物館見学と、調兵山のSL撮影に行く予定です。 そして、南下して「滬杭城際鉄道」「滬寧城際鉄道」試乗のために上海を目指します。

今回も毎日が出会いとハップニングの連続です。また旅行記の詳細はご報告申し上げます。

1957年5月/1958年7月北陸鉄道その4


北陸名物 外見上立派なB-B凸型でもモーター2個のため 律儀にEBを名乗るEB301 ポールは1本 

藤本哲男氏から昭和40年代の写真でご支援を受け、老人は至って機嫌を好くし、いそいそと「その4」に向かって邁進することになる。流石に昭和40年ともなると、木製車、2軸車は姿を消しているようだが、昭和30年代―1950年代後半期では、まだまだ幅を利かしていた。今回は金石線を。


右側はEB301+モハ611+サハ552+サハ604 左は1601 プラットホームの伸延はラッシュ時連結両数増加を示す

半鋼2軸車のモハ611 名古屋鉄道に大量にあった車両と同型であろう ポールは1本  

先回浅野川線で紹介したサハ600型の604 台車を篤とご覧あれ 床下トラス棒の両端はセンターピン位置と一致しないと効果が薄い筈だが これはどう見ても内側である
これは「まとも」な電車 モハ1601 半鋼車だがトラス棒があるのが京福電気鉄道ホデハと違う 浅野川線からの転属で、のちサハ1601として小松線に
サハ521←金石鉄道14←省コハ2476←簸上鉄道ホハ10 小生が情熱を注ぎ込んだ旧簸上鉄道の客車最終車で台車は菱枠様軸バネ入り