駅撮り一時間 〈9〉

昭和47(1972)年2月16日 大阪駅

581系の特急「つばめ」が大阪駅に4番ホームに到着し、11:37に発車する。「つばめ」は昭和40年10月改正で151系から481系に変わり、さらに昭和43年10月改正で581系に置き換えられた。名古屋~熊本の昼行運転なので車内は座席として使用された。

雑事に追われて、私も投稿ができていませんでした。もちろん毎日閲覧はしていますが、最近のコメントを見ても、8年前の投稿に対して、岩手県にお住いの方から地元ならではの書き込みがありました。検索機能を使って、過去の投稿にも多くの閲覧があることが分かります。「デジ青」が巨大なデータベースに育っていることを痛感しますが、それを継承して行くためには、とにかく「写して、書いて、投稿する」しかないのです。もう停滞はできません。

少し前に昭和40年の大阪駅の「駅撮り」を載せました。それから、7年後に、大阪駅、新大阪駅で、一時間程度の駅撮りをしました。この7年間、国鉄も大きく変わり、その象徴は新幹線の延伸でしょう。昭和40年当時は新大阪まで、その後、山陽新幹線の工事が進捗し、来たる昭和47年3月改正では、岡山まで開業します。新幹線接続も、新大阪から岡山へと移り、ダイヤ改正が実施されます。変動のある列車を求めての駅撮りでした。

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追悼・乙訓の老人 ここはどこ?わたしはだれ?

早いもので、乙訓の長老様が還らぬ旅に立たれてひと月になります。
パソコンの前に座ってもキーボードに指が届かない日が続きました。
目の前には長老様から預かった写真の山があります。奥様から「放っておくと捨ててしまうので全て任せるので持って帰って欲しい」と言われた写真です。そのうち長老様と思い出話をしながらゆっくりと整理すればいいや、と思今となっては今となっては悔やまれてしかたがありません。
会員の皆様も同じと見えて新規投稿も少なければコメントもしめりがちです。

こんなことでは「デジ青」ファンの皆様に申し訳なく、長老様が楽しみにしていた「デジ青」にも申し訳が立ちません。そこで気持ちを切り替えて写真整理に取りかかりました。長老様に聞いても「しらん、撮ったおぼえもないわ」と言われた写真から掲載しますので、例によってデジ青探偵団の皆様に「車両の特定」「撮影場所」「撮影時期」を教えて頂きたいのです。

おおいにツッコミ頂いて盛り上げてもらい、以前の賑やかさを取り戻して天国の長老様に笑ってもらえたらうれしいと思いますので宜しくお願い致します。

同志社号発車式で檄を飛ばす長老様

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『HOKKAIDO LOVE! 6日間周遊パス』の旅 Part8 登別から釧路へ乗る 2の2

第5日目 6月26日 その2

根室本線 東鹿越~新得は、2016年台風10号の影響で集中豪雨となり斜面の崩壊や線路への土砂流入、橋梁の流出など甚大な被害が発生し、復旧には概算で10.5億円の工事費と少なくとも12か月以上の復旧工事期間を要するとの調査結果が発表されました。多大な費用が掛かることから費用の工面が付かずそのままとなっています。このために東鹿越~新得バス代行で結ばれています。

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『HOKKAIDO LOVE! 6日間周遊パス』の旅 Part7 登別から釧路へ乗り鉄旅 2の1   


今日は釧路へと向かいますが問題はルートです。A・B案とも登別から旭川までは同じですがここで東と南方向に分かれます。

登別 8:37(北斗1号)⇒9:50札幌10:00(ライラック11号)⇒11:25旭川
Ⓐ 旭川 12:41(大雪1号)⇒16:31 網走 18:54⇒22:08 釧路
Ⓑ 旭川 11:33⇒12:07 美瑛 13:08(富良野・美瑛ノロッコ号)⇒13:59 富良野
  富良野14:19⇒15:04東鹿越15:13(バス代行)⇒16:21新得
  新得 16:33(おおぞら7号)⇒18:39 釧路

Ⓐは、前回来た時は平日運休で乗車できなかった特急大雪号と夕焼けの釧網線に乗車できます。ただ網走での乗継時間が2時間23分もあり釧路着は22時を過ぎます。網走でゆっくりと夕食時間にしても良いのですが、22時着は遅すぎるように思えます。

Ⓑは、富良野線のトロッコと根室本線代行バスに初乗車できます。Ⓐと違って釧路着は丁度いい時間です。

どちらを選択しても宿泊はスーパーホテル釧路駅前を予約していましたので着くのが多少遅くになっても電話を入れておけば問題ありません。
旭川に着く直前まで悩み続けましたがそれまで検討時間がとれたのはこのフリーきっぷのおかげです。そして最終的にはⒷプランへの願望が勝りました。
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『HOKKAIDO LOVE! 6日間周遊パス』の旅 Part6  函館から初めての登別へ 2の2

第4日目 6月25日 その2

東室蘭から室蘭支線 7.0㌔に乗り換えて室蘭を目指します。2021年3月13日よりキハ40系から置き換えられたE100形に乗車します。苫小牧運転所では現在18両が運用されています。

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『HOKKAIDO LOVE! 6日間周遊パス』の旅 Part5  函館から初めての登別へ 2の1

第4日目 6月25日 その1

今朝も5時前に目覚めましたので直ぐに朝風呂です。露天風呂はありませんが温泉です。広い浴場で快適な朝を迎えました。ただ空を見上げると雨は止んではいますが青空は広がってはいません。TVの天気予報では今日は青空が見えて晴天になると言っていますので期待はあります。
朝食は7時からですので朝の散歩を兼ねて函館市電を撮りに出かけることにしました。
▲ 6:10 湯の川温泉に着いた駒場車庫から出庫した一番電車、車内に乗客は見られず、電停での乗降客は誰もおられません。

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『HOKKAIDO LOVE! 6日間周遊パス』の旅 Part4 暴風雨の中、函館市電を撮る 

第3日目 6月24日

今朝も5時には目覚めましたが、部屋の窓からは雨しか見えません。宿泊している東横インは朝食が付いてはいますがドーミーインやスーパーホテルのような美味しいものではなくおにぎりに総菜が2~3品ほどついた程度です。
6時半からしか出ませんのでホテル周りにある豪華な海鮮物の並べられた朝市を見て回って満足感をいただくことにしました。ホテルからはほぼ軒の下続きで雨を避けて回ることができます。コロナ騒動以前に来た時はインバウンド客、特に中国本土からの客が多く中国語が飛び交っていましたが、今は日本語だけです。それも大声はなくとても静かなものでした。
▲ 7:53 食後部屋でTVを見てゆっくりとしてから街へ出ました。ご覧の通りの土砂降りで時々横風が吹いてまつたけ傘にもなります。
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『HOKKAIDO LOVE! 6日間周遊パス』の旅 Part3 函館本線(山線)を南下して函館へ 

第2日目 6月23日 その2

 

② 倶知安 12:35⇒14:11 長万部

▲ 12:05 再び倶知安駅に戻りました。ホームには本来今から乗車します長万部行きに接続する小樽発の1938Dが到着していました。乗り継ぐ乗客も多く降りて待っておられます。
そして折り返しでやってきた長万部行きはH100-11号の単行です。車内はご覧のように満席状態となりました。途中駅での乗降客は少なく、ほぼこの状態で終着駅へと向かいました。乗客の多くは鉄ちゃんらしい方々が多く思えました。皆さん北海道新幹線の工事が進む中で今のうちに山線との別れを味あっておきたいと望んでおられるようでした。青春18きっぷのシーズンが近づいています。多分三江線が廃止になった時と同様に乗り切れない客で一杯になるのでしょうね。
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『HOKKAIDO LOVE! 6日間周遊パス』の旅 Part2 函館本線(山線)を南下して函館へ 

第1日目に宿泊したドーミーイン小樽はこのホテルには珍しいカプセル部屋がありました。自慢の朝食と天然温泉が付いの5,500円は格安です。早朝5時前には起きて朝風呂を楽しみました。
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『HOKKAIDO LOVE! 6日間周遊パス』の旅 Part1 再び北の大地へ

「どこかにマイル」で北海道への無料航空券を手に入れて5月16日~20日まで行ってきてより約1ケ月が経ちました。『HOKKAIDO LOVE! 6日間周遊パス』の発売を出発直前まで知らず、またコロナ対応での航空券の日程変更が出来なくなってしまっていて消化不良状態に陥りました。お金はないが時間は十二分にありますので、もう一度再挑戦しようと決めました。
と、言っても「どこかにマイル」に再エントリーしても大阪~新千歳便は中々候補ルートには出現してくれません。100回やって1~2回が出てくるのはやっとです。それも4ルート中の残り3ルートの組み合わせが行く気のしない所です。内地が梅雨となった今は北の大地行きが多くなり空席がなくなってきたので候補地には出現しないのだろうと容易に想像できます。しばらくエントリーを続けましたが難しいと諦めました。
確実に行ける方法はLCCのピーチを選択するしかありません。それでも往復となると高くになりますので復路は無料のJALのマイレージにしました。往路発は6月22日、復路は余裕を持っての6月30日と決まりました。


▲ 直近の情報です。「HOKKAIDO LOVE!6日間周遊パス」をJR北海道では8月31日まで発売する予定としていたが、北海道の補助金を基に発売予定数を算定しているため、6月17日時点であと3~4週間程度で発売終了する見込みになったと発表しています。お出かけになられる方々は早めに出発ください。
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 ありがとうございました 沖中忠順さん 〈2〉

「デジ青」での沖中さんの活動の足跡を引き続き見て行きます。人生の糧として、元気にデジ青投稿を続けて来られた沖中さんですが、身体に変調を来たされるようになって来ました。外出も少なくなり、キーボードに向かう気力もなくなり、沖中さん自身の投稿は、2017年2月をもって途絶えることになります。

こんな時、「鉄道介護士」を名乗り、敢然と沖中さんへ救いの手を差し伸べたのが米手作市さんなのです。それまでも、東にデジタル難民がいれば、琵琶湖畔のマンションまで行って訪問介護し、西に投稿をさぼっている会員がいれば、大阪日本橋の歓楽街まで行って、尻を叩いて叱咤激励するなど、東奔西走の介護活動をされていましたが、乙訓地方にも差し伸べられたのです。さらに「こんなモンありまっせ」シリーズや、長期連載「昭和の電車 改訂版」シリーズなど、会の外においても、介護の成果を発表されて来られました。このような背景をもとに、「鉄道、つれづれ草」シリーズが始まったのです。以降、いくつかのテーマに分かれて連載されました。冒頭に当たっての、マイテさんの言葉をスクリーンショットでお見せします。沖中さんの個展「ドイツの街角に市電」で来場者に説明される。

いくつかの記事を見て行くことにしました。リンクもありますので記事を見てください。

「鉄道、つれづれ草-“乙訓の老人”からのお願い」◎1981年に廃止された福井鉄道南越線の写真が載せられています。最初は米手さんも疑心暗鬼で出されたのですが、沿線近くで青春時代を送られたマルーンさんや紫の1863さんから、詳細な説明が入り、キャプションも完成しました。私としては、以前に廃線跡を訪ねことがあり、粟田部駅の現役時代の写真もあって、今昔対比をすることができました。鉄道、つれづれ草ー“乙訓の長老”からのお願い その3 | DRFC-OB デジタル青信号

「鉄道、つれづれ草 -吉川文夫氏作品編」◎沖中さんと同じく熱烈な電車ファンとして名高い吉川文夫さん(故人)とも親交がありました。私も吉川さんが関西に来られると、一緒に酒席に入れてもらうこともありました。吉川さんと沖中さんは、写真交換が長く続き、多くの写真がストックされていました。そんな吉川さんから送られてきた、秋葉線など、貴重な写真をまとめたもの。鉄道、つれづれ草 ー吉川文夫氏作品編ー | DRFC-OB デジタル青信号

「乙訓の老人 鉄道、つれづれ草 〈三八豪雪のこと〉」◎三八豪雪とは、昭和38年に北陸地方での記録的豪雪のこと、北陸本線は長期間不通になり、閉じ込められた列車の救出劇などがニュースになりました。沖中さんはちょうど富山の勤務時代で、目の当たりにした豪雪の様子を写真で伝えています。さらに湯口徹さんらも迎えて、記録を続けます。乙訓の老人 鉄道、つれづれ草 《三八豪雪のこと》 | DRFC-OB デジタル青信号

いっぽう私のほうも、沖中さんの写真・原稿を何回か発表しました。これは“介護”と言うより、“これ、載せといてんか”と頼まれた、原稿転載の類いです。

「◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑧」◎“た~ちゃん”とは、沖中さんの幼名です。このシリーズは、沖中さんが業界紙に載せられた「路面電車から街づくりを考える」の再録です。京電の歴史から、欧米のLRTまで、沖中さんの幅広い蘊蓄が満載です。再録に当たっては、同じくクローバー会会員の故・大西友三郎さんの資料、カラーも併催しました。◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑧ | DRFC-OB デジタル青信号

「◆ た~ちゃんの電車めぐり ③和歌山電気軌道」◎沖中さんから託された写真の中からテーマを設定して、連載を始めます。これは、昭和32年12月、翌33年5月に訪れた和歌山地方の私鉄です。ここに載せられた和歌山電気軌道は、見たこともなく、沖中さんの撮られた鮮明な写真に、ため息の連続でした。湯口さんからスキャンの技術を褒められたのも、嬉しいことでした。◆ た~ちゃんの電車めぐり ③和歌山電気軌道 | DRFC-OB デジタル青信号

最後に、沖中さんの写真、資料の発表、継承に尽力いただいた米手さん、最後の介護活動を伝える、一節を紹介しましょう。

 ありがとうございました 沖中忠順さん 〈1〉

沖中忠順さんのご逝去に当たり、当掲示板でも、会内外の皆さまから、沖中さんを悼むコメントを頂戴しております。会を代表して、皆様に御礼を申し上げます。先日、ぶんしゅうさんと、ご自宅へ弔問した際にも、デジ青コメントのコピーをご遺族へお渡ししました。“こんなに皆から慕われていたとは‥”と涙ぐんでおられました。当掲示板でも、引き続き生前のご功績を伝えていきますが、まず当掲示板での沖中さんの活動ぶりから振り返ってみたいと思います。

沖中さんは、生まれながらの大の電車好き、話好きでした。そして、何より「書く」ことが大好きな人でした。小学校の頃、学級新聞の担当になり、子ども記者としても活動され、書くことの楽しさに目覚めたと述懐されていました。当(新)掲示板でも、鉄道の話なら何でもアリ~と始めたのが2008年、沖中さんが積極的に投稿を続けられたのも、当然の成り行きでした。沖中さんのハンドルネーム「乙訓の老人」で、掲示板を検索すると約150件の投稿がありました。

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どこかにマイルの旅 2022年 北海道へ Part7 稚内⇒札幌⇒帰宅

第5日目 5月20日

折角「どこかにマイル」で当たって来ました北海道ですが、もう帰宅しなければならない第5日目になってしまいました。もう少しゆっくりしたい、街歩きも楽しみたい、函館へも行ってみたいと思いましたが仕方ありません。帰路の列車はとても朝早く、稚内 6:36発です。
この時間に楽しみの朝食が食べられるのかと前もって問い合わせると5:30から用意しておりますと、全国のドーミーインでも一番早い朝食開始です。
▲ 何といってもイクラやホタテ等の新鮮海産物が取り放題、食べ放題です。外で食べればこれだけで3,000円以上はしますので十二分に元が取れます。ちなみに豪華な朝食付きの宿泊料は、8,800円でした。
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沖中忠順さん ご冥福をお祈りいたします。

すでに会員個別の連絡、また掲示板でもお知らせのとおり、クローバー会会員の沖中忠順(おきなか ただより)さんが、去る6月8日、肺炎のため、お亡くなりになりました。享年84でした。謹んでご冥福をお祈りする次第です。

沖中さんは昭和13年4月生まれ、生まれついての電車好きで、5歳のとき、一人で京阪電車の流線型を三条京阪まで見に行って遅くなり、真っ暗ななか下鴨の家まで、泣きながら帰ったと述懐されています。昭和32年、同志社大学経済学部に入学、翌33年に仲間とともに鉄道同好会を創設されます。卒業後、鉄道ピクトリアルに発表された私鉄車両めぐり「京阪電車」は、私鉄研究のモデルともなり、いまも評価される記事となりました。長じて、昭和59年、故・大西友三郎顧問の退職記念の会で、沖中さんの呼びかけにより、有志によるOB会組織が発足し、事務局の沖中さんによって、現在の基盤が作られました。そして、展望車マイテの運転を機に昭和62年には正式なOB会が発足し、沖中さんは、初代の会長に就任されます。持ち前の面倒見の良さ、統率力を発揮され、先頭に立って、OB会を牽引されて来ました。現在に至る、OB会の活動・隆盛は、沖中さんのお蔭であり、改めて沖中さんの功績に思いを新たにする次第です。 電車が好きで、ビールはもっと好き、みんなと騒ぐことはさらに好きだった沖中さん。みんなで乗った「しまかぜ」車内で乾杯。

沖中さんは、近年、認知能力が衰えられて、家に籠った生活が続いていました。それでも、米手さんともにお宅へお邪魔すると、嬉しそうに電車の話をされます。つくづく、電車が大好きでした。最後にお目にかかったのは、昨年末、佐竹保雄さんと私との写真展の時でした。ぶんしゅうさんにクルマで送ってもらい、奥様とともに会場にお見えになりました。みんなで笑顔で撮った記念写真が最後になりました。佐竹さんからは数日前に「沖中さん入院」の連絡をもらい、奥様に電話をして様子を聞こうと、受話器を上げたものの、“かえって迷惑かな”と思い、下ろしてしまいました。虫が知らせたのでしょうか、ちょうど、その日に息を引き取られました。

現役の鉄道同好会が来年で65年、OB会発足から35年を迎えます。いずれの創設にも係わられ、電車と鉄道同好会を心底から愛した沖中さんが、「路面電車の日」の6月10日、著書の「京阪電車」を胸に天国へ旅立たれました。

ご逝去に際しましては、会則に従い、事務局から弔電を打ちました。通夜・葬儀については「家族葬」と聞きましたので、参列は遠慮させていただき、田野城さんのみ会を代表して、参列いただきました。奥様からは、ご自宅への祭壇にお参りくださいと聞いています。今後の弔意については、各個人にお任せしますが、よろしくお願いいたします。皆さんからは、沖中さんの追悼集、偲ぶ会などの話もいただいています。また時期が来ましたら、私の方で考えさせていただきます。

謹んでお知らせいたします。

乙訓の長老・沖中忠順さまが、昨日8日に84歳で逝去されました。1957年度生で曙期の鉄道同好会で活躍されDRFCの基礎を築かれたお一人です。祇園石段下での同志社チアーをはじめ色々な会合で一緒にチアーを叫ばれた方は沢山おられるでしょう。画像は1969年1月26日大阪駅4番ホーム急行丹波3号豊岡行きキロ28の前でチアーを送られる在りし日の沖中さんのお姿です。DRFCには心から愛着を持たれ、幾多の後輩を育てていただきました。
ご冥福をお祈りいたします。

画像は掲示板2017.1.26の記事を再掲したものです。

どこかにマイルの旅 2022年 北海道へ Part6 層雲峡⇒稚内

第4日目 5月19日

 

▲ 今日も清々しい朝を迎えました。宿を出て吊り橋を渡るとバスターミナルに出ます。今日は上川から列車に乗って稚内へと向かいます。

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どこかにマイルの旅 2022年 北海道へ Part5 川湯温泉⇒層雲峡

第3日目 5月18日

学生時代に強い思い出があった川湯温泉ですがどの旅館に泊まったのかは思い出せず刺激ある温泉の泉質だけは印象に残っています。早朝に起きて朝風呂に浸かってゆっくりとしました。

▲ ホテルの部屋から見た外の景色ですが人気はなく向かいのホテルは閉館となっていて付近に活気はありません。インバウンドのお客はいなくなっての影響をまともに受けたのでしょうね。
▲ 今日の行程です。宿泊した川湯温泉から釧網本線、石北本線と乗り継いで上川で降り層雲峡で泊まります。学生時代から何回も乗車した区間です。当初、網走から旭川へは特急大雪で行く予定でしたがあいにくと平日は運休です。普通列車乗車の連続となりました。

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親子で大宮の鉄道博物館

おひさしぶりです。1988年度生の子パンダの保護者です。

南正時作品展

先日、娘がボウリングの京都府代表として全国大会に出場したので、付き添いで東京まで出かけてきました。
結果は残念ながら予選落ち。土曜日が予選、日曜日が決勝なので、フリータイムができてしまいました。
宿泊が品川だったので、京急を乗り回そうかと思ったのですが、京急ミュージアムは定員いっぱいのために入場不可。というわけで、大宮の鉄道博物館に行くことにしました。
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別子鉱山鉄道を偲んで(完)

新居浜の港をスタートし、下部鉄道の跡を辿って端出場エリアに着きました。今は道の駅「マイントピア別子」として観光客で賑わっています。観光坑道入口までの数百メートルをミニ鉄道が運んでくれます。下部鉄道のゲージは762mmでしたが、復元された観光用鉄道は610mmで、クラウス製1号機を模して縮小サイズにされた機関車とED104を模した電気機関車もどきのプッシュプル編成です。第3軌条からの集電です。

ED104もどき。マイントピア駅にて。

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 これが65年前、昭和30年の多度津・琴平〈下〉

山科の人間国宝さんから提供していただきました

多度津機関区・工場を撮影後、長老は土讃線琴平~塩入で走行中の列車を撮影されます。その写真を漫然と眺めていたのですが、よく見ると、線路のカーブ具合、背景の山容から、われわれが、琴平駅からタクシーに乗って行った撮影地と同じなのです。65年前の夏、長老はここまで歩いて来られたのでしょうか。改めて、その並外れた行動力に驚いた次第です(以下、昭和30年8月3日)。

C58 295〔知〕の牽く、高松桟橋発窪川行きの121レ、給水温め器や前梁に縁取りがあって、調べると昭和28年に四国国体でお召列車を牽いていた。左下で手を振る少女がアクセント。 ▲▲一週間前、琴平~塩入で撮影した上り「南風16号」、当日、一年ぶりに土讃線高知以東を走る2000系DC、ツアー列車「Remember2000」を撮るために、タクシー2台に分乗してやって来た。まさか、この場所が、山科の人間国宝さんが。昭和30年に撮られた場所と同じだったとは、知る由も無かった。

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