昭和の電車 改訂版(222)ー阪急電鉄96型ー 投稿日時: 2021年10月24日 投稿者: 米手作市 この電車にもコメントはありませんでした。阪急でも古すぎると興味がないのかも知れません。 例によって湯口さんが貴重な資料を投稿されています。 阪急96、97 この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 昭和の電車 改訂版(208)ー京阪電鉄京津線80型ー 昭和の電車 改訂版(157)ー京王電軌23型ー 昭和の電車 改訂版(98)ー大阪市電3001型ー 昭和の電車 改訂版(84)ー阪神1001型ー 昭和の電車 改訂版(41)ー京阪スーパーカー2000系ー 昭和の電車 改訂版(29)ー京成電鉄1600型ー 昭和の電車 改訂版(18)ー奈良電クハボ600型ー 昭和の電車 改訂版(14)ー阪急電鉄202号ー
米手作市様 元客車なら米手さんも興味がおありだと思います。大私鉄がババを引いたなどとおっしゃらずご覧ください。1966(昭和41)年11月25日西宮北口車での96で先輩の高橋正雄さんの案内で藤本さんも一緒だったと記憶していますが、定かではありません。顔は別として横からの印象は神宝線の900,920系のような感じでした。伊丹線運用が最後でこの写真の撮影時は車内にタオルや椅子のようなものが見られ、倉庫代用でした。1週間後の12月1日付で廃車となっています。 返信 ↓
地方私鉄が鋼製客車を戦前に製造した例は、非常に少なく、この加越鉄道の2両と、後に気動車中間車になった北海道の夕張鉄道と、あとは後藤寺線の前身の産業セメント鉄道が1両。これは省を経て国鉄の正式な形式もとり九州で使われました。それと茨城交通湊線に東武電車スタイルが2両いました。 後は戦後の木造鋼体化車で、北海道の大夕張など複数の炭鉱路線、片上鉄道、これらは60系の私鉄版で、他はオリジナル鋼体化車の江若鉄道と、焼電復旧車が三井芦別と常総線にいました。三井三池の客車も電車スタイルです。 戦後の鋼製車両は時代要請もありましたが、非常に珍しい戦前の私鉄型鋼製客車、発注するのも勇気が要ったと思います。非力な機関車では牽けないことも想像されます。この宝の持ち腐れ車両を阪急に押し込んだのが、小島栄次郎なのですが、ネットも鉄道情報誌も無い時代に、ブローカーの行動力には商売とはいえ、頭でっかちの鉄ちゃんなど足元にも及びません。 私が知るにも、和歌山鉄道の有休ガソリンカーを耶馬渓線に押し込んで、蘇生させたり、小島のお陰で溶鉱炉で屑鉄として溶かされずに済んだ車両は各地におります。 ”ブローカー”小島が連れてこなければ、こんな砺波平野の隅で寝ていた車両が、阪急の一員となり「マルーンのユニフォーム」を着て西宮のダイヤモンドを駆け巡ることもなかったでしょう。 京都の私大生らの酒の肴に登ることも無かったと思えば、小島栄次郎に感謝しましょう。 返信 ↓
昭和の時代にはこんなことがあったのですね!富山を走っていた車両を阪急が買うなんて!びっくりしました。 湯口大先輩のご投稿内容を見てその詳細をより明確に知ることが出来ました。 90型の別形式は目黒蒲田電鉄から購入しているのですね!恥ずかしながら阪急の車両は皆自社発注のものばかりだと思っていました。 準特急さん撮影の96型の窓は見事に同じサイズで統一されていますがいろいろ手を加えられてきた証なのでしょうか?この撮影後間もなく廃車されていますから、凄い写真なんですね! 昭和15年から昭和41年まで四半世紀以上お客様をお運びしたのですから「ババ」とは一寸可哀想ですね。 返信 ↓
マルーン様 阪急電車の90型の別形式90~95は院電目蒲系のことかと思います。私が通学に利用した今津線では見かけることがなく、伊丹線専用であったように思います。官僚をやっていた五島慶太が小林一三を尊敬していて小林一三も目蒲の役員をやっていたとかでそのような関係かどうかわかりませんが、院電の車両が阪急に紛れ込んできたようです。古い記録写真ではダブルルーフの木造スタイルですが、最後の93が西宮北口で入れ換えをしているのを撮っています。何となく阪急の匂いがします。撮影は1966(昭和41年)12月2日ですが、昇圧後の1967(昭和42)年10月17日に廃車となっています。 返信 ↓
準特急様 早速に有り難うございます。 この93は見事に阪急顔になっていますね。木造のダブルルーフ車から見事な変身ぶりにびっくりです。前面も側面も。 きっと改造を担当された方々はさぞかし満足されていたんだろうな!と想像します。 返信 ↓
山口益生著「阪急電車」には、今津線用に目蒲電鉄より木造省電6両を譲受、90~92は明治43年製、93~95は大正2年製とあります。小さな写真がありますがダブルルーフの時代を感じさせるスタイルですね。 また、目蒲電鉄経由は名目上で鉄道省から直接入線とあります。目蒲電鉄が鉄道省と阪急との商社機能を発揮されたのでしょうか? その後94と95は神戸三宮乗り入れ後の上筒井支線で使用され、支線廃止後伊丹線に移る云々とあります。 上筒井が出てくる位ですから歴史的なシーンが目に浮かびます。 令和の時代から見ると昔、昔のお話ですね! 返信 ↓
米手作市様
元客車なら米手さんも興味がおありだと思います。大私鉄がババを引いたなどとおっしゃらずご覧ください。1966(昭和41)年11月25日西宮北口車での96で先輩の高橋正雄さんの案内で藤本さんも一緒だったと記憶していますが、定かではありません。顔は別として横からの印象は神宝線の900,920系のような感じでした。伊丹線運用が最後でこの写真の撮影時は車内にタオルや椅子のようなものが見られ、倉庫代用でした。1週間後の12月1日付で廃車となっています。
これも客車ですか?
これを「客車だからスキになれ!」と言われても、ちょっと・・となります。
でも阪急なればこそ立派に成人させてくれたと言えるのでしょう。こんな事があったのですね、
地方私鉄が鋼製客車を戦前に製造した例は、非常に少なく、この加越鉄道の2両と、後に気動車中間車になった北海道の夕張鉄道と、あとは後藤寺線の前身の産業セメント鉄道が1両。これは省を経て国鉄の正式な形式もとり九州で使われました。それと茨城交通湊線に東武電車スタイルが2両いました。
後は戦後の木造鋼体化車で、北海道の大夕張など複数の炭鉱路線、片上鉄道、これらは60系の私鉄版で、他はオリジナル鋼体化車の江若鉄道と、焼電復旧車が三井芦別と常総線にいました。三井三池の客車も電車スタイルです。
戦後の鋼製車両は時代要請もありましたが、非常に珍しい戦前の私鉄型鋼製客車、発注するのも勇気が要ったと思います。非力な機関車では牽けないことも想像されます。この宝の持ち腐れ車両を阪急に押し込んだのが、小島栄次郎なのですが、ネットも鉄道情報誌も無い時代に、ブローカーの行動力には商売とはいえ、頭でっかちの鉄ちゃんなど足元にも及びません。
私が知るにも、和歌山鉄道の有休ガソリンカーを耶馬渓線に押し込んで、蘇生させたり、小島のお陰で溶鉱炉で屑鉄として溶かされずに済んだ車両は各地におります。
”ブローカー”小島が連れてこなければ、こんな砺波平野の隅で寝ていた車両が、阪急の一員となり「マルーンのユニフォーム」を着て西宮のダイヤモンドを駆け巡ることもなかったでしょう。
京都の私大生らの酒の肴に登ることも無かったと思えば、小島栄次郎に感謝しましょう。
昭和の時代にはこんなことがあったのですね!富山を走っていた車両を阪急が買うなんて!びっくりしました。
湯口大先輩のご投稿内容を見てその詳細をより明確に知ることが出来ました。
90型の別形式は目黒蒲田電鉄から購入しているのですね!恥ずかしながら阪急の車両は皆自社発注のものばかりだと思っていました。
準特急さん撮影の96型の窓は見事に同じサイズで統一されていますがいろいろ手を加えられてきた証なのでしょうか?この撮影後間もなく廃車されていますから、凄い写真なんですね!
昭和15年から昭和41年まで四半世紀以上お客様をお運びしたのですから「ババ」とは一寸可哀想ですね。
マルーン様
阪急電車の90型の別形式90~95は院電目蒲系のことかと思います。私が通学に利用した今津線では見かけることがなく、伊丹線専用であったように思います。官僚をやっていた五島慶太が小林一三を尊敬していて小林一三も目蒲の役員をやっていたとかでそのような関係かどうかわかりませんが、院電の車両が阪急に紛れ込んできたようです。古い記録写真ではダブルルーフの木造スタイルですが、最後の93が西宮北口で入れ換えをしているのを撮っています。何となく阪急の匂いがします。撮影は1966(昭和41年)12月2日ですが、昇圧後の1967(昭和42)年10月17日に廃車となっています。
準特急様
早速に有り難うございます。
この93は見事に阪急顔になっていますね。木造のダブルルーフ車から見事な変身ぶりにびっくりです。前面も側面も。
きっと改造を担当された方々はさぞかし満足されていたんだろうな!と想像します。
マルーンさんには悪いですが改造される前の姿を阪急線上で見たかった気がします。私は国電(院電)のことはわかりませんが、何か歴史的な車両だったようですよ。
山口益生著「阪急電車」には、今津線用に目蒲電鉄より木造省電6両を譲受、90~92は明治43年製、93~95は大正2年製とあります。小さな写真がありますがダブルルーフの時代を感じさせるスタイルですね。
また、目蒲電鉄経由は名目上で鉄道省から直接入線とあります。目蒲電鉄が鉄道省と阪急との商社機能を発揮されたのでしょうか?
その後94と95は神戸三宮乗り入れ後の上筒井支線で使用され、支線廃止後伊丹線に移る云々とあります。
上筒井が出てくる位ですから歴史的なシーンが目に浮かびます。
令和の時代から見ると昔、昔のお話ですね!