さよなら ハワイアンブルーの電車 (上)

“ハワイアンブルーの電車”、もうすっかり聞かなくなった言葉です。60年前の伊豆急行の開業の頃には、雑誌にも広告にも“ハワイアンブルー”の文字が躍り、伊豆急行の愛称として定着していました。しかし伊豆急の電車もすっかり代替わりしてしまい、最後のハワイアンブルーの電車として、動態保存されていたクモハ103も営業を中止し、60年の歴史に幕を下ろしました。

動態保存として、ほかの車両がなくなったあとも1両だけ残されていたクモハ103だったが、保安装置の期限切れで、ついに7月のさよなら運転で本線を走らなくなった。

伊豆急行建設の歴史をたどると、昭和31年の東急電鉄による伊東~下田の鉄道敷設免許の申請に始まります。ところが翌年、ライバル関係にあった西武系列の駿豆鉄道からも同区間の免許申請が出て、にわかに伊豆半島を舞台にした東急vs西武の陣取り合戦が勃発します。箱根の山を舞台にした両者の戦いは有名ですが、結局、伊豆では先に申請していた東急に免許が下りて、別会社の伊豆急行によって建設が進められ、昭和36年12月10日に、伊東~伊豆急下田が開業します。開業の祝賀列車の正面窓には、五島慶太の遺影が飾られていました。

初めて伊豆急の電車を写したのは、開業後4年が経った昭和40年で、熱海の次駅、来宮駅付近で、隣を走る東海道線とともに撮影した。

熱海駅に乗り入れした伊豆急、開業当時、熱海まで4往復が乗り入れ、車両の増備とともに本数も増加していった。▲▲片や国鉄も伊豆急に乗り入れした。開業当時は70系、その後111系となり、熱海で東海道線の誤乗を防ぐため、大きな行先札を付けていた。

伊豆急が開業したのは、新幹線開業の3年前のこと、国鉄ならまだしも、私鉄が独力で、50km近い電車路線を開通させることに、子ども心にも大きな出来事に映った。それより増して魅力的なのは、そこを走る電車だった。開業時に用意された100系は、国鉄伊東線に乗り入れるため、国鉄と全く同じの20m級、2扉、貫通型、クロスシート(一部ロング)車で、当時の153系などの急行電車と同じで、観光地に相応しい車内に加えてブルーの濃淡に銀帯を入れた、何とも端正なスタイルに魅せられた。
羨望感いっぱいの伊豆急だったが、現地へ行くことが叶わず、もっぱら愛読していた「ファン」の鷹司平通さんの初乗り記や、「ピク」の中川浩一さんの開業後の乗車記を、穴の開くほど読んだものだった。その後、歳を重ねても、現地でゆっくりした撮影は叶わず、もっぱら熱海駅で停車中の100系を観察するだけだったが、逆に憧れがずっと持続した伊豆急だった。

来宮トンネルを出た100系、正面、金太郎の腹掛け塗装に合わせて、行先札までが同色に塗られている芸の細かさに感心した。▲▲昭和39年には157系の急行「伊豆」が乗り入れを開始した。その前まで東海道線の特急「ひびき」だった157系で、伊豆急のグレードの高さを感じた。
熱海駅に停車する伊豆急100系、開業時に用意された100系は22両、2・3等合造車のサロハ181もあり、線内は7両編成だった。当時の熱海駅は、2番ホームが切り欠き式で伊東線の専用ホームだった。
その後、100系は増備されて、クハ、クモハは高運転台、ライトが腰部に下りたが、全く良くなく、改めて初期車の美しさを際立たせた。


この時は、東西のクローバー会メンバーで初めて伊東線内を撮影に行った。網代で下りて、海を見下ろす小高い丘へ登って列車を待った。さすが首都圏の観光路線だけに、様ざまな列車が通過するが、前パンの長編成の100系初期車は、格段に格好良かった。

 

 

 

 

 

網代駅に到着の列車。100系は22両でスタートしたが、増備車や改造車として、高運転台車や、車体更新車1000系、私鉄唯一の食堂車サシ191「スコールカー」などが登場。総数53両に達した。▲▲左はグリーン車のサロ185。バブルの頃、ゴルファーで満員だったらしい。

 

準特急さんらと再度、伊東線へ行った時は、100系の廃車が進んでおり、「惜別」を付けた100系が見られた。2両目は“ロイヤルBOX”のサロ1801のようだ。その「惜別」列車の後部は、なんとイラストが塗りたくられていた。“イズノスケ”というご当地キャラらしいが、伊豆急のセンスも地に落ちたと感じた。

 さよなら ハワイアンブルーの電車 (上)」への14件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員さま
    伊豆急に同じ想いを抱かれていたとは存じませんでした。小生も当時愛読のピク誌で50㎞弱の新路線が開通することを知り、大いにワクワクしたことを憶えています。大都市近郊でも例の少ない長距離開業であり、まして観光地とはいえ伊豆半島での開業(東急系と聞き東急が伊豆まで路線を延長するのかと思ったりしました)、さらに国鉄との相互乗入れを前提としていたことなど、どれをとっても関心を引く鉄道だったと思います。それでもやはり現地に行くことはままならず、初めて目にしたのは開業2~3年後の中学校の修学旅行時に伊豆半島から東京へ行く途中でした。以前米手さまの投稿にもありましたが、私立校だったため修学旅行電車のきぼう号に乗れず、京都から沼津まで8時間かけてボロいスハ32に揺られました。あとはバスで天城峠を越えて半島を一周、途中の熱川温泉に泊った際に伊豆急初見を果たしました。塗色に関しては、国鉄に乗り入れることや、まさにミカンの産地を走ることから、小生の中では勝手に湘南色になる、いやそれしか考えられないとの既成概念が形成されていたので、ハワイアンブルーの電車を見た時には正直ガッカリしたものでした。しかし色はともあれ、クロスシート主体の観光用車両として、貫通扉横のパイプはあばたもエクボみたいなもので、2ツ目ヘッドライトと共にまとまったスタイルに思えたものでした。
    その後も中々乗る機会に恵まれず、なんと初乗車は2006年で、御殿場線の湘南色115系を撮りに行ったついででした。

    • 1900生さま
      ひさかたぶりのコメント、ありがとうございます。伊豆急の思い出、聞かせていただきました。私は公立中学でしたので、「きぼう」乗車組です。ちょうど昭和39年のオリンピック直前に乗っているのですが、熱海駅で伊豆急を見た記憶は全く無く、この眼で見たのは、その翌年でした。1900生さんも伊豆急初乗車は2006年とのことですが、私はさらに遅く、一昨年に初めて乗りました。しかも100系は撮影だけで、ついに一度も乗車を果たせませんでした。

  2. 総本家青信号特派員様
    伊豆急100型は乗った事がありませんが、(そもそも伊豆急に乗った事がなく、伊東駅で見ただけでした。)この車両には思い出があります。中学生の頃だったと思います。TMSに載っていたのでしょうか、紹介と型式図があってそれを見た時、大胆にも急に模型を作ろうと思い立って作ったのが伊豆急100型でした。初めての模型作りで、ボディーを作ったところで挫折し、色も塗らずそのままになりました。実家の棚に長い間そのままの状態で眠っていて、3年前家を解体した時にそのまま一緒に処分しました。なぜこの車両を作ろうと思ったのかよく覚えていませんが、スマートな外観にひかれたのでしょう。乗らずに無くなってしまったのは残念でした。

    • 大津の86さま
      伊豆急100系の模型化の話、ありがとうございます。Nゲージでいまも100系は人気のようですね。いよいよ明後に迫った当会の模型運転会、密かに増備を考えていたのですが、結局止めました。憧れの車両は、憧れのままのほうがいいと思いました。さて、当日は、どんな車両が飛び出すか、お楽しみに。

  3. 総本家青信号特派員様
    伊豆急100系の1次から2次への正面顏の改悪、晩年の落書き電車への嫌悪感は全く同感です。ハワイアンブルーというより同系色の濃淡2色は無難で綺麗に見えます。京阪の旧色もそういう意味でよかったです。ところで乗客扉が両端にある国鉄153系的な窓扉配置は私鉄では特急(優等列車)専用車を除きあまりないのではないでしょうか。ひょっとすると近鉄(参宮急行)2200系だけではないでしょうか。2200系も特急に使われたこともあるようですし、客車を電車化したものがあったかもしれません。とにかく私鉄の2ドアクロスシート車は客用扉がもう少し中寄りに配置された阪急2800系や京阪1900系がほとんどと思っていますが如何でしょうか。

    • 準特急さま
      伊東線の時は、準特急さんらと、楽しい撮影でした。車端2扉で、扉間クロスシートの汎用車としては、東武6000系がそれに当たるのではないでしょうか。図面を見ますと、扉付近一部ロングシートや、トイレがある車両は車端扉ではないようで、国鉄153系タイプではないですが、その後の6050系もよく似た車両でした。西武4000系に乗った時も、ボックス式のクロスシートが、新鮮に感じました。関西では、いきなりロマンスシートになってしまいますから、いかにも国鉄と共通事項の多い、関東らしさだと思いました。

      • 総本家青信号特派員様
        伊豆急の100系と比べ、東武6050系は乗務員扉と客用扉の間に窓が1個あるのでこれは違うと私なりに判断しましたが、どうでもいいような話です。ところでこの6050系が浅草行き快速で使われていた頃日光連山バックの拙作を総本家さんのお骨折りでDRFC写真展「鉄路輝く」に参加させていただきました。

  4. 総本家青信号特派員様
    国電ファンの小生は、伊豆急と聞くと直ぐ思い出すのが同社と国鉄の関係です。
    開業に際しての免許条件に『遠からず国鉄が買収』と言うのが有った事です。
    貴殿の解説の中に、これらの件についての記述が見当たらないので、あれっ、小生の間違いかな?と『ウラ取り』をしたところ、確かにピク誌にその記述が有り、四捨五入で80歳の小生のボケでは無かったようです。(笑)
    それかあらぬか同社は東急系にも関わらず車両は国鉄規格で、20メートルの車長や裾絞り車体の車巾の他、連結器は国鉄形密連の装備でした。
    さらには開業に際して相互乗入れの話が持ち上がり、伊東線で運用のサロハ49に符合するサロハ180を4両追加製造する一幕もありました。
    しかしながら、これについては諸兄もご存知の通り、相互乗入れでお茶を濁している間に国鉄は解体、JRになってからは伊豆急自前の観光電車が遠く東京まで足を延ばす有様です。

    • 河さま
      いつも、コメントありがとうございます。いえいえ、河さまの知識、記憶力は、先の横浜駅前での一献でも感じていました。酔いを感じさせない理路整然さでした。どうやら私のほうの記憶力が減退しているようで、ピクを探しても、そのような記述を見つけることができませんでした。ただ改めて見返しますと、開業時の祝賀電車は東京駅から発車して、五島社長がテーフカットし、時の岸首相も下田まで乗車したそうです。それだけ、政府・国鉄が注目していた伊豆急の開業ですから、上り調子にあった国鉄は見逃すはずはないと思いました。

  5. 総本家青信号特派員様

    しつこく『伊豆急が国鉄に買収される』件です。
    権威有る『デジ青』にガセネタは御法度なので、次の通り確認です。
    この件に関する小生の情報元は『ピク誌』ですが、小生が確認出来た個所は次の通りです。

    ①ピク117号 1961年4月号 【今年開通する伊豆急行】号の27頁に次の記述があります。
    『この免許には次のような条件が付け加えられている。
    1.地方鉄道法第12条第2項の工事施工認可申請期限は、昭和35年2月8日とする。
    2.日本国有鉄道が必要とする場合には、これに譲渡すること。』

    ②ピク125号 1961年12月号の見開き頁の【今月の話題】の中段に
      (近き将来国鉄買収が約束されている)の記述があります。

    この伊豆急は私鉄で唯一、2等車を所有していた点に特徴が有りましたネ。

    ところで、当時の小生は伊豆急が国電になるのを阪和電鉄が国電になった例に重ねて国電になった場合の車番(形式)は、やっぱり20番代かな?等と考えながら楽しんでいたのを思い出します。

    • 河さま
      いえいえ、決してガセネタとは思っていなかったのですが、開業後のピク記事ばかり見ていたため、開業前の記事に、このような記述があるとは知りませんでした。該当の号を引っ張り出して確認しました。もし、伊豆急が国鉄に買収されて、100系が、改番されてクモハ21なんて形式になり、東京~下田を結んでいたら‥‥と妄想するだけで楽しくなります。それにしても、雑誌のバックナンバー記事をよく覚えておられることに驚きました。

  6. 総本家青信号特派員様
    さてさて、今に成ってもう一つ思い出す事があります。
    それは、伊豆急が路線免許を申請するよりかなり前に、既に国鉄が伊東以遠(下田まで?)の建設免許を持っていたと言う件です。
    何かで見た記憶があるのですが思い出しません。
    物ごころが付いて以来、小生に取ってはピク誌が唯一の師匠でしたので、多分この件もピク誌周辺で得た情報と思いますが、現在のところ『ウラ』が取れていません。
    しかし、それが本当なら伊豆急は『免許を譲ってもらう代わりに、国鉄が必要とした場合には譲渡する』と言う条件だったと言う事になりますネ。
    それで話が合うのかどうか、『ウラ』を取らなきゃ・・・ですネ。

    • 河さま
      再びのコメント、ありがとうございます。もう一度、ご紹介のピク2冊について読み返しますと、1961年4月号に「着工まで」の項に、「伊東~下田はもともと国鉄の建設予定線になっていたが、着工の決定がなされないままとなっていたので、去る昭和31年2月に伊東下田電気鉄道の名前で運輸省に免許申請が出され‥‥」の記述がありました。以前のピク号の記事を受けての記述だと思われます。

  7. 総本家青信号特派員様
    『もともと国鉄の建設予定線になっていた』のクダリは小生に取っては心強い援軍です。
    しかし、必ずしも『建設予定線』と言う表現が『免許取得済』と同じ意味とは限らないかも知れませんので、更にウラ取りの努力をする事にします。
    ところで、8月4日の小生のコメントで、『物ごころ』が付いて以来と表現してしまいましたが、『物ごころ』とはオーバーな、と言われそうですネ。
    それも言うなら、鉄道(国電)に『目覚めて以来』とすべきでした。(笑)

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