
前回の営団地下鉄はやはり、と言うべきか反応がありませんでした。
関東私鉄だからか、営団だからか、理由は分かりません。
今回は大阪地下鉄です。最近は「大阪メトロ」と言うそうですが・・
前回投稿時には、元運転士の方から思い出コメントがありました。
元来、横須賀線は軍港のある横須賀と東海道線とを繋ぐ目的で敷設された軍事路線であったが、第二次世界大戦で日本が大敗した後は、海上自衛隊と在日米軍による貨物利用が続いた。
その歴史は1889(明治22)年6月16日に大船-横須賀間(15.9 Km)の単線開業まで遡る事が出来、その際のエピソードとして有名なのは実際の工事に際しては軍の介入が有って、北鎌倉駅では円覚寺の境内を横切り、鎌倉駅近くでは鶴岡八幡宮の参道である段蔓をも切り取る強引さを伴った工事であったとされている。
その一方で横須賀線は沿線に古都の鎌倉が有って、古くから高級住宅地としても知られており、更には逗子を代表とするその海岸線は『湘南』と言われ、夏の海水浴場や避暑地としても発展していて、現在ではそれ等地域の足としての役割が大きい。
横須賀から先、久里浜迄の8.0Kmについては1944 (昭和19)年4月1日の単線による開業となっている。
そのレールについては時節柄新規の調達が難しく、当時未だ東海道本線だった頃の名残りで本線仕様のままだった御殿場線を単線化して必要レールを捻出したと言われている。
以上の通り横須賀線は正式には大船―久里浜間(23.9Km)を言うが、その運行上は東京を起点としており、東京―久里浜間 (70.4Km)を直通する運行形態であった。従って横須賀線は東京―大船間については東海道本線上を湘南電車と交互に走行し、それは1980(昭和55)年10月1日の分離運転(MS分離)まで続いた。
本日DRFCクローバー会第6回定期総会が開催されました。
コロナ感染の影響で、今年の2月から予定していたほとんどの行事が中止になりました。同志社大学ホームカミングデーも中止となり、例年それに合わせて行っていた集会も開催が危ぶまれましたが、今年は3年に一度の総会の年でもあり、学外に会場を借りて何とか開催することができました。
遠く関東方面から来られた3名の方を含め33名の出席のもと、提案された4つの議案が賛成多数で承認されました。また、この総会で6年間務められた会長が退任され、新会長と新しく4人の役員が就任しました。総会の議事録については今月末発行予定の会報第3号をご覧ください。
例年なら、この後懇親会が行われるところ、今回はやむなく中止となり、何か物足りない気分のまま、来年はいつものように学内での開催と、懇親会ができることを願って家路につきました。
↑ 例年の学内教室が使えなかったため、会場を京都駅前キャンパスプラザ京都に移して開催されました。 続きを読む
運転日が増えたことと、運転経路が変更されたため、更には下り列車は平日と休日で約1時間ずれたダイヤになったことから、撮影場所の選択肢が増えて 急に忙しくなりました。近作をご紹介します。まずは呉線を行く上り列車から。
竹原市忠海町は江戸時代のある時期、内陸部の三次藩領の町となり、藩の外港として栄えた町で、藩主が江戸へ参勤交代する際はこの港から瀬戸内海を船で往き来しました。エトセトラが渡っている短い鉄橋は、川ではなく、江戸時代に人工的に掘削して作られた内港の入口で、三呉線の鉄橋が架けられ、船の通行ができなくなるまで町の奥まで大きな帆船が出入りしていました。写真では小さくて見づらいですが、立派な常夜灯が建っており、ここが港の入口であることを示しています。今では、ウサギの島として有名になった大久野島へのフェリー乗り場として賑わっています。
今回は、ナデ6141号電車です。戦前の通勤用電車の原型となった車両です。W.HやG.Eなど懐かしい名前が出てきています。


前編として昭和6(1931)年1月12日深夜に山陽本線河内駅で発生した下関発東京行き2・3等急行第10列車の脱線転覆事故についての調査結果をご報告しました。その調査をするなかで、大正15(1926)年9月23日深夜3:30頃に山陽本線安芸中野・海田市間で東京発下関行き特別急行第1列車が脱線・転覆し、死者34名を出すという大事故があったことを知りました。そこで河内の事故に続いて、安芸中野にも出向き、その痕跡をたどってきましたので後編としてご報告します。河内の事故が速度超過という人災であったのに対し、安芸中野の事故は自然災害に伴う事故でした。まずは事故現場の現在の様子から。
今回は、蒸気動車ホジ6014です。客車にボイラーを積んで走るという発想は今のディーゼルカーの元祖ともいえます。これも、「リニア・鉄道館」に展示されているようですが数年前に行ったときは見落としていました(朝日新聞 2020.11.4)。


【須賀川市立第二小学校北側】 37.293732, 140.372220 2020年11月1日撮影
オハフ46 2021
昨夏、未知の廃車体を、
https://425.teacup.com/ytrain/bbs の2019年7月14日
で紹介していたので、これはぜひ行かねばと思いながら、この度やっと訪問する機会ができた。
場所は、JR須賀川駅から徒歩10分、須賀川市立第二小学校の道路を挟んだ北側、長禄寺(ちょうろくじ)という曹洞宗の大きな寺の墓地の西側に隣接してほぼ南北に置いてある。倉庫のようである。外観は、20m切妻で屋根は張り替えてあり、台車はない。木製の窓枠が一部腐食している1m窓が10個と端に700mm下降窓、妻面に尾灯があるので、ハフであることがわかる。
現場に着くと、廃車体の前にライトバンが停まっており、妻面のドアが開いて、大人と子ども(野球のユニホームを着た小学生)が約10人、試合後のミーティングのようなことをやっていた。そのうちに賛美歌を歌い出し、訳が分からないまま15分程経つと終わって散会しはじめたので、リーダー格の人に挨拶してことわってから撮影した。その人に聞いたところによると現車は、地元のボーイスカウトの用具置場兼集会所(エアコン、外に水道がある)として使っているそうである。
【銘板】 昭和26年 名古屋日本車輌(後位)
昭和39年改造 土崎工場(前位)
昭和49年改造 大宮工場(前・後位) を確認した。
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手元に昭和6年1月13日の中国新聞朝刊のコピーがあります。実は戦前の中国新聞の紙面は殆ど残っていません。広島本社に保管されていたであろう紙面は原爆で焼き尽くされ、福山支社のものも福山空襲で消滅したからです。戦災を受けなかった三原市図書館に辛うじて昭和5年11月から昭和24年11月の間の古い紙面(主に備後版)が残されていて、デジタル化されています。地元の戦前の出来事を調べるのに重宝しています。そんななかで、とりわけ目をひいたのが、昭和6年1月13日の紙面でした。前日1月12日3:57に発生した山陽本線河内(こうち)駅での上り急行列車転覆事故の生々しい記事と写真が紙面を埋めています。まずはその紙面を分割してご紹介します。約90年前の新聞ですので、写真の不鮮明さ、見づらさはご容赦のうえ つなぎあわせてご覧下さい。
東武鉄道は伊勢崎線の特急「りょうもう号」専用車両200型を11月9日から一部「リバティりょうもう号」に置きかえると発表。徐々に置きかえられていくものと思われる。ひっそりというのは小田急の7000形ロマンスカーほど派手なスタイルではなく地味な特急車両であり話題性に乏しいからである。東京メトロでお別れ運転した時にファンがルール無視などして会社がうんざりしたことがあったそうでお別れイベントはやっても地味ではないかと思い、かってにひっそりと消えていくと書いたまでである。200型はその生い立ちも完全新造車ではなく1700型、1720型(DRC)の台車、主電動機を使用し、流線形ながら特に印象的な車両ではない。運行も観光地日光、鬼怒川方面に使用されず、ビジネス利用の多い伊勢崎線方面専用で何となく静かに消えていきそうな感じである。東急車両、アルナ工機が担当で1990年11月から98年1月にかけて6両9本計54両が製造された。最近新造車に置きかわり一部富山地鉄に譲渡された西武10000系ニューレッドアローにも同じようなひっそり消滅感を感じる。さて、「りょうもう号」車両には200型とほとんど同じスタイルの250型もあり併せて紹介するがこちらは全くの新造車で抵抗制御の200型に対してVVVFインバーター制御である。前者が75kw×4のオール電動車であるのに対して後者は190kw×4の3M3Tである。
それでは200型、250型の走行写真であるが、撮影地は何れも2020年10月25日伊勢崎線県-福居間である。
「りょうもう21号」赤城行き先頭203-6 パンタは下枠交差式、台車はミンデンタイプ▼
関三平さんの昭和の電車で南海貴志川線のことが投稿されていたのでコメントつもりでしたが投稿することにしました。貴志川線は高校生の時に鉄道友の会の見学会で訪れていたのです。その時の写真を少しばかり撮っていたので紹介いたします。この時は野上電鉄も訪れましたので海南にある日方には南海和歌山軌道線に乗って行ったようです。どのような順番で行ったのかわかりませんが、まずは和歌山軌道線の写真から
場所は和歌山駅前ののようです。古い和歌山市街の写真のあるサイトを見ているとわかりました。決め手は右側交差点の角にある紀陽銀行です。感じとして寒々としています。
今年は1970年10月に新快速が登場して半世紀となります。それを記念して京都鉄道博物館では特集展示をはじめ、新快速に関するイベントが行われています。その中で今日は講演会が開かれました。二人の方が講演された後、フリートークという構成になっています。「新快速が走り始めたころ113系、153系から117系へ」と題してまず総本家青信号特派員さんが話をされました。スカ色の113系から始まって117系まですべてご自分で撮られた写真をもとにして、ご自分の体験として新快速の50年を振り返るなどとは、さすがとか言いようがありません。続いて鉄道ライター伊原薫さんの「新快速が果たした役割と私の思い出」と題した話がありました。コロナ感染防止のため会場は40人に限定されていて、ホールの外の廊下には1時間も前から並ぶ姿があり、満席の盛況でした。

貝島炭礦 大之浦炭砿専用線
私鉄・専用線の蒸機は、国鉄以上に忘れ去られた感がありますが、紫の1863さんらの暖かいコメントにも励まされて続けます。筑豊の中心部に貝島炭礦大之浦炭砿専用線がありました。長らく出炭を続け、閉山による蒸機の廃止は昭和50年代に入ってからで、九州では、国鉄にはすでに無く、最後の蒸機となりました。しかも蒸機は、コッペル、アルコと言った輸入機です。魅力一杯の貝島ですが、アプローチが問題でした。国鉄最寄り駅は、宮田線の終点、筑前宮田ですが、一日数本の閑散線、そこからさらに先とあっては使いづらく、雑誌を読んでも西鉄バスを推奨、網の目に張り巡らされた、複雑な西鉄バスの路線、しかも飯塚、直方からは直通は無く、乗り換えが必要と言う難関ルートでした。当時の乏しい資料を何度も読み解いて最寄りの「長井鶴」バス停に降り立ったのが、昭和43年3月のことでした。
▲長井鶴のすぐ近くに貝島の六坑駅があり、機関区もあって運輸上の中心となっていた。ここから、国鉄筑前宮田駅までの専用線が、当時のメインの路線、石炭を満載した自社の石炭車を多く連ねた、先頭32号 後補機22号の列車。
明治鉱業平山鉱業所のBタンク機
筑豊本線飯塚から上山田線が分岐していて、途中の臼井から南西の方に、専用線が延びていました。それが、明治鉱業平山鉱業所へ向かう約2キロの専用線でした。ここでの輸送は、直方区の9600が担当していて、国鉄の石炭車が、平山鉱から産出される石炭を牽いて、若松などの積出拠点へと向かっていました。
昭和43年3月、私は臼井で下車して、専用線の上を黙々と歩いて、終点の明治鉱業平山鉱業所に着きました。ここには、2両の蒸機、236、237が、構内の入換として、使われていました。プレートの独特の書体からも分かるように、もとは、八幡製鉄所の構内蒸機で、無骨な産業機でした。
▲B型のタンク機 236、石炭ホッパーに石炭車を押し込み、積み込みが終わると、引き出して、待ち受ける9600に引き渡すのが仕事だった。全体が粉塵のせいなのか、グレーになっていて、前梁はオレンジの警戒色が塗られ、いかにも専用線の蒸機という感じだった。
山陽路の観光列車「エトセトラ」について、運行初日の様子などを3回に分けてご紹介しました。以前の「瀬戸内マリンビュー」時代は土・日・祝の呉線往復でしたが、「エトセトラ」に変身してからは、月・金も加わった上に尾道・宮島口間と運転区間も拡がり、上り・下りのルートも変わったので、撮影地点の幅が増えて、運転日は急に忙しくなりました。まずは呉線のシーンから。
本日は京都市交通局2号電車です(朝日新聞2020.10.26掲載)。先日のデジ青の「レイル」誌の記事でも取り上げられていた車両です。「N」の説明もされています。
*「松風」も載せておきます。

