なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道” 〈16〉
晩秋の北陸鉄道白山下駅で
石川県下に多くの路線を張り巡らせていた北陸鉄道ですが、石川線加賀一の宮~白山下の金名線もその一つでした。「金」は金沢、「名」は名古屋であり、何とも大仰な線名ですが、免許区間は上記の区間だけで、「金名」はキャッチフレーズのようなものでした。その終点の白山下へ、加賀一の宮のユースに泊まって、朝6時45分に到着しました。土砂降りの雨のなかで降りたのはあと一人だけでした。文字どおり、白山の麓の駅で、シーズンには、登山客や温泉に向かう客で、ささやかながらも賑わいを見せることもありました。
▲白山下はホーム一面、機回し線一本の終端駅、電車は、金沢市内の野町まで直通していて、金名線、石川線は一体として扱われていた。駅の裏には、手取川の渓谷が見られる。その間の空き地に、バスが二台、うち一台は‥‥、これこそ、朝早くに白山下まで来た理由だった(昭和51年11月)。
広島小ネタ2題
なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道” 〈15〉
秋の嵐山駅
この時期、秋も深まって来た頃の様子です。投稿画面に向かう時間が確保できませんが、“なりゆきまかせ”の趣旨に沿って、テーマもバラバラ、一枚でもいいので、継続して進めることを第一に考えます。
灯籠を模した照明が、京都の風情を増す晩秋の阪急嵐山駅。嵐山線が最後の居場所になった、2300系の運行標識板車が入線しました。時刻はまだ16時台ですが、晩秋の日暮れは早く、ライトを点灯させての入線です(実際は平成の撮影ですが、“昭和”のイメージとしています)。▲手前2352の2301F編成は、9300の増備による6300系の嵐山線転入により、平成17年に廃車になっている。その後も嵐山線へは、毎年のように秋の臨時列車を写しに行っているが、年々、運転期日や本数が減って来た。昨年のコロナ禍の時は、人流抑制から、ついに臨時列車はすべて中止された。ようやく明るさが見え始めた今年の秋、嵐山線に臨時列車は運転されるのだろうか。
1位 おめでとう
プロ野球パリーグで、元阪急のオリックスが25年ぶりの優勝を決めました。おめでとうございます。
12球団で一番長く優勝から遠ざかっていたとは。学生時代「死ぬまでに阪神の優勝を見られたら本望や」と言っていた同級生の言葉を思い出しました。全盛時のピッチャーは山田、山口、山沖さんでしたが、現在のオリックスの主力ピッチャーの名字に「山」がついているのは、何かの因縁でしょうか。
1位おめでとうと言うことで、10/24に四国に来たのに撮影出来なかったEF210-1号機が、タイミング良く10/27に再度四国にやって来た際の写真を貼り付けます。(多度津工場から出場待機中の1040と 多度津駅)
昭和の電車 改訂版(223)ー小湊鐵道キハ5800型ー
昭和の電車 改訂版(222)ー阪急電鉄96型ー
私が接した3軸貨車
先に「私が接した3軸ボギーの客車たち」を投稿しましたところ、思いもかけず36件ものコメント、写真をご披露頂き感激しております。その36件の中に、洒落で米手様よりタサ659が紹介されました。これにヒントを得て、柳の下の2匹目のドゼウを狙うことに致します。とは言え、私が写真に収めている3軸貨車は2両しかありません。まずは米手様の後塵を拝してタサ660です。
撮影場所は向日町駅か神足駅かと思います。タサ600形は600~662の63両が存在しましたが、653~662の10両は昭和28年にタラ1形32~41から改造されたグループでした。上の写真でタサの左側には3軸台車TR78を履いたタキが写っているのですが、そのタキの写真は撮っていません。米手様の659もこの660も「ヨンサントウ」を前にした昭和43年9月30日に廃車となっています。
なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道” 〈14〉
国道電車 秋の甲子園線
正式には阪神電鉄併用軌道線、通称“国道電車”も、廃止されたのが昭和50(1975)年のことですから、もう46年前になります。ちょうど京都市電が毎年のように廃止になっている時期で、掛け持ちで何度も行って、京都では味わえない車窓風景を撮影したものです。機会に恵まれて、神戸在住の皆さんと本を造ることもできました。国道電車は、北大阪線、甲子園線、国道線の3線からなり、三線それぞれに特徴がありましたが、今回は、甲子園線に限定して、カラーを集めてみました。
▲向こうに改修前の甲子園球場がそびえる「阪神パーク前」の電停。その阪神パークとの間を“金魚鉢”の電車が過ぎて行く。ちょうど今ごろの季節で、阪神パークは、家族連れで大にぎわいだった。チープな着ぐるみ人形や焼き芋リヤカーも時代を語っている(昭和49年10月)。
昭和の電車 改訂版(221)ー阪和電鉄クタ800型ー
私が接した3軸ボギーの客車たち
ここのところ、客車の食堂車や一畑のクハの話から、3軸ボギーの客車が話題になっていました。私も何とか参加しようと写真を探すのですが、残念ながら3軸ボギー客車とはほとんど接点がありません。米手様や井原様はじめ客車のオーソリティーの足元にも及びませんが、これが私の接した3軸ボギー客車のすべてです。まずは何といってもマイテ492です。
昭和の電車 改訂版(220)ー一畑電鉄クハ111号ー
なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道” 〈13〉
モノクロ版 昭和の南海駅(2) 天下茶屋
続いて、打ち上げ会場となった天下茶屋付近です。西天下茶屋から会場へ向かう途中、天下茶屋駅の西側の商業施設を見て、同行の宇都家さんから「以前、ここには天下茶屋工場がありました」と聞かせてもらい、伝言板には、宇都家さんから当時の写真掲載がありました。その時、私は“餃子とピール”に集中するあまり、気が付きませんでしたが、現役時代に南海天下茶屋工場を見学したことがあり、後年、天王寺~天下茶屋の天王寺支線が廃止になる際に、天下茶屋付近で撮っていました。
▲地上線の南海本線と並走する天王寺支線の電車。新今宮付近の高架線から、本線は地上に降りると、東側から天王寺支線が寄り添ってきて、並走しながら天下茶屋へ至っていた。天王寺支線は、大阪鉄道(現・関西本線)との相互乗り入れを目的に、天下茶屋~天王寺が明治33年に開通した。その後、関西鉄道、国鉄になってからも接続路線として機能し、旅客だけでなく、貨物の乗り入れもあった。昭和41年に南海に新今宮駅ができると、旅客が激減、貨物も廃止になり、地下鉄堺筋線の延伸工事のため、部分廃止のあと平成5年に全廃となった(以下、昭和46年6月)。
なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道” 〈12〉
モノクロ版 昭和の南海駅 (1)岸里玉出
先日、行われたクローバー会のイベント、南海汐見橋線の乗り歩きは、コロナ禍後の久しぶりの会合となりました。汐見橋線には何度か行ったことがあるものの、乗るだけの“線”移動に留まっていましたが、今回は、勘秀峰さんの企画で、市営の渡船に乗ったり、ディープな商店街を歩いたりと、“面”のツアーとなり、見識をあらたにしました。終ってからの“餃子にビール”も、たまりませんでした。今回は、モノクロ版となり、看板に偽りありですが、50年前の付近を復習しました。
集合地は、南海の岸里玉出駅。勘秀峰さん作成のミニメモをもらい、概要の説明を受けます。皆さんからは、いろいろな疑問が飛び交います。「岸里玉出って、長い駅名やなぁ」「なんで地下通路がこんな長いねん」、果ては「駅前へタコ焼き買いに行ったけど、休んどったでぇ」とか、さまざまな言葉が飛び交いました。
▲昭和の時代の岸里玉出駅、当時の岸ノ里駅、難波方面から入線する本線の電車を見ている。勘秀峰さんのミニメモのように、南海本線は地上線、汐見橋線を含む高野線は高架線で、両者は、斜めに交差していてホームは別々にあった。ガードに書かれているように、当時は駅名に「ノ」が入っていた。市営地下鉄に「玉出」があり、その区別のため「ノ」入りとなったようだ(以下、昭和59年5月)。
急行「大和」
米手作市さんの素晴らしい企画「私の好きな食堂車」は高齢者を中心に凄い盛り上がりとなりました。私も久しぶりに古いネガを探しましたが、そのような中でおやっと思う客車がありました。急行「大和」湊町行き2等客車です。「大和」と言えばTsurukameさん、大阪通信員さん等当会の諸先輩が「加太会」なる圧力団体を結成され指定旅館村田屋を拠点に、早朝のC57牽引の「大和」を記録されております。特に大阪通信員さんはDRFC例会で深夜の名古屋からの動画を発表され今でもその熱意と気力には敬意を表しております。さて、その「大和」ですが1949年(昭和24)年の東京ー名古屋間の準急あたりがルーツで翌1950(昭和25)年急行列車化されています。ネガで目に留まったのは1966(昭和41)年11月2日品川客車区で撮った「大和」のオハフ331527です。写真をよく見ると⑭号車で湊町行きの行先板と入口に座席指定の表示があることがわかります。私は定期急行列車なのにこんな車両に指定されたら全く損をした気分になります。因みに1966(昭和41)年の7月の時刻表を見ますと「大和」は金沢行き「能登」との併結で東京を22時35分に出発となっています。①~⑧号車が米原経由金沢行き901列車「能登」で、⑩~⑭号車が湊町行き2901列車「大和」です。⑨号車は和歌山市行きです。⑨号車和歌山市行きについてはよく話題になりましたが当時北海道、四国を除き東京から直通列車がなかった府県は和歌山だけであったのでその配慮と思われます。王寺からは529普通列車に連結されて和歌山市に到着するのは何と11時34分です。和歌山まで乗りっぱなしの客がいたのだろうかと思ってしまいます。当時でも新幹線を使った方がよっぽど早く和歌山に着けたはずです。その後「大和」の名前は1968(昭和43)年10月の改正で「紀伊」に統合され、紀伊勝浦、鳥羽、王寺行きとなりました。伝統の湊町行きは勿論、和歌山市行きもなくなり、さらに奈良―王寺間は普通221列車となってしまいました。王寺と言えばどですかでんさんの縄張りですので、このあたりの事情はお詳しいと思います。また、湊町と言えば現在のJR難波ですが、先日皆さんが船旅を含む大旅行をされた都会のターミナルの南海汐見橋もこの近くだと思います。記念写真を拝見しましたが汐見橋がようわからんと騒いでおられた方も無事写っておられます。さて、さらにその後急行「紀伊」も1975(昭和50)年3月に特急に格上げされ米子行き「いなば」や出雲市行き「出雲」と併結されました。雑誌等で海辺行くDF50の姿も見ましたが、1984(昭和59)年に廃止されたようです。私の撮った「大和」関連の写真をご覧下さい。
広電短信
昭和の電車 改訂版(219)ー琵琶湖鉄道汽船100型ー
京阪の800型ということで、湯口さんからの投稿があります。
京阪800型
なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道” 〈11〉
最後の「びわこ」▲「びわこ」号こと京阪60型、天満橋~三条~浜大津という線路条件が全く異なる2線区の直通運転のため、数々の新機軸を盛り込んだ二車体連接車として、昭和9年にデビューした。われわれの世代、京津線での活躍は見ているが、私はほとんど記録がなく、旅客営業を止めたあと、末期によく運転されていた、趣味団体の貸切電車を写したに過ぎない。最後まで残った「びわこ」63号は、この年に廃車になった。御陵~京阪山科 昭和45年7月
9月に行いました「思い出の七条大橋」写真展には、感染状況がきびしいなかにも係わらず、クローバー会はじめ、多くの皆さんにご来場いただき、対面で話ができることの楽しさを改めて感じました。今回の展示は、私の写真だけでなく、多くの先輩方の写真もお借りして、撮影年代の幅を広げるようにしましたが、なかでも皆さんが注目されたのは、京阪「びわこ」号が鴨川沿いを走るシーンではなかったかと思います。
▲ポールとパンタ、高低の側扉の両刀づかいを発揮したのが、浜大津発枚方公園行きの菊人形行きの臨時電車だった。運転されたのは季節限定のごく短い期間で、本線上の記録は極めて少ない。この写真は、須磨の人間国宝さんの撮影、会場には乙訓の国宝さんの写真も展示、クローバー会の先輩の貴重な記録に改めて思いを新たにした。
四国松山のディーゼルカー ~その3
下灘で2時間弱滞留した後、12時31分に出る八幡浜行きの4917Dで伊予大洲をめざします。今回の一番の狙いは、キロ47の伊予灘ものがたりです。47系での運行は令和3年末までと報じられています。後継は、四国まんなか千年ものがたり(多度津-大歩危の特急グリーン車)、志国土佐時代の夜明けのものがたり(高知ー窪川の特急グリーン車)のようにキハ185が改造種車になるようです。そうです。四国でキハ47系のジョイフルトレインに親しむのは、今しかありません。
下灘駅に入る伊予灘ものがたり
四国松山のディーゼルカー ~その2
松山周辺のディーゼルカーは、国鉄時代からのキハ54、キハ32、キハ185の3100番台、JRになってから就役した2000型。加えて2021年末での引退が報じられている、伊予灘ものがたり用のキロ47となります。キハ54は、国鉄最末期の昭和61年に登場したローカル用のステンレスカーで全車両運転台車です。他の国鉄ディーゼルカーと同じく21.3m、ロングシート、2枚折戸で250psのDMF13エンジンを2基積んでいるのでなかなか鋭い加速をします。12両全車が松山運転所に配置されています。
キハ54 0番台 松山駅