雪景色(2)矢立峠・青森県側

下の2枚は、峠を越え、青森県側で大晦日に撮影した補機付きです。
 1966
年元日、矢立温泉、鉄橋を行く列車が見える寒い部屋で起床。朝食もそこそこに出かけました。雪は止んで少し青空が見えたが、すぐにまた雪空になって来ました。
  国道を通り津軽湯ノ沢方面に向け峠を下ります。この日もダイアは雪で乱れていました。トンネルを出たところのカーブが今日の撮影の中心地です。
  DF50曳く急行『第1津軽』が峠を下りました、補機は峠の登り列車にも付きません。『出世列車』と呼ばれた「津軽」、上下・第12の計4本があります。間違っても『出征列車』と呼ばないでください。後部から順に、マニ、オロネ、オロ、オハネ2両、その前はナハ10系ですか。補機が付かないのは相当軽量化された編成なのでしょうか。客車に詳しい会員諸氏へ、編成に間違いはないでしょうか。

普通列車も補機付で登って来ます。せっかくの補機をと意気込むが巻き上がる粉雪と蒸気が邪魔になります。

上り急行日本海が登ってきました。オユ、オロ61、スハネ30などが見えます。秋田で1両を、新潟からはさらに2両を増結、編成方向を逆にして大阪に向かいます。


  雪国で、見て楽しいのは、天気のよい日の墨絵のような山々、雪によく映える蒸気機関車。逆に辛いのは寒さ。特に風には弱かった。粉雪や弱い吹雪程度なら大丈夫でも、強い風と吹雪には参ることが多かった。現代のように手軽で便利な使い捨てカイロなどがない時代で、「桐灰懐炉」なるものを携帯していました。ハッキン懐炉もまだない時代です。『フーフー』しながら灰の先に上手に火を付け、上下に針のついた細長い空間に収め、金属製で外側に繊維粉が糊着(フロッキー加工と呼ぶ)された金物の容器のふたを閉めて使う代物でした。肌に近づければとても熱いし、服の上からではなかなか温まらない代物、それでも寒さを少しばかり凌いだのでありました。  それに吹雪では、遠景の見通しが利かず、写真も良く撮れません。

峠を下り、140分遅れの客車で碇ヶ関に着きました。碇ヶ関の構内風景です。
矢立峠も二度訪れたのですが、翌年は吹雪が激しくて結局、陣場駅近くで撮影するのみでありました。 
 次回は花輪線です。偶然にも当会会員とばったり出くわすことがありました。ローズ・Yさんと現在の大阪通信員さんです。お楽しみに。

吉都線と霧島連山

連日 霧島連山の新燃岳の噴火が報じられています。学生時代の最後 昭和49年3月に九州を巡り 吉都線のC55, 山野線のC56などとの出会いがなつかしく思い出されます。当時のメモを紛失し、撮影場所や列車名が判りませんが、高崎新田、日向前田、高原あたりであったと思います。そのときは霧島連山としか認識がなく、どの頂きが何岳なのか判然としませんが、とにかく天候に恵まれて 山が美しかったのが印象的でした。現在は宮崎自動車道がこのあたりを走っているようで、多分景色は大きく変わっているのでしょう。

 キハ17、キハ20

 D51

 C55、オハユニ61

 門デフD51

 高原にて 

 D51

平成16年2月に広島から鹿児島まで 日本エアコミューター(JAC)で飛んだことがあります。36人乗りのプロペラ機で 低空を飛んでゆくため 地上の様子が手に取るように見えて 1時間の飛行中 地図と見比べながらずっと外を見ていました。鹿児島に着く手前で霧島連山の上を飛びます。それぞれの山頂が 上空から見るとまさに火口であることがよくわかり 感動しました。この写真も何岳かわからないのですが 新燃岳ではないようです。広島西飛行場も今は営業終了し、コミューター便もなくなってしまって寂しいかぎりです。 

特派員さんの「ユースの旅シリーズ」に刺激されて投稿しました。 

半世紀前の淡路交通(5)


洲本駅で発車待ちのモハ二2006+クハ111

乙訓の長老より3回に亘り淡路交通の車両について詳細かつ解かり易く解説いただいた。鋼体化改造のように大きく手を加えた場合、改造費は資本的支出とみなされ、現在簿価に加算された再評価価格で減価償却が行われることが判る。また、(4)の準特急様が書き込みされた、昭和40年度新入生歓迎旅行のコース、見学先等、企画された方のセンスの良さは、さすがDRFCであると思った。長老の解説を少しだけ補足させていただきたいと思う。

モハ二1003
、廃線時まで在籍し、半鋼製に改造されていたが南海のタマゴ型の原形をよく残していた。(40-6-6 宇山)

 

モハ609+モハ610
阪神から来たモハ609と610は淡路交通の付番方式ではモハ1012、1013となるべきところ、車体に609、610の切抜番号がしっかり貼り付けられていたので、それを活かしたとのことであった。長老が撮影されたパンタ側の写真は非常に珍しい。(40-6-6 賀集)

 

モニ500
長老の解説の通り元国鉄の配給車モヤ4004で、事業用車が譲渡された例は非常に珍しい。長老が撮影された時と比較すると台車が振替えられているが、モハ二1005が鋼体化された時に振替えられたものと思われる。(40-6-6 宇山)

 

モハ1010+モハ1011
昭和41年10月1日廃止後、当時輸送力増強を進めていた水間鉄道に譲渡され、同社のモハ362、363として再起した。使用期間は短く、昭和46年11月、南海電鉄が1500Ⅴ昇圧により不要となった1200形導入による車種統一で廃車となった。

 

 


上/淡路交通時代(40-6-6 宇山) 中/貝塚駅に進入するモハ362+モハ363、下/モハ363
 (45-5-24)

鉄道廃止後はバス専業となり、昭和60年6月8日の大鳴門橋開通により淡路~徳島間、平成10年4月5日の明石海峡大橋開通により翌日の6日より淡路~大阪・神戸間の高速バスの運行を開始した。島内のローカルバスはマイカーの増加や過疎化により乗客の減少が続いているが、淡路~阪神間の高速バスは好調のようで株主配当を行っている。他社と比較すると車両の代替が早く6~10年で実施している。バスの寿命は通常15年前後であるが、6~8年目に再生工事(鉄道車両の更新修繕に相当)を行い、更に4~5年後に再々生工事が行われるが、淡路交通の場合は再生工事を行わずに廃車している。車齢が新しいため他社で再起することが多く、関東では東野交通、松本電鉄、ホテルグリーンプラザ上越の送迎車で見られた。(これらは偶然見たもので、探せば他にもあるかも知れない)

東野交通
平成6年に購入した「栃木22う733」と「栃木22う736」の2両が在籍した。2両共60年式P-LV314Mで、前車は宇都宮営業所西原車庫の所属で宇都宮~真岡間等で、後車は真岡営業所益子車庫所属で宇都宮~益子間等で使用されていた。宇都宮市内で初めて見た時「なんで淡路島のバスがここで走ってるんやろ」と不思議に思った。(H6-9-11 西原車庫)

 

松本電鉄
平成6年に老朽車の代替として60年式P-LV314M、平成9年に2年式U-LV324Mを購入し、松本地区で使用されていた。(H9-8-10 松本駅前)

 
60年式P-LV314M

 
2年式U-LV324M

グリーンプラザ上越
上越国際スキー場の中にあるリゾートホテルで、61年式P-LV314Mが1両在籍し、越後湯沢駅~ホテル間の送迎バスとして使用されていた。(H10-3-15 越後湯沢駅前)

ユースで巡った鉄道旅 -4-

豪雪の会津柳津

もうひとつ、雪にまつわる一件を。
雪を求めてよく行ったのが只見線でした。利用したのが会津柳津駅近くの春江荘というユースホステル。会津柳津には温泉があり、円蔵寺の門前町でもあり、只見川に沿って温泉宿がいくつか建っています。ユースもそのひとつで、副業としてユースも営業していました。この形態は全国でよく見られ、旅館の一室をユースに流用しているだけに、場合によっては結構な設備です。このユースはいつ行っても宿泊客はほとんどなく、一人で広い和室を独占し、温泉にも入って、只見線の旅を満喫したものです。この春江荘ユースホステル、その後、湖畔荘という名に改名されたものの、今は廃業したのか、旅館のリストにも見当たりませんでした。
只見線は昭和46年の夏に行って以来、お気に入りの路線となり、47年からは、毎年雪を求めて只見線を訪れ、ユースにも連泊して、只見線の良さをしみじみ味わったものでした。ところが暖冬続きで、真冬の2月にも全く雪がなく、地肌が見えているという年もあり、只見線らしい大雪が見られたのは、昭和49年に行った時だけ、この時はもう社会人で、会社を終えた金曜日の晩に、新幹線、上野発夜行で只見線を目指しますが、途中の雪で大幅に遅れ、只見線に着いたのは、昼前になっていました。

只見線は、当時、貨物のみがC11牽引で残っていたが、なんと、その貨物はすべて運休だった。勢い、DC列車や駅でのスナップを撮るしかないが、逆にそれが、只見線の良さをしみじみ感じさせてくれた。40年足らず前の光景だが、福島県の山奥は、いかにも東北という、木村伊兵衛が撮るような光景が広がっていた。

駅長に見送られて、雪を載せたDC列車が会津柳津を出発する。後部はキハ23だが、当時、只見線の運行を担当する会津若松運転区には、キハ16、キハ18、キハ51、キハユニ18と言った希少な車種があり、気動車としても興味深い線区だった。

会津柳津駅は、二面三線の典型的な国鉄式の駅。気象板を掲出した光景も思い出のシーンになってしまった。現在、駅は交換設備も撤去されて棒線化され、無人駅になっているという。駅前にはC11244が静態保存されている。

2日間、只見線に居て、結局蒸機を写せたのは、この排雪列車だけだった。駅でラッセルが通ると聞き、会津宮下近くの鉄橋で待つ。突然、列車がやって来て、鉄橋から、豪快に雪が落として行った。その後、日中線へ向かったものの、その日、日中線は全列車運休(と言っても日中は走らない、朝夕の数往復のみだが)。駅で見たテレビは、東北地方11年ぶりの大雪と報じていた。帰る時、喜多方から上野行き急行に乗ろうとしたところ、部分運休を知らされ、会津若松まで初めてタクシーの代行輸送を経験し、這う這うの体で帰ってきた。

ユースで巡った鉄道旅 -3-

厳寒の北湯沢ユース

厳しい寒さが続いています。Tsurukameさんに習って寒さに関する一件を。

冬の北海道へも、学生時代、ユースを利用して何回か訪れたことがあります。ただ、冬と言っても、授業・試験はちゃんと済ませてからになりますから、すべて3月の訪問でした。1・2月と比べると、多少はマシになっていますが、内地から来た人間には、まだ寒さがこたえます。

昭和46年3月、本掲示板でも活動されている西村さんや、津田さんと一緒に渡道し、その日は北湯沢ユースホステルに泊まりました。北湯沢と言っても、ピンと来る人は少なくなったかも知れません。昭和61年に廃止になった胆振線にあった駅です。伊達紋別から乗車時間約50分、倶知安から約1時間40分程度の距離にあり、駅のすぐ近くに北湯沢ユースホステルがありました。胆振線が廃止されてからは、ほとんど顧られることもなくなりました。

内陸部にあって、とにかく寒かったことを覚えています。朝、ユースの寒暖計を見ると、-15℃を指していました。厳冬期に-30℃以下まで下がる北海道としては、屁のような気温でしょうが、私が実際に寒暖計で確認できた気温としては最低気温でした。

寒かったことだけは覚えていても、ユースの印象は全く残っていません。ネットで調べてみると、ごく最近まで営業を続けていたことが分かりましたが、今は休業となっていました。

ここでの目的は、倶知安区の二つ目玉の9600を撮ることだった。朝飯前にちょうど貨物列車がやって来るので、起床後すぐに、みんなで駅へ向かった。新雪も多く、遠方へ歩く気力もなく、駅近くで日和るしかなかった。寒気を震わせるようにして、二つ目玉を輝かせた9600が通り過ぎて行った。

北湯沢駅の外観。当時運転されていた急行の停車駅でもあり、交換設備もあって、ローカル線の駅としては、そこそこ賑わいのあった駅である。上記の9600貨物を撮ったあと、ユースへ戻って朝食をとり、キハ22単行で、C62重連を撮るべく倶知安へ向かった。

倶知安へ向かう途中、御園駅でのカット。乗った列車の前に、キハ22が増結されるシーンだ。当時、北海道のDCは、途中駅での増結・解結が頻繁に行われていた。極端な例になると、始発を単行で発車したのに、交換駅ごとに、1両ずつ増結し、終点に着いた時には、4~5両になっていることもあった。少ない気動車をやり繰りし、両運のキハ22ならではの運用だが、よく要員も確保できたとの思いが強い。しかも、交換列車から解結して、反対列車に増結するという離れ技で、そのため、増・解結に費やす停車時間のロスも多かった。

 

雪景色(1)奥羽本線矢立峠・秋田県側

  今冬は各地で積雪が多いようです。ところが大阪湾に面した地域、兵庫県南西部、大阪府では滅多に降らないし積もらない。わが街でも今冬まだ雪を見ていません。この現象は昔も同じで、雪見たさによく雪国へ出掛けたものです。
 
拙著HP(ホームページ)にも、初期の作である奥羽本線を始めとする雪景色のページがあるのですが、これらはページを改良する必要があります。スタイルが現在の標準と異なり写真の数も少ないのです。時刻表やダイアグラム、古い地図の掲載もありません。改良の準備で、新たに写真やダイアも用意しました。先にデジ青でもご覧ください。
 
暖かい部屋でネットを楽しんでいる皆さん。眠気を少しは覚ませるように、寒くて冷たい画像をお届けします。筆者の暖かい配慮に感謝しながらご覧いただければ幸いです。 

(画像をクリックして、大きな画面でご覧ください。)

 奥羽本線の難所のひとつが矢立峠です。大館から弘前までの44.2kmの内、大館から順に10‰、14.7‰と上りこう配が続き、陣場矢立峠間は25‰です。この難所も1970(昭和45)年11月に矢立トンネルが完成し陣場、津軽湯ノ沢駅も場所を移動して一直線の新線に付け替えられました。さらに翌年には電化と一部複線化もでき、難所が消え去りました。
 (なお余談ながら、この地図からは、大鰐・碇ヶ関・陣場・白沢各駅から沢山の林用軌道が施設されていたのが解ります)

   1965年当時の牽引機はC60(客車用)、稀にC61(客車用)、DF50(急行「日本海」、急行「第12津軽」、客車)、D51(貨物用)、補機はD51(弘前、大館機関区)でした。

 列車には下り及び上りの旅客、貨物ともに陣場-碇ヶ関間でD51の補機が付きます。長大貨物には大館から、さらに陣場からも付きますのでダブル補機です。碇ヶ関からの上り列車にはダブル補機が偶に見られました。急行「日本海」の牽引はDF50ですが、下りは大館から、上りは大鰐からD51補機が付きました。急行「第12津軽」に補機は付きません。

珍しいC61【仙】牽引の客車です。激しい吹雪の中でした。

 補機の方向転換は行われず、常に大館向きですから、矢立峠の下り列車は逆向きで後押しして峠を上ります。ダブル補機も同様です。C605の牽引とD51の補機で、客車列車が通過しました。

貨物は牽引・補機共にD51でした。これは短い編成です。

長大貨物には、大館から、陣場からさらにD51補機が加わります。トップと合わせればD51三重連です。

 

陣場駅舎の屋根は内も外も立派なツララでした。

 峠に矢立温泉があり、奥羽線鉄橋下の雪深い谷間にひっそりと眠っているようなたたずまいでした。画面上部と左端に見えるのが、それぞれ鉄橋と橋脚の一部です。1965年の大晦日の泊まりはここでした。真っ赤な鉄泉の為、手拭は旅館のものを使い、重くて長細い板でできた湯船の蓋を一枚ずつ捲って入浴した記憶があります。
 部屋の窓から鉄橋を行く列車が良く見えました。撮影したのですが窓枠が邪魔でうまく撮れませんでした。
 翌日
1966年の元日は、矢立峠の青森県側で撮影です。

ユースで巡った鉄道旅 -2-

宿泊第一号ユース

下関にある火の山ユースホステル、これが記念すべき第一号ユースでした。時は昭和42年3月、ウラ若き高校2年生にとってドキドキの一泊でした。

2週間に及ぶ九州一周旅行の最初の宿泊地で、当日は新大阪から急行「つくし」に乗り、糸崎区でC59・C62を写し、広島から夜行で初めての九州入り、若松・門司区で写したあと下関に戻り、まだ走っていた山陽電軌で御裳川(みもすそがわ)まで行き、山手にある火の山ユースホステルへ向かいました。

公営のユースで、設備・食事は申し分なし。さすがに高校生の一人旅にとっては、ユース名物のミーティングに参加する勇気もなく、ベッドの中で小さくなっていました。屋上から見ると、関門海峡を行き来する船舶の光跡が美しく、三脚で夜間撮影したことは覚えていますが、この頃は、国鉄型にしか興味がなく、乗車した山陽電軌の写真は全く写していないのが悔やまれます。検索すると、火の山ユースホステルはまだ営業を続けていることが分かりました。

 

直流電化の西端駅、下関はさまざまな列車が交錯する結節点として賑わっていた。午前7時、クハ181のトップナンバー車を先頭にした「第一しおじ」が、多数の見送りを受け、新大阪へ向けて発車するところ。東海道新幹線の開業で、151系が大挙して山陽本線に移り、一時はその181系がED73に牽かれて交流区間の博多まで乗入れしていたが、その後、交直両用の481系ができて181系乗入れは中止されている。下関を始終点とする特急は「しおじ」2往復だけにはなっていたが、客車列車は、必ず機関車の交代があり、下関の比重はまだ重いものがあった。

 

当時の下関には、こんな旧型国電も発着していた。下関発宇部線経由の小郡行き2958M、クモハ12024+クモハ41083+クハ16418という、宇部新川電車区の17mロングシート車・20mクロスシート車の混成編成だ。山陽本線を直通せず、宇部地域の中心駅である宇部新川を経由する列車で、現在でこそ、このような設定はないが、最近まで、同様の経由の列車は九州内から発着する421系電車などで残っていた。

 

山陽本線からC59・C62などの大形蒸機は消えてから久しいが、下関ではまだ蒸機が見られた。それは、山陰本線の客車列車を牽く長門区のD51で、とくにラッシュ時はまだD51の牽く客車列車が幅を利かせていた。下関発長門市行き842レ、D51692〔長〕。左は久留米発下関行き236M、クハ421-77ほか。

ユースで巡った鉄道旅 -1-

昨年末になりますが、地元の新聞で気になるニュースを見つけました。京都にある東山ユースホステルが廃業するという記事で、利用客の減少と建物の老朽化を理由に、40年の歴史を閉じると結んでいます。記事によると、現在、ユースホステルは258軒、会員数6万人、利用客は年間47万人ですが、ピークの昭和47年には585軒、会員63万人、利用客は340万人にも達していたと言います。

昭和47年といえば、ちょうど特派員の大学生時代と重なります。確かに、その当時、大学生の旅行と言えば、ユースホステルしか選択肢はありませんでした。休みともなれば、猫も杓子もユースを使った観光旅行、ユースはすぐ予約で満員になり、ハガキで申し込んでも断られることが多く、スケジュール作りに難渋したものです。

ユースが満員だったり、近くになかった場合、止むを得ず駅前旅館に泊まったこともありますが、高い、汚い、まずいで、いい印象は全くありません。片やユースは、一泊二食で公営450円、民営550円という、考えられないような破格の宿泊料ながら、一部を除いては、設備・食事とも十分に満足がいくものでした。

学生時代といえば、全泊夜行という猛者もいましたが、特派員は体力的な自信がなく、夜行は最大でも連続3泊までとし、その間は必ずユースに泊まるようにしていました。

思い返せば、高校生から始まって社会人に至るまで、実に多くのユースホステルを利用したものと改めて思います。北から南まで、夏も冬も、ユースを基地にして写しまくった若き日々を、写真とともに少し思い返してみましょう。

ユースに一泊するたびに会員証にスタンプが押される。今も大事に残している会員証を見ると115泊していることが分かった。100泊記念にもらえるバッジも大事に残している。カメラは、その当時の愛機、アサヒペンタックスSV

阪急202の初期写真、また発見

御大が発表されてからの後出しで恐縮ですが、こちらにも阪急202号の初期の写真がありました。こちらは、大阪の古老ファンのアルバムから複写させてもらった中にありました。
やぐらを組んだ上に宙に浮いた運転台、側扉もなく、どうやって乗務員は出入りしていたのでしょうか。
出自は、初代202の機器を利用しての昭和2年川崎兵庫製、昭和17年に、関さんの絵に見られるスタイルに改造されたようです。その後、昭和36年に作業員室を増設(関さん言うところの避難室)され、昭和43年の昇圧時には、作業員室が車体の半分近くまで拡張されました。その間に、3202、4202と改番されています。
末期は、昭和49年京都線に転属、昭和52年廃車とピク阪急特集には記載されており、関さんの記述とは異なります。

阪急202

阪急202が公衆電話ボックスみたいな運転室になる前は、かようなスタイルでありました(ようです)。目的は同じく、車長より長いレール等を積むためです。これは故西尾克三郎御大撮影のキャビネ写真であります。

阪急202号

関さんのシリーズは、ますますマニアックになってきました。

こんなのを見たことがあるようなないような、でも前週の南海のデト11の兄弟とか。二回の改造後の姿だそうですから最初の形は、デトと同じだったのでしょうか?写真を持っている人は見せてください。でも持っているとすれば長老様か藤本さんぐらいかも。

半世紀前の淡路交通(4)

1965年4月28日~29日にDRFC恒例の新入会員歓迎旅行が四国・淡路方面で開催された。入会して始めての行事参加であり、緊張しながら京都21時35分発645レ宇野行き夜行に乗った。当時は国鉄大型蒸機に夢中になっており、何でC58と気動車王国の四国や田舎電車の淡路に行くのか多少不満であった。しかし、今になってみるとよくここを選んでくれたと感謝したい。前回の淡路交通(3)でカラー写真を掲載されている大阪通信員さんと同じ写真があるので、おそらく通信員さんが選び、新入会員を引っ張っていってくれたものと思う。宇野から宇高連絡船で高松に渡り、高松5時25分発125レで阿波池田に向った。DRFCは日頃から行いのいい人ばかりで終日雨。池田の駅前大衆食堂で朝食後、8時47分発324レで徳島に向う。徳島で8620を撮ったりしているが、それから先は鳴門に出て船で福良に着いたはずだが、記憶が無い。淡路交通ではFさんが列車交換する毎に対向する車両を撮っていたが、雨の中を周囲を気にせず「窓を開けてくれ」と言うのを軽蔑の眼差しで見ていたことを覚えている。宇山車庫では数枚撮影したのみであるが、一部掲載させていただく。宇山の後も21時頃に神戸に着いたがその間全く記憶にない。その後、島の電車は再訪してでも記録しておけばと悔やんでいるが、あれもこれもできないのでせめて見た、撮ったでもいいとしよう。

1965.4.29 宇山 台車に群がるDRFC参加メンバー

今は第一線から引退されている方もおられるが、今尚毎回飲み会に顔を出される方も見える。

 

1965.4.29 宇山 2007

ご説明によるとキハニ6→モハニ2007(1948.9)ということですか。台車が電車タイプではないので元キハニは何となくわかりますが。

 

1965.4.29 宇山 元阪神609+610

乙訓の老人さんが2度撮られた阪神電車。同じ車両を譲渡先等他の場所で再び撮るのは感激ものですね。ところでこの車両が阪神で活躍していた頃のダイナマイト打線は別当、藤村、土井垣で真っ黒なユニホームを着た時代もあったと思います。古い話で恐縮です。

「堺まつり」のデト11

昭和50年10月19日のこと、何を思ったのか、朝から阪堺線の撮影に出かけた。新今宮→南霞町から阪堺線に乗り住吉で下車。交差点で何枚か撮影後、我孫子道まで来たところ、反対側のホームにデト11の花電車が停車しており急遽下車して撮影。次の電車で大和川を渡って堺市内に入り宿院で下車して撮影した。
この日が「堺まつり」であったことは全く知らずラッキーであった。当日は東湊~住吉間の臨時を含めて増発され終日賑わっていた。

【デト11】
関さんが書かれておられる通り、昭和27年足回りや機器類は旧車の余剰品を流用して帝国車輛で新製されている。この手の車両は実用一点張りのものが多いが、丸味を帯びたフロント等しゃれたスタイルで、さすが南海と言ったところである。関さんが描かれた当時と比較すると、テールライトがトンガリ帽子形から普通のガイコツ形に取り換えられる等多少の変化がみられる。平成12年に廃車となったが解体はされておらず、車庫の一般公開時に見ることができる。

 

【東湊~住吉間の臨時電車他】
東湊~住吉間の臨時電車は「堺まつり」の他正月にも運行されていた。当時は乗客が多く、全車ツーマン運行で広告電車も存在しなかった。ワンマン化は上町線(我孫子道入出庫系統を含む)が昭和51年7月1日、阪堺線は昭和54年10月1日であった。

 

 

350形と500形は系統幕があり、阪堺線は「い」、上町線は「ろ」、平野線は「は」を表示していたが、他形式にはないため、あまり意味はなかった。

【たまにはバス】
泉2あ5525(42年式RB10)
エンジンは日野、車体は川崎のレアな組み合わせの元中1扉(引戸)ツーマン車のワンマン改造車。中扉を廃止して、扉と戸袋部分を窓にして前後に扉を設置したため、このようなスタイルになった。同様の改造車は大阪市バスにも存在した。中1扉ツーマン車の前後扉ワンマン改造車は阪急バス、京都バス、京都交通等にも存在したが、中扉を締切りその部分に座席を設置しただけで、ここまでは手を加えていない。

 

泉2あ5225(43年式BT100)
エンジンが床下にあるため、後部のデットスペースがなく後扉が車端に設置されている。ホイルベースが短く、非常口が後部中央にあるタイプ(BT51、BT71)はローカルバスを中心に相当数存在したが、写真のタイプになってからのものは少なく、関東では東武バス、群馬中央バス、上信電鉄、関西では南海電鉄以外では大阪市バス位かと思われる。大阪市バスはこのタイプが好きで昭和50年まで導入されていた。また、近鉄バスには特注のジャンボタイプが存在した。全くの余談であるが上信電鉄の車両は元大阪万博会場内で使用されていた。廃車後自動車愛好家に引取られ京都府下の某所で保存されている。

JR西日本の柿の木

 JR西日本神戸線、立花駅西方500m付近。
一本の柿の木があり、実をいっぱいつけていました。2m程離れた別の木は、
フェンスの内側ですが、この木は、フェンスに接して外側でした。
でも、間違いなく敷地内で、JR西日本の柿の木です。
昨年末12月19日でした。

1月20日再訪しました。実はすっかり無くなっていました。
スズメや小鳥が頂戴したようです。

半世紀前の淡路交通(3)

電化に合わせ南海電鉄から、運輸省規格形のモハ63型20両割当見返り供出車両として、5両の木造電動車が入線した。南海からは後に2両増車された。次いで阪神電鉄の鋼製廃車体を2両購入。自社宇山車庫で手持ち部品を取付け、電動車とした。以下、奥野師匠に教えられた事を交え述べる。

*モハニ1001・入線1948.01.23→クハ101・制御車化1953.10:1961.06.20廃車。元加太電鉄モ30の旧番号を持つ。車体は南海電化時(1907.8.21)の新造車(1907.07日車)で、電1形10両のうち3号車が昭和初期に鋼体化名義車となり、抜け殻を加太電鉄に売却したものであった。加太電鉄は1942.03.14に南海鉄道に併合されたので、南海電鉄から譲渡されたことになる。車体は【10722】で紹介された軌道線101形に似た面構えの正面3窓で、台車は加藤BW型、電動機はWH101‐1(37kw×4)が加太時代。淡路では台車BL・27GE‐1と電動機は×2になっていた。譲受時価格は1,181,000円、1950年再評価で600,000円、制御車化で400,000円。阪神中古車体の再生後に廃車。

*モハニ1002・入線は前と同じ、鋼体化1955.01.10。元加太電鉄モ31。これも南海時代の1937年に鋼体化名義車になったもので、原車は製造1909.07・天野であった。これが前窓5、関西タマゴ型の最初の電車であった。台車BL27E‐1と電動機はモハ30と同型で×4となっていた。鋼体化は台枠再用で内装は木造、台車をBWタイプ、電動機をTDK‐30に、出力72㏋×4に強化している。購入時価格245,000円は鋼体化後、再評価で4,125,000円となった。1958.09.18にドアエンジン取付、1960.02.01貫通路設置、幌を取り付けた。更に台車をDT10、電動機はMT‐4・に取替、クハ112とMTc編成を組んだ姿を見ている。この届けは翌年1961.07.05らしいが、田舎ではよくある話、気にしない。

*モハニ1003・入線は前と同じ、簡易鋼体化1959.06.15。元加太電鉄モ32である。この電車の来歴は先の1002号と同じ、鋼体化は屋根を残し柱や外板を鋼製とした。台車BL27GE1、出力37kw×4、制御器・制動装置MK15・AMJと、淡路標準方式になった。

*モハニ1004・入線は前と同じ:1961.02.20廃車。次の1005号と共に南海での車歴は同じ。電3形1921年川崎造船所製造とある。その後1940年に改造を受けモユニ525,526となる。これが迷図作家紹介の木造4扉車であった。そして1944年6月開業の多奈川線専用となり、沿線に建設された川崎造船潜水艦工場に向かう産業戦士専用車として無座席車となった。終戦後、この2両は加太線に配置されていたとか。これが縁で紀伊水道を渡った。台車BL77E2、電動機の出力37kw×4、定員90人は1001~1003と同じが座席定員(60)の記載なし。阪神中古車の再生後に廃車。

*モハニ1005・入線は前と同じ、鋼体化1961.05.25。来歴は1004号と同じで車体新造の鋼体化車。淡路唯一のクロスシート車。訪問時に確認できず、後に京都鉄道趣味同好会誌”急電”で概要を知った。ここでは大阪通信員撮影のカラー写真で紹介する。台車DT10、電動機TDK30・53kw×2、制御器はPC型、制動装置はAMJとなっていたが、後年変更があったようだ。

*モハ1010、1011・入線1956.08.24。1010→鋼体化1957.06.05、モハ1011→鋼体化1958.03.20。この2両は入線後に車体新造で鋼体化された。原車は前面5窓タマゴ型の電8形132(1924.10・梅鉢鉄工)号と電5形120(1921.10・川崎造船)号の2両であった。その後、改番を経てモハ1025、1027となり共に加太線用となり、本線新車投入に伴う玉突きで淡路島へ送られた。台車BL・MCB2、電動機GE-218(52kw)×4、制御器は日立PR200、制動装置はAMJ、定員90(52)人となっていた。車体製造は昭和車両工業所と名乗る今も知らないところである。譲受価格は1,025,000円、鋼体化後の再評価で5,654,000円になっていた。

*モハ609、610・竣功1960.06。木造車101、1004号追放のため、阪神電鉄で廃車(1960.02.05)になった車体2ケを購入、宇山工場で手持ち台車と電装品で再生した。この2両、阪神時代とパンタを見れば向きを変えている。台車は609にBWタイプ、610はBL・27GE1をあてがい、電動機はTDK30・53kw×2の出力。単車走行可能である。老人は1954年秋、この2両を伝法大橋で撮影している。その2両と再会出来て感激であった。評価額は不明。

*モニ500・入線1950.07.28→鋼体化1952.10.10。元国電モヤ4003である。鋼体化までの期間が少ないところをみると、相当酷い状態でやってきたものと思える。元モハ1だけに電装機器は国鉄の標準品で送られて来ており、その後の標準化に役立ったと思われる。ただ連結器は間に合わずで、そのくだりは須磨の爺やの薀蓄をお読み下さい。入線時評価額は957,681円と記録されていた。

淡路交通にはその後、2回乗ることが出来た。1961年秋と1966年初夏に「鳴門観潮」のためであった。

1966年の時に外部塗色が変わっているのに気がついた。1960年訪問の時は窓下濃チョコレート、窓上淡クリームであったとの記憶が残っている。準特急氏から「新歓」の帰途に訪ねたと便りがあった。それが紹介されることに期待を寄せている。大阪通信員さんの思い出はいかが?

DRFC現役時代、須磨と行を共にすることは殆どなかった。しかし生中の時だけは別で、この日も15時頃の南海汽船で「深日港」に上陸、愛用していた東福寺口経由、ミュンヘンで大ジョッキを煽りながら島の鉄道について益々の隆盛を祈念した筈あった。

モハ1002

    モハ1002

モハ1003
モハ1003
モハ1005
モハ1005
モハ1010+1011
モハ1010+1011
モハ609
モハ609
モハ610
モハ610
モニ500
モニ500

デト11

年末年始お休みでした、関三平さんの「昭和の電車」シリーズが再開されました。

また、阪堺電車ですが無蓋電動貨車のデト11です。もちろん私は見たこともありません。しかし、昔はこんな電車はどこの鉄道にもありました。国鉄のクルやクモルを始め、京都市電にもありました。京都市電の無蓋電車は中央市場からゴミを運び出すのに使われていたようですが、どこへ持って行ってたのかは知りません。今回も乙訓の長老様にご高説を伺うことにしましょう。

江若鉄道三井寺下駅再現(その8)

今年初めての投稿です。正月休みも専ら三井寺下で過ごしました。来週の梅小路での運転会にお誘いを頂いたのですが、残念ながら参加できない代わりに 今日時点での三井寺下の状況をご紹介します。

駅本屋、本社屋、2棟の車庫、給油所、給炭・給水所、ホームの上屋、洗浄線など主な設備がかなり揃ってきました。各路盤の裏にこれからポイントマシンを仕込んでゆくことになるのですが、ポイントマシンの製作が結構面倒です。ポイントマシンの取り付けと調整が済まないと、レールへのバラスト撒きや固定ができません。

駅本屋とその前の給油所の裏側です。

本社屋も何とかそれらしく出来ました。これもまた外装の色がわからないので 適当な色にしました。この本社屋の左側にももう1棟木造2階建てがあり(後年 組合事務所?)、これから着工です。日本瓦や波板(スレート)はエコーモデルのパーツを使っていますが、本社屋や車庫のように大きな屋根が日本瓦や波板の場合は 屋根だけで数千円にもなってしまうので、雰囲気が出ればよしとしてペーパー屋根にして 必ずしも実物通りではありません。

エコーモデルのレイアウトパーツは種類も豊富で出来も良いのですが、何といっても高くつきます。困るのがブロック塀です。駅構内の周辺の民家にブロック塀が多いのですが、これをエコーのものを使おうものなら 万円になってしまいます。給油所もブロック塀で囲わねばならないのですが、厚紙にスジを入れ、 厚さを出すために張り合わせて作ったのですが、水性アクリル塗料で色付けしたりしているうちに、どんどん反ってきて不気味なブロック塀になり 改善が必要です。全体写真の右側の車庫への引き込み線沿いの境界には延々と古枕木の柵が続いていて この枕木柵の製作もうんざりしそうです。

そして駅周辺の民家をどう再現しようかと 最初から判っていた課題が現実のものになりつつあります。あの市街地の中の三井寺下のムードをどう再現するか・・・・。何か良い知恵がありましたら アドバイスをお願いします。

民國100年のはじめに、台湾へ2

 台湾でナローゲージ(五分仔車)のトロッコに初めて乗りました。台湾では、かつて精糖工場輸送のナローゲージ鉄道が数多くありましたが、現在ではほとんど役割を終えて、かつての日本の軽便鉄道のように廃線になっていきました。

 しかし、その一部は観光用に残り、中には蒸気機関車の運用を行うところもあります。 

 今回は、台湾糖業公司の2箇所、高雄花卉農園と圓林の溪湖花卉文化園區に行ってきました。

 

 高雄はMRTの橋頭糖廠駅からすぐ、往復切符のみで80元、始発は10時半から、あと11時半、13時半、15時半、16時半の最終まであり、帰りもそれぞれの30分後に出るパターンです。ただし、定期列車は土日のみで、平日は団体予約を受けることとされています。機関車の銘板を見るとドイツ製ということはわかりましたが、この手の車には全く知識がありませんのでわかりませんでした。トロッコはもとは貨車のようでしょうが、観光用に改造されています。路線は片道7分弱田舎道を走り結構本格的です。遊園地鉄道ではないので当然といえば当然でしょう。

 路線は、西部幹線としばらく並行するので、特急や鈍行電車からもよく見えます。特急(自強号)から眺めていると橋頭駅の手前で観光用塗装を施していない機関車がたくさん車庫に留まっているのが見えて「しまった」と思いました。また機会があれば撮影してみたいと思いました。

 

 次いで、圓林の溪湖花卉文化園區中心です。こちらは少し行きにくく、圓林駅を降りて左に暫く歩き、圓林客運(バス)の溪湖生きで30分程度まず乗ります。そこを降りてからさらに10分歩くと到着です。

 こちらは、かなり本格的で路線も片道約15分、9時の始発から16時30分の最終まで7本、うち2本は蒸気機関車による牽引です。初発の9時は私一人の貸切状態でした。高雄と同様切符は往復券のみで100元。土日のみの定期運行、平日は団体予約のみです。団体観光客も結構いるようでしたので、平日も走っていることと思います。ディーゼル機関車はロッドが懐かしい1967年の日立製でした。客車はやはり観光用に改造したものでした。車庫にオリジナルと思われる客車もあり、私にはそちらの方がよかったのですが、観光トレインですのでそうはいきません。

 

溪湖糖廠の五分仔車
溪湖糖廠の五分仔車
橋頭糖廠の五分仔車
橋頭糖廠の五分仔車
溪湖糖廠のDL
溪湖糖廠のDL
溪湖糖廠のSL、1948年ベルギー製で現役
溪湖糖廠のSL、1948年ベルギー製で現役
渓湖糖廠の廃車体
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都電8800形カラーを変更して増備

都電8800形の平成22年度分の増備車5両が、昨年10月と12月に登場した。8806と8807の2両が従来のローズピンクからバイオレットにカラーが変更され10月22日より、8808と8809の2両がオレンジ、8810がイエローとなり、12月25日より営業運転を開始した。予備車として待機している8809以外の4両と8801に1月23日までの予定でヘッドマークが取り付けられている。

 


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22-12-29 飛鳥山  下/22-12-29 荒川車庫前

 


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22-11-23 熊野前  下/22-12-28 荒川車庫前

 
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22-12-28荒川車庫前  下/22-12-29 飛鳥山

 


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22-12-30荒川車庫前  下/22-12-29 飛鳥山

 


22-12-28
荒川車庫前

【他形式の動向】
(1)7500形
             
7500形の動向については、【8261/2010年5月22日】でお知らせした通り、8800形との置換えで順次廃車が進み、平成22年10月末日時点で7505、7510~7512、7520の5両が残るのみとなっていたが、8806、8807の増備により11月に7505、7510が廃車され、残るは7511、7512、7520の3両となった。この3両も8808~8810と交替で廃車されてもおかしくないが、1月8日時点では、7511と7512は常時運用に入っており、7520が予備車となっているようであるが、姿を消すのは時間の問題であろう。7511は【8489/2010年6月6日】でデカンショ祭り号さんの報告の通り阪堺線旧塗装に変更されている。

 


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22-12-29 飛鳥山  下/22-12-29 荒川車庫前

 
22-12-29
荒川車庫前

(2)9000形
他形式と共通運用で日常的に使用されているが、貸切運行時に指名が掛かることが多い。9002は正月期間中「賀正」の表示板を付けていた。

 
22-11-23
熊野前~宮ノ前

 
23-1-2
町屋駅前

(3)8500形
【8261/2010年5月22日】での紹介時点では8503と8505にラッピング広告が貼られていたが、現在は解除され、8502と8504に貼られている。スポンサーは前回と同じ警視庁でデザインは変更されている。

 


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22-12-29 飛鳥山  下/22-12-28 荒川車庫前

 


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22-12-29 飛鳥山  下/22-12-28 荒川車庫前

(4)7000形
【8261/2010年5月22日】の時点と同様22両が健在で主力として活躍しているが一部の車両のラッピング広告がスポンサーの変更により変更されている。今年度から新車と交替して廃車が始まる予定である。今年度の新車は8800形に変わる新形式車が登場する予定である。

 
22-12-28
荒川車庫

 
22-12-28
荒川車庫前

 
22-12-28
荒川車庫前