私の好きな電気機関車たち   ⑫

ED電機の宝庫 中央東線①

ED電機は両数も少なく、使用線区も限定的でしたが、こと中央東線の沿線に関しては縁が深いものがありました。もともと中央東線には、昭和6年に浅川(現・高尾)~甲府の電化完成によって電機運転を開始した長い歴史があります。東京寄りから挙げると、立川では、青梅線、五日市線、南武線のED16が発着し、八王子まで行くと、勾配区間で使われる甲府区のED61が見られました。足を伸ばして辰野まで行くと、そこはED電機の本場、飯田線の始発駅で、ED19、ED26の活躍が見られ、さらに中央東線の実質的な終点である松本まで行くと、大糸線のED21、ED60も見られました。2回に分けて、中央東線沿いのED電機を見ていきます。奥多摩から産出される石灰岩を、青梅線、南武線経由で浜川崎にあるセメント工場まで運ぶのが、立川機関区のED16のおもな仕事だった。5187レ ED16 17  軍畑付近(昭和53年8月)

続きを読む

懐かしの野球選手の思い出(老人のたわごと)

オリンピックも野球は苦戦しながらも日本が金メダルをとったことはまずはめでたし。野球と言えば西武電車にライオンズの懐かしい選手、それも西鉄ライオンズ時代の選手がラッピング塗装車に出ているのに驚いた。ネットで調べてみると2020年3月9日から池袋線で運用されている「ライオンズ命名70周年号」でL-train3代目の20104編成である。過去の有名選手と現役選手が描かれており過去の有名選手は①号車東尾、②号車秋山、③号車石毛、④号車中西、⑤号車デストラーデ、⑥号車田淵、⑦号車郭、⑧号車渡辺、⑨号車辻、松井、⑩号車鹿取、稲尾である。

私が最初に観戦したプロ野球は西宮球場での阪急-西鉄戦のナイトゲームで、贔屓にしていた阪急は西鉄に負けたのか暗い夜道を父親とトボトボ帰ったような記憶がある。黄金時代の西鉄は南海とともに大変強く、黄金期は監督は三原修で次のような打順であったと思う。一番センター高倉、二番ショート豊田、三番サード中西、四番ライト大下、五番レフト関口、六番ライト玉造、七番セカンド仰木、八番キャッチャー和田、九番ピッチャー稲尾。

特に印象に残ったのは中西太で豆タンクのような体つきで独特のフォームでバットをぐるぐる回し、見ていて楽しい選手であった。ホームランバッターであったが、三塁の守備も体に似合わず華麗であった。この頃は結構進学校出身の選手が多く、中西も名門高松一校出身である。高松一校と言えば同じ下宿にいて一時DRFCにも所属した琴電志度在住のTさんや今でも付き合いのある同じゼミで琴電羽床在住のNさんも同校の出身であるので高松一校に何となく親近感を持っていた。

あれからどれくらい経ったのであろうか。プロ野球の世界も産業構造の変化によるのか、その経営は電鉄、新聞社、映画会社等からIT産業等に変ってきたが、若しも阪神電車が西武電車のような企画をし、藤村、別当、土井垣や村山、小山あたりが出てくればそれを撮ってみたいと密かに思っている。もっとも古過ぎて宣伝誘客効果はないだろう。 お邪魔しました!

続きを読む

昭和の電車 改訂版(200)ー京阪200型・近鉄モ200型ー

丹波橋での近鉄奈良電

なつかしい丹波橋

京阪・近鉄相互乗り入れ

前回掲載時の関連投稿記事は上記の通りです。

たぶんこれが近鉄モ200型のなれの果て?モ225

それともこれか?モ1801
京阪の200型は撮ってません!

 私の好きな電気機関車たち   ⑪

ED電機への憧れ① 阪和線のED60

電気機関車シリーズに戻ります。これまではEF級の電機の思い出でしたが、私はED級の電機にも憧れがありました。思い返すと、小・中学校に頃の鉄道模型に行き着きます。当時、模型化されていた電機は、EF級もありましたが、高価なうえに脱線しやすい欠点もありました。小遣いの範囲で買えるのは小型、と言ってもEB58では、それこそ子供だましで、やはりED級の電機に行き着きます。当時の売れ筋は、ED14、ED16、ED17あたりで、少し経つとED11あたりの少数機も出て来ます。牽くのはやはり客車が相応しく、マツモト模型のオハ31系数両を牽くのが適任でしょうが、結局、私はED14+オハ31だけの編成で終わってしまいました。後年、鉄道写真を撮るようになると、大型のEF級電機が長編成を牽く姿にも惹かれますが、心の中では、客車数両を牽く、ED級の電機を撮ってみたいと言う気持ちがありました。たとえば仙山線でED14、ED17が客車を牽くシーンを思い浮かべるものの、結局は間に合わず、その後の新型、ED60でやっと実現した。場所は阪和線、その頃、定期の客車列車はなかったものの、紀勢本線沿いの海水浴場へ向かう臨時急行「きのくに」が夏休みに多く運転されていた。牽引はEF52が多かったが、ED60が牽く列車もあった。客車は冷房付きの12系になっていて、思い描いたシーンでは無いものの、初めてのEDが牽く客車列車となった。「きのくに53号」 山中渓~紀伊 (昭和47年8月)

  続きを読む

夜汽車の情景 暁の急行能登号

 前回の寝台特急北陸の富山到着の8分後に本命のこだま型電車の急行能登号が到着する。まだ、暗いがわずかに立山連峰あたりから夜明けの気配が。わずかな時間のタイミングを逃さないようにしなければならない。夜明けの時間と列車の通過時間とうまく合うのか心配である。今回はラッキーだったのかもしれない。撮影日は2010年3月12日、定期運行最終の急行能登号は上野を3月12日発で富山到着が13日の朝である。天気予報を見ると富山の13日の朝は雨であった。それで1日前の3月12日の撮影となったのである。そしてこの日はドンピシャのええ天気。

続きを読む

ここはどこ?私はだれ?ー夏休み臨時列車ー

暑さとヒマで身をもてあましている諸兄を、夏休み臨時列車『ホームステイ』号へご招待致します。

と言っても、乙訓の長老様からお預かりしている写真の整理をお手伝い頂くのが目的です。
長老様は、永年撮りためた写真を箱に入れてしまい込んでおられますが、ジャマになったから整理・処分してくれ、と私に依頼されたのです。
ところが箱の表記と中身はバラバラ!概ね会社毎にまとめたのですが私鉄の知識の無い悲しさで分からないものが出てきます。それを、どこか?いつ頃か?を「デジ青探偵団」の皆様に教えて頂きたいのです。私も手が空いた時にボチボチやっているのでまだ道半ばです。いくらでも出てきますが、少しずつご覧に入れるので教えてください。探偵の皆さん!よろしくお願い致します。

では、どうぞ⇩

続きを読む

昭和の電車 改訂版(199)ー信貴生駒電鉄デハ1型ー

前回の時、どですかでんさんがコメントを下さいましたので再録致します。

信貴生駒電鉄がついに出てきました。さて米手作市さんが交野線との連絡の計画と書かれていますが、信貴生駒電鉄の社史によると大正10年に設立された生駒電気鉄道によって生駒・枚方間が施工認可を受けていたので、連絡ではなく最初から枚方から生駒への路線として計画されていました。生駒電気鉄道は開業できずに信貴生駒電気鉄道に買収され、その後に建設が容易であった私市まで開業したのですが、私市・生駒間は山間部の為に難工事となり、建設費がかさむために建設されずにつながらなかったのです。ちょうど今の国道168号線のルートです。この道は北田原から北上して私市までの道はカーブが多い山間部で、車を運転していても楽しいというかスリルがあるというか・・・・ 鉄道でつなぐとなるとちょっとした山岳鉄道になったかもしれません。このルートの目的は京都から生駒山参詣者の利便性を図る目的であったようです。信貴電にはもう1つ路線延長の計画があって許可申請をしたのですが、不許可となった路線があります。それは信貴山下駅から鉄道省関西線柏原駅までの延長線です。これも信貴山参詣者の利便性を考えたものらしいが、却下となりました。まだ、亀の瀬崩落前に計画したものなので、もし開業していたら大損害を受けて今の生駒線は廃業していたかもしれません。不許可なってラッキーであったのかもしれません。》

 

山形交通廃線跡を訪ねる(高畠線)

三山線を訪れた後は米沢で泊まり、翌朝早く、米坂線今泉から山形鉄道フラワー長井線(旧長井線)を完乗し、赤湯経由で高畠に行きました。高畠は山形新幹線の「つばさ」も停まる駅で、この日は閉館でしたが、駅には温泉が併設されています。近くにはワイナリーもあり、観光客も多く見かけます。山形新幹線が開通する以前は糠ノ目と呼ばれており、駅の周辺は人家も少なく、高畠の中心と結ぶために1922年高畠鉄道が開業しました。その後1924年に二井宿まで延長されましたが、1965年ころになると輸送実績が減少し、1966年の水害で高畠-二井宿がバス代行輸送になって、そのまま1968年にこの区間が廃止、1974年に残りの糠ノ目-高畠間も廃止となりました。
↑ 1974年8月山形交通糠ノ目駅、1面のホームに3線、左側に奥羽本線糠ノ目駅がありました。

続きを読む

夜汽車の情景 寝台特急「北陸」

 テレビ番組で「沁みる夜汽車」がある。番組の題名からさぞかし「夜汽車」という言うからには「夜行列車」が出てくるのだろうと思っていたら、列車は出てくるが違っていた。しかし、列車にまつわる「沁みる」話が出てくる。ああ~そういうことなのかと納得。ところで何で「夜汽車」?夜に見るから?

 まず最初は寝台特急北陸の写真である。本当はこの列車の写真を撮るのが本命でなかった。本命はこだま型ボンネットの489系で走っていた「急行能登」である。能登号は富山駅に5時41分着である。その前に「寝台特急北陸」が5時33分に到着である。本命の「急行能登」を撮るための試し撮りなのだ。ついでに平行して走っている富山地鉄も試し撮りをしている。カメラはキャノンのフィルムカメラでISO800のフィルムを使った。ストロボなしは当然のことである。すべてマニュアル設定。しかし、この話はかなりおかしい。フィルムによる撮影なので試し撮りは成立しないのである。フィルムは現像しないと、うまく写っているかわからないのである。しかしこれは試し撮りなのだ。

続きを読む

 今日は何の日? 《 60年前の7月31日編 ③ 》

下ノ森の“お別れの会”

紫の1863さん、お待たせしました。下ノ森に特化した写真を、前回のHさんがしっかり記録されていました。この騒ぎ、7月30日に、北野天満宮の特設テント広場で、京都市主催の“お別れ式”が行われた時のもの、当時の高山義三京都市長ほか500人が参加して行われ、表彰式などのあと参会者が7両のN電に分譲して、京都駅前までパレードした時のもの、Hさんは、見事なアングルで、市民の表情や服装まで活写されていました。

下ノ森にズラリと並んだパレードのN電、取り巻く市民、窓に号車札を付けたN電7両が、“お別れ式”の参会者の乗車を待っているところ。一般の乗車は?と思うが、この時間帯は、北野~下ノ森を営業休止して、パレード用車両を留置し、北野車庫前から特発したのだろう。

続きを読む

 今日は何の日? 《 60年前の7月31日編 ② 》

最後のN電を写す

N電最終日、昭和36年7月31日の様子を続けます。撮影されたのは、いまは首都圏にお住いのHさんです。大阪で生まれ、当時は東京の大学生だったHさんは、ちょうど夏休みとあって、帰省の折に、何度か京都まで出かけられています。快くネガを貸していただきスキャンすることができました。改めてHさんに御礼を申し上げます。7月31日の最終日、光線から考えて朝の時間帯、大阪から来たHさんは北野線に乗って、まず終点の北野まで来られた。すでに市民が集まり、職員も整理に当たっている。到着した5号は、車掌がポールを下ろして、片や運転士のほうはポールを上げて、折り返しの準備を進める。

続きを読む

山形交通廃線跡を訪ねる(三山線)

先日、青森、秋田、山形を訪れました。遠出するのは昨年の2月以来1年半ぶりです。JALでたまっていたマイルが7月~10月にかけて、10000マイルあまり期限が来てしまうのでこれを使って出かけることにしました。津軽線、五能線の訪問に加え旧山形交通廃線跡がどうなったのか見るのも目的の一つです。昨年4月のデジ青でも紹介させていただきましたが、旧山形交通の三山線、高畠線には1974年8月、廃線の3か月前に訪れました。DRFC夏の五能線合宿に行く途中に寄ったもので、その時は左沢に泊り、まず三山線を訪れ、続いて高畠線、合わせて半日あまりの訪問でした。
↑ 以前投稿したのと同じ写真ですが1974年8月の羽前高松駅です。

続きを読む

 今日は何の日? 《 60年前の7月31日編 ① 》

N電を見送る

最近の京都市電に対する、展示、出版には目を見張るものがあります。京都市交通局の市電関係の簿冊が京都市有形登録文化財に指定されたこと、そして、今年がN電こと北野線が廃止されてから60周年と言うことも関係しているのでしょう。先ほど何気に考えたら、今日7月31日は、まさに京都市電北野線の最終日に当たり、あわてて投稿を立ち上げました。直前のデジ青欄でも、米手さんが撮られた、千中交差点の素晴らしい夜景が披露され、思わず、私もナマ写真を見せていただくよう、おねだりしたところです。

60年前と言うことは、N電廃止をしっかり体験しているのは、70歳台以上の世代でしょう。かく言う私も、辛うじて、自分の手で撮影ができた世代です。たった数枚ですが、いまも鉄道アルバムの最初のページにしっかり貼って、記憶に留めています。最終日の7月31日は、前にも書きましたが、小学校6年の臨海学校で若狭へ行っていて、最終日に立ち会えなかったのは、いまとなっても残念な思いに駆られています。ただ私は、先輩の皆さんから、N電関係の写真、ネガを譲り受けて保管しています。お蔭で、「レイル」のN電特集号でも、先般の関テレの報道番組でも、依頼があれば、写真を提供することができました。理解ある先輩に恵まれたと思いますし、これを大切に引き継いで、機会を見ては発表・発信していくのが、私の使命だと思っています。最近も、別の方から写真、ネガを貸していただきました。そこで、7月31日に当たり、まだ発表できていない写真の一部をご紹介します。最後の一週間、装飾を施した普段とは違う最終らしい写真で構成しました。中立売橋を渡る。最終日の一週間前から、ほとんどのN電がモールで飾られて、側面には廃止告知の横幕が掲げられた。中立売橋はいろいろな角度で撮られ、著名な方の名作も生まれている。この写真で興味深いのは、見物人のほとんどがカメラで写していること、カメラ・スマホ全盛の現在でも、あり得ないようなシーンだ。この時代になると、35ミリカメラが普及していることが分かるが、N電のすぐ右で、二眼レフを覗いている少年がいる。ちょうど私と同じ世代に見える。どこの家でも、使っていないオヤジの二眼レフが転がっていたものだ。少年も、この特別の日に、オヤジから使い方を聞いて、写しに来たのだろう(以下、神戸市Nさん撮影、昭和36年7月)。 続きを読む

 街並みとともに ~京都のバス~  〈13〉

受験生輸送を 同志社に見る

京都市バスならではの車窓風景や系統、街並みなどを紹介してきました。ここらでひと区切りと参ります。これから紹介する大学入試の際の受験生輸送も、ほかの都市ではなかなか見られない、ある時期、一年に数日間見られた、特色のある光景だと思います。普段の通学輸送も大切なことですが、受験の場合は、寄り道することなく、まっすぐ帰宅しますから、試験終了直後の集中ぶりは、たいへんなものになります。お膝元の同志社大学での光景を見てみます。

われわれの時代には、市電烏丸線がその輸送を担っていました。烏丸線が昭和49年に廃止され、その代替輸送は市バスへになります。昭和56年に地下鉄烏丸線が完成すると、当然地下鉄に移りますから、市バスの受験生輸送は7年間だけ見られた輸送形態でした。受験生が今出川キャンパスから続々と吐き出される。終了時刻に合わせて、市バスは烏丸通を南下して、西門前付近に集まって来る。試験を終えた受験生を満載して、四条烏丸、京都駅方面へと向かって行く。市電は廃止、地下鉄は未開業、市バスしか移送手段のない時代に見られた、京都の冬の風物詩だった。

続きを読む

旧三江線にキハ02出現

廃線跡を利用した地域振興事業が各地で見られますが、旧三江線の口羽駅を起点に廃線跡をトロッコで走るイベントが企画されています。誰のアイデアか、キハ02を模したトロッコが準備されているようです。

令和3年7月28日 中国新聞朝刊

 街並みとともに ~京都のバス~  〈12〉

京都駅前、烏丸通で市バス全盛時代を見る

性懲りもなく、京都市バスの思い出を綴っていますが、ふと、市バスの全盛時代って、いつ頃だろうかと急に思いつき、交通局の資料を調べてみました。最近の市バス1日当たりの乗客数は、ここ数年、32~36万人で推移しています。内外の観光客でバスが異常に混んで、オーバーツーリズムが社会問題化していた時代、大型キャリーケースの持ち込み料金を徴収するべきとか、バスを市民用と観光客用を分けるべきとか、真剣に論議されました。みんながみんな、500円の1日乗車券を握りしめて、押し合いへし合いして乗り込んだ、わずか3年ほど前が、今となっては懐かしい気分です。その頃ですら乗客数は36万人程度、いまは、多少持ち直しているとは言え、24万人程度でしょうか。

市バスが最大を輸送したのは、最近ではなく、40年前の昭和55年度になります。1日当たり乗客数が59.8万人、最近の2倍以上を運んでいたのです。市電が昭和53年に全廃され、地下鉄烏丸線はまだ工事中、公共交通は市バスしかない時代でした。当時の1日走行距離11万4千km(現8万5千km)、車両数1061両(現822両)といずれも、昭和の時代が勝っていました。今回は、こんな市バス全盛時代を見ていきます。

朝、午前8時台の京都駅前、烏丸通を続々南下して来たバスが右折レーンを独占して信号待ち、黄信号で一斉に右折して行くのは壮観だった。地下鉄烏丸線の開業前で、市電が無くなったあとは、京都市の公共交通は市バスしかなかった(昭和56年、以下同じ)。

続きを読む