列車写真撮影でのトラブルが報じられている。まずマニア(それも俄かマニアが少なくないのかもしれないが)の絶対数が増えた。次に皆同じものを狙うというか、人が撮るものしか撮らない、興味がないという、大勢順応が挙げられる。皆同じものを、何故か同じ場所で、押し合い、ひしめき合って狙うのである。さらには望遠レンズの普及があり、これは三脚の使用とほぼ裏腹でもある。
なぜ鉄道写真、それも列車写真の撮影に三脚が必要なのか。誰も分析(というほどの大袈裟な話でもないか)したという話は聞かないが、判で押したように丈夫な三脚を使うようになったのは、昭和40年代後半ぐらいからか。
恐らくは三脚を当然のように使っている「皆の衆」とて、何故三脚が必要なのか、あるいは三脚なしで写真が撮れないのか、などと考えたこともないのではないか。フイルム感度が低い時代に望遠―それも相当に長いタマを使うなら、三脚は必需品である。しかしデジタル化で幾らでも感度が上げられる今日、何故営々と三脚なんだろうか。不思議でしょうがない。
例えばかの布原信号場。まさに三脚の林立(行った事はないが)だった。自分の経験だけから言うと、蒸機列車の撮影は、その日の風や天候次第で、煙はどうたなびくか分からないことが多い。横位置で狙っていて、咄嗟にカメラを縦に持ち替えたことも少なくない。三脚にカメラを固定していれば、カメラぶれは防げても、構図変更は不可能だろう。一説に三脚は、①場所取り=先着権顕示②いざケンカになった際の武器、だから丈夫でないといかん、という。
カメラの複数設置もあるとしても、それ以前に三脚は絶対必要との、固定観念がしみ込んでいるのが実態じゃなかろうか。もし「皆の衆」が三脚を自粛すれば、同じ面積の「お立ち台」には、恐らく3倍かそれ以上の人間が物理的に立てるはずである。とすると、三脚とは自分以外の「同業」を、なるべく閉め出すのが目的なのか。
拙老はこれらの「皆の衆」と一緒あるいは競合状態で写真を撮る気は毛頭ないが、もしその必要が生じれば、三脚ではなく脚立を持っていく。それも1段の小さなもので充分だ。
かつて報道写真には脚立が必需品で、しかも脚立持ち=助手がほぼ必然であった。4×5インチのスピグラなら、脚立まで持てないからで、拙老も若かりし日、本職の報道カメラマンに混じっての撮影競争を数年続けた。TVもまだ16mmフイルムで、照明助手が必須だった。そのうち報道も35mmに切り替わり、TVは大袈裟な「担ぎカメラ」になり、これは今でも継続しているが、助手は大方使わなくなった。そのかわり録音技手がマイクをかざす。
拙老も50数年前三脚を持って九州・東北をめぐったことがある。これは真っ暗な庫内に収められた蒸機を、シャッターをバルブにし、マグネシュームを焚き込んで撮る=いわゆる「ポン焚き」のためであった。また中村卓之氏は海外の路面電車や停車中の列車などを、夜景として見事にカラーで撮影しておられ、ホトホト感心したものである。聞けば2~3,000円程度の特価の三脚を使い捨て同然としている由。
上記「皆の衆」は、いずれもスリックなど、3~5万円ぐらいするアマチュアにしては高級な三脚をお使いのようである。三脚屋にとっては、またとない顧客であることは確かで、他にアマチュアでこんな三脚を買ってくれるのは、やたら元気なカメラばあさんグループか、野鳥観察者ぐらいではなかろうか。鉄チャン「皆の衆」の三脚依存シンドロームは、もしかすると三脚屋の陰謀か。
拙老が未だに捨てずに持っているスリック(3段)は、就職した昭和36年以来使っており、黒塗りがすっかり禿げ、アルミが露出している。雲台が潰れ、これだけはマンフロットに買い直したのが確か20年程前。組立図等の複写に大活躍したが、今では1~2年に1回、正月に参集する家族の記念撮影ぐらいしか出番がない。しかもその上に据えられるのは、コンパクトデジカメである。