天然色写真で巡る40年前の九州 (4)

筑豊から夜行に乗り大畑へ、また夜行に乗って久大本線へ戻り、再び夜行で上伊集院へと、九州を南へ北への旅は続く。九州では、門司港を起点として、長崎、西鹿児島、宮崎へと夜行の急行・普通が相互発着していた。夜行に乗って朝起きると、乗り継ぐローカル列車もうまく一番列車に接続し、朝のラッシュ時の蒸機列車から総ナメで、たっぷり一日撮影ができるという、今から考えると本当に撮影には恵まれた効率のいい時代だった。
行程の半分あたりの日に、宮崎でI氏と合流した。氏は宮崎にはたいへん執心され、その後も数日を掛けて訪れている。鉄道以外にも種々の理由もあると聞いたが詳らかではない。
今日はそのI氏に案内されて初めての田野を訪れた。日豊本線は、前年まで健在だったC55はもう見られないものの、C57の天下となり、旅客列車はもちろん貨物列車までもC57牽引という徹底ぶり。日豊本線はのちにC57の牽く最後の蒸機急行とし名を馳せるが、この時代は逆に優等列車はDF50牽引だった。
さすが南国、宮崎。ポカポカ陽気で、同じ九州でも明らかに北九州とは気候が違う。たいへん気持ちがいいのだが、ついつい夜行の疲れで、線路端でウツラウツラしてしまう。
ここ田野の築堤で上り特急「富士」をとらえた。別の日にも佐土原で「彗星」をとらえている。富士」は、東京から日豊本線経由で西鹿児島まで、日本一長距離を走る特急だった。「彗星」は、昭和43年10月改正で新大阪~宮崎間を走り始めた。どちらも20系客車で、あざやかな車体色はまさにカラー向きの列車であった。20系の後継となる14系は昭和46年の誕生だから、寝台客車特急はすべて20系だった時代で約400両あった。貧乏旅行の私は、20系には乗ることなく終わってしまったが、この時代の憧れの象徴だった。

田野~日向沓掛間を行くDF50530牽引の上り特急「富士」

20系の先頭に立つ牽引機もその時代を象徴していた。蒸機ならやはりC62、電機なら同色でまとめたEF60、65Pがいちばん相応しい。DLとなると、DD51時代が長かったが、やはり凸形が長編成を牽くのは似合わない。DF50こそ相応しい牽引機に映る。DF50の派手な新塗装も案外ブルーの車体にマッチしていた。山陰本線の普通列車を牽く地味なDF50しか知らなかった身には、ずいぶん華やかな存在と映った。

佐土原駅を発車した新大阪行き特急「彗星」。左はC57117牽引544レ

 

西武トレインフェステバル2008in横瀬

10月5日(日曜日)西武秩父線横瀬車両基地で「西武トレインフェステバル2008in横瀬」が開催された。このイベントは例年10月14日の「鉄道記念日」に近い土曜日か日曜日に行われており、昨年まではスケジュールが合わず、今年初めて見学した。内容は横瀬基地に保存されている車両の一般公開と鉄道部品の販売がメインである。当日はイベント参加者のために池袋~横瀬間に最新の30000系8連による臨時快速急行が運転された。

 この電車に乗車する予定で8時頃西武池袋駅に到着した。ホームに上がると1本前の8時4分発の秩父鉄道直通の長瀞、三峰口行の快速急行がクロスシートの4000系8連で停まっており、空席があったので乗車した。車内は登山、ハイキング客でほぼ満席であった。飯能で方向が変わり、東飯能を過ぎると山岳地帯となり、駅毎に登山客が降りて行った。長い正丸トンネルを抜けると秩父盆地で程なく横瀬に到着した。車両基地の公開は10時からで30分近くあるのに長蛇の列ができていた。正直なところ、都心から遠く離れた秩父までわざわざ古い電気機関車を見に来る人は、そう多くはいないだろうと思っていたが大間違いであった。続いて到着した特急からも多くの人が下車、その後に到着した30000系臨時電車は立ち客がいるほどであった。

 場内は大賑わいで、特に家族連れが多く、子供を電気機関車のデッキに乗せて撮影する親が多く、中々写真が撮れなかったが、正午前後に各車両毎に撮影タイムが設定された。ファンよりもピクニック気分で来ている人が多く、年中行事として沿線の人に定着しているのであろう。パンタグラフは最初は下りていたが10時半頃上げられた。隣で撮影していた人によると、年によっては下がったままのことや、車体横に説明板が吊り下げられていることもあり、今年はラッキーだったそうである。この辺りは当日の責任者の判断に任せているのかもしれない。大正時代東海道線の電化時に輸入された電気機関車が現役時代のままの美しい姿で大切保存されていることは誠に意義深く、近江鉄道のED31、ED14も各1両はこちらで保存してもらえないものかと思った。

 (1)E52(元国鉄ED122)

現役時代の画像と経歴については【1415】で紹介してあるので、そちらを参照いただきたい。

 

(2)E61(元国鉄ED111)

大正12年ゼネラル・エレクトリック社製で、昭和35年5月国鉄で廃車、昭和37年6月西武に譲渡されている。廃車は昭和59年で、現役時代近江鉄道に貸し出されたことがある。(昭和40年1月9日彦根駅で撮影)同形のED112は国鉄に残り「佐久間レールパーク」に保存されている。(【1082】を参照)

 

(3)E71(元国鉄ED102)

大正12年ウェスチングハウス社製 昭和35年5月国鉄で廃車、昭和37年6月譲渡、昭和61年廃車、近年国鉄時代の塗装になり、元のナンバーのプレートが付けられた。

 

(4)E43(元国鉄ED361←青梅鉄道デキ3)

昭和2年イングリッシュ・エレクトリック社製で、元青梅鉄道が輸入し、昭和19年国鉄に買収で1013、昭和27年の改番でED361となった。昭和35年国鉄で廃車後西武に譲渡、昭和62年廃車となった。

 

(5)E33(E31形)

保存車両ではなく現役の機関車である。E31形は昭和61年から62年にかけて輸入機の代替として西武所沢工場で4両作られた。台車は元国鉄モハ80300番台、主電動機は同社の元351系のものを使用した。工事列車や新造車両、譲渡車両の牽引等に使用されているが廃車が噂されている。

 

その他、E854が展示されていたが、停車位置が悪く来年に期待したい。

 

(6)D16

昭和44年日車製でブリジストン小川工場の入換に使用されていたが同工場廃止後、西武に移籍、東横瀬(貨物駅)の入換に使用されていた。平成8年3月貨物廃止により廃車となったが、機器扱いで現在も横瀬基地の入換に使用されている。

 

(7)4号機

1886年(明治19年)イギリス、ナスミス・ウィルソン社製の蒸機である。官設鉄道75号を振出しに日本鉄道、房総鉄道、川越鉄道等を経て昭和32年まで西武鉄道で活躍した。廃車後はユネスコ村に展示されていたが、閉鎖後横瀬基地で保存されている。ブルーシートを被せた状態で保存されているらしく状態は芳しくないのが残念である。

 

(8)クハ5503

昭和44年西武秩父線開業時に特急車として作られた車両で、平成5年から後継の10000系に置換えられ廃車となった。クハ5503が保存、庫内にクハ5507の前頭部のカットモデルが保存されている。

 

その他、電車ではクモハ355が登場時の塗装に戻されて保存されているが、停車位置が悪く来年に期待したい。(【1313】で上毛電鉄に譲渡された同形車を紹介しているので参照いただきたい)

 (9)スム201

少し前までは当たり前に見られた貨車であるが、今となっては貴重な存在となってしまった。保存しているのかどうかはわからないが野晒しのため状態はよくないようである。

 

(10)ワフ105

浅い屋根とユニット窓が特徴のいかにも私鉄のワフといういでたちであった。こちらも保存の対象となっているのかは不明であるが、スム201と同様状態はよくない。

 

(11)クハ38103

臨時快速急行に使用された、今年デビューしたばかりの新車である。

CRHの旅Ⅱ Part6 出た!334km/h CRH2-300

着いた北京南駅は、空港と間違うような立派な駅でした。。

Fタクシー降り場に着いて、自動ドアから入ると、高い天井から自然な光が降り注いでいました。屋根には、ソーラーパネルが取り付けられています。

これほど広くて、ゆったりとしたコンコースは、日本にはありません。コンコース中央部には、グランドピアノも置かれ、5ツ星ホテルのロビーのようでもあります。まあ、びっくりしました。 続きを読む

おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-5

 

マン島鉄道 その5 グラウドルグレン鉄道

蒸気鉄道のダグラス駅がある高台からかなりの急坂を下るとダグラスの町が展開する。高級ホテルが並ぶ海岸通の南端 Clock Tower から軌間3フィートの Dougglas Horse Tramway が約2.6km北東の Derby Castle まで、観光客を乗せ営業している。その終点路面では、同じ3フィート軌間の Manx Electric Railway の電車が待っているが、馬車鉄道共々次回以降にご覧頂く。

そのマンクス・電気鉄道の木製電車(乗降は妻面から行う)に乗車して3km程、道路とその傍らを行く電車が川を少し遡り、馬蹄形に曲がって川を渡るのだが、その手前に Groudle 駅(無人)があり、そこで下車。ここがグラウドルグレン鉄道入口だが、看板には Operating Sundays & Bank Holidays(in season )と書いてあった。なぜ銀行休業日に運行するのかは?だが、銀行員がボランティアをしているのだろうか。
狭い川を渡り、何やらハイキングコースの如き小徑を結構歩いて起点 Lhen Coan である。狭いところにオモチャのような駅舎(叡山電鉄鞍馬駅のミニチュアみたいな)があり、軌間2フィートの線路、ちっちゃい汽車一式が待っている。海岸の Sea Lion Rocks  まで2kmに満たないちっちゃなちっちゃな鉄道で、終点以外別段景勝地もない。


何やら叡山電鉄鞍馬駅のミニチュアのような
右側の店はスーベニールショップ

1896年に開通し、戦時中を除き営業したが1962年廃止に。それをボランティアが1962年から復旧に取り組み、1986年運転を再開。訪ねた1999年では4月4日のイースターとその翌日、5月2日~9月26日までの日曜日11時~16時30分。それに8月3、10、17日(各火曜日)と7~18日の水曜日に限り、なぜか夜間19時~21時のみ運行する。

我々の訪問も、企画・実施・運営すべてを取り仕切る先達=相棒(通称ウメムラツーリスト)が段取りして運行日に合わせていたのである。

天気は最悪で、これ以上暗くはなり得まいというぐらい暗かった(写真の上がりもピントもそれ以上に悪く、理由はすべて天候に帰しておく。相棒のは忌々しいがちゃんと写っていた)が、折角来たのだから1.8ポンド払って往復乗車券を買う。遊園地のお伽列車並みの客車が2両、それでも牽引は暦とした蒸機 SEA LION 号で、英国小形蒸機メーカーで有名な W.G.バグナル1896年製、僅か4トン。


もう1両は庫内におり、やはりバグナル1905年製 POLAR BEAR 号5トン、ウエスト・サセックス州で保存されていた機関車とか。他に Hunslet 1952年製5トンのディーゼル機関車が2両。Dolpin 、Walrus というプレートを付けている。

列車は30分毎に発車。森を抜けると真中に離合設備があり、シーズンには2個列車が走るのだろう。起点以外すべて無人で、途中停留場には Passengers wishing to bord train must give a clear signal to driver との表示があった。DRIVER とは正に英語で、米語なら ENGINEER と書くのだろう。

終点の Sea Lion Rocks も、この日の天候を割り引いても、わざわざ見に来るほどの景勝地とも思えないが、列車は機回りして付替え、しばしの停車後引き返す。


途中のリクエスト・ストップ停留場標識
この右先が終点 SEA LION ROCKS

ところでこのミニ鉄道、先に記したように、乗客は徒歩以外アプローチの方法がなく、以前は石炭すら人力で運んだのであろう。しかし現在では秘密の?管理用道路があるらしい。夢を壊すようだが、船でないと行けないのがウリの大牧温泉も、その実秘密の管理・物資補給用道路があり、熊が出るゾの標識で立寄りを防いでいる。船(関西電力経営=発電ダム建設→道路水没→永久補償)には食料等を全く積んでいない。

古地図に見る京都駅

青信号特派員氏とともに研究している京都駅の位置については先日報告のあった通り京都府立総合資料館へ行って明治初年の地図と大正年間の地図を拝見しながら現在の地図と比べました。明治22年京都駅周辺

 明治22年京都駅周辺

その結果、旧線はいまの塩小路通より家一軒分南側を東西に通っていたことが分かりました。
上の地図は明治22年の京都駅周辺です。鉄道記号はまだ白黒になっていませんが中央を横切っています。交差するように縦に流れているのは左が堀川で、見にくいですが西本願寺の南と九条で直角に折れ曲がっています。右に流れているのが西洞院川です。当時は西洞院に川が流れていて、北野線が西に偏って走っていたのもこのせいだと言われています。

次に明治17年の京都駅西方向の地図を掲載します。
この当時は市内と市外に別れて地図が作られていました。市外(郡部)の地図は比較的広域表示ですが市内は町別単位で重なるようには編集されていません。しかも手書きで縮尺もいい加減です。そのため突き合わせに苦労しました。
なお、地図は上が北で統一して表示します。

明治17年志水町

 線路の北側を並行しているのが塩小路通、すこしぐいちになっているところがあわしま堂です。地図の右端に縦に見える青い線は堀川です。今の大宮通はこの地図の西方向ですが大宮通以西は京都府葛野郡で当時は郡部でした。
明治17年御方紺屋町

 明治17年御方紺屋町

 御方紺屋町はいまの堀川塩小路交差点付近にあった町です。左側が堀川で、赤い公道は旧醒ヶ井通、今の堀川通西側歩道にあたります。その東に接しているのは安寧小学校でいまは堀川通りの西側に引っ越しています。当時は堀川に支流が会ったことが分かります。線路のある場所にはリーガロイヤルホテルが建っています。右下の不動堂と道祖神社は別物ですが鉄道敷設に伴い線路上にあった道祖神社が不動堂の北側へ移動してなにやら一体化して戦後は疎開あとに取り残されていて判然としませんでした。

明治17年不動堂町

 明治17年不動堂町

 左下がその不動堂と道祖神社です。赤い公道は油小路通で、当時は踏切があったそうです。右端に見える青い線は西洞院川です。中央下のピンクの部分は駅構内の敷地と思われます。

さて、志水町などの地図で表示されている町名をよく見ると線路は上夷町、南夷町、松明町などに南接しており、金換町やここには掲示していませんが下糀屋町に北接しています。

これを踏まえて次の地図を見て下さい。
昭和10年京都駅付近

昭和10年京都駅付近

 この地図は安寧自治会が数年前に発行した記録誌に載っていました。大正11年に作られて昭和10年に修正されたとあります。線路北側に上夷町、南夷町があり線路が南へ下がったことが証明されます。しかも中央の塩小路通が斜めになるあたりに東西に広大な空き地があります。この位置はちょうど上夷町、南夷町に北接しています。

いまここにはタキイ種苗の本社があり、当時の面影はありませんが塩小路通りの南側の町家は南側が一直線に揃っていました。

さて、では最初の明治22年の地図ではどのあたりが今の鉄道線路になるのでしょうか?
ある一カ所で特定できました。油小路通を注意してみて下さい。油小路通は堀川と西洞院川のちょうど中間にある南北の通りですが、鉄道線路の少し下、道が斜めに西へ振れてまた南へ下がっています。この斜め区間がいま山陰線と堀川通交差地点北側にある油小路通の斜め区間と一致します。元科学技術専門学校の南端です。

今までに分かったことは以上ですが、特派員氏が以前に書いた記事ともほぼ一致していますのでまちがいはないでしょう。
皆様のご意見をお待ちしております。

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‘08孫の運動会に行ってきました

昨年に続き、茨城県笠間市立友部小学校の運動会に行ってきました。以下は、その時の成果です。 

 1.真岡鉄道、2120レと6001レ、西田井駅、’08.09.20、撮影:小6T   

 2.同、6001レ、同所、同日、撮影:小6T        

 3.同、6001レ、笹原田-天矢場間、’08.09.23、撮影:小4K       

4.同、6002レ、市塙駅、’08.09.23、撮影:小4K       

今回はお爺さんの写真に良いのがありませんでした。その代り、行きがけに寄ってきた、大井川鉄道です。
 5.大井川鉄道、101レ、福用-大和田間、’08.09.19      

(未承諾広告)その他の写真は、以下のページでご覧下さい。
真岡鉄道
 http://kabutogoe.web.fc2.com/mooka/mooka.html

大井川鉄道
 http://kabutogoe.web.fc2.com/ooigawa/5251.html  

(お節介なお知らせ)
来る1014日は、言わずと知れた鉄道記念日です。NHKFM放送では、前日の1013日(祭日)、『今日は一日鉄道三昧』を放送予定。時間は、午後1時から午前1時までの12時間。リスナーのリクエストで、鉄道唱歌、オネゲルの『パシフィック231』を始め、鉄道効果音も聞けることでしょう。ソニーのテレコやアカイのオープンリールが今も活躍する前期・後期高齢リスナーにとって必聞です。

天然色写真で巡る40年前の九州 (3)

(3)煙の聖地、筑豊・若松

広島から夜行列車で九州入りし、まず筑豊で撮影を開始する。
筑豊炭田を背景に、筑豊は蒸機の一大集積地として知られていた。
出炭のピークは昭和30年代の後半であり、年を追って出炭量は低下していたが、それでもなお石炭は、基幹エネルギーとして日夜採掘され続けていた。
石炭を動力とする蒸機もまだ全盛の時代であった。筑豊本線を例に取ると、DL牽引は急行「天草」のみ。普通列車にはDCも相当数入ってはいたが、あとの客貨はすべて蒸機の牽引であった。しかも、C55、D50、60と言った形式がゴロゴロしている。

石炭の輸送手段は、鉄道と船になるが、その船への積出港として、賑わっていたのが筑豊本線の起点となる若松だった。
若松は、北九州市のなかでは、門司、小倉、戸畑、八幡の区からは洞海湾のひとつ隔てた地にあり、北九州市の繁栄から一人取り残されてきた感がある。
それだけに、石炭と鉄道で気を吐いている若松へは好んでよく訪れた。多くは折尾経由で向かったが、ある時は、若戸大橋を歩いて渡り、ある時は、洞海湾を渡船に乗って、戸畑から若松へ向かったものだ。
構内は網の目のように側線が走り、ハチロクが石炭車の入換えに忙しい。若松機関区は筑豊本線の中枢区として、多くの蒸機を擁してきた。一歩駅を出ると、凸型電機に牽かれた若松市営軌道の貨物列車が、繁華街の併用軌道を行く、と言った鉄道光景が繰り広げられていた。
構内で形式写真の撮影に熱中していると、突然、発車の汽笛が聞こえ、若松発の列車が迫ってきた。あわてて、モノクロ、カラーを取り出し、カラーは片手撮りで写した。門鉄デフのC5546が盛大な煙を吐いてきた。
高校2年生のときに初めて訪れて以降、筑豊へは何度行ったことか。それだけに筑豊の盛衰を見守ってきたという自負もあるだけに、石炭産業が途絶えて以降の筑豊の凋落振りは信じがたいほどだった。
いまは、広大な構内はすべて撤去され、跡地には集合住宅が林立している。駅は、ホーム一面二線だけの簡素な終端駅になった。洋風の駅舎もなくなり、プレハブのような簡易な駅舎になった。石炭の面影が微塵も感じられない駅周辺で、唯一駅前に保存された石炭車が辛うじてかつての繁栄をとどめている。

おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-4


マン島鉄道その4


翌日は天候芳しからず、しかも雨衣を着ても寒いが、ともかくダグラス駅へ。日曜日だがさして多くない客を乗せ列車は発車。一度乗ってみたかった側戸式(完全コンパートメント)客車を選んだ。そのうち半端でない吹降りに。

左側の客車は側戸式ではない

吹降りの中での側戸式客車となると、忘れがたいシーンがある。日本では1952年公開されたフランス映画「肉体の悪魔」(Le Diable au Corps)で、原作は14歳で人妻と不倫し、17歳でその体験を長編小説に、20歳で死んだ早熟の天才作家レイモンド・ラディゲの文芸作品だからお間違いなく。

25歳のジェラール・フィリップが17歳の高校生を演じ、人妻と列車で逢引。吹降りの中、カッパで身を固めた車掌が検札に来るのだが、側戸式だから車体裾のステップを、窓下の手すりを伝って、なのである。車掌の業務とは命がけだな、と心底感心した記憶が鮮明である。
美しいキャッスルタウン駅

天気はやや回復してキャッスルタウンで離合。機関車、客車駅舎を含めた鉄道全体が溜息が出るほど綺麗で、すべてグレードが統一されている。ここでもジョン・フォードが4回目のアカデミー監督賞を得た「静かなる男」(The Quiet Man)での列車シーン(舞台はアイルランドだが)を思い出す。
我国での「あそBOY」の86が何ともけったいな煙突キャップに似非ダブルルーフ軽量客車を牽引していたりするのと、根本的な差異はどこから来るのだろうか。消防法=万一事故があった際のマスコミの非難なのか。

駅舎の右壁、二つ並んだ海老茶色の扉は便所。隣接した建物内では、ボランティアが黙々と客車の鎧戸を修復していた。建具か指物の大工らしい。線路両側は先回も書いたように必要以上厳重な生垣で、駅構内以外横がちに写真を撮ろうとすると、この程度で我慢しなければならない。

無人自動の踏切もご覧頂いておく。列車が近づくと線路を遮断していた柵が90度回転して道路を閉鎖、列車が行ってしまうと元に戻る。

木製の古いコンテナがフラットカーに積んで保管されていた。これが本土やアイルランドなどと行き来していたのであろうが、懐かしかったのが車側ブレーキ。突放入換時、側面にぶら下がった連結手がこのレバーを踏みながら制動距離を調節し、最後にピンを差し込んでロックする。日本での末年はラチェット式に改良されていたが、2軸貨車そのものを見なくなって何年になるのだろう。


最後に初回入れたマン島イラスト地図が見にくいとのことで、ENCYCROPADIA OF NARROW GUAGE RAILWAY of Great Britain and Ireland から借用した鉄道地図を入れ直しておく。ダグラスから北西へピールへ、その手前セント・ジョンズで分岐しフォックスデイル、東海岸のラムゼイに至る線は同じく軌間3フィートだったが現存しない。
また先回木骨芸術品のところで、グレートウエスタン鉄道R.E.C.ディーゼルカーと書いたのは、A.E.C.の間違いでした。謹んで訂正します。

天然色写真で巡る40年前の九州 (2)

電化前の呉線

昭和44年3月7日、九州へ向けて出発した。大学1年から2年にかけての春休みで、例によって均一周遊券を目いっぱい使って九州を駆け巡り、次第に姿を消そうとする蒸機を撮りまくろうという目論見である。
九州は高校生時代に2回行って、ほとんどの機関区を巡り、形式写真を撮影をしているので、今回は、駅間の撮影地を採り入れた旅となった。
と言ってもいきなり目的地へ向かうことはしない。当時は“行きがけの駄賃”がいくらでもあった。今回は、電化間近の呉線へ行くことにし、夜行列車で西下、糸崎で下車、区で夜間撮影ののち、早朝の呉線安芸幸崎に着いた。
呉線は地図では海岸沿いを走っているが、実際行くとなかなか海沿いは見つからない。そんななかで、安芸幸崎~須波間は海岸にへばりつくように走っている。なかでもちょうど中間地点付近は、ミカン山になっていて、高低も自由に変えられ、背後には波穏やかな瀬戸内海を入れることができる。地図で見ると、江若の模型作りで名高い西村雅幸さんの自宅は、ここから山ひとつ越えたところのようだ。
山陽本線が完全電化後も、呉線にはC59、C62が残り、大型蒸機の競演が見られた。山陽本線のセノハチの勾配を回避するため、沿線人口の多い呉線経由の優等列車も多かった。東京~広島間の「安芸」はその代表的列車で、この年からは、急行としては異例のヘッドマーク付きの蒸機牽引となった。しかし、昭和45年10月完成を目指して電化工事が始まり、この区間でもポールの建植が始まった。やってきたのは、3両だけ残ったC59の牽く京都発鳥栖行の1043荷物列車であった。
このカラーを撮影後、三脚の撤収中にカメラの取付けネジをうっかり落としてしまった。周りをいくら探しても見つからない。このネジがないと三脚は、単なる伸縮する3本の棒になってしまう。結局、初日からして、無用の長物をずっと持ち歩くことになり、いささか気の重いスタートとなった。

C59164の牽く荷物列車
 
C59164の牽く荷物列車

CRHの旅Ⅱ Part5 T16北京西駅へ

大地を北へと向かう静かな走行音だけが聞こえる朝を、車中で迎えました。午前6時過ぎ、朝雲からのわずかな陽ざしが見える車窓は、1面のとうもろこし畑が広がっていました。

 

途中からの乗客もなく、私だけの個室だったようです。洗面を済まし、餐車が営業を開始する7時まで、淡々たる風景が続く車窓をうっとりと、過ごしました。

 さあ、今日の菜単は、何かなあと期待して餐車(食堂車)に向かいました。まだ誰も来ていません。餐車乗務員が、テーブルに座って、菜単票に手書きで、朝の菜単(メニュー)を書いています。

 3種類の菜単です。迷わずお粥と目玉焼きがのった焼きそばを注文しました。20(32)です。菜単は、毎日変わります。バイキングの時もあります。各列車のコックによって、任されているそうです。 続きを読む

竹薮の傍から

このところ、話題が明治に及び、顧問も「すまんけど、私も仲間に入れてんか」と、草葉の陰から現れそうである。京津電軌開業80年を直前に、1992年8月14日が命日だから16年の歳月が経過した。顧問は、吉川文夫さんとは絶えず「京電」のことを中心に文通しておられたようで、1993年秋の彼岸を前にして「お参りに行きたいが、案内して欲しい」と電話があった。2人でお伺いしたら奥様から「主人は吉川さんからのお手紙を全部残していました」と、段ボール箱を取り出された。そして「京電関係はこちらの箱です」。2人は顧問の遺品となったものを整理の上、紙袋などに詰め合わせ、頂戴して辞去した。鹿島さんの事務所で荷造り、宅急便で鎌倉へ送った。「関西の鉄道」32号には吉川さんが顧問を偲び、お二人で探索した「京電」の話が掲載されている。ぜひ購読してほしい。DRFCとの「絆」はここにもあったのである。

 インドネシアの孫(2年7ヶ月)が里帰り中である。藪を通して阪急が行きかいする光景がお気に入りである。その阪急、98日朝やって来た7400先頭の8連、8300系新を垂直にしたようなマスクの持ち主であった。車内扉上3ヶ所に薄型テレビの案内装置がある。扉間座席は323で肘掛の区切り付。1週間後、9300系の5本目に出会った。近々6本目も登場するらしい。そしてさらに増備を重ねると噂されている。正雀で観察している「鉄」に、桂で休車となっていた6300系が1本見当たらないので去就を尋ねたら、それは事故編成の代替となり、事故編成1本をあの世へ送ったらしい。9300系増備により2300系の終焉が近づいてきたようである。そしてもう一つ、洛西口駅の前後、東側の田圃や道路で工事の準備が始まっている。道路付け替え工事となっているが、地元紙乙訓版では洛西口駅の踏み切り改良工事のためで、阪急は高架線になるとのこと。この踏み切り前後だけで、川岡、山陰街道の踏み切りは関係ないようだ。勿論、東向日駅高架化も関係なく、向日市民としては寂しい。

月代わりと共に水泳列車の話も陰を潜めた。高校入学するや新聞局に入局したが、6月に入ると水泳バスの切符売りをやらされた。青柳浜往復で朝7時に校門前出発だったと記憶している。料金は忘れた。校下の京都帝産バスの重役さんが安くバスを提供してくださる、とのことで新聞局をはじめ水泳部や他のクラブでも主催し、クラブ運営費の足らず前を稼いでいた。往路は良いとして、復路は帰校がいつになるやら?となり、卒業後は話をきかなくなった。その年、江若鉄道に1957号登場。大鉄車両なる聞き慣れないメーカーにつき高山師匠に尋ねてみたら、「あぁ、あれなぁ向日町駅の東北隅の掘っ立て小屋でごそごそやってるとこや」と、教えてくれた。まだ下鴨の住人で親のすねかじりであった頃で、自転車で向日町へ行った。木造トタン張りの建屋があり、2線引き込まれていた。1958号となるべし車両が工事中。その傍らでタンク車が整備中であった。察するに大鉄車両とは、私有貨車の定期検査を主たる業務としていたようであった。

その年、195810月は阪神の小型車を追いかけている。一段落したところで近鉄名古屋線へ。ジェットカー登場や改軌の事を師匠から教えて貰ったからだ。1225日には和歌山へ。発端は阪急甲陽線の7,8号の姿が消えたからだ。師匠から「和歌山に行けば阪神700と共に頑張っている」と聞かされた。このころピクとTMSが頼りだったが、ローカルのことなど報じられることなく先輩に教えられ行動したものだ。その和歌山ではガソリンカーの成れの果てを7両も見る事ができた。車庫で形式図を見せてもらったら205206の2両が江若から流れ着いたものであることを知った。そして珍車、片ボギーの801。元は8001なる高松琴平顔負けのインフレナンバーであったとか。片ボギーを見たのは初めてで、伊太祁曽~貴志間往復してきたが、2軸貨車より乗り心地は良かった。こうした電車の部類に入れられた気動車については須摩の大人の銘著を紐どいて頂くと、故事来歴がよく分かる。なに、高過ぎて買えなかった、どなたか解説をよろしくお願いします。

本来、彼岸の日に顧問を偲ぶ一端として「新規投稿」とすべしが、またしても新機軸となりスカタンを恐れ遅延してしまった。

天然色写真で巡る40年前の九州(1)

(1)まえがき -フジかサクラか-

旧掲示板に、昭和43年、初めて訪れた北海道で撮影したカラースライドを画像復元して発表しました。今回から、その続編として昭和44年春に九州を訪れた際に撮影したカラースライドを、性懲りもなく発表することにしました。すっかり忘れ去った遠い過去の事象が、文字と写真で改めて表現すると、生き生きと蘇ってくるのです。これぞ掲示板の魅力だと考えます。
前回も今回も、一眼レフに入れたモノクロフィルムを主体に、カラースライドはEEカメラで、ここぞという時にだけ撮っていました。ただ違うのは、前回はフジ、今回はサクラのカラースライドを使用したことです。
この40年間、両者は同じ条件(と言ってもほったらかしに近い)で保存しています。ところが、その結果はたいへん対照的なのです。
色調については、フジはほんど色が抜け、復元が不可能なぐらい褪色しているのに対し、サクラは褪色も見られるものの、フジほどではありません。完璧に違うのは、カビの発生です。フジには大なり小なりすべてにカビが見られるものの、サクラにはほとんどカビがありません。
当時の国産カラーフィルムの評価は、フジのほうが高く、シェアも占めていました。サクラは二流品の評価で、価格も少し安かったように思います。
しかし、サクラのほうが、明らかに防褪色、防黴性といった保存性能は優れていたのでしょう。
ものの評価というのは目先だけで惑わされてはならない、長い目でじっくり見定めることが肝要だとの思いをこの例で改めて思いました。
せっかく優れた技術を持っていながらフィルム事業からは撤退したサクラ(現コニカミノルタ)はつくづく惜しいことをしたと痛感しています。

フジとサクラのカラースライド

 

「都電荒川線の日」記念イベント

9月27日土曜日、「荒川線の日」の記念イベントとして、荒川車庫の一般公開が行われたので、都心に出掛ける途中一寸覗いてみた。ポスターやHPに「保存車6000形撮影会の実施」と書かれており、確かに以前「6152」が保存されていたが、平成15年に「荒川遊園地」に移されている。しかも「昭和24年日本鉄道自動車製」と記されており、一般に知られている保存車の中には同社製のものがなく是非確かめたいと思った。

 当日9時40分に自宅を出た。金町・町屋間は僅か15分、町屋で都電に乗換え荒川車庫には10時40分に到着した。車庫の前には山吹色も鮮やかな6086がビューゲルを上げて停まっていた。

6086の経歴は、ネコ・パブ社「RM LIBRARY19 都電6000形」によると、昭和24年3月8日付で入籍し、青山車庫に配属。その後、南千住→青山→三田→巣鴨→神明町→大久保→三ノ輪→駒込と転属し、昭和45年12月24日付で荒川車庫の配属となり、昭和53年4月27日付で廃車となっている。廃車後の足跡については公表されていないが、恐らく個人に譲渡され、大切に保管されていたものと思われる。所有者に手放さなければならない事情が生じ、解体寸前の処を、岩手・宮城内陸地震で亡くなられた岸 由一郎氏のご尽力により保存されることになったそうである。

その他、7515と7027が展示され、7515は車内も見学できた。また、6086については、離れての型式写真と、近くでの記念写真の時間がそれぞれ決められており、見学、撮影者も現場案内担当の方の指示に従い、マナーはよかったと思う。

 6000形については6152が平成12年12月まで動態保存的に営業運転されていたが、京福福井支社の事故により不可能になったため、荒川遊園地での静態保存になってしまった経緯があり、6086については6152の二の舞とならないように願う次第である。

 

昨年登場したレトロ調の新製車9001との並び

 

6086が荒川車庫に運ばれるまでの行程を紹介したパネル

 平成19年5月16日、荒川車庫に隣接して「都電おもいで広場」が設置され、本物のPCC5501と7500形で車体未更新のまま残った7504が展示されている。5501の車内は座席が撤去されギャラリーとして使用されており、運転台は道路に面した片方だけが復元されている。7504の車内は現役時代のままであるが、家庭用のエアコンが取り付けられている。オープンしているのは土・日・祝日の10時~16時までであるが、それ以外の日でも外からの撮影は可能である。

5501の運転台

当初は画像の通り、足踏式であったが、扱いにくいということで後日通常のマスコンに取替えられている。

 

ナニワ工機の銘板

 

7504

#2 新規投稿する

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4.記事のタイトルと本文を入力します。

6.次に記事のタグ・カテゴリー・投稿者名を選んでください。

タグにキーワードとなる単語を入れておくことで、後で検索しやすくなります。
Googleなどの検索エンジンからもヒットしやすくなりますので、できれば入れておきましょう。地名や写っている車種などを入れてください。何も入れなくても投稿はできます。複数のタグを入れるには単語ごとに半角コンマで区切ってください。

カテゴリーもできるだけ指定してください。

投稿作成者は旧掲示板でいうところの投稿者名と同じです。
※この項目は管理権限のあるユーザのみ表示されます。

7.「投稿」をクリックすると、記事が公開されます。

次回から投稿するには、左上か右メニューの「新規投稿」をクリックします。ログインしなくても、直接投稿画面になります。

#1 新規ユーザ登録

荒らし投稿対策のため、掲示板へ投稿を行うには予めユーザー登録を行う必要があります。
※旧掲示板へ投稿を行っていた方は、管理者側でユーザー登録は完了しています。
この作業をする必要はありません。

1.掲示板右メニュー「掲示板操作」にある「新規ユーザ登録」をクリックします。

2.画面に従い、ユーザ名メールアドレスを入力し、登録をクリック。
ユーザ名は半角英数字のみです。投稿記事に表示される「ハンドル名」は別の画面で設定できます。

3.以下の電子メールにて、ログイン用のパスワードが届きます。
件名:  [DRFC-OB デジタル青信号] あなたのユーザー名とパスワード
差出人:wordpress
パスワードはメール本文中に記載されています。
重要な情報なのでメモに残すなどしておいてください。

4.メール本文中にあるアドレスをクリックする。
https://drfc-ob.com/wp/wp-login.php

5.掲示板のログイン画面が表示されます。
ユーザ名とパスワードを入力し「ログイン情報を記憶」にチェックを入れてから、ログインをクリックします。

6.掲示板の管理画面が表示されます。新規投稿作成をクリックします。
以後、#2新規投稿方法に従って投稿してください

CRHの旅Ⅱ Part4 京九鉄道初乗車

これからが、今回の旅の本番、香港返還に合わせて1996に開通した京九鉄道広州駅~北京西駅2300km、約21時間の初乗車の始まりです。

 

200891317:15、急いでホームに上がりました。既にT16は、ホームに着いていました。客車の行き先サボを見ると、何と海南島三亜駅からの車両です。前もって時刻表は見ていましたが、気が付きませんでした。

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質問

管理人様、

投稿文に対してコメントを書くとき、複数持っているハンドル名を使い分けることができませんか?
「○○○」としてログイン、と出ていますがこれを「●●●」にコメント欄で変更する方法をお教え下さい。

京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ (5)

先日、米手作市さんからお誘いを受け、乙訓老人とともに、旧京都駅関連の地図を調べに京都府立総合資料館へ行って来ました。知らないことは誰彼なく聞きまくるという積極的な姿勢を信条とする作市さんが、旧京都駅に関する資料の有無を同館に問い合わせたところ、旧京都駅を描いた地図があるとの回答をいただき、この日の訪問となったものです。
見せてもらったのは、明治17年に京都市が発行した『下京地籍図第32組』。京都市内全域で作成された色刷りの地籍図のなかの旧京都駅付近の地域です。土地の区分を表す地籍図のため、地上の施設や建造物は描かれていませんが、鉄道線路だけは地図記号ではっきりと描かれています。なかでもこのシリーズ1~4で紹介した、現京都駅付近から大宮通に至る区間は、道路や川との関係が手に取るようにリアリティをもって迫ってきます。詳細なうえに着色されているので、その真実味がさらに増します。これを見ると、天下の東海道線とはいえ、家並みの裏手を抜けたり、道路と併用軌道のような感じで通り抜けたりした、ごく小規模な鉄道だったことが伝わってきます。
残念だったのは、旧京都駅そのものの地域は、鉄道記号が省略されており、単に「官有地」としてしか土地の表記がされておらず、線形などを読み取ることはできませんでした。
前回の(4)では、旧駅東の正行院前の道を旧線跡としましたが、今回、この地籍図を見ると、寺の前には細い道がもともと存在していました。旧線はこの細い道の北側を並行して走っていたことになります。

(5)西大路駅付近の開業時の橋脚
旧線は、大宮通付近までは現在線の北側を通っていたが、そこから西へはちょうど梅小路貨物駅を斜めに横断するようにして、現在の西大路駅付近で現在線と合流している。したがってここから西へは開業時の区間を走ることになる。
西大路駅ホーム西端に西高瀬川を渡る鉄橋がある。下の橋台・橋脚はコンクリート製である。昭和の初期の河川改修の際にコンクリート製になったということである。ここから少し西に水路を渡る小規模な上路ガーダーが2ヵ所ある。1ヵ所は立ち入ることができないが、もう1ヵ所は線路の直下まで行くことができる。

複々線+向日町回送線の5線のうち、上り2線を支えているのが、写真のような石と煉瓦の組み合わせで造られた橋脚である。あまり知られていないが、正真正銘の明治9年の大阪~京都間開業時の構造物がいまも現役として使われているのである。その他の3線はその後の線増時代のもので、コンクリート製である。
ここから桂川鉄橋まですぐ。桂川を渡れば、くだんの25連の避溢橋のあったところである。

(おわり)