久方ぶりに一眼レフを使い写真を撮りました。35mm換算で450mmレンズでもやや迫力不足。線路端で撮るテッチャンの気持ちが少しわかりました。16連の500系のぞみは新大阪へ向けて走り去っていきました。
続・乙訓の薫風 ロミオ君さよなら運転
やっと15日に新聞報道があったが、中身に乏しいので少々アチコチに問い合わせをしていたのでお知らせが遅くなってしまった。まず土日ダイヤの2/21,27,28は桂12:10出庫で河原町へ、折り返し12:30河原町発で京阪間を折り返し特急運用に入るようだ。桂には19:19入庫というから2/28梅田18:20発は立席満員となりそうだからおさけになると良いだろう。次いで平日2/20~26間だが、こちらも仕立は全て桂で、朝7時過ぎに河原町へ下り、7:30から特急運用に入る。梅田13:20発で河原町到着後、回送で桂へ向い少憩後、再び15:52再出庫、河原町へは回送で向う。16:09から特急運用に入るが、2/24はこの少憩時にヘッドマークを取り付ける予定。以後、最終列車まで取り外しはしない予定である。河原町で特急運用に入ると梅田で50分後の発車、更に50分後に河原町発車となるから追いやすい。但し平日河原町21:09発の特急は梅田到着後は快速急行で折り返すようで、河原町到着後どのような行動をとるのかしらない。23:24発長岡天神行となれば、老人が43年にわたり愛用している西向日まで乗せて頂けるのだが、そうは問屋は卸さないだろう。
さて「鉄」の行儀がとやかく話題になっている。JR西日本は告訴すると報道された。当然だと思う。京阪も磯島事件(枚方上手、天の川鉄橋を降りたあたりで5000系が脱線転覆)では告訴して勝訴となった。問題の本質が違うとは言え、列車妨害には違いない。「うるさいこと言うな!」の声もあるが、半世紀以上建築現場を飯の舞台としてきた老人には許しがたい行為である。叡電デナ20形引退興行でも市原~二ノ瀬間の鞍馬川沿いで、今回の行動が見受けられた。気付く度ごとに注意をしたり怒鳴ったり忙しい休日を送った。時には集めて話し合った。この時気付いたのは自動車でおいでになる輩に横着な御仁が多いことだ。昨年12/03松尾駅で「一般の人」と言われ安堵したことがある。4両が良いと教えられ、それを気遣っていた時はやはり敷地内に入っていた。1987年復活後は線路敷き内は極力入らないように気をつけている。
三脚に思う
列車写真撮影でのトラブルが報じられている。まずマニア(それも俄かマニアが少なくないのかもしれないが)の絶対数が増えた。次に皆同じものを狙うというか、人が撮るものしか撮らない、興味がないという、大勢順応が挙げられる。皆同じものを、何故か同じ場所で、押し合い、ひしめき合って狙うのである。さらには望遠レンズの普及があり、これは三脚の使用とほぼ裏腹でもある。
なぜ鉄道写真、それも列車写真の撮影に三脚が必要なのか。誰も分析(というほどの大袈裟な話でもないか)したという話は聞かないが、判で押したように丈夫な三脚を使うようになったのは、昭和40年代後半ぐらいからか。
恐らくは三脚を当然のように使っている「皆の衆」とて、何故三脚が必要なのか、あるいは三脚なしで写真が撮れないのか、などと考えたこともないのではないか。フイルム感度が低い時代に望遠―それも相当に長いタマを使うなら、三脚は必需品である。しかしデジタル化で幾らでも感度が上げられる今日、何故営々と三脚なんだろうか。不思議でしょうがない。
例えばかの布原信号場。まさに三脚の林立(行った事はないが)だった。自分の経験だけから言うと、蒸機列車の撮影は、その日の風や天候次第で、煙はどうたなびくか分からないことが多い。横位置で狙っていて、咄嗟にカメラを縦に持ち替えたことも少なくない。三脚にカメラを固定していれば、カメラぶれは防げても、構図変更は不可能だろう。一説に三脚は、①場所取り=先着権顕示②いざケンカになった際の武器、だから丈夫でないといかん、という。
カメラの複数設置もあるとしても、それ以前に三脚は絶対必要との、固定観念がしみ込んでいるのが実態じゃなかろうか。もし「皆の衆」が三脚を自粛すれば、同じ面積の「お立ち台」には、恐らく3倍かそれ以上の人間が物理的に立てるはずである。とすると、三脚とは自分以外の「同業」を、なるべく閉め出すのが目的なのか。
拙老はこれらの「皆の衆」と一緒あるいは競合状態で写真を撮る気は毛頭ないが、もしその必要が生じれば、三脚ではなく脚立を持っていく。それも1段の小さなもので充分だ。
かつて報道写真には脚立が必需品で、しかも脚立持ち=助手がほぼ必然であった。4×5インチのスピグラなら、脚立まで持てないからで、拙老も若かりし日、本職の報道カメラマンに混じっての撮影競争を数年続けた。TVもまだ16mmフイルムで、照明助手が必須だった。そのうち報道も35mmに切り替わり、TVは大袈裟な「担ぎカメラ」になり、これは今でも継続しているが、助手は大方使わなくなった。そのかわり録音技手がマイクをかざす。
拙老も50数年前三脚を持って九州・東北をめぐったことがある。これは真っ暗な庫内に収められた蒸機を、シャッターをバルブにし、マグネシュームを焚き込んで撮る=いわゆる「ポン焚き」のためであった。また中村卓之氏は海外の路面電車や停車中の列車などを、夜景として見事にカラーで撮影しておられ、ホトホト感心したものである。聞けば2~3,000円程度の特価の三脚を使い捨て同然としている由。
上記「皆の衆」は、いずれもスリックなど、3~5万円ぐらいするアマチュアにしては高級な三脚をお使いのようである。三脚屋にとっては、またとない顧客であることは確かで、他にアマチュアでこんな三脚を買ってくれるのは、やたら元気なカメラばあさんグループか、野鳥観察者ぐらいではなかろうか。鉄チャン「皆の衆」の三脚依存シンドロームは、もしかすると三脚屋の陰謀か。
拙老が未だに捨てずに持っているスリック(3段)は、就職した昭和36年以来使っており、黒塗りがすっかり禿げ、アルミが露出している。雲台が潰れ、これだけはマンフロットに買い直したのが確か20年程前。組立図等の複写に大活躍したが、今では1~2年に1回、正月に参集する家族の記念撮影ぐらいしか出番がない。しかもその上に据えられるのは、コンパクトデジカメである。
なにが問題か?
昨日テレビで「関西線で鉄道ファンが列車を止めた」と報じていた。見た人も多いと思うがもう一度読売新聞記事の一部を掲載する。
14日午前10時40分頃、大阪府柏原市青谷のJR関西線河内(かわち)堅上(かたかみ)―三郷(さんごう)駅間で、加茂発天王寺行き快速電車(6両、乗客約500人)の運転士が、線路脇に4、5人が入り、カメラの三脚を立てているのに気付き、約50メートル手前で電車を止めた。連絡を受けたJR西日本社員が説得を重ね、約30分後に敷地外に出た。
午前11時25分頃には、約600メートル西の河内堅上―高井田間でも、JR難波発奈良行き普通電車(6両、乗客約200人)の運転士が、線路脇にカメラを持った人が入っているのを見つけ、約10分間、停車した。2度の停車で上下19本が運休、同26本が最大39分遅れ、約1万3000人に影響した。
同社によると、当時、運行回数の少ない団体用お座敷列車「あすか」(6両)が、カーブが多く撮影ポイントになっている現場付近を通るため、鉄道ファン約50人が沿線に集まっていた。(以下略)
写真撮影をやめて久しいので最近の線路端の雰囲気はわからないが、昔と比べてなにやら殺伐としすぎていないか。
JRの対応やファンの態度にも疑問を感じる。
線路端といってもファンも危険な範囲には入らないだろうと言うこと、それなのにJRは電車いちいちを止めたりするのか?50mも手前で止まっていることから運転士はだいぶ前から視認しているし徐行・停車しているので係員を繰り出して説得まですることなのだろうか。
またファンもJRから危険だから立ち退くように、と言われたら素直に移動するのが常識であろう。
古いのかもしれないが、どちらも行動が硬直的で敵対的なのが気になるのだ。かつては機関士と手を振りながら撮影していたではないか。
撮影を趣味にしている会員諸兄のお考えと最近の現場状況をぜひとも聞かせていただきたい。
山科電化当時の記憶(その3)

具体的な電化工事の第一歩はコンクリートポールの配置から

直線区間のみポールが建植され ビームが付いた状態 列車は姫路発鳥羽行快速440レでシーズン増結時は後部にC51の補機がつく 上り列車では特急とこの列車だけ我家の2階のガラス戸が共鳴した

曲線部分にもポールが建ったが、ビーム取付はまだ

まだ架線が張ってない下を山科名物?8620牽引9662レ無蓋車列車が行く 極めて早朝のためこの列車を撮影したファンは高橋弘 佐竹保雄 小寺康正 それに山科在住の久富あきら(日偏に華)と小生ぐらい 膳所はじめ86が入換をする駅に石炭を配給する業務列車で 電化半年前である

まだ架線が張ってない大築堤を疎水から見下ろす 北側には京津線20型が この写真は以前のピク京阪特集で特派員氏により大きく扱って頂いた

京都駅に姿を現した牽引試験列車 DH10×2+ヨ+D51 右側には70系客車が覗く
大築堤の電化工事はまず直線区間から始まり、ポールとビームを取り付けた後曲線部分に着手、架線は当然ながら一気に張られた。築堤下に変電所も完工しており、通電が開始され、EH10がD51を従えて大築堤に姿を現した。これは「集電試験列車」だが、我々は「煤払い列車」と呼んでいた。当然ながら旅客・貨物全定期列車は蒸機牽引だから、架線は煤でいぶされ続けている。

いよいよ走り出した「煤払い」列車 D51は万一に備えた控えである

そのうちEH10以外、EF15も姿を見せ始めた。本格的な牽引試験も実施され、また暖房車をズラリ繋いだ列車も。これは冬季以外出番のない暖房車を死重として牽引する、当時の電化前のいわば定番行事ともいうべきものであった。

上り牽引試験列車 EH10の次位にパンタを上げた試験車 その次にはD52が

下り線のレール交換中の保線区員が見守る 当時はすべて直営工事だった

山科駅構内西端での下り牽引試験列車
10月19日の電化開業日は刻々と迫り、試験列車や乗務員習熟運転も熱を増してきた。
芭石鉄道 冬編 反省とご案内
今回は、相棒の都合もあって、出発・帰国日がガチガチの8泊9日の、芭石鉄道への初めての旅でした。そのため、成都到着後は、インターネットで調べた、下記の旅行社ツアーを利用しました。
http://www.tf-travel.com/guanguang/tds.html
日本からのツアーもありますが、個人で手配するのに比べると、中身が濃い代わりに、融通性がなく、料金もそれなりになります。しかし、中国語が全く話せないとなると、一人で行くのは、かなり難しくなります。
それでも、電子辞書を片手に、行ってやろうとされる方々へ、私の反省をこめて、ご案内させていただきます。
と、思っていて、買い物に行ったら、本屋で『地球の○○方・’09-’10、成都・・・』に訪問方法が掲載されていて、びっくりしました。もうすっかり、メジャーなんですね。買って読んでみましたが、現状とは違っているところもありますので、最新版をまとめます。
現地2日目に、D300に装着したSDHCが粗悪品で、『トホホ』となった時に、予備に撮っていたHDDムービーです。
【日本からのアクセス】
日本の成田・関空から成都までは、直接の直行便は、ありません。中国国内空港を圣由しますので、約8~10時間かかります。当日の夕刻には到着しますが、芭石鉄道近くの楽山市まで行くのがやっとでしょう。知らぬ外国で、夜間移動は、禁物です。一旦、成都での宿泊が無難です。
日程に余裕があれば、私と同様に、一旦北京で宿泊して、翌日に北京西駅からのT7列車、約26時間乗車をお薦めします。移り行く車窓の見応えは、充分あります。また、食堂車で、その車窓を見ながら、本場の四川料理を味あえる楽しみもあります。芭石鉄道への旅を始めるには、最も相応しいと思いますが、問題は、軟座寝台切符の入手方法です。
私は、何とかしましたが、現地で知人でもいないと、困難です。インターネットで、頼める方法もありますので、研究して下さい。ダメな場合は、ご一報いただければ、購入方法をご提案させていただきます。但し、春節(旧正月)、国慶節(10月1日)、黄金週(5月連休)は、余程前に予約しないと、確保は難しいです。また、法外な手数料を覚悟する必要性があります。
【成都からの楽山へのアクセス】

初めての方、中国語ができない方は、現地旅行社に頼むのが、無難です。乗り鉄なら問題ありませんが、現地での撮影を望まれる方は、引率者の力量次第となります。
独自で行動される方は、『地球の○○方・’09-’10、成都・・・』を、購入ください。
但し、どちらにしても、大敵は、成都盆地特有の『霧』です。ほぼ、日常的に発生しています。晴れた日にめぐり合えるのは、年に数回のようです。成都からのアクセスも、記載されているのは、環境が良かった場合です。まず、遅れる事は、必至と考えていたほうが言いと思います。
私の場合で、成都市内のホテルから、芭石鉄道の出発地、石渓站まで、チャーター車で、約5時間30分(昼食休憩55分含む)かかっています。復路も事故で、同じくらいでした。
バスで行かれる場合は、市内のホテルから、石羊客運站、または成都旅游客運站(バスターミナル)に行きます。約20~60分程度は必要です。
ここで、20~30分間隔で出発する楽山市行きの中型バスに乗車します。約136km、遅れなければ、高速道路を走り、約2時間強で、到着します。人口133万人の大きな街です。朝に出れば、丁度、昼ぐらいに着きますので、レストランも多いです。ここで、食事をされた方が良いです。
【楽山から石渓站へのアクセス】
ここから、石渓站までは、約55km、迂回路のない片側1車線の1本道です。楽山からのバスは、犍為行きです。10分間隔で運行され、約70~80分は必要です。犍為からは、またコミュニティーバスに乗換えが必要です。面倒ならタクシーで向かったほうが、石渓站まで乗換えなしで、到着できます。
午後の列車の出発は、14:00です。バスなら、到着時刻に不安がありますが、タクシーなら、まず大丈夫です。料金は、100~150元(1400~2100円)程度だろうと思われます。
【現地での宿泊】
楽山市には、宿泊施設がたくさんありますが、石渓までは、1時間以上必要です。乗り鉄なら、問題ありませんが、撮り鉄となると、犍為で宿泊するか、芭石鉄道沿線駅近くに宿泊しないと、撮影は困難です。食事別で、30~50元(420~700円)で、宿泊できます。私も、次回3月の菜の花シーズンは、芭石鉄道沿線に宿泊予定です。
【列車ダイヤ】
1月でも、結構観光客がいましたので、菜の花シーズンは、かなり多くなると思われます。早めに駅に行って、切符を買わないと、満席お断りもありのようです。同業者が多くなると思われます。2010年1月の列車ダイヤを作成しましたので、ご参考して下さい。早延着がありますので、ご注意下さい。尚、現地では、必ず運行状況をお尋ね下さい。



【旅費】関空以降、2名で行った場合の1名分
1、国際線航空券 関空~北京 JAL 57,420円
2、現地、芭石鉄道ツアー料 3泊4日 45,000円
3、北京2泊・成都1泊3朝食込みホテル代 16,870円
4、北京~成都 運賃・現地タクシー代 27,840円
5、現地、飲食費 10,500円
6、その他、雑費 9,430円
合計 167,060円
今回は、往路・復路共日程変更ができませんでした。そのため、国際線航空券は、正規運賃では、安いWeb悟空を購入しました。
現地ツアーは、通訳、チャーター車、運転手、3泊分ホテル代・食事代<朝3・昼2・夜3>、2日分鉄道運賃を含んでの金額です。1人で行っても、2人分必要です。ホテルの宿泊代も、1室料金ですので、同様です。
無駄遣いは、あまり気にせず、飲食も適当に、極めてナチュラルに過ごしました、8泊9日の全旅費です。現地ツアーを頼まなければ、20,000円ぐらいは、安くなりますが、移動に余分な時間がかかりますので、難しいところです。
もっとも、日本から、旅行社に頼むと、6泊7日で、25万円前後しますので、かなり安くはついたろうと思います。
治安は、用心さえ怠らなければ、問題ありませんが、何かと、予期せぬ事が起こるのが、旅先です。そんな時は、運が悪かった。仕方がないと諦めて下さい。私は、悪運に慣れていますので、いつも、そうしています。
では、お気を付けてお出かけください。
私は、菜の花が満開となる3月上旬頃には、向かう予定です。今度は、近くのナローゲージ電気機関車が走る沫江煤電も、訪問予定です。また、現地のWebサイトを見ていましたら、報道が皆無な専用線のナローゲージも近辺にあるようですので、下見に行ってこようと思っています。广州~武漢を走る新幹線にも乗車してみたいので、次回は楽しみ満載です。
相乗りは、大歓迎しますので、ご希望の方がおいででしたら、コメント欄にご記入下さい。追って、ご案内をします。
中国鉄路 2010年『春運』大輸送
2010年2月14日に春節(旧正月)を迎える中国では、1年に1度の民族大移動が、ピークを迎えています。現地では、この輸送を『春運』と呼び、各交通機関が、最大限の体制をひきます。
2010年の『春運』は、1月30日から3月10日までの40日間と設定され、この期間中の旅客輸送量は、延べ約25億人強、昨年に比べて、7.7%増と予測されています。
利用される交通機関は、道路を走るバス、自家用車が22.7億人(89.3%)と殆どを占め、次いで、鉄道の2.1億人(8%)、水路の船が3200万人(1.3%)、航空の2894万人(1.1%)に達するだろうと、発表されました。
日本では、JR私鉄の鉄道輸送は、2007年度で、40日当たり、約25億人です。日本の10倍以上の人口を誇る中国です。数字からは、鉄道王国日本と比べると、まだまだ貧弱な中国鉄路と言わざるを得ませんので、経済発展に欠かせぬ交通インフラ、特に飽和状態の鉄道輸送は、整備が急務です。
中国政府は鉄道切符の不正な転売などに対処するため、2010年の『春運』は、広州と成都の鉄道局が管理する一部の駅で、切符販売の実名制を試験的に実施したそうです。切符に、名前が印刷されています。飛行機と同様ですね。不正なく徹底されたら、旅行社等が買い占めて、窓口で買えないといった事は、起こらないでしょうが、結果はどうでしょうか。

中国鉄路では、2020年までには、縦4線横4線の高速鉄道網を建設予定ですが、経済発展のスピードに追いつくには、まだまだ足らないと思われます。

上記の営業キロは、予定だそうです。


世界最高表定速度を誇る、武広高鐡。CRH2-300とCRH3が使用されています。ダイヤから見ると、殆どフルノッチでの力行を続けていると思われます。ピンク色は、途中站無停車です。
2010年は、『春運』に間に合わせるように、350km/hで走行する世界最速の武広高鐡線と、続いて鄭西高速鉄道が誕生しました。しかし、日本のように、充分な試運転を行ったのではなく、とにかく走らせてからとの思惑が強く、初期故障は、防ぎきれずです。度々の遅延、運休に散々の批評を受けています。

山岳路線だけあって、武広高鐡のような高速連続走行はできませんが、充分なスピードアップです。
また、CRH2-300(はやて改良型)が、登場しています。北京~天津間の高速線で、技術供与協定違反の350km/hで運行されました際に、JR東日本、川崎重工等からの強い申し入れで、運行停止となり、姿を消していました。
今回の復活を、調べてみましたら、昨年10月に、日側との調整が取れたとの、中側発表が、隅っこにありました。詳細については、記載がありませんが、何やらあったろうと、容易に推測されます。しかし、これで、雄姿をまた見る事ができます。
何と言っても、乗ってみてのピッチの広さ、リクライニングの角度等々の居住性は、他のCRHと比較にならないほど、良いのです。是非とも、北京~上海間には、ドイツ製を追い抜いて、登場して欲しいと思うのは、私だけではなく、CRH2に乗車した、多くの乗客の希望だと思います。いくら、CRH3が、394km/hの最高速を誇っても、狭い居住性は、まっぴら、ごめんです。500系以上の圧迫感があります。
続いて開業するのは、上海を中心とした路線で、上海万博直前あたりです。どの路線が、無事開業するのか、楽しみです。
江若鉄道高島町駅のお披露目


こつこつと工事を進めておりました高島町駅の復元工事がようやく終了し、開業式を済ませました。皆様からいろいろな情報を頂き、なんとか晩年の姿を再現できました。拙作ながら ご紹介致します。このレイアウトセクションは 自宅内の固定レイアウトではなく 広い会場での運転会をイメージした組立式レイアウトとして基本設計しました。主なブロック3ブロックと 上り、下り両方向に引き上げ用の単線部分(本線)2ブロックから構成されています。全長4.78mあり 息子たちが使っていた空き部屋をフルに使っています。ポイントはシノハラの#6番としました(実物は#8番らしい)。かつてDRFCのレイアウトをみんなでワイワイ作ったときのことを思い出しながら、木工の日々が続きました。この時点からポイントマシンをどうしようかと考えつつも、結論が出ないままフレキレールをスパイクする段階に入ったのですが、ポイントマシンの設計で工事が中断しました。広島県の片田舎では材料調達が思うに任せず、通販のお世話になりながらポイントマシン自製の目処がつき、テストを経て9つのポイントマシンを作りました。タカハ機工という会社が作っている直流電源で作動する自己保持型ソレノイドを採用しました。このソレノイドは自販機やOA機器などの中で小さな動きを作るのに使われているようで、一方向はバネ力で反発力を作り、反対方向は電磁石と永久磁石の力で直動するものです。今回は5Vで駆動させています。ここでバネ力をどうするかという問題で悩んだあげく、どこにでもある3色ボールペンに組み込まれているコイルバネが丁度良い大きさとバネ力があり、品質も揃っていて 何より使い古したボールペンを分解すればタダ同然ですぐに手に入ることに気づき、一気に工事が進みました。バラストや土の地面を作る材料は東京のモーリン製のものを通販で購入して これまた気長にバラストをレール内にまいて、木工用ボンドの水溶液をスポイトで垂らして固めるという方法でかなり実感的に仕上げることができました。駅舎やその他の建物はペーパー車体を作る要領で作りましたが、写真からの寸法割り出しのためあとになっておかしな部分がでてきました。駅本屋とホームの待合室、貨物上屋だけでは殺風景なため、ヒルマモデルクラフト製の便所、保線小屋、倉庫、タクシー営業所、日通事務所を適当に配置しました。従ってこれらは実物どおりではありません。ベンチや駅名票などの小物はエコーモデル製を多用。今津側にはこれも実物にはなかった踏切を作りました。警報機を点滅させようと、レイジージャック製の警報機キットと腕木信号機キットを買ったものの、実物に忠実すぎて還暦を迎える身には細かすぎてハンダ付けもままならずついに放棄(1万円のムダな出費となった)。結局津川洋行のプラ製の安い警報機、腕木信号機を使いました。腕木信号機は固定式ですが、改造し腕が上下するようにはしましたが、これも電動させてやろうと思いながら 上記のソレノイドを使った動力化だけが残工事となっています。あとは制御盤ですが、これも日曜大工の延長線上で一気に作りました。走行電源は12V、ポイントマシンは5Vと2電源方式ですが 両方の電圧、電流をそれぞれ1つの電圧計、電流計で表示させるために切り替えスイッチを設けています。ボックスの中にはちょっとした道工具やリレーラーなどを収納できる収納スペースと現場でもハンダ付けできるよう100Vのサービス電源を装備しています。運転会を想定してと書きましたが、本線部分を延長しないと単なる駅のレイアウトセクションなので ループ線などにするためにカトーのユニトラックとの接続部分を増設しました。この部分は33パーミルの勾配になりました。これで広い会場でユニトラックとつないで運転会ができます。建屋などの実物の色がわからず、適当に彩色しました。当時はモノクロが普通の時代だったのでこれもやむをえません。実物しゃしんとの対比で写真を添付しますのでご笑覧ください。次は白鬚駅の再現に取り組もうと情報収集と基本設計にかかっています。いずれの日にか 関西方面、できれば高島市で運転会を開きたいと思っています(マイカーに積み込める大きさに設計してありますので)。一方で車両の製作がSTOPしていますのでこちらも進めなくては・・・・。今後ともよろしくお願いします。
中国鉄路 第3の新幹線、鄭西高速鉄道開業!
春節(旧正月)が近づいた昨日、2010年2月6日、中国鐡路では、昨年末に開業した『武広線』に続いて、第3番目の中版新幹線となる、『鄭西高速鉄道』が、開業しました。
京九線の鄭州から、秦の始皇帝で有名な西安間、505kmを、最高運転速度350km/hで、最短1時間58分、表定速度256.8km/hで結びます。在来線の特快では、最短所要時間5時間56分かかっていたので、約4時間の短縮が図られています。途中の停車站は、最多列車で7駅があります。
使用される車両は、『はやて型』のCRH2-300で、運行本数は、当初7往復となっています。
運賃は、1等390元=約5.500円、2等240元=約3400円、日本と比べると、安いですね。
山岳地帯を走行するため、トンネルは38本が掘削され、総延長は、78.2kmと、全線の15.5%を占めています。軟弱な黄土地層、地震の多い地帯もあり、工事は難航を極めたが、世界最高技術を駆使して、完成できたと、現地では、報道されています。
上海万博を5月に控え、益々急ピッチで、高速鉄道が開通する中国鉄路です。2012年には、総延長11万km路線となり、高速線は、13,000kmを占めて、日本の新幹線を軽く追い抜いていきます。
私は、春節の混雑が終わり次第に、武広線とあわせて、初乗車の旅に出ます。
カラフルDC-加太編(2)
l 加太会
昭和39年12月6日(日) 30年台も残すところあと25日の日に生まれました。メンバーは、N氏(経営者、現・デジタル青信号大阪特派員)、U氏(住職兼某女子大学理事)、I氏(元・某銀行員)、T氏(筆者)でした。『小海線を愛する会』に続く、DRFC公認部会の一つです。『小海線を愛する会』は高原列車の撮影合間に軍事教練が課題であると聞いたことがありますが、当会は純心な関西本線の列車撮影会でした。時には、呼びもしないのに勝手に来て大きな顔をしていたゲスト陣の参加もありました。ある時など、会員の数以上で、近くの小学校の校庭で朝礼台の前で整列し遊んでいました。
活動は、2,3ケ月に1回程度、土曜日の夜、三重県鈴鹿郡(現・亀山市)加太板屋の、旅館村田屋に一泊し、翌日曜日に加太-柘植間で撮影です。旅館には、当時建設中の東名阪国道の関係者も宿泊していて賑やかでした。手でハンドルを廻し交換を呼び出す自動(・・・)電話(・・・)は『加太の1番』でした。
蒸機の煙と山間の新鮮な空気を吸った後、夕刻に列車で帰途に付く、そんな具合で、およそ4、5年は続いたでしょうか。いつしか自然消滅でした。
加太の作品については、散発的な写真発表や、活動報告はあるものの、これまでに主だった報告はあまりなし得ていないようです。また、何十年ぶりかの撮影会なども行っていません。
ところが最近、鉄道ファンでJTSのメンバーの村田屋の親戚の方が、乙訓の老人と話され、元村田屋のご主人をも呼んでスライド映写会等どうかとの話が持ち上がって来ました。本年中にも開催したくメンバーに連絡を取ろうと考えています。
8. 4D特急「あすか」です。当掲示板にも藤本さんが詳しく説明されていたし、いまさら説明の必要もないと思います。伊賀上野から亀山まで柘植にも止まらず、山を下ります。

9.この撮影の前日(1966.3.5)に他の全ての準急と共に格上げされたばかりの212D急行「かすが1号」。いつもの編成に後部2両はキハ35併結です。これも客扱いはしていないのでしょうか。時刻改正時期の回送でしょうか。
10.328D、梅雨も近い5月22日、この日は朝から雨でした。横着にも外へ出ずに村田屋の2階から撮影です。手前に電線が沢山ありますが、雨天で目立ちません。過去に同じ場所から、C57補機の貨物を撮ったことがあります。その時には電線がはっきりとしており、消去したことがあります。先頭車は、キハユニ15ですか? どなたか形式を教えてください。
11.加太駅に到着の2216D急行「はやたま」。駅員は雨具着用です。先頭からキハ55、キハ58、キロ28、後部は58系で交換の為停車します。
12.左はキハ55系213D急行「かすが2号」、加太には停車しません。右が先の「はやたま」キハ58。 
13.時は秋、稲穂は黄金色、ところどころに彼岸花が残っていました。335Dキハ35系4連です。この日は雨雲が低く垂れ込めていました。 
14.ようやく雨があがり始めた頃、墨絵のような山をバックに「あすか」が下って行きます。天気の悪い日でもDCは見栄えがします。 
15.村田屋付近を通過する2216D急行「はやたま」。右に加太の木造小学校が写っています。村田屋に続く民家の屋根も見えます。

次回は、加太トンネルの山上から見た、中在家信号所のDC同士の交換風景などです。
ゴーニ求めて大糸線へ (2)
新潟地方では記録的な大雪に見舞われているようだ。JR西日本の運行情報では、本日、大糸線は大雪のため全列車運休とのことだった。数日前には、ラッセルも走ったらしい。
さて、頚城大野、小滝で撮ったあと、ぶんしゅうさんの運転する車は、平岩へ向かった。こんどは、時間に余裕を持って第7下姫川鉄橋そばにスタンバイ、糸魚川行きを迎え撃った。

▲カーブした第7下姫川鉄橋を渡るキハ52。朱とクリームの国鉄色は、ことさら雪景色の中ではよく映える
大糸線は、平成7年7月の豪雨で姫川が氾濫し大きな被害を受けた。中でも平岩付近は、鉄橋流失、路盤崩壊、レール宙吊りと甚大な被害を受けた。一時はそのまま大糸線非電化区間の廃止も噂されたが、JR西日本は重い腰を上げ、ようやく2年余り後に全線復旧を迎えた。雪で覆われているので、その傷跡も癒えたように見えるが、この地方の地形・地質の険しさを思わずには入られない。
昔日の平岩駅
40年前の”帰りがけの駄賃”で、よく訪れたのが平岩だった。その当時、まだ撮影地の情報は十分にはなく、たまたま車内から見ていて、鉄橋が近く、写し易いと判断したからだった。
大学の春休みに訪れた時は、バックの山が残雪に輝き、雪解け水を集めた姫川は滔々と流れていた。北海道の帰りに寄った身には、春の訪れをはっきり感じたものだった。ただ、ポカポカ陽気は、夜行の疲れもあいまって、たちまち睡魔に襲われ、河原で列車を待つ間、ウトウト寝てしまっていた。
駅は、近隣のスキー場や温泉へ向かう客で、この区間ではいちばんにぎわっていた印象だった。現在のように、写真を撮る人間以外にほとんど人が見られないとは随分違っていた。

▲現在、糸魚川~南小谷間での交換は根知のみだが、当時は平岩も交換駅だった。交換するお互いの列車も長い編成で、無蓋車が並んだ貨物ホームも見られた(昭和45年8月)。
▲第7下姫川鉄橋を渡るキハ5243+5241+55213の編成。カラーとは逆の位置だ。その後の水害ではこの付近の被害が最も激しく、地形が変わってしまった。右手の対岸に並ぶ旅館街もすべて流されてしまった(昭和46年3月)。
▲スキー客でにぎわう平岩駅前。黒い長グツ姿は、その当時のスキーの標準的なスタイルだった。
▲現在の平岩駅。積雪は約1m、駅舎は変わっていない。「平岩駅」の木彫の看板もそのままのようだ。
2009年~2010年 芭石鉄道 冬編 反省とご案内
今回は、相棒の都合もあって、出発・帰国日がガチガチの8泊9日の、芭石鉄道への初めての旅でした。そのため、成都到着後は、インターネットで調べた、下記の旅行社ツアーを利用しました。
http://www.tf-travel.com/guanguang/tds.html
日本からのツアーもありますが、個人で手配するのに比べると、中身が濃い代わりに、融通性がなく、料金もそれなりになります。しかし、中国語が全く話せないとなると、一人で行くのは、かなり難しくなります。
それでも、電子辞書を片手に、行ってやろうとされる方々へ、私の反省をこめて、ご案内させていただきます。
と、思っていて、買い物に行ったら、本屋で『地球の○○方・’09-’10、成都・・・』に訪問方法が掲載されていて、びっくりしました。もうすっかり、メジャーなんですね。買って読んでみましたが、現状とは違っているところもありますので、最新版をまとめます。
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山科電化当時の記憶(その2)
山科大築堤での直線部分ポール建植/ビーム取り付けが終わり、次いでカーブ部分が着手された。前者のポールは先端がやや細くなったものだが、カーブ部分は根本から先端まで全部同じ太さのズングリである。

中央腰にカバンを下げているのが責任者 右側制服姿は立会いの保線区員

東山隧道東口付近でポールを下ろす作業を撮影していて、若い監督と仲良くなった。恐らくは大卒の電気技術者であろう。腰に下げたカバンには、非常時用の雷管や発火信号が入っている由。無線機もない時代だから、もし作業中に本線運行に支障するような事態が発生すれば、赤旗かレールに仕掛ける雷管信号(列車が踏むと火と煙が出て非常事態を告げる。相当に走って前方に仕掛けないと効果がない)、それに発煙信号しかないのである。
山科-京都間5.5kmには途中に亘り線などないから、山科からポールを運んできたトロリーは、荷を降ろすとまた山科に戻らねばならない。その帰りのトロに乗せて貰った。車輪径が小さく、床が極めて低いからバラスをかすめて這うようで、速度は40~45km/hぐらいかと思うが、何とも迫力充分で、そのスピード感は小生の乏しい表現能力を超える。安全ベルトの類は一切なく、何かに掴まっているだけだから、放り出されたら「一巻の終わり」は間違いない。流石に天下の東海道線だから50kレールだが、スプリングはいいとは言えず、結構突き上げショックや縦横斜めの「全方位」振動があり、余計迫力を増す。
運行休止中の中央線(上り右側線)を走ったのだが、途中D51745牽引の976レを後ろから一気に追い抜いた。1/50ぐらいでシャッターを切ればまさしく迫力満点の列車写真が撮れるのだが、何分ともトロリーの振動が激しく、1/250にせざるを得ず、余り地面も流れていない。それでもブレているのはトロリーの振動である。画面をクリック拡大してご覧あれ。撮影は1956年1月24日。
その翌日だったか、翌々日だったか、朝刊雑報を見て絶句した。大築堤上で電化工事関連輸送中のトロリー列車が脱線転覆し、何人かが殉職。その中にあの若い技術者もいた。原因はスピードの出しすぎとあった。

直線部分には既にポールが建ちビームも取付済 京津線は200型

穴にポールを吊り下げてソロリソロリと入れ 土を埋め戻し踏み固める 全て手作業
2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part11 成都→北京→帰国
晴れて、自由人となって、1年を辺境の地で迎えましたが、自由気ままにあちこちに行けるには、日常の義務と責任、早く言えば、家族への気配りが必至です。そのため、介護、炊事、買い物、孫の迎え等々は、欠かせません。
家事が重なり、投稿が中断しました。これも、次回の旅への試練と思えば、苦労も楽しみとなります。
第7・8・9日目 2010年1月4日、5、6日
①成都11:40-(T8)→13:28北京西-(Taxi)→京倫飯店
②京倫飯店→国貿站-(地鉄)→北京空港
③北京空港14:00→関西空港-(JR)→帰宅
今日は、T8乗車まで、充分な時間があります。旅行社の胡小姐の案内のもと、成都市内を見学後、成都站で乗車を待ちました。北京西站まで、往路と同じく、約26時間の夜行寝台列車の旅です。


乙訓の薫風・ロミオ君がサヨナラ運転へ
昨秋から桂駅で乗降するルートで通勤、朝夕は車庫光景を観察している。正月輸送を終え、6300系8連最終(00イヤ50)編成が僚友54編成と共に、解体前提の留置線に安置されているのを見るにつけ、寂しい思いでいた。30日朝いない。夕も。可哀そうにと思っていたら2日朝、元気な姿を見せていた。係員に「どうしたの?」と尋ねたら、「検査のため外れていました」との答え。そこで「サヨナラ運転やるの?」と追い打ち。「やりますよ、そのうち発表します。当日は警備が大変です。」松尾で大市交車の試運転を見た時、特配の社員が上下ホームに張り付いていた。6300系ともなると大変な騒ぎとなるだろう。
ファンクラブのメンバーによると2/20は撮影会(非組合員×)が予定されているそうだ。その後サヨナラ運転を月末まで、HMも取付予定。いずれ発表があると思う。その時は本欄で紹介しよう。関東勢のみなさん、親兄弟に顔見せに帰郷しませんか、クラブメイトも待っていますよ。西向日、長岡天神に案内役が待機しています。準特急君がデイ100系4連撮影場所、小畑川鉄橋上手(おっと今は下手)から左岸を上流に徒歩3分、老人の陋屋があります。餃子定食のある{大阪王将}へは徒歩7分です。ロミオ君に手を振って「バイバイ」やるメイトさん、お声掛けください!
ゴーニ求めて大糸線へ (1)
大糸線のキハ52がいよいよ消えるらしい。ぜひ行きたいと念願していたが、なかなか実行できなかった。糸魚川地域鉄道部のホームページを見ると、キハ52が3両とも稼動する日が何日かある。行きに青春18きっぷを使うことを考えると、おのずと日は限られる。もう行くしかない。幸い雪もたっぷりある。
こんなときに声を掛けてもらったのは、本掲示板でお馴染み、ぶんしゅうさん。近くに住んでいながら、なかなか一緒に行く機会に恵まれていなかったが、今回は、二人で北陸本線の撮影をしながらの糸魚川入りとなった。
2年上のK林さんも愛用されている糸魚川駅前のビジネスホテルに投宿、前夜は二人で久しぶりに一献交わして、翌日は午前5時に起床。前夜からキープしておいたレンタカーで出発。空には星がまたたき、晴天を約束してくれる。

▲始発列車は頚城大野の駅で迎えた。ようやく東の空が明るくなるころ、キハ52がDMH17のエンジン音を響かせて来た。なつかしい国鉄色が夜明けの雪原に映える。停車時間はわずか30秒、赤いテールライトをアクセントに、かじかむ手でシャッターを押し続けた。

▲つぎに来たのは、小滝駅だった。何気に二人でホームへ行ってみると、もう列車が着いているではないか。しまった、時刻を読み違えた。悔し紛れに発車した後追いを写すと、偶然にも、独立した雪山にだけに朝陽が当たっていた。地図を見ると明星山という1188mの山である。
昔日の大糸線
私にとって大糸線の非電化区間(糸魚川~南小谷)は40年ぶりの訪問だった。
学生時代、東北、北海道の帰途、夜行で糸魚川に着くと、大糸線内で貨物1本が撮れる。それを撮って、その日のうちに帰宅ができる。言わば、”帰りがけの駄賃”である。
信州均一周遊券でも回れたが、これを使うと本数の稼げる、小海線、飯山線へ行ってしまい、逆に大糸線へは足が遠のいた。
当時の大糸線非電化区間の運転本数は13往復あった。しかも写真で見るように長編成である。中には信濃大町まで乗り入れるDCもあった。これは、F本さんによると、クモニ83からキハユニ26へ郵便荷物の積み替えを同駅で行うためとのことである。そして、特筆すべきは、新宿から急行「アルプス」が糸魚川まで定期運転されていたことだ。現在の単行9往復とは、隔世の感がある。
貨物列車も通しの貨物がC56牽引で1往復、糸魚川~平岩間の区間貨物がC12牽引で1往復が設定されていた。C56は遠く離れた上諏訪機関区の所属で、信濃大町以北がC56牽引となった。上記の”帰りがけの駄賃”は、上りの通し貨物を狙うのだった。
▲姫川沿いを行くDC列車。キハユニ26+キハ52+キハ52+キハ20+キハ52の5連。乗っているキハ52はトップナンバー車だった。姫川の対岸に国道が見える。現在のようなほぼ全区間シェルターに覆われた国道と違い、まったく無防備な状態には驚かされる(昭和45年7月)。
山科電化前後の記憶(1)
「山科電化」とはいうが、当然東海道全線電化(完了)が正しい。しかし1945年12月から1960年まで、丸々15年間を山科で、それも例の半径600m大カーブに最も近い所に居住したファンとしては、やはり「山科電化」といいたくなる。すなわちこの小文は、東海道線の電化工事ではなく、山科地区の、それもほぼ大カーブ前後に限った「視野の極めて狭い」思い出に過ぎないことをお断りしておく。
東海道線の電化は敗戦後1949年2月1日沼津-静岡、同年5月20日浜松に伸び、7月には湘南電車こと80系が東京から静岡に、翌年2月浜松まで延長。1953年7月21日電化は名古屋に達し、11月には稲沢まで電機が足を伸ばした。1955年7月15日稲沢-米原間電化で関ヶ原の難所が消滅。最後まで残った米原-京都間=東海道線全線電化完了が1956年11月19日であった。これで山科大築堤から蒸機が駆逐された。

先ずはポールがしばし安定して線路脇で寝ていられる枕木小片の要所配布から始まった

線路脇で待機するコンクリートポール 1955年12月10日
山科地区での本格的な電化工事は1年近く前の1955年12月ごろから、それもトロリーが先ず枕木の小片を築堤上の何か所かに配置することから始まった。これはポールが犬走りで安定するための「枕」だった。次いでコンクリートポールが、直線部分に限って配布され、穴掘りが開始された。現在なら専用のドリルがあるが、当時のこととて100%手掘りであり、ただ余計な掘削を避けるため、垂直方向に掘った土を持ち上げ排出する道具(手動)が使われた程度である。

建植済のポールにビームを付ける作業 竹ハシゴと滑車 ロープが活用されているが全くの人海戦術ではある 1955年12月23日 手前は国道1号線鉄橋
ポールの建立もあっけないほど簡単で、長い丸太と滑車でポールを持ち上げ、穴に納め、土を埋め戻して足で踏み固める。垂直かどうかの検査も、垂鉛―というと聞こえがいいが、要は紐にぶら下げた錘を片手でかざし、2方向から目視し、ロープを引っぱって修正しおしまい。
なぜか直線部分のみ、ビーム取付も先行した。ご存知この区間は下り1線、上りは戦時中に1線増やした2線だが、その1線を休止。予め配布済のビームも線路脇に待機している。列車の合間に長い丸太を2方向からロープで支え、滑車で吊り上げ、線路と平行状態で一旦待機。列車が通過直後に90度回して両端をコンクリートポールに止める。なお架線作業は完全に電気屋(電力区)の分野だが、保線区も当然ながら立ち会って、列車の運行状態等にアドバイスしていた。この日は上り線の中央が休止。

京津線跨線橋での上り貨物。蛇足だが1954年8月30日のD52365ボイラー破裂事故はこのあたりで発生し、小生が自宅2階から目撃することになる。
カラフルDC-加太編(1)
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カラフルなディーゼルカー(気動車、以下DCと表記)のこと
蒸気機関車牽引の旅客や貨物列車の撮影によく出掛けました。それらの合間には、どの線区でも必ずカラフルなディーゼルカーが通過しました。蒸機列車と違い、バックを気にしなくてもよいし、なによりも周囲の風景によく溶け込んで見えました。それは当時の日本の風景の一つでした。でも我々は当時、貧乏学生か薄給な勤務初年兵であり、高価なカラーフィルムをふんだんに使えません。蒸機以外は撮影しないことにしていました。それでも時々気が向けば、通過する通勤通学や優等列車のDCにカラーフィルムを消費していました。
そんなポジフィルムが、およそ300コマほど残っています。拙著HP『蒸気機関車山路を行く』のテーマから外れているので、アップもしていませんでしたが最近、ページ稼ぎに『カラフルDC』としてアップしました。幸いカラーの損傷が少ないので見ることはできますが、如何せんバカちょんカメラに中程度の撮影技術。お目にかける代物ではない物も多いのですが、ご辛抱ください。また、DCの形式説明などに誤りなどがあるかと思います。ご遠慮なくコメント欄等でご指摘ください。お願いします。
まずは、加太会で撮影した関西線加太付近のDCからです。
1.加太会発足の日、320D湊町発亀山行き、キハ35が画面左へ25‰の坂を下ります。 
2.同日323D、昼前の亀山発湊町行き。キハ35とキハ20の混編成です。
3.明けて1965年2月28日。206D準急「かすが1号」です。キハ55、キロハ25など。後部には、2両のキハ17が併結されています。まさか客扱いはしていないように思われます。翌日からのダイア改正に備え回送かもしれません。この日は、例の2442レ「鳥羽快速」の運転最終日でした。「かすが1号」の8分後に撮影地を通過しました。最終日の蒸機はC57148で、現在大阪の共永興業株式会社の本社ビル内に陳列されています。同社の本社ビル完成記念に整備陳列したものです。同時発行の「永遠に走れ!われらの蒸気機関車」と題した箱入りSPレコード付記念誌が手元にあります。
一日の撮影終了後、関駅まで出て、文字通り最終の2441レで山陽本線兵庫まで乗車帰宅しました。1964年4月入社の初年兵は、毎朝兵庫から大阪まで、「鳥羽快速」で通勤し、時に帰りも同列車でした。11ヶ月間の客車通勤もこの日でおしまいでした。 
4.中在家信号所の334D湊町発名古屋行き、5時間近くの運転です。画面奥の待避線で335Dと交換し、手前の待避線にバックで進入、再び方向転換して坂を下って行きました。
5.DC列車は併結・分離が得意で、分岐駅の多い関西線にはそんな列車が沢山通過しました。 これもその一つ、準急「平安1、かすが1号、はまゆう」の奈良、白浜、京都行きです。キハ55、キロハ25などが見える10両編成です。
6.同日332D、キハ35の4連です。農家は稲刈りです。刈取り機から粉塵が上っています。懐かしい日本の風景の一つです。
7.同様の334D、今度はキハ20との混成5連です。
次回は、特急「あすか」や急行に格上げされた「かすが」、「はやたま」などをお目にかけます。
Re. ニュースから2題/西日本車体工業8月末日会社解散
K.H.生さんが投稿された【6628】で、堺市が殆ど決まりかけていたLRTの導入を断念したことと、西日本車体工業が8月末日をもって会社解散のニュースを拝読した。
関東地方でも宇都宮市においてJR宇都宮駅東口~清原工業団地間にLRT導入の計画があり、昨年の選挙では知事、市長ともに推進派が勝利したが「税金の無駄使い」「そんなもん作って誰が乗るねん」という意見が根強くあるため、実現の可能性は微妙な情勢である。また、路線バスを運行している関東自動車も乗客を取られる立場から反対しており、中量輸送機関が必要であれば「連接バス」の方が良いという意見もある。確かに需要予測が極めて過大、かつ成人1人当たり1台以上マイカーを保有しているような土地柄、しかも工業団地への通勤者の9割以上がマイカー通勤といった現状では、反対派でなくても、導入に対して疑問を持たざるを得ない部分が多々ある。
堺市の場合は、幹線である南海本線・高野線と阪堺線・上町線の沿線を結ぶネットワークとしての機能を充分に果たせると思う。都電荒川線が好調な理由は、三ノ輪橋、町屋駅前、熊野前、王子駅前、新庚申塚、大塚駅前、東池袋4丁目、鬼子母神前の各停留所で幹線系の鉄道と接続しており、そのフィーダー輸送としての役割を果たしているためと、160円の運賃が適正と認識されているからであると思われる。東急世田谷線も同様のことが言えるであろう。
西日本車体工業(以下西工と略す)の8月末日会社解散のニュースはショックであった。ご承知の通り「西工」は「西鉄」の連結子会社で、平成4年に日産ディーゼル指定のボディー架装メーカーの指定を受けると、今までの西日本中心の販売から全国展開となり、関東地方でも、東京都営、横浜市営、京王バス、東急バス等で日常的に見られるようになった。
我々の世代で「西工」といえば、昭和41年2月にモデルチェンジした、H.K.生さんも書かれている「正面窓付近の逆『く』の字形のデザイン」(通称「かまぼこ形」)を思い出すが、それ以前の車体も全体的に丸味を帯びており、他社の車体とは一線を隔していた。余談になるが、某ミュージック劇場の宣伝カーに使われていた車体の前後共に丸味を帯びていたマイクロバスも「西工」製であった。
昭和53年10月のモデルチェンジは、基本構造は「かまぼこ形」を踏襲するも全面のプレスを変更して、逆『く』の字の角度が浅くなった。(通称「はんぺん形」)
昭和58年10月にフルモデルチェンジが行われ、車体がスケルトン構造となり、丸味がなくなった。以上が路線車の車体の大凡の変遷である。
スケルトン車体以前、モノコック車体時代のユーザーの東限は、近江鉄道辺りと思われているようであるが、実際はもっと東で、昭和28年に旭川市の「近藤バス」に納入実績ある。これは例外としても、近江鉄道に「かまぼこ形」が近江八幡、彦根、長浜の各営業所に配置され、彦根営業所の車両は名古屋近鉄バスと相互乗入れで彦根~大垣間、長浜営業所の車両は木ノ本~敦賀間で使用され、岐阜県、福井県まで足を伸ばしていた。「かまぼこ形」以前の「丸形」は仙台市交通局にまとまった両数が納入されている。また、群馬県の上信電鉄と群馬中央バスに納入されており、これらを初めて見た時には「何だ、これは」と思った。群馬中央バスは昭和61年頃まで生き残り、最後は競輪場の観客輸送に使用されていた。静岡鉄道に「かまぼこ形」がまとまった両数が納入され、東海道線安倍川鉄橋の前後で車窓からよく見られた。
関西では、ユーザーにより「好き嫌い」があったようで、京都市交通局や大阪市交通局、阪急バス等では好んで導入されていたが、京阪バスは「丸形」1両、「かまぼこ形」が4両納入されたのみである。京阪グループでは、江若交通に「かまぼこ形」が6両納入され、安曇川営業所に配置、若江本線にも使用され小浜まで足を伸ばしてした。福井の京福電鉄に「かまぼこ形」が1両いたが、自家用中古車を改造したものである。(京福電鉄のバス部門は子会社の「丸岡バス」に売却して、「丸岡バス」が「京福バス」に社名変更している)岩手県交通に「かまぼこ形」の自家用中古改造車が1両いた。
昭和60年頃まで、地元の京成電鉄バス、新京成電鉄バスに相当数の「かまぼこ形」が見られたが、京成自動車工業が西工のライセンス製造したものである。ところが「NSKボディー」の銘板を付けた車両もあり、実態を調べようと思っていたが廃車されてしまった。
スケルトン車体になってからは新車の他に、大阪市バスや阪急バス等の中古車が広範囲に存在するが、あまりバスの話をすると「この人何者」と思われるのでこの辺で止めておきたい。
会社解散により、正社員290名は、他の西鉄グループの会社に転籍されるであろうが、派遣社員、契約社員等の非正規雇用の人は現契約期間満了と同時に失職することになると思われる。また、下請業者まで含めると影響は計り知れない。今回の最大要因は「日産ディーゼル」と「三菱ふそう」の合弁会社設立により、バス車体の生産を「三菱ふそうバス製造(MFBM)」に集約するというバス業界の再編成によるものであるが、昭和21年10月以降65年に亘る歴史が消え去り、何年か後には「西工」で作られたバスそのものが姿を消してしまうことになると思うと、誠に寂しい限りである。
モノコック車体時代の印象に残っている車両を画像と共に紹介する。
丸形車体
京都市バスのツーマン車/40年式BR20(中書島のターンテーブル)
42年式BR20(北野線代替バス)
仙台市バス/39年式MR470(仙台駅前で初めて見た時、不思議な感じがした)
群馬中央バス/45年式RB120 初年度登録が年式となるため45年式となっているが、41年製のサンプルカーを購入したもの。丸形としては最末期の車両である。
宮崎交通/39年式RC100P 初期の冷房車で冷房機が天井に付いている。
かまぼこ形
かまぼこ形の初期車/44年式BA30(伏見線代替バス)
ワン・ツーマン兼用車/48年式BU04(中書島のターンテーブル)
定期観光バス/49年式MR470(形式からも判るようにエアサスではない)
改造冷房車/51年式RE100/市電錦林車庫廃止時の導入された低床車で、この1両のみ試験的に冷房改造した。
京福電鉄福井支社/43年式MR410(元自家用の送迎車に中扉を設置して路線車に改造した)
近江鉄道/44年式RE120
江若交通/46年式BU05
尼崎市バス/44年式RE100(かまぼこ形の初期車であるが、上下共にサッシ窓のため新しく見える)
京都交通の急行用車/47年式B805L(冷暖房・リクライニングシート付で、山陰線電化前、祇園~園部間を東舞鶴・天橋立系統と合わせて15分間隔で運行されていた。福知山、夜久野行もあり、ダイヤ通り走ると普通列車より早く、丹波と京都市内中心部を直結する交通機関として多くの人に利用されていた)
京成電鉄/上:43年式BA30・下:44年式BU10(西工のライセンス製造の京成車体工業製である。「西工」の銘板が付いていた車両もあったが、会社の諸元表は全車「京成車体工業」と記載されており、実体を調べ損ねた。転居当初、身近に「西工」が存在したことは心強かったが程なく姿を消してしまった。
はんぺん型
京都市交通局/54年式RE121
京都市交通局/57年式K-MP118K
熊本バス/56年式K-MP107K(熊本バスの前身は熊延鉄道である)
熊本電鉄/57年式K-MP118M
2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part10 撮影最終日も『トホホ』
① 犍為天波大酒店8:30-(チャーター車)→8:50石渓站9:32-(第2次)→10:01蜜蜂岩駅
② 蜜蜂岩站12:45-(バイク)→石渓站-(チャーター車)→13:20飯店14:00-(チャーター車)→18:50成都
▲ 遅れましたが、これが、切符売場と待合室です。でも、待合室に待つ人はいません。みんな、ホームでたむろしているのが、日常的です。 続きを読む 






















































