ここから三回は各地の市電です。まず最初に京都市電600型から。
須田寬先輩の同志社での思い出が「彰栄館から見た青電こと600型」だった事は、以前からお聞きしていました。後にこの原画を関先生からいただき、お渡ししたところ、大変喜んでいただきました。茶色一色の市電にあって、鮮やかなツートーンカラーの600型を見た時の気持ちは、我々が「湘南電車」や「こだま」を見た時の感動と同じだったのでは、と思いました。
前回、2018年5月に投稿した時は、前代未聞のコメントを頂き、別スレを立てました。これは宮崎繁幹さんの秘蔵写真を見せていただいた時のやりとりです。
昨年亡くなった中村進一氏の作品から
615号 ぎおん行き7号系統 九条車庫所属
菱屋藤田さんの作品から
1629号 7号系統九条車庫行き 九条車庫所属
昭和41年1月15日、京都駅八条口、612です。
車体更新前で、ビューゲル以外はほぼ原形です。
車体更新とワンマン化が同時に施工され1613になりました。
昭和51年3月2日、百万遍、元612の1613です。
車体更新とワンマン化が同時に施工された車両は、救助網が車体前面に設置されているのが特徴です。
昭和39年12月27日、西大路三条、車体更新前の670です。方向幕が拡大されています。
車体更新時に、連結車、ワンマン化が同時に施工され、2617になりました。
昭和45年2月4日、勧進橋、601です。
601、603、605606の4両は、ワンマン改造後、1601~1604になる予定でしたが、改造されることなく廃車になりました。それ故、1600形は、1605がトップナンバーになりますので注意が必要です。
昭和42年5月5日、肥後町~丹波橋間、617です。
600形と伏見線は縁が深く、600形でビューゲルのテストが行われ、私が幼稚園の頃はオール600形で、片側ビューゲル、片側は九条車庫に入庫する時に使用するポール付きでした。
全線がビューゲル化された後も引き続き600形が主力でしたが、20年更新が始まり、内装が一新して蛍光灯化されると、600形は、主に市内中心部を走行する⑦⑧に使用され、代わりに白熱管球の800形が主力になりました。
1601が欠番の理由、蛍光灯の600が中央部に集中投入されたいきさつも、初めて知りました。
小生がデジ青のお仲間に入れて頂いたのは、前回の600形のスレッドが立ったときからでした。あれから4年、いま再び、600形が取上げられるのを見て、感慨深いです。だが、コメントしようにも、前回で良さげな写真は、ほぼ御覧頂きました。しかし参加できないのは、悔しい! 然らば落穂拾いで、ご勘弁頂きますよう。何枚かあるが、まぁ無難に年代順で参ります。607号です。この写真、例により場所、日時、撮影者不明の三重苦写真です。だが、左端に写り込んでいる、特徴ある窓のビルは、前回に教えて頂いた菊水のビルに似ています。もしそうなら、ここは「四条京阪」。日時の方は、ダブルポールなので戦前ですが、車体が綺麗であり、戦時中は撮影出来なかったでしょうから、昭和12年の新製後間もなく、と云ったところでしょうか。撮影者の推察はできぬが、この写真、既に発表されてるでぇ~、と御存知の方がお居でなら、御教示下さいませ。
宮崎繁幹さん、
お待ちしておりました。デービスさんの秘蔵写真が出て来るのでは?と思っていました。
この写真の撮影場所は四条京阪東行きで合っています。撮影時期はご指摘通りでしょう。扉が初期のニス塗りだからです。
私も「600型落ち穂拾い乱れ打ち」といきましょうか?
607号を一番に出したのは、これが最も古い写真と云うだけの理由では、有りません。Gordon Davis氏の写真に、同じ607号があるのに気付いたからです。彼の写真は昭和31年の撮影ですから、両者の間には、17~18年位の隔たりがあるかと思います。場所は、Kyotoとしか記してないのだが、デジ青の皆様なら、直ぐに「ここや!」、とお判りのことでしょう。
と、思ったとたん、次の写真が投稿されていました。
これは京都駅前の伏見線降車場です。
後に見える大きなビルは丸物百貨店(現:ヨドバシ)左端の三角屋根は京都中央郵便局(現:京都タワー)ですが、駅前の東側のこんな町並みは私には新鮮です。
七条線と山陰線の立体交差部をくぐる625号 4号系統烏丸車庫行き
1962年12月
米手さまには、「直ぐに」御解明頂き、有難う存じました。まるで、早押しクイズのよう。しかし次は、難問ですぞ! 650号です。これも三重苦写真。シングルポールから、たぶん昭和20年代でしょう。正面裾に、進駐軍指示の追越時の注意書きがありません。とすると20年代の早い時期か、或いは占領解除となった27年以降かと、思われます。車体が綺麗ですので、後のほうかな。写真の裏側には、思わぬことが書いてありました。なんと、『僕の家の前で撮りました』とある。おそらく友人同士で交換された写真なのでしょう。だから場所は書いてあるが、他人はそこが何処かは判らない?! 4系統を調べ、京都駅発着の西側を巡る循環系統とまでは判ったが、さてそれだけで探し当てられるものでしょうか。
宮崎繁幹さん、
これは難問、というよりお手上げですね!
4号系統は京都駅を出発し、烏丸通を北上、烏丸車庫から北大路通を西へ進んで西大路通を南下、七条通を烏丸まで行って京都駅へ帰る循環ルートです。右に見える手すり様の物は橋の欄干かと思いましたがそうでも無いらしく、手がかりがありません。唯一、車道が未舗装らしいので西大路通と推察するのみです。「デジ青探偵団」にお助け願う他はありません。紫の1863さん、如何でしょうか?
米手作一様
せっかくご指名いただきましたが、私もお手上げです。夕飯の準備をしなければいけないのですが、そっちのけで考えております。西大路通りの南行き、あるいは烏丸通下総町あたりの南行き、もしかすると七条通の東行きが候補にあがりますが、いずれも決め手に欠けます。
画面右寄りの柵の奥は、空き地に盛り上げられた残土でしょうか?歩道があって、看板を掲げた二階家は商店でしょうか?
西大路線のわら天神前-金閣寺前の東側に、このような雰囲気の家並みがありましたが、どこにでもあったような‥‥。
結局のところ、分かりません。
夕食そっちのけでの長考、ありがとうございます。
下総町辺りと言えば紫明通との交差点付近でしょうか?
七条通にはこの様な未舗装は無かった様に思います。
わら天神なら1900生さんが縄張りにしていた所です。見覚えがあるかも知れませんね?
どうにも気になって仕方がありません。未舗装なので西大路通り、しかも北野白梅町より北でしょう。古い航空写真を何度も検討し、それらしい場所を見つけました。しかし、この写真は情報が少なく、決定的な証拠がありません。昭和30年代の終わり頃、平野神社の北に畑が広がっていたことを思い出しながら、それらしい地形を探しました。
電車の向こうに見える屋根の向きが、看板を掲げた二階家の横に道があることを教えてくれます。また、この二階家の左手に平屋建てがあるのかもしれませんが、少なくとも二階家はありません。写真の裏に書いてあった「僕の家の前で撮りました」は、唯一のヒントかも知れません。西大路通りの西側、金攫八幡宮の南には戦前から家並みがありました。撮影者の住まいが西側なら問題ないのですが、看板のある家の住人ならお手上げです。
西大路線のわら天神前-衣笠校前で、平野神社の北側、「しまむら」の駐車場あたりではないかと考えました。
ただ、盛土と柵が気になります。北野白梅町を少し上がった東側も怪しく、自信が持てません。昭和30年前後の西大路通り、北野白梅町から金閣寺前にかけての東側は畑が点在し、空き地も目立ちました。それらしい場所はいくつもあって、ここや!とは決められません。なんとも中途半端な検証ですが、私にはこの辺が限度のようです。
昭和30年代の西大路通は、七条より南、円町より北は畑が点在しており、そんな場所なら見当が付きません。というわけで私も降参します!
紫の1863さま、米手さまには、大変なお手間をとらせ、反省致しました。そこで、この写真が貼ってあったアルバムを、改めて見てみました。同じ撮影者の写真が、未だあるのではないか?、と思ったのです。小生のコレクションには、手放されたアルバムを入手したものが、いくつかあり、650号の写真も、その類の1冊にあったからです。写真は、三画コーナーで、止めてあったので、裏面を見ようと思えば見れます。しかし関心は表面の被写体にある訳で、デジ青へ投稿の為、スキャンする際に、初めて「僕の家の前・・・」に気づいた訳でした。まぁ、それは兎も角、あったのです! 同じ方が撮った写真が。なんと、瓜二つの構図、形式まで同一の600形。でも系統が違いました。『2』です。こうなれば、2系統と4系統の電車が、同一区間を走行するのは、何処か? 調べてみると、円町~西大路七条のようです。御推察の通り、西大路通で間違いありませんでした。しかし、この区間は南に下がったところのようですね。同じ方が撮影の写真は、未だあるかもしれないので、もう少し探してみることに致しましょう。
でわ欄干があるなら、お判りになると! ちょうど良い出物がございます。662号です。これは小生の亡くなった友人、山本明弘氏の撮影で、時期は昭和30年頃です。場所だけが、不明。密着プリントで、焼きムラがあるので、前回はボツにしましたが、今回は『欄干』に免じ、登場させましょう。系統板は②のようです。
2号系統なら丸太町通を東西に走っていましたので鴨川に架かる橋です。ただ、欄干の形状など確認が必要ですが特派員さんならお分かりかも知れません。
錦林車庫の開設が昭和30年1月16日ですから、この写真はそれ以降の撮影です。なぜならそれ以前の2号系統は壬生車庫所属だったからです。白の2号系統は錦林車庫所属です。
これは同志社の皆さんにはおなじみの、今出川線ではないでしょうか?欄干の形状から加茂大橋と判断し、河原町今出川-加茂大橋だと思います。
奥にも橋が見えること、左手の三角屋根も傍証となります。
総本家様の名著『京都の市電 昭和を歩く』の148ページに、この場所を俯瞰で撮影された写真が載っております。
紫の1863さま
解答、ありがとうございます。賀茂大橋ですね。最近、橋がきれいになって、灯籠風の照明が、夕暮れ時によく映えています。本も見ていただき、ありがとうございます。この写真、いちばん手前の賀茂大橋に市電が走っていたら良かったのですが、廃止後の撮影です。それと、この撮影場所付近は、ほぼ毎日のウォーキングコースなのですが、どの建物に上がったのか、いまもって不明です。
それでは最後の1枚を、603号です。撮影者不明ですが、裏面にデータが書いてあります。昭和42(1967)年5月14日、九條大宮だそうです。ところが、写真をよく見ると、背後の架線柱に電停名が「京阪国道口」と出ている。しょうがないな、間違ってるじゃないか!、と当然に小生は思った訳ですが、地元の方ならこれ位許してやろうと、云うかもしれません。調べましたら、隣り合った電停なのですね。これを撮った方は、九條大宮から歩いて来て、撮影したときには、京阪国道口、まで来ていたのかもしれません。とまれ、この度も地元デジ青の皆様には、撮影地等につき、いろいろ教えて頂き有難う存じました。これからも宜しくお願い申し上げます。
紫の1863さん
この写真を見て、この電車は西行きでしょうか?東行きでしょうか?何号系統でしょうか?
記憶があいまいなのですが、京阪国道口は京阪国道を挟んで九条通の西に東行き、東に西行きの電停があったと思います。方向幕が「ぎおん」となっているので東行きと思いますが、「九条車庫」所属の市電が、九条車庫手前にもかかわらず「ぎおん」を表示しているのは不思議に思いました。また、九条大宮より西で「ぎおん」へ行くのは17号系統かと思いますがいかがでしょうか?
米手作一様
おっしゃる通り東行きの17系統だと思います。撮影場所は交差点西側です。釈迦に説法かもしれませんが、循環系統の場合は対角線の停留所名を表示するようで、西大路七条を過ぎて西大路九条にさしかかるあたりで「ぎおん」に変えていたと思われます。
参考までに四条河原町を西へ向かう17系統は「西大路七条」を、衹園を南に走る17系統は「東山七条」を表示してました。多少のずれはあったと思いますが、常に先の目的地を表示するため、何度も方向幕を変えていました。
京阪国道口の電停ですが、私は記憶がありません。総本家様の『京都の市電 昭和を歩く』には、歩道橋から東西双方の安全地帯に降りる2本の階段が写っていて、場所は交差点の西側です。