2009年 秋の中国一人旅 Part11 調兵山 撮影ポイント

湯口大先輩、藤本先輩の、貴重な、お宝写真や記事に見入ってしまい、旅の締めくくりをサボっていました。これから、大地のSLを撮りに行かれる方もあろうかと、勝手に思いましたので、撮影ポイントで締めくくりさせていただきます。


撮影ポイント 

A:大明→三井 大明駅を出ると、築堤を走る。並行する道から、ボタ山を背景に列車を撮れる。昼からは、逆光となるので、アングルの工夫が必要です。
  三井→大明 三井駅を出ると、左にカーブして、築堤を上がる。力行するので、煙もまずまずで、冬場なら、迫力ある写真が撮れます。徒歩、約15分を要します。

B:無名駅~暁明 三井~暁明に、ホームもない無名駅がある。その間に鉄橋があります。大きくカーブしているので、横からも、正面からも撮れますが、道から少し歩かなければなりません。

C:調兵山~三家子 上遊型を数多く撮影したいなら、ここが一番です。三家子まで歩いても、約1時間です。上り、下り両方共、撮れます。調兵山から来るSLを撮影するには、午前中が順光です。晴れていれば、夕焼けをバックに撮影できます。

D:三家子 3路線に向かうSLが撮影できます。朝夕は、3本の列車が、発着するシーンを撮影できます。

E:大隆~孤楡柎 ボタ山をバックに撮影できます。大嶺から橋南に向かう線路と、道が交差しますので、ここで、撮影後、橋南へと急いで向かい、追っかけ撮影も可能です。

F:橋南 ホームのない橋南駅です。そんな乗降風景を撮れます。

G:橋南~暁南 王千行き、また調兵山行きの上下の列車は、暁南駅でスイッチバックしますので、2度楽しめます。中間点辺りでは、暁南からの列車を、ボタ山バックに撮れます。

H:橋南~暁南 暁南駅を発車したSLは、築堤を上がって来ます。駅に近い方が、煙も良く出ています。

I:橋南~王千 なだらかな丘陵が続き、牧歌的な光景が広がっています。駅間7kmもありますので、撮影ポイントも多いです。有名なのは、王千駅裏の山からは、教会を前景に入れて撮影できる、調兵山一の撮影ポイントです。ただ、晴れていないと撮影不可です。

J:会譲~暁青 複線が一直線に続きます。他線からの、長編成の石炭やセメントを満載した貨物列車が、中国鉄路の大青駅を目指して、走ります。残念ながら、貨物列車のダイヤが分かりませんが、結構走っています。客車列車も5両以上の編成です。筑豊本線のような光景が続いています。大青からの列車は、午後に順光となります。

その他、調兵山駅で、発車風景も中々です。珍しい蒸気クレーン車が、上遊型への石炭積み込みをする光景も楽しめます。

以上が、私のお勧めする撮影ポイントですが、未発見なポイントもあるかと思いますので、行かれた方は、教えてください。

撮影ポイントを、すべて撮影するなら、博物館見学や全線乗車を含めて、中4日間は必要です。日本からは、成田9:45(NH925)→12:40瀋陽、関空10:05(NH13:35)→13:55瀋陽(2009年11月現在)が、便利です。空港からリムジンバスで、瀋陽駅まで行き、調兵山へのバスに乗れば、当日に着きます。
北京入りですと、瀋陽までは、中国鉄路の高速列車に乗車すれば、約4時間で到着します。この場合は、瀋陽泊となりますが、朝1番(6:30)のバスに乗れば、2時間弱で着きます。

宿泊は、調兵山駅前が、近くて安くて、撮影には1番です。当日でも空室はありますので、予約せずに行っても問題ないと思います。
撮影に関しては、あらかじめ撮影許可証の購入が必要です。調兵山駅2階の旅行社に行ってください。宿も手配してくれます。
問題の現地での1日当たりの費用は、撮影許可証100元+タクシーチャーター料300元+宿泊代128元+食費100元(一般的な食堂・屋台利用)=628元(約8200円)は、必要です。ビールを飲まれる方は、缶ビール5元前後(約65円)の安さです。

これに、瀋陽~調兵山のバス代、25元×2=50元(620円)と、蒸気博物館入場料100元(1300円)を含めても、4泊5日間滞在で、節約すれば、40,000円程度です。マイレージや、格安航空券を購入すれば、結構気軽に行けます。
時期は未定ですが、私も、今冬に再挑戦します。3度目の正直となるように、思った写真が撮れるように頑張ります。

1954年3月北陸から長野、三重 その5


木曾森林鉄道鬼渕鉄橋での8号機 人道橋も兼ねる

不味い食パンと、たくましい行商のおばさんから恵んで頂いた塩コンブとで、腹を物理的に満たした我々3人は、松本の次に中央本線上松で勇躍下車。木曾森林鉄道初見参である。



便乗者には老人もいる 山中の居住者なのだろう 客車の窓は引き違いで、まさしく大工が小屋を建てる感覚で作った車両だが 屋根のカーブが比較的緩やか 運材車に乗るのは営林署の作業員
木曾桧の本場も本場だから 車両はオール桧製 これは屋根のカーブがきつい 手前の8号には「一般用」 長い3号には「学生用」とある

2軸の2号客車

これは特別客車で「偉いさん」用 元来皇太子(現天皇)が視察の際乗車した貴賓車であった由

ボールドウイン1921年5月製 9.8トン 製造番号54837 燃料は石炭ではなく桧の枝を小さく切ったものだから コールバンカーならぬウッドバンカー? 

貯炭場ならぬ貯薪所 お手の物の桧の枝を切ったものが石炭代わりで 油を含み結構火力があるそうな 給水装置も本格的である

まだボールドウインB1リヤタンク機が現役も現役、大活躍していた。3月とあって、まだ伐採や運搬が本格化しておらず、蒸機も半分ぐらいは庫内で休んでいる。ディーゼル機も客車を牽引し、便乗客が大勢いたのも、材木需要が旺盛で、地域全体に活気が満ち溢れていたことを示す。


ボールドウイン1915年4月製1号機 製造番号41997

庫内に休む蒸機たち 手前は大同1号で日立1936年12月製コピー機 次は立山重工業1949年7月製11号 奥はコッペル1923年1月製10か1925年製13

煙突 メインロッドがないコッペル1925年製10トン14号
H.K.ポーター1920年11月製8.6トン6号機の廃車 製造番号6592

酒井製作所製107号ディーゼル機 8トン 日野DA57A装着


おなじみ運材車 この時点ではまだ貫通制動はない

要するに有蓋貨車だが、扉は片側(反対側)にしかない これもオール桧製

北陸鉄道小松線

引続き昭和40年代の北陸鉄道小松線の状況を書き込みする。

小松線の前身は、大正15年12月、小松~白峰間を結ぶ予定で設立された白山電気鉄道で、昭和4年5月小松~鵜川遊泉寺間5.9kmを開業した。鵜川遊泉寺には鉱山があり、明治40年小松~鵜川遊泉寺~鉱山口間に馬車鉄道(遊泉寺鉱山専用鉄道)が開設されていたが閉山により大正7年廃止されてしまった。終点予定地の白峰は、金名線の終点の白山下よりも更に奥の白山山麓の集落で、ここまで鉄道を敷設しても採算が取れるとは思えない。昭和60年代まで福井県勝山~白峰間を京福バスが1日2往復運行していたので、それなりの交通の要所であったのかも知れない。昭和12年11月、社名を小松電気鉄道に変更、終戦直前の昭和20年7月20日付で北陸鉄道に買収された。マイカーの普及と少子化による乗客の減少により昭和61年6月1日付で廃止となった。

昭和40年代前半に在籍した車両は、モハ1001、モハ1002、モハ1201、モハ1802、モハ1814、サハ1601の6両で、モハは全車直接制御車でラッシュ時の連結運転時には各車両に運転手が乗務して協調運転を行っていた。昭和46年9月1日金石線(中橋~大野港)が廃止されると同線で使用されていたモハ3000形(3001~3005)5両が転属して在来車を置き換えた。

モハ1001、1002昭和24年12月日本鉄道自動車製の全長11.8mの小型車で、近江鉄道のクハ21形と同形車である。当初松金線(野々市~松任)に投入され、昭和30年11月15日同線廃止により小松線に転属した。(上42.3.21 下45.11.10撮影)

 

モハ1201能美線(新寺井~鶴来)の前身、能美電気鉄道のデハ301として昭和12年木南車輌で作られた。台車はブリル27GEの古いものを履いていた。前述のモハ1001と同じ全長11.8mの小型車であるが、バランスのよいスタイルをしていると思う。湯口先輩は金石線で撮影されておられるが、私自身、小松線と言えばこの車を思い出す程印象が強い。他の鉄道にもありそうなスタイルであるが同形車は見当たらず、西武鉄道が昭和25年から31年にかけて多摩湖線用に車体新製した旧モハ101形がほぼ同サイズ、扉間窓8個で何となく似ているように思うのは気の性であろうか。(42.3.21撮影)

 

モハ1802河南線(大聖寺~河南~山中・河南~新動橋他)の前身、温泉電軌のデハ22として昭和17年木南車輌作られた。昭和16年11月、山代車庫の火災で大半の車両を焼失し、被災車の車籍と一部機器を利用して急遽作られたと言われている。片山津線(動橋~片山津)で使用されていたが、昭和40年9月24日同線廃止後小松線に転属した。(42.3.21撮影)

 

モハ1814前述のモハ1802と同じく元温泉電軌の車両で、デハ27として昭和18年木南車輌で作られた。車体は1802と同形であるが4個モーターとなった。特筆すべきはコントローラーでスイスのブラウンベボリー社製の円形のものが付いており出所が気になる処である。戦時中のことで車体は新製ながら機器類はあちこちからかき集めたのだろうか。コントローラーもさることながら4個モーターの直接制御車というのも珍しい。(45.11.10撮影/鵜川遊泉寺、下はスイス・ブラウンベボリー社製のコントローラー)

 

サハ1601浅野川線(北鉄金沢~内灘)の前身、浅野川電気鉄道のデハ2として昭和2年日本車輌で作られた。京福電鉄福井支社のホデハ11形、ホデハ211形、福井鉄道モハ21形等同形車が北陸地方の私鉄に存在する。北陸鉄道合併後モハ1601に改番し、昭和30年まで浅野川線、昭和39年まで金石線で使用、小松線に転属後電装解除されてサハとなった。(45.11.10撮影)

尾小屋鉄道

湯口先輩の新シリーズ「1954年3月北陸から長野、三重」は、訪問された当時の各鉄道の様子と息を飲むような画像で、ローカル私鉄ファンにとっては貴重な資料である。

「シリーズその2」の尾小屋鉄道について、私が訪れた昭和40年代の様子を書込みしたいと思うが、この時期多くの会員の方が訪れられたように記憶している。昭和52年3月20日廃止後も多くの車両が動態保存されているのも興味深い。

尾小屋鉄道は大正8年11月26日に旅客営業を開始し、翌年4月1日より貨物営業を開始した。日本鉱業の系列会社となり、尾小屋鉱業所の専用線的な性格であったが、昭和37年9月、日本鉱業が鉱山及び鉄道の経営から手を引き、名鉄の系列会社となった。鉱山関連の輸送がなくなっても沿線人口がそれなりに多く、小松市への通勤、通学客の需要があったため営業が継続されたが、時代の変化と共に通勤客のマイカーの移転、少子化による通学客の減少、沿線人口そのものの減少等により昭和52年3月20日付で廃止となった。鉄道廃止後は「小松バス」に社名を変更してバス専業会社となったが、沿線の過疎化が進み、現在、小松~尾小屋間のバスは僅か3往復(その他に途中の金平まで1往復)である。ちなみに鉄道時代、昭和43年10月時点は14往復、廃止間近の昭和51年3月時点で8往復であった。

(1)機関車

5号機戦後製の蒸気機関車で昭和26年10月に入線しているが、現車の銘板の製造年は昭和22年11月になっていたので、メーカー立山重工業のストック品であったと思われる。翌年の昭和27年には早くもDLが入線、昭和32年DLが増備されると完全に予備機となり、冬の除雪に使用される程度になったが、鉄道廃止前には数回イベント走行した。廃止後は尾小屋にある「小松市立ポッポ汽車展示館」に保存され、年に数回屋外に展示されている。(42.3.21撮影)

 

DC121/昭和27年11月、協三工業で新製、形式の12は自重12tを意味している。次のDC122と共に朝夕の客車列車を引いていた。廃止後は「石川県立小松児童会館」で動態保存され「なかよし鉄道」として定期的に運転されている。(42.3.21撮影)

 

DC122昭和33年12月、協三工業で新製した12t機で、性能的にはDC121と同一であるがスタイルは大きく変化した。廃止後は旧尾小屋駅構内で保存されているが、野ざらしのため状態は悪い。(46.3.20撮影)

 

(2)気動車

キハ1/昭和12年日本車輌製、当初はウォーケッシャ6-ML型ガソリンエンジンを搭載していたが、戦時中の木炭車を経て昭和27年にKD3型ディーゼルに、昭和32年UD3型に乗せ換えられた。廃止後は「石川県立小松児童会館」で動態保存されている。保存後雪害により屋根を破損し復旧時に切妻となった。変速機はトルコンに換装されている。(42.3.21撮影/上.金野町~金平間、下.新小松)

 

 

キハ2昭和13年日立製作所製で、当初から「日立430RO型」ディーゼルエンジンを換装していた。戦中、戦後の動向はキハ1と同じである。廃止後は赤門鉄道軽便保存会により、旧尾小屋駅構内の車庫内に保存されている。(42.3.21撮影/金野町~金平間、下46.3.20撮影/新小松)

 

キハ3昭和39年12月に入線した戦後製の車両で、前身は昭和29年6月汽車会社製の元遠州鉄道奥山線のキハ1803、昭和39年11月1日、奥山線廃止後直ぐに入線したが、暫く新小松の車庫に留置され、認可は41年1月であった。エンジンはいすゞDA45型を換装していた。遠州鉄道時代の車号「キハ1803」の「キハ180」の部分を塗潰し、「3」の上に「キハ」の文字を書き加えて使用していたのが何とも軽便らしかった。廃止後は尾小屋の「小松市立ポッポ汽車展示館」で動態保存されている。(42.3.21撮影)

 

(3)客車

ハフ1~3大正7年6月、開業に際し名古屋電車製作所で新製された客車で、車体の外側に鉄板が貼られたり、窓が2段に改造されていたがよく原型を保っていた。ハフ3は車軸毀損で昭和42年に廃車、その後ハフ2も廃車された。最後まで残ったハフ1は廃止後キハ3と共に「小松市立ポッポ汽車展示館」で動態保存されている。(上、中45.11.10、下42.3.21撮影)

 

ホハフ1湯口先輩の画像及びキャプションの通り、元三重交通のサ331、明治45年日本車輌製の客車で昭和25年12月に入線した。以降継続的に三重交通から客車を譲り受けている。(46.3.20撮影)

 

ホハフ2大正2年名古屋電車製作所製で昭和31年3月に入線した。前歴は三重交通サ342←三重鉄道ホハ6←四日市鉄道(現近鉄湯の山線の前身)ホハ6である。前述のホハフ1とは製造年が1年しか違わず、シングルルーフの車体は三重交通時代の改造と思われる。(42.3.21撮影)

 

ホハフ3大正10年梅鉢鉄工所製で昭和30年12月に入線した。前歴は三重交通サ321←三重鉄道ホハ12←中勢鉄道(戦前岩田橋~久居~石橋~伊勢川口間を営業していた)ハニ2←中勢鉄道ボコ2である。車体の老朽化により昭和46年頃阪野工業所の出張工事により半鋼製の新製車体と乗せ換えられた。廃止後は「石川県立小松児童会館」で動態保存されている。(42.3.21、下45.11.10撮影)

 

ホハフ5大正10年梅鉢鉄工所製で昭和32年10月に入線した。前歴は三重交通サ322←三重鉄道ホハ13←中勢鉄道ハニ3←中勢鉄道ボコ3である。前述のホハフ3とは扉の形状が異なるだけで同形であった。シングルルーフ、ホハフ3と共に前後非対称の車体は、三重交通時代に大幅に手を加えられたと思われる。(42.3.21撮影)

 

ホハフ6大正2年名古屋電車製作所製で昭和34年11月に入線した。前歴は三重交通サ352←三重鉄道ホハ2←四日市鉄道ホハ2である。大きな窓の軽快な車体は、三重交通時代の改造と思われる。(42.3.21撮影)

 

ホハフ7大正14年日本車輌製で昭和37年7月に入線した。前歴は三重交通サニ403←北勢電気鉄道(現三岐鉄道北勢線の前身)ハフ11←北勢鉄道ハフ11で、車体は2段窓以外はほぼオリジナルのままであった。車体の老朽化により昭和43年阪野工業所の出張工事により半鋼製の新製車体と乗せ換えられた。廃止後は赤門鉄道軽便保存会により、旧尾小屋駅構内の車庫内に保存されている。(42.3.21撮影)

 

ホハフ8大正13年日本車輌製で前述のホハフ7と共に昭和37年7月に入線した。前歴は三重交通サニ401←北勢電気鉄道(現三岐鉄道北勢線の前身)ハフ9←北勢鉄道ハフ9で、車体は2段窓以外はほぼオリジナルのままであった。車体の老朽化により昭和43年阪野工業所の出張工事により半鋼製の新製車体と乗せ換えられた。廃止後は「石川県立小松児童会館」で動態保存されている。(上42.3.21、46.3.20撮影)

 

保存状況を纏めると次の通りである。

 小松市立ポッポ汽車展示館

蒸機No5  キハ3  ハフ1

 石川県立小松児童会館

DC121  キハ1  ホハフ3  ホハフ8 

 旧尾小屋駅構内(赤門鉄道軽便保存会)

キハ2  ホハフ7  DC122(個人が保存)

小松市立ポッポ汽車展示館は尾小屋に、石川県立児童会館は北陸本線粟津駅徒歩10分の所にある。石川県立小松児童会館には全長480mの線路が敷設されており、本館的な運転がされている。是非行きたいと思っているが、東京からは遠くて中々行けないのと、運転されている日に両方を訪れると宿泊する必要があるので現状では難しい。リタイヤ後、京都に戻った暁には真っ先に行きたいと思っている。

 

1954年3月 北陸から長野、三重 その4


松本電鉄ハニフ1 国電の始祖とされ現在大宮の鉄道博物館で復元展示

先回が10月14日のアップだから、半月空いてしまったが、その4を続けさせて頂く。

ともかく寒かった長野でのステホは、高校生たる小生に、断固寝袋装備=そのためのアルバイトを決断させたが、その活用は1年後になる。3人はいかに少ない出費で空腹を満たすか談合し、味覚や栄養等を一切無視すれば、食パンが最もコストパフォーマンスに優れることで合意成立。1本を求めて1人が裸のまま小脇に抱え(袋に入れる習慣はまだなく、古新聞で包むのがせいぜい)、篠ノ井線列車で松本へ。先頭の木製客車に乗ったら、これが行商人専用車で、これから稼ぎに行く「ガンガン部隊」=元気で実にたくましい、モンペに地下足袋姿のおばさん・婆さんの意気盛んな一団が、お喋りと情報交換に精を出していて圧倒される。小さくなった3人は無言で食パンをちぎっては食べ、ちぎっては食べ。物理的に腹は満たされるが、バターもジャムもなく、空腹でも正直すこぶるを通り越した、実に不味いパンだった。おばさんの1人が、食パンのみをひたすら食べ続ける若者3人を見かね、確か塩コブか何かをくれたと記憶する。

松本ではまず松本電鉄新村へ。庫内に納まっているハニフ1がお目当てだったが、連結器が外してある。聞けば撮影にやってくる人が庫外に引き出しをせがむのがうるさくて、とのこと。致し方なくそのまま撮影。この車両はその後も保管され続け、半世紀後やっとJR東が引取って修復し、現在は大宮の鉄道博物館にある。

甲武鉄道が買収で鉄道院に引き継がれ、中央線で働いた後客車として佐久鉄道や三河鉄道、信濃鉄道に散っていった2軸電車の成れの果て。このハニフ1は信濃鉄道から1922年松本電鉄にやってきた2両のうちの1両で、甲武ハ9→院デ968→信濃ロハフ1が経歴である。電動車としては自重10.9t、45馬力×2、定員53(内座席32)人だった。写真の反対側妻には出窓様の運転手用窓(ベスチュビユールというのが一般的だが、これは日本での実務家・ファン独特の表現らしい)が残っている。車体は甲武鉄道飯田町工場製である。


松本電鉄デワ2 新村

デワ2は天野工場1918年製、伊那電気鉄道からの購入である。屋根の両端はかつては丸かったらしいが、改造でいかにも貨車、といわんばかりである。


松本電鉄クハ16

クハ16は国鉄クハ29013の購入で、信濃鉄道買収車モハ20003の電装解除・制御車化したもの。諸兄モハ20系というと、ビジネス特急「こだま」の一統か、あるいは阪和電鉄買収車を思い浮かべる方が多いと思うが、初代の20台は信濃鉄道買収車だったのである。

その後大糸南線を「ひと覗き」し北松本区へ。上記松本電鉄クハ16の仲間が一山、元気に働いていた。モハ20、モハユニ21、クハ29が買収後の型式だったが、1953年改番でモハ1100、モハユニ3100、クハ5100の型式になっている。モハユニ3100は後電装を解き、クハユニ7100に。


国鉄クハ5101 北松本

国鉄モハ1101 北松本
国鉄モハユニ3100+モハ1102+クハ5101 松本 1954.3.25 3型式全部が揃った編成 パンタはPS13に変っているが、原型を良く残す

なお前回コメントを2件忘れていた。どちらも北陸鉄道金沢市内線で、2003の方は、画面右側の鄙びた商家にパチンコの看板がある。この当時派手な看板のパチンコ屋もないではなかったが、大方はかような「質実剛健」ぶりで、出玉はオール15(それでも10から15になっていた)だった。勿論玉は自分の手で挿入し、自分で弾くのである。台の後ろには人間1人が通れる隙間があり、アウト玉を人力で台上部に戻していた。それを積み過ぎると台が傾いて玉が当り穴に入りにくくなるそうで、「コラッ、アウト下ろせ」と怒鳴ると、中から「空打ちせんといて!」とやり返す風景が至極当たり前に展開していた(とのことである)。

次の2103の写真も右端に「帰国の皆様 お待ちしていました」との垂れ幕がある。1954年にもなれば、外地からの旧軍人引き上げ(帰国)はほぼ終わっており、残るのはソ連シベリア抑留者であった。日本敗戦のどさくさに、60万人といわれる軍人、民間人をシベリアに抑留し続け、過酷な労働と気候で6万人が死んだ。

これはロシア革命の際、列強各国がチェコ兵救出を名目にシベリアに出兵し、我国も参加。要は露骨な革命干渉だったのだが、わが国も1919~1925年の間に死傷者5,000人、戦費9億円を費やしながら、何一つ得るものはなかった、というのが「シベリア出兵」である。

我国の「シベリア出兵」を深く怨んだスターリンが、四半世紀後その報復に60万人を抑留した、とされている。「岸壁の母」もそうだが、舞鶴港にも、かなり遅くまでシベリア帰りの復員船が到達していた。その名残を伝える垂れ幕なのである。           

43年前の美祢線と大嶺線(1)

 デジタル青信号読者のみなさん、お久しぶりです。
 893-2さん、美祢線の写真をありがとうございます。お陰さまで刺激を受け、43年前を思い出し、投稿しました。小生のホームページに美祢線も掲載予定で、枠を設定しているのですが、現在は東北地方を作成中、それも最近は進捗ままならずの状態、中国地方にとどくのは一体いつ頃か皆目見当もつかない状況です。
 でも、タイムリーなことも必要かと、先にデジタル青信号に投稿することにしました。ご覧ください。

 撮影は、1966(昭和41)年 8月14日、43年前でした。フィルムは TRI-X と AGFA です。

  夏の朝6時前に厚保(あつ)駅から、松ヶ瀬信号所方向に徒歩で南下。線路と厚狭川と細い道路が一体で、奥畑地区まで約1km続く。奥畑に到着した頃、川面の霧がようやく晴れ、早速オール・セキの石灰石輸送列車が通過して行きました。
 先の貨物と、松ヶ瀬信号所で交換した、空車のやはりオール・セキ車、美祢行きが通過。早朝ゆえに蒸気が白い。D51のバック運転です。 
空車の轟音が耳をつんざくばかり。線路脇の狭い空間から風圧で飛ばされそう。       

 約30分後、やはりセキの一辺倒。空は曇り空、熱くなくて助かるがやはり青色でないと。   

 先の貨物と厚保駅で交換した、上り客車。長門市発です。美祢線の客車列車はたったの1往復しかありません。下り列車は夕方6時以降の運行、夏でも撮影は困難でしょう。

 間髪をいれずに、セキと無蓋・有蓋車の混合編成が通過。

ここで、厚保駅方向に戻る。見下ろせる高台を登ったり降りたり。厚狭川と山に挟まれた狭い空間に線路があり、なかなか広く見渡せるところが無い。二つのトンネルに挟まれた鉄橋で撮る。

 厚保駅手前、左のトンネルを越えるとすぐに駅。

駅手前で下り貨物を。  

厚保駅に戻る。藁ぶきの大きな屋根の民家が右に見える。

 戻ったのが丁度13時。この間の7時間で撮影した貨物は上下16本でした。なにしろ6時から18時までの12時間で30数本のセキ・ホキ貨物が通過する幹線です。少し見難いのですが、中国支社昭和41年10月1日改正、41年3月25日補訂のダイヤを掲載します。上下二段に編集ししています。拡大してご覧ください。 

 厚保から、729Dで南大嶺へ、さらに633レで大嶺に向かいました。次回は大嶺駅構内や、ボタ山の写真などをご覧ください。

こんなんあるでぇ

例によって撮った時期はあいまいですが、昭和48年1月頃です。同行者がいますので覚えていれば確定できます。

早朝に通勤客や通学客で混み合う?南大嶺駅

DD91の取扱説明書

中学校時代 亀岡から通学していた友人が 時々遅刻するので理由を聞くと DD91が故障して列車が遅れたとのこと。DD91はC57と重連で運用されていたような印象があります。ところでこのDD91の取扱説明書の表紙をお目にかけます。残念ながら表紙しかなく、中身は持ち合わせていません。

飛鳥山公園モノレール

7月17日(金曜日)JR京浜東北線王子駅近くの飛鳥山山麓と山頂を結ぶモノレールが運行を開始した。

飛鳥山公園は八代将軍徳川吉宗が享保の改革の一環として桜を1270本植え、江戸の花見の名所とした所である。当時、上野公園等他の桜の名所で禁止されていた「酒宴」が容認されていたこともあり大いに賑わったといわれている。現在も桜の名所として多くの人が訪れ、桜と都電を撮影する人も多い。私も会社帰りに夜桜と都電の撮影を試みたが、露出不足で失敗した。

最寄駅はJR京浜東北線、東京メトロ南北線の王子駅か都電荒川線の飛鳥山停留所であるが、王子駅から歩くと公園が山頂付近にあるため急な階段を登ることになり、高齢者や小さな子供連れの人は大変であった。これらの人も気軽に公園を訪れることができるように東京都北区が国交省の「まちづくり交付金」を活用してモノレールが設置した。ちなみに飛鳥山電停からは階段少し上がるだけであるが、都電は王子駅前を出てJRのガードを潜ると急勾配で飛鳥山に向かう。

モノレールの概要は次の通りである。

(1) 運行者  東京都北区

(2) 形 式  自走式モノレール

(3) 延 長  レール延長48m(傾斜角度24度)

(4) 車両定員 16人乗(座席6人・立席10人)

(5) 走行区間 飛鳥山公園入り口~飛鳥山山頂

(6) 走行速度 30m/分(片道所要時間2分)

(7) 標高差  17.4m

(8) 運行方法 無人運転(押しボタン運転方式)

(9) 運転時間 10時~16時、第1木曜日10時~12時は点検のため運休。

(10)運 賃  無料

(11)メーカー 嘉穂製作所

(12)その他  防犯カメラ車内1基、乗り場2基設置。車いす、ベビーカーも利用可。乗り場にホームドア設置。

メーカーの嘉穂製作所は、7月24日投稿【3734】「1080見学記」で書いた、「1080号機のオーナー企業であった日鉄鉱業」の関連会社で、特殊モノレールのメーカーとして国内外で約150基の納入実績がある。五能線深浦駅近くの「ウエスパ椿山」、北九州市皿倉山展望台、天橋立ビューランド等は比較的有名で、国内のみならず韓国にも相当数が納入されている。

社名の「嘉穂」は本社所在地「福岡県嘉穂郡」から命名されたが、平成18年3月26日飯塚市との合併で消えてしまった。現在の住所は飯塚市大分567番地で、「大分」は「おおいた」ではなく「だいぶ」と読む。場所は篠栗線の筑前大分駅と筑豊本線の上穂波駅のほぼ中間地点である。「上穂波」といえば我々の年代の方にとっては懐かしい駅名ではないだろうか。

飛鳥山公園内には、D51853とかつて荒川線を走っていた6000形6080が保存されており、荒川線の撮影に来られた際には、これらの見学と併せてモノレールにもご乗車いただきたいと思う。

 

飛鳥山公園入り口駅と運転中のモノレール/全長僅か48mのため山頂駅が見えている。

営業案内

 都電を見下ろしながら登ってくるモノレール

間もなく山頂駅に到着

 

山頂駅に到着

 

公園入り口駅に比べるとシンプルな山頂駅

 

標高25.4mの飛鳥山山頂

 

都電6080

 

荒川線で現役時代の6080

 

D51853/角型ドームの戦時形D51であるが、都電共々ここまでの運搬はさぞ大変であったと思われる。

教えて!なんでも探偵団(その2)

藤本先生、解説をありがとうございます。

少しずつ思い出しております。年代は間違えてないようでした。ただ時間に関しては記憶と誤差があります。ご覧のように西を向いている機関車の正面からの光線ですから午後、それも記憶では16時頃だったように思います。ご高察をお願いします。

教えて!なんでも探偵団(その2)

古い写真を整理していたらこんなモンが出てきよりました。

これはなんでっしゃろ?撮ったのは昭和も華やかなりし頃、そうや37、8年の初秋やったと思います。どなたかご存じでしたら教えてやっとくれやす。

福知山機関区の所属になっていた。

DD911 福知山機関区の所属になっていた。

京都駅山陰線ホーム機回し線

 

2009年 秋の中国一人旅 Paet10 鉄媒鉱務局 調兵山へ

第9日目  9月25日

今日も、モーニングコールより早く、4時に起きました。外はまだ真っ暗です。バスタブにゆっくりと浸かって、全身を目覚めさせました。

5:00に大明へ向けての、回送列車の始発があります。列車番号は、Hを頭につけたH111です。夜間撮影を試みましたが、前照灯が明るすぎて、ハレーションを起こしました。失敗です。真っ暗の中、出発していきました。
▲ 111が出発後の静かなホーム
▲ ようやく、薄明るくなりかけた、5:32に王千に向けて、YS1772牽引のPC5両の回送列車H211。出発直前まで連結せず、入念な検査を続けていました。 続きを読む

西武トレインフェステバル2009in横瀬・秩父鉄道見学記

10月4日(日曜日)西武鉄道秩父線横瀬車両基地で「西武トレインフェステバル2009in横瀬」が開催され、昨年に続いて見学した。年に1度だけ横瀬車両基地に保存されている機関車を屋外で見学できるチャンスで、1度見れば良いというものではなく、良いものは何度見ても良い。機関車の並びは毎年変わり、昨年停車位置が悪かった車両が撮影できるチャンスでもある。今年は西武秩父線40周年ということで、西武秩父駅を第2会場としてE34+E32+E31を中線に展示し、旧塗装に復元したクモハ271-クモハ272の2連を横瀬~西武秩父間の臨時電車として9往復半運転された。昨年は初めての見学でもあり、見学・撮影に3時間以上費やしたが、今年は1時間半位にして秩父鉄道に行くことにした。

朝から国分寺まで出かける用事があり、会場には予定より少し遅れて10時40分頃到着した。途中武蔵丘信号所で「銀河鉄道999」のラッピング車と交換し、次の飯能発西武秩父行に充当されるので撮影することにした。会場では元特急車クハ5504が10000系、4000系、本日運転された臨時快速急行の241F+243F編成と並べられて展示されていた。構内は大変な賑わいで、子供や孫をデッキに乗せて撮影する人が多く中々撮影できない。E61のデッキで長電話をするおやじまで現れ、さすがにこれには撮影者の一人が降りてもらうよう頼みに行った。但し、12時前後の撮影タイム以外はデッキに上がってもかまわない。途中で先程のラッピング車を撮影のために駅に戻ったりしたが、時間が経つのを忘れてしまい、秩父鉄道の蒸機列車の撮影に間に合う電車に乗り遅れてしまった。臨電で西武秩父に行き、中線に停められていたE34+E32+E31を撮影した。

西武秩父線車両の並び

 かつての特急「レッドアロー号」クハ5505

ED102/昨年は停車位置がやや悪かったが今年は広い場所で撮影できた。国鉄時代の塗装と車号に戻されているが、個人的には西武時代のままでもよかったと思う。他の電機は旧掲示板【617】を参照いただきたい。

 

モハ505/昭和29年西武所沢工場製の17m車である。その後クモハ355に改番され、平成2年多摩湖線を最後に廃車された。旧車号、旧塗装に戻されて保存されている。昨年は停車位置が悪く全姿が撮影できなかった。この場所は架線がないためパンタを上げられないのが残念である。

 

モハ505の台車

「銀河鉄道999」のラッピング車で、上からクハ3011、クハ3012、モハ3211、モハ3212

 

横瀬~西武秩父間の臨時電車/クモハ272+クモハ271

 

クモハ271とE34の並び

 

E32+E31+E34

秩父鉄道お花畑駅に行き、12時30分発の電車を待っていると、入線時の塗装に変更後、昨日から営業運転を開始したばかりの1007編成が来た。途中浦山口と武州日野で上り電車と交換し、三峰口に13時3分に到着した。5月4日に準特急氏、ロギング太郎氏、シグマ太郎氏、デカンショまつり号氏とご一緒した時と同じ時間帯の電車である。三峰口到着後、乗客が降りるとすぐに留置線に引き上げ、蒸機列車と西武の4000系に挟まれた位置に停められてしまった。蒸機列車を白久で撮影後、再度三峰口に戻れば撮影できるので、上り電車に乗り白久で下車。場所探しが面倒なのと曇天のため、5月4日と同様、駅から徒歩30秒の所で撮影したが、線路脇の草は綺麗に刈られていた。三峰口には先程蒸機列車が停車していた3番線に到着したため、またしても撮影は不可能であったが、今回は天候が良くないので蒸機諦め、14時56分発羽生行で出庫する1007編成を撮影することにした。撮影後15時2分発西武4000系の池袋行快速急行で帰途に就いた。横瀬車両基地ではD16が展示車両を庫内に入れる作業をしており、来年も是非見学したいと思った。秩父鉄道は旧塗装に変更した1002編成こそ撮れなかったが、1007編成が撮れたので大満足であった。

 

ターンテーブルを出るC58363/ターンテーブルの周りには柵があり、方向転換を見学することが可能である。

 

白久駅徒歩30秒の踏切/線路際の雑草は綺麗に刈られていた。

 

下り向き先頭デハはダブルパンタになりイメージが変わったが、上り向きクハは原形のイメージに近い。中間車は冷房改造されていないので原形のままである。上からクハ1211+デハ1111+デハ1011 ・ クハ1201+デハ1101+デハ1001 ・ デハ1101

 

 西武クハ4011とデハ1007の並び

 

入換中の1007編成

2009年 秋の中国一人旅 Part9 再び、鉄媒鉱務局 調兵山へ

第8日目  9月24日

旅も終わりに近づくと、ようやく緊張感が出てきました。遅すぎた感がありますが、5時のモーニングコールよりも早く起きられました。2日後に同じホテルに宿泊しますので、荷物は預けて、最小限の荷物を持って、チェックアウトしました。
6時30分発、調兵山行きのバスは、発車を待っていましたので、急いで、屋台の朝食を買い込んで、乗車しました。さすが、この時間に渋滞はありません。運賃は、25元(325円)、タクシーの10分の1以下です。

▲ この中型バスですが、最後部右座席前の席が、撤去してあり、広々とした特等席があります。乗車される方は、お薦めします。8:10には、調兵山駅から少し離れた、長距離バスターミナルに着きました。所要時間1時間40分です。
 鉄と同様タイプの、綺麗な調兵山バスターミナルです。
▲ チェックインした駅前ホテルの部屋から見た調兵山駅です。地平線には、ボタ山も見えます。


この時間ですと、大明・王千・大青から到着する列車3本を撮れます。タクシーで、駅に向かいました。まず、駅2階の旅行社で、2日分の撮影料を支払い、許可証を受け取りました。

天気も上々です。今日は、調兵山から、出きる限り徒歩で行こうと、線路沿いを歩き始めました。
▲ まず、やってきたのは、YS1770牽引の、大明から8:34着の104列車。

▲ 続いて、バック運転ながら、YS1771牽引の、王千から8:45着の204列車。日本では、こんな場所からの撮影は、今はできません。ここでは、線路=生活道路でもあります。機関手も慣れたもので、手を振ってくれます。気持ちよく撮影できるのが、鉄媒鉱務局線のいいところです。ただ、遅れたり、ダイヤの分らない貨物や業務車両も走行していますので、十分な注意が必要です。

▲ この後、調兵山~三家子間にホームもあり、全列車停車するのに駅無の無い駅に着くと、撫順炭鉱線で見たのと同じような業務用DCが走行してきました。
▲ 大青からの308列車は、東風4型7721が、5両のPCを牽引してきました。

一服後は、調兵山から、大明・王千へ向けて、走ってくるのを待ち受けます。朝のこの区間は、直線で、やや斜めからの順光で、バッチリですが、今日は、天気は良すぎて、温度が高く、SLは出発後には、直ぐに力行を止めてしまいますので、肝心の煙が出ません。やはり、冬場が良さそうです。
▲ 調兵山~三家子間の無名駅を出発する、YS1770牽引の、王千行きの203列車

▲ 次発のYS1771牽引の、大明行きの103列車

調兵山駅にも近いお薦め撮影地です。約3キロ、徒歩で40分程度です。邪魔ものもなく、直線が続いています。



その後、三家子から大隆まで2キロを歩きました。大隆では、東風5B型0039牽引の石炭貨物がいました。客車列車だけでなく、DL牽引ですが貨物列車も結構走行しています。

ここで、一旦、バスで調兵山に戻り、ホテルにチェックイン後、余分な荷物を置いて、しばし休憩しました。昼食後にタクシーで暁南駅に向かい、13:22発車の206列車を狙いました。
 ここでは、朝に大青から308列車を牽引していた東風4型7721が、単行で来ていて、206列車の10分前に発車しました。

▲ この7721号機は、大隆から14:45に橋南を通過して、暁南に戻りました。そして、15:40に15両の石炭貨物を牽引して、橋南から大隆へと向かいましたので、多分、大隆からは、渡り線を圣由して、中国鉄路の大青操作場へと行ったと想像できます。

これが、この機関車の運用なら、もし308列車が、SLの場合、貨物牽引も有りかも知れません。もう少し、機関車の運用を調べる必要が、ありそうです。

▲ 暁南駅を発車して、築堤を行く、YS1770牽引の206列車

▲ この後、線路沿いを橋南駅方面に約4キロを歩きました。途中で、朝見た業務用のDC1両が走ってきたので、トウモロコシ畑の中を走行するシーンをおさめました。

▲ ボタ山をバックに撮りたかったのですが、この頃より、雲天模様となり、霞がかってきました。夕焼けの中を走行するシーンも、期待できなくなっていました。
仕方なく、ホームの無い橋南駅で、17:20発の調兵山行き208列車を待ちました。

17:36 三家子で下車。28分間停車です。大明からの列車が、着いているはずでしたが、遅れていました。この時間は、調兵山から大青行きの列車も三家子駅に着きます。列車が、3本も停車する、夕刻のゴールデンタイムです。しかし、刻々と夕闇が近づいてきます。調兵山の日没は早いのです。

三家子~調兵山間の無名駅での発車も撮ってみたかったので、先に発車する列車に乗換えて向かいました。しかし、夜間撮影を試みましたが、デジカメでは初めてです。3列車を撮りましたが、停車時間も短く、お見せできるような写真は、撮れませんでした。未熟です。


▲ 闇世の中を調兵山駅に向かって歩き、ここで、夜間撮影の練習に励みました。帰国したら、福田大先生に教授してもらわないといけません。

明朝も、撮影チャンスは、たくさんあります。今日は、歩きまくって疲れました。明日は、タクシーをチャーターして、ピックアップした撮影地と、撮影時刻を再確認して、早めの睡眠としました。 Part10 へ続く

こんなんあるでぇ

昭和39年2月の備後落合駅。

木次線から芸備線に乗り換え広島へ出るまでの間、この駅で駅弁を買った。山間の駅に似合わない二段重ねの幕の内弁当に驚いたのを覚えている。

写真は芸備線を上ってきた8620+c58重連貨物

2009年 秋の中国一人旅 Part8 瀋撫城際列車

今日から、大リーグでは、プレーオフに、日本でもCSが始まりました。鉄道に次に、大好きな野球の熱戦に見入っています。旅行記のアップロードもあります。撮影にはもってこいの秋晴れが続き、待望の車が納車されたのに、中々、出て行く決心がつかず、迷っているぶんしゅうです。

第7日目 9月23日 その2

ジテを撮り終えた頃より、空模様が怪しくなってきました。ポツポツと雨が降り出したので、撮影場所を、留置線から検車区に変えて、凸型電機を撮っていると、職員の偉いさんから、許可なし撮影は、ダメと言う風な態度で、何か言われました。

600型は、主力のELだが、休車が目立っています。

600型のトップナンバー

多分、職員輸送用と思われます。

これは、珍品です。

ここでの撮影は、切り上げて、タクシーで来た未舗装の泥んこ道を、歩きました。まず。今の日本では、存在しないような悪路です。舗装された駅前道路とは、雲泥の差です。

しばらく歩くと、自転車タクシーが、昼食に自宅に戻ってきたのを見つけました。撫順駅まで乗りたいと言うと、2つ返事でOKが出ました。5元(65円)です。濡れなくて良いので、助かりました。乗ること、約30分で、撫順駅着撫順北駅も、みて見たかったので、頼みましたが、遠すぎるので、ここで降りて欲しいと言われました。仕方なく、ここからは、普通のタクシーです。撫順北駅までは、7元(91円)でした。


撫順北駅は、立派な駅です。中国には、約25年前から来ていますが、ここ5~6年の空港、鉄道駅の変貌ぶりは、驚くばかりです。何と言っても、ホームのかさ上げ工事が、進められたのは、旅行者にとって、乗り降りが、大変楽になりました。まだ、田舎の駅では、低いホームがあって、重いスーツケースを、エイヤャーと持ち上げるのは、誰もが難儀します。

駅正面右側が、切符売場です。ぶらりと、真新しい掲示板を見ていると、瀋撫城際列車の時刻表がありました。撫順北~瀋陽を走る区間列車です。現在時刻は、14:00、丁度、撫順北駅14:39発、瀋陽行きの列車があります。ラッキーです。

蒸気は、現在運行中です。下記は、計画です。今は、1編成が往復していますが、2編成に増車されたら、運行本数も増えると。みました。

これらを考慮すると、近い将来は、下記になります。作成してみました。こうなれば、瀋陽のホテルに宿泊して、朝夕の撫順炭鉱線を撮影して、日帰り可能です。

列車番号をメモって、窓口に向かいました。撫順北駅に停車する列車は、多くありません。しかし、切符売場は、他の駅の倍以上の広さがあり、天井も高くて、明るくなっています。営業している窓口は、10数ヶ所のうち、3箇所だけでした。待っている人も数名で、ガランとしています。

女子大生と思しき4人がいる窓口が、一番早そうに見えたので、後に並びながら聞いてみました。国慶節休みに4人で、どこかに行きたいようですが、中々、求める切符がありません。窓口の職員は、キーボードをたたいて、代替の列車を探してくれますが、モニターに出てくるのは、希望列車があっても、空席は、1~2名程度です。

田舎の駅です。のんびりしています。何度も何度も、諦めずに空席を探してくれています。これは、付き合いきれないと、彼女達に断ってから、今日のこの列車の切符を1枚欲しい。できれば1等車(軟座)を言って、メモを見せました。直ぐに発券されました。

瀋撫城際列車4396列車切符 1等車 17元(221円)

購入後、正面入口から待合室に入りました。入った正面には、『貴方が、瀋撫城際列車に乗ることを歓迎します。』とのスローガンの看板がありました。良く見ますと、2008年11月に工事着手、2009年7月30日公式開通営業開始。瀋撫城際鉄路全距離は66.1キロ、列車名は、『和諧号』、最高速度120km/h、最短所要時間49分。全区間には、18の駅がある。等々の紹介文が書かれていました。

まだ、開通してのホヤホヤです。14:07瀋陽からの折返し列車が、到着しました。そして、その車両は、昨年8月に、北京北駅から万里の長城へと向かって登場した『長城和諧号と同じ車両です。


この列車は、オリンピック前に、北京北駅に行き、乗車を試みましたが、丁度北駅がリニューアルオープン3日前で、乗車できなかった悔しい思い出があります。ここで、乗車できるとは思いませんでした。

出札は、発車10分前に始まりました。乗客は、数十名とわずかです。先頭車から、写真を撮りながら、ぎりぎりで乗車しました。
編成は、両端がプッシュプルのDLで、1等車3両+餐車+2等車3両の9両編成です。
NDJ30003A+ZY010068+ZY010069+ZY010070+CA080125+ZE010071+ZE010072
+ZE010073+NDJ3-0003B


大きな窓が印象的な車両ですが、餐車は、ひときわ大きい窓になっています。ただ、最短49分の乗車時間です。餐車は、必要ありません。
天井が高く、明るい広々とした車内は、とても快適です。1等、2等とも、CRH2(はやて型)の技術を応用した座席回転シートになっています。ピッチもまずまずです。

定刻に発車、新しく線路を引き直したのが、バラスの白色で分ります。高架線をゆっくりと走行します。撫順駅は、やはり停車しません。撫順炭鉱線と並行します。
乗客が少ないのは、宣伝不足と、本数が少なく、運賃もバスの10元(130円)と比べると割高なのが原因でしょうが、バスは、最短でも1時間30分前後かかります。両都市は、渋滞が多く、これからももっと遅れることは、必死です。これに比べると、この列車の乗り心地は、雲泥の差です。車内販売が、何回も来るので、ビールを2本も飲めました。

しかし、この線は、複線電化してあります。この車両よりも、CRH2(はやて型)を走らせた方が、もっと早く、到達時間も30分以下が、可能でしょう。3倍以上もの時間のかかるバスからの、利用者移動となる事は、北京~天津間の新幹線で実証済みです。頻繁に満席で走っているバスです。需要は十分ありますので、数年後に来る時は、そうなっているでしょうね。


瀋陽到着後
、ホームで撮影をしていると、公安から注意されました。普段、こういった事は、あまりありません。やはり、建国60周年という国慶節が近づいているので、かなりナーバスになっているのでしょうね。好き好んで、注意しているとは、思えませんでしたので、目に入らぬように撮ることにしました。

明日からは、1泊2日の調兵山行きです。早く起きられるように、朝5時のモ-ニングコールを頼みました。 Part9 へ続く

2009年 秋の中国一人旅 Part7 ジテ発見!

祝 鉄道の日
皆様方は、どのようにこの記念日をお過ごしでしょうか。  
   

第7日目  9月23日 その1
人の不幸は、酒飲みには、格好のアテです。昨夜の反省会は、失意に反して、大いに盛り上がり、今日も緊張感不足の出発です。ジテを探しての撫順行きです。

▲ いつもの瀋陽駅前バスターミナルに向かって歩いていると、途中の街角に、何と調兵山行きのバスが止まっていました。乗務員に聞くと、6:30~18:30の間、約40分間隔で運行していると言います。では、バスターミナルに記載されていた時刻表は、一体何だったのか? 不思議です。明日は、調兵山へ1泊2日の撮影予定です。直通バスがあれば、これが1番です。 続きを読む

1954年3月北陸から長野、三重 その3


金沢機関区でのE104

金沢駅で見た国鉄モハ2310 旧宮城モハ601で、元来2・3等合造車だった由。汽車東京製の田舎くさいデザインで、宮城の電車はスマートかダサいかのどちらかである。

小松を上機嫌で後にした3人は金沢へ。ここでも根をつめた撮影はせず、機関区ではE10を1枚撮っただけ。立山重工業の産業用Cタンク機が1両機関区の隅に放置されていた。

駅のすぐ裏?に北陸鉄道金石線のうらぶれた中橋駅があった。ここに先ほど小松で見たと同じ小柄なボギー客車が2両(現実には3両だったが)いるではないか。この時は何やら親しみを感じただけだが、はるか後年、身元と変遷解明に血道を上げることになろうとは。


北陸鉄道金石線サハ521 ←ハ14←金石鉄道ハ14←国鉄コハ2475←簸上鉄道ホハ10 貫通路は窓1個に変わっている。

左は不思議な付随車サハ531 反対サイドには中間扉がない 右はサハ551

北陸鉄道金石線モハ1201

サハ551は北陸コハ1←金名鉄道コハ1←国鉄コハ2474←簸上鉄道ホハ8。後で知ったことだが、簸上鉄道は3回に分けホロハ1~3、ホハ4~10と、合計10両の同系ボギー客車を揃え、買収(木次線の一部)でコロハ1620~1622、コハ2470~2475に。余りにも小さいのですぐ処分され、出石、金石、温泉電軌、金名に払下げられた。出石は企業整備で強制休止となり、旧コロハ3両(→コハ1500~1502)は東武が引取ったが戦災、1両のみコハ120として敗戦後も姿をとどめており、高橋弘氏が撮影している。

結果的に北陸鉄道に集結した7両は同型として問題ないのに、僅かな重量の差や出所で分け、サハ501(金石)、511(同)、521(同)、551、552(金名)、561、562(温泉電軌)と5型式にした。このあたりはやはり寄り合い所帯の三重交通が似ている。サハ551は妻面も原型をよく保っている。

ところでサハ531は世にも不思議?な付随車である。やたらめたらと寸法が小さい。自連が何とも大きく重そうに見えるから、車幅、床高や車輪径が想定できるだろう。一見路面電車の3扉車のごとく、中央扉が両開きだが、この中央扉は片側にしかないのである。前後の引戸は恰幅のいい人なら通れないのではないか。おまけに妻面には方向幕穴まである。前身は金石鉄道ハ4、5、梅鉢大正4年製、それ以上はワシにも分からんと、なんでもすぐ教えてくださった故吉川文夫氏もお手上げ。この付随車に関しては、納得のいく解説等にはまだ接したことがない、というより、まともな紹介すらないのではないか。


北陸鉄道浅野川線モハ572←デハ13 汽車東京大正14年製

北陸鉄道金沢市内線2003

北陸鉄道金沢市内線2103


富山地方鉄道モハ14752 地鉄富山

富山地方鉄道デニ6002 富山地方鉄道←富岩鉄道ボ1買収車 妻面は5枚窓だった


国鉄モハ1901 伊那電気鉄道デハ101買収車 富山

国鉄クハニ7301 宮城電気鉄道クハニ702買収車 岩瀬浜

駆け足で金沢、富山を通り抜け、大糸線は全通していないから、直江津経由の大回りで長野着。ここでステホしたのだが、その寒い事寒い事。1人が荷物(というほどのものはないが)を見張り、2人が坂道を善光寺までランニングで往復し、その体温が残っている間にウトウトすると云う、情けない一夜になった。

2009年 秋の中国一人旅 Part6 再び調兵山へ

国内撮影旅行向けに、4WDでオフロードOK、どこでもキャンピングできる車が、納車されました。ローカル線は、列車本数の激変から、朝夕しか撮影チャンスがない事が多くなりましたが、これで、早朝や夕刻でも好きな場所で、撮影できます。写真撮影の腕が上がると良いのですが、やはり、センスの問題解決には、持って生まれたものがあります。感性には、自信がありませんので、行動力で補うしかありませんが、老力には、限りがあって、これも難しい。
しかし、難しいばかり言っていると、何もできませんので、動き始めます。秋の紅葉前線も始まっています。追いかけての、撮影レポートをご報告したいと思っております。

第6日目その2 9月22日

思いもかけず、鉄煤蒸気機関車博物館を見学できた後、約20分で、14:20に調兵山駅に着きました。丁度、この時刻は、14:26に大青へ、14:39に大明へ、14:51には王千への3本ものSL列車が、発車する良い時間です。YS1770,1771,1772と連番で、3両が止まっていました。

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2009年 秋の秋の中国一人旅 Part5 鉄媒蒸気機関車博物館

第6日目 9月22日 その1

昨日と同様、快晴の朝を迎えましたが、今日も寝過ごしました。いつも撮影旅行中は、夜明けとともに行動を開始していますが、どうも今回は、緊張感が足りません。

今日の行き先は、調兵山と決めていたのですが、先日バスターミナルで、調兵山行きの時刻表を見ましたら、13:20発の1日1本だけの記載しかありませんでした。確か、インターネットで見ると、1時間に1本ぐらい出ているとあったのですが…。また、聞けばよかったのですが、鉄嶺市までバスで行って、調兵山行きのバスに乗継利用する事にしました。今回、これが正解でした。

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