「カレチ」という漫画

先日、ふと手にした講談社のモーニングという漫画の見ていましたら、「カレチ」という作品が掲載されていました。モーニング自体は、週刊ですが、月一回の連載の作品です。

文字通りカレチ(専務車掌)がモデルになった作品で、舞台は、昭和40年代後半の大阪車掌区。そこに勤務する新米カレチ荻野の奮闘と成長が描かれています。

DRFC OB諸兄の身近な国鉄が舞台です。

今まで連載をまとめたコミックも発売されており、今まで、コミックを買ったこと無かった私も購入してみました。因みに御代は、一冊533円(税別)です。

中身は、読んでのお楽しみですが、なかなかのものです。下記の内容が描かれています。

ご興味ある方は、是非、立ち読みではなく、購入してご覧ください。

続編を期待しています。

民國100年のはじめに台湾へ

354次普快 金崙駅

354次普快 金崙駅

 成人の日の連休に台湾へ行ってまいりました。

 夜、台北に着くと結構寒い。ダウンジャケットやコートを着ている人も結構います。着いた日に夜行の急行(CK63次)で台東へ向かいましたが、車内の寒いこと。足元の暖房がほしいと思いました。ところが南の高雄や台南まで行くと日中はかなり暖かく、彰化駅の温度計は25℃でした。

 12月22日にダイヤ改正があり、花蓮台東間の普快199次、200次の旧型客車は復興型の空調付客車に置き換えられました。時間と列車番号はそのままで区間車となっています。西部幹線の復興号もなくなっており、このタイプの客車は余剰となったものと考えられます。

  あと、1月2日に新線の沙崙線が開業しました。これは台南から終点の沙崙まで全て通勤電車が走ります。終点の沙崙は高鉄(台湾新幹線)台南駅に直結しています。

 

 旧型客車ですが、南廻線(台東-枋寮)の2往復はそのまま残っていました。普快352次、353次、354次、355次全て2両編成で、割合は日本製とインド製と半々でした。南廻線は新しい線なのでトンネルが多いのですが、太麻里-大武の間は太平洋を眼下にとても気持ちのよい線です。ただし私が乗った1月7日は曇りでしたが。数年前まで旧型客車を冷房化して冷気平快として運用されていた35SPK2300型客車が加禄駅の構内に大量に留置されていました。

 旧型客車といっても製造は1970年前後、たたずまいは10系客車のようです。もしもスハ44の10系客車タイプがあればこのようになっていただろうという形です。シートはビニールクロスの回転式で、阪急6300系のような棒の足置きがあるタイプもあります。

 

 沙崙線にも乗ってみましたが、8日までは無料の体験乗車ができました。何と太っ腹のことと思いました。そのまま高鉄台南から新幹線で高雄まで戻り、釣掛式EMU1200型の自強号(特急)に乗ります。次いで週末だけ運用されているEMU300で始発の斗南から自強1024次で台北まで向かいます。EMU300も釣掛式車両です。これらの電車は釣掛式といえども特急車なので、空調固定窓、絨毯敷、リクライニングシートで快適です。EMU300はイタリア製でEMU1200も台湾で更新したとはいえ元は南アフリカ製、他の形式では日立や日本車両、韓国製もありなかなか多彩です。

 今回、日本製の最新振子電車TEMU1000型タロコ号にも乗ることができました。こちらは、JR九州の885系をもとに作られたことは有名です。実際よく似ています。台湾鉄路管理局はTEMU1000型を136両増備し、2012年から就役させるとアナウンスしています。

 

普快客車35SPK32700の車内
普快客車35SPK32700の車内
開業間もない紗崙駅
開業間もない紗崙駅
EMU1200型 高雄駅
EMU1200型 高雄駅
EMU300型 斗南駅
EMU300型 斗南駅
EMU300型の車内
EMU300型の車内
タロコ号 TEMU1000型 台中駅
タロコ号 TEMU1000型 台中駅

 

 

半世紀前の淡路交通(2)

それでは2人が眼にした電車などを紹介することにしよう。宇山車庫で見せてもらった形式図や書類を2人は1冊の手帳に分担して記帳している。片方が記帳の時は、もう一人は外へ出て撮影をしていたようである。以下の説明は、一部について鉄道ピクトリアル161,162号を参考にした。

*キハニ1→モハニ2006:電動車化1948年6月、床下に電動機(TDK516A・85㏋×2)取付、内燃動車時代の推進軸により駆動する直接制御車とした。1955年8月、ブリル27GE1台車にすると共に電動機(WH37kw×4)は吊り掛け駆動とし、制御器はGE-PC形、制動方式もAMJ自動ブレーキとした。1957年5月、車体改造を行い上り(洲本側)方の運転台撤去、荷物室仕切撤去、貫通路の開設、定員80人(手荷物4.3頓)を乗客定員90(36)人、制御器統一でMK方式とした。更に1958年9月ドアエンジン取付をしている。

*キハニ6→モハニ2007:電動車化1948年9月、要領は2006号と同一。ところが1955年9月直角カルダン改造とあるが委細不明。1956年3月MK、AMJ化。1958年9月、客用扉閉鎖窓新設(荷扱い扉を客用に)及びドアエンジン、塗油器取付。定員は100(42))人となる。

*キハニ5→モハニ2008:電動車化1950年3月、おそらく南海から譲渡された電動機・50㏋×4と直接制御器を使用したものと思われる。その後1954年12月、当車は台車をブリル77E2からTR10に取り換え、運輸省の補助金を得て神鋼電気製の垂直カルダン方式を採用した。電動機は75㏋×4、制御器はSE・RPC‐101となった。1958年1月、貫通路設置、荷物室と客用扉撤去(荷物室扉を客用に)、ドアエンジン取付とある。定員100(40)人。尚、当車は代燃装置取外し後、トレーラーとして使用されていたらしいとの話もある。

*キハニ3→モハ2009:電動車化1956年3月、木造電動車1001を制御車とし、その電動機WH‐101H、37kw×2にした。この時の台車は日車・菱枠型である。形式図ではBL27GE1とあり、現車は日車製である。藤井信夫氏の記述によれば、後述の111号とMTc編成を組んだとあるが、訪問時は63形供出車1003号とMM編成であった。後に出力強化されたものと思われる。1958年8月車体改造と制御器及び制動装置の変更についても先の2007に倣っている。当時のメモに113→2009とあり、代燃装置を取り外した後、一時期トレーラーとして使用していたのかも知れない。また逆で2009→113として元内燃動車6両を、垂直カルダン編成3本へと目論んでいたのかも知れない。想像するのは勝手で、夢ある話だと思いませんか?

「内燃動車発達史」をお持ちでない方にほんの少し補足しておこう。キハニ1,2は川崎車両製で、全長

12,840粍。キハニ3、4は日本車両製で、全長13,120粍。キハニ5,6も日車だが、全長15,294㍉と長い。価格だが1~3は12,635円、4は16,215円、5は23,145円、6は23,845円となっていた。

*キハニ2→クハ111:制御車化1951年9月、1957年5月乗務員室、客室出入口扉一部変更及び貫通化改造とある。ハニ→ハとなったのであろう。1958年7月ドアエンジン取付。

*キハニ4→クハ112:制御車化1952年3月、1958年8月ドアエンジン化、1960年1月貫通扉設置及び運転室変更。この2両のクハは上り(洲本)方片運転台となった。これら内燃動車改造車は電動車を含め、乗務員扉を両側面に整備したりで窓配置や顔付の変わったものもある。

写真は6枚、連続して掲出する。垂直カルダンの図は三重交通志摩線5401号のものであるが、淡路交通も同一と思われる。これについて、「ぷるぷるさん」が解説してくれるとうれしい。(つづく)

モハ2006

    モハ2006

モハ2007

   モハ2007

モハ2008
モハ2008
モハ2009
モハ2009
クハ111
クハ111
クハ112
クハ112
垂直カルダン駆動の構造図
垂直カルダン駆動の構造図

残った18きっぷで福知山行き

準特急さん言われるところの”老春18きっぷ”、今回の冬期間は、従来より10日間短い30日間の通用となり、1月10日で終了しました。使われた皆さんも使い切るのに苦心されたことと思います。私も、気がつけば一片が残ってしまい、終了間際に、雪の天気予報に誘われて、福知山を訪れました。
すでに、アナウンスされているように、3月12日のダイヤ改正で、山陰本線、福知山線の特急ネットワークに大きな変更があります。要点は、列車体系の見直し、愛称名の変更・集約、新型車両287系の投入で、昨年から、機会を見つけては、ぶんしゅうさんらと撮影に出かけてはいますが、雪の中での撮影は、これが最後かも知れません。

最初に訪れたのは、上川口駅。福知山寄りに1キロほど戻った第一十二踏切周辺は、以前から何回か訪れたところで、やや築堤になったカーブがある。ここだと、京都発、大阪発の両方の特急が通り、効率もよく、自分としては気に入っている。降雪も止んで、、晴れてきた。背後の形のいい山も姿を見せた。「こうのとり」になる「北近畿」も国鉄色が雪によく映えている。通常は4両が基本編成だが、まだ正月の増結期間で、増結2両ユニットを組み込んだ6両編成だった。

福知山電車区の183系は104両あり、すべて485系からの直流化改造である。3つのグループに分かれ、JR西日本色で全室グリーンありの4両編成がA編成、国鉄色で半室グリーンつきの4両編成がB編成、JR西日本色でグリーンなしの3両編成がC編成で、これに増結用の2両ユニットが加わる。写真の「北近畿」は、C+A編成となる。新型車両287系の投入により、183系の約半数が置き換えられるという。愛称名も変更・集約化され、新大阪発着はすべて「こうのとり」に、京都発着も「きのさき」「はしだて」「まいづる」になり、「文殊」「たんば」「タンゴエクスプローラー」「タンゴディスカバリー」は消える。調子の悪かった北近畿タンゴ鉄道の車両は、JR線への乗り入れがなくなる。

普通列車も約1時間ヘッドでやってくる。すっかり223系が多くなったが、どっこい、113系、115系も健在だ。特異なスタイルでカーブを曲がってきたのは、クモハ1146123+クモハ1156510のR1編成、以前は115系2両編成も多くいたが、他区へ転属してしまい、福知山に残る115系はこの1編成のみ、切妻、2丁パンタという、本形式でしか見られないスタイルだ。

山陰本線、福知山線の特急ネットワークは「北近畿ビッグXネットワーク」と呼ばれ、福知山駅で、京都方、大阪方、城崎温泉方、天橋立方の4方向から来た特急が福知山駅の同一ホームで乗り換えができるように、ダイヤが組まれている。特急先頭車にもネットワークを意匠化した大きなステッカーも貼られている。時刻表上では、わずかの時間、福知山駅のホームに4本の特急が並ぶ時間もある。実際は編成に長短があったり、延着があったりで、うまく4本の顔が並ぶのは難しいが、3本なら日常的に見られる。

50年前の淡路交通(1)

1960年11月3日、須磨は山科から、乙訓は京都から東京発姫路行きの客車列車に乗り込んでいる。既に姫路まで湘南型が直通運転していたが、敢えて客車列車を選んだのは理由があった。それはこの場で披露するのは遠慮して別の機会としよう。兵庫で出迎えてくれたのはthurukame氏であった。昼食を済ませ、彼の案内で湊川トンネルを出たところから長田に向かい歩いている。途中、火葬場の裏へまわり川ベリに出たら丸山駅前後の崖淵であった。須磨の目的は元神中、気動車改造の制御車。乙訓は湘南タイプ、WN駆動、対向クロスの温泉電車であった。好天に恵まれ3人は目的を達成することが出来た。

それ以後暫く委細不明。気付いたら2人は中突堤の飯屋で、当時流行って握り鮨(1皿3貫:20円?)で安酒を煽っていた。淡路島への渡船待ちだったのである。

JTB時刻表では淡路島への夜行便の記載なく、夜行列車愛用族はどうしたものかと思案にくれていた。その頃、旦那が新聞輸送の便船があると教えてくれた。2人は卒業後の行き先も決まった事だからと、これに飛びついたのであった。便船は播但連絡汽船の1日一便、岩屋21:20発、神戸22:50着の折返し運用となるもので、100噸位の貨物船に便乗の形であった。24:00乗船開始。案内されたのはデッキ下、エンジンルームと隣合わせであった。板張りに茣蓙、騒音と振動。この時、例え魚の干物の匂いが染みついたオハ60系であっても、汽車の夜行列車の有難味をつくづく思い知ったのであった。乗客も我々2人を除くと行商人風のオッサン連中であった。

24:30出航、志筑2:30着、同3:00発、洲本3:30着。ここで2人は退船を命ぜられた。6時まで仮眠が出来ると聞いていたが、それは嘘だった。抗議する元気もなく。淡路交通の洲本駅の場所を聞いて夜道を歩き待合室に転がり込んだのだが、寒くて寝られない。仕方なく2人は駅周辺でジョギングをすることになった。有難い事に関西汽船6時発神戸行きの初発があり、この頃に夜明けとなり港周辺の店も開店となった。そこで飯屋で定食を賞味したのだが、何を食ったのか覚えはない。

電車の洲本初発は6:10、この電車は福良5:00発→洲本5:47着で、関西汽船神戸便に接続、神戸中突堤8:30着となっていた。当時の関西汽船洲本航路は神戸8:30初発、洲本に10:40着、洲本最終17:50発、神戸19:10着があり、日帰りも可能であった。

目覚めと共に本題に参ろう。淡路交通は淡路鉄道として軌間1067粍、1914年4月10日創立、開業日と区間は次の通りである。洲本口-市村:1922.11.26、市村-賀集:1923.11.22、洲本-洲本口(宇山):1925.05.01、賀集-福良1925.06.01、福良延長線(港湾整備により埋め立て地を延長)1938.04.01、これで全線23.4㎞の開通となった。開業と共に蒸気列車が走りだしたのだが、1号機は1920年9月ポーター製の13.38頓Cタンク、客車は播州鉄道から2軸車6両を購入して対応した。路線延長による車両増備は2,3号機で、同じくCタンク1922年5月コッぺル製、13.82頓と僅かに大きいが、軽便規格と言っても差し支えない。福良延長に合わせ国鉄から18.29頓のこれまたCタンク、1914年3月ポーター製の払い下げを受け4号機としている。これは長州鉄道開業期のもので、国に買収後は形式1045となり1047号となったものであった。客車もその後の路線延長に合わせ、揖斐川電気から2軸単車7両を購入し総計13両とした。蒸機の重量はいずれも運転整備時のもので、空車時重量は9.45頓、10.97頓、15.24頓の順、価格は同じく19,400円、23,175円、5,254円と記録されていた。 

さて1920年代後半から内燃動車が実用化され、非電化鉄道でも旅客輸送が見込める地方私鉄では採用される事例が増えて来た。詳しくは湯口会員の「内燃動車発達史」をご覧ください!としておけばこの場は凌げる。淡路鉄道は1931年にキハニ1~3、1933年キハニ4、1935年キハニ5、1937年キハニ6と6両の半鋼製ボギー車を揃えた。揃ったとたんに燃料統制となり、苦闘の時代を迎えるのであるが、

その話は前著上巻231頁に紹介されている。終戦と共に燃料問題が解決したわけでなく、比較的得られやすい電力を動力源とする鉄道電化が世の風潮となった。戦時統合で鉄道から交通に改名したのは1943年7月、1946年11月電化工事の許可を得、1948年2月11日より電車運転となった。この時導入されたのが南海電鉄の木造電動車で、いずれも63形割当供出車で、淡路では1001~1005となった。それが先日、見事な姿で紹介された訳である。本稿では先輩である内燃動車の電化後の姿を改造順に紹介することにする。それらの車両番号は電動車2006~2009、制御車111、112号となっていた。

 

工房便り D50の制作(4)

 皆さん、新年おめでとうございます。私、時折コケながらもしぶとく生きております。本年もどうぞ宜しくお願いします。
  ぐずぐずしている内に新年となり、今更D50でもないのですが主台枠後部の工作 を残していましたので、続きをご覧頂きます。 主台枠後部はご覧のようなユニットを作り、ダイキャスト製の台枠にねじ止めしました。既製品は製造コストや曲線通過性のために主台枠後部は従台車と一体に作ってあることが多いのですが、今回は実物のように主台枠後部は固定し、従台車のみ首を振る構造です。

従台車の軸箱はドロップ製のものを加工。担いバネは愚直に帯板を重ねて作ったものです。我ながら呆れます。

  

台枠にねじ止めしたところ。

従台車と、ついでにモーターも取り付けてみました。コアレスモーター初採用です。

 

以上で主な工作が終わり、細部の仕上げを終えた姿をご紹介します。それにしてもずいぶん時間がかかっています。そのわけは一緒に写っている機関車。そう、D51標準型、これも同時併行していたからです。

細部の仕上げを終え、上回りを乗せたところ。背後にいるのはD51。

D51と一緒に、洗いを終え塗装直前の姿。真鍮生地が美しい。

D51と一緒に、洗いを終え塗装直前の姿。真鍮生地が美しい。

D50のテンダーは12-17。本来の20立方メートル形をC51��と交換したり、最初から12-17で新造された機が多かったとか。
D50のテンダーは12-17。本来の20立方メートル形をC51等と交換したり、最初から12-17で新造された機が多かったとか。
さて、いよいよ私の最も苦手とする塗装作業です。今回小型の電動コンプレッサーと排気扇付きの塗装ブースを導入しました。従来はエアー缶を圧力源として霧吹き式のスプレーガンを主体に、空気使用量の多いエアブラシは修正用に使っていましたが、今回からはエアブラシを全面的に使用することにしました。
分解の後、ナンバープレートとスライドバーをマスキングして塗装を始めます。メタルプライマーを数回吹いた後に、数時間の乾燥時間をとってから黒色のラッカーを吹いて行きます。最初の2~3回はフラットベースを混ぜないで、仕上げの数回はフラットベースを混ぜて、半艶消し塗装としました。
というわけで今年の年賀状に使ったショットです。

というわけで今年の年賀状に使ったショットです。

このあと、作用管などの磨き出しor銅色塗装とか、最後に石炭の積み込みを行ってやっと完成。ウエザリングは(自信がないから)しないつもりです。
今回でD50の巻は終了とし、次回は一緒に写っていたD51をご紹介しましょう。

京沪高速铁路(北京~上海) 今年6月開業

遅くなりましたが、皆様、明けましておめでとうございます。
本日の新聞にも掲載されておりますが、中国鉄路今年の目玉、首都北京と経済発展都市№1の上海を結ぶ「京沪高速铁路」全長1318キロの開業が 、昨日開催された全国鉄路会議の席上において、劉鉄道大臣より6月とすると正式発表が行われました。今までは、10月1日の国慶節開業が有力と言われていましたが、3ケ月以上の前倒し開業となります。1番乗りをしたいものです。

現在、北京(北京南)~上海間は、在来線を最短9時間59分(昼間)で走行していますが、「京沪高速铁路」では次世代高速車両のCRH380A、380Bを使用して、最高速度380km/h、所要時間約4時間、平均速度は何と330km/hで結びます。過去10年間に開業した中国の高速鉄路線は、全長8,358キロと世界最長で、2015年には16,000キロにもなります。そして中国鉄路の全営業キロは約12万キロと全盛期を迎えます。

昨年12月28日、海南島に東部幹線が開通し、島内初めての高速電車CRH1が最高速度200km/h走行を開始して海口~三亜間は90分(以前は最短3時間13分)で結ばれました。12月30日にはカシュガル(喀什)とホータン(和田)間488.27キロも延伸開通(当面は貨物扱いのみ)しました。今年1月11日には、 太中銀鉄路が開業し、全国ダイヤ改定が実施されます。中国鉄路の全線乗車を目指しておりますが、相次ぐ開業に追いつけません。

太中銀鉄路は、北京からウルムチ方面に向かう短絡線で、北京西からウルムチ行きのT69の所要時間は、約40時間から約8時間も短縮されます。2月末頃に中国の辺境に残るSLを訊ねてウルムチ方面に行く予定ですが、これでかなり行きやすくなりました。

早く身体を健康体に戻して、今年も早々に出かける予定です。それにしても行く所が増えました。

模型班、新春ミーティング

祇園のデゴイチ(*1)に有志4名が集まり、模型事始を実施しました。

 

私は「きたぐに」を現行色・旧色の2編成持参し、向日町付近で本務と回送が快速線と緩行線を並んで走る風景の再現などをして楽しみました。

 

*1 http://www.club-d51.com/

初撮りは、住吉詣で

新年のご祝詞を申し上げます。

さて、正月も3日になりますと、足は、自然と阪堺電車の住吉鳥居前へと向かいます。正月の臨時ダイヤで大増発された電車と、初詣客を絡めて撮るのです。去年と同じ撮り始めとなりました。

かつては乙訓老人が、住吉詣でを正月の日課にされていたことは有名な話です。今は、体力・気力の衰えから自重されているようですが、現地へ行けば、老人の気持ちはよく理解できます。

とにかく次から次と電車がやってきて、路面電車ファンでなくても、圧倒されます。初詣客もついつい写しています。

電車はどれも満員、普段は車ばかりに乗っている家族連れや若者も、初詣ばかりは、路面電車に乗り込みます。路面電車がこれほどまぶしく、頼もしく思えるのも、正月の阪堺電車ならではです。

定期的に一般運用に就く電車としては日本最古と言われるモ161形も大活躍。リバイバルカラー、雲形カラーなど、さまざまな塗色も楽しめる。

住吉交差点に立つと、四方から次つぎに電車が来る。豪快なクロッシング音を響かせて、昭和初期生まれの古豪が行き交う。今年は阪堺百周年の年でもある。

車内に注目のポスターが。今月15日から、阪堺は全線200円に値下げされる。現在は、大阪市内、堺市内のみ乗車が200円、両市をまたがると(大和川を越えると)290円だが、特に堺市内での乗客減が著しく、堺市の支援を受けて、値下げされることになった。昨年12月には、通勤定期も値下げされており、このデフレ化現象、乗客増につながるのか注目である。

新年あけましておめでとうございます。

新年明けましておめでとうございます。

昨日、今年の鉄はじめとして、成田臨を撮影してまいりました。

山陰は大雪とのことですが、ここ関東地方は穏やかな三が日です。

2011-1-2 9835M 成田線 安食~下総松崎

ご承知の方も多いと思いますが、首都圏各地より成田山新勝寺を目指し、多くの臨時列車が設定されます。私が毎年通っている自宅近くの成田線我孫子口は、普段E231系しか走っていませんが、この時期は、バラエティが豊富になります。とはいっても、以前のあったような、客車列車やJR東海からの乗り入れなどは無くなり、183系・189系・485系ばかりですが・・・

ここでは、まだまだ、国鉄色が元気に活躍しています。1月下旬まで楽しめます。

国鉄色といえば、正月三が日設定されているホリディ快速鎌倉が115系で運転されているので、今朝は、早起きして東川口まで出かけてきました。

2011-1-3  9524M  武蔵野線 東川口

 

昨年2月のダイヤ改正で、快速むさしのから115系が引退しましたので、もう武蔵野線を行く115系の姿が見られないかと思っていましたが、まだ健在でした。

このホリディ快速鎌倉は、以前は、大宮始発でしたが、この正月三が日設定分は、大宮ではなく南越谷始発でした。逆光ですが、従来走っていなかった区間で、撮影しました。

ゴールデンウィークや秋の三連休にも運転されていますが、今度のゴールデンウィークにも115系の姿を見たいものです。

「びわ湖の銀嶺へ」/昭和22年12月26日の新聞広告

昭和4年12月、琵琶湖汽船の前身の太湖汽船と京阪電鉄が共同でマキノスキー場を開設し、昭和6年、浜大津から海津大崎まで夜行スキー船の運航を開始した。昭和9年、60形「びわこ号」を新製し、夜行スキー船に連絡する天満橋~浜大津間の直通電車を運転したことは余りにも有名である。戦時体制の強化により、世の中はスキーどころではなくなり、夜行スキー船の運航は中止されたが、戦後間もない昭和23年1月に早くも復活したことが判明した。

 大津市内にお住いで、京阪バスを中心に大津地区のバス路線の歴史、変遷を調査、研究されておられる知人の昨年12月26日付ブログに、表題の新聞広告が掲載されていた。昭和22年と言えば、戦後の混乱が未だ続き、板張り窓や座席半減車が走っていた時代であるが、4月1日のダイヤ改正で京阪本線の急行がスピードアップの上、15分間隔になる等、着々と復興しつつある時期でもあった。我が国の高度成長期の原動力となった「団塊の世代」(私も含む)の人達が誕生した時期でもあった。この時期に早くもスキー場の新聞広告が存在したということは、世の中が多少とも落着きを取り戻し、スキーを楽しむことが出来る人がそれなりに存在したということであろう。ご本人の承諾を得てここに紹介させていただいた。

「スキー予約券前売開始」の後は、宿泊券1泊55円朝夕食事付、梅田駅、天満橋駅、三條大橋駅及び現地で10日前発売。京阪バス四條大宮より浜大津まで特別運転スキー船連絡。
「スキー船就航」の後は、1月3日より3月7日まで毎土曜日及び2月10日夜12時浜大津出港後朝7時半到着。定期船奇数日午後1時浜大津発。
  スキー船連絡券(往復)三條より83円、大阪より111円、神戸より127円、浜大津より海津大崎まで38円、往復75円、小人半額
 江若スキー列車 毎日発片道55円、定期船にも通用
と書かれている。

広告主は京阪電鉄分離前のため「京阪神急行」である。阪急沿線の人は四条大宮まで来て浜大津まで特別運転の京阪バスで行き、スキー船に乗換えていたことが判る。江若鉄道もスキー列車を走らせており、乗車券は定期船にも通用となっているが、この時期は未だ京阪の系列ではないため、プール制であったと思われる。四条大宮~浜大津間のバスはディーゼルエンジン車であったのだろうか、江若のスキー列車はC11「ひら号」の引く客車であったのだろうか等想像するだけでも楽しくなる。
また、比良スキー場の場所は「八雲ガ原」ではないと思うが、何処にあったのかも気になるところである。
 ブログの名称は「京阪バス現在完了形」(http://contrapunctus.blog103.fc2.com/)で大津地区のバス路線の歴史を詳細に調査されておられるので、是非ご覧いただきたい。

【参考】JR東日本の数少ないスキー列車「ゲレンデ蔵王号」
583系6連で1月、2月の金曜日の夜、新宿から東北本線、仙山線経由で山形まで片道のみ運転されている。(今シーズンの運転状況は未確認)上りは回送で、仙台を朝出発し一旦東大宮に入るので「ヒガハス」等でも撮影可能である。

賀正・総会・淡路

クローバー会の皆さん、新年明けましておめでとうございます。京都は今のところ穏やかな日照りの中、老人宅の窓から見える新京阪線「キュウミ」ちゃんが満載の初詣の人を運んでいます。今年も仲良く「デ元青」を盛りたてて行きましょう。

春、4月23日(土)に第3回クローバー会総会を、京都駅前・京都タワーホテルで開催します。今夏は役員改選、会則改訂、その他重要案件提案があります。詳細は追ってお知らせしますが、とりあえずカレンダーの4/23にはO印をお願いします。宿泊希望者についてはホテルと相談することにしております。

淡路交通の紹介ですが、1960年11月4日訪問のまとめを当時ガリ版3粍方眼で作ったことを思い出し、すぐ出来ると思い「玉手箱」に潜り込んだのは良いとして、12/30までに見つけることが出来ずがっかりしていました。ところが大晦前に時の手帳が見つかりヤレヤレとなりました。これよりまとめ直しの上、紹介いたします。

以上、ごあいさつ、お知らせ、お詫びで年頭の辞といたします。

2010年 秋の中国一人旅 Part16 帰国

前回投稿してから随分と経ってしまいました。1年間動き回ったので全身点検に行きましたら、即日入庫を命じられ軟禁状態となりました。加えて、車庫内感染で約40度の高熱を発症し絶対安静です。今年は最後までいろいろと予期せぬ遭遇にあいます。とうとう開放は、年末となってしまいました。勿論こんな半月以上におよぶ入庫は初めての経験です。今日は朝から雪の降る1日でした。総本家青信号特派員のようにカメラを持って出かけたいところですが、自由の身となってもこれからの予定を考慮すると、年末年始だけでもおとなしくせざるを得なく残念です。

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36年前 大晦日の京急羽田空港駅


36年前の京急羽田空港駅/飛行機に乗るためには、ここから更にバスに乗り継がなければならなかった。

一昔前の写真を整理していたところ、昭和50年の大晦日に京急羽田空港駅を訪れていた。ちなみに特派員さんも一緒であった。勿論地上駅で現在の天空橋駅の海老取川を隔てた手前にあり、飛行機に乗るには羽田空港行の路線バス(狭隘区間を通過するためマイクロバス)に乗り継ぐ必要があった。蒲田~羽田空港間には路線バスが頻繁に運行されていたため、このルートを利用する人は極めて少なかった。

 
羽田空港駅に進入するデハ257他3連

 
停車中のデハ256他3連

 
デハ276/行先板に注目、現在は「京急蒲田」であるが、当時は「京浜蒲田」であった。

当日の行動を振返ると、京都駅朝1番の6時19分発「ひかり302号」で出発した。名古屋で「こだま204号」に乗換え三島で下車して、東洋レーヨン三島工場の片ボギーのDLと伊豆箱根鉄道の電車を撮影。9時9分発の三島始発東京行に乗り湯河原で下車して、ホームで直ぐ後から来る「みずほ」を撮影。その後、駅の外に出て熱海よりに戻り、上下線が広く空いているところの中央から撮影した。今頃こんなところで撮影していたら、間違いなく逮捕されるであろう。小田原で大雄山線の電車を撮影後、川崎で京浜東北線に乗換え、蒲田で下車。駅の大森寄りで撮影後、京浜蒲田駅まで歩き、羽田空港駅まで乗車した。その後、上野駅で夜行列車を撮影し、八甲田55号で盛岡に行った。
湯河原に行くのにわざわざ三島で下車したのは、東レの片ボギーDLを撮影するためであったと思われる。私にとっては、湯河原でのブルトレはついで撮影で、本命は157系「あまぎ」であった。京浜急行の羽田空港駅はデハ230形を撮影が目的であった。

 


東レ三島工場の片ボギーDL

 
伊豆箱根鉄道モハ62/元モハ31024の復旧車

 
伊豆箱根鉄道クハ76/元西武クハ1450、更にその前があり、元国鉄モハ41001の復旧車

 
特急みずほ

 
特急さくら

 
特急あまぎ


急行東海

 
クモユニ74併結の普通電車

 
EF6098の引く貨物列車

 
113系普通電車

 
京浜東北線103系

 
クモニ13007

 
EF574の引く八甲田52号

撮り納めは、雪の八瀬で

今年最後の日、京都は朝から雪が降り続き、数年ぶりの積雪となりました。
雪を見ると、居ても立ってもいられないのは、この歳になっても変わりません。はやる心を抑えながら、午後から叡山電鉄の八瀬比叡山口まで出かけました。約20センチ、しばらく経験したことがないような積雪です。
八瀬比叡山口駅では、四季を通じて狙ってきたシーンがあります。
ホームから電車の入構を見ると、カーブした大屋根の向こうに、四季の光景が額絵のように広がます。桜、新緑、紅葉と、四季のテーマをとらえることができたものの、雪だけは、何回行っても空振りに終わっていましたが、今日ようやく、それが叶いました。

大屋根の向こうは白銀の世界だった。こんな時は、原色のエンジ・クリームの車両が似合うが、今やラッシュ用で、車庫に休んでいた。

の一年、まぁ、よく出掛けて写しました。好き勝手に行けるのも、心身ともに健康であるからこそ、この環境に感謝しながら、来たる年の飛躍を誓うのでした。
皆さま、よき年をお迎えください。

鉄道ファン昭和41年6月号

淡路交通の記事が出ていると言うことで川畑君に見せてもらったことはすでに書いたが、同号にはさらに驚くべき記事が出ていたのだ!

目次を見ると隔世の感だ。総武線複々線化工事とか、大分交通国東線廃止とか、クモユニ82登場とか、走れ!C62などの記事の中に「実現近い神戸市の高架市電」という荒唐無稽な記事が出ていた。これだけでも驚きだが記事の出元を見てさらに驚いた。なんと「同志社大学鉄道同好会」とあるではないか!!

記事を読むと建設進む阪神高速神戸線と同じような高架線にして二両連結の市電を走らせよう、でも国鉄線をオーバークロスするのが難しい、などと言っている。なにやらこうしたいという希望記事かと思ったが、この構想に対して市民からは騒音が心配との投書があるとか、累積赤字が10年で返済されると交通局が言っていると書いてあるので本当にあった話であろう。41年度予算で2000万円がついたとあるので与太記事ではないらしい。こんな高架市電は実現していないからよかったが、もしできていたらあの震災で大被害が起きていただろうと推察できる。

ところでこの記事は誰が書いたのか、41年と言えば3年生だったので会長職を拝命していたときである。なのに全く記憶にない。神戸だから阪急会かサロン・ド・阪神が怪しい。村尾、津村、藤田、早川などの諸君が想像できるがわからない。川畑君の手帳に書いてあればわかるのだが・・・。当事者からの自供を待つ。

淡路鉄道→淡路交通

佐渡ヶ島には長岡鉄道が免許を有しており(両津-相川町、762mm、1926年5月1日免許)、1067mm線に我国最初のディーゼルカーを注文して舞い上がった長岡鉄道は、納品(1928年12月)もされていない1928年2月23日、「佐渡線起業目論見書記載事項中動力蒸気ヲ重油ニ変更」を申請し、4月9日認可。しかしこの線は結局着手に至らず失効した。

従って我国で旅客貨物営業の「島の鉄道」は、沖縄を別にすれば淡路島が唯一になる。淡路鉄道は1912年10月25日免許、開業は宇山-市村1922年11月26日、市村-賀集1923年11月22日、洲本-宇山1925年5月1日、賀集-福良1925年6月1日で、全線23.1km。勿論動力蒸気、軌間1067mmである。

機関車はコッペルC、13tが3両、鉄道省1047(ポーターC、18t、形式1045←長州鉄道)、客車は播州、揖斐鉄道のお古で2軸車ばかり。元をただせば南海やら山陽やら。孤立した鉄道だから、連結器が螺旋連環のままで自連換装も必要なかった。明治村の蒸気動車(現在JR東海が自前博物館展示のため引き揚げて整備中)が装着していた螺旋連環連結器は、展示復元に当って名古屋鉄道が淡路交通から貰い受けたものである。

ガソリンカーは1931年以降。川崎と日車のボギー車が計6両いた。敗戦後燃料入手難と高騰に困窮し、600V電化したのが1948年2月11日である。ガソリンカーの機関に換えモーターを装着し、プロペラ軸で駆動したのが知られている。他に南海から古色蒼然たる電車の供出提供を受けており、米手作市氏紹介の丸妻5枚窓電車がこれである。

お後は乙訓の爺様の受け持ちじゃろ。ハイさいなら。よいお年を。

知らなかった”淡路交通”

関さんのシリーズもかなりマニアックになってきて、浅学非才の私にはついて行けなくなりました。

お恥ずかしい限りですが、そもそも淡路島に電車が走っていたことを知ったのは大学を卒業してからはるか後のことでした。

京都へ淡路交通という観光バスが走っていたのをよく見かけましたが、あれが私鉄のバスだったとは気がつかなかったのです。

今回の記事はぜひとも「その筋」の方に詳しく説明をお願いしなければなりません。当該車両だけではなく、鉄道の生い立ちまで教えて下さい。

お願いします!地元“須磨の大人”、脳内の血管を複線電化したい“乙訓の長老”、永遠の電車小僧・藤本先生!

 

【レポート】関東地区の納めの会

暮れも押し詰まって来ました@ロギング太郎です。
 
昨日、関西から佐竹様ご夫妻が東京へ来られたので、有志で迎撃しました。
称して「今年、納めの会」です。
(宴会後の記念撮影)

 

自己紹介として、自分の「鉄との馴れ初め」を語らいあいました。
なお右から3人目は一見、F氏風の頭部(!)ですが同窓ではなく鉄道研究者の
方です。例によって肖像権の尊重を図っておりますが、小生宛に個人メール
を頂ければ厳重包装のうえ密送します。 (^^;)

来年も新年会(1月中旬)をはじめとし、数回の「例会」を開催予定です。
もし東京へ来られる方が居らっしゃいましたら、事前にご連絡ください。
「臨時例会」として歓迎したいと思います。
もちろん「年末調整で仰山戻ったから、今夜は儂に任せろ」てな太っ腹
ご提案も大歓迎でございます。 \(^o^)/