駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈8〉

駅名標 ①

駅の施設・表示類のなかで、必須アイテムは、やはり駅名標だと思います。考えたら、駅名標は、鉄道が創業した時から、乗客に駅名を伝える、重要な役目を負って来ました。家であれば、表札のようなもので、旅先の駅で、駅名標を見て、感慨深い思いを持って、下車したものです。いまは、JR各社、私鉄各社がさまざまなデザインで独自の駅名標を開発していますが、われわれの時代は、ホームにある駅名標は、鳥居型と呼ばれる駅名標一本でした。この鳥居型は、屋根の無い、ホーム端に置かれることが多く、つまり、列車編成の端部にも当たり、駅名標と蒸機が一体になった光景をよく見かけたものです。加太越えの補機の仕業を終えたD51が、ゆっくり側線に入って来た。機関士は決められた点検を終えると、手すりをつかまって下りて来た。次の戻りの補機運用まで、蒸機、機関士とも、しばしの休みに入る(昭和47年4月)。

貨物を牽く8620がちょうど駅名標の前で停車した。貨物なので、編成に長短はあるが、先頭の停止位置は決まっているから、駅名標との絡みも予測できた(昭和46年2月)。行楽地の駅、蒸機ではなく、当時の旅行スタイルや撮影者スタイルにも眼が行く。まもなく列車が到着するホームに腰を掛けるとは、大らかな時代(昭和47年8月)。駅名標の中身も、時代によって変わって来る。何気に撮った一枚も、当時は思いもしなかった駅名改称となると、その何気の気持ちこそ大事の思いにとらわれる(昭和46年12月)。

 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈8〉」への37件のフィードバック

  1. 今回の「駅名標」も一枚一枚が見ごたえのある写真で、時の経つのも忘れて見入っていました。五所川原はいかにも北国らしい寒々とした、季節感があふれています。信濃川上は当時の山ガールと、鉄ちゃんがホームにいて、いかにも小海線らしさを感じます。黒のカメラバッグとプレートを装着した三脚も懐かしいですね。柘植の一枚は参りました。蒸気機関車と乗務員の組み合わせは見かけますが、そこに駅名標も取り込まれているとは! 私にはとても真似ができません。
    添付の画像は関西本線加太駅の対向ホーム亀山寄りにあった駅名標で、五所川原と同じタイプです。1981年10月に撮影しました。

    • いつも速攻コメント、ありがとうございます。だいたい駅で列車を撮る場合は、ホーム端が多いですから、駅名標と絡めて一枚となりました。とくに木製の鳥居型と、黒い蒸機はよくマッチしましたね。加太の駅名標はスチール製ですね。木製が次第に駆逐されて来ましたが、柱が細くて、貫禄に乏しく、絵にはなりにくかったです。

  2. 駅名標と同様に、乗り換えや名所案内もありました。山陰本線馬路駅で、1976年10月の撮影です。

    • “マジ?“と言いたくなりますが、駅名標と名所案内はセットになって建っていました。駅名標は厳格な基準があるようですが、名所案内は、この写真のように寸法も少し大きく、またイラストや地図を入れた特製の名所案内があったり、自由に製作していたようです。どう見ても、名所にはなりにくそうなところも書いてあり、名所の件数を増やすのに苦労の跡が見えました。

  3. JRになると駅名標も変わり、手書きの味わいは失われてしまいました。2011年9月に撮影した草津線貴生川駅で、この時の主役は私の大好きなセーラー服です。

    • 駅名標も変わりましたが、セーラー服も変わりましたね。やっぱり私は昔ながらの白いリボンのあるセーラー服と、墨痕鮮やかな木製の駅名標が好きです。

  4. 総本家青信号特派員様

    「駅名標」をお見かけし、久々に登場です。

    何気ない気持ちで記録に残しておくのは本当に大切なことですね。やはり撮れるうちに撮っておくのがよいです。

    近鉄8A系ももちろんよいですが、8000系列も撮り収めておきたいところです。

    • 奈良の駅研さま
      駅名シリーズで撮っておられる駅名標には、いつも刺激を受けていますよ。貝塚の駅名も、いかにもローカル私鉄らしい、シンプルな味わいです。私は近鉄にはご無沙汰で、8A系など、一度も見たことも無いのですが、8000系も記録しておきたいです。

  5. 高校1年生の夏休みに友人と東北旅行に行きました。盛岡から山田線で茂市へ。茂市で小本線に乗り換えて着いたのが浅内駅でした。確かキハ52だったように思います。浅内から岩泉まで延伸されて、岩泉線となるのは昭和47年のことで、小本線の終点が浅内で、ここから国鉄バスで龍泉洞の観光に行ったと思います。岩泉線も平成26年には廃止されています。先の豪雨災害で龍泉洞が一時閉鎖されたニュースを見て、52年前のことを思い出しました。今でこそ観光客で賑わっているようですが、半世紀前は訪ねる人も少ない地だったように思います。

    • 西村様
      貴重な駅名標、ありがとうございます。試しに当時の時刻表を見ますと、浅内まで行く列車は一日5本でした。いまから思うと、こんな超ローカル線に5往復も走っていたとは驚きですが、東北線→釜石線→小本線と3線を乗り換えて、ようやく行ける終着駅へ、高校一年生の時によく行かれたものです。その時刻表を見ますと、横黒線、橋場線、生保内線、船川線と、懐かしいと言うか、記憶から飛んでしまったような線名がありました。

  6. 総本家青信号特派員様
    駅名標面白いですね。ホームにある駅名標は、正式名称は分かりませんが、「鳥居型」、「吊り下げ型」、「柱型」の3種類に区分され、夜行列車が全国を走っていた頃には、乗務員が通過確認するための三角の断面をした行燈式の駅名標もありました。大都市においては、バリアフリーも関連しているのでしょうか「鳥居型」が絶滅危惧種になっています。
    国鉄が分割民営化された時に真っ先に様式が変更され、乗客の意識を変えたのが駅名標でした。各社、自社のコーポレートカラーを使用した駅名標に変更していきましたが、JR西日本は、幹線にのみコーポレートカラーを導入し、アーバンネットワークを中心とする路線は1990年に設定されたラインカラーを採用しました。黄緑で設定された片町線(学研都市線)の各駅の駅名標も、その後、直通運転をしているJR東西線と共通の路線記号『H』設定されたことにより、JR東西線と同じ桜桃色に変更されました。
    蒸気機関車と写っている1971年5月2日の駅名標です。今回は場所のキャプションは不要ですね。

    • 快速つくばね様
      いつもコメントをいただき、ありがとうございます。
      モノへの「懐かしさ」と言うのは、共通のスタイルで大量生産されたものが、ある時期に、一斉に無くなった時に、その思いが湧いて来ると思います。鳥居型に代表される駅名標も、その例だと思いますが、現在の百花繚乱の駅名標は、今後、懐かしさにつながるのでしょうか。最後にお書きの場所のキャプションですが、私自身がよく分からないところが出てきました。記憶をしっかりするため、次回から入れることにしました。

  7. 総本家青信号特派員様、
    駅名標のお写真を拝見し、私も探してみました。四鉄管内では、ひらがな、漢字、住所、次駅はひらがなのみが標準的(?)で、ローマ字表記はほぼありません(私の数少ないサンプルでの話ですが)。1枚だけ、ローマ字表記のある駅名標がありましたので、板の境目で見にくいですが添付いたします。1981年3月1日、列車は204Dです。

    • 四方様
      四国の駅名標、ありがとうございます。実は私は国鉄時代の四国の駅名標は記録がなく、よく知りませんが、駅名標も、本社で大枠の基準が決められるものの、細部は、各支社・管理局に一任されていたのでしょうか。次項で挙げる九州では、駅の所在地や標高が添えられていました。ローマ字表記ですが、無人駅など小さな駅では省略されて、当駅、次駅のみの簡易表示になっているところがあったと記憶しています。山科の人間国宝が撮られた昭和30年代の四国は、ローマ字入りでした。

      • 総本家青信号特派員様、
        快速つくばね様、
        堀江、鍛冶屋原、江川崎のお写真、ありがとうございます。時代の違いでしょうか、いずれの駅もローマ字表記がありますね。恐らく、住所を表記するようになったためにローマ字表記がなくなったのではないかと思われます。添付の坂出や讃岐財田では、住所表記すらありませんが。また日下は、ホーロー看板のような色の駅名標にはローマ字表記がありました。

        • 四方誠様
          なるほど、四国にはローマ字なしの駅名標が多数あったのですね。簡易駅には、駅名標も簡易型で、ローマ字抜きもあったと思いますが、これを見ると、有人で交換可能な駅でも、くだんの駅名標が四国にはあったようですね。

    • 四方誠様
      1967(昭和42)年の年末に当時の四国内の国鉄線を「乗り鉄」して完乗しました。終着駅に到達した記念として入場券を購入し、各駅の駅名標と車両を写しました。鳴門や牟岐など確認いたしましたが全ての駅名標にローマ字が表記されていました。写真は1967年12月30日の宇和島線(現:予土線)の江川崎ですが、私はこのイメージが強く、後年(2013年8月12日)日本国内における観測史上最高気温となる41.0℃を記録したことが信じられません。

      • 50年後の2017年11月16日の江川崎です。ホーム上屋はリフォームされていますがそのまま使用され、駅名標は同じ場所に建替えられ、車両の停車位置も同じようです。

      • 快速つくばね様
        これが、あの江川崎ですか! 信じられない風景です。いまの地球温暖化では、もう二度と見られない貴重な風景ですね。予土線は私も何回か乗りましたが、中間の江川崎では、交換もあって、10分程度の停車とトイレタイムになっていました。

        • 快速つくばね様、
          駅名標よりもキハ52に目がいってしまいます。宇和島区の2両(5号と6号)のうちの拡大してみると5号の方でしょうか。気がついたら松山に配置換えとなり、宇和島区の配属車がなくなったのは残念でした。区名札の「宇」がいいですね。

          総本家青信号特派員様、
          高知県でも山間部や愛媛県でも西予地方では降雪があり、西佐川駅にはカンテラが用意されていたり、卯之町駅の信号機は雪国で見かけるフード付きになっています(Youtubeで見たような)。

          添付は、駅名標や名所案内板も写っていますが小さすぎて申し訳ありません。1983年3月17日、高山線の猪谷駅です。車は、神岡線に充当されていたキハ52 56号です。

          • 四方誠様
            調子に乗ってもう一枚当日(1967年12月30日)の宇和島線の上り列車が北宇和島駅に到着した光景を投稿いたします。宇和島線はC12が牽引する旅客列車が運行されている数少ない線区のひとつでした。この後雪の中、宇和島機関区を訪問しました。
            四国支社の気動車には車体に標記された「四マツ」、「四コチ」のような区名略号のほかに『松』、『知』などの区名札が入っていましたね。JRになってからも継承されていて四国らしさを感じています。

          • 40年後の2023年8月26日の猪谷駅です。駅のホームは改築されたようですが、上屋はそのまま使用されています。この駅はJR西日本とJR東海の境界駅となったため、このホームはJR東海車の折り返しに使用されています。

  8. 見る機会の多い駅名標だけに、コメントが集まりますねえ。
    駅名標の上部に照明が組み込まれたものもあり、その電源は?と疑問に思っていましたが、この度の特集で解決できました。すぐそばの電柱から電線が伸びているのを発見して納得。
    駅名標の周りの様子や、車両が写っているとより多くの情報が得られ、そこに人物もあれば言うことなしですね。ただ、そんな三拍子そろった写真に気付くのが、遅すぎました。
    添付の画像は1971年6月の関西本線木津駅で、88638が入れ替えに頑張っていたころです。

    • 紫の1863さま
      木津駅での86の構内入換、懐かしいですね。クラブ活動で何度となく加太へ行きましたが、帰りはいつもは草津線経由のところ、まれに木津回りで奈良線への乗換時間待ち中によく入換を目にしました。入換中に絶え間なく吹鳴する86特有のあの甲高い汽笛が今でも耳に残っていますし、あちこちこまめに動きまわっていた86も瞼に焼き付いています。なのに殆ど写真を撮っていませんでしたので、写真を拝見して懐かしさが蘇りました。おそらく主目的の加太で精力を使い果たしてしまい、入換の86への関心が鈍ったのでしょう。今となっては恐れ多い話ですが、当時は「D51・C58フン!」と、どこにでも居たカマに見向きもしなかったものですが、補機付きが多い加太は別でした。

      • 1900生様
        蒸気機関車がいたころを思い出していただき、ありがとうございます。目にしていながら写さなかったことは、結構ありますねえ。私など、数えきれないほど悔し涙を流しました。
        撮影から53年が過ぎ、木津駅周辺もすっかり変わりました。はちろくの遠景に見える低い山は大規模な住宅地になり、駅の構内もずいぶん狭くなったようです。この写真を投稿するにあたって見直していますと、一緒に行った友人や、その日の行動などが浮かんできて懐かしい思いに駆られました。
        付近には「大佛鉄道」の遺構もありますので、一度訪ねてみたくなりました。

  9. 1966年9月2日撮影の左沢線羽前長崎駅の駅名標です。左側に「うぜんやまべ」その下に括弧書きで(うぜんかねさわ)と書かれており、右側も同様です。実際に、次の駅は、左右ともに括弧書きの「羽前金沢」と「南寒河江」で、両駅ともに無人駅のため、このような標記になっていたものと思われます。
    しかし、両駅ともに、朝夕のC11が8両の客車を牽引する列車以外、すべての列車が停車していました。

    • 次駅の有人駅と無人駅を併記していた駅名標、ありましたね。でも、私も背後のキハ22に眼が行きました。窓が全開されていますね。窓が小さい分、暑かったのでしょう。二重窓も使われていたのでしょうか。

    • 1968年8月31日、羽前高松付近、左沢線の列車です。6両編成中、2両目のキハ17以外は、キハ22です。

  10. 総本家様
    地元の駅、旧神足の駅名標を撮影したカットを探していたら、ありました。昭和62(1987)年の3月初旬ですから、まだ国鉄時代です。背景のニチユの工場は名前を変えてまだありますが、駅周辺も電車も、そして駅名も「長岡京」に変わりました。個人的には「こうたり」の駅名の方が断然良かったです。

    • 勘秀峰さま
      地元の「神足」、ありがとうございます。私は、吊り下げ式の「神足」は撮っていますが、鳥居型は撮っていません。“こうたり”と口ずさむと、周囲の風景が瞼に浮かんで来ますよ。字名から付けられた駅名を、市名、町名と合わせる駅名改称は全国的に行われていますが、ますます駅に個性が無くなる気がします。昭和62年と言えば、勘秀峰さんは、東国のはず、帰省された時の撮影ですか?

  11. 国鉄時代に比べると価値はぐっと下がるかもしれませんが、JRになってからも「神足」の駅名は変わりませんでした。しかし、長岡京市になって20年余り、1995年9月に「長岡京」に改称されます。
    画像は1995年8月、「神足」の駅名が消えると知って写しに行きました。

    • 「神足」の駅名標は今も見ることができます。西国街道沿いの神足公民館の前に保存されていました。撮影は本日、2024年10月6日です。

      • 紫の1863様
        長岡京市へ足をお運びいただき、ありがとうございます。神足公民館は早朝散歩のコースの中に入っており、駅名標を見るのは日常光景です。しかし公民館前はゴミ集積場となっており写真を撮ろうとすると、ネットが邪魔をします。
        因みに次の駅名の「むこうまち」「やまざき」はちゃんとした方角を指しています。旧西国街道を歩けば向日町駅・山崎駅に行くことが出来ます。

    • 紫の1863様
      何でも撮っておられるのですね。JRになったのが1987年、長岡京駅になったのが1995年ですから、JR神足駅は8年間のみでした。その時は、長い8年ですが、時が経てば、8年間は瞬間です。
      その「JR神足」が、いまでも神足公民館の前に置かれていますね。駅前にも「神足駅から長岡京駅へ」の説明板が設置されています。駅の設置は昭和に入ってからで、近隣の駅に較べると歴史は浅いのですが、古代地名に由来し、いまでも字名や小学校名で残る神足への愛惜もあるのでしょう。

  12. 快速つくばね様、
    「返信」ボタンが表示されていないので、こちらで失礼いたします。

    C12 261号のお写真を見せていただき、ありがとうございます。北宇和島から務田までの30‰上り勾配を、あの雪の中で登ってきたのかと思うと、グッとくるものがあります。

    また、猪谷駅のキハ25のお写真も、ありがとうございます。猪谷駅も寂しくなっているようですね。キハ25は太多線で初めて乗車した機会がありましたが、25km/hぐらいで最初の変速となるようで、衝動が凄かった記憶があります。その後、紀勢線でも乗車しましたが、前記のような記憶もなく、改善されたのでしょうか。

    昨年、偶々見つけたC12 88号の写真(2023年9月3日、糸魚川駅南側)を添付いたしておきます。スノープラウ付き、シールドビームということで、261号のスタイルと似ているのではないかと思います。

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